goo blog サービス終了のお知らせ 

百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

隠滞蔵物資

2011-07-25 18:31:20 | 私の青春時代

 7月25日 (月)のち  平成17年1月1日より 2,397日目
       歩いた歩数 その距離 m
本日    12
,548 歩      8,784 m
総計 33,411,835歩  23,388、285

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 159,974 m

戸狩の民宿街

 関連動画も見てね!飯山の素晴らしさをPRしている動画もあるよ!ぜひ観てネ!!

 国家のために滅私奉公などと云っていた兵士達も終戦で家に戻れることになると、欲が出て来て軍隊にある物を手当たり次第自分のものにするようになった。と云っても銃や帯剣などの武器を持ち出す者は居ない。せいぜいで帯革や巻脚絆位だが、薬室勤務の者はサッカリンを持ち出したり、病院の衛生兵の中にはレントゲンに付いていたカメラを隠した者も居たという。

 私は医務室の事務室勤務だった。或る時私の机の上に「 桐の御紋章の入った三つ重ねの銀杯」が置かれていた。誰が持って来て置いて行ったのか判らないが、不思議なことにこの銀杯を盗む者は居なかった。そのうちに、私は「腸チブス」の疑いで松本陸軍病院に入院させられた。陸軍病院と聯隊は隣接していたので、衛生兵は自由に出入り出来たので私は歩いて行った。「患者は何処に居るか」と云うので【自分であります】と言ったが中々信じられず、手古摺ったがやっと個室に隔離された。そんな訳でその銀杯がどうなったかは知らない。

 本土決戦が必至となったことから弾薬をはじめとして軍需品があちこちに分散して保存されるようになった。連合軍に関東平野を制圧されると【信濃1号】という作戦命令が出ると前出しで説明したが、その時の私の任務は【薬剤行李】の担当と決められていた。【薬剤行李】といっても聯隊の医療を賄う全医薬品や医療機器を管理するので、それは松本郊外の農家の3つの土蔵に収蔵されていた。

 そうした軍需品が終戦で所有者が不確定になって、どさくさに紛れて不当所得された経緯がある。それで成金になった人もあるという。今、ふとこんなことを妄想した。

 私の机のうえにあった銀杯は私に猫婆婆させて、私を窃盗の罪に陥れて拘束する目的で置いたものだったかもしれない。でも私が手を付け無かったので、私を伝染病患者に仕立てて病院に隔離した。何故か?私が薬剤行李の担当で3の土蔵に薬剤や医療機器を収納していることを知っているので、横取りするためには私を拘束しなければならなかったのではないか?妄想かもしれない。妄想であって欲しい。これも終戦の裏話になるか?

 

 

 


終戦で退職金

2011-07-24 17:53:38 | 私の青春時代

 7月24日 (日)  平成17年1月1日より 2,396日目
       歩いた歩数         その距離 m
本日    15
,257 歩      10,680 m
総計    33,399,287歩  23,379、501

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 168,757 m

 一億玉砕!連合軍が本土上陸、私はアルプスの山に立て籠もって最後までゲリラ戦、そして玉砕・・・と覚悟していたが、8月15日の玉音放送で終戦。一命を取り留めた訳だが、”誰がどう命令したかは知らない”が、全員が一階級昇進した。陸軍衛生一等兵の私は終戦で上等兵になった。戦争で勝った褒美で昇進したのなら良いが、負けて昇進でもあるまいと思って居ると、今度は【退職金】を支給するというのだ。天皇陛下のお蔭でいのち助かったばかりか、軍人が負けて失業するから退職金を呉れると云うんだ。これには驚いたり呆れたりしたもんだ。誰が決めたんだろう?でも呉れるというだから反対したり辞退したりした者は居ない。

 その退職金は昇進した階級で支給する。私の退職金は上等兵の月給の12か月分。上等兵の月給は月10円だから120円。それに家に帰る旅費として3か月分30円を加算して合計150円。その上、こんなおまけまで付いた。軍馬を払い下げる。連隊長の馬が150円、以下それなりに安く評価する。買った者には3泊4日の外泊を与える、と云うんだ。

 私も考えた。こんな大金持ったことも無いし、あの立派な連隊長の馬が退職金で買えて、しかも外泊まで付いている。でも連隊長の馬に乗って帰れるのはいいが、どうやって飼ってもらえるだろうか?ダメだ、と諦めた。ところが利口者が居る者で、買った馬を聯隊を出たところでバクロウさんに売り渡して一儲けして、空身になって3泊4日の外泊と洒落込んだツワモノが居たというから驚いた。

 その後、この話をしたが、終戦で退職金を貰ったという者は居なかった。松本聯隊だけの話だったのだろうか?そんな事は無いと思う。松本聯隊は上部機関からの指示に従って正確に指示通りの行動をとったのだが、他の部隊はその指示に従わず適当に処分したか、それだけの財源を持って居なかったのではないだろうか。

 でも判らないことばかりだ。敗戦で捕虜にもならず、軍人廃業で退職金を貰い、家まで帰る旅費まで貰うなんて、幸運だなんて云っててイイんだろうか?変な話。これも終戦の裏話だ。

 


iphone用フレキシベル ホルダーを購入

2011-07-22 18:07:15 | 私の青春時代

 7月22日 (金)  平成17年1月1日より 2,394日目
        歩いた歩数             その距離 m
本日   
12,633 歩       8,843 m
総計 33,376,713 歩  23,363、
699 m

