11月15日(月)後
平成17年1月1日より 2,519日目
歩いた歩数 その距離
本日 1 5,655歩 10,959m
総計 35,117,214歩 24,582,050m
墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後96,364m
自分史の骨組作りのやっと昭和39年に辿り着いた。青壮年期は孤軍奮闘から何とか少数精鋭を引き連れての陣頭指揮で、殆ど記録に残って居るものは無く、記憶するものは断片で連携がなく、此処まで辿り着くのは大変だった。幸い取引した業界の皆さんとの名刺が出て来たの出荷した青果物の売り立て案内などが少々見つかったので助かった。
昭和39年の新潟地震は何故かはっきり記憶している。6月16日、私はキュウリの仕入れに車で山梨へ向かった。上田の小森氏の家で昼食を済まして昼寝をしていた時、グラッと来た。奥さんは悲鳴を上げて外へ飛び出したが、男の手前、グラグラする家の中に踏みとどまった。地震が収まって奥さんから「わたやさんは凄い!」と褒められたが、やせ我慢で冷汗かいていた。
地震の被害を知ったのは甲西町の南湖青果市場に着いてからだ。テレビを見て驚いた。新潟の空は真っ暗で巨大な石油タンクが燃えている。昭和大橋が落ちている。道路に大きな割れ目があり、ビルが傾いている。
わが家に電話を掛けると、わが家の被害は大したことは無く全員無事とのことで安心したが、前の家の柱と壁が離れたり着いたりしたのを見て怖かった、と。
翌朝、新聞を見ると、震源地は新潟県沖の海底40キロ、マグニチュード7・5の巨大地震で被害は新潟・山形・秋田を中心に死者26名、負傷者447人、住宅の全壊1960棟、半壊6640棟、全焼290棟、のほか道路・橋梁・堤防・鉄道なども被害を受けた、と。
日頃お世話になっている園芸組合長の前沢さんから電話が入り、「新大に居る倅に連絡がとれないので心配だ。何とかならぬか」という。「二人で行こう」と言うことになって車の手配。一般車は進入不可と判り、125ccのバイクに二人乗りして出かけた。
無我夢中で出発したが、思いのほか遠く、お尻が痛くなるやら、シャツで喉仏が爛れるやらすっかり参った。三条まで行くと、停車させられ、誰何。「倅の消息を知りたい」と言うと、「新潟市内は断水している。水を積んで行きなさい」と一升瓶2本を託された。市内に入ると、割れた道路に応急的に砂で埋め戻されては居たが、改めて災害の恐ろしさを思い知らされた。
倅の下宿先に辿り着くと、「息子さんはさっき信州に帰りました。今晩は息子さんの部屋に泊まって下さい。私の家はお蔭様で被害は少なくて済みました。それにしても信州から水まで持って来てくれて、何と言って感謝したらいいのやら。」と。行き違いは残念だったが無事が確認できたことでホッとした。
翌朝、持って行った水でごはんを炊いて貰い、市内の被害見物と洒落込んで帰途についたが、お尻は赤く腫上り何時までも痛くて、忘れられない思い出だ。
kou