日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

みみずくは黄昏に飛び立ち、夜明け前に舞い戻る

2017年05月30日 | 日記
 五月晴れの一日。ここしばらく気になっているいくつかのことについて記そう。

 まずは、ムラカミハルキ氏の新作長編小説について。
 
 冒頭、2011年に発生した東日本大震災から数年後の主人公回想から始まる。主人公の私(僕や彼ではなく)は三十六歳のもう若くはない、かといって中年というほどでもない世代の男、本編中最後まで私の姓名は書かれることがない。「顔のない男」とは、じつは主人公あるいはその投影であろう作者自身なのかもしれない。
 その一方、フィックションでありながら小田原や伊豆伊東、都内広尾、四谷、新宿御苑といった実在の地名が登場する。その地名はたしかに現実とまったく無関係というわけではなく、作者の実体験から出てきたものではあろう。だだし、その地理空間の風景はくわしく記述されることはなく、ひとつの記号として読者の自由な想像にゆだねられているから、各人の現実の地理感覚の程度によって、大きく印象の幅の違いを生じるだろう。実在の地名をおもしろがって深読みになってしまうと本質からはずれてしまうことになるかもしれない。
 
 主人公は、離婚の危機を抱えていて妻から別居を言い渡され、小田原郊外の山の上の一軒家に仮住まいすることになる。そこで様々な不思議なできごとが次々と展開していくなか、例によってさまざまな女性たちが登場し、主人公と出逢いを重ねて、程度の差こそあれ。いとも簡単?に男女関係を結ぶことになる。そんなに世の中、うまくいくのだろうかと疑問を抱かせつつ、まあムラカミワールドであれば予想どおりかもしれない。
 それにしても妻の不倫、ありていにいえば別の男に妻を寝取られてしまい、傷心と喪失感で旅に出るというのに、自分のほうはたちまち複数の女といともたやすく?懇意になってしまうのは、あまりにもご都合主義というか、ムシが良すぎる気もするが、誰にでも可能性はひらかれている。建前だけではすまされない人間心理のありようをそのまま受け入れることにしよう。
 そして普通の友人関係と肌を重ねた男女関係では、心の在り方におおきな違いが生じてくるのはごく自然のこと。そのあたりのきわどいところをたんたんと即物的にあっさりと記述しているところが絶妙であり、かえってそれぞれに生々しくさえ感じられてしまう。

 さまざまな無意識下の象徴と比喩(メタファー)で埋め尽くされた物語。冒頭のペンギンのフィギアがついたストラップ、屋根裏に住みついているみみずくの存在。ペンギンはこれまでも脱力系のユニークな形態から作者のお気に入りであり、冒頭にふと思い浮かんだお守り、守護札のような存在の象徴を担っている。みみずくは夜行性の鳥、深い森の謎解きの象徴かな。

 ユズという名の主人公の妻は、建築事務所で働いている。そんなわけでこんどは建築の話。
 
 この長編を読んでいた前後に、京都府大山崎町にある戦前の木造モダニズム住宅「聴竹居」(1928年)が重要文化財に指定されるというトピックスがあった。
 京都帝大教授だった藤井厚二の設計による和風と幾何学的デザインが調和した現代数寄屋で、環境共生住宅のはしりとされる。なによりもその立地、山中の敷地をとりまく緑の豊かさが素晴らしい。写真では家の正面にイロハモミジが枝を伸ばしていて、秋は素晴らしい眺めだろう。名の通り、竹林を薫風が吹き抜けるのだろうか。建物全体は、通風にはい慮した構造と空間構成になっていて、その機能性がこの住宅の価値を高めているときく。数年前に駅から坂道を上り、入口階段のある途中までいって覗き込んでみたが、残念ながら本体はほとんど見ることができなかった、私にとっては「まぼろしの住宅」であることがいっそうの興味を掻き立てる。
 ここを天皇・皇后両陛下も訪れたことがニュースとなったのは、やはり数年前のこと。環境との調和に配慮された戦前のモダン住宅というあたりに関心をもたれたのだろうか。そのお忍び訪問は、この住宅のステータスを高めたことだろう。

