goo blog サービス終了のお知らせ 

百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

松本と金沢の違い(裏話16話)

2011-09-05 13:08:34 | 私の青春時代

9月5日 (月)のち 平成17年1月1日より 2,448日目                                                         歩      歩いた歩数    その距離 m
本日     14,181歩      9,927
m
総計 34,047,804歩 23,833、463

地中海シシリー島からイタリヤ半島ナポリを経てローマに向かう。後26,077m
 

 松本で歩兵の初年兵教育が終わって衛生兵としての教育を受けることになって、昭和19年12月半ば、金沢陸軍病院泉野分院に移動したことは先に述べたが、此処で富山・石川両県の初年兵と合流して60名で第一班が構成された。

 長野県から金沢に来ただけで、軍隊の様相も一変した。第一話す言葉が軍人らしくない。関西弁に近いのか、なにか気が抜けた感じだ。松本では寒気は厳しいが、晴天の日が多くてアルプスの山々のスッキリとしていたが、金沢は一日の裡に晴れたり曇ったり雨がふったり止んだり目まぐるしく変化して定まらない、陰気な世界だ。松本では四角な場所に石積みの物干場が有ったが、金沢は屋内の大講堂が物干場だ。松本では兵舎は整然と並びその前に広い広場が有ったが、この分院は整地されたところに建てられたものでは無いようで、廊下もくねくねと右に左に上がったり下がったりで、中央で四方を見渡してもその先は見通せない。広場も無いようだが、便利なことに、廊下伝いに郵便局に行ったり風呂場に行ったりまで出来る。これには驚いた。

 衛生兵教育の他に、使役がある。食料の調達から便所の汲み取りまですべての作業は初年兵の仕事だ。私はここでも優遇された。「お前は学校の先生をして居たんだから、ストーブを焚くのはうまいだろう。物干場の当番に行け!」と。大講堂に有る幾つかのストーブの番をしてれば良いので楽をした。

 物干場の当番から、風呂場の当番に回されたこともあった。早く沸かそうと思って一度に沢山の石炭を入れて火力の勢いを無くして恥を掻いたこともあった。味噌桶を運んで来た兵隊が、外套のポケットに手を入れては何かを舐めているのを見た。味噌樽から味噌を失敬してポケットに入れて来て、それを舐めて居るのを見て羨ましく思ったこともある。でも便所の汲み取りは一度もせずに済んだ。

 松本は寒いので、札幌と並んで兵舎の窓は2重だったし、毛糸の襦袢・跨下が支給されて居たし、寒さを凌ぐために軍衣の下に手を入れて肘を張って立って居ても良いことになっていたが、これは金沢では「信州の豪傑め」と罵られた。初めの裡は「豪傑」と云うので褒められているのかと勘違いしていたが、語気から【横着者】と罵られているんだと理解した。ところ変われば品変わる。風紀まで変わったのには恐れ入った。

 

 


Kさんが父島に飛ばされた真相(裏話15話)

2011-09-04 12:56:35 | 私の青春時代

 9月4日 (日) 平成17年1月1日より 2,447日目                                                         歩      歩いた歩数   その距離 m
本日      15,153歩     10,607
m
総計 34,033,623歩 23,823、536

地中海シシリー島からイタリヤ半島ナポリを経てローマに向かう。後36,004m

 葬儀のあとKさんの家に上がったので、Kさんが松本聯隊から事前に何の話も無いまま父島に転属された経緯について改めて聞いて見た。Kさんの話では松本で部隊が編成されてその一員に組み込まれて、弾薬を大量に積んだ輸送船に乗って父島に向かった。連合軍の潜水艦に見つかればいちころなので出来る限り船から離れるよう指示されていたということだった。私はKさんが一人父島に転属されたので潜水艦に乗って行ったと思っていたが、それは私の思い違いで、、冷静に当時の状況を思い直すと次のような経過があったと考えられる。

