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百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

新潟地震の思い出

2011-11-15 17:43:34 | 自分史

11月15日(月) 平成17年1月1日より 2,519日目
              歩いた歩数          その距離
本日      1 5,655歩        10,959m
総計 35,117,214歩  24,582,050
墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後96,364m

自分史の骨組作りのやっと昭和39年に辿り着いた。青壮年期は孤軍奮闘から何とか少数精鋭を引き連れての陣頭指揮で、殆ど記録に残って居るものは無く、記憶するものは断片で連携がなく、此処まで辿り着くのは大変だった。幸い取引した業界の皆さんとの名刺が出て来たの出荷した青果物の売り立て案内などが少々見つかったので助かった。

 

昭和39年の新潟地震は何故かはっきり記憶している。6月16日、私はキュウリの仕入れに車で山梨へ向かった。上田の小森氏の家で昼食を済まして昼寝をしていた時、グラッと来た。奥さんは悲鳴を上げて外へ飛び出したが、男の手前、グラグラする家の中に踏みとどまった。地震が収まって奥さんから「わたやさんは凄い!」と褒められたが、やせ我慢で冷汗かいていた。

 

地震の被害を知ったのは甲西町の南湖青果市場に着いてからだ。テレビを見て驚いた。新潟の空は真っ暗で巨大な石油タンクが燃えている。昭和大橋が落ちている。道路に大きな割れ目があり、ビルが傾いている。

わが家に電話を掛けると、わが家の被害は大したことは無く全員無事とのことで安心したが、前の家の柱と壁が離れたり着いたりしたのを見て怖かった、と。

 

翌朝、新聞を見ると、震源地は新潟県沖の海底40キロ、マグニチュード7・5の巨大地震で被害は新潟・山形・秋田を中心に死者26名、負傷者447人、住宅の全壊1960棟、半壊6640棟、全焼290棟、のほか道路・橋梁・堤防・鉄道なども被害を受けた、と。

 

日頃お世話になっている園芸組合長の前沢さんから電話が入り、「新大に居る倅に連絡がとれないので心配だ。何とかならぬか」という。「二人で行こう」と言うことになって車の手配。一般車は進入不可と判り、125ccのバイクに二人乗りして出かけた。

無我夢中で出発したが、思いのほか遠く、お尻が痛くなるやら、シャツで喉仏が爛れるやらすっかり参った。三条まで行くと、停車させられ、誰何。「倅の消息を知りたい」と言うと、「新潟市内は断水している。水を積んで行きなさい」と一升瓶2本を託された。市内に入ると、割れた道路に応急的に砂で埋め戻されては居たが、改めて災害の恐ろしさを思い知らされた。

 

倅の下宿先に辿り着くと、「息子さんはさっき信州に帰りました。今晩は息子さんの部屋に泊まって下さい。私の家はお蔭様で被害は少なくて済みました。それにしても信州から水まで持って来てくれて、何と言って感謝したらいいのやら。」と。行き違いは残念だったが無事が確認できたことでホッとした。

 

翌朝、持って行った水でごはんを炊いて貰い、市内の被害見物と洒落込んで帰途についたが、お尻は赤く腫上り何時までも痛くて、忘れられない思い出だ。

 

 

 

 

 

 

kou


11月末広会

2011-11-13 20:27:27 | 自分史

11月13日(日) 平成17年1月1日より 2,517日目
              歩いた歩数          その距離
本日      1 5,802歩        11,061m
総計 35,085,928歩  24,560,150
墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後118,264m
 

 月一回の酒呑みの会合の日。集まったのは5人だけ。酔いが回って来たころ。会長さんから「実はTさんから”会の名簿から私の名前を消してくれ”と言ってきたので判りましたと返事した」と報告があった。

 四方山話の進んだところで会長は座り直して発言した。【Tさんが抜けたこの機会に、改めてこの会の存続について皆さんの忌憚のないお考えをお伺いしたい。私の考えは出来たらこのまま続けて行きたいと思って居ります」と提案した。

