ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

箸墓から纏向遺跡でひとり言

2011年06月20日 | Weblog
山辺の道出発点を後にして、箸墓古墳、檜原神社そして、Yさん楽しみの纏向遺跡に向かった。いつも箸墓の横を走るだけなので、今日は周囲を車で回ることにしたが、遠くで見るより以外に大きかった。これが卑弥呼の墓か?と言われる大市墓で、宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されている。「日本書紀」には次のような三輪山伝説が載せられている。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形になって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。ふウ……!出雲の神と何かがあって磔にでもなったのか?日食で卑弥呼が処刑されたのか?とにかく奇妙な謂れだ。

箸墓からは、何軒かの三輪そうめん製造所を過ぎ、みかん畑の間を縫う細い道を登っていけば檜原神社が現れる。奈良の神社の中で一番好きなスポットだったが、昨年の遷都祭りできれいにメイクアップされてしまった。二上山が注連柱の間から見え、そこに夕日が沈む。

ここは、大神神社の摂社であるが、元伊勢と呼ばれる。豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が第10代崇神天皇に託され天照大神を笠縫邑に祀ったとされる地で、この後垂仁天皇の時、倭姫命(やまとひめのみこと)が今の伊勢の度会宮に遷したと言われる。
「うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山(ふたかみやま)を、弟背(いろせ)と我が見む」
意味: この世に生きている私は、明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか
この歌は、謀反の疑いで処刑された大津皇子(おおつのみこ)の遺体が二上山(ふたかみやま)に移された時に、お姉さんの大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌とのことです。なんと悲しい歌でしょう
神社を降りてすぐの茶店で腰を下ろし、二人でラムネを飲んだ。Yさんは三鳥居が気になっているようで、茶店のおばさんに声をかけたが、「それやったら、神主さんに聞いたほうが…」と言われ、早速駆け上っていった。車を廻して待っていると、「何や分からんわ!」と帰ってきた。相変わらずの探究心と行動力に感心する。
 前回は2009年11月に訪れたので、場所が分からない。Yさん本命の纏向遺跡である。当時からの発掘作業で、桃の種が2000個以上も見つかり、魚や猪、鹿の骨など古代祭祀の供物が多数出土し、祭祀が行われていたことが確実となった。やはり卑弥呼か?やっと2年前に車を止めた場所を見つけ歩き出した。「あれ?畑しかないよ!」「あそこに巻向駅があるから、この場所に間違いないよ!」Yさんは納得が行かず、近くで農作業していたおじいさんにもう話しかけている。「あぁ、すぐに埋めたよ、桜井市も財政が厳しいんだか」「こんな価値あるものを、みんなにもっと見せてくれたら良いのにね」やっぱり埋め戻されていたんだ。二人共立ち去りがたい思いで線路沿いを歩いた。

「なんで、すぐに埋めるんやろな?」楽しみにしていた遺跡が見れず、Yさんは納得が行かない様である。本当にここが邪馬台国だったのだろうか?早く発掘が進んで決定的な遺物が出てきて欲しい。
予定より時間がかかったので、長岳寺と黒塚古墳の柳本周辺はドライブだけで終わって、最後の石上神社へ向かった。発掘作業中の前回(2009 11月)と違って今日は卑弥呼を見かけず、あの微笑みも見れなかった。ただ、Yさんのぼやきがだけ聞こえてくる。


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