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ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

石清水八幡宮でひとり言

2011年10月10日 | Weblog
京都の裏鬼門(南西)に鎮座し、難波への要所にある。石清水八幡宮は京都の男山に鎮座し、誉田別命(ほんだわけのみこと・第15代応神天皇)、比大神(ひめおおかみ・宗像三女神)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の八幡三神を祀っている。「八幡太郎義家」はどかで聞いたことがある!源頼朝や足利尊氏の祖先である源義家が、石清水八幡で元服して八幡太郎と呼ばれた。
 車で来ると、麓の高良神社前の境内に駐車できる。そこから京阪の八幡市駅に歩き、すぐ奥にある男山ケーブルに乗車して、3分で山頂駅に到着。駅からはうっそうとした参道を少し歩いて南総門に着く。山頂にも係わらず広い境内に、丹漆塗りと極彩色の彫刻を施した壮麗な社殿が正面に映える。
 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐八幡宮である。769年、天皇の位を狙っていた道鏡は、称徳天皇によって道鏡を次の皇位継承者に指名させようとして、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったと宣言した。しかし、朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、神意を確認したところ、「無道の者掃除すべし」との託宣が下り、道鏡の目的は達成されなかった(宇佐八幡宮神託事件)。独身の称徳天皇と道教のスキャンダラスな話になってくるが、色々な説があり真意は分からない。この時代は橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂の乱など皇位継承で大きく混乱した。
 山頂から降りて、気になっていた門前名物「やわた走井餅」を並んで買った。すっかり昼時を過ぎ小腹が減ったので、駐車してある車の中で頬張った。「おいしい!甘いものはほとんど食べないが、これはおいしい!」柔らかくてあっさりしていて、いっぺんに3個も食べてしまった。ふと車の前方に目をやると、高良神社の鳥居が見える。
 徒然草第52段「仁和寺にある法師」
仁和寺に居た老僧は「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていた。念願叶って石清水八幡宮へ行ったのだが、麓にある高良社や極楽寺などだけを参拝して満足し、他の人が石清水に行こうとして山を登っていたのに、今いる寺社が石清水だと思い込んで山に登らなかったという話。「どんな小さなことにも案内する人が必要である」という話で、失敗に気づかず得意げに話す僧侶の滑稽さもうまく書かれている。
 でも、こんな思い違いってあるよね?昔、あるゴルフコンペに毎回出席していて、ある時だけいつもと違うゴルフ場で開催された。当日いつもの所と思い込み、ゴルフ場へ行ったが誰も居らず、大慌てで連絡し、別のゴルフ場へすっ飛んだ事。友人が少し前に入ったトイレへ遅れて入り、友人の姿が見えないので、閉まっている個室に友人が入っていると思い、そっちに向かって冗談を言っていたら、知らない人が出てきた!…なんて事あるよね!?
 帰路の途中で、枚方にある樟葉宮跡を訪れた。交野天神社の境内から奥へ、うっそうとした林の中の小高い丘に貴船神社があり、この辺りが樟葉宮だと言われている。子供のない25代武烈天皇の死後、大伴金村らによって越前の三国から、応神天皇5世の孫、男大迩王(おおど)を迎え、26代継体天皇がここ河内楠葉宮で507年に即位した。その5年後に山背国筒城宮(やましろのくにつつき:現京田辺市付近)、12年後に弟国宮(おとくに:現長岡京市付近)に移っており、大和の国に入ったのは20年後のこととされる。天皇家の継承が疑われる26代天皇だが、最近の訪問は継体天皇ゆかりの地が多い。
 あのAppleの歴史を変えたスティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。KDDIのauはアップル社の「iPhone4S」を発売すると発表した。3年にわたるソフトバンクの独占に楔を打ち、日本のケータイ三国志が始まった。

