GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「善き生」

2013年02月19日 | Weblog

『善き生は、人並み優れた業績を残す生ではない。芸術作品の価値もその創造の過程にこそある。我々はむしろ「善く生きる」ことを目指すべきである。尊厳なき生は、一瞬にして消える。しかし、他者を尊敬し、自らも善く生きるならば、「我々の生を宇宙の膨大な砂粒の中の小さなダイヤモンドとすることができる』
 先日亡くなった現代の法哲学者・政治哲学者で英米圏でリベラルな思想を主導したロナルド・ドウォーキン氏の言葉を東京大学教授長谷部恭男氏が紹介していた。最後に東欧から移民の子として母子家庭で育った彼は輝いている、と長谷部教授は締めくくっていた。

 こんな記事を読むと単純な私はすぐに自分の<生の過程>と比べてしまう。
 1977年、外食産業に身を投じ、既存店が50店舗の中、年間50店舗の新規オープンという異常とも云える大展開期に店長となった。その後、年間で3店舗の店をオープンさせた。保健所に開業届け提出し、銀行でパート・アルバイトスタッフの給与振り込み口座を作らせることを約束して、その銀行で採用面接ができるよう支店長と交渉した。タバコの販売のため自販機での出張販売許可申請ができるよう最寄りの販売店に交渉にもいった。25歳の夏だった。18歳から60歳くらいまでの人たちと面接し採用を決めた。栃木県1号店のオープン面接では、朝9時に銀行に行き、研修室を借りて一人で準備していたら何と4、50名の応募者が集まってきた。ただもくもくと面接をこなし、終了時間の17時には応募書類が80枚を超えていた。群馬県1号店では店長見習いの2名と共に面接会場で待ったが、初日は15名にも満たなかった苦い思い出も残っている。

 スタッフ一人一人に給与明細書を手渡すとき、「日本外食産業の最先端にいる」と本当に誇りを感じていた。サラダのドレッシングの話をすれば良く分かる。当時ほとんどの家庭の食卓にはマヨネーズしかなかった。当時のDレストランではフレンチやサウザンアイランドなど4種類のドレッシングがあり、それを紹介してチョイスしていただいた。4種類すべてを試食したいお客さまには必ず、すべて持って行くようにとマニアルにはない独自の指導を徹底した。「タバコの自販機どこにあるの?」と尋ねられても銘柄を聞き、忙しくても買いに行くようにとこれもまた独自の指導をした。これは他店にない独自の戦略という位置づけだった。新規オープンだったのでスタッフは何も考えず、私の指導に従ってくれた。数年後数種類のドレッシングがスーパーに棚に並びだしたとき、「俺は日本の食卓を少しは豊かにしたかもしれない」とおバカな感動を覚えた。

     

 また、当時の北関東には家のローンや教育費を稼ぎたい主婦たちのアルバイト先が多くはなかった。外食産業はその最たる職場だ。社員はすぐに異動するが、主婦たちには異動がない。だからこそ主婦たちを心から大切にした。この指導方針を貫いた。そして、地区マネジャーに昇格する頃(1985年)、主婦の契約社員制度が生まれた。7:00-18:00の時間帯の中で、時間帯責任者として就業してもらう新しい制度だ。若い副店長たちよりも苦情も少なく仕事も素早く正確だった。しかも、他のスタッフの信頼度が高かった。どこまで仕事を委譲させるか、私はレポートを本社に送った。阪神に来てからも契約社員制度を作り、一人の主婦を契約社員にした。私の考えに賛同したN社長は期間中の総労働時間に100円を乗じて賞与額と決めてくれた。N社長に深く感謝していたのは云うまでもない。
 常に現場からの発想だった。そして人との信頼関係が基となっていた。社員の人件費を削減でき、しかも現場のスタッフや登用した主婦にはとても喜ばれた。一石二鳥と云うと軽々しく聞こえるが、常に考慮に入れて仕事を組み立てた。

 ロナルド・ドウォーキン氏の云う「善き生」にはほど遠いかもしれないが、私なりの「善き生」を貫いてきたと思う。しかし、それが貫けなくなって退職を決意した。現在、細々と就活を開始したが、たとえどんな仕事に就こうが「善き生」は続けたいと思っている。人との信頼関係を構築することが私ができる唯一の「善き生」だからだ。