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百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

2600年記念の富士登山

2011-11-04 17:47:30 | 自分史

  11月4日(金)晴れ 平成17年1月1日より 2,508日目
          歩いた歩数          その距離
本日      1 4,809歩        10,366m
総計 34,945,525歩  24,461,868

地中海からイタリヤ半島に上陸ローマ・フィレンツェからボローニャ経て墺・伊国境ブレンナー峠向かう。後 33,682m

 皇紀二千六百年記念式典が催され、日独伊三国同盟が結ばれて、「進め一億火の玉だ!」なんて言って張り切っていた昭和15年、私は海軍軍令部に勤務していた台君と小西六で働いていた岡田君の3人で富士登山に挑んだ。芝商2年生、15歳の時である。

 その日、勤務先から新宿駅に直行、夕方の中央線で大月へ。富士吉田の浅間神社で登頂祈願の後、トラックに便乗して馬返しまで(バスではない)。ここから登頂開始。

 山登りに懐中電燈が要ることなど考えても見なかったが、山道に街頭が有る筈もなく、仕方なしに灯りをつけた人達に交じって登って行った。2合目を過ぎた辺りで大勢の人達が続いて来た。下山の人達かと思いながら登って行くと行き止まりだった。みんな疲れて居て、黙々として引き返した。誰も「行止まりだ。道を間違えた。戻ろう!」と声を出す者さえ居なかった。

 5合目辺りから雨になった。私は油紙を被って登ることになった。靴は登山靴など気の利いたものはなく、ズックだ。雨は次第に激しさを増し、雷さえ鳴り出した。身体は濡れる。足は濡れて滑る、寒さも身に沁みる。それでも富士山頂のご来光を夢見て黙々と登って行った。

 7合目で消防の法被を着た若者に「登山禁止の知らせが出た。これ以上登るのは危険だから岩室に入れ」と指示された。地獄で仏に逢った気分で救われたと思った。岩室の中はいっぱいでごった返して居た。

 それでも後から後から避難客が入って来て、終いには立膝の上にリックを載せ、その上に顎を載せてうずくまっている有様となってしまった。うつらうつらしていると、肩を叩かれた。「済みませんが泊まり賃を…」と言って手を差し出した。幾らだったか忘れたが、この時ばかりは【ガメツイなぁ】と思った。

 夜が明けると、騒々しくなってごった返した中、仲間を呼び合いながら出て行った。雨は止んでいた。しかしガスで何も見えない。その中にみんな消えて行った。私達3人は頂上の【久須志神社】で登頂成功の印に金型で判を打ちこんで貰った。途中の岩室では焼印だったが、此処は金の印をハンマーで叩いて印をつけていた。寒暖計は摂氏4度だった。ご来光どころではなく、夢破れて寒さに震えながら下山した。

 下山は須走りを一気に駆け降りた。5合目は天地の境、やっと晴れ上がって青々とした木々に出会いた。御殿場口に着いたときには濡れていた衣類は乾いていた。ズックには参った。須走りでは砂が入って何度も脱いだり履いたりした。第一回の富士登山は惨めだったが、「登山の装備は伊達じゃない。」ことを知ったのは大きな収穫だった。


吊るし柿

2011-11-02 17:26:24 | 自分史

  11月2日(水)晴れ 平成17年1月1日より 2,506日目
          歩いた歩数          その距離
本日      1 5,333歩        10,733m
総計 34,914,823歩  24,440,376

地中海からイタリヤ半島に上陸ローマ・フィレンツェからボローニャ経て墺・伊国境ブレ          ンナー峠向かう。後 55,183m

                  

 昨日の夕方、車庫に車を入れて出ようと扉を開けると何かに当たる。見れば柿である。今年は柿の当たり年で、どこの柿を鈴生りだ。パパは「沢山生って枝が折れている」と言っていたのでもいでくれたのだ。車庫入れの邪魔にもなるので柿を剥いて吊るし柿にすることにした。

 朝飯に柿剥きの話を出すと、妻は日赤の予約でダメ、パパは犬の散歩、ママは老人介護センターの出勤日。結局私一人で剥くことになってしまった。

 柿を剥き始めて判ったのだが、吊るし柿にするには枝毎切って柿の頭をTの字にしておかなければ紐で吊るせないのだが、パパはリンゴをもぐように、ただむしり取ってしまったのだ。これでは例年のようには吊るせないので、ホームセンターに行き、「柿を吊るすようになっている紐が有ると聞いているが、お宅では扱って居るか」と尋ねると案内してくれた。「柿吊るし短冊」と言う名前で沢山並んで居た。一組が100個が柿を吊るせるような仕掛けになっている。