 その天皇陛下は、一週間ほど前にお住まいのある!皇居で恒例の田植え作業、いや儀式だろうか、をなさったそうだ。この大都会のど真ん中で、みずほの国を象徴する行為が今年の春も繰り返されている不思議さ。皇居には田圃があるのだ。
 長靴に開襟シャツ姿でおおよそ八十株を丁寧に植えられたというから、伝統的な農作業とは異なる近代の所作だろう。この田植え作業、少なくとも都が東京に移った明治維新以降のことになるわけで、そもそもそれ以前は行なわれていたのだろうか?どうも、その格好からすると昭和天皇以降のような気がするのだ。

 また、同日皇后さまは、皇居内御養蚕所でカイコに桑の葉を与えておられたのだそうだ。その様子を伝える小さな記事には、つぎのように書かれていた。
「在来種のカイコ約700~800頭に桑の葉を丁寧に載せていき、カイコが葉を食べる音に耳を澄ませた」

 うん、これはひとつのファンタジー、なんてすてきなことだろう。この季節、皇居のひとつの建物のなかでそのかすかな音は、澄ませた耳にどのように聴こえてくるのだろうか。カイコが桑の葉を食べる音に静かに耳を澄ませてみたら、新しい世界がひらけてくることだろう。
 
 もうじき、六月の季節がやってくる。あたりではカエルがさかんに鳴きだし、故郷の田圃では本格的な田植えがはじまる。もう、今年実家に住むひとは戻らず空き家のまま、周囲にはたんぼもないのだけれど、その風景は懐かしくこころの中に沁み渡っている。

初夏新緑、湘南大磯へ

2017年05月26日 | 日記
 平日の昼過ぎ、小田急線で藤沢まで下り、JR東海道線に乗って大磯へ。

 改札を出た駅前ロータリーは、変わらず落ち着いた雰囲気でゆったり広々としていた。ウコン色の三角瓦屋根の駅舎は、ほどのよい品のよさと風格があって、かつての避暑地で別荘地でもあったまちの歴史を感じさせてくれる。
 ここに降り立つのは、昨年十二月初め以来になる。駅前ロータリー正面の丘には、こんもり木々のみどりに覆われたエリザベス・サンダース・ホームの敷地が広がっていて、この東海道沿線にあるまちの印象を特徴づけているものひとつとなっている。かつて三菱財閥岩崎家の別荘地であった地だ。

 まだ、昼食を取っていなかったので、その旧別荘地に沿って右手に緩く下っていった先の鳥料理「杉本」へ歩き出す。そこがまだ営業中なのを確かめ、ほっとした気持ちで店名が染め抜かれた暖簾をくぐる。落ち着いた店先、茶室のようなしつらえの店内は高級すぎることもなく、ふつうの市民がちょっと気の利いたお昼のひと時を過ごすには、うってつけの料理屋なのだ。鶏肉づくしの昼定食を注文し、しばし待つ時間をくつろいで、この地の空気になじんでいく時間を過ごす。この店の娘さんだろうか、ジーンズ姿の若い女性が甲斐甲斐しく注文取りやお茶のサービスに気を配ってくれる。そのポニーテールの髪型に清潔感が漂い、何気ないしぐさと口調に清々しさを感じる。やがて出された料理は、その女性や店内の印象そのままのじつに新鮮で好ましいものだった。

 その店を出てすこし歩けば、国道1号線につきあたる。ここが正真正銘の日本橋から始まる1号線、上下2車線のみちである。その海側にある小さな沢を渡ったさきの木立に囲まれた場所は、西行ゆかりとされる「鴫立庵」で、江戸時代以降は俳諧の道場としていまに名を遺す。
 入口受付には、女性職員が二名いて案内をしている。どうやら、いまはこの建物は町の管理となっているようだ。受付のある茅葺の母屋が道場、さほど広いとは言えない境内には、歴代庵主の俳句碑がところせましと遺されている。それなりの風流さを感じさせはするが、当時の面影からは周囲がかなり変わってきてしまって、庵のほうが戸惑いを隠せない、といったところだろうか。
 
