百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

早春賦の思い出

2011-04-06 10:54:43 | 随想

           4月 6日  (水) 晴 平成17年1月1日より 2,287日目
                歩いた歩数           その距離
        本日     16,215歩       11,351
m
           総計   32
,355,667歩   22,648,967m
  
イラン・トルコ、ギリシャを経てイタリアシシリー島のカタニアに向かう。後353,417m
 

             
                        雪捨て場の残雪

   昨夜、歌謡コンサートがあった。千昌夫の北国の春水前寺清子の365歩のマーチなどを聞いたが、東日本大震災の被災者への激励に力が入リ過ぎて本人本来の歌の味が聞けなかった感じだった。ただ由紀さおり・安田祥子さんの早春賦には心打たれた。

 戦後、復興の槌音が聞かれ始めた頃、今大震災で行われている「電力規制」があった。私は当時24歳。抜擢されて小さな紡績工場の責任者を任されていた。今振り返って思い出してもあの青春時代の血が騒ぐ。

 敗戦のショックから立ち上がって日本は再建の意欲に燃えてはいたが、無い無い盡しの世界、肝心の電力がない。朝8時から夕方5時までは電気が来ない。5時から翌朝までは30分置きに交代で配電される。それを利用して工場の紡績機を動かすのだ。30分働いては30分休む。

 女工さん達は冬、夕食を済まして、提灯をつけて雪道を出勤する。7時から7時半まで稼働、そして30分休み。再び8時から30分仕事をしてはまた休む。それを繰り返して朝方家に帰る。それを毎日繰り返して綿糸を作って居た。

 当時は闇屋さんが活躍していた時代だ。一晩働いて※2円か2円50銭、闇屋さんは一回汽車に乗って来れば300円も稼いだ時代。歯を食いしばって頑張った。それを可能にしたのが30分の休みだった。30分の休み時間には、インク瓶に灯心をさして作ったランプの明かりで、お茶を飲み、世間話に花を咲かしていたが、若い事務員の小林君が、疎開の歌の先生を知っていると言った。私は早速お願いに行った

 先生は若い美しい女性で、私たちの希望を叶えて歌の指導に来てくれた。それが【早春賦】だった。しかしそれも永くは続かなかった。先生は再び東京へ戻って行かれたからだ。先生が居なくなっても,みんなで小さな明かりの中でよく歌ったものだ。

 その仲間の女工さんたちもチリチリバラバラになってしまった。あれから60年、皆年をとった。近くで達者で居る者は二人きりになってしまった。思い出会をやると声を掛け合うが、そのチャンスも無くなってしまった。でもあの当時歌った早春賦は未だに忘れない。”春は名のみの風の寒さや・・・”雪の中、提灯点けての出勤だった。86歳の今、大震災の計画停電の話を聞いて、懐かしい青春時代の頑張りを思い出した。

 ※就業規則で日給2円などと定められていたが、インフレで物価が急激に上がるため、今月の日当は日給の〇.〇倍などとして支給されていた。