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ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

立杭焼きでひとり言

2012年10月03日 | Weblog
ずっしりと重く安定感があり、渋くて縄文的なデザインが良く似合う陶器で大好きだ。
丹波立杭焼の歴史は古く、鎌倉時代に発祥し瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と共に日本六古窯の一つに数えられています。
 (陶器の写真はWebより拝借しました)
 丹後半島の帰りには時間がなく寄れなかったので、篠山市の「丹波焼・立杭 陶の郷」へ改めて出直すことにした。10月20日から陶器まつりが開催されるようで、土曜日なのに今日はガラガラだった。57軒の窯元の作品を購入できる『窯元横丁』では、2周もして、迷いに迷ってやっとお気に入りの皿・鉢など4点を購入した。

 「陶の郷」近くの山麓には傾斜を利用して47mの登り窯が現存する。窯に火が入ると迫力があるだろうと感じさせる長大さだ。1300度で60時間も焼成する、かなりの木材が必要になる。

 最近探訪した丹後や越では、製鉄技術を持った集団が弥生時代から活躍していた。製鉄も鉄を溶かすのに大量の木材が必要で、ひいては森林破壊につながる。弥生時代に大勢の渡来人が渡ってきた。その理由の一つに、朝鮮半島の森林破壊が進んで、燃料としての木材が枯渇したため、製鉄技術を持った集団が森林を求めて渡って来たとも言われている。出雲、諏訪、丹後、越など日本海の古代国などがそうだ。特に丹後や越は、半島からの鉄の材料や製品等を大和へ輸送する流通経路として最重要地域であった。だから大和政権後も大きな古墳やガラスの腕輪など、鉄による武器や農具の売買により裕福になった部族が存在していた訳だ。この地域の歴史が素戔嗚尊(出雲)やアメノヒボコ(丹波)、ツヌガアラシト(敦賀)、タケミナカタノミコト(諏訪)らの神話となって語られているのだろう。
 古代の焼き物須恵器は、『日本書紀』には百済などからの渡来人が製作したとある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛(アメノヒボコ)とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。
そろそろお腹がスエキなので、昼飯はタチグイにするか!
 

越の国でひとり言2

2012年09月24日 | Weblog
天気予報は雨!?今まで旅行先で傘をさしたことがない「晴れ男」だから心配はない。仲居さんに「雨降らない事を祈っています」と送り出された。しかし、最近のゲリラ豪雨を思うと、ひょっとすると降られるかもと思い予定を一部変えた。
 朝一番、あわら温泉から越前へ向かい、途中丸岡城に寄った。日本最古の天守閣で、こじんまりした天守内の狭くて急な階段が印象的だ。

 永平寺へ行く前に、六呂瀬山古墳と松岡古墳群を見に行った。六呂瀬山古墳は九頭竜川の右岸、六呂瀬山山頂に位置する前方後円墳や方墳があるところで、継体天皇の生母を輩出した一族の大首長墓であるとの説がある。車を止めて登ろうとしたら、整備中で入山禁止の看板があり生木が倒れていた。あきらめずに少し歩くと、坂井市の教育委員会の荷物で道が塞がれていた。ここは断念して車で10分程の松岡古墳群へ向かった。こちらは公園として整備されているが、予想以上に広いので入り口の春日山古墳だけを見ることにした。横穴式石室がドームの中で解放されていて、石室には笏谷石で作られた横口式舟形石棺が安置されていた。この横に穴が開いている石棺は出雲地方で見られるタイプで、春日山古墳に納められた首長は出雲地方と関わりがあったと考えられ、同じ部族であったかも知れない。

 幸いに雨はまだ降らないし、それどころか真夏のような暑さになった。干からびそうな体で車内に戻ると、エアコンが救ってくれた。
 さて、永平寺は僧侶の育成と信徒の信仰の源の曹洞宗大本山らしく、威厳があり壮大なスケールの寺院だった。門前町も栄えているようで、各店舗の駐車の車獲得の賑わいも楽しいが、古刹を巡っていると、この様な大寺院にはあまり尊厳と畏怖を感じない。「儲かってるな」…宗教より経済が優先している様に感じてしまう。

