大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

フランス革命2 疾風怒濤編

2005-02-28 16:56:45 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
肖像 シャルロッテ


 本編に登場する若き革命児……ヘルダー ヨハン・ヴォルフガング シラー



 ゲーテ文学を語る上で、彼の、数々の女性たちとの出会いに、触れないわけにはいかないだろう。付き合う女性によって、彼の作風はガラリと変わった。

 ヨハンの初恋は14歳、相手はグレートヒェンという、酒場で働く少女だった。だが、てんで子ども扱いされていることに気が付き、失恋に終わる。彼は、初恋から現実の残酷さを思い知らされた。

 16歳になったばかりの秋、父の希望に従って、法律を学ぶために、ライプツィッヒ大学に入学する。この年には『クリストの地獄行きに関する詩想』や、版画なども手がけている。

 翌年にはケートヒェン・シェーンコップという少女を恋し、詩集『アネット』、喜劇『恋人のむら気』『同罪者』などを創っている。特に、一連の詩は『ライプツィッヒ新小曲集』と題して、20歳のときに処女詩集として刊行されている。この時代の作品は、ケートヒェンの影響からか、ロココ趣味が強い。

 だが、不摂生の1人暮しがたたって、19歳の誕生日を目前にした夏に吐血し、ケートヒェンと穏やかに別れて帰郷。その後、信心深いクレッテンベルクとの恋が始まる。ヨハンは、ライプツィッヒ時代の作品のほとんどを処分し、彼女の影響から、錬金術や神秘学に興味を寄せた。

 この療養生活は、いわば、神童から真の天才に脱皮するための、産みの苦しみの期間だった。かのゲーテでさえ、スランプから逃れることはできなかったのだ。


 2年後、20歳になっていたヨハン青年は、ようやく病も癒え、シュトラスブルク大学に転学した。ここで、26歳のヘルダー青年に出会い、多大な影響を受けている。ヘルダーは、すでに『近代ドイツ文学断想』『批評論叢』などを発表し、文壇をリードする存在だった。

「青年には、教育より刺激が必要である」

 ゲーテは後にそう語っているが、誰かに教えられるよりも、むしろ切磋琢磨し合うことによって、若者は磨かれていく。過去の偉人の青年時代を知ることも、今日を生きる若者にとって、大きな刺激となることだろう。

 また、この時代に、ヨハンは牧師の娘である18歳の少女フリーデリケ・ブリヨンと出会い、2人は、たちまち永遠の愛を誓った。この恋から、『野薔薇』『5月の歌』『歓迎と別離』『フリーデリケに』などの詩が生まれている。

 だが、ルソーの自然主義に多大な影響を受けていたヨハンは、翌年、結婚のわずらわしさを嫌って(結婚による法的な束縛を、彼は知り尽くしていた)婚約を解消し、卒業して弁護士資格を得ると同時に帰郷する。

 ゲーテは、晩年まで多彩な女性遍歴を続けたことで知られているが、結婚したのは1度だけだった。今日、EUでは同棲が激増し、4人に1人の新生児が、未婚の母親から生まれている。教会や法律に縛られた不自由な結婚制度から、ヨーロッパは脱却しつつある。
 結婚制度は、もともと、女性の地位が奴隷や家畜並みだった時代に、女性を誰が所有するか決めるためにできた制度に過ぎない。日本においても、当人同士の意志で結婚できるようになったのは、戦後から。女性の地位が向上すれば、結婚制度が不要になるのは歴史の必然だろう。

 ゲーテは、そのような歴史の流れを、2世紀以上も先取っていた。やはり、並の天才ではない。だが、牧師の娘として育てられ、結婚に神聖さを求めていたフリーデリケには、ヨハンの心情が理解できなかった。間違いなく愛し合っていた2人だが、価値観の相違のために、別れの道を選ばざるを得なかった。

 結果的には、フリーデリケを自分の身勝手に巻き込んだことに、ゲーテは生涯、罪の意識を持ち続けた。後年、彼はことあるごとに彼女を誉め讃えているが、その別れについては、簡単にしか触れていない。
 その簡単さの裏には、大文豪にしてとても筆にできない、万感胸に迫るものがあったのだろう。ゲーテは、あえてフリーデリケを自分の中から消さなかった。彼女への仕打ちを忘れず、良心の呵責に苦しみ続けることが、彼のせめてもの償いだった。
 また、彼女と過ごした時期に、ゲーテ文学の基盤が築かれた事実も見逃せない。

「偉人の裏には、常により偉大な女性の存在がある」

 といわれているが、フリーデリケとの出会いと別れがなければ、後の文豪ゲーテは決してありえなかった。

 フリーデリケと別れたこの年、ヨハンはその悲しみをバネにして、出世作『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を完成している。『巡礼の朝の歌』などの詩も、この時期の代表作に挙げられる。


 翌年、22歳のヨハンは、弁護士研修のために、ヴェッツラールに赴いた。ここで、婚約者のある19歳の少女シャルロッテ・ブッフと出会い、かなわぬ想いに胸を焦がすこととなる。それでも諦め切れないヨハンは、毎日のように彼女の元に通い詰める。
 ロッテの婚約者であり、ヨハンの友人であるケストナーは、彼の切ない心を知ってか、ヨハンに何も言わなかった。そして、ついにヨハンは思い余ってロッテの唇を奪うが、これは逆効果で、貞淑な彼女を怒らせてしまった。この実体験が、『若きヴェルテルの悩み』執筆のきっかけとなった。

 シャルロッテとの破局により、わずか5カ月でヴェッツラールを去った傷心のヨハンは、その後すぐにマクシミリアーネという16歳の少女と出会い、数週間ほど交際している。もっとも、彼女はまもなく、年上の商人に嫁いでいる。

 傷心のヨハンは、『ドイツ建築術について』などを執筆し、つらい気持ちを紛らわせようとした。絵の勉強にも没頭した。だが、ロッテへの想いは募るばかりだった。躁鬱病に陥っていたヨハンは、いつも短剣を枕元に置き、しばしば自殺を試みていたという。
 やはり夫ある女性に恋していた友人、イェルーザレムの自殺の知らせを受けたのは、そんなときだった。これによって、『ヴェルテル』の構想が生まれる。彼は、創作を人生の希望とすることを決意し、人生最大の危機に立ち向かった。当時の彼にとって、創作が唯一の生きる意味だった。


 こうして、歴史に残る名作が、次々と世に送り出されることになる。まずは『ゲッツ』を完成。この作品により、かれはたちまち先輩ヘルダーに代わって、ドイツの「シュトルム・ウント・ドラング([疾風怒濤]の意味。過去の因習から脱却し、個性・自然・意欲を重んじる文学運動)」の旗手となった。この運動こそ、ルネサンス以来の、近代における人類精神の革命であり、若きヨハンをフランス革命の情緒的リーダーに位置付けることも、決して大げさではない。

 『ヴェルテル』は、ヨハン24歳の冬、マクシミリアーネの結婚式の直後に、わずか四週間で一気に書き上げられている。結末を除いては、ほとんど実際の出来事(美化した部分はあったろうが)と感情を、そのままに書き連ねている。シャルロッテに至っては、実名で登場している。


 僕は幾度と無く、心の中で(シャル)ロッテにさようならを言った。ロッテは、僕のほうを見てくれなかった。
 (ロッテを乗せた)馬車が走り出した。僕の目に涙が浮かんだ。
 僕は、ロッテのほうをじっと見た。ロッテの髪飾りが扉から出ているのが見えた。
 ロッテが振り返った。ああ、僕を振り返ってみてくれたのだろうか。
 ……それがよく分からないので、気持ちが落ち着かない。
 おそらく、僕を振り返ってみてくれたのだろう、と、僕は自分を慰めている。


 このように繊細でリアルな心理描写などは、とても想像で描けるものではない。他にも、青春期の片想いに特有の複雑な心理が『ヴェルテル』ではふんだんに描写される。そこが、時代を超えて少年少女の共感を呼ぶゆえんだろう。

