肖像 シャルロッテ
本編に登場する若き革命児……ヘルダー ヨハン・ヴォルフガング シラー
ゲーテ文学を語る上で、彼の、数々の女性たちとの出会いに、触れないわけにはいかないだろう。付き合う女性によって、彼の作風はガラリと変わった。
ヨハンの初恋は14歳、相手はグレートヒェンという、酒場で働く少女だった。だが、てんで子ども扱いされていることに気が付き、失恋に終わる。彼は、初恋から現実の残酷さを思い知らされた。
16歳になったばかりの秋、父の希望に従って、法律を学ぶために、ライプツィッヒ大学に入学する。この年には『クリストの地獄行きに関する詩想』や、版画なども手がけている。
翌年にはケートヒェン・シェーンコップという少女を恋し、詩集『アネット』、喜劇『恋人のむら気』『同罪者』などを創っている。特に、一連の詩は『ライプツィッヒ新小曲集』と題して、20歳のときに処女詩集として刊行されている。この時代の作品は、ケートヒェンの影響からか、ロココ趣味が強い。
だが、不摂生の1人暮しがたたって、19歳の誕生日を目前にした夏に吐血し、ケートヒェンと穏やかに別れて帰郷。その後、信心深いクレッテンベルクとの恋が始まる。ヨハンは、ライプツィッヒ時代の作品のほとんどを処分し、彼女の影響から、錬金術や神秘学に興味を寄せた。
この療養生活は、いわば、神童から真の天才に脱皮するための、産みの苦しみの期間だった。かのゲーテでさえ、スランプから逃れることはできなかったのだ。
2年後、20歳になっていたヨハン青年は、ようやく病も癒え、シュトラスブルク大学に転学した。ここで、26歳のヘルダー青年に出会い、多大な影響を受けている。ヘルダーは、すでに『近代ドイツ文学断想』『批評論叢』などを発表し、文壇をリードする存在だった。
「青年には、教育より刺激が必要である」
ゲーテは後にそう語っているが、誰かに教えられるよりも、むしろ切磋琢磨し合うことによって、若者は磨かれていく。過去の偉人の青年時代を知ることも、今日を生きる若者にとって、大きな刺激となることだろう。
また、この時代に、ヨハンは牧師の娘である18歳の少女フリーデリケ・ブリヨンと出会い、2人は、たちまち永遠の愛を誓った。この恋から、『野薔薇』『5月の歌』『歓迎と別離』『フリーデリケに』などの詩が生まれている。
だが、ルソーの自然主義に多大な影響を受けていたヨハンは、翌年、結婚のわずらわしさを嫌って(結婚による法的な束縛を、彼は知り尽くしていた)婚約を解消し、卒業して弁護士資格を得ると同時に帰郷する。
ゲーテは、晩年まで多彩な女性遍歴を続けたことで知られているが、結婚したのは1度だけだった。今日、EUでは同棲が激増し、4人に1人の新生児が、未婚の母親から生まれている。教会や法律に縛られた不自由な結婚制度から、ヨーロッパは脱却しつつある。
結婚制度は、もともと、女性の地位が奴隷や家畜並みだった時代に、女性を誰が所有するか決めるためにできた制度に過ぎない。日本においても、当人同士の意志で結婚できるようになったのは、戦後から。女性の地位が向上すれば、結婚制度が不要になるのは歴史の必然だろう。
ゲーテは、そのような歴史の流れを、2世紀以上も先取っていた。やはり、並の天才ではない。だが、牧師の娘として育てられ、結婚に神聖さを求めていたフリーデリケには、ヨハンの心情が理解できなかった。間違いなく愛し合っていた2人だが、価値観の相違のために、別れの道を選ばざるを得なかった。
結果的には、フリーデリケを自分の身勝手に巻き込んだことに、ゲーテは生涯、罪の意識を持ち続けた。後年、彼はことあるごとに彼女を誉め讃えているが、その別れについては、簡単にしか触れていない。
その簡単さの裏には、大文豪にしてとても筆にできない、万感胸に迫るものがあったのだろう。ゲーテは、あえてフリーデリケを自分の中から消さなかった。彼女への仕打ちを忘れず、良心の呵責に苦しみ続けることが、彼のせめてもの償いだった。
また、彼女と過ごした時期に、ゲーテ文学の基盤が築かれた事実も見逃せない。
「偉人の裏には、常により偉大な女性の存在がある」
といわれているが、フリーデリケとの出会いと別れがなければ、後の文豪ゲーテは決してありえなかった。
フリーデリケと別れたこの年、ヨハンはその悲しみをバネにして、出世作『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を完成している。『巡礼の朝の歌』などの詩も、この時期の代表作に挙げられる。
翌年、22歳のヨハンは、弁護士研修のために、ヴェッツラールに赴いた。ここで、婚約者のある19歳の少女シャルロッテ・ブッフと出会い、かなわぬ想いに胸を焦がすこととなる。それでも諦め切れないヨハンは、毎日のように彼女の元に通い詰める。
ロッテの婚約者であり、ヨハンの友人であるケストナーは、彼の切ない心を知ってか、ヨハンに何も言わなかった。そして、ついにヨハンは思い余ってロッテの唇を奪うが、これは逆効果で、貞淑な彼女を怒らせてしまった。この実体験が、『若きヴェルテルの悩み』執筆のきっかけとなった。
シャルロッテとの破局により、わずか5カ月でヴェッツラールを去った傷心のヨハンは、その後すぐにマクシミリアーネという16歳の少女と出会い、数週間ほど交際している。もっとも、彼女はまもなく、年上の商人に嫁いでいる。