 いよいよ最後の目的は勝山市にある平泉寺白山神社だ。思わず息をのむ杉木立の参道、苔むした境内、今まで訪れた他の古刹を圧倒する幽玄さ、すばらしい。717年泰澄によって開かれたという、白山信仰の越前拠点として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。その栄華は今の境内に全くない。あるのは絨毯のような苔だけ。泰澄大師がここで神様に出会ったことが、平泉寺の始まりと言われる「御手洗の池」の前に座り込むと、時代も季節も忘れて、静寂の中から何かが現れそうな畏怖を感じた。
 入り口の食事処で蕎麦を食べた。岡本太郎や櫻井よしこさんらのサインがあり、みんな感動しただろうなと思った。女将さんに、「苔は自然に生えるのですか?」「えぇ、すぐに生えるので大変ですよ」「庭の手入れは誰がされるんですか?」「年に2回だけ地域住民が総出でやりますが、それ以外はほとんど手付かずです」「それにしてはきれいですね」「まだ日にちがそう経っていませんからね」あまりに境内がきれかったので、思わず次々と質問してしまった。

 雨の予報だったので、降りだしたら行こうと思っていた恐竜博物館にも時間があるので寄ってみた。宇宙船のような銀色の丸いドームが迎えてくれた。
 今回は縄文から大和政権のできる前の弥生時代、そして8世紀の白山神社と、千年以上の永いタイムトラベルだったが、最後に何と2億年前まで行ってしまった。
 丹後、越と廻って感じたことは、大和ができる前から日本海沿岸には半島からの渡来人により、発達した文化があり、鉄や塩などの貴重品を基に経済力と軍事力を蓄え、大和建国に貢献し、また大和連携と並行した半島との独自外交も維持しながら繁栄した地域であること。この地には敦賀の地名になった「ツヌガアラシト」と、出石に定着した「アメノヒボコ」が神として存在するが、二人は同一人物ともいわれ、気比神宮の祭神である神宮皇后との関係もおもしろい。
 新羅を攻略した神宮皇后、新羅の王子であるアメノヒボコ…。「ウガォー、ガォー」ティラノサウルスが睨んでいた。古代妄想から現実に戻ったら、そこは太古の恐竜時代だった。ついに雨は降らなかった。

 

越の国でひとり言

2012年09月12日 | Weblog
7月は丹後半島に出かけ、その古墳の多さや大和政権前からの繁栄と、その後の大和への貢献などを実感できた。今回は継体天皇を輩出した越の国を見て回ろうと福井県へ出かけた。朝早く出発し、京都市内を抜け最短距離の若狭街道で小浜に向かった。最初に立ち寄ったのは若狭町の「瓜割の滝」。まだ8時台なので誰もいない。残暑の朝にはこの冷たい水は気持ち良い、瓜が割れるほどの冷たさとは思はないが、神聖な雰囲気ですがすがしい。

 明通寺は806年坂上田村麻呂がこの地の「ゆずり木」で薬師如来など3体を彫って安置した事に始まる。檜皮葺のきれいな本堂と三重塔が国宝になっている。参道にリンドウがひっそりと咲いていた。

 若狭神宮寺は奈良東大寺の二月堂のお水取りの、お水送りの神事が行われる。この寺に渡来した印度僧実忠和尚が東大寺開山の良弁僧正を助け東大寺を完成させ、二月堂の建立とお水取りを始めた。二月堂の水は「若狭井」と言う井戸から汲まれる。若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛った地名で、朝鮮半島から上陸して、朝鮮語ナラ(都)「奈良」へ行く一番近い道であった。神宮寺の仁王門は遠く真っ直ぐな参道の向こうにある、そこには七堂伽藍二十五坊を有していた賑わいを感じさせる距離があった。この寺院は若狭彦神社の別当寺である。

