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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

諏訪湖周遊さくら巡り

2021年04月23日 | 旅行

 四月なかば、信州諏訪への旅つれづれ。盆地真ん中にある湖畔サイクリングロードは海抜759mの高地にある分、まだ幸いにもソメイヨシノと枝垂れ桜が見ごろだった。この春は寒さのあとの暖かさで、ふたつが同時開花にしてしまったのだという。そんないつもと異なる季節に巡り合わせて幸運だった視覚と皮膚感覚で味わう旅。

 信州への旅の始まり、でも旅の時は長野とは言わずに決まって“信州”と呼ぶのは、その語感により旅情を感じるからなのだろうか。八王子駅四番線ホームに立ち、しばらくの間、新宿からの特急「あずさ9号」到着を待つ。やがてパープルラインカラーの車体が滑り込んできて、待ち合わせの7号車に乗り込む。さきに四谷から新宿経由で乗車していた沙羅が目配せをくれた。中ほどの座席の隣り合わせに座り、車両は一路中央本線を下ってゆく。多崎つくるの目に映る色彩映像が諏訪への巡礼をいざなう世界の始まりだ。
 笹子トンネルをぬけると視界が広がって甲府盆地へ、車窓にぶどう棚が広がっっていた。最初の停車駅甲府駅を過ぎ、おしゃべりに夢中になっていると次第に両側には山並みが迫ってきていた。右手方向に見えていたはずの八ヶ岳も見過ごして、気がつけば車両は小淵沢を過ぎて茅野から上諏訪駅へと滑り込んだ。
 
 駅からタクシ―に乗り、湖畔にそびえる滞在先まで荷物を運び入れる。きょうの晴れのうちにまずは諏訪湖をぐるり一周しよう。フロントでレンタサイクルを借り出したいと話すと、湖畔の遊覧船・ボート乗り場まで連れていってくれる。その日初めての利用者みたいで、車庫のシャッターを開けてくれたフロントマンは「電動車も含めて、どれでもお好きな車種をどうぞ」とうながす。晴れた空と風の吹き抜ける湖面色に似あうターコイズ・ブルーの二台を借り受けて、簡単なコース説明を受けたらスタートだ。
 道なりに進んでいけば、間欠泉施設を過ぎるとすぐに下諏訪町に入る。ここらあたりから鉄路は湖畔を離れて下諏訪駅に向かう。

 やがて大きく弧を描くシルバー色の大屋根が見えてきて、看板には諏訪湖博物館赤彦記念館(1993年竣工)とある。その豪華さはバブル後期に計画された建物に違いないが、この時期人の姿もなくどことなく物寂しい雰囲気が漂う。
 もしやと思って調べたら、このアルミメタル仕様のポストモダンな建物は、伊東豊雄建築設計事務所によるもの。伊東の生まれはソウルだが、幼少から中学生までを祖父と父方実家の下諏訪町で過ごしている。この当時すでに有名建築家であった伊東が、故郷に錦を飾ったであろう巨大な公共施設、じっくりと見損ねたのはなぜだろう。たぶん全体のフォルムが優美というよりも大味な印象であったからだが、改めて補足すると諏訪湖周囲の山並みをモチーフに、伊東少年の目に焼きついた諏訪の原風景が映されているのかもしれない。夕暮れに訪れたらまた印象が異なってくるのだろうか。