 吊るし柿に出来るのは、新潟から買ってきた【八珍】だけなのでどの位か判らぬ。そこで取敢えず一組買って来て、吊るしてみてから追加すれば良いと思った。

 夕方まで掛って剥いた柿を吊るして行くと、大量に余ってしまった。そこで慌ててホームセンターへ買いに行くと、今朝有った棚はカッラッポになっているではないか。どこかへ移動したのではと思い、店員に聞くと、沢山有ったのですが、今日は全部売れてしまいましたと言う。明日来るかと言うと、もう仕入れないような口振り。私の困った様子に、「注文して下されば取り寄せますが」と。

 そこで、注文の手続きをして帰って来て、妻に話すと吊るし短冊二組の値段は吊るし柿を買う値段の何倍にもなると不服顔。これには参った。「唐傘屋の小僧、骨折って叱られる!」類になってしまった。


自分史(3)昭和11年~14年)

2011-10-31 20:28:09 | 自分史

  10月31日(月)雨 平成17年1月1日より 2,504日目
          歩いた歩数          その距離
本日     1 0,779 歩         7,545 m
総計 34,883,570歩  24,418,499m
地中海からイタリヤ半島に上陸ローマ・フィレンツェからボローニャ経て墺・伊国境ブレンナー峠向かう。後 77,060m

 今日は一日雨だった。今日も一日【自分史】に明け暮れた。昭和11年、私は5年生で、わが家は火の車。父は母に「浅草の観音様は節分の豆まきにお金を撒く」と話したから、さぁ大変、学校を休んで一家を挙げて浅草の観音さんへお金を拾いに行くことになってしまった。朝、どんよりした曇り空、まだ寒いのに、母は私と妹と安ちゃんを連れて浅草に向かって歩いた。神保町・御茶ノ水・神田明神・御徒町と登ったり下ったりの道を「どの位のお金が拾えるだろうか?いっぱい拾えればいいね。」などと話しながら、もう金持ちになったような気分で歩いて行ったが、上野辺りから疲れて来た。学校を休んで来たことも頭に引っかかって来た。観音様に着いたときにはすっかり疲れた。

 愈々豆まきが始まると、大人がお堂に入り込んできて、【子供は危ないから表に出ろ!出ろ!」と言われてみんな出されてしまった。私はお金を拾って帰らなければならないと最後まで頑張って中に居た。豆が撒かれると撒いた方に人並が揺れた。私は小さいので何も見えない。右に左に揺れているだけだ。たまに豆が降って来るが、手を挙げる隙間もない。揺れている裡に足を踏まれて左足の靴が脱げてしまった。取ろうにも屈むことも出来ない。もうお金を拾うどころではない。靴、靴が心配で揺れている裡に弾きだされて気がついたときにはお堂から出ていた。

 外は雪がちらついて居た。母は私を見てホッとした様だ。私はワッと泣き出して、靴を取られたことを訴えた。何も拾わらずに片足裸足で電車に乗って家に帰った。大金持ちになって帰る筈の夢が破れて、靴を無くし、挙句の果て、お金を使って帰る羽目になって、ズル休みの撥が当たったと反省した。その夜、両親はケンカした。

その夜は大雪となり、歌舞伎座に芝居見物の人達が電車も動かなくなって皆泊まったという話だ。そして2月26日には近衛の兵隊が国家の重鎮を襲撃したクーデターが起きた。こんな話をブログに書いて居たら、先に進めないから割愛する。

 兎に角、わが家も火の車で、てんやわんやだったが、日本も青年将校が立ち上がって、政治家や財閥を排除して天皇親政の国づくりをと画策するし、世界は日独伊が手を結んで新秩序確立を叫んで紛争を巻き起こす有様。

 そんな中、飯山から金八の魚屋の親父が神がかりになって、神様の普及にやって来る。帰ったと思ったら長男が住み込んで来る。3人親子水入らずの生活の中に、浅草からもやって来るわ、飛び入りが入るやらで8畳間に6人に大所帯。押入れの布団を出して部屋いっぱいに敷き、今度は押入れに布団を敷いて寝る有様。