傷心のヨハンは、『ドイツ建築術について』などを執筆し、つらい気持ちを紛らわせようとした。絵の勉強にも没頭した。だが、ロッテへの想いは募るばかりだった。躁鬱病に陥っていたヨハンは、いつも短剣を枕元に置き、しばしば自殺を試みていたという。
やはり夫ある女性に恋していた友人、イェルーザレムの自殺の知らせを受けたのは、そんなときだった。これによって、『ヴェルテル』の構想が生まれる。彼は、創作を人生の希望とすることを決意し、人生最大の危機に立ち向かった。当時の彼にとって、創作が唯一の生きる意味だった。
こうして、歴史に残る名作が、次々と世に送り出されることになる。まずは『ゲッツ』を完成。この作品により、かれはたちまち先輩ヘルダーに代わって、ドイツの「シュトルム・ウント・ドラング([疾風怒濤]の意味。過去の因習から脱却し、個性・自然・意欲を重んじる文学運動)」の旗手となった。この運動こそ、ルネサンス以来の、近代における人類精神の革命であり、若きヨハンをフランス革命の情緒的リーダーに位置付けることも、決して大げさではない。
『ヴェルテル』は、ヨハン24歳の冬、マクシミリアーネの結婚式の直後に、わずか四週間で一気に書き上げられている。結末を除いては、ほとんど実際の出来事(美化した部分はあったろうが)と感情を、そのままに書き連ねている。シャルロッテに至っては、実名で登場している。
僕は幾度と無く、心の中で(シャル)ロッテにさようならを言った。ロッテは、僕のほうを見てくれなかった。
(ロッテを乗せた)馬車が走り出した。僕の目に涙が浮かんだ。
僕は、ロッテのほうをじっと見た。ロッテの髪飾りが扉から出ているのが見えた。
ロッテが振り返った。ああ、僕を振り返ってみてくれたのだろうか。
……それがよく分からないので、気持ちが落ち着かない。
おそらく、僕を振り返ってみてくれたのだろう、と、僕は自分を慰めている。
このように繊細でリアルな心理描写などは、とても想像で描けるものではない。他にも、青春期の片想いに特有の複雑な心理が『ヴェルテル』ではふんだんに描写される。そこが、時代を超えて少年少女の共感を呼ぶゆえんだろう。
『ヴェルテル』のあらすじは、こうなっている。
青年ヴェルテル(ヨハン)は、ロッテとその婚約者アルベルト(本名ケストナー)に出会う。2人はヴェルテルにとって良き友人だったが、彼はロッテへの募る想いを抑え切れず、ついに2人の友情を裏切り、ロッテの唇を奪ってしまう。ロッテは、ヴェルテルに絶交を宣言する(ここまではほぼ事実)。ヴェルテルは死を決意し、ロッテに遺書を残した。
僕達3人のうちの1人は、去らなければならない。その1人に、僕はなろうと思うのです。
このヴェルテルの自殺には、単に失恋のショックの文学的表現だけではなく、シャルロッテとケストナー2人の友情を裏切ったヨハンの、彼らに対する謝罪の思いも、込められているのではないだろうか。ともかく、この作品によって、ヨハンは若くして世界的作家の地位を確立する。
「この小説を、自分のために書かれたと感じられない人は不幸だ」
とはゲーテの有名な言葉だが、ゲーテ自身は、『ヴェルテル』を生涯でただ1度きりしか読み返していないという。再び情熱が蘇ることを恐れたのだろう。ゲーテは、ロッテへの想いを生涯精算することができなかった。
「愛と友情の両立への挑戦」という、青春の永遠の理想を正面から描いているからこそ、『ヴェルテル』はこれほどまでに愛される作品となった。この作品が、史上最高の青春小説であることは間違いない。ぜひ、10歳代のうちに読んでおきたい1冊だろう。
人間には誰でも、表の人格ペルソナと、裏の人格シャドウがあることが知られている。要するに建前と本音だが、建前であるペルソナが、あまりにもシャドウの本音とかけ離れた場合、シャドウが反乱を起こして、ペルソナを乗っ取る場合があるという。
ヨハンの場合、友人のフィアンセに想いを寄せてはならないという理性が、彼の激しい情熱を抑え切れなくなり、生命をも脅かす重篤な躁鬱病を招いた。シャドウの反乱が起きていたのだった。
小説の主人公ヴェルテルとは、当時のヨハンのペルソナに当たると考えられる。やり場の無い感情を小説の中で告白し、ヴェルテルを身代わりとして自殺させることで、ヨハンはかろうじて、シャドウの反乱から、生命だけは守った。
事実、後にゲーテは、
「この時に、私は1度死んだ。あの時の私が死んだと考えることで、今の私は、当時の事を他人事だと思っていられる」
と述べている。文字通り、生きるか死ぬかの瀬戸際で、人類史上に残る、不朽の名作が生み出されたのだった。もし、彼が自分の体験を公にする勇気を持てなかったなら、彼は現実に命を落としていただろう。
このように、創作活動などによってイメージを思い描くことは、精神病を克服する上で有効となる。現代のセラピーでも、箱庭療法などが用いられている。
ただし、分裂症患者の場合、イメージ療法を施すと、逆に危険を招く。彼らは、躁鬱になったゲーテとは逆に、自分の内的世界への愛着が強いあまり、環境への関心に欠けている。だから、ゲーテのケースとは逆に、現実環境の中で自己実現することが必要になる。
しかし、いずれの場合も、患者は快復過程において、超人的才能を発揮する。すなわち、内的個人的精神的世界と、外的社会的物質的世界との融合によって、偉大な業績が生み出される。
ドイツの精神医学者ランゲは、いわゆる天才と呼ばれる人々が精神病的症状を現わした比率を調査した結果、普通の人の30倍近くに達すると発表した。その中でも特に大きな実績を残した天才について調べてみると、9割以上が精神病的、もしくはそれに近い症状を示しているという。ちなみに、通常の人の場合、この比率は1割に満たない。