向日市でひとり言

2011年09月18日 | Weblog

北朝鮮から小さな漁船に乗って漂流し、子供を含む9人が能登沖で保護された。700Km以上を5日間漂流したそうだ。台風の季節ではあるが、幸運にもこの間は海上が穏やかで、波高が1mを超えないぐらいだったので漂流できたらしい。一昨年前に対馬へ行った時の玄界灘のべた凪を思い出す。
 『日本書紀』の欽明天皇31年(570)、日本に初めて、高句麗(現在の北朝鮮から中国・東北地方にあった国)から使節がやってきた時の史料では、現在の北朝鮮地域から日本海を横断して「越」に着き、そこから近江を経て琵琶湖を南下して飛鳥に入った。この時の使節も高句麗から難破して越に漂着した様です。
 「日本人はどこから来たのか?」多くの説があるが、縄文晩期に稲作技術を持った多くの渡来人が来たことは間違いない。日本列島に先住していた縄文人とは、進化論を超える骨格の相違があり、他種の民族が多く渡来したことが分かる。日本への渡来の波は、その後7世紀後半の百済、高句麗滅亡に伴う大量移民まで何度か続く。
 超古代の縄文人は別として、弥生時代の渡来人は、中国からや高句麗や新羅、百済とそれぞれの国によって難破した場合の漂着場所やその支配地域が異なり、それが後の出雲国や越やら、北九州から大和までの本流だったり、地方豪族の先祖になったり分かれて行ったのではないだろうか。日本人は単一民族だと言われるが、実際は多くの民族が混血してできた民族だ。アイヌと琉球の民族が縄文人の血統を多く残している。我々現代日本人の多くは渡来人の混血だろう。今回の東北震災で、多くの被災者が示した冷静さと、他人や家族のことを思う気持ち、この世界に誇れる態度は、本来日本人が持っている縄文人的気質のような気がする。一方では、企業と言う経済活動の営利のために、事実を隠し己の事だけを優先する、経済至上主義の現在人的気質が垣間見られる。
 さて、9月中旬でありながら残暑厳しく、家に居るのも熱くて、あぶりだされる様に車に乗った。向かうは長岡京のあった向日市へ!?最初に向日市文化資料館で長岡京の勉強をして、そこにあったガイドブックを基に古墳めぐりを始めた。詳しくは是非一度現地へお越しください、感無量(桓武稜?)です。

箕面の滝でひとり言

2011年08月02日 | Weblog
阪神地区の人が一度は行ったことのある名所…?もみじを「もみじ饅頭」ではなく、「もみじのてんぷら」のイメージにした名所。年間200万人以上の観光客が来る所だ。紅葉の時期は道路も規制が入り、大滝近くの道路は路肩が駐車場となり、数キロ上流まで車列が並ぶ大混雑だ。私も昨年紅葉の時期の平日に2度訪れたが、無料駐車場はもちろんの事、かなり上流まで車が止められなくて断念した。世の中節電で、どこか涼しいところはないかと、思いついたのが大滝だった!
 滝→マイナスイオン→リラックス→もみじてんぷら→箕面地ビール
滝の近くの駐車場に車を止め、ここから滝まで徒歩で降りていく。歩き初めて木陰に入ると、求めていた涼しさがあった。そして眼下に滝が見える。箕面の地名の由来は、滝の形が「蓑」に似ているからだそうだ。軽く水しぶきも飛んできて、久しぶりに全身にマイナスイオンを感じた。滝のすぐ近くには食堂があり、車でなかったらビールを飲みたいところだが、今日はたこ焼きと炭酸飲料で我慢した。来るときは下りだったので、木陰の涼しさが心地よかったが、帰りは登りでたまらない。
 汗を拭き拭き駐車場に着いて、早くエアコンの効いた車内で汗をひかそうとキーを廻した!キュルキュルキュルキュル…・キュルキュル… …!セルは回るがエンジンが掛からない?何度かチャレンジしたが全く同じ状況で、エンジンは沈黙!?バッテリーはOKだし、ガソリンもあるし、どうして?意を決してディーラーに電話した。が、携帯が圏外で通じない。辺りを見渡すと、この時と言わんばかりに公衆電話Boxが駐車場向こうに立っていた。地獄での「くもの糸」の如く、古いBoxが輝いて見えた。やっとディーラーに通じたが、「残念ながら、迎えに行く車がないので…」とそっけない。しかたない、今度は保険会社に電話した。丁寧な対応で早速迎えの手配をしてくれた。40分ほどで若いお兄さんが、大きなトラックで迎えに来てくれた。今は牽引車ではなく、動かない車でもウィンチで引っ張り荷台へ乗せる!見事な操作だ。
 若いお兄さんに、修理工場まで乗せてもらい、20Km以内だったので無料だった。ありがたいありがたい。それから修理場で2、3箇所確認してもらったが原因が分からず、仕方なく車は置いていくことになった。
箕面ビールは、評判以上においしい。ワールド・ビア・アワードでの金賞や他色々受賞している。ネットでも買えるが、最近は工場に行っても売り切れが多い。あの深いこくのある、きめ細かい泡、その喉越しなどすばらしい。
故障のおかげで、箕面ビールが泡の様に飛んでしまい、後から工場からの電話では燃料ポンプがおかしく、交換すると8万5千円かかります!大滝で汗をかいたが、電話を聞いていっぺんに凍りついた。本当にマイナスイオンを浴びてしまって、とんだ一日になってしまった。