 清流とは言い難い鴫立沢のむこうには、旧樺山邸敷地が相模湾にのぞむように広がっている。かつて白洲正子も幼少の頃、鴫立沢のそばのその祖父宅をよく訪れていたときく。いまは、大手分譲会社がその初期に建設した旧いLマンションとなってしまって、容赦のない時の流れを感じる。おそらく旧邸当時からのものは、海側に回って見える一本の大きなクロマツだけだろうか。初夏の砂地には、ハマヒルガオが薄いピンク色の花々を咲かせていた。
 薄曇りの西湘バイパス側の西方向を眺めば、弧を描いたクロマツの海岸線先に小田原、真鶴方面、そして箱根の山々が望める。この時間帯はもう水蒸気が上がってしまって、富士山はみることができないのは仕方ないが、それでも十分に素晴らしい光景が広がる。
 
 
 ここから、レトロな旧街なかをぬけてふたたび国道1号まで歩く。同志社を創立した新島襄終焉の地(ここ大磯で亡くなっていたなんて!)にこころの中で手を合わせてから、大磯に残された唯一の旅館大内館の敷地内、蔵を改装したレトロな喫茶店でひと休みする。そのカウンターの席に座って、持参した新作長編小説の頁をひらく。その舞台の中心は、このすぐさきの小田原郊外なのだ。その近くで読んでみたいという衝動にかられてここまで来てしまったのかもしれない、まあそれもいいか。作者の村上春樹氏はここ大磯在住、小説刊行後にでたインタヴュー集「みみずく」対談の最終回は、その作者の自宅で行われたとあるから、私の気分はすっかり入れ込んででしまっている。

 蔵の喫茶店をでて、国道を渡って歩くとすぐに真言宗地福寺があり、ここには島崎藤村夫妻の墓がある。案内を確かめると、建築家谷口吉郎の設計、黒御影石の端正な造りだ。このあたりが岩崎別邸の裏手になっていて、旧財閥家の財力の大きさを思い知らされる。ここの裏路の両側はいい感じの石組だ。駅に向かって右手に水色グレーの洋館がみえてくる。そこがいまはレストランの旧山口邸宅、入口とその先の庭園に薔薇が咲き誇る。よくできすぎた風景かもしれないが、大磯の地にはよく似合っている。
 
 夕方近く、駅前に戻ってひとめぐりしたことになる。最後のしめくくりは、駅前の丘の木立に囲まれた沢田美喜記念館で、隠れキリシタンのコレクションを拝見することにした。小高い丘を登っていくと記念館のコンクリート打ち放しのモダンな建物。さほど広くはない展示室には、沈黙のときがながれていた。その二階にあがると。日本聖公会の礼拝堂となっていた。ここは緑の高台の静かな祈りの空間である。時計は午後四時過ぎ、久しぶりの大磯へのお出かけの午後のひとときだった。

 さあ、暗くなる前にまた東海道線にのって、家へ帰ろう。

追記:翌日夜のテレビを見ていたら、冒頭あのウコン色の三角屋根の駅舎の映像。大磯在住の日本唯一の手作りばれん工房「菊英」ご主人の職人仕事ぶりが、フランス人の目を通して紹介されいた。ご夫妻の気取らない姿がとても興味深かった。じつにいろんな人が町には住んでいるものだ。



 

水戸芸術館へのロジョウでフジモリケンチクと出会う

2017年05月12日 | 建築
 日曜日早朝、新宿から中央線神へ乗り換えて上野駅に到着した。その友人と訪れるのは一年ぶり、あの時は不忍池湖畔から無縁坂を緩く曲がって旧岩崎庭園へと歩いて行った。そのときを思い出すと照れ臭いような懐かしいような不思議な気持ちが巡る。これぞターミナル駅、といった面影を残す駅構内で車中食を買い込んで、午前9時ちょうど発車の「特急ひたち5号」に乗り込むと、もうこの先の旅への期待でワクワク。
 常磐線で千葉から茨木へと約一時間余り、車窓をゆっくり眺める暇もなく、こちらからの近況報告を話しつづけて隣席の相方には申し訳ないことをした。辛抱して聴いてもらっているうちに、気がつけば偕楽園をぬけて右手には千波湖、いよいよ水戸への到着だ。