 『ヴェルテル』のあらすじは、こうなっている。

 青年ヴェルテル(ヨハン)は、ロッテとその婚約者アルベルト(本名ケストナー)に出会う。2人はヴェルテルにとって良き友人だったが、彼はロッテへの募る想いを抑え切れず、ついに2人の友情を裏切り、ロッテの唇を奪ってしまう。ロッテは、ヴェルテルに絶交を宣言する(ここまではほぼ事実)。ヴェルテルは死を決意し、ロッテに遺書を残した。

 僕達3人のうちの1人は、去らなければならない。その1人に、僕はなろうと思うのです。

 このヴェルテルの自殺には、単に失恋のショックの文学的表現だけではなく、シャルロッテとケストナー2人の友情を裏切ったヨハンの、彼らに対する謝罪の思いも、込められているのではないだろうか。ともかく、この作品によって、ヨハンは若くして世界的作家の地位を確立する。

「この小説を、自分のために書かれたと感じられない人は不幸だ」

 とはゲーテの有名な言葉だが、ゲーテ自身は、『ヴェルテル』を生涯でただ1度きりしか読み返していないという。再び情熱が蘇ることを恐れたのだろう。ゲーテは、ロッテへの想いを生涯精算することができなかった。
 「愛と友情の両立への挑戦」という、青春の永遠の理想を正面から描いているからこそ、『ヴェルテル』はこれほどまでに愛される作品となった。この作品が、史上最高の青春小説であることは間違いない。ぜひ、10歳代のうちに読んでおきたい1冊だろう。


 人間には誰でも、表の人格ペルソナと、裏の人格シャドウがあることが知られている。要するに建前と本音だが、建前であるペルソナが、あまりにもシャドウの本音とかけ離れた場合、シャドウが反乱を起こして、ペルソナを乗っ取る場合があるという。

 ヨハンの場合、友人のフィアンセに想いを寄せてはならないという理性が、彼の激しい情熱を抑え切れなくなり、生命をも脅かす重篤な躁鬱病を招いた。シャドウの反乱が起きていたのだった。
 小説の主人公ヴェルテルとは、当時のヨハンのペルソナに当たると考えられる。やり場の無い感情を小説の中で告白し、ヴェルテルを身代わりとして自殺させることで、ヨハンはかろうじて、シャドウの反乱から、生命だけは守った。

 事実、後にゲーテは、
「この時に、私は1度死んだ。あの時の私が死んだと考えることで、今の私は、当時の事を他人事だと思っていられる」
 と述べている。文字通り、生きるか死ぬかの瀬戸際で、人類史上に残る、不朽の名作が生み出されたのだった。もし、彼が自分の体験を公にする勇気を持てなかったなら、彼は現実に命を落としていただろう。

 このように、創作活動などによってイメージを思い描くことは、精神病を克服する上で有効となる。現代のセラピーでも、箱庭療法などが用いられている。

 ただし、分裂症患者の場合、イメージ療法を施すと、逆に危険を招く。彼らは、躁鬱になったゲーテとは逆に、自分の内的世界への愛着が強いあまり、環境への関心に欠けている。だから、ゲーテのケースとは逆に、現実環境の中で自己実現することが必要になる。

 しかし、いずれの場合も、患者は快復過程において、超人的才能を発揮する。すなわち、内的個人的精神的世界と、外的社会的物質的世界との融合によって、偉大な業績が生み出される。

 ドイツの精神医学者ランゲは、いわゆる天才と呼ばれる人々が精神病的症状を現わした比率を調査した結果、普通の人の30倍近くに達すると発表した。その中でも特に大きな実績を残した天才について調べてみると、9割以上が精神病的、もしくはそれに近い症状を示しているという。ちなみに、通常の人の場合、この比率は1割に満たない。

 夏目漱石は、自分自身の神経衰弱の体験から、
「天才に、たまたま精神病の持ち主が多いのではなく、外的環境が精神病患者を作り、精神病が患者に天才的行動を起こさせるのだ」
 そう述べている。漱石もまたゲーテと同じく、三角関係を描いた日本文学の金字塔『こゝろ』を残している。

 ユングによれば、家庭や社会などの環境によって歪められた精神が、正常な状態に快復する過程が、精神病なのだという。ある意味で、心を病むのは、健康な自己治癒力を持っている証拠であろう。しかし、環境によって精神が歪められている以上、環境を変えなければ、心の病は治らない。ただ夢を見て現実逃避するだけで終わっては当然ダメで、そこで得た自信や教訓を活かして、現実を改善する必要がある。
 ここが、心の病が一般の病気と異なる点で、個人の内面と外の世界が連続しているという視点から見なければ、決して心の病を正確に把握することはできない。心の病は、個人の病理であると同時に、社会病理でもある。社会環境が改善されない限り、心の病は決して根絶されない。
 事実、長年に渡って多くの患者の臨床例を見てきた河合隼雄教授によると、患者の内面が変わったときには、患者を取り巻く環境も、必ず連鎖的に変わっているという。その過程で患者は、普段なら考えられないような、天才的な行動を示す。教授は、

「健康な精神の持ち主だからこそ、歪んだ環境の中で、心を病む。患者さんは、日本の社会病理を癒す先駆者である」

 そう結論付けている。精神医学ではこのように、病気という、一般的にはマイナスに捉えられがちな現象でも、プラスの意味で解釈する態度が、非常に大切になる。

 ヨハンの場合、「恋愛と友情の両立」という、思春期前期的な理想を、成人後も愚直に追求し続けている。このように、潔癖な理想を成人後も抱き続けることを、精神医学ではジュヴェニリズム(若年症)と呼ぶ。

 普通なら、恋と友情のどちらかを優先し、どちらかを切り捨てられるようになっていく。自分自身や人を傷付けないために、要領良くなっていく。だが、そこには、生活のため、体面を保つためという妥協の一面もある。あたかも、社会に合わせて自分自身を裁断するかのように。
 ヨハンは、一切の要領や妥協を許せなかっために、ヴェッツラールの悲劇を招いた。実際、高すぎる理想はしばしば周囲との軋轢を招くがゆえに、精神医学でも、病気の一種と見なされている。

 だが、空を飛ぶことを夢見続けた人々が飛行機を発明したように、ジュヴェニリズムは、必ずしも忌むべき、矯正すべきものとは限らない。むしろ、人類の進歩のために必要でさえある。

 苦悩、トラウマを抱える人々こそ、小さな救世主なのである。世の中には、さまざまな歪みがある。それを変えられるのは、身をもって世の中のしわ寄せを受けている人たち、世間からはむしろ弱者、敗者と蔑まれ、あるいは奇人変人扱いされ、苦しんでいる人たちしかいない。そんな人たちの中にこそ、人類を救う力が秘められている。ゲーテは、それを身をもって立証したのだった。


 『ヴェルテル』は大衆から熱狂的に支持され、ヨハンは一躍、世界的文豪の地位を確立したが、上流階級や聖職者からは、一斉に反発を招いた。イタリアでは、聖職者たちが『ヴェルテル』の初版を買い占め、大衆の目に触れないようにした。高位の聖職者がわざわざヨハンを訪ね、面と向かって罵倒したことさえあった。
 もちろん、ヨハンも黙ってはいない。すぐさま反論し、この聖職者は、沈黙して逃げ帰るしかなかった。特権階級は常に、大衆が真実に目覚めることを恐れている。それだけに、人生の真実を生き生きと描いた『ヴェルテル』に、本能的な拒絶反応を示したのだ。

 若きヨハンの才能の奔流は、留まるところを知らなかった。『ヴェルテル』脱稿からわずか1カ月後、『クラウィーゴ』を1週間足らずで書き上げている。さらに、かの大作『ファウスト』の執筆にも取りかかる。

 『ヴェルテル』に、『ファウスト』。ゲーテは、その代表作に、いずれも青年時代から取りかかっていたのだった。偉大な人は、決して、大切な仕事を後回しにしない。『プロメテウス』『マホメット』などの詩も、この時期の作品。

 25歳になったヨハンは、16歳の少女エリザベート・リリー・シューネマンと出会い、『新しい愛 新しい命』を書いている。数多くの恋人の中から、彼女と婚約するものの、小市民的生活を嫌って、結局は5カ月でこれを破棄。その悩みの中で、『湖上』『秋思』などの詩が生まれた。喜劇『エグモント』も起稿している。

 その後、18歳の若き君主カール・アウグスト公の招きに応じ、ワイマール公国の宰相となる。26歳の若さで、ヨハンは、一国の政治をも担う立場になった。ワイマールに到着して早々、ヨハンは『ファウスト』初稿を朗読し、周囲を感動させている。

 あまりにも有名なゲーテの代表作『ファウスト』の冒頭では、主人公ファウスト博士が、聖書を訳すに当たり、冒頭の一句

「初めに言葉ありき」

 を、

「初めに力ありき」

「初めに意志ありき」

 などに変えてみるが納得できず、最後に、

「初めに行動ありき」

 と訳して、初めて納得するくだりがある。

 いくら高尚な論理を尽くして悩み、夜を徹して語り、ノートをつけてみたって、行動しなければ、何も変わらない。言われてみれば当たり前のことだが、それに気付かず、無限の可能性を埋もらせたまま消えていく若者の、何と多いことか!