太山寺でひとり言

2011年06月28日 | Weblog
兵庫県には数少ない国宝建築の1つである、太山寺(たいさんじ神戸市)に出かけた。国宝建築では姫路城が有名だが、朝光寺や、播磨の法隆寺と言われる鶴林寺などはあまり知られていない。
垂水の五色塚古墳の北側に位置し、学園都市を越えた山間の住宅街に、車では見過ごしてしまう仁王門が迎えてくれる。
当寺の歴史は遣唐使でもあった藤原鎌足の長男、定恵和尚の開山、霊亀2年(716)鎌足の孫で藤原不比等の子である宇合(うまかい)の建立と伝える。
中門をくぐると、正面には堂々たる本堂が構えている。その大きさや、朱色の柱に蔀戸(シトミド)がはめられた様子が国宝にふさわしい風格を醸し出している。本堂に向かって歩き始めると、苔むしたもみじの古木に、赤い新芽が蝶のように舞っている。その向こうに三重塔が見えて、新緑のなかに馴染んでいる。本堂は仏教の大衆化に伴う新しい仏壇形式だそうだ。

宇合(ウマカイ)は不比等の三男。不比等の子四兄弟は、聖武天皇の夫人光明子(四兄弟の妹)を皇后に立て、四兄弟が政権を握ったが、天然痘の流行で四兄弟全員が相次いで亡くなった。人々は長屋王の祟りと恐れた。「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。これが長屋王の変。
奥の院には太山寺川にかかるアカイ橋を渡る。緑と赤のコントラストが面白い。

不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤(ラクイン:身分の高い男が正妻以外の身分の低い女に生ませた子)との説がある!、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝えている。
鎌足は百済王子で、不比等は天智天皇の子か……?想いに浸り古代妄想して蓮池を眺めたが、何かが飛び込む音がして我に返った。このへんで退散時(たいさんじ)。

石上神宮でひとり言

2011年06月23日 | Weblog
纏向から長岳寺と黒塚古墳をスルーして、最後の石上神宮に着いた。境内では多くの鶏が迎えてくれた。Yさんも「何や!何か神社と関係があるんかな?」と驚いていた。

石上神宮は古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきた。祭神の布都御魂大神は神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である。布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命(うましまちのみこと)により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命(いかがしこお)が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。本殿はなく拝殿の後ろに「禁足地」があり、そこから神剣が発掘された。また、国宝で有名な「七支刀」もこの神庫にある。2年前に百済の国立扶余(プヨ)博物館でレプリカを観た時に、当時の強い倭国と百済の親交を感じた。

 蘇我馬子、物部守屋の崇仏派と排仏派の戦いで、蘇我勢力は守屋を追い詰めたが、守屋も稲城を築き守りを固めた。苦戦していたときに、廐戸皇子(聖徳太子)が四天王像を彫り戦勝を祈願し、そして守屋は射落とされ物部氏は滅亡した。本当の理由はどうであろうと、新勢力が蘇我氏に替わった事を示す。物部守屋は長野の善光寺の内々陣中央に守屋柱と言う柱があり、その下に首を埋められたとも四天王寺に埋められたとも言われており、聖徳太子が創建した社寺は守屋鎮魂の為とも言われている。
 熱かった一日も夕方になり涼しくなってきた。バイクを取りに大和郡山城跡まで戻り、2台で帰路に着いた。
「かんぱ~い!」「……!」一口目のビールには言葉はいらない。Yさん宿泊のホテルの近くで食事になった。今日の山辺の道を振り返り、纏向の埋め戻されていた事を悔やみ、2人の誇大妄想はまだまだ続いて、気が付けば3時前になっていた。いや~楽しい時間は早く過ぎるもんだ。

