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☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

霊と肉のバウンダリー ローマ 6:1-11

2007年06月03日 | Celebration
 神様は日々、私達に新しい命を注いでくださっている。私達も日々のデボーションや祈りを通して神様と語り合う。その時々が日々の礼拝だ。中でも、主が復活された日曜日に、霊の家族である兄弟姉妹達と心を合わせて神様に礼拝を捧げることが出来るこの日、私達は生ける神様の臨在に触れられて圧倒される。教会はこの世にあって唯一御国に繋がるところ。そこで生きた神様の御言葉を慕い求めて、一心に耳を傾ける。

 神様が語ってくださる御言葉は、知性で理解出来るものではない。もしそうであれば、世の天才達は全員キリスト者となっているはずだ。また、御言葉は感情で受け取るものでもない。感情と信仰は決してイコールではない。御言葉は心と身体を越えて、人間の最も奥深いところで受け取るもの。霊で聞き、霊で理解し、そして霊に刻み付けるものなのだ。

 祈りの中で、礼拝の中で、聖書の御言葉(ロゴス)が、神様が私達に直接語ってくださる言葉(レーマ)となる時がある。日々目で追い、声にして、頭に蓄える「ロゴス」が、私達の内に入って霊に触れて「レーマ」となり、それが私達を霊的に生かす命として積み重ねられていく。この「レーマ」をどれだけ私達の内に内包されているか。キリスト者の人生は、実にここに懸かっている。

わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
 銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら
 あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。
 (箴言2:1)

 では、どうしたら「レーマ」が得られるか? 求めるしかない。ただひたすら求める。飢え渇いて求める。そして何よりも、福音を必要としている人々に語るために求める。キリスト者であるということは、自己実現のための手段や、自分の知性を飾るアクセサリーなどではない。御言葉は、闇を裂いて私達を光の中へと導き、永遠の命へと繋げるための唯一の方法である。だから御言葉は、決して耳障りの良いものばかりでない。どんな両刃の剣よりも鋭く、私達の目の前で偽りと真理を明確に分けられるのである。

 どんな人にでも、必ず選択しなければならない決断がある。それをしないでタラタラと歩いていたら、その先は永遠の滅びとなる。何かの間違いで「滅び」の代わりに「永遠の命」をいただきました、というようなウマい話ではないのだ。私達自身が一番よく知っているはずの罪の問題は、実に深刻である。だからこそ、十字架を見上げる。十字架に頼る。この罪から解放してくれるのは、十字架以外には何もない。

 その事実を認め、悔い改め、赦しを乞い、主イエスと共に歩む道を自ら選び取る決断をしなければならない。その決断によって初めて聖書は、実に「霊の領域」について書かれ、私達の真に生かすものであることを知ることが出来る。教会が信仰生活における霊と肉のバウンダリーであるとするなら、聖書は、神様が語られることの霊と肉のバウンダリー。御言葉を三人称として受け取るか、私個人の問題としての一人称として聞き従うか、これを分ける境界線がここにある。

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