 ワイマールでヨハンは、奇しくもシャルロッテと同じ名前の女性と出会う。彼女、シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人は、ヨハンより9つ年上で、しかも3人の子持ちだったが、当時の上流階級が、裏では不倫に寛容だったこともあって、ヨハンは彼女に夢中になる。この恋から、詩『運命に寄す』が生まれた。戯曲『シュテラ』も起稿している。
 相手の名前がシャルロッテであることも、道ならぬ恋であることも、前回と共通していた。ヨハンが、前の恋への未練を晴らそうとして無意識のうちに行動したとしても、不自然ではない。


 ヨハンはいかにも文学青年らしく、軍縮や減税、農民の労役の撤廃など、理想に燃えて改革に取り組んだ。災害が起これば、すぐ現場に出向いて、終日陣頭指揮を執った。

 翌年には、戯曲『兄妹』などを執筆する一方、枢密院顧問官に任じられ、鉱山の復興を計る。28歳のときには、『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』も起稿している。戯曲『多感の勝利』も完成させている。29歳のときには、散文『イフェゲーニエ』を完成。20歳代は、ゲーテの才能が最も華々しく花開いた時期だった。

 31歳になってすぐ、『トルクワート・タッソー』に取りかかる。この年に友人に送った手紙の中で、彼は、
「ぐずぐずしているわけにはいかない。もう、だいぶ歳を取っている」
 そう記している。それが、天才の感覚だった。

 その後数年は、シュタイン夫人の影響もあり、行動を重んじる哲学者スピノザの研究に没頭している。『ファウスト』冒頭に象徴されるように、ゲーテは、具体的な実践を重んじた。この姿勢はやはり、宰相という重責の中で培われていったと見るべきだろう。
 当時、封建制はすでに限界を迎えていた。ドイツの政情は不安定で、数百の公国に分裂し、庶民の生活は貧窮していた。その現実の前には、高尚な哲学など、何の価値もなかった。文字通り、必要なのは行動だった。

 また、この時期には、地質・鉱物・植物・解剖学への興味も見逃せない。特に解剖学では、顎間骨の痕跡が人間にも存在していることを発見している。

 33歳のときには、貴族に叙せられている。彼がフォン・ゲーテを名乗るのは、それからのことである。


 だが、創作のほうは、はかどらなかった。一般に、詩人は10歳代から20歳代にかけて、創作意欲のピークを迎えるといわれる。肉体の衰えはやむを得ないとして、精神のみずみずしさを保つことが必要だった。だが、40歳代のシュタイン夫人は、ゲーテに思慮深さを与えることはできても、詩人としてのインスピレーションを与えることは、できなかったらしい。

 ゲーテに代わって「シュトルム・ウント・ドランク」の主役に躍り出たのが、10歳年下の劇作家シラーだった。ゲーテの大ファンだったシラーは、文学を志す。

「本を書こう! しかし、それは、圧制者に焼き捨てられるようなものでなくてはならない!」

 その言葉通り、22歳で処女作『群盗』を上演するが、投獄され、創作活動も禁止される。だが、シラーは亡命して活動を続け、24歳で『歓喜に寄す』を作詞、その後も『たくらみと恋』などを発表し、若き文豪の地位を確立する。

 反権力の若き文豪シラーの覇気は、時代を熱狂させた。それが、数年後に勃発するフランス革命の気運を高めていった可能性は、否定できない。疾風怒濤の先駆者ヘルダー、主人公ヨハン、そして後継者シラー。若き文豪たちの叫びが、人々の魂を変革していったのだった。

 その後も、弾圧や病と闘いながら、シラーは26歳で『ドン・カルロス』、29歳で『オランダ離反史』などを発表し、後にはゲーテとも親交を結んでいる。『ファウスト』も、彼の励ましなくして、完成しなかったといわれる。

 スランプに加えて、特権階級からの改革への反発にも疲れはて、ゲーテはシュタイン夫人にも相談せず、イタリアに向かう。これが、スランプを脱するきっかけとなった。
 現地の若い女性との交友が転機となって、ゲーテは韻文『イフェゲーニエ』『エグモント』を完成させ、『タッソー』の執筆も再開する。さらに、化学・色彩論・気象学への関心も深めた。また、ローマでは1000枚ものスケッチを描いている。
 ゲーテは、もともと付き合う相手の長所を自分に写し取り、創作の糧とするタイプの作家だが、ここで、若者との交流が自分に必要不可欠であることを、改めて痛感したと思われる。一方、この1人旅をシュタイン夫人は裏切りと感じ、2人の仲にヒビが入るようになる。

 ゲーテがワイマールに戻り、国務大臣に復帰して芸術・科学を担当することになった直後、38歳のときに、16歳年下のクリスティアーネ・グルピウスと出会う。彼女は、読み書きもできない庶民の造花工だったが、ゲーテは彼女を愛し、内縁関係に発展する。
 彼女の存在が、ゲーテの精神をますます若返らせた。たちまちのうちに『訪れ』『ローマ悲歌』『タッソー』を完成させる一方、シュタイン夫人に別れの手紙を送っている。シュタイン夫人はすでに50歳近く、気の若いゲーテを支えることはできなくなっていたらしい。だが、後に文通を再開している。

 41歳のときには、枢密顧問と財務長官を兼ねながら『植物変形論』を著し、科学者としての一面も開花させている。さらに、ワイマール宮廷劇場の舞台監督にも就任している。ここでは幾多の女優に言い寄られたが、ロマンスを残していない。
 遊び半分の恋はしないのが、プレイボーイ・ゲーテの意外な素顔だった。ゲーテにとっては、女性の人格こそ問題であって、ルックスなどは二の次だった。

 さらに、43歳のときには、国家の要職にありながらも、自ら従軍している。これは負け戦だったが、ゲーテは退却しながら、
「ここから、今日から、新しい世界史が始まる」
 そうつぶやいたと伝えられる。

 フランス革命が始まっていた。



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フランス革命1 神童ヴォルフガング編

2005-02-28 16:25:42 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
肖像 若き日のゲーテ


 本編に登場する若き天才……ヨハン・ヴォルフガング ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

 1999年で、ゲーテの生誕から250周年を迎えた。2世紀半もの年月が流れたわけである。しかし今なお、ゲーテの残した数々の作品は、私たちの人生に大きな示唆を与えてくれる。真の文学は、決して時と共に色あせることはない。むしろ、ますますその輝きを増していく。
 古典文学には、「読みにくい」「つまらない」というイメージが強い。確かに、そういう作品があることは事実。海外の作品など、翻訳者によっては、とても読めるものではないこともある。しかし、それだけのことで、全ての古典を「一読の価値なし」と決めつけるのは早すぎるだろう。古典を読んでいないことは、恥にこそなれ、決して自慢にはならない。
 海外のエリートは、ビジネスマンや政治家、あるいは科学者でも、文学や美術、音楽を論ずるという。だが日本では、せっかくの名作も、教科書で画一的な読み方を押しつけられてしまう為に、本当の素晴らしさが分からない。これは本当に惜しいことだ。だが、そんな中でさえ、ゲーテは、比較的広く親しまれている作家だろう。