夏目漱石は、自分自身の神経衰弱の体験から、
「天才に、たまたま精神病の持ち主が多いのではなく、外的環境が精神病患者を作り、精神病が患者に天才的行動を起こさせるのだ」
そう述べている。漱石もまたゲーテと同じく、三角関係を描いた日本文学の金字塔『こゝろ』を残している。
ユングによれば、家庭や社会などの環境によって歪められた精神が、正常な状態に快復する過程が、精神病なのだという。ある意味で、心を病むのは、健康な自己治癒力を持っている証拠であろう。しかし、環境によって精神が歪められている以上、環境を変えなければ、心の病は治らない。ただ夢を見て現実逃避するだけで終わっては当然ダメで、そこで得た自信や教訓を活かして、現実を改善する必要がある。
ここが、心の病が一般の病気と異なる点で、個人の内面と外の世界が連続しているという視点から見なければ、決して心の病を正確に把握することはできない。心の病は、個人の病理であると同時に、社会病理でもある。社会環境が改善されない限り、心の病は決して根絶されない。
事実、長年に渡って多くの患者の臨床例を見てきた河合隼雄教授によると、患者の内面が変わったときには、患者を取り巻く環境も、必ず連鎖的に変わっているという。その過程で患者は、普段なら考えられないような、天才的な行動を示す。教授は、
「健康な精神の持ち主だからこそ、歪んだ環境の中で、心を病む。患者さんは、日本の社会病理を癒す先駆者である」
そう結論付けている。精神医学ではこのように、病気という、一般的にはマイナスに捉えられがちな現象でも、プラスの意味で解釈する態度が、非常に大切になる。
ヨハンの場合、「恋愛と友情の両立」という、思春期前期的な理想を、成人後も愚直に追求し続けている。このように、潔癖な理想を成人後も抱き続けることを、精神医学ではジュヴェニリズム(若年症)と呼ぶ。
普通なら、恋と友情のどちらかを優先し、どちらかを切り捨てられるようになっていく。自分自身や人を傷付けないために、要領良くなっていく。だが、そこには、生活のため、体面を保つためという妥協の一面もある。あたかも、社会に合わせて自分自身を裁断するかのように。
ヨハンは、一切の要領や妥協を許せなかっために、ヴェッツラールの悲劇を招いた。実際、高すぎる理想はしばしば周囲との軋轢を招くがゆえに、精神医学でも、病気の一種と見なされている。
だが、空を飛ぶことを夢見続けた人々が飛行機を発明したように、ジュヴェニリズムは、必ずしも忌むべき、矯正すべきものとは限らない。むしろ、人類の進歩のために必要でさえある。
苦悩、トラウマを抱える人々こそ、小さな救世主なのである。世の中には、さまざまな歪みがある。それを変えられるのは、身をもって世の中のしわ寄せを受けている人たち、世間からはむしろ弱者、敗者と蔑まれ、あるいは奇人変人扱いされ、苦しんでいる人たちしかいない。そんな人たちの中にこそ、人類を救う力が秘められている。ゲーテは、それを身をもって立証したのだった。
『ヴェルテル』は大衆から熱狂的に支持され、ヨハンは一躍、世界的文豪の地位を確立したが、上流階級や聖職者からは、一斉に反発を招いた。イタリアでは、聖職者たちが『ヴェルテル』の初版を買い占め、大衆の目に触れないようにした。高位の聖職者がわざわざヨハンを訪ね、面と向かって罵倒したことさえあった。
もちろん、ヨハンも黙ってはいない。すぐさま反論し、この聖職者は、沈黙して逃げ帰るしかなかった。特権階級は常に、大衆が真実に目覚めることを恐れている。それだけに、人生の真実を生き生きと描いた『ヴェルテル』に、本能的な拒絶反応を示したのだ。
若きヨハンの才能の奔流は、留まるところを知らなかった。『ヴェルテル』脱稿からわずか1カ月後、『クラウィーゴ』を1週間足らずで書き上げている。さらに、かの大作『ファウスト』の執筆にも取りかかる。
『ヴェルテル』に、『ファウスト』。ゲーテは、その代表作に、いずれも青年時代から取りかかっていたのだった。偉大な人は、決して、大切な仕事を後回しにしない。『プロメテウス』『マホメット』などの詩も、この時期の作品。
25歳になったヨハンは、16歳の少女エリザベート・リリー・シューネマンと出会い、『新しい愛 新しい命』を書いている。数多くの恋人の中から、彼女と婚約するものの、小市民的生活を嫌って、結局は5カ月でこれを破棄。その悩みの中で、『湖上』『秋思』などの詩が生まれた。喜劇『エグモント』も起稿している。
その後、18歳の若き君主カール・アウグスト公の招きに応じ、ワイマール公国の宰相となる。26歳の若さで、ヨハンは、一国の政治をも担う立場になった。ワイマールに到着して早々、ヨハンは『ファウスト』初稿を朗読し、周囲を感動させている。
あまりにも有名なゲーテの代表作『ファウスト』の冒頭では、主人公ファウスト博士が、聖書を訳すに当たり、冒頭の一句
「初めに言葉ありき」
を、
「初めに力ありき」
「初めに意志ありき」
などに変えてみるが納得できず、最後に、
「初めに行動ありき」
と訳して、初めて納得するくだりがある。
いくら高尚な論理を尽くして悩み、夜を徹して語り、ノートをつけてみたって、行動しなければ、何も変わらない。言われてみれば当たり前のことだが、それに気付かず、無限の可能性を埋もらせたまま消えていく若者の、何と多いことか!