 若狭彦神社は上社(若狭彦神社)、下社(若狭姫神社)の2社からなる。祭神は上社が彦火火出見尊(ホオリのみこと)一般には山幸彦と言われており、神武天皇の祖父に当たる。下社は豊玉姫命(トヨタマヒメ)で山幸彦の妻に当たる。二人の子を出産の時に豊玉姫命が八尋和邇(やひろわに)の姿となったのを、夫のホオリが約束を破って見たため、妻は綿津見神の国へ帰ってしまった。鬱蒼とした杉の巨木が立ち並ぶ参道の奥に、ひっそりと本殿が鎮座する。まったく人の気配がなく、社叢に吸い込まれるような霊気を感じる、すばらしい雰囲気の神社だ。

 下社の若狭姫神社は街中にあり、道路から本殿までの距離がないので先ほどの静寂さは感じない。それでも本殿を守るように立っている千年杉は圧巻である。小浜は「海のある奈良」と言われるほど古刹が多く、大和への重要な入り口であったことが良くわかる。
 若狭歴史民俗資料館(小浜市)では鳥浜貝塚から出土した丸木舟と漆塗りの櫛が観れた。縄文時代から漆を使っていたなんて初めて知ることができたし、対馬に行った時に玄界灘を丸木舟で渡れるか疑問だったが、この丸木舟の実物を見ると、結構大きく凪を選べば十分渡れると思った。続いて三方にある縄文博物館も訪れ、たっぷりと縄文の世界に浸ることができた。

 鯖江には王山古墳群と言われる54基の墳墓・古墳がある。弥生中期から古墳時代中期まで累々とこの地に築かれてきた。弥生時代後期(2~3世紀)の土器には近江や尾張の物が見られ、それらの関係がどのようであったか興味を引く。誰もいない王山の中を歩いていると、この地域の王族になってタイムスリップできそうな気がする。
 鯖江の海岸近くの織田は織田信長公の祖先の故郷であり、氏神の剱神社があるので寄ってみた。

 今夜の宿のあわら温泉目指し、北上して福井市内を抜ける。途中、九頭竜川流域は豊かな穀倉地帯で、男大迹(継体天皇)王子が三国の河口を切り開き湖沼であった越前平野の水を日本海に流出させ田園地帯としたと伝えられており、今の世も黄金の稲穂がたわわに実り、我々は継体天皇の恩恵を受けている。
 
「あ~もしもし、今夜宿泊予約の者ですけど、到着が早くなりましたので晩御飯は早くできます?」…と、ケイタイの恩恵に与かった。
 

PCを乗り換えてひとり言

2012年08月19日 | Weblog
普通、オリンピックyearにはTVなどを買い替えるのだが、オリンピックが終わってからPCを買い替えた。CPUはCore i7のハイスペック dynabookだ!今までのVAIOは10年以上経っているので、まるで、各駅停車から「のぞみ」に乗り換えたような速さと、新機能がある。この年になって…とは思うのだが、ブログの写真処理やYOU TUBEからのダウンロードに時間がかかり、旅行のプラン等を立てるのにWeb検索で何枚も開いたりすると、相当ストレスを感じていた。
 振り返ると、FM7のデスクトップ(当時ノート型の市販はない)から始まりNECのLAPTOP、MAC、LET`S NOTE、VAIOとあれこれこだわりなく使ってきたが、今回はとにかくサクサクできる事にこだわり、一番のCore i7を選んだ。
 期待通り、まるでお茶漬けのように?サクサクと動いてくれる。何せ、頭脳が7つもあるようなもんだから、何枚もWebサイトを開いてもストレスを感じない。写真を保存しても、内部HDDが1TBもあるので余裕しゃくしゃく。Window7も思っていた以上に使いやすいし、付属ソフトもいろいろあって楽しめそうだ。
 過去は毎年のように機能が向上し、買うタイミングが難しかったが。今は開発もゆっくりになっているので買いやすくなった。
 ところが、機能はサクサク動いてくれるのだが、ブログを書く事はなかなか進まないので、早いのを買っても意味なかったかな?仕事で汎用したPOWER POINTも入ってるぜ、一度も使わないで削除しようか!ワイルドだろー!?
 
