五月晴れの一日。ここしばらく気になっているいくつかのことについて記そう。
まずは、ムラカミハルキ氏の新作長編小説について。
冒頭、2011年に発生した東日本大震災から数年後の主人公回想から始まる。主人公の私(僕や彼ではなく)は三十六歳のもう若くはない、かといって中年というほどでもない世代の男、本編中最後まで私の姓名は書かれることがない。「顔のない男」とは、じつは主人公あるいはその投影であろう作者自身なのかもしれない。
その一方、フィックションでありながら小田原や伊豆伊東、都内広尾、四谷、新宿御苑といった実在の地名が登場する。その地名はたしかに現実とまったく無関係というわけではなく、作者の実体験から出てきたものではあろう。だだし、その地理空間の風景はくわしく記述されることはなく、ひとつの記号として読者の自由な想像にゆだねられているから、各人の現実の地理感覚の程度によって、大きく印象の幅の違いを生じるだろう。実在の地名をおもしろがって深読みになってしまうと本質からはずれてしまうことになるかもしれない。
主人公は、離婚の危機を抱えていて妻から別居を言い渡され、小田原郊外の山の上の一軒家に仮住まいすることになる。そこで様々な不思議なできごとが次々と展開していくなか、例によってさまざまな女性たちが登場し、主人公と出逢いを重ねて、程度の差こそあれ。いとも簡単?に男女関係を結ぶことになる。そんなに世の中、うまくいくのだろうかと疑問を抱かせつつ、まあムラカミワールドであれば予想どおりかもしれない。
それにしても妻の不倫、ありていにいえば別の男に妻を寝取られてしまい、傷心と喪失感で旅に出るというのに、自分のほうはたちまち複数の女といともたやすく?懇意になってしまうのは、あまりにもご都合主義というか、ムシが良すぎる気もするが、誰にでも可能性はひらかれている。建前だけではすまされない人間心理のありようをそのまま受け入れることにしよう。
そして普通の友人関係と肌を重ねた男女関係では、心の在り方におおきな違いが生じてくるのはごく自然のこと。そのあたりのきわどいところをたんたんと即物的にあっさりと記述しているところが絶妙であり、かえってそれぞれに生々しくさえ感じられてしまう。
さまざまな無意識下の象徴と比喩(メタファー)で埋め尽くされた物語。冒頭のペンギンのフィギアがついたストラップ、屋根裏に住みついているみみずくの存在。ペンギンはこれまでも脱力系のユニークな形態から作者のお気に入りであり、冒頭にふと思い浮かんだお守り、守護札のような存在の象徴を担っている。みみずくは夜行性の鳥、深い森の謎解きの象徴かな。
ユズという名の主人公の妻は、建築事務所で働いている。そんなわけでこんどは建築の話。
この長編を読んでいた前後に、京都府大山崎町にある戦前の木造モダニズム住宅「聴竹居」(1928年)が重要文化財に指定されるというトピックスがあった。
京都帝大教授だった藤井厚二の設計による和風と幾何学的デザインが調和した現代数寄屋で、環境共生住宅のはしりとされる。なによりもその立地、山中の敷地をとりまく緑の豊かさが素晴らしい。写真では家の正面にイロハモミジが枝を伸ばしていて、秋は素晴らしい眺めだろう。名の通り、竹林を薫風が吹き抜けるのだろうか。建物全体は、通風にはい慮した構造と空間構成になっていて、その機能性がこの住宅の価値を高めているときく。数年前に駅から坂道を上り、入口階段のある途中までいって覗き込んでみたが、残念ながら本体はほとんど見ることができなかった、私にとっては「まぼろしの住宅」であることがいっそうの興味を掻き立てる。
ここを天皇・皇后両陛下も訪れたことがニュースとなったのは、やはり数年前のこと。環境との調和に配慮された戦前のモダン住宅というあたりに関心をもたれたのだろうか。そのお忍び訪問は、この住宅のステータスを高めたことだろう。
その天皇陛下は、一週間ほど前にお住まいのある!皇居で恒例の田植え作業、いや儀式だろうか、をなさったそうだ。この大都会のど真ん中で、みずほの国を象徴する行為が今年の春も繰り返されている不思議さ。皇居には田圃があるのだ。
長靴に開襟シャツ姿でおおよそ八十株を丁寧に植えられたというから、伝統的な農作業とは異なる近代の所作だろう。この田植え作業、少なくとも都が東京に移った明治維新以降のことになるわけで、そもそもそれ以前は行なわれていたのだろうか?どうも、その格好からすると昭和天皇以降のような気がするのだ。
また、同日皇后さまは、皇居内御養蚕所でカイコに桑の葉を与えておられたのだそうだ。その様子を伝える小さな記事には、つぎのように書かれていた。
「在来種のカイコ約700~800頭に桑の葉を丁寧に載せていき、カイコが葉を食べる音に耳を澄ませた」
うん、これはひとつのファンタジー、なんてすてきなことだろう。この季節、皇居のひとつの建物のなかでそのかすかな音は、澄ませた耳にどのように聴こえてくるのだろうか。カイコが桑の葉を食べる音に静かに耳を澄ませてみたら、新しい世界がひらけてくることだろう。
もうじき、六月の季節がやってくる。あたりではカエルがさかんに鳴きだし、故郷の田圃では本格的な田植えがはじまる。もう、今年実家に住むひとは戻らず空き家のまま、周囲にはたんぼもないのだけれど、その風景は懐かしくこころの中に沁み渡っている。