 松本の部隊は東部150部隊補充隊と云うのが正式の名前で、師団司令部からの指令に基づいて、部隊編成が行われるのだが、その都度、指名された中隊がその部隊の編成を責任を持って請け負う。父島派遣の部隊を請け負ったのが当時の”猪隊”て召集兵から即日帰郷か何らかの原因で定員に一名の欠員が出てしまい、その穴埋めにKさんが突然指名されたのだということが判った。

 召集令状は予め部隊編成の必要人員より余分に見積もって出すのが通例だが、身体検査の結果、即日帰郷者が多く出ると、請負中隊から不足した兵を出さなければならないし、充足して尚余剰兵が出ればその中隊に残すこと通例で、その即日帰郷兵を決める作業を私が担当していたのでその辺の事情はよく判る。聯隊本部の動員室から「衛生兵さん!あんまりキツクやらないで下さいヨ」とよく言われたもんだ。

 余剰兵が出た時は、召集兵の中から出来るだけ優秀な兵を引き抜いて残すが、不足して補充する時は、人事係は中隊の厄介者を放り出すのが通例だ。Kさんは特別目立った優秀な教育係だたので目障りに思った人事係りに指名されたのではなかろうか

 

 


妻が退院した

2011-08-12 17:45:11 | 私の青春時代

 8月12日 (金)  平成17年1月1日より 2,415日目
       
歩いた歩数       その距離 m
本日    14,636歩
    10,245 m
総計 33,690,421歩 23,583、295

地中海シシリー島からイタリヤ半島ナポリを経て首都ローマに向かう。後276,245 m

               
                         ヘブンリーブルー(新町通りで)

 6月29日、脚の浮腫みの解消を願って日赤を訪ねたところ、原因が判らければ治療のしようが無いと言われ検査入院になってしまった。あれから45日、DICという病態と判定されて、DICの主な原因は患者の体質のほか、重症感染や悪性腫瘍・膠原病や血管炎などの炎症性疾患が考えられるとして検査が始まった。

 検査は、画像検査として血栓・塞栓子の検索、心臓への負荷を確認するために全身検査・下肢のCT検査・MRI検査・超音波検査。血液検査として一般的なものから血栓の状態を反映するもの、膠原病・血管炎を反映するものまで、また上下部消化管内視鏡検査等を行ったが、これと云うものは見当たらず最後まで原因不明で終わってしまった。

 この間、血管内に血栓が出来て心臓など内臓に害を与えることを心配してヘバリンをシリンクポンプを使っての注射を開始した。シリンクポンプは形も大きく精密なため、患者は移動も出来ないので、私は患者が寝たきり老人になることを心配して、ヘバリンに代わる錠剤での投薬とシリンクポンプの撤去を要請した。医師はヘバリンに代わる錠剤は無いと渋っていたがその夜、シリンクポンプは取り外されたと聞いてホッとした。

 翌日からヘバリンに代えてワーファリンの投薬に切り替えられたが、血小板への特別な反応は起きなかったようだが、一向に体温は37~38度でその原因は判らなかった。私は甲状腺と結核の検査をお願いしたが、これも体温には無関係であったようだ。

 脚の浮腫みは7月の半ば頃には消えたが、8月に入っても微熱は下がる様子が無いので、私は考えた。身体の何処にも異常がないのに、微熱が続いているのは両下肢を冷やしているからだと結論付けて、直ぐに保冷材を取り去って妻に脚が火照って居ても絶対に保冷剤を使うな!と厳命した。妻はこの事を医師に告げたところ、医師も「それも方法ですね」と了解して呉れたという。

 それから2日後には体温は36度台になって日毎に下がり始め、脚の火照りも感じなくなったと妻は喜んでくれた。もっと早く気付けば微熱はもっと早く下がったろうと感じた。

 今日、退院となったので、妻の要請に応えて医師への礼状を書いて渡したが、なにか【泰山鳴動して鼠一匹】の想いがした。

 

 


私は帝国軍人に成り切れなかった(裏話14話)