ワイマールでヨハンは、奇しくもシャルロッテと同じ名前の女性と出会う。彼女、シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人は、ヨハンより9つ年上で、しかも3人の子持ちだったが、当時の上流階級が、裏では不倫に寛容だったこともあって、ヨハンは彼女に夢中になる。この恋から、詩『運命に寄す』が生まれた。戯曲『シュテラ』も起稿している。
相手の名前がシャルロッテであることも、道ならぬ恋であることも、前回と共通していた。ヨハンが、前の恋への未練を晴らそうとして無意識のうちに行動したとしても、不自然ではない。
ヨハンはいかにも文学青年らしく、軍縮や減税、農民の労役の撤廃など、理想に燃えて改革に取り組んだ。災害が起これば、すぐ現場に出向いて、終日陣頭指揮を執った。
翌年には、戯曲『兄妹』などを執筆する一方、枢密院顧問官に任じられ、鉱山の復興を計る。28歳のときには、『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』も起稿している。戯曲『多感の勝利』も完成させている。29歳のときには、散文『イフェゲーニエ』を完成。20歳代は、ゲーテの才能が最も華々しく花開いた時期だった。
31歳になってすぐ、『トルクワート・タッソー』に取りかかる。この年に友人に送った手紙の中で、彼は、
「ぐずぐずしているわけにはいかない。もう、だいぶ歳を取っている」
そう記している。それが、天才の感覚だった。
その後数年は、シュタイン夫人の影響もあり、行動を重んじる哲学者スピノザの研究に没頭している。『ファウスト』冒頭に象徴されるように、ゲーテは、具体的な実践を重んじた。この姿勢はやはり、宰相という重責の中で培われていったと見るべきだろう。
当時、封建制はすでに限界を迎えていた。ドイツの政情は不安定で、数百の公国に分裂し、庶民の生活は貧窮していた。その現実の前には、高尚な哲学など、何の価値もなかった。文字通り、必要なのは行動だった。
また、この時期には、地質・鉱物・植物・解剖学への興味も見逃せない。特に解剖学では、顎間骨の痕跡が人間にも存在していることを発見している。
33歳のときには、貴族に叙せられている。彼がフォン・ゲーテを名乗るのは、それからのことである。
だが、創作のほうは、はかどらなかった。一般に、詩人は10歳代から20歳代にかけて、創作意欲のピークを迎えるといわれる。肉体の衰えはやむを得ないとして、精神のみずみずしさを保つことが必要だった。だが、40歳代のシュタイン夫人は、ゲーテに思慮深さを与えることはできても、詩人としてのインスピレーションを与えることは、できなかったらしい。
ゲーテに代わって「シュトルム・ウント・ドランク」の主役に躍り出たのが、10歳年下の劇作家シラーだった。ゲーテの大ファンだったシラーは、文学を志す。
「本を書こう! しかし、それは、圧制者に焼き捨てられるようなものでなくてはならない!」
その言葉通り、22歳で処女作『群盗』を上演するが、投獄され、創作活動も禁止される。だが、シラーは亡命して活動を続け、24歳で『歓喜に寄す』を作詞、その後も『たくらみと恋』などを発表し、若き文豪の地位を確立する。
反権力の若き文豪シラーの覇気は、時代を熱狂させた。それが、数年後に勃発するフランス革命の気運を高めていった可能性は、否定できない。疾風怒濤の先駆者ヘルダー、主人公ヨハン、そして後継者シラー。若き文豪たちの叫びが、人々の魂を変革していったのだった。
その後も、弾圧や病と闘いながら、シラーは26歳で『ドン・カルロス』、29歳で『オランダ離反史』などを発表し、後にはゲーテとも親交を結んでいる。『ファウスト』も、彼の励ましなくして、完成しなかったといわれる。
スランプに加えて、特権階級からの改革への反発にも疲れはて、ゲーテはシュタイン夫人にも相談せず、イタリアに向かう。これが、スランプを脱するきっかけとなった。
現地の若い女性との交友が転機となって、ゲーテは韻文『イフェゲーニエ』『エグモント』を完成させ、『タッソー』の執筆も再開する。さらに、化学・色彩論・気象学への関心も深めた。また、ローマでは1000枚ものスケッチを描いている。
ゲーテは、もともと付き合う相手の長所を自分に写し取り、創作の糧とするタイプの作家だが、ここで、若者との交流が自分に必要不可欠であることを、改めて痛感したと思われる。一方、この1人旅をシュタイン夫人は裏切りと感じ、2人の仲にヒビが入るようになる。
ゲーテがワイマールに戻り、国務大臣に復帰して芸術・科学を担当することになった直後、38歳のときに、16歳年下のクリスティアーネ・グルピウスと出会う。彼女は、読み書きもできない庶民の造花工だったが、ゲーテは彼女を愛し、内縁関係に発展する。
彼女の存在が、ゲーテの精神をますます若返らせた。たちまちのうちに『訪れ』『ローマ悲歌』『タッソー』を完成させる一方、シュタイン夫人に別れの手紙を送っている。シュタイン夫人はすでに50歳近く、気の若いゲーテを支えることはできなくなっていたらしい。だが、後に文通を再開している。
41歳のときには、枢密顧問と財務長官を兼ねながら『植物変形論』を著し、科学者としての一面も開花させている。さらに、ワイマール宮廷劇場の舞台監督にも就任している。ここでは幾多の女優に言い寄られたが、ロマンスを残していない。
遊び半分の恋はしないのが、プレイボーイ・ゲーテの意外な素顔だった。ゲーテにとっては、女性の人格こそ問題であって、ルックスなどは二の次だった。