箸墓から纏向遺跡でひとり言

2011年06月20日 | Weblog
山辺の道出発点を後にして、箸墓古墳、檜原神社そして、Yさん楽しみの纏向遺跡に向かった。いつも箸墓の横を走るだけなので、今日は周囲を車で回ることにしたが、遠くで見るより以外に大きかった。これが卑弥呼の墓か?と言われる大市墓で、宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されている。「日本書紀」には次のような三輪山伝説が載せられている。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形になって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。ふウ……!出雲の神と何かがあって磔にでもなったのか?日食で卑弥呼が処刑されたのか?とにかく奇妙な謂れだ。

箸墓からは、何軒かの三輪そうめん製造所を過ぎ、みかん畑の間を縫う細い道を登っていけば檜原神社が現れる。奈良の神社の中で一番好きなスポットだったが、昨年の遷都祭りできれいにメイクアップされてしまった。二上山が注連柱の間から見え、そこに夕日が沈む。

ここは、大神神社の摂社であるが、元伊勢と呼ばれる。豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が第10代崇神天皇に託され天照大神を笠縫邑に祀ったとされる地で、この後垂仁天皇の時、倭姫命(やまとひめのみこと)が今の伊勢の度会宮に遷したと言われる。
「うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山(ふたかみやま)を、弟背(いろせ)と我が見む」
意味: この世に生きている私は、明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか
この歌は、謀反の疑いで処刑された大津皇子(おおつのみこ)の遺体が二上山(ふたかみやま)に移された時に、お姉さんの大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌とのことです。なんと悲しい歌でしょう
神社を降りてすぐの茶店で腰を下ろし、二人でラムネを飲んだ。Yさんは三鳥居が気になっているようで、茶店のおばさんに声をかけたが、「それやったら、神主さんに聞いたほうが…」と言われ、早速駆け上っていった。車を廻して待っていると、「何や分からんわ!」と帰ってきた。相変わらずの探究心と行動力に感心する。
 前回は2009年11月に訪れたので、場所が分からない。Yさん本命の纏向遺跡である。当時からの発掘作業で、桃の種が2000個以上も見つかり、魚や猪、鹿の骨など古代祭祀の供物が多数出土し、祭祀が行われていたことが確実となった。やはり卑弥呼か?やっと2年前に車を止めた場所を見つけ歩き出した。「あれ?畑しかないよ!」「あそこに巻向駅があるから、この場所に間違いないよ!」Yさんは納得が行かず、近くで農作業していたおじいさんにもう話しかけている。「あぁ、すぐに埋めたよ、桜井市も財政が厳しいんだか」「こんな価値あるものを、みんなにもっと見せてくれたら良いのにね」やっぱり埋め戻されていたんだ。二人共立ち去りがたい思いで線路沿いを歩いた。

「なんで、すぐに埋めるんやろな?」楽しみにしていた遺跡が見れず、Yさんは納得が行かない様である。本当にここが邪馬台国だったのだろうか?早く発掘が進んで決定的な遺物が出てきて欲しい。
予定より時間がかかったので、長岳寺と黒塚古墳の柳本周辺はドライブだけで終わって、最後の石上神社へ向かった。発掘作業中の前回(2009 11月)と違って今日は卑弥呼を見かけず、あの微笑みも見れなかった。ただ、Yさんのぼやきがだけ聞こえてくる。