 

丹後半島でひとり言

2012年07月27日 | Weblog
丹後半島には古墳の数が5000以上ある。前方後円墳は74で、中でも方墳が2159と、他の地域よりも圧倒的に方墳が多いのが特徴だ。方墳は中国には多いが、朝鮮半島では高句麗だけに多く見られる。また、網野銚子山古墳や神明山古墳など200m近い前方後円墳もあり、大和朝廷との関係と、半島との強い関係が想像できる。
 私市丸山古墳→元伊勢外宮→内宮→天の岩戸神社→作山古墳・蛭子山古墳→京都府立丹後郷土資料館→国分寺跡→成相寺→丹後海と星の見える丘公園(昼食)→伊根町(舟屋)→大成古墳群→丹後古代の里資料館→竹野神社→神明山古墳→琴引浜→網野銚子山古墳→夕日ヶ浦温泉(泊)→兜山→玄武洞→朝来市埋蔵文化財センター(休館日)→帰宅

 早朝に出かけたので、予定よりも早く私市丸山古墳に着いた。誰もいない円墳に登ると、眼下に雄大な由良川がすぐ近くを流れていた。流域の肥沃な土地をまかなっていることが良く分かる。舞鶴道が古墳の真下に吸い込まれるように走っている。頂上のベンチに腰掛けて、すばらしい景色を見ながらおにぎりを頬張った。さらに由良川を日本海側に下っていく途中の大江町に元伊勢神宮がある。内宮と外宮に分かれており、天岩戸神社もあり、また車で走っていると、五十鈴川や猿田彦神社など三重県の伊勢と同じ名称の地名や神社が周辺にある。大和政権が丹後を制圧したのは、飛鳥時代(6世紀終盤)とされており、聖徳太子の弟である当麻皇子(たぎまのみこ)により攻め滅ぼしたとなっている。民話にも、麿子親王(まろこしんのう=たぎまのみこ)により丹後に住む鬼が退治され間人(たいざ)の立岩に封じ込まれたとある。大江町には鬼退治伝説が3つ有り、大和朝廷が丹後を制圧した時の話が色濃く残っているだと思う。


加悦町古墳公園には4世紀後半に築造された蛭子山古墳、4世紀後半~5世紀初めに築造された5基の中型古墳からなる作山古墳が復元されており、作山古墳は1から4号墳の墳形が全部違うので、まるで古墳のデパート!しかし、隣の大きな蛭子山古墳と作山古墳の被葬者の関係はどうだったのだろう?と思いたくなる。古墳の周囲には丹後特有の「丹後型埴輪」と言う円筒型の先が閉じられている埴輪がある。大和朝廷との関係に何か「微妙な関係」を感じる。出雲の前方後方墳と同じ様な反抗なのか?

今回一番楽しみにしているのは、京都府立丹後郷土資料館にある「青いガラスの腕輪」を見る事だったが、当日の入場料はクールポイントで無料とありがたかったのだけど、肝心の腕輪は見当たらなかった。弥生後期の大風呂南遺跡から出た釧だ。青い成分は鉄で、ガラスを加工する技術を持っていたらしい。他の出土品からの考察からも、相当勢力を持った集団が居た事を物語っている。資料館のすぐ手前には丹後国分寺跡が開放されており、そこから見渡す天橋立は古代の匂いがした。


