
k君とは学窓のクラスメート、戦時中は一緒に苦労をともにした。戦後はお互い就職し、彼は国鉄青函連絡船、私は大陸の同胞引揚げ船と袂を分かった。
頭脳明晰な彼は官公吏の道を歩いた。次に会ったのは昭和35年頃彼は神戸の海技大学で教鞭をとっていた。ある教官が病気で入院したのでピンチヒッターに陸勤をしていた私にお鉢が回ってきた。思わぬ後進に道を教える身となった。先生稼業は暇が多い、この大学で毎土曜日の午後課外に福田源平先生という人を明石から招いて謡曲のおさらいをやっておった。K君の手引きで一緒に私も謡曲入門の片棒を担ぐことになった。私の能楽の興味はこの時に始まる。元気な頃の彼は面倒見がよく関西ではクラス会の世話役であった。魔が差したのかいつか身体をこわし身をかばう身となったが、それでも昨年春のクラス会では興に乗り戦時ラッパで鍛えた物真似をして喝采を拍した。だがその後の月例午餐会も間遠になってしまった。
終戦時は神戸にいた、家庭を持って住みついたのも神戸、仕事は勿論神戸の学校、阪神間とは切れない老後の暮らしだったのだろう。そんな彼も今は亡い。折しも曼珠沙華の満開の秋に旅立ってしまった。さようなら!!。 合掌
追伸; 7日に彼の告別式があったが、多数の参列者の中に東京から来たという「青年劇場」のメンバーがいた、男2女3の5名だったが、めいめいが「お別れの言葉」を涙をためながら霊前に捧げた。そういえば同級生の書いた「青春の砦」というドクメンタリの小説の内容を取材し(青年劇場)が動き、劇団で全国を巡回して世に訴えたことがあった。この青年劇場の創設と訓練に彼が手助けをしたという。その流れをくむ団員は今120数名になっているという。彼の面目躍如たるものがある。
悲しい悲しい知らせを受けた日でした。
60年来の友人T君が非業の病に倒れ亡くなったのです。
終戦2年前でした。太平洋戦争も半ば頃、国を救わんと勇躍(?)、高等商船学校に入りました。そして軍国教育を受け、空襲下の学校・練習船の訓練生活に耐えていました。
昭和20年終戦を迎え幸いにも命を全うした我々でしたが、敗戦の結果乗る船もなくお互い残った小さな船からのスタートでした。皆ばらばらで生きんがための生活との戦いでした。そうして30年近く経ち漸く過去を振り返れる歳と時代に入れました。
このT君を中心に学校時代の学友の動静探しが始りました。それで拾い出された旧第37分隊の分隊員20名は初めての会合に伊豆の下田に集りました。
その会合に、往時学校時代の我々が薫陶を享けたK教官。その後戦地に応召になりフィリピンで戦死をされましたが、その未亡人が出席をされていて、実は主人が出征するときこの37分隊の皆様61名の方から形見の文集を贈られ、戦地に持って行こうとしたが、制限された荷物量がオーバーしたため、名残惜しげに私に託して出征しました。戦死した現在これが形見となっているので今此処に持参しましたと。見るとそんなことをすっかり忘れていた我々分隊員はおい俺はこんなことを書いているぞ、お前はこんなことと、手渡し回して皆40年前の自分に還っている。これは貴重な教官の遺品であり、表装も『勿忘草』となって今手許にある。
これが発起となって第37分隊会が結成され、3年毎に所を変えて全国から昔の隊員が参集するようになった。集まって団結すれば会員名簿も分隊会報も出したくなる。
こんな会の中心はいつもT君であった。そして年を重ね分隊会は第12回、会報は第14号になった。いつの分隊会合もT君の洒脱な談論風発の会話は二次会をやっても尽きず、会報の方は類まれな彼の文才と達筆に任せ、分隊員からの原稿は勿論、外部にも広範囲に取材を得、彼独特の粘り強い推敲を経て、毎号グラビアのある立派なカラーの文集を発行することが出来ました。
今此処にT君の急逝を聞き第37分隊会会員一同慟哭の悲しみを憶えると同時にこの分隊会の前途に放心の心細さを禁じ得ません。
残された御遺族方に措かれましても中心的な存在であらせられただけに、その驚きお嘆きは一方ならずとご推察いたしますが、われわれも高齢になり微力しかお尽くしできませんが、何んなりと心置きなくおっしゃっていただきたいと存じます。
T君よ少し我々より先に逝っただけだよ。まもなくわれらもあとにつづきます。
安らかにお眠り下さい。

総括では円相場の推移は金利の立ち上がりで対ドル円高傾向、対EUも同様。主要国の金利は新蘭7.5を筆頭に豪5.8米英4.7加3.8EU2.6スイス1.1日本0.0である、人民元切り上げ期待と相場、米中間選挙年のドル/円相場について話があった。
投資判断としては株式債券とも余り変わらないが、堅調な米雇用統計、住宅価格、日本の消費者物価の見通し等考える。その他一部銘柄についても話があった。