 水戸を訪れるのは、本当に久しぶりである。思い起こせば、1990年水戸芸術館が日本中の文化行政関係者衆目の中、華々しく開館してしばらくたってからのこと。1991年秋に開催されたクリスト&J.クロード夫妻による太平洋を挟んでの日米同時アンブレラ(傘)プロジェクトを見物しに出かけて以来だから、約26年ぶりになる。まずは、この事実にあらためてびっくりした。
 茨木県北方面を訪れる機会なら、数年前五浦海岸へと岡倉天心ゆかりの六角堂と美術館を訪ねたり、日立市での市民オペラ研究会に参加するためなど、水戸駅を“通過”したことはあるが、降り立ったのは今回が二度目である。その駅前の印象はさほど変わらず街中に歩き出してみる。老舗商店の構えにさすが水戸藩のご威光がいまに引き継がれているのかと感心していたのもつかの間、すぐにいささか錆びれ気味の部分が目につきだす。
 ここも地方都市の典型にもれず、旧市中心街の衰退化がすすむ現実を前にして、新たな活性化に迫られている様子だ。そのための試みは少しづつ始まっているようには思える。今回の水戸芸術館現代美術ギャラリー企画展「藤森照信展 自然を生かした建築と路上観察」と一連の関連事業もその試みに連なるものだろう。

 バスで数駅乗りこしてしまったので大通りを戻りながら、街中に忽然と天空に突き抜ける百メートルの高さがあるというジュラルミン色の展望塔、アートタワーを目標に歩き出す。
 しばらくしてケヤキの街路樹のむこうに、御影石とコンクリート打ち放しの外壁が見えてきた。忽然という感じの水戸芸術館との再会である。こじんまりとした中世の城郭都市といった印象だ。中央にひろがる青々とした芝生広場、その正面の突き当りの池には、現代アートといった感じの数本の鉄筋で串刺しされた空中の巨大な御影石の塊に左右から噴水が注がれ、大量の水が流れ落ちている。なかなかの迫力でいったいだれの作品だろうか、確かめ損ねた。
 左手から時計回りに劇場、コンサートホール、ギャラリー、展望塔と箱庭のように文化施設が配置されている。正面左手隅の方向がエントランスになる。吹き抜けの回廊正面には、国産のパイプオルガンが設置されていて、これがなんと町田にある工房の制作だときく。当初から定期的にオルガン無料コンサートが行われていて、27年間継続されていることに感心する。

 建築展はその名もずばり、「藤森照信展」とあり、これはご本人のスゴイ自信のあらわれか。副題に「自然を生かした建築と路上観察」とあって、ようやく「藤森照信展」とはなんぞやの説明になっている。でも「自然を生かした建築」ってどういうことだろう。屋根に草木をはやしたり、木や漆喰など自然素材で表情を出した意匠のこと? あるいは周りの環境に溶け込むような建築?
 たしかにフジモリ建築は、都市部よりも地方というか周辺に生息している。近代が忘れ去ってしまった日本古民家を原型とする伝統を現代建築に応用して新しく蘇らせたことがフジモリ建築の本質であり、そこが見た人に独特の懐かしさや郷愁を呼び起こすのであろうと思う。そうだとしたら「自然環境になじんで、自然素材に生かされた建築」というほうがより正確だろう。

 「路上観察」の復活については、水戸だからこそ実現したのだろうと思う。だって、首謀者赤瀬川原平老子様は、すでにこの世とサヨナラをして二年あまりになるのだから、追悼企画ともいえようか。でも、当時からを知る者としては回顧的になり、ひたすら懐かしく青春の思い出だ。みなさん、若かったんだなあ。

 一連の展示で興味をひいたのは、「5 未来の都市」コーナー」。遠くない未来、建築は自然に浸食されて廃墟と果てる姿を暗示している。ふと箱根樹木園に放置された、村野藤吾設計の朽ちかけた円形の貴賓室を思い出す。朽ちた室内天井からつるされた照明モビールの姿が時の流れの無常を象徴していた。
 楽しくてまた行ってみたくなったのは、なんといっても次の「6 たねやの美とラ・コリーナ近江八幡」コーナー。じつは今回の訪問でもっとも見てみたかった展示だった。ここ一連の建物は、フジモリ建築ワールドのユートピア、実際に水苔や杉苔を使ったオブジェ、パネル写真とともにうまく空間構成がなされていて感心した。不定形の無垢木のテーブルと椅子のコーナーでゆっくりとくつろげるのもいい。
 フジモリ建築の大集成とW.M.ヴォーリズの建築が残る琵琶湖畔の水郷近江八幡の地には、ぜひまた、ゆっくりと訪れてみたいという思いがいよいよ強く高まってきた。
 