 ヨハン・ヴォルフガングは、封建時代に終焉が忍び寄りつつある18世紀の半ば、ドイツの上流階級の家庭に生を受けた。彼がフォン・ゲーテを名乗るようになったのは、後のことである。
 父親は、帝室顧問官の肩書きを持つ法学士だが、定職には就いていなかった。母親エリーザベトは、フランクフルト市長の娘だった。ヨハンには5人の兄弟がいたが、4人は幼くして世を去り、成人まで生きた妹コルネーリアも精神を病んでいた。
 彼自身も病弱だった。産まれたときは死産かと思われたが、祖母の手当で奇跡的に息を吹き返した。だがその後も大病が絶えず、天然痘に丹毒、腎臓疾患で生死の境をさまよったが、その都度、母親の不眠不休の看護で命を拾っている。
 両親の熱心な祈りも虚しく、次々と世を去っていく兄弟たち。自身もまた、いつこの世を去るか分からない。そんな環境で育ったヨハン少年は、幼いころから神の恩寵に疑問を持っていた。真実は、教会の外にあるのではないかと。それが、のちに60年も書き続けた『ファウスト』執筆の原動力となる。
 偉大な人物は、決して宗教を盲信しない。だが、決して信仰の放棄に留まることなく、新たな価値を求めて誠実な探究を続けるものだ。ゲーテは幼いころから、建設的な批判精神を備えていた。

 当時は、まだ教育制度が十分に整備されていなかったので、ヨハンは父親から教育された。その内容は、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、フランス語、英語、イタリア語などの語学のほか、歴史、地理、宗教、自然科学、数学、音楽、舞踏、剣術、乗馬など、多岐に渡った。
 英才教育の甲斐あって、ヨハンは幼いころから才能を開花させていた。わずか6歳でシナリオを書き始め、8歳にして大人の鑑賞に耐えうる水準に達しているし、10歳になるかならぬかで、7か国語を駆使して物語を創作した。
 コックスの研究によると、少年時代のゲーテの知能指数は、推定185から200以上に達し、古今東西のあらゆる分野の天才を凌いでいる。まさに、神童だった。だが、不思議と、数学や哲学には終生興味を示さなかった。
 このような子どもだから当然、子どもたちの中では、浮いた存在だった。学校ではいじめられることもあったという。あまりにひどい場合は、反撃して逆にいじめっ子をやっつけるときもあった。
 また父親は、ヨハンに依頼した仕事の督促をやらせていた。この機会に、彼はあらゆる職人の工房に足を踏み入れ、その仕事ぶりや生活ぶりを目の当たりにする。父親から与えられたこの仕事を通じて、ヨハンは社会を学び、また、庶民こそが社会を支えていることを知る。机上の学習だけでは十分ではない。この仕事は、ゲーテの人格の土台を築いてくれた。
 ゲーテは後に、
「何でもいいから、まず一芸に秀でることが必要」
 こう考えるようになったが、これには、この時期に出会った職人たちの影響が大きいと考えられる。
 ゲーテはあらゆる事業の中でも、教育を最も重視していた。自らイェーナ大学に図書館や研究室を設立し、人材の確保にも尽力している。事実、彼は教育者としての名声も高かった。
「私は、民衆とその教育のために、生涯を捧げてきた」
 自分自身でも、そう述べている。
 小説の中でも、理想の教育環境として「教育州」という学園都市を登場させている。ここは都市そのものが広大なキャンバスで、共同生活を送りながら、個性に合わせた職業教育が施される。
 近年では、学校教育の限界と地域の教育力の見直しがようやく叫ばれ始めているが、ゲーテはこの当時から、学校と実社会の垣根を取り払う必要を悟っていた。社会は、学習のための場でなければならない。生涯学習の時代を迎えて、ゲーテの教育観には、再び脚光が当てられつつある。
 また、彼の生誕から13年後、やはり、歴史を代表する神童ウォルフガングが、ヨーロッパに出現する。史上最高の天才、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの登場だった。






 歌は世につれ、世は歌につれ。この諺が真実であるならば、やはり、モーツァルトの出現は、新たな時代の幕開けの象徴だったのだろうか? 
 ヨハネス・クリストムス・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ヨハンに遅れること7年、オーストリアのザルツブルグに生を受けた。奇しくも、ミドルネームはヨハンと同じだった。
 アマデウスの父親ヨハン(これも偶然)は、宮廷のバイオリニストだった。ヨハンには7人の子どもが生まれたけれども、5人が早世し、残ったのは2人だけだった。こんなところも、ゲーテ一家と似通っている。残ったうち1人は娘ナンネル、もう1人が、弟のアマデウスだった。
 生まれたときから音楽に囲まれて育ったアマデウスの才能は、幼いころから際立っていた。わずか3歳のとき、聴いたばかりのメヌエットを、すぐさまクラビア(ピアノに似た楽器)で完全にひきこなしている。
 父親のヨハンは、アマデウスの才能に驚き、愛情を込めて、この息子に音楽を教えた。アマデウスはメヌエットなら30分、長い曲でも1時間で、完全に覚えることができたという。彼自身、どんな遊びよりも、音楽を好んだ。

 アマデウスはわずか5歳にして、メヌエットやコンチェルトを作曲。さらに、トリオの最も困難な第2バイオリンを少しも間違わずにひきこなし、8分の1の音階の差を聴き分けた。
 ヨハンは、アマデウスが6歳になるとすぐ、一家でミュンヘンやウィーンへの演奏旅行に旅立った。アマデウスと姉ナンネルは、たちまち、神童姉弟としてヨーロッパ中にその名を知られることになる。
 アマデウスは、その場で作曲して演奏することさえできた。それどころか、指1本でも、あるいはキーを布で覆っても、全く普段と変わらずにクラビアをひきこなした。
 しかし、もともと体の弱い彼は、毎晩遅くまでの演奏会で体調を崩し、倒れてしまう。そこで、一家は一度ザルツブルグに戻り、翌年再び演奏旅行に出る。この旅は実に3年半に及び、ヨーロッパをくまなく廻ることになる。それはまた、アマデウスに各地の音楽に触れる機会を与えることになった。
 この時期に、アマデウスは連日の演奏会の合間をぬって、ピアノソナタを10曲も作曲。そのうち4曲の楽譜が、パリで発売されている。わずか7歳での作曲家デビューだった。
 ドイツでは、7つ年上のヨハン・ヴォルフガングとも出会っている。ゲーテは、自分同様神童のモーツァルトを愛し、モーツァルトもまた、ゲーテの詩を作曲している。ふたりのヴォルフガングは、天才同士、深く共鳴し合っていた。
 また、アマデウスはやはりドイツで聴いたシンフォニーに感激し、自分でも作曲し始めた。彼は7歳から9歳にかけて、4曲ものシンフォニーを作曲している。
 しかし、ハードスケジュールの疲れからか、アマデウスは再び病に倒れる。ゲーテもそうだったが、神童には病弱な傾向が強い。生死の境を彷徨ったが、どうにか一命を取り留め、演奏旅行を再開し、ザルツブルグに帰国した。アマデウスは、10歳になっていた。
 その後も、彼の演奏旅行は続いた。13歳のときに、アマデウスは憧れの地だったイタリアを訪れる。当時の音楽の中心地は、イタリアだった。彼はここでも、たちまち神童として一大旋風を巻き起こす。
 ローマのシスティーネ礼拝堂では、『ミゼレーレ』という曲が演奏されていたが、この曲は、楽譜の持ち出しを禁止されていた。そこで、アマデウスは礼拝堂へこの曲を聴きにいき、たった1度聴いただけで全てを覚え、演奏会で歌ってみせたという。