応神天皇陵でひとり言

2012年06月09日 | Weblog
飛鳥に「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」の2箇所あることはあまり知られていない。近つ飛鳥(羽曳野市)にある15代応神天皇陵の誉田八幡宮へ行ってみよう。歴史上実存する最古の天皇とも言われ、倭の五王の讃に比定する説も有力で、年代的にも「広開土王碑」に書いてある倭国の朝鮮進出を指揮した可能性が高い大王である。
 神功皇后が、朝鮮を攻め込んだとき胎内に宿していたのが応神天皇と言われている。夫である仲哀天皇は、「新羅は金銀の宝庫である」という神託を信じず崩御してしまうが、その妃である神功皇后によって朝鮮半島の制圧が企てられた。
誉田八幡宮は天皇陵に隣接して、小さな太鼓橋の放生橋で陵と繋がっている。その手前に摂社の「当宗ムナカタ神社」があり、由緒には当宗神社の祭神は、現在素戔嗚命 (すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」の祖神である山陽公を祭っていたようである。当宗忌寸の子孫には、宇多天皇の祖母(仲野親王の正室)が歴史上現れている。とあり、渡来人が祭られている。
古代の河内国安宿(あすかべ)郡に当たるこの地は、百済系渡来人の本拠地でもあった。応神天皇は仁徳天皇と同一とも言われているが、出自がはっきりしない。当時の倭国は、今来の渡来人ともっと前から居る渡来人同士、あるいは倭人と渡来人等との権力闘争が繰り広げられたと思う。応神天皇も福岡宇美で生まれ、近畿に攻め込んできたかもしれない。それが神武東征の逸話になっている可能性もある。
当時、秦氏や、倭漢直(ヤマトノアタイ)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきた。百済から渡来してきた学者の阿直岐(アチキ)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(ワニ)は「千字文」と「論語」を伝えた。職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。
近つ飛鳥も遠つ飛鳥も、人口のほとんどは渡来人であった。百済系や高句麗系、新羅系、中国系など…日本人の故郷飛鳥は当時の外国文化の結晶だったわけだ。

大阪を横切って、羽曳野へ行く道中には、今でも古代の生活を妄想させる地名がいっぱいある。
読み方の難しい、「杭全」クマタ(平野区)は平安時代、付近は杭全荘と呼ばれ、征夷大将軍にも任じられた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の子、広野麻呂の荘園だった。近くの平野区にある杭全神社は坂上氏が創建したのが始まり。坂上氏はもともと、朝鮮半島の百済(くだら)系の渡来人だったといわれ、杭全の由来は百済がなまったという説もある。ちなみに杭全交差点の南側にはJR貨物駅である百済駅もある。また、その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に猪甘津橋が架けられ、時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となった。心斎橋の元は「新羅橋」だった。加美鞍作は鞍作氏はじめ百済系渡来人が栄えた場所。鞍作部とは鞍をはじめとする馬具などの武具を作っていた部族。法隆寺本尊である釈迦三尊像などを作った仏師、鞍作鳥(止利)が出ている。
他にも難波や喜連瓜破、西成・東成や秦氏の居住地寝屋川地区。日本に漢字をもたらしたと言われる王仁博士(ワニ)のゆかりの地枚方など…。
現代でも焼肉で有名な鶴橋のある生野区は人口の20%強が韓国・朝鮮籍の人たちだ。1500年以上経った今でも、盛んに朝鮮半島との交流が続いている地域だ。
2年前に百済の古都、扶余へ行ったが、そこにあった武寧王の陵墓の中の棺材は日本にしか成育しない、あの高野山お供えの高野槙だった。
謎が広がりすぎて、妄想もまとまらなくなってしまった。こんなときは例のひとり言。
「いいかげんに百済ん妄想はやめなさい!」「はい」高句麗とうなずく。

道後温泉でひとり言

2012年04月24日 | Weblog
田子の浦にうち出でてみれば…
誰でもが知っているこの歌は山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)が歌った。
柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。
彼が日本最古と言われる伊予の国の道後温泉に来て歌った長歌は、
「すめろきの、神の命(みこと)の、敷(し)きませる、国のことごと、湯はしも、さはにあれども、島山(しまやま)の、宣(よろ)しき国と、こごしかも、伊予(いよ)の高嶺(たかね)の、射狭庭(いざには)の、岡に立たして、歌思ひ、辞(こと)思はしし、み湯の上(うへ)の、木群(こむら)を見れば、臣(おみ)の木も、生ひ継ぎにけり、鳴く鳥の、声(こゑ)も変らず、遠き代に、神さびゆかむ、幸(いでま)しところ」
神である天皇が治められている国中に温泉はたくさんありますが、その中でも特に島や山がすぐれた国として、けわしい伊予(いよ)の高嶺(たかね)の、射狭庭(いざには)の岡にお立ちになって、歌を思い、言葉を選ばれた、この温泉の木々を見ると、臣(おみ)の木も生い茂っています。鳴く鳥の声も変わらずに、遠い末の世まで、神々しくなってゆくでしょう、