大神神社・海石榴市でひとり言

2011年06月18日 | Weblog
大和郡山城跡を足早に見学し、その駐車場にバイクを置き、車で一緒に大神神社に向かった。ここからは十数Kmの距離なので、ゆっくり参拝してから大好きな「森正」でそうめんを頂く予定。平日の昼前でもあり道路は空いている。しかし、車内では古代史の熱い討論で込み合っていた。邪馬台国=巻向説のYさんと北九州説の私の混戦?である。邪馬台国がまだ決定しないうちに大神神社に着いた。「これで何度目の参拝になったかな?」すっかりきれいに建直された拝殿を眺めながらふと思った。境内にはこの時期に咲く御神花の「ささゆり」が咲き始めていた。

 どうしてここの祭神が大物主大神(おおものぬしのおおかみ)で出雲の神が祭られているのだろう。巻向にあった古代都市は当時の吉備や東海地方など全国各地の遺物が発掘されている。ヤマト政権発祥の地には間違いないだろうと思う。その都市が何故出雲の神を崇めるのか?やはり、出雲族への大掛かりな裏切りがあり、その祟りを恐れ祀っているのだろうか?
「うん、うまいな!」森正のそうめんを食べながらYさんが唸った。涼しい風が店の中庭を吹き抜けて行く。「さあ、山辺の道のスタート地点に行きましょうか?」

 大神神社からすぐ南に金屋の石仏がある。車を止めて探すが分かりにくい、歩いてきたおばあさんにYさんが声をかける、相変わらずコミュニケーションには積極的だなと感心した。この辺りの山辺の道は幅1m程の細い畦道のようだ。おかげで少し歩いて美術館の前にある石仏を発見。車に戻って、細い街の道を辿り海柘榴市観音に寄り、初瀬川に突き当たった。最古の海外交易の市、海柘榴市(つばいち)は、大阪から大和川を遡ってくる終着点でした。また、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあった。遣隋使の小野妹子が「日出ずる処の天子」で有名になった仕事を終え、隋からの使者、斐世清(ハイセイセイ)を伴って帰国した時、ここで75頭の飾馬を仕立てて盛大に迎えたとのこと。また、百済から仏教も運ばれてきた。

 「この川は難波からどうやって流れているのかな?」「そっちは逆やろ!難波は向こうやで」と方向音痴の私を笑っていた。

「紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ」意味:この海石榴市(つばいち)の道で出会った君の名は? 教えて欲しいですね

秋篠寺でひとり言

2011年06月15日 | Weblog
「久しぶりです!」「あぁ!すごい人やな!?」
待ち合わせの秋篠寺は、年に一度の秘仏・大元帥明王像の一般公開の日だったので、平日にもかかわらず参拝客でいっぱい。元上司のYさんは、65歳を超えているのに750ccの大きなバイクに乗って、駐車場待ちの私の車にやって来た。境内には長い行列でやっと入場できたが、せっかちな二人にはご開帳の秘仏を見るために、もう一度行列に並ぶ気持ちは微塵もない。国宝の本堂に安置される伎芸天(重文)はYさんのリクエストで訪れたのですが、評判通りの美人で、しなやかな立ち姿と伏せがちな目線に癒される。頭部だけが元の造りで胴体よりも少し黒くなっている。また、境内は苔むした庭に囲まれており、市街地の真ん中にあるのにもかかわらず、独自の空間を造りだしている不思議な名刹だ。