 ある日、彼の元に、オペラの作曲依頼が舞い込んできた。以前からオペラに興味を持っていたアマデウスは、これを喜んで引き受け、『ミトリダーテ』を作曲。その他にも、賛美歌を始め、様々な名曲を次々と作曲している。もはや、ヨーロッパ中を見渡しても、わずか13歳のアマデウスの右に出る音楽家は、見つからなかった。
 時のローマ教皇は、『黄金拍車の騎士』という位を、この少年音楽家に授け、十字勲章を贈った。ボローニャの市議会でも、満場一致で、彼を「アカデミック・フィルハーモニー」協会員に推薦した。
 この協会は、当代1流の音楽家たちによって構成されていて、ここに入会することは、音楽家にとって最高の名誉だった。アマデウスは、入会試験として、4部合唱の作曲という課題を出された。1流の音楽家でも3時間はかかるこの課題を、この少年は30分足らずで完成させ、難無く合格した。
 また、その年の暮れには、いよいよオペラ『ミトリダーテ』が初演された。結果は大好評で、その後、24回も繰り返し上演されている。モーツァルトは14歳にして、名実共に、音楽界の頂点を極めていたのだった。
 16歳のときにザルツブルグに戻ったが、それまでに、シンフォニーを5曲も作曲していた。ザルツブルグでは、大司教の宮廷の楽長に命じられ、音楽教師や作曲に勤しんだ。
 イタリアでの修業を経て、アマデウスの才能には、一段と磨きがかかっていた。19歳のころまでに、『シンフォニー第5』『ピアノ協奏曲』『ファゴット協奏曲』『ピアノソナタ第5』などを作曲している。神童には、年齢と共に才能が失われる場合も多いが、彼の場合は、成人しても全く衰えを見せなかった。




 彼に遅れること、10余年。もう1人の神童ヴォルフガングが、その存在を公に知らしめる。いよいよ、文壇にゲーテが登場したのだった。




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ヴァンダレイ・シウバの身体意識

2005-02-27 01:48:53 | 武学
『合気・奇跡の解読』は、高岡英夫フリークのみならず、合気に関心のある全ての人にお勧めの1冊です。
合気の力学的側面を分析したものとしては、これ以上の本は無いと思います。

この本の中では、西野皓三氏の身体意識図が公開されました。
僕も西野式は少しかじったことがあったので、興味津々でしたが、センターや熱性の下丹田、パームなどの存在は予想通りで、自分の見る目をちょっとだけ見直した今日この頃です。


高岡所長にDS分析してもらいたい人物は数多くいますが、僕が今、最も興味を持っている1人が、PRIDEミドル級絶対王者のシウバです。

というのは、彼の強さの理由は、専門家でも容易に分析しきれず、いまだ多くの謎に包まれているからです。決して卓越した技術の持ち主ではないし、腕を力ませたまま振り回すのは、明らかに「手首のスナップを効かせる」というパンチのイロハを無視しています。彼が、ボクシングのジムに入ったら、ワンツーからやり直しでしょう。

でも、メチャ強い。あの下手くそパンチが当たったら、みんな倒れてしまう。
普通なら、あんな素人パンチが効くわけないはずなのに。

これは、単純にパワーがあるとか、クスリの作用だとかで片づけられているのが現状です。

それだけに、身体意識の面からアプローチするのが、ヴァンダレイの強さに迫る近道ではないでしょうか。


これはあくまで僕の憶測ですが、ヴァンダレイは、背中にアーダー(重性の身体意識)が発達しているような気がします。背中に漬け物石が入っているイメージを思い浮かべていただけると、分かりやすいかもしれません。

ストライカーの場合、アーダーは手首から先に発達するのが一般的です。鉄球のように重い拳を、ベストで振り回すようなイメージを持つのが、肩の抜けたいいパンチを放つコツだとされています。

しかしヴァンダレイの場合、この定石には完全に一致していません。

仮に、僕らの背中に巨大なバックアーダーが存在していたら、まず、立っているだけで後ろにのけぞってしまうでしょう。そこで、ヴァンダレイ独特の、極度に顔を前に突き出した姿勢が説明できます。こうしないと、バランスがとれないはずなのです。

そして、腕を力ませ、あたかも魚が背骨をくねらせるようにして放たれるフックは、バックアーダーの重みを拳に乗せる上で、最適の打ち方なのではないでしょうか。

もし、バックアーダーの重みを使うとしたら、腕を硬直させてしまった方が、短い持続時間で的に力積を伝えることができるわけで、力学的にも合理的です。この場合、腕を脱力させると、肘関節などがクッションとなり、威力が半減してしまいます。おそらく、腕には、剛性の身体意識が発達しているのでしょう。


これは、あくまで現時点での憶測です。高岡所長による分析の機会を待ちたいところです。






合気・奇跡の解読

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メルマガはじめました!

2005-02-26 01:07:41 | いろいろ
このたび、晴れて審査に通りまして、メルマガを発行することになりました!

とにかく実用的であることを念頭に、企画を練り上げた結果、

「オトコがバラすオトコの落とし方」

という、同性を売るような鬼畜な企画でいくことになりました。

類似の企画はまだ無いようなので、女性には、超オススメです。

左のぶっくまーくから直行できます。


綺麗事を言いますけど、僕は、「人間同士」という視点に立たない限り、男と女はうまくやっていかれないと思うのです。
「男対女」では、対立関係になってしまいますから、永久に平行線です。
でも、お互いに、男である前に、女である前に、人間であるわけです。そこに友情と信頼を結ぶことができれば、必ず一致点が見いだせると信じています。


メルマガネタをもう1つ。

昼間、僕が最も信頼する経営コンサルタント、大前研一氏からのメルマガが届きました。

そこでは、おなじみ堀江貴文社長のライブドアによるニッポン放送株取得騒動について触れられており、僕も大変興味深く読ませていただきました。目から鱗が落ちるような内容でした。

今回の件は、外資による日本の放送業界の支配につながるとして、メディアも政治家も騒いでいますが、それを言い出したら、外資を入れている日本の大企業の約半数は、放送業界の大株主になれないことになってしまうそうです。これは、すでにニッポン放送の株を多数保有している村上ファンドを含めての話です。

考えてみれば、外資を受け入れているのは、何もライブドアだけではありません。
当たり前のことなのに、なぜ、ライブドアばかりが槍玉に挙げられるのか? 
要は、ライブドアがフジサンケイを制して、自由に情報を発信していったら、これまでニッポン制度を支えてきた、官僚によるソフトなマインドコントロールが、できなくなってしまうわけです。
メディアと官が一体になっているニッポン制度の実態が、また1つ露呈しました。

大前氏のメルマガも、左から読めます。




変人のメルマガ


大前研一氏のメルマガ
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日本史5 龍馬編

2005-02-25 21:50:37 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
写真 近代日本の国父 坂本龍馬青年




 本編に登場する若き革命児……勝海舟 坂本龍馬 西郷隆盛 桂小五郎 後藤象二郎



 坂本龍馬は、吉田松陰に遅れること5年、土佐藩の、身分は低いが裕福な郷士の末っ子として生まれた。
 幼いころは気の小さい甘えん坊で、8歳を過ぎても、寝小便の癖が治らなかった。物心ついたころから英才教育を受けていた松陰とは対照的に、かなり自由気ままな少年時代を過ごしたようだ。

 10歳からようやく私塾に通い始めるが、読み書きは苦手、質問されればトンチンカンな答えを返すという具合で、いつも塾生たちから馬鹿にされ、嘲笑われていた。松陰とは全く対照的な鈍才だった。

 あるとき、いつものように、龍馬少年は塾生からいじめられていた。髷を引っ張られていたらしいが、このとき、初めて龍馬少年は怒りを爆発させ、塾生を突き飛ばした。体は大きかったから、この塾生は為す術もなく吹っ飛んだ。
 笑い物にされたこの塾生は治まらず、脇差しを抜くという騒動になってしまった。この騒ぎの責任を取らされ、龍馬少年は退塾させられる。


 学問の道を閉ざされた龍馬少年は、家族の強い勧めで、剣術の道場に入門する。12歳のときだった。
 もともと体格のいい彼は、めきめき腕を上げ、たちまち先輩にも負けない実力者になった。それと同時に、引っ込み思案な性格も豪快になっていた。

 龍馬は、わずか16歳で目録を取った。そのころには、身長は180センチ近くというから当時としてはかなり大きく、剛毛が胸だけではなく、背中にまではえていた。
 それから間もなく、剣客として名高い大石進が土佐を訪れ、藩内でも指折りの剣士たちを次々と手玉に取る様子を見て、龍馬は大きな衝撃を受ける。さらに、江戸には大石よりさらに強い剣客がいると聞き、龍馬は江戸遊学を決意する。

 翌年、龍馬は歩いて江戸に向かい、北辰一刀流千葉道場に入門した。それから間もなく、黒船が浦賀に来航。龍馬も召集されて、品川の警備に就いている。しかし、当時の彼の興味は剣一筋に向けられていて、「戦争になったら異人の首を討ってやろう」というくらいにしか考えていなかった。