 私は間髪を入れず大声で「大賛成だ!」と叫んだ。解散ムードを制圧するため、更に「年をとると、毎年のように年賀の挨拶は今年限りに・・・とか、同年会は今年で最後に・・・とか言う挨拶を聞くが、私は年をとったからこそ、残った者同士の付き合いを深くすることが大事だと日頃思ってる。彼もとうとう亡くなったか。いい奴だったなぁ!と語り合えるのがいいんじやないか。最後の二人になるまでやろう」と付け加えた。

 何か提案があると必ず反対する癖の者から「俺は足も悪いし、冬の間は休んでまた春になったらやることにしてはどうか」と条件を付けて来たが「都合で休むのは仕方ない。無理することは無い。出られるようになったらでてきてもらえばいい。」とみんなの発言で、休会論は潰されてこのまま継続と決定した。

 この後、新会員の募集の話が出た。候補者の名前が2.3挙がったが帯に短し襷に長しで絞り切れなかった。天邪鬼から「新しく入った者はどうして辞めて行くんだろう?」と話が出た。

 私は「皆さんは今迄通り酒呑んで話をやってるが、新しく入った者を話の中に入れようとする姿勢が見えない。もっと取り持ってやらなきゃ駄目だ。仲間になれずにやめていくんだ」と話すと、「オラ、ご機嫌とってまでして、居てもらわんでもいい」と天邪鬼が言った。外のものは胸に応えたと見えてだまり込んだまま。

 話は変わって、天邪鬼から「区じゃお祭りの金は一切ださないと決めた。お祭りは有志でやって呉と言うが誰かやる者があるかい?」と来た。また元の賑わいに戻って、ワイワイ!ガヤガヤ!

 この録音 1」時間27分24秒

 


自分史の取組は

2011-11-10 17:34:38 | 自分史

  11月10日(木) 平成17年1月1日より 2,514日目
              歩いた歩数          その距離
本日      1 4,329歩        10,030m
総計 35,038,502歩  24,526,951
 墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後151,463m

 自分史に取り組み始めて半月近く、骨組みを組んできたが、やっと昭和30年になった。記憶を辿りながらやって来たが、食うに困って始めた八百屋稼業も行商から三輪車買って上越方面へのリンゴの振り売り,魚沼地方への卸しを経て、荷造場を造ってリンゴの旅出し、損得の繰り返しから市場経営に踏み切った15年程は、無我夢中で働いた。

 働いたというより博打稼業が面白くて、東奔西走、関東平野の青果市場から山梨県・新潟県・富山県石川県と飛び歩き、昼も夜も無く車を走らせた。滅茶苦茶な人生だったが、今となっては取引した名刺が残るばかりで、何歳の時に何をしたかの記録が無いのには参った。

 八百屋の手引きをしてくれた宮崎さんも今年亡くなってしまったし、沢山有った飯山には3軒きりになってしまい、それも代が代わって話は通じない。そこで旧宅を貸すことになったので、整理のイイチャンスを利用して探して見た。

 しかし、出て来るものは、市場を立ち挙げてからの資料ばかりで、人生で最も騒いだ25年~40年の間の面白い場面の証拠になる物は見つからない。出て来たのは今のところ、名刺帳と「私のデータ」の2冊だけ。

 名刺帳はどうやら年代順に貼られているようだし、「私のデータ」の中には、【自分史】の項があった。このほか写真はあちこちからで出て来た。日付は無いがこれを参考に骨組みを作って行こうと思う。

自分史の冒頭にこんなことが書いてあった。

1992年1月2日、いよいよ自分史に取り組むことにした。自分の来し方を振り返って見るとき、小学校へ入学した時に満州事変が始まり、高等小学校に変わった時には支那事変が勃発し、終戦の年には成人となり、終戦によって民主国家として方向転換した時は思ってもみなかった八百屋稼業に迷い込み、東京オリンピックの時には青果市場を経営し、昭和の繁栄と機を一にするように合併を繰り返しながらその規模を拡大して来た。そして昭和天皇崩御の時には、自分も人生の第一幕を引く決意をするときとなった。