春の陽射しを受けながら「しまなみ海道」で海を眺めながらゆっくりしようと思っていたが、ドライブインも景色の良いパーキングも見当たらなくて、あっと言う間に今治まで来てしまった。時間があるので今治城をナビに入れた。市街地の結構広い道路から、少し古い町並みになったかと思えば、すぐにこじんまりした綺麗な天守閣が見えた。透き通った堀の水は海水を引いているそうで、白っぽい城壁と桜が良く似合う美しい城だ。

早くチェックインして松山市内を散策しようと車を走らせた。松山市内は道路が広く、路面電車が縦横無尽に走っていた。SL風の「坊ちゃん列車」もあるし、踏切で電車を待つ電車!など、他の町では見られない光景があった。ホテルから自転車を借りて、松山城に登った。現存では一番高い標高130m以上の城で、ロープウェイで登った。天守閣からは春いっぱいの360℃の展望が見られた。

道後温泉は城から近く、道後公園は満開の桜で、多くの花見客で賑わっていた。まだ時間が早かったので、道後温泉本館もすぐに入れた。『千と千尋の神隠し』に登場する「油屋」のモデルになったといわれている外観で、情緒ある和風建築がすばらしい。料金は階数別のサービスによって入浴料が違う。210円でタオルを買って、一番安い400円で入浴した。値段とは関係ないと思うが、お湯は匂いもせず、ヌルヌルもなく、普通の銭湯に来ている様で期待はずれだった。加えて、高い料金の上の階からダダッツと降りてきた団体は中国人だった。バブル時の日本人観光客も海外では嫌われただろうな…と大急ぎでパンツを履いた。

 大街道と言う飛行機でも通れる様な広い商店街を歩いた。その隣には飲食街が広がっていた。松山市の人口はどれほど?と思うほどの繁華街が賑わっている。ふらっと入ったすし屋の大将が同い年と分かり、話が弾んで、ついつい焼酎のロックが進んだ。やさしい大将にスナックを紹介してもらい、店までも送ってくれた。

 山部宿禰赤人は聖武天皇時代の宮廷歌人で、天皇賛歌を多く歌った。かつて、舒明天皇がこの地に遊び、また、斉明女帝は百済へ出兵すべく西へ向かう途中、伊予の熟田津に立寄った。赤人は、そうした天皇の歴史的な事実を踏まえてこの「すめろきの…」を作っている。

「ママ、松山の夜は最高だね!次の曲いく?」この宮廷歌人ではなく、最低歌人は夜の更けるのも忘れ歌い続けるのだった。

宇陀でひとり言

2012年01月08日 | Weblog
「東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ 」
柿本人麻呂がこの歌を詠んだ奈良県宇陀市方面へ車を走らせた。快晴だった空も二上山を越えた辺りから、冬らしく寒そうな曇天になった。
万葉集にみられる古代「阿騎野」は宇陀市の中之庄遺跡周辺らしい、ここへ鹿狩りのために軽皇子と共に柿本人麻呂が同行し、詠んだ歌である。
軽皇子は7歳のときに父親の草壁皇子が亡くなり、祖母の持統天皇が必死になって軽皇子に譲位し、15歳で即位して文武天皇となった。しかし、親子とも弱かったのか25歳で崩御。持統天皇は「壬申の乱」で勝利し即位した天武天皇の皇后で、自分の愛息である草壁皇子が継承できるように、ライバルで能力の高い大津皇子を謀反の罪で自殺に追いやった。しかし、その草壁皇子も皇位につかずに若くして亡くなった。持統天皇はどうしても、その子である軽皇子に譲位したかったのである。柿本人麻呂は宮廷歌人として持統天皇時代に花開く、二人が愛人関係っだたように揶揄する説もあるほど寵愛されていた。

 宇陀市の松山地区には歴史的町並みの街道がある。伊勢街道の宿場町で栄えており、「薬の館」など旧藤沢製薬の創始者の出た、細川家の薬問屋などが公開されている。町並みの中で、2階を見ると家の左右端の隣家との境界に壁がある、これが「うだつ」と言うもので、「うだつが上がる」の語源である。隣家との防火壁で、富の象徴らしい。
 宇陀市は結構見所が多い、帰りに「宇太水分神社」(本殿は国宝)と「八咫烏神社」に寄り、近くの「長谷寺」で最終だ。
すっかり時間も経ち、ふり返れば、月かたぶ?…出ていない。うだつも…上がらない男のひとり言。