さらに、43歳のときには、国家の要職にありながらも、自ら従軍している。これは負け戦だったが、ゲーテは退却しながら、
「ここから、今日から、新しい世界史が始まる」
そうつぶやいたと伝えられる。
フランス革命が始まっていた。
続きを読む
最初から読む
本編に登場する若き革命児……ヘルダー ヨハン・ヴォルフガング シラー
ゲーテ文学を語る上で、彼の、数々の女性たちとの出会いに、触れないわけにはいかないだろう。付き合う女性によって、彼の作風はガラリと変わった。
ヨハンの初恋は14歳、相手はグレートヒェンという、酒場で働く少女だった。だが、てんで子ども扱いされていることに気が付き、失恋に終わる。彼は、初恋から現実の残酷さを思い知らされた。
16歳になったばかりの秋、父の希望に従って、法律を学ぶために、ライプツィッヒ大学に入学する。この年には『クリストの地獄行きに関する詩想』や、版画なども手がけている。
翌年にはケートヒェン・シェーンコップという少女を恋し、詩集『アネット』、喜劇『恋人のむら気』『同罪者』などを創っている。特に、一連の詩は『ライプツィッヒ新小曲集』と題して、20歳のときに処女詩集として刊行されている。この時代の作品は、ケートヒェンの影響からか、ロココ趣味が強い。
だが、不摂生の1人暮しがたたって、19歳の誕生日を目前にした夏に吐血し、ケートヒェンと穏やかに別れて帰郷。その後、信心深いクレッテンベルクとの恋が始まる。ヨハンは、ライプツィッヒ時代の作品のほとんどを処分し、彼女の影響から、錬金術や神秘学に興味を寄せた。
この療養生活は、いわば、神童から真の天才に脱皮するための、産みの苦しみの期間だった。かのゲーテでさえ、スランプから逃れることはできなかったのだ。
2年後、20歳になっていたヨハン青年は、ようやく病も癒え、シュトラスブルク大学に転学した。ここで、26歳のヘルダー青年に出会い、多大な影響を受けている。ヘルダーは、すでに『近代ドイツ文学断想』『批評論叢』などを発表し、文壇をリードする存在だった。
「青年には、教育より刺激が必要である」
ゲーテは後にそう語っているが、誰かに教えられるよりも、むしろ切磋琢磨し合うことによって、若者は磨かれていく。過去の偉人の青年時代を知ることも、今日を生きる若者にとって、大きな刺激となることだろう。
また、この時代に、ヨハンは牧師の娘である18歳の少女フリーデリケ・ブリヨンと出会い、2人は、たちまち永遠の愛を誓った。この恋から、『野薔薇』『5月の歌』『歓迎と別離』『フリーデリケに』などの詩が生まれている。
だが、ルソーの自然主義に多大な影響を受けていたヨハンは、翌年、結婚のわずらわしさを嫌って(結婚による法的な束縛を、彼は知り尽くしていた)婚約を解消し、卒業して弁護士資格を得ると同時に帰郷する。
ゲーテは、晩年まで多彩な女性遍歴を続けたことで知られているが、結婚したのは1度だけだった。今日、EUでは同棲が激増し、4人に1人の新生児が、未婚の母親から生まれている。教会や法律に縛られた不自由な結婚制度から、ヨーロッパは脱却しつつある。
結婚制度は、もともと、女性の地位が奴隷や家畜並みだった時代に、女性を誰が所有するか決めるためにできた制度に過ぎない。日本においても、当人同士の意志で結婚できるようになったのは、戦後から。女性の地位が向上すれば、結婚制度が不要になるのは歴史の必然だろう。
ゲーテは、そのような歴史の流れを、2世紀以上も先取っていた。やはり、並の天才ではない。だが、牧師の娘として育てられ、結婚に神聖さを求めていたフリーデリケには、ヨハンの心情が理解できなかった。間違いなく愛し合っていた2人だが、価値観の相違のために、別れの道を選ばざるを得なかった。
結果的には、フリーデリケを自分の身勝手に巻き込んだことに、ゲーテは生涯、罪の意識を持ち続けた。後年、彼はことあるごとに彼女を誉め讃えているが、その別れについては、簡単にしか触れていない。
その簡単さの裏には、大文豪にしてとても筆にできない、万感胸に迫るものがあったのだろう。ゲーテは、あえてフリーデリケを自分の中から消さなかった。彼女への仕打ちを忘れず、良心の呵責に苦しみ続けることが、彼のせめてもの償いだった。
また、彼女と過ごした時期に、ゲーテ文学の基盤が築かれた事実も見逃せない。
「偉人の裏には、常により偉大な女性の存在がある」
といわれているが、フリーデリケとの出会いと別れがなければ、後の文豪ゲーテは決してありえなかった。
フリーデリケと別れたこの年、ヨハンはその悲しみをバネにして、出世作『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を完成している。『巡礼の朝の歌』などの詩も、この時期の代表作に挙げられる。
翌年、22歳のヨハンは、弁護士研修のために、ヴェッツラールに赴いた。ここで、婚約者のある19歳の少女シャルロッテ・ブッフと出会い、かなわぬ想いに胸を焦がすこととなる。それでも諦め切れないヨハンは、毎日のように彼女の元に通い詰める。
ロッテの婚約者であり、ヨハンの友人であるケストナーは、彼の切ない心を知ってか、ヨハンに何も言わなかった。そして、ついにヨハンは思い余ってロッテの唇を奪うが、これは逆効果で、貞淑な彼女を怒らせてしまった。この実体験が、『若きヴェルテルの悩み』執筆のきっかけとなった。
シャルロッテとの破局により、わずか5カ月でヴェッツラールを去った傷心のヨハンは、その後すぐにマクシミリアーネという16歳の少女と出会い、数週間ほど交際している。もっとも、彼女はまもなく、年上の商人に嫁いでいる。