 今から20年前にも【自分史】を書こうなんて思ったこともあったんだなぁと振り返った。


メダカの引っ越し

2011-11-09 17:10:03 | 自分史

  11月9日(水)のち 平成17年1月1日より 2,513日目
              歩いた歩数          その距離
本日      1 6,387歩        11,471m
総計 35,024,173歩  24,516,921
 墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後161,493m

 改装なった飯山シャンツェに中国のジャンプ隊が来て13日から一週間ほど滞在して練習に励むとの話を聞いたので、何時も対応している教育委員会に問い合わせると、「中国から来るジャンプ隊は14日から20日まで来ますが、今回は県が対応するので詳しいことは判りません。合宿は白馬で、白馬から飯山シャンツェに通うようです。」と。

 「今回のジャンプ隊には日本語に判る人がいないので、何とか面倒見て欲しい、と聞いておりますが…」と伝えると、教育長さんは直ぐ県に連絡して返事を呉れた。「通訳は県で手配したしたとのこと、困った時は連絡するので、その時はお願いします。」とのことだった。

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 午後はメダカの引っ越し。何時もなら大半は庭の池で冬を越して来たのだが、今年は金魚の観賞と洒落込んだので、金魚の餌になってはと心配で、深夜電力で湯を沸かしてる物置に、今飼ってる風呂に入れて冬越しさせることにした。

 その為に、メダカは風呂槽から水槽に移し替えて置いたのだが、パパの応援を得て風呂槽を物置に入れることにした。物置の入り口まで運んだが、ドアより大きくて入らない。そこで窓から入れることにして、梯子を掛けてやっと持ち上げたが、ガラス戸一枚より大きくてこれもダメで二枚外すことになったが、防火用の戸で、網入りで一人では重くて外せない。しかも梯子に乗っての作業だ。力が入らない。パパの奮闘でヤット風呂槽を物置に入れることが出来た。

 さて、外したガラス戸を元に戻す仕事になってすっかり参った。パパは外で梯子、私は中で風呂槽の上に上がっての作業。重たいガラス戸を溝に入れる作業は力ばかりか神経も要る。悪戦苦闘、と言っても私の応援など殆ど何の役にも立たない。何回か挑戦遂に成功した。戸に鍵が掛った時はホットしたがすっかり疲れた。86歳の私、この時ばかりはトシを感じた。パパに感謝。謝々!

 

 


アルプス山脈ブレンナー峠越え

2011-11-08 15:03:57 | 自分史

 11月8日(火) 平成17年1月1日より 2,512日目

           

アルプスを越える峠の中で最も標高が低く(1,374M)、古くから南北ヨーロッパの往来に使われたブレンナー峠はインスブルックから南に伸びる谷、ヴィップタールに沿ってあります
 古代ローマ軍団はここを通って北へ向かい、またゲーテやモーツァルトはここを通って南のイタリヤへ旅したのでした。
今はイタリヤとオーストリヤの国境だが、EUとなってからは峠には国境検問所も空家で、自由に通行が出来るようになっている。

                ブレンナー峠を越える

                            歩いた歩数       その距離
          本日      1 6,594歩      11,616m
          総計 35,007,786歩  24,505,450
 墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後172,964m

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  ここ2~3日、iphone4sにwifiの表示が出なくなってしまい、youtubeで動画が途切れ途切れになって見難いので、表示方法の指示を仰ぐと、wifiの裏にあるパスワードを入力するように指示された。ところがその字は小さくてしかも濃すぎてどうしても読み切れない。パパの応援を頼んだが、パパが読んだローマ字+数字を入れたがどうしても繋がらない。レンズを探しても見つからず、途方に暮れてしまった。

 その時、閃いた。南京の中山陵を訪れた時、記念に買った「微刻〇刻芸術」の中に凸レンズが入っているのを思い出した。これで見ると、パパが読んだ10文字の中、終わりの3文字が滲んでいて865と読んだがa06かaosかaesのようにも読めるので、入れ替え引き換え打ちこんでいる裡にwifiのマークが出て来た。

 昨日は校長先生が中国児童の作品展を引き受けて呉れたし、今日はiphone4Sにwifiが入ったので、すっかり気分が良くなった。午後はメダカの引っ越しを始めた。