 龍馬は、熱心に修業を積んだ。ある柔術家と立ち合ったときなど、何度締め落とされても立ち向かっていくので、しまいには相手の方が根負けしてしまったという。稽古の甲斐あって腕を上げた龍馬は、他流試合も多くこなし、江戸の剣客の中でも、かなりの注目を集める存在となっていた。
 そして、数え年の24、満22歳の正月に、龍馬は念願の北辰一刀流免許皆伝となる。


 しかし、土佐に帰郷した龍馬は、剣の道を離れ、砲術やオランダ語を勉強し始めた。さすがに、ひとつの技芸を極めただけあって、これからは剣の時代ではないと直感していたらしい。17歳のときに見た巨大な黒船が、龍馬の潜在意識に残っていたことは、間違いないだろう。

 オランダ語については、龍馬はひとつひとつの単語を暗記するのは苦手だったが、文章の大意を把握する能力は卓越していたらしい。先生の間違いを指摘し、調べてみると、彼のいう通りだった、というエピソードが残っている。

 龍馬は洋学だけでなく、『老子』『史記』『資治通鑑』など、東洋の古典も猛烈に学び始めた。こちらもやはり、細かい間違いには気にも止めないで、文章の意味さえ分かればいいという、彼らしい豪快な読み方だった。

 また、江戸で見聞を広めてきたのがかわれていた彼は、郷土の青年たちと、活発に政治を論じ合うようになっていた。奇しくも、吉田松陰が志半ばで世を去ったのと、同時期のことだった。もっとも、この時点では、龍馬は無党派だった。
 やがて土佐勤王党が結成されると、龍馬はいち早く加盟している。ここで初めて、龍馬は尊王攘夷の志士として立った。25歳のときだった。

 ところが、勤王党に加盟してすぐ、半年近くに渡って全国を廻り、薩長の先達に接触すると、龍馬の考えはだいぶ変わっていた。勤王党は、あくまでも土佐藩の存続を念頭に置いていたが、龍馬は、土佐藩の存亡より、まず日本だという思いだった。
 今でいうなら、日本より世界だという発想だろう。時代を先取り過ぎていた龍馬の視点は、同志には理解できなかった。松陰と同じく、彼もまた、先駆者の悲哀を味わったのだった。

 思い悩んだ末、まもなく龍馬は脱藩する。先祖代々禄を受けてきた、大恩ある藩を抜けることは、当時としては、死罪にも当たる重罪だった。しかし、今のままでは、志を果たすことはできない。龍馬は、あえて死罪人の汚名を背負い、志士の道に飛び込んでいく。思えば、この覚悟こそ、彼の怒濤の行動力の原点だったのかも知れない。


 しばらく九州を放浪すると、龍馬は江戸に出て、旧知の千葉道場に転がりこんだ。目的は、アメリカ帰りの若き幕臣で、幕府の中にありながら開国を唱えている異色の人物、勝海舟に会うことだった。

 勝は、もともと龍馬と同じく剣客で、20歳で小野派一刀流免許皆伝の腕前。その後、蘭学を学ぶなど、龍馬とそっくりの生い立ちをたどっている。
 27歳のときに私塾を開き、蘭学や西洋兵学を教えた。ペリーが来航したときには31歳で、幕府に海防の意見書を提出し、若き軍学者として、一躍重用されることになる。その後、日本人として初めて太平洋を横断・渡米し、帰国後は軍艦奉行に抜擢され、多忙な日々を送っていた。

 倒幕の志士である龍馬は、一説によると、幕臣である勝を斬るつもりだったらしい。しかし、いざ面会してみれば、勝の明晰な理論に、龍馬はすっかり魅せられる。
 勝の持論とは、

「現状で欧米列強と戦っても勝ち目はないが、開国すれば通商によって国力を増し、軍事力も充実するから、列強に譲歩を迫られても、はねつけることができるようになる」

 というものだった。龍馬はただちに勝に弟子入りする。こうして、新たな時代を開くことになる、39歳と26歳の若き師弟が誕生したのだった。


 勝と龍馬の最初の狙いは、海軍を創設することだった。全国を駆け巡り、片っ端から在野の人材を勧誘して廻った。勝はもちろん龍馬も、倒幕派から命を狙われていた。しかし、この2人にとっては、倒幕派も幕府の人間も関係なかった。海軍の創設に協力してくれる者は、全て同志として歓迎した。奔走の甲斐あって、半年後には、幕府から海軍操練所設置の許可が下りる。

 龍馬は、勝の海軍人要請のための私塾の塾頭を任され、27歳の若さにして、血気盛んな200名余りの塾生を監督することになった。お互いが若いだけに、塾生から決闘を申し込まれ、腕に覚えのある龍馬もただちにこれを受けて立ち、勝があわてて仲裁に入るという一幕もあった。

 また、龍馬には、北海道の開拓というビジョンもあった。幕藩体制からあぶれ、暴徒化している浪人たちを北海道に連れていって、有り余るエネルギーを、アメリカ風の公選政府を建設するのに、向けさせようというのだった。
 実際、龍馬は勝も気付かない間に、わずか数ヶ月で200名もの浪人を結集し、もう少しで開拓実現という所まで話を進めている。まだ28歳の龍馬だったが、青年たちの心をつかみ、組織化する能力には、勝でさえ及ばないものがあった。あるいは、剣客としてその名を轟かせていたことが、血気盛んな青年をまとめる上で、プラスになったのかも知れない。


 翌年、勝は幕臣でありながら幕府に批判的な発言を繰り返していることをとがめられ、軍艦奉行を解任される。海軍操練所も、1年足らずで閉鎖されてしまった。勝と龍馬は、薩摩の西郷隆盛を頼った。

 西郷は当時、少壮気鋭の37歳。彼もまた、勝の持論に共鳴するひとりだった。勝と龍馬が、最先端の航海術を身に付けていたこともあって、西郷は快く彼らの身柄を引き取った。それからまもなく、西郷は活躍をかわれて大番頭に昇進し、藩政の中でも重要な地位を占めるに至った。

 龍馬は、長崎に日本初の会社「亀山社中」を創業し、倒幕を志す諸藩、特に薩長のために、武器の輸入を始める。倒幕のためには、犬猿の仲である薩摩と長州が和解し、手を結ぶことが必要不可欠と、龍馬は考えていた。

 翌年には、薩摩の西郷と長州の桂小五郎を、京都で面会させることに成功。桂は松下村塾の出身で、前年に高杉晋作と共に藩の実権を握ったばかり。時代の鍵を握る若者のひとりだった。




 ところが、西郷も桂も、藩の体面が先に立って、お互い一向に話を切り出せない。膠着状態が、2週間も続いた。そこへ、刺客の目を盗み、病を推し、命懸けで龍馬が駆けつける。が、話が1歩も進んでいないと知るや、凄まじい剣幕で西郷を怒鳴りつけたという。

 しかし、そこからはスムーズに話が進み、薩長連合はようやく成立した。時に、薩摩の西郷38歳、長州の桂32歳、土佐の龍馬30歳。この、三国を代表する3人の若者の決断が、日本の運命を大きく転換することになる。

 だが、連合成立の翌々日、龍馬は、宿で幕府の役人20人ばかりから急襲を受けた。高杉晋作から贈られた、最新式の6連発のピストルで応戦し、どうにか危機を脱したが、多勢に無勢、病み上がりで本調子ではなかったこともあり、右手の指を切り落とされている。活躍すればするほど、彼はますます危険な立場に立たされていた。

 龍馬は指の傷と病が癒えると、いよいよ、手塩にかけて育てた海軍を率いて、第2次長州戦争に参戦。幕府軍有利だった戦況を奇襲で逆転させ、高杉の上陸をアシストしている。以前から、龍馬が長州に海外の最新兵器を流していたこともあり、高杉は、見事に幕府軍を撃退した。


 翌年、龍馬は後藤象二郎と会見している。後藤は、若くして板垣退助らと共に土佐藩の大監察に任命され、参政に昇進、27歳で開成館の総裁となっていた。龍馬と会ったときは、彼より3つ下の28歳だった。