 西神田小学校は田舎と違って、明治神宮外苑の競技場(今の国立競技場)で秋季運動会を毎年やっている、保護者会があって貧乏人の私には剣道の道具一式を買って呉れるなどの運営までやっている。そんなことで、殆どの児童が中等学校進学を目指して猛学習。進学しない子供など先生も相手にしない。【屋上で遊んで居ろ!】という。私も屋上だった。

 昭和12年。神田には一ツ橋高等小学校(今は一ツ橋中学)が一校だけで、一年男子が7学級という盛況。進学漏れの生徒も居て、後に早稲田大学の総長になった清水君も同年だ。ここでは貧富の差も感じることなく、みっちり楽しく過ごすことが出来て楽しい思い出も多い。支那事変が始まり、応召した高久先生が杭州湾上陸作戦で戦死し、高久道場が出来たこと。神田明神へ毎月鼓笛隊を編成して、必勝祈願に行ったこと。毎年泉岳寺へ忠臣蔵の四七士の墓参りの夜行軍をしたことなど思い出深い。

そして無事卒業の時を向かえて、就職・進学の岐路に立って悩んで居たところ、隣の実践女学校の教頭先生から【石井TG商会】を紹介された。個人の事務所で年老いた主人が一人、仕事らしい仕事は無いが、たまにお客が来たらお茶を出す、所謂給仕だが、夜学へ通える、理解ある紳士だというので飛びついた。

 学校は、月謝の要らない逓信官吏養成所・水産講習所なども考えたが、夜学で当時評判の良かった京橋商業を選んだ。受験番号は18番。縁起がイイ番号で難なく合格した。

 勤務先は本所区緑町一丁目一番地松山ビルなので、市電のパスで東両国緑町から学校のある御成門まで買い、帰りはカーブになる小川町で下りて家路に着くというコースを選んだ。当時パスは一ヶ月1円だったと思う。

 今日はこれまで・・・

 

 

 

 


自分史(2)「昭和7年~10年)

2011-10-30 17:07:05 | 自分史

  10月30日  平成17年1月1日より 2,503日目
          歩いた歩数          その距離
本日     1 5,438 歩       10,807 m
総計 34,872,791歩  24,410,954m
地中海からイタリヤ半島に上陸ローマ・フィレンツェからボローニャ経て墺・伊国境ブレンナー峠向かう。後 84,605m

 昭和7年には満州国の建国が宣言されて、五族協和の旗印を掲げて歩み出し、満州の開拓に夢を託す移民も始まり、ロサンゼルスで行われた第Ⅰ0回オリンピックでは南部忠平が三段跳びで優勝するなど七個の金メダルを獲得、明るいニュースもあったが、次第に軍部の発言が強まる時代に入って来た。

 私は飯山小学校の二年生となり田舎の空気にも慣れて、学校生活も楽しく過ごせたが何しろ貧乏の見本のような暮らし。口減らしのため、土・日は新町の家に”飯食い田人”夏休みには柏尾の滝の下の家で過ごす。それも汽車賃が勿体無いと歩いて行くという有様。 

こんな事もあった。柏尾からの帰りにオババから学生服を買うようにと一円貰ってきた。無くしてはならじと、しっかり手で握って来たが、途中で数えて見ると六枚しかない。落とした筈がないと泣きながら訴えると、一枚が五〇銭銀貨だった、事もあった。

 翌年、愛宕下から鉄砲町の貸家に引っ越した。二軒続きで隣は飴と廃品を交換する朝鮮人だった。家の前は小川で橋が架かって居た。春の雪解け水がやって来ると小川が氾濫して家に入れなかったが、フナが沢山捕れて、隣の飴で佃煮などにして食べた。

 三年生からは受け持ちの先生も変わり、厳格に躾けられたが、成績も良かったので餓鬼大将になり、体格のイイ生徒を馬にして騒いだりして居た。友達も多くなり、隣の席の女の子が宿屋の子なので玉子焼きなどもらったりして居たが、ある時、満州軍で将校をやっていたという家の女子が隣に来て、威張られる羽目になった。