 ラコリーナ近江八幡(伊語で“丘”)。手前は本物の水苔を敷き詰め、後方が全景パネル。後方の山並みと重なっていい感じ。



 隣のカフェでたねやの甘味で友人とひと休みしていたら、横浜美術館の逢坂館長にお声掛けいただいて、これにはびっくりした。このあとの藤森×磯崎新の対談を聴きにこられたのだという。さらに友人はビデオのコーナーで、豊田市美術館の旧知の学芸員に会って挨拶を交わしており、磁場が集まる場所にはそれなりの出逢いが生じると思い知らされた次第。
 
 水戸納豆蕎麦の昼食のあとに、展望塔=アート・タワー・MITOに登楼することに。市制百周年で高さ百メートルとわかりやすい。外壁はジュラルミン製の輝き、エレベータ内部から見る構造体は、かなりごつい印象で、比較はなんだが江の島の展望台のほうがよほどスマート、建築時代の違いかな?

 その午後三時からの巨匠対談、コンサートホールで行われたのであるが、前半退屈、しかし後半になって俄然おもしろくなった。藤森さんはさすが、その本質をズバリ見極める頭脳力には恐れ入る。その対談内容はとてもここにまとめることはできないが、この両巨匠がお互いをリスペクトしている姿が意外だった。作品作風はポストモダンとポスト縄文?と対照的なのに、文明や茶室への関心などの指向性は確かに重なる。
 磯崎さんはエッジがとれて枯れた感じ。自らの絶頂期に設計した水戸芸術館コンサートホールで思うところがいろいろとあっただろうなと想像する。このダイヤモンド形のホール、金色のゴージャス感がなかなかのもので、舞台後方中央と客席後方の三本の円柱がユニークなのだ。客席六百人あまりとコンパクト、室内楽には最適で、舞台との臨場感がほどよい。周囲環境を含む建物全体について、屋外広場の芝生のひろがりと噴水の調和、中世の楼閣にあるような、しかし素材は金属正三角形面を合わせて折れ伸ばしたポストモダンな展望塔、広場開口部からの覗く大きく育った欅並木の新緑、この三点が素晴らしい。

 対談終了は午後四時半すぎ、もうそろそろ帰りの時間が気になりだした。後ろ髪をひかれる思いで芸術館を後に徒歩で駅に向かう。途中の道からのタワー、建物の間から突き抜けるこの唐突感が好きだ。ほんとうは、ゆっくりと泊りの予定で街中探索をしたかったのだけれど。


 帰りは、午後六時すぎ発「ひたち24号」のキャンセル指定がうまく二枚取れてほっとする。構内カフェで話し込んでいるうちにいよいよ発車時間となり、車両に乗りこんで並んで座り、買い込んだ食材を分け合っての車中食。久しぶりの再会がほんとうに嬉しかったのに、愉しい時間は流れてやがて哀しき、、、ではないにしても、なんだか満たされない想いがするのはどうしてだろう。

 しばらくすると窓に横殴りの大雨、三十分ほどで止んであたりは暗闇、そしてまちの明りにネオン灯が流れ、列車は一路上野をすぎて、静かに東京駅まで滑り込む。

 

立夏、端午の節句。みみずくは何処へ

2017年05月05日 | 日記
 いよいよ新緑の中に夏の気配が立ち込めてきて、陽光煌めいてくる季節の始まりにふさわしい爽やかな一日となった。

 この時節、相模川両岸では、伝統の大凧揚げがある。その会場に程近い高田橋上流では、相模川を横断して様々な色合いの鯉のぼりが薫風にひるがえっていて、田名から愛川へと車で抜ける際には、想像していた以上に多くの鯉たちが豪快に泳ぐ情景に驚かされたものだ。

 愛読している『日本の七十二項を楽しむ』(文・白井明大、東邦出版2012年)によれば、鯉のぼりの風習は、江戸時代の武家の行事から始まり、鯉は滝を昇ってやがて龍となって昇天していくという中国古代の逸話に遡る。それが男子の立身出世にふさわしいと武家の間に広まっていったのだそうだ。今年の「鈴鹿歴」には、端午の節句はもともと中国の風習が奈良時代に日本へと伝わった邪気を払い災難を避けるための行事で、もともと月初めの午の日の意味が陽数五が重なる五月五日へと定着したと書かれている。

 立夏の日、我が家でも京都一保堂の煎茶にあわせて家人が買ってきた柏餅をいただき、しょうぶ湯に浸かった。しょうぶ湯には、身体の血行を促進させて、疲労回復や鎮静効果があるそうで、ささやかながら浴室の湯船のなかで無病息災と健康無事を願う。(補足:菖蒲から溶け出す成分は、テルペンといい皮膚や呼吸からも取り込めるそうで、こころも身体もリラックス!)