 秋篠寺はこの地を所領としていた秋篠氏が氏寺として作った寺だという説がある。秋篠氏とはもともと渡来人の土師宿禰安人(ハジノスクネノヤスヒト)が朝廷に改姓を願い出て賜った姓である。土師氏は野見宿祢(ノミノスクネ)を祖先とする氏族。野見宿祢は『古事記』や『日本書紀』に登場する相撲の神で、垂仁天皇の時代に、天皇が出雲国から野見宿祢を召し、大和の当麻蹶速(タイマノケハヤ)と相撲を取らせた。野見宿祢は当麻蹶速を倒し殺してしまった。その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与え、野見宿祢はそこに留まって天皇に仕えた。その後皇后の死に際し、生きた人を埋める代わりに埴輪(はにわ)を作って献上したといわれ、これが埴輪の起源説話である。以後、土師の職に任じられ、姓(かばね)も土師臣(はじのおみ)と改めた。その子孫は代々天皇の葬儀を司り、やがて姓を菅原(すがわら)と改めた。なんと!菅原道真は野見宿禰の子孫である。
 秋篠寺の草創にはもうひとつ、この寺は鎮魂のために建てられたという説がある。壬申の乱以降約100年にわたって天武天皇系の天皇が続いたが、天智天皇系ではじめて即位したのが光仁天皇であった。770年に称徳天皇が亡くなると、皇位継承問題で天武派と天智派で意見が分かれる。王統はこれまでどおり天武の血筋から選ぶべきであるとする右大臣・吉備真備は、天武の孫で長親王の子、文室浄三(フンヤノキヨミ)を推し。天智の血筋から選ぶべきとする左大臣藤原永手は天智の孫・大納言の白壁王を推していた。称徳女帝の遺詔もあって、左大臣側の白壁王が推挙され、光仁天皇として即位したのである。62歳で即位すると、妻の聖武天皇の子・井上内親王を皇后とし、皇子の他部内親王(オサベナイシンノウ)を皇太子とした。朝廷から道鏡一派を一掃すると771年には吉備真備を引退させた。光仁天皇擁立の首謀者である、藤原良継、百川は藤原式家と親しい山部王を皇太子にする必要があった。772年に事件が起こる。 皇后が天皇を呪詛しているという密告である。井上皇后とその子他部皇太子は逆罪として逮捕されると、3年後の同日に死んでいる。その結果、皇太子となったのが山部王、後の桓武天皇である。母は百済の武寧王を祖とする王族の末裔とされる高野新笠(タカノノニイガサ)。ここで天皇家と韓国とのゆかりが記録されている。
「おいしいな!」境内にある香水閣と言う井戸の水をいただきながら、そのまろやかな味に二人とも頷いた。
この寺の歴史には血生臭い時代があったが、このしっとりした佇まいと伎芸天の表情からは、すべてを受け入れて、嘆き、恨み、そして許し、井戸の水のようにまろやかに浄化してきた何かがあるのかもしれない。
 さて、喉の渇きも潤せたので、私の車が先導して次の郡山城跡に向かった。

和歌山市内観光でひとり言

2011年05月08日 | Weblog
2日目の旅程
花山温泉→日前神宮・国懸神宮→竈山神社→紀三井寺→不老橋→雑賀崎灯台→和歌山城→根来寺
朝一番に訪れたのは、花山温泉のすぐ近くにある日前神宮・国懸神宮(ヒノクマジングウ・クニカカスジングウ)だった。名門高校の横に駐車場があり、幼稚園の父兄の送迎の車と重なって慌しかった。一旦境内に入ると、市内の喧騒とは別世界の森が迎えてくれた。境内を進むと突き当たりになり、左 日前神宮、右 国懸神宮の立て札が立っている。同一境内に二社を祀っている、初めての経験だ。ご神体は三種の神器に次ぐ神鏡で、伊勢神宮に祀られている神鏡の初度に鋳造した鏡とのこと。伊勢神宮のような荘厳さではなく、全く人気のない境内の森を歩いているとタイムスリップして神代まで行けそうな雰囲気がある。

 朝の渋滞にまぎれながら竈山神社に向かった。初代神武天皇の長兄・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る社。神武東征で神武天皇ら弟たちとともに向かったが、難波の白肩津での長髄彦との戦闘で負傷した。太陽に向って戦うのは良くないとして、東から回り込むために一行は南下したが、その傷が元で、紀国の男之水門に着いたところで彦五瀬命は亡くなったと古事記にある。陵墓も本殿奥にあるらしい。日前神宮より立派な社殿や石畳の境内で、さすが村社から官幣大社まで昇格した唯一の神社らしい思惑?趣がある!