傷心のヨハンは、『ドイツ建築術について』などを執筆し、つらい気持ちを紛らわせようとした。絵の勉強にも没頭した。だが、ロッテへの想いは募るばかりだった。躁鬱病に陥っていたヨハンは、いつも短剣を枕元に置き、しばしば自殺を試みていたという。
やはり夫ある女性に恋していた友人、イェルーザレムの自殺の知らせを受けたのは、そんなときだった。これによって、『ヴェルテル』の構想が生まれる。彼は、創作を人生の希望とすることを決意し、人生最大の危機に立ち向かった。当時の彼にとって、創作が唯一の生きる意味だった。
こうして、歴史に残る名作が、次々と世に送り出されることになる。まずは『ゲッツ』を完成。この作品により、かれはたちまち先輩ヘルダーに代わって、ドイツの「シュトルム・ウント・ドラング([疾風怒濤]の意味。過去の因習から脱却し、個性・自然・意欲を重んじる文学運動)」の旗手となった。この運動こそ、ルネサンス以来の、近代における人類精神の革命であり、若きヨハンをフランス革命の情緒的リーダーに位置付けることも、決して大げさではない。
『ヴェルテル』は、ヨハン24歳の冬、マクシミリアーネの結婚式の直後に、わずか四週間で一気に書き上げられている。結末を除いては、ほとんど実際の出来事(美化した部分はあったろうが)と感情を、そのままに書き連ねている。シャルロッテに至っては、実名で登場している。
僕は幾度と無く、心の中で(シャル)ロッテにさようならを言った。ロッテは、僕のほうを見てくれなかった。
(ロッテを乗せた)馬車が走り出した。僕の目に涙が浮かんだ。
僕は、ロッテのほうをじっと見た。ロッテの髪飾りが扉から出ているのが見えた。
ロッテが振り返った。ああ、僕を振り返ってみてくれたのだろうか。
……それがよく分からないので、気持ちが落ち着かない。
おそらく、僕を振り返ってみてくれたのだろう、と、僕は自分を慰めている。
このように繊細でリアルな心理描写などは、とても想像で描けるものではない。他にも、青春期の片想いに特有の複雑な心理が『ヴェルテル』ではふんだんに描写される。そこが、時代を超えて少年少女の共感を呼ぶゆえんだろう。
『ヴェルテル』のあらすじは、こうなっている。
青年ヴェルテル(ヨハン)は、ロッテとその婚約者アルベルト(本名ケストナー)に出会う。2人はヴェルテルにとって良き友人だったが、彼はロッテへの募る想いを抑え切れず、ついに2人の友情を裏切り、ロッテの唇を奪ってしまう。ロッテは、ヴェルテルに絶交を宣言する(ここまではほぼ事実)。ヴェルテルは死を決意し、ロッテに遺書を残した。
僕達3人のうちの1人は、去らなければならない。その1人に、僕はなろうと思うのです。
このヴェルテルの自殺には、単に失恋のショックの文学的表現だけではなく、シャルロッテとケストナー2人の友情を裏切ったヨハンの、彼らに対する謝罪の思いも、込められているのではないだろうか。ともかく、この作品によって、ヨハンは若くして世界的作家の地位を確立する。
「この小説を、自分のために書かれたと感じられない人は不幸だ」
とはゲーテの有名な言葉だが、ゲーテ自身は、『ヴェルテル』を生涯でただ1度きりしか読み返していないという。再び情熱が蘇ることを恐れたのだろう。ゲーテは、ロッテへの想いを生涯精算することができなかった。
「愛と友情の両立への挑戦」という、青春の永遠の理想を正面から描いているからこそ、『ヴェルテル』はこれほどまでに愛される作品となった。この作品が、史上最高の青春小説であることは間違いない。ぜひ、10歳代のうちに読んでおきたい1冊だろう。
人間には誰でも、表の人格ペルソナと、裏の人格シャドウがあることが知られている。要するに建前と本音だが、建前であるペルソナが、あまりにもシャドウの本音とかけ離れた場合、シャドウが反乱を起こして、ペルソナを乗っ取る場合があるという。
ヨハンの場合、友人のフィアンセに想いを寄せてはならないという理性が、彼の激しい情熱を抑え切れなくなり、生命をも脅かす重篤な躁鬱病を招いた。シャドウの反乱が起きていたのだった。
小説の主人公ヴェルテルとは、当時のヨハンのペルソナに当たると考えられる。やり場の無い感情を小説の中で告白し、ヴェルテルを身代わりとして自殺させることで、ヨハンはかろうじて、シャドウの反乱から、生命だけは守った。
事実、後にゲーテは、
「この時に、私は1度死んだ。あの時の私が死んだと考えることで、今の私は、当時の事を他人事だと思っていられる」
と述べている。文字通り、生きるか死ぬかの瀬戸際で、人類史上に残る、不朽の名作が生み出されたのだった。もし、彼が自分の体験を公にする勇気を持てなかったなら、彼は現実に命を落としていただろう。
このように、創作活動などによってイメージを思い描くことは、精神病を克服する上で有効となる。現代のセラピーでも、箱庭療法などが用いられている。
ただし、分裂症患者の場合、イメージ療法を施すと、逆に危険を招く。彼らは、躁鬱になったゲーテとは逆に、自分の内的世界への愛着が強いあまり、環境への関心に欠けている。だから、ゲーテのケースとは逆に、現実環境の中で自己実現することが必要になる。
しかし、いずれの場合も、患者は快復過程において、超人的才能を発揮する。すなわち、内的個人的精神的世界と、外的社会的物質的世界との融合によって、偉大な業績が生み出される。