 まもなく岡谷市に入ろうとする湖畔の浅瀬、葦などの水生植物が広がるあたりは、原野っぽい様子が残っている。そこから視界が開けた対岸の街並みの遥か向こうに、天候に恵まれれば富士山の見事な冠雪が望めるらしい。やがて満開のソメイヨシノが咲く御影石のモニュメントの建つ公園へ、すぐそばには風格のある老舗のウナギ屋の建物が並んでいる。
 その隣にある釜口水門に到着する。こんどの旅で訪れてみたかった場所のひとつ、ここから天竜川が始まるのだ。流れは伊那木曽路をくだり県境を越え、遠州浜松から駿河湾へと注ぐ流れを想像して見る。なんといっても諏訪湖は天竜の水源、湖から流れ出す河川はこの天竜川一本だけと知ると、この水門の位置する背景がわかる。やはり大河の始まりにたって滔々と流れる水流を眺めるのは、心が踊らされる。
 湖を隔てた対岸がちょうど上諏訪駅の方向となる眺めも相変わらず最高だ。右手さきの山すそには、中央自動車道岡谷ジャンクション高架がのぞいている。名古屋方面と長野方面信越道への分岐点。この地点は陸路と水路の分岐点が重なるのだ。


諏訪湖釜口水門。天竜川水流はここから駿河湾へと下る。(2021.04.12)


 水門を振り返り、湖水反対側の諏訪市街地、茅野、八ヶ岳方面を望む。

 遠くに安曇野方面、乗鞍や木曽駒ケ岳、明石山脈、八ヶ岳と諏訪盆地をぐるりと囲む山並みを眺めながら、左手に湖面を見ての16キロメートルに及ぶであろう平坦な道なりの周遊は、ときに盆地に吹き抜ける風に散る桜の花ふぶきを受けながら、なかなか軽快に進んでゆく。

 一周を巡ってみると諏訪湖周辺のなかでも、上諏訪はハイリゾートという雰囲気になりきれていないが、行楽地すぎないところがいい。昭和の高度経済成長期以降、急速に観光化された温泉地という感じがする。小海線沿線や蓼科高原と松本の中間的地理が微妙であり、地元の人以外は大抵通り過ぎてゆく町なのかもしれない。その一方で下諏訪あたりは、中山道と甲州道が交わる諏訪大社の門前町であり、ひなびた雰囲気を残す文人玄人好みの温泉宿場町だ。
 明治以降になると諏訪盆地は養蚕と製糸業、昭和に入ってからは精密機器工業で栄えてきた街の歴史をまとうようになり、その象徴が昭和初期に完成した片倉館でスクラッチタイル張り塔屋つきの中世ヨーロッパ古城然としたたたずまい、中身は地の温泉の恵みを生かした大衆浴場と交流施設というのがおもしろい。設計の森山松之助は、おもに台湾において総督府などの官公庁建築を遺した建築家だという。現地には片倉館に先立つ公共浴場施設も残っているというから、来年あたりに台湾を訪問することができたらそれらのいくつかを訪れてみたいものだ。

 お城といえば、二日目の雨の夜に訪れた高島藩高島城は、当初の湖畔べりの干拓により地理的に内陸となってしまい、さっと見た感じ城下町の名残も薄く随分と控えめな存在だ。ここに来たかったことのひとつは、徳川家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の存在である。
 実父家康から疎まれた末に左遷を受けた不遇の人物は、変遷の末最後はこの城下で幽閉の身となっていたという。とはいえ、諏訪湖に泳ぎに行くなど自由気ままに過ごしていたようで、本人は自身の半生をどのように思っていたのだろうか。当時として大変な長寿の92歳で没している。その数奇な運命の片鱗を忍びたかったからだが、夜露にぬれてライトアップされた桜に思いを深くした。
 菩提寺は上諏訪駅からほど近い高台にある貞松院月仙寺、そこの枝垂れ桜が見事だというのは、旅から戻った後から知った。
 
 いまに至る諏訪湖自体の姿を含め、湖面に映る周囲の風景は大きく変わってきた。唯一その昔から変わらないのは、盆地周囲の山並みの風景だろうか。この先三度目に訪れる機会があれば、こんどは下諏訪地区に泊まって、早朝の下社春秋宮参拝をしたあとに外湯巡りをしながら、新旧混じる宿場町横丁を隅々まで歩き回って、川のほとりに鎮座する万治の石仏に「よろずおさまりますように」と祈りを捧げよう。
(2021.4.28 初稿了)


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