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 184,599 m

            
   ホルダーは来たが説明書なく試行錯誤     やっと組み立て、苦労する

運動公園へ

 歩きながら Iphoneで摂った動画を見ると、歩く度のブレが出てブログに載せられないので、愛車に載せてドライブの風景を紹介しようと思い立ってフルキシブルホルダーを注文した。ケースを開けるて見たが説明書が無い。しかも英語で完成写真が載っているだけ。一日がかりで悪戦苦闘やっと組み立てた。ところが部品が一個余ってしまった。その使い道でまた悩んだ。後で判ったが、これは吸い付いている吸盤を外す部品だった。

 組み立てたホルダーを運転台に立てたが吸い盤が働かない。空気が漏れるのだ。そこでポリの丸い板に霧を吹いて立てて見た、吸い付いてビクとも動かないので成功としたが頭が重くて転んでしまう。その盤を粘着テープで固定した。これで一先ずビデオ撮りの基本が出来た。ここで考えた。ガラスに吸い盤は良く吸い付く。ウインドウに吸い盤を付けてからビデオが撮れないか、と。これが意外とうまくいった。

 後は微細動がビデオにどう反応するか、だけだ。正面ウインドウに吸い盤を着けて進行方向の景色が映るよう設定して発進した。特別段差でガクーンとしない限り、風景はゆがまないことが確認できた。後は進行方向と、スピード、段差での振動をどうやって防ぐだけとなった。

 針湖の周辺を廻って初撮りした。車が道を指して進むので針湖は全く撮影できなかった。第2回は運転席の窓にiphoneを移して撮影してみた。針湖は映ったが、車のスピードに添って画面が激しく変わるので割愛した。冒頭に掲載した風景は3度目、正面ウインドウから撮ったものだ。

 明日は湯の入り荘主催のノルディックウォーキングの日。小菅から風切り峠のコースだという。参加して気に入った風景を撮って来たいと胸轟かせている。


弱兵解除

2011-07-21 18:34:02 | 私の青春時代

7月21日  平成17年1月1日より 2,393日目
                 歩いた歩数         その距離 m
本日   
  14,129 歩            9,890 m
総計 33,364,080 歩 23,354、85
6 m
イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 193,402 m
 

 社協からNPOに活動に対する助成金を支給するので申請するよう書類が来ていたので、申請書を下書きして持参すると、これで結構と言われ受理されてしまった。ほかに特記することも無いので、戦争秘話第3話を書くことにした。

 昭和20年の初夏、沖縄玉砕の頃の話。【弱兵解除】の指令が参謀本部から来た。本土決戦を覚悟して居た状況の中でなぜ?と勘繰ったが、本土が戦場になれば軍人も市民も無い、国民全体で戦うのだ。そうなれば、役に立たない弱兵の兵役を解除して軍人と市民の食糧配給の差額分を食い延ばそう、という作戦だとか言われた。

 私の中隊からも弱兵を選考することになったが、私の戦友(真の戦友とはベットの両側の兵士を指す)のM上等兵は一流大学出ながら幹部候補生にもならず、暗号兵だったが、痔を患い、中隊から招魂社へ位牌書きに通っていた。彼が私に「日本は負ける。負ければ捕虜になって金玉を取られて一生奴隷だ。俺には嬶も子供もいる。頼むから弱兵に入れて呉れ」と懇願された。私は気の毒に思って彼を名簿に記入した。

 20年8月1日除隊命令が出た。彼は「一生恩に着る。礼するものは無いが、俺の時計をとって呉れ。俺は兵隊の記念に編上靴が欲しい。俺が弾薬庫の土手から声を掛けたら投げて呉れ」と云った。

 それから15日で終戦になってしまった。翌年の春、城山の花見で出会った。彼は地元の女子高の教師になっていた。そして「あの時は世話になったが、実は今も独身・・・」と言って頭を掻いた。

 その後、彼は高校の先生と結婚、教育界に活躍する著名人になったが、これ以上は語らないことにする。


ヴェトナム肴に暑気払い

2011-07-20 22:55:35 | 私の青春時代

 7月20日  平成17年1月1日より 2,392 日目
                 歩いた歩数          その距離 m
本日     13,314 歩            9,320 m
総計 33,349,951 歩 23,344、9
 66 m
イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 203,292 m

               
                                雨池の蓮ようやく咲き始めた

 ヴェトナムでの稲作の機械化に取り組ん出来た島崎さんから、現況報告を兼ねて暑気払いの席を設けたい。20日夕方は如何との呼び掛けに快諾した。集まったのは稲作日本一の鈴木さん・その鈴木さんを紹介した私と山崎さんの4名。会場は渡辺食堂。

 先日、ヴェトナムから帰国報告で大手機械メーカーとの連携も出来たし、田植え機・コンバーター使用の作付け・稲刈りも順調に済み、先行く明るい方向と聞いていたので、明るい気分で出かけた。乾杯の後の近況報告で、機械植えの苗の育ちが期待通りに進んでいないと聞き、新地開発には幾多の障害が発生するものだと知らされた。

 田植え前の田は無肥料であったこと・タニシの食害・植えた後苗の水没・藻の発生など日本では考えられぬ予期しない問題が提起されて、その対応に鈴木さんの指導も受けて対応しているところ、との事。

 ひとしきり、その対策案について協議があって、ビールの杯も進んだところに今年の初さんまが出て宴酣になった。

 帰宅の車中、鈴木さんから「私も中国の子どもへの育英基金の仲間に入れて欲しい。」との嬉しい有り難い申し出があって、思わず固く手を握った。良い暑気払いの夕べとなった。