ドイツの精神医学者ランゲは、いわゆる天才と呼ばれる人々が精神病的症状を現わした比率を調査した結果、普通の人の30倍近くに達すると発表した。その中でも特に大きな実績を残した天才について調べてみると、9割以上が精神病的、もしくはそれに近い症状を示しているという。ちなみに、通常の人の場合、この比率は1割に満たない。
夏目漱石は、自分自身の神経衰弱の体験から、
「天才に、たまたま精神病の持ち主が多いのではなく、外的環境が精神病患者を作り、精神病が患者に天才的行動を起こさせるのだ」
そう述べている。漱石もまたゲーテと同じく、三角関係を描いた日本文学の金字塔『こゝろ』を残している。
ユングによれば、家庭や社会などの環境によって歪められた精神が、正常な状態に快復する過程が、精神病なのだという。ある意味で、心を病むのは、健康な自己治癒力を持っている証拠であろう。しかし、環境によって精神が歪められている以上、環境を変えなければ、心の病は治らない。ただ夢を見て現実逃避するだけで終わっては当然ダメで、そこで得た自信や教訓を活かして、現実を改善する必要がある。
ここが、心の病が一般の病気と異なる点で、個人の内面と外の世界が連続しているという視点から見なければ、決して心の病を正確に把握することはできない。心の病は、個人の病理であると同時に、社会病理でもある。社会環境が改善されない限り、心の病は決して根絶されない。
事実、長年に渡って多くの患者の臨床例を見てきた河合隼雄教授によると、患者の内面が変わったときには、患者を取り巻く環境も、必ず連鎖的に変わっているという。その過程で患者は、普段なら考えられないような、天才的な行動を示す。教授は、
「健康な精神の持ち主だからこそ、歪んだ環境の中で、心を病む。患者さんは、日本の社会病理を癒す先駆者である」
そう結論付けている。精神医学ではこのように、病気という、一般的にはマイナスに捉えられがちな現象でも、プラスの意味で解釈する態度が、非常に大切になる。
ヨハンの場合、「恋愛と友情の両立」という、思春期前期的な理想を、成人後も愚直に追求し続けている。このように、潔癖な理想を成人後も抱き続けることを、精神医学ではジュヴェニリズム(若年症)と呼ぶ。
普通なら、恋と友情のどちらかを優先し、どちらかを切り捨てられるようになっていく。自分自身や人を傷付けないために、要領良くなっていく。だが、そこには、生活のため、体面を保つためという妥協の一面もある。あたかも、社会に合わせて自分自身を裁断するかのように。
ヨハンは、一切の要領や妥協を許せなかっために、ヴェッツラールの悲劇を招いた。実際、高すぎる理想はしばしば周囲との軋轢を招くがゆえに、精神医学でも、病気の一種と見なされている。
だが、空を飛ぶことを夢見続けた人々が飛行機を発明したように、ジュヴェニリズムは、必ずしも忌むべき、矯正すべきものとは限らない。むしろ、人類の進歩のために必要でさえある。
苦悩、トラウマを抱える人々こそ、小さな救世主なのである。世の中には、さまざまな歪みがある。それを変えられるのは、身をもって世の中のしわ寄せを受けている人たち、世間からはむしろ弱者、敗者と蔑まれ、あるいは奇人変人扱いされ、苦しんでいる人たちしかいない。そんな人たちの中にこそ、人類を救う力が秘められている。ゲーテは、それを身をもって立証したのだった。
『ヴェルテル』は大衆から熱狂的に支持され、ヨハンは一躍、世界的文豪の地位を確立したが、上流階級や聖職者からは、一斉に反発を招いた。イタリアでは、聖職者たちが『ヴェルテル』の初版を買い占め、大衆の目に触れないようにした。高位の聖職者がわざわざヨハンを訪ね、面と向かって罵倒したことさえあった。
もちろん、ヨハンも黙ってはいない。すぐさま反論し、この聖職者は、沈黙して逃げ帰るしかなかった。特権階級は常に、大衆が真実に目覚めることを恐れている。それだけに、人生の真実を生き生きと描いた『ヴェルテル』に、本能的な拒絶反応を示したのだ。
若きヨハンの才能の奔流は、留まるところを知らなかった。『ヴェルテル』脱稿からわずか1カ月後、『クラウィーゴ』を1週間足らずで書き上げている。さらに、かの大作『ファウスト』の執筆にも取りかかる。
『ヴェルテル』に、『ファウスト』。ゲーテは、その代表作に、いずれも青年時代から取りかかっていたのだった。偉大な人は、決して、大切な仕事を後回しにしない。『プロメテウス』『マホメット』などの詩も、この時期の作品。
25歳になったヨハンは、16歳の少女エリザベート・リリー・シューネマンと出会い、『新しい愛 新しい命』を書いている。数多くの恋人の中から、彼女と婚約するものの、小市民的生活を嫌って、結局は5カ月でこれを破棄。その悩みの中で、『湖上』『秋思』などの詩が生まれた。喜劇『エグモント』も起稿している。
その後、18歳の若き君主カール・アウグスト公の招きに応じ、ワイマール公国の宰相となる。26歳の若さで、ヨハンは、一国の政治をも担う立場になった。ワイマールに到着して早々、ヨハンは『ファウスト』初稿を朗読し、周囲を感動させている。
あまりにも有名なゲーテの代表作『ファウスト』の冒頭では、主人公ファウスト博士が、聖書を訳すに当たり、冒頭の一句
「初めに言葉ありき」
を、
「初めに力ありき」
「初めに意志ありき」
などに変えてみるが納得できず、最後に、
「初めに行動ありき」
と訳して、初めて納得するくだりがある。
いくら高尚な論理を尽くして悩み、夜を徹して語り、ノートをつけてみたって、行動しなければ、何も変わらない。言われてみれば当たり前のことだが、それに気付かず、無限の可能性を埋もらせたまま消えていく若者の、何と多いことか!