 また柏餅を食べる習慣は、日本で生まれた純国産の習わしだそうで、新芽が出るまで葉が落ちない柏の木にちなみ、家系繁盛につながる縁起物とされたことによる。このあたりはユズリハも同様で、正月の縁起物飾りとして象徴的に用いられる由縁だ。そして菖蒲湯に入ることは健康への効果があり、加えて邪気を払うと信じられいた。菖蒲ショウブは尚武、武を尊ぶにつながり、それが端午の節句が男子の成長を祝う節句となっていった、と先の本では書かれている。
 
 なるほど端午の節句には鯉のぼり、そして柏餅と菖蒲湯がつきものとなっていった経緯はそういうことだったのか。なにはともあれ、この日は日の出が午前五時すこし前、日の入りは午後六時半とすっかり昼間時間が長くなってきた立夏の夕暮れだった。
 
 最近読み切った本は、作家川上未映子による作家村上春樹への創作の作法や発想方法に迫ったロングインタビュー集「みみずくは黄昏に飛び立つ」である。対談後、わずか三か月足らずでの異例のスピード刊行!
 その四回にわたる対談の初回は、2015年7月西麻布ブックストア&カフェ(地下一階にある)で行われた。話題の焦点は、作家の深層心理や集団的無意識の世界についてだから、この地下にある会場にぴったり。二回目が2017年一月の神楽坂矢来町新潮社クラブ、三回目は最新刊の小説の登場人物のひとりが肖像画家であることにちなんで、画家三岸好太郎アトリエ(中野区上鷺宮だろう)で行われ、最終回が2017年二月二日、いよいよかという感じで川上を村上春樹自邸(たぶん大磯?)へと招いて行われたとある。この会場の選ばれ方が、その回ごとの話題にリンクしているようで興味深い。
 
 村上氏、本編ではユングや河合隼雄などの固有名詞を出していたが、建築方面には興味がないと話していたし、日本の伝統やしきたりとか、季節のたたずまいといった方面には、いまのところあまり関心がなさそうである。その印象があるのはドライな文体からくるのであろうか、村上は文体が導いてくれる物語性こそが何よりも大事だと語っている。反面、小説のなかの風景や景観といったとらえ方については、あまり話題になっておらず、感性の違いを感じた。さて、そうすると本文に収録されなかったふたりの雑談では、いったいどんな本音?がでていたのだろう。
 
 ここで思い起こしてみよう、対談最終日のその日は三島の富士山ろくクレマチスの丘にいた。写真美術館をのぞき、クレマチスの花が咲く前の季節の野外彫刻作品を巡った。最後に、B・ビュッフェ作品を眺めて、夕方富士山麓をあとにして、その日の長い深い夜は、沼津で明かしたのだった。
 もしかしたら、ふたりの対談を見届けたあのみみずくは、夜更けに駅前ホテルの室内に降り立ってくれたようにも想う。そしてひっそりとその部屋の片隅に潜んでいてくれたのだ。ながい夜の日付けが変わろうとする頃、やさしく羊を数えた夜にクレマチスの花の精の深い夢をみることができたのは、そのおかげだろうか? ひそかにずっと望んでいた、自然の赴くくままに魂がつながる無意識の一期一会の世界、、、。

 あれから三島の庭園美術館のクレマチス=暮れ待ちす の花は、いまが見ごろとなっていることだろう。もう一度訪れるとしたら、今度こそはその咲き誇る花の風景を見に行かなくては、そしてそこから黄昏にみみずくが飛び立つ姿と、その方向と行く先をしっかりと見定めなくては、、、。


 すまいの敷地内北斜面に残る自然林の咲くイチリン草の花ふたつ寄り添って。その季節は立夏へと巡る日々。


 こちらは、イチリン草の五輪ショット、この春も日陰に咲く清楚なすがたを目にした小さな幸せ。

 
(初校2017.05.05、05.09改定)