まずは、ムラカミハルキ氏の新作長編小説について。
冒頭、2011年に発生した東日本大震災から数年後の主人公回想から始まる。主人公の私(僕や彼ではなく)は三十六歳のもう若くはない、かといって中年というほどでもない世代の男、本編中最後まで私の姓名は書かれることがない。「顔のない男」とは、じつは主人公あるいはその投影であろう作者自身なのかもしれない。
その一方、フィックションでありながら小田原や伊豆伊東、都内広尾、四谷、新宿御苑といった実在の地名が登場する。その地名はたしかに現実とまったく無関係というわけではなく、作者の実体験から出てきたものではあろう。だだし、その地理空間の風景はくわしく記述されることはなく、ひとつの記号として読者の自由な想像にゆだねられているから、各人の現実の地理感覚の程度によって、大きく印象の幅の違いを生じるだろう。実在の地名をおもしろがって深読みになってしまうと本質からはずれてしまうことになるかもしれない。
主人公は、離婚の危機を抱えていて妻から別居を言い渡され、小田原郊外の山の上の一軒家に仮住まいすることになる。そこで様々な不思議なできごとが次々と展開していくなか、例によってさまざまな女性たちが登場し、主人公と出逢いを重ねて、程度の差こそあれ。いとも簡単?に男女関係を結ぶことになる。そんなに世の中、うまくいくのだろうかと疑問を抱かせつつ、まあムラカミワールドであれば予想どおりかもしれない。
それにしても妻の不倫、ありていにいえば別の男に妻を寝取られてしまい、傷心と喪失感で旅に出るというのに、自分のほうはたちまち複数の女といともたやすく?懇意になってしまうのは、あまりにもご都合主義というか、ムシが良すぎる気もするが、誰にでも可能性はひらかれている。建前だけではすまされない人間心理のありようをそのまま受け入れることにしよう。
そして普通の友人関係と肌を重ねた男女関係では、心の在り方におおきな違いが生じてくるのはごく自然のこと。そのあたりのきわどいところをたんたんと即物的にあっさりと記述しているところが絶妙であり、かえってそれぞれに生々しくさえ感じられてしまう。
さまざまな無意識下の象徴と比喩(メタファー)で埋め尽くされた物語。冒頭のペンギンのフィギアがついたストラップ、屋根裏に住みついているみみずくの存在。ペンギンはこれまでも脱力系のユニークな形態から作者のお気に入りであり、冒頭にふと思い浮かんだお守り、守護札のような存在の象徴を担っている。みみずくは夜行性の鳥、深い森の謎解きの象徴かな。
ユズという名の主人公の妻は、建築事務所で働いている。そんなわけでこんどは建築の話。
この長編を読んでいた前後に、京都府大山崎町にある戦前の木造モダニズム住宅「聴竹居」(1928年)が重要文化財に指定されるというトピックスがあった。
京都帝大教授だった藤井厚二の設計による和風と幾何学的デザインが調和した現代数寄屋で、環境共生住宅のはしりとされる。なによりもその立地、山中の敷地をとりまく緑の豊かさが素晴らしい。写真では家の正面にイロハモミジが枝を伸ばしていて、秋は素晴らしい眺めだろう。名の通り、竹林を薫風が吹き抜けるのだろうか。建物全体は、通風にはい慮した構造と空間構成になっていて、その機能性がこの住宅の価値を高めているときく。数年前に駅から坂道を上り、入口階段のある途中までいって覗き込んでみたが、残念ながら本体はほとんど見ることができなかった、私にとっては「まぼろしの住宅」であることがいっそうの興味を掻き立てる。
ここを天皇・皇后両陛下も訪れたことがニュースとなったのは、やはり数年前のこと。環境との調和に配慮された戦前のモダン住宅というあたりに関心をもたれたのだろうか。そのお忍び訪問は、この住宅のステータスを高めたことだろう。
その天皇陛下は、一週間ほど前にお住まいのある!皇居で恒例の田植え作業、いや儀式だろうか、をなさったそうだ。この大都会のど真ん中で、みずほの国を象徴する行為が今年の春も繰り返されている不思議さ。皇居には田圃があるのだ。
長靴に開襟シャツ姿でおおよそ八十株を丁寧に植えられたというから、伝統的な農作業とは異なる近代の所作だろう。この田植え作業、少なくとも都が東京に移った明治維新以降のことになるわけで、そもそもそれ以前は行なわれていたのだろうか?どうも、その格好からすると昭和天皇以降のような気がするのだ。
また、同日皇后さまは、皇居内御養蚕所でカイコに桑の葉を与えておられたのだそうだ。その様子を伝える小さな記事には、つぎのように書かれていた。
「在来種のカイコ約700~800頭に桑の葉を丁寧に載せていき、カイコが葉を食べる音に耳を澄ませた」
うん、これはひとつのファンタジー、なんてすてきなことだろう。この季節、皇居のひとつの建物のなかでそのかすかな音は、澄ませた耳にどのように聴こえてくるのだろうか。カイコが桑の葉を食べる音に静かに耳を澄ませてみたら、新しい世界がひらけてくることだろう。
もうじき、六月の季節がやってくる。あたりではカエルがさかんに鳴きだし、故郷の田圃では本格的な田植えがはじまる。もう、今年実家に住むひとは戻らず空き家のまま、周囲にはたんぼもないのだけれど、その風景は懐かしくこころの中に沁み渡っている。