諏訪の縄文世界でひとり言

2011年11月10日 | Weblog
諏訪大社は、諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮があり、4つの宮から成っている。すべての社殿の四隅に御柱が立っており、御柱は、それ以前のミシャクジ信仰の石柱との関連性があるという。そして、平安時代から上社では諏訪氏が、下社では金刺氏が大祝(おおほうり)を務めた。祭神は両社とも「建御名方神」とその妻である「八坂刀売神」(やさかとめのみこと)と書かれている。主祭神は上社が建御名方で下社が八坂刀売ということになっているが、双方同じ神様をお祀りしているというのに、その祭儀を司る者が別々で、戦国時代には2者間で内戦状態にもなっている。
 
 まだ朝日の眩しい中、秋宮に到着した。境内はきれいに掃き清められ、神主さんや巫女さんが朝拝、祝詞をあげていた。樹齢八百年を超える大きな杉から朝日がこぼれ出て境内を照らす。巫女さんが熊手で掃く音がシャリシャリと、寝ぼけた精神を目覚めさせてくれた。朝の神社は本当に気持ちがいい。正面の神楽殿はあいにく工事中で、大きなテントに覆われていた。早々に秋宮を後にして春宮へ向かった。春宮の参道の途中には下馬橋が残っていて、道路の真ん中に突然橋が現われる。神楽殿は秋宮より小ぶりであるが幣拝殿などは同じような造りで、両社で彫刻の技が競われたそうだ。春宮の境外に流れる砥川対岸には「万治の石仏」がある。ノミを入れられ血を流したとの伝説があるどっしりとした石像で、岡本太郎が絶賛した縄文風の石仏で、確かに印象的で一度見ると忘れない気がする。石仏に見送られながら、「木落しの坂」を見に行くことにした。

 上社に向かう途中、紅葉で有名な諏訪市の阿弥陀寺に寄って見た。参道は松や杉が鬱蒼と生い茂り、急な坂道を登ると絶壁に彫られた徳本上人の5メートル大の御名号などがあり、本堂裏手を登る岩野堂まで行くと、眼下に諏訪湖が見え、結構きつい参道の疲れを癒してくれる。

 いよいよ上社の本宮に着いた。秋宮と春宮はよく似た構えだったが、本宮は迫力が全然違う。境内には御柱より太い神木の杉が何本かあり、その「生」のエネルギーは神秘的でかつ威厳を保っている。境内はかなりの参拝者がいるのだが、何故か誰もいないような静寂を感じた。上社と下社は祀る氏族が違うが、これだけの違いがあるのは、それぞれが遠い過去の遺伝子を守っているからなのか。近くにある前宮に着いてから、その思いが一層強くなった。前宮は、高台の景観が良い水の綺麗な素晴らしい自然環境にある。ここでは最大の神事「御頭祭」が行われ、守矢氏が守ってきた縄文の雰囲気が強いところだ。本宮の方に少し戻った所に、茅野市神長官守矢資料館がある。車で走ると見落としそうな間口だが、独特のデザインされた建物で不思議な雰囲気を出している。資料館ロビーには前宮十間廊で行われてきた神事、御頭祭(おんとうさい)の状況が復元されている。鹿の首70頭余りやウサギの串刺しなどが供えられて、現代人の感覚では異様さを感じるが、まさに古代の神事という「祈り」を感じる。資料館の敷地の奥にはミシャクジ社と言う古代信仰の神を祀った神社があり、そこだけ時間が止まっているような空間を作っていた。