2011-08-11 17:49:12 | 私の青春時代

 8月11日 (木)  平成17年1月1日より 2,414日目
       
歩いた歩数       その距離 m
本日     16,742歩
     11,719 m
総計 33,675,785歩 23,573、050

地中海シシリー島からイタリヤ半島ナポリを経て首都ローマに向かう。後286,491 m

 私が松本での初年兵教育を受けてしみじみと感じたことは、他の初年兵に比べて「ぬるま湯」に浸かったような待遇を受けたことで、一人前の軍人に仕上がらなかった、と云うことだ。軍人精神を叩き込むためにはやはりそれ相当に鍛える事が必要であるとつくづく感じた。日本刀を作るように鍛えて鍛えて不純物を全部取り除かなければならないのだが、中途半端な鍛え方をされたので、軍人・軍隊・日本の将来・大和民族の存亡・・・に客観的・批判的に見る人間となってしまったことだ。

 教育係りのK兵長は飯山小学校の教員をしていたK軍曹に可愛がられた恩義から、私を特別の目で見て呉れた事。私のタバコの分配の仲間に成ろうとしての下心から古兵たちは私に甘かったこと。私が教員上りと見て一目置いて居たこと。砲兵大隊の副官が隣の会社の社長だったことも他の初年兵と差別されたようだ。

 私はミッドウエイ海戦で航空母艦の主力を失い制海権・制空権をアメリカに奪われたと信じていたし、国葬になった山本五十六聯合艦隊司令長官の死は、前線視察で撃墜されたことは名誉の戦死ではない、作戦の失敗の責任をあのような形で表現したと推意していたので、戦局は悪化し、聯合軍の本土上陸は覚悟していた。

 それに対し、松本での初年兵教育を通しての訓練が余りにも幼稚で、バカバカしくて、真剣になる要素がなかった。日本が勝利するためには仁科博士の原子爆弾の完成を待ち望む外なかった。

 こんな気持ちは班内に言わず語らずの裡に伝わって、煙たい恐い男に見られて居ようだし、私もそれを当然と受け止めていたので、帝国軍人と云うような形では無く、益々ひ弱な小賢しい若者になって行った。

 しかし私の最後は【死して虜囚の辱めを受けず】という戦陣訓の精神が好きだったし、【1億玉砕】をモットーに最後は「万歳攻撃」をして死ぬ覚悟だけは持って居た。


脱走兵が出た(裏話12話)

2011-08-10 20:27:52 | 私の青春時代

 8月10日 (水)  平成17年1月1日より 2,4123日目
     
歩いた歩数    その距離 m
本日     15,043歩
 10,530 m
総計 33,659,043 歩 23,561330m
地中海シシリー島からイタリヤ半島ナポリを経て首都ローマに向かう。後298,210 m

 入営して一ヶ月、初年兵の教育が終わって衛生兵の教育を受けるため金沢の陸軍病院に移ることになった。営庭に整列して点呼をとると、何回やっても一人足りない。古兵が中隊内から営内を探したても見つからず、諦めて出発した。脱走兵が出たのだ。

 該当兵は長野近郊のお寺の息子と判った。戒律の厳しいお寺で育った者が何故どうして逃亡したのだろう。甘やかして育てられたのだろうか?厳しい軍隊の仕置に堪え切れなかったのだろうか?国家存亡の非常時、天皇陛下の赤子として【海ゆかばみずく屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ】と国家のために命を捧げる覚悟で入隊した者が軍隊から逃亡することなど全く考えられないのだが・・・。

 戦後、数十年、私が青果市場をやって居た頃、女子事務員の父親の葬儀で訪れたのがあの時の兵隊のお寺だった。広い境内、堂々とした本堂、見事立派な格式の備わったお寺で、厳かな葬儀が執り行われた。住職があの時の兵隊だったとはとても思えなかった。

私はこの悪夢のような事件を思い出したが、誰にも告げず、また住職にも会わなかった。でも頭の中からは今でも消えては居ない。