ワイマールでヨハンは、奇しくもシャルロッテと同じ名前の女性と出会う。彼女、シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人は、ヨハンより9つ年上で、しかも3人の子持ちだったが、当時の上流階級が、裏では不倫に寛容だったこともあって、ヨハンは彼女に夢中になる。この恋から、詩『運命に寄す』が生まれた。戯曲『シュテラ』も起稿している。
相手の名前がシャルロッテであることも、道ならぬ恋であることも、前回と共通していた。ヨハンが、前の恋への未練を晴らそうとして無意識のうちに行動したとしても、不自然ではない。
ヨハンはいかにも文学青年らしく、軍縮や減税、農民の労役の撤廃など、理想に燃えて改革に取り組んだ。災害が起これば、すぐ現場に出向いて、終日陣頭指揮を執った。
翌年には、戯曲『兄妹』などを執筆する一方、枢密院顧問官に任じられ、鉱山の復興を計る。28歳のときには、『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』も起稿している。戯曲『多感の勝利』も完成させている。29歳のときには、散文『イフェゲーニエ』を完成。20歳代は、ゲーテの才能が最も華々しく花開いた時期だった。
31歳になってすぐ、『トルクワート・タッソー』に取りかかる。この年に友人に送った手紙の中で、彼は、
「ぐずぐずしているわけにはいかない。もう、だいぶ歳を取っている」
そう記している。それが、天才の感覚だった。
その後数年は、シュタイン夫人の影響もあり、行動を重んじる哲学者スピノザの研究に没頭している。『ファウスト』冒頭に象徴されるように、ゲーテは、具体的な実践を重んじた。この姿勢はやはり、宰相という重責の中で培われていったと見るべきだろう。
当時、封建制はすでに限界を迎えていた。ドイツの政情は不安定で、数百の公国に分裂し、庶民の生活は貧窮していた。その現実の前には、高尚な哲学など、何の価値もなかった。文字通り、必要なのは行動だった。
また、この時期には、地質・鉱物・植物・解剖学への興味も見逃せない。特に解剖学では、顎間骨の痕跡が人間にも存在していることを発見している。
33歳のときには、貴族に叙せられている。彼がフォン・ゲーテを名乗るのは、それからのことである。
だが、創作のほうは、はかどらなかった。一般に、詩人は10歳代から20歳代にかけて、創作意欲のピークを迎えるといわれる。肉体の衰えはやむを得ないとして、精神のみずみずしさを保つことが必要だった。だが、40歳代のシュタイン夫人は、ゲーテに思慮深さを与えることはできても、詩人としてのインスピレーションを与えることは、できなかったらしい。
ゲーテに代わって「シュトルム・ウント・ドランク」の主役に躍り出たのが、10歳年下の劇作家シラーだった。ゲーテの大ファンだったシラーは、文学を志す。
「本を書こう! しかし、それは、圧制者に焼き捨てられるようなものでなくてはならない!」
その言葉通り、22歳で処女作『群盗』を上演するが、投獄され、創作活動も禁止される。だが、シラーは亡命して活動を続け、24歳で『歓喜に寄す』を作詞、その後も『たくらみと恋』などを発表し、若き文豪の地位を確立する。
反権力の若き文豪シラーの覇気は、時代を熱狂させた。それが、数年後に勃発するフランス革命の気運を高めていった可能性は、否定できない。疾風怒濤の先駆者ヘルダー、主人公ヨハン、そして後継者シラー。若き文豪たちの叫びが、人々の魂を変革していったのだった。
その後も、弾圧や病と闘いながら、シラーは26歳で『ドン・カルロス』、29歳で『オランダ離反史』などを発表し、後にはゲーテとも親交を結んでいる。『ファウスト』も、彼の励ましなくして、完成しなかったといわれる。
スランプに加えて、特権階級からの改革への反発にも疲れはて、ゲーテはシュタイン夫人にも相談せず、イタリアに向かう。これが、スランプを脱するきっかけとなった。
現地の若い女性との交友が転機となって、ゲーテは韻文『イフェゲーニエ』『エグモント』を完成させ、『タッソー』の執筆も再開する。さらに、化学・色彩論・気象学への関心も深めた。また、ローマでは1000枚ものスケッチを描いている。
ゲーテは、もともと付き合う相手の長所を自分に写し取り、創作の糧とするタイプの作家だが、ここで、若者との交流が自分に必要不可欠であることを、改めて痛感したと思われる。一方、この1人旅をシュタイン夫人は裏切りと感じ、2人の仲にヒビが入るようになる。
ゲーテがワイマールに戻り、国務大臣に復帰して芸術・科学を担当することになった直後、38歳のときに、16歳年下のクリスティアーネ・グルピウスと出会う。彼女は、読み書きもできない庶民の造花工だったが、ゲーテは彼女を愛し、内縁関係に発展する。
彼女の存在が、ゲーテの精神をますます若返らせた。たちまちのうちに『訪れ』『ローマ悲歌』『タッソー』を完成させる一方、シュタイン夫人に別れの手紙を送っている。シュタイン夫人はすでに50歳近く、気の若いゲーテを支えることはできなくなっていたらしい。だが、後に文通を再開している。
41歳のときには、枢密顧問と財務長官を兼ねながら『植物変形論』を著し、科学者としての一面も開花させている。さらに、ワイマール宮廷劇場の舞台監督にも就任している。ここでは幾多の女優に言い寄られたが、ロマンスを残していない。
遊び半分の恋はしないのが、プレイボーイ・ゲーテの意外な素顔だった。ゲーテにとっては、女性の人格こそ問題であって、ルックスなどは二の次だった。
さらに、43歳のときには、国家の要職にありながらも、自ら従軍している。これは負け戦だったが、ゲーテは退却しながら、
「ここから、今日から、新しい世界史が始まる」
そうつぶやいたと伝えられる。
フランス革命が始まっていた。
続きを読む
最初から読む