 後藤の持論は、「これからは貿易に力を入れなければ国は滅びる」というもので、龍馬と志を同じくしていた。龍馬は、「後藤こそ第一の同志」と賞讃している。後藤もまた、龍馬の影響を受けて、倒幕を志すようになる。

 後藤の尽力により、龍馬は脱藩の罪を許され、後藤や土佐藩のバックアップの元に、亀山社中を「海援隊」として再建する。龍馬自身は倒幕派だが、隊員は思想を問わずに集められ、西日本全域で商取引を展開した。

 実業家として多忙な日々を送る一方で、龍馬は政治活動も並行して進めていた。長崎から京都に向かう船の中で、彼は新政府の構想を練っていた。これがいわゆる『船中八策』である。これは、

1.幕府は政権を朝廷に返還する
2.上下院を置き、議会を開く
3.身分に関係なく人材を登用し、不要な役職を廃止する
4.国民の議論に従って外国と条約を結ぶ
5.従来の法令を再検討し、新たな憲法を創る
6.海軍を拡張する
7.政府軍を組織し、首都を防衛する
8.海外の物価とバランスをとる

 という8項目からなっていて、実際、明治政府の基本方針は、ほとんどここから生まれた。自由民権思想のルーツすら、ここに求めることができる。

 龍馬は、平和裏に幕府が政権を返還することを望んだが、そうでない場合のための準備は怠らなかった。銃を揃え、キリスト教を広めて農民を煽動することまで考えていた。
 しかし、幕府の武力では、もはや龍馬の流した最新兵器を揃えている薩長に勝ち目はなく、将軍慶喜は、戦わずして龍馬の提案した大政奉還を受け入れた。龍馬が勝の元に弟子入りしてから、わずか5年目での完全結着だった。

 龍馬は早速、新政府の閣僚名簿を作成する。しかし、そこには西郷、桂、後藤らの名はあったものの、龍馬自身の名はどこにもなかった。不審がる西郷に、龍馬は、

「僕は、役人は性に合わないから。世界の海援隊を、やります」

 そう、答えたという。いかにも、龍馬らしい台詞だった。そしてそれが、龍馬が残す、最後のメッセージとなった。

 大政奉還からわずか1月後、龍馬は、宿にいるところを刺客に襲われ、この世を去る。奇しくもその日は、彼の満32歳の誕生日だった。刺客の正体は、今もなお謎に包まれている。



坂本龍馬日記〈上〉

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坂本龍馬日記〈下〉

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完本 坂本龍馬日記
菊地 明,山村 竜也
新人物往来社

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 しかしもはや、龍馬の興した怒濤を止めることは、誰にもできなかった。志を同じくする若者たちが、なお駆け続けていた。その中心に、松下村塾の門下生たちがいた。





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日本史4 松陰編

2005-02-25 21:45:22 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
肖像 近代日本の指導者を育てた吉田松陰青年



 本編に登場する若き革命児……佐久間象山 吉田松陰



 明治維新で青年たちの果たした役割を否定する者は、誰もいない。いや、若き革命児たちの活躍こそが、維新の物語に魅力を与え、今もなお、我々の心を捕えて離さないのだろう。

 維新の志士たちの中でも、特に中心的な活躍をしたのは誰かというと、それぞれの思い入れから意見の別れるところだろうが、吉田松陰の名を外せないことは、誰もが認めるところだろう。


 吉田松陰は、幕末の長州藩に、下級武士の子として生まれた。当時、幕藩体制はすでに神通力を失い、大きく揺らいでいた。
 松陰が生まれて間もなく、13万人を超える農民が参加して、防長大一揆が起きている。一揆というと暴動というイメージも強いが、実際には、当時の農民は高度に組織化されていて、藩に要求を呑ませるために、計画的に行動した。

 松陰は4歳のときに、叔父の吉田家に養子に出される。吉田家は代々、藩主に山鹿流軍学を講義する家柄だった。

 松陰が6歳のとき、長州藩は洪水に襲われ、飢饉や打ち壊しが起こった。全国規模で見るとそれほどひどい凶作でなくとも、当時は藩境を越えて米を自由に運ぶことが禁じられていたため、藩によっては、ひどい飢餓に襲われたのだった。叔父の死により、松陰が幼くして吉田家を継いだのは、そんな年だった。

 松陰は神童だった。家督を継いでから2年、わずか8歳で山鹿流軍学師範となり、9歳で藩校・明倫館の教師になっている。
 10歳のときには、山鹿流軍学書である『武教全書』を藩主に講義する。わずか14歳で、藩の兵学師範として、長州藩の軍事の中枢を担うことになった。


 20歳のとき、松陰は見聞を広めるため、初めて藩の外に出て、九州を旅行した。
 長崎から入ってくる海外からの情報に触れ、また、兵学者の宮部鼎蔵と知り合う。鼎蔵は松陰と10歳違いの30歳で、若い2人はたちまち意気投合し、さらに見聞を広めるため、来年、連れだって全国を旅することを約束して別れた。

 翌年、松陰は藩主に従って江戸に出る。昨年の九州遊学で西洋軍学の必要性を感じていた松陰は、佐久間象山に弟子入りしている。

 佐久間象山は若いころから儒学を学び、28歳のときに江戸に出て、私塾・象山書院を開いていた。その翌年、阿片戦争で中国がイギリスに為す術無く破れ、植民地同様にされたことを知る。
 31歳にして老中の顧問に選ばれ、大砲や軍艦の建造を提唱。オランダ語や砲術を学び、39歳で砲術の塾を開いた。松陰が訪ねてきたのは、その翌年だった。

 また、松陰は鼎蔵との約束通りに旅に出ようとするが、なかなか藩からの許可が下りない。当時、許可なく藩境を越えることは重罪だった。しかし、同志との約束を果たすため、松陰はあえて、藩に無断で鼎蔵と東北を巡った。
 当然、松陰は厳しく罪を問われた。家禄はもちろん、武士の身分も剥奪され、軍学師範の肩書きも失い、長州藩の誇った天才児は、一浪人となってしまった。ちなみに、彼はこの頃から、自分のことを「僕」と称している。近代において、僕を一人称に使用し始めたのは、松陰が最初だといわれている。

 2年後、罪を許された松陰は、再び江戸に出て、象山に再入門する。黒船が来航したのは、まさにその年だった。松陰は、アメリカの代表が上陸し、幕府の両奉行に国書を手渡す場面を目の当りにした。鎖国を原則とする江戸幕府が、無断で上陸してきた外国人を追い返すどころか、国書を受け取ったことに、松陰は日本人として激しい屈辱を覚えた。
 しかし、浦賀に停泊している4隻の巨大な軍艦を目の当りにしては、幕府としても相手の要求を呑むしかなかったのは事実。松陰も、頭を冷やすと、まず相手を良く知ることが必要だと考えた。

 そして翌年、再びペリーが来航したときに、松陰は深夜、決死の覚悟で黒船に乗り込み、アメリカに連れていってくれるよう嘆願する。藩を出るだけでも重罪なのに、海外へ亡命となれば死刑宣告は免れない。しかも、松陰には前科がある。失敗は絶対に許されない亡命計画だった。
 しかし、日本と条約を締結したばかりのアメリカとしては、ここでトラブルを起こしたくない。あえなく陸に返された松陰は、死刑を覚悟して潔く自首する。23歳のときだった。


 獄に繋がれた松陰は、囚人を相手に『孟子』の勉強会を始めた。また松陰も、吉村善作から俳諧を、富永有隣から書を学んだ。周囲の囚人も影響を受けて、松陰が来てから1年足らずの間に、全ての囚人が何かを学ぶようになったという。

 自首した潔さが認められたのか、獄中での勉強会が好印象だったのか、翌年、松陰は出獄を許される。しかし、自由人ではなく、実家の杉家に軟禁という条件付きだった。25歳の松陰は、八畳間で近親者に対して『孟子』の講義を始める。これが、後世にその名を轟かせることになる、松下村塾の始まりだった。

 かつて松陰も教鞭を取っていた明倫館は、一部の有力な武士の師弟にしか開かれていなかった。しかし松下村塾は、入門に身分、年齢、学力など一切の条件を設けず、月謝すら取らなかったので、長州全域から、志ある若者たちが集まってきた。入門時の年齢が判明している塾生の平均年齢は、18.3歳。