さて、神代、初代からは随分新しくなるが770年に開祖された紀三井寺に向かおう。
紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられ、唐僧・為光上人によって開基された古刹である。観光名所になっているお寺なので、早咲きの桜と海の見える景観をじっくりと楽しんだ。境内の茶店で桜を見ながら休んだ。少し開けられた窓から入ってくる冷たい風に、まだ早い春を感じ、同じ話を繰り返し、会話が成立している年老いた客の話を聞きながらコーヒーをすすった。

紀三井寺から和歌山城に行く前に、万葉集にもよく詠われる和歌浦を眺めるために雑賀崎灯台へ車を走らせた。

和歌山城は市街地の中心になっている。今でもここで政治が行われているような官庁街のど真ん中にそびえている。満開の桜の花吹雪に包まれながら城内を歩いた。


お城近くの和歌山ラーメンで、ねぎの多い○イでお昼にした。豚骨ベースの九条ねぎいっぱいのラーメンで、結構あっさりと量も少なめで軽く食べられる。飲んだ後にはもってこいの味だった。
和歌山の旅の最後は、帰路に近い根岸寺を訪れた。
戦国時代に鉄砲隊で織田信長や豊臣秀吉を苦しめた根来衆で有名なお寺だ。境内の奥には国宝の日本最大の多宝塔がそびえる。広い境内は花見を兼ねた老若男女で賑わっており、地元の人たちだけでなく多くの人たちにも、桜の名所として親しまれているらしい。

息子たちと白浜に行ってから2年ぶりの和歌山だったが、今回は観光施設や温泉で味わう和歌山と、それとは少し違う和歌山も楽しめた。神代の昔から奈良、戦国時代と十分に古代妄想を満喫できた。
焼き討ちに遭い壊滅しかけた根岸寺。その片隅にある石積みの隙間から咲くすみれは、壊滅から復興した寺の強さ、そして、東北復興への生命力を見せて咲いているようだ。

粉河寺でひとり言

2011年04月26日 | Weblog
今日は和歌山市内の花山薬師の湯に宿泊する。高野山を降り、丹生都比売神社に寄り、紀ノ川沿いに市内へ向かうが、その途中に奈良時代末(770年)に開創された名刹を訪ねる。平安時代から多くの人が参詣した粉河寺。西国三十三所観音霊場、第三番札所の観音信仰のお寺である。車道横にある大門を抜けると、参道一面の桜が飛び込んでくる。枝垂れやソメイヨシノの桜を眺めながら歩くと、堂々とした中門につく。その門には「風猛山」の額がかかっていて、門構えといい、額の山号といい本当に勇ましい。中門をくぐると本堂の大きな屋根が桜の木の上に覆いかぶさる。何度も焼失し、豊臣秀吉にも火の海にされすべてを失ったが、こうして見事に甦り、桜に囲まれた春を楽しんでいる。東北、北関東が一日も早く甦ることを願った。


 天気が良く日暮れまで時間がありそうなので、明日の予定だった伊太祁曽神社を観てから温泉にチェックインすることにした。のどかに流れる紀ノ川を離れ、ナビが伊太祁曽神社へガイドした道は市内の細い道で、奈良町や藤井寺の様に近代の都市整備がなく、古代の街道がそのまま残っている感じだ。
 伊太祁曽神社の祭神である五十猛命(イソタケルノミコト)は父神である素盞鳴尊と共に、高天原より最初韓国(カラクニ)に天下ったと記されています。この時、素盞鳴尊は木種を持っておりましたが、その地には植えずに 大八州国(オホヤシマグニ=日本)に持ってきたそうです。そして、息子である五十猛命に、大八州国にその木種を播き施すように命じました。五十猛命は、妹神である大屋津姫命・都麻津姫命 と共に、日本の国に木種を播き最後に、現在の和歌山県にお鎮まりになったということです。と言う事で、伊太祁曽神社が木の神様を祀る神社として広く知られている。紀の国は木の国である。

祭神の五十猛命は新羅から来たと「日本書紀」に書いてあるらしい、製鉄から鉄製品を作る鍛冶の神格がある。製鉄では森林資源は燃料として燃やされ枯渇する。そこに植林して森を再生する。朝鮮半島で製鉄が盛んに行われ、結果的に森林がなくなり、日本に移動してきた集団!これが五十猛命であり、この地の豪族の紀氏の先祖になるのか?この集団は出雲と筑紫に関係が深い海人族で、2世紀ごろの卑弥呼活躍直前の出来事かも知れない。
 古代妄想に浸っている間に、すっかり夕暮れになってしまった。続きは全国屈指の高濃度炭酸温泉に浸かりながら楽しみたい。