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友人の死

2006-08-24 14:28:09 | 備忘録

悲しい悲しい知らせを受けた日でした。
60年来の友人T君が非業の病に倒れ亡くなったのです。

終戦2年前でした。太平洋戦争も半ば頃、国を救わんと勇躍(?)、高等商船学校に入りました。そして軍国教育を受け、空襲下の学校・練習船の訓練生活に耐えていました。
昭和20年終戦を迎え幸いにも命を全うした我々でしたが、敗戦の結果乗る船もなくお互い残った小さな船からのスタートでした。皆ばらばらで生きんがための生活との戦いでした。そうして30年近く経ち漸く過去を振り返れる歳と時代に入れました。
このT君を中心に学校時代の学友の動静探しが始りました。それで拾い出された旧第37分隊の分隊員20名は初めての会合に伊豆の下田に集りました。
その会合に、往時学校時代の我々が薫陶を享けたK教官。その後戦地に応召になりフィリピンで戦死をされましたが、その未亡人が出席をされていて、実は主人が出征するときこの37分隊の皆様61名の方から形見の文集を贈られ、戦地に持って行こうとしたが、制限された荷物量がオーバーしたため、名残惜しげに私に託して出征しました。戦死した現在これが形見となっているので今此処に持参しましたと。見るとそんなことをすっかり忘れていた我々分隊員はおい俺はこんなことを書いているぞ、お前はこんなことと、手渡し回して皆40年前の自分に還っている。これは貴重な教官の遺品であり、表装も『勿忘草』となって今手許にある。
これが発起となって第37分隊会が結成され、3年毎に所を変えて全国から昔の隊員が参集するようになった。集まって団結すれば会員名簿も分隊会報も出したくなる。
こんな会の中心はいつもT君であった。そして年を重ね分隊会は第12回、会報は第14号になった。いつの分隊会合もT君の洒脱な談論風発の会話は二次会をやっても尽きず、会報の方は類まれな彼の文才と達筆に任せ、分隊員からの原稿は勿論、外部にも広範囲に取材を得、彼独特の粘り強い推敲を経て、毎号グラビアのある立派なカラーの文集を発行することが出来ました。

今此処にT君の急逝を聞き第37分隊会会員一同慟哭の悲しみを憶えると同時にこの分隊会の前途に放心の心細さを禁じ得ません。

残された御遺族方に措かれましても中心的な存在であらせられただけに、その驚きお嘆きは一方ならずとご推察いたしますが、われわれも高齢になり微力しかお尽くしできませんが、何んなりと心置きなくおっしゃっていただきたいと存じます。

T君よ少し我々より先に逝っただけだよ。まもなくわれらもあとにつづきます。
安らかにお眠り下さい。


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