 ミシャクジの見守る諏訪を後にして、楽しみにしていたビーナスに会うため茅野に向かった。ビーナスラインに入ってすぐに、信州そばの有名店でおいしい昼食を済ませた。何度か走ったことのある懐かしい道沿いに、尖石(とがりいし)縄文考古館がある。三井の森方面へ向かい尖石遺跡を横切るこの風景が好きだ。前方遥か八ヶ岳を望み、左右に視界が広がる。青い空とダケカンバの白い幹、緑の草原、切り取ってもって帰りたいと思う。さて、期待にワクワクしながら考古館に入った。正面右手の展示室Bに居た。赤茶っぽく輝く「縄文のビーナス」が微笑んでいる!太い足に大きなお尻、妊娠したお腹、腕は横に広げているが無い、頭には帽子のような物を被っています。思ったより大きく、光沢がありとても4-5000年前の物とは思えない。非人間的な体格になっているが、全体的には何故か人間らしい。頭に被った頭巾の文様を見ていると、アイヌの鉢巻(マタンブシ)を思い浮かべるが、そう考えるとこの土偶がアイヌの人に見えてきた。ビーナスの横には「仮面の女神」が立っている。太い足を大きく広げ、両腕も広げて、逆三角形の仮面を被り、宇宙人の様な姿。祈りを捧げて舞っている様な躍動感がある。部屋に入った瞬間から4000年前のの真ん中に集い、祈りを捧げる祭りの妄想が始まっていた。

諏訪でひとり言

2011年10月22日 | Weblog
建御名方神(たけみなかたのみこと)は「事代主神はああ言ったが、それならば力競べをしようではないか」と言って建御雷神(たけみかづちのみこと)の手を掴んだ。すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出した。
 建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。建御名方神はもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。
 古事記が伝えるところでは、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、建御雷神(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の長男である建御名方命が、国譲りに反対し、建御雷神と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れ、その地で王国を築いたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている。

 地元では紅葉はまだ早いが、建御名方神が逃げた諏訪まで行けば、10月中旬でも紅葉が見れるだろうと思い、神話と縄文の世界に紅葉をプラスした贅沢なプランで高速中央道を飛ばした。
 地図で諏訪湖を検索し、倍率を下げていけば諏訪湖の北に糸魚川が現れる。大国主命は出雲神であるが、その長男が逃げ込むのに、アルプス山脈に囲まれた内陸の諏訪だったとは不思議だ。建御名方神(たけみなかたのかみ)は、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が残る。妻は八坂刀売神とされている。お母さんの沼河比売(ぬなかわひめ)は『万葉集』に、「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」の歌に詠まれる。「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる。
 だんだん見えてきた!神宝である勾玉のNo1は糸魚川の姫川産のヒスイであり、この地と諏訪は姫川を遡れば安曇野から諏訪湖に届く。諏訪では古来より洩矢神(もりやしん)が統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。洩矢神はミシャグジと同一視されている。そのミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代(よりしろ)とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の神で蛇の姿をしているという性質を持つようになったと言われている。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事等からこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。
 ほらほら、縄文の臭いがプンプンです。西日本を中心に住んでいた弥生人が、平和だった東日本に攻めてきた。武力の大きな違いに、出雲の国譲り同様、この地の住民も勝負にはならなかったと思う。諏訪の御柱もミシャグジの依り代と言われている。前宮のすぐ近くに、神長官守矢史料館がある。諏訪上社の神長官という役職を勤めてきた守矢家は、建御名方神に負けた洩矢神の子孫で、その神事の御頭祭(おんとうさい)が前宮で行われ、鹿の首70頭余りを供える神事で、その様子が史料館に復元されている。他の神事とはぜんぜん違うこの迫力は、まさに縄文だ!さらに、諏訪大社のご神体は守屋山で神殿がない。これは奈良の大神神社と同じ古代信仰の証だ。
 遥か縄文に思いを巡らせているうちに、夜明け前に出発して4時間が過ぎ、すっかり辺りがまぶしい日差しに照らされていた。楽しみにしていた、今日会える「縄文のビーナス」が、すばらしい秋晴れで迎えてくれたようだ。
 初日は、諏訪大社下社→上社→唐沢阿弥陀寺→尖石遺跡→尖石縄文考古館→白樺湖→車山高原→横谷渓谷乙女滝→宿
 2日目は、ピラタス蓼科ロープウェイ→横岳頂上→駒ヶ根光前寺→飯田市光明寺→元善光寺→天竜峡→自宅