 四年生になって、明日大運動会と言う日に、父親が東京からやって来て、私と妹は上京する事になった。近所の人が近況を父に知らせた為だと聞いた。上野駅に着いたのは、未だ夜も開けやらぬ未明、雨降りだった。いやな予感がした。着いたところは浅草小島町。

 家は金物屋で、江戸っ子の御婆ちゃんが殿と構える中で、主人を亡くした嫁と未だ小学校へも行かぬお坊ちゃんの三人。其処に使用人の父と田舎者の二人が居候としてやって来たのだ。初めから安住の地ではない。朝飯で味噌汁のお代わりを「オシ!」と差し出すと、御婆ちゃんが「オミオツケとおっしゃい!」と言う。御婆ちゃんが坊ちゃんを連れてデパートへ出掛けるときは、嫁が火打ち石でカチンカチンと打ち付けて見送りをする。魔除けなのだそうだ。

 こんな事が毎日続くのですっかり草臥れたが、一々書いて居たらきりがないので転校後の話を少々。先ず登校すると「田舎っぺ!明神様の禿ドンドン!」と囃される。子供たちは皆半ズボンだ。私も半ズボンだが股引の上に黒い長靴下を履いていたからだ。理科の時間に、桜の雄蕊と雌蕊の話が出た。飯山ではラムネの作り方・・・など、実験が多くて楽しかったが、コマシャクレタ講義で面白くも無い。ただ、音楽の先生が若くて美人で、ピアノを弾いてくれるのは、有り難かった。

 そんなこんなで、子供の姿に父もつらい思いをしたのだろう。翌春には浅草から神田神保町に引っ越して呉れた。暫くぶりで親子3人、アパートの一室でので水入らずの生活が始まった。

 長くなるので今晩はこれまで!

 


私の幼かった頃 (大正14年~昭和6年)

2011-10-29 17:38:12 | 自分史

  10月29  平成17年1月1日より 2,502日目
          歩いた歩数          その距離
本日      1 4,841 歩       10,389 m
総計 34,857,353歩  24,400,147m
地中海からイタリヤ半島に上陸ローマ・フィレンツェからボローニャ経て墺・伊国境ブレンナー峠向かう。後 95,412m

今日は天気が良くて、朝は霜も降りたが日中は風も無く、紅葉狩りには最後のチャンスだったが、自分史の年表に取り組んで一日中部屋に閉じこもってしまった。

 年表をパソコンに打ちこんで行く中で、当時の世界は第一次世界大戦の後始末で不況の風が吹き荒れ、小さな日本は何とか一人前にのし上がろうと足掻き悪戦苦闘して、世界からは軍縮で抑えられ、政界は混乱、農民の中には不作で苦しみ、経済は不況で、赤化思想が勢いを増し、これを憂いた青年将校が立ち上がり、満州事変が起こるやら次第に戦争に近づく混沌とした世相の中で、幼い自分たちが育てられて来たことを知った。

 私が生まれた翌年には大正天皇がお亡くなりになって摂政の宮裕仁親王が即位されて昭和が始まったすが、昭和2年には金融大恐慌で銀行の倒産も相次ぎ、金銭債務の支払い猶予も実施され、(どん底のうた】なども流行ったという。

 昭和3年になると、共産党員の大量検挙が行われたり、特別高等警察(特高警察)が新設されたり、憲兵隊に思想係が設置されるという程、思想取り締まりが厳しくなってきたのです。一方、天皇陛下はこの年京都で即位式を挙げられ、東京では花電車も繰り出される祝賀ムードにも湧きました。私はこの光景を覚えていますので、この時には既に上京して南千住に居たようです。

 昭和4年から5年に掛けては、ニューヨークの株式市場の影響を受けて生糸が暴落し、米に価格も大暴落。米国市場が取引停止に追い込まれたとか。農村では娘の身売りもしばしば行われたと報じられるまでになったが、都会では未だエロ・グロ・ナンセンスと浮かれても居たようです。

 昭和6年には、満州の柳条溝で満鉄の線路爆破から関東軍が軍事行動を開始し次第に戦争へと向かい始めました。私は5歳で母親を亡くし、父親の母(おばば)の所(飯山)に妹と共に預けられました。不況の日本の貧しい田舎の僻地の貧乏な老婆の元で少年期を過ごすことになった訳です。

 今迄忘れ去っていた子供の頃の思い出が、少しづつ浮かんできたので【生い立ちの記】に入って行けそうな気になって来た。