 松陰は、「自分と塾生は、対等だ」という考えを貫いた。常に塾生と並んで座っていたので、新入りの塾生は、誰が松陰先生なのか分からなかったという。教材も塾生自身に選ばせた。塾生に交じっての雑用もいとわなかった。

 また、松下村塾には、「飛耳長目」なるノートが備え付けられていて、旅人や商人、塾生たちが持ち寄る全国各地の最新情報が記されていた。今でいう掲示板サイトのような機能を果たしていたらしい。松陰は、古典を講義しながら、自在にこの最新情報を分析したという。

「学者になるな。実行第一。本は働きながら読まなければ、身に付かない」

 常に塾生にそう言い聞かせていた松陰は、驚くべき読書家だった。3年足らずの間に、1500冊近い本を読破している。多い月では毎日平均2冊以上、少ない月でも平均3日で1冊。おそらく、当時これほどの読書量を誇った人物は、他に存在しないだろう。
 読書は、天才を開花させる最良の手段のひとつだろう。それでも松陰は、そのくらいの読書は、最低条件だと語るのだった。


 教育というより、青年同士学びあい、寝食を共にする松下村塾の時代は、松陰の人生の中でも、最も充実していた時期だった。しかし、それも長くは続かなかった。江戸幕府が天皇の許可なく日米修好通商条約を結んだことを知ると、日本が中国の二の舞になることを恐れ、松陰は倒幕を決意する。
 松陰は、塾生たちにクーデターを決行するように呼びかける。しかし、塾生たちは反対で、動こうとはしなかった。その中には、19歳の高杉晋作もいた。塾生たちはまだ、欧米列強に伍するためには、日本が封建的な幕藩体制を捨てる必要があることを理解していなかった。
 失意の松陰は、政治犯の取り締まりを強めていた幕府によって、再び牢に入れられる。そこで、クーデター計画が発覚し、29歳の若さで処刑台に散った。

 だが、その早すぎる死も無駄ではなかった。塾生たちは、松陰の死に直面して初めて、師の広く深い展望を理解した。そして、師の仇討ちと、新たな日本の建設を誓うのだった。

 松陰が松下村塾で教えたのは、わずか2年余りにすぎない。しかし、その中から、偉大な人材を続々と輩出することになる。死してなお、若き松陰の情熱は、歴史を突き動かし続けた。

 そしてまた、志半ばで獄死した松陰のバトンを受け継ぐかのように、1人の剣士が、志士の道に踏み込もうとしていた。彼こそが、世紀の快男児・坂本龍馬だった。



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日本史3 戦国編

2005-02-25 14:33:32 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
写真 天才少年武将・松平元康像(後の徳川家康)



 本編に登場する若き革命児……今川義元 武田晴信 長尾景虎 織田信長 松平元康 木下藤吉郎 徳川家光


 若き義経が武士の時代を開いてから、数世紀の時が流れた。時の政権である室町幕府は、諸大名を抑える力を失い、時代は再び、青年の覇気を求めていた。

 ここ甲斐の国でも、世代交代の波が起こっていた。暴君として民から恐れられていた武田信虎を、実子の晴信が追放、20歳の若さで武田を継いだのだった。彼こそ、後の武田信玄である。
 信玄は、すぐさま北信濃攻略に乗り出した。翌年には諏訪頼重を攻め滅ぼし、伊那を平定。若き天才武将として、天下にその名を轟かせた。

 世代交代の波は、戦国の世に広がっていった。信玄に呼応するように、越後でも、1人の青年、いや少年が、歴史の表舞台に登場する。信玄の9つ年下で、わずか13歳の長尾景虎が、兄の守護代・晴景の追討に立ち上がった。この景虎こそ、後の上杉謙信だった。晴景は、景虎少年を抑えきれず、中越を譲り渡す。

 時代の波は、名古屋の地にも押し寄せていた。謙信の登場から4年後、やはり13歳の少年が、初陣の日を迎えていた。この眼光鋭い少年こそ、日本史を震撼させる戦国の魔王・織田信長その人だった。
 昨年元服し、名古屋城主になったばかりの信長は、今川義元の城のひとつを落とすため、2000騎を率いて三河に出陣、大浜一帯に火を放った。家臣は名古屋城に引き返すよう勧めるが、信長少年は、今川勢がすでに待ち伏せていると読み、頑として退却せず、敵地の丘の上に陣を敷いた。
 はたして、その日の夜中。信長の読み通り、待ち伏せしていた今川勢は、織田勢が眠っていると思い込んで、攻めてきた。もちろん、これは信長の計算通り。たちまち今川勢は、夜討ちに備えていた織田勢の前に、返り討ちにされた。13歳の信長は、初陣にして天才的な指揮を執り、見事な勝利を飾ったのだった。

 この時点で、信玄26歳、謙信17歳、信長13歳。戦国武将を代表するこの3人は、いずれも天文年間の1540年代に、相次いで歴史に登場している。実際、天文年間、特に1540年代が、戦国武将のひとつの新旧交代のポイントになっている。
 後の明治維新もそうだが、激動の時代には、若き天才たちが大挙して登場するものなのかも知れない。


 ちなみにこの年は、信長と竹千代(後の徳川家康)が初めて出会った年でもある。竹千代は、信長より8つと半年年下で、まだ4歳だった。人質として織田家に預けられ、いつ殺されてもおかしくない立場だったのだが、信長は、実の親にさえ見捨てられた竹千代を哀れに思ったのか、弟のように面倒を見た。

 初陣の大勝利から数年の間、信長は竹千代を引き連れて、心身の鍛練に熱中した。乗馬に水泳、弓、鉄砲、鷹狩りにものめり込んだ。また、小姓を2手に分けて竹槍合戦の指揮を執り、短い槍が不利であることに気付いて、三間半の長槍に改めている。
 しかし、その一方で、行儀の悪さは目に余るものがあった。いつも服の袖を外し、腰から火打ち袋をぶら下げて、歩きながら餅などをかじっていた。うつけ者と陰口を叩かれていたのは有名。

 この時期、家康がいつも信長に付き従っていた事実は、特筆に値する。行動を共にする中で、少年時代の家康は、信長から多くを吸収したに違いない。戦国武将にとって、これほど贅沢な環境はなかろう。信長は、知らず知らずのうちに、後に天下を取る男を、マンツーマンで教育していたのだった。


 その同じ年、一足早く青年大名として多忙な日々を送っていた信玄は、領国の家臣たちを統制するための分国法『甲州法度之次第』を制定している。また、堤防を築いて甲府盆地の治水を図るなど、父と違って、民には善政を敷いたといえる。信玄の強さの秘密は、ひとつには、民衆の支持が高かった所に求められるだろう。

 『武田節』には、

 人は石垣 人は城

 の一節があるが、人を大切にすることこそ、武田の強さの要だった。

 しかし翌年、上田原の戦いに敗れると、信濃の豪族は、一斉に信玄打倒に立ち上がる。豪族の中心となっていたのは、小笠原氏と村上氏だった。

 一方、隣の越後では、18歳になった謙信が正式に家督を譲られ、越後を統一している。

 信長が家督を継いだのも、17歳の若さだった。信長は、さっそく翌年までに500丁もの鉄砲を揃えている。

 信玄は粘り強い采配を見せ、束になってくる信濃の豪続たちを返り討ちにし、12年がかりで、ついに北信濃を平定する。小笠原・村上の両氏は、隣の越後に逃れた。
 謙信にとっても、これ以上信玄が勢力を伸ばすのは、望ましくない。こうして、両雄は、川中島で足掛け10年にも及ぶ、運命の対決の幕を切って落とした。時に、信玄32歳、謙信23歳だった。


 一方、信長に課せられた仕事は、まず国内を固めることだった。新君主となった信長の人気は最悪で、教育係だった平手政秀が、責任をとって切腹したほどだった。信長を葬り、弟の信行を跡継ぎにしようという動きが、陰で活発になっていた。実の母親までが、この謀略に加担していた。
 抜け目のない信長は、忍びを使って情報を集め、このような動きを掴んでいた。20歳のときと22歳のとき、2度に渡る謀反を防げたのも、前もって家来の本音を知っていたからだろう。信長はこのとき、謀反を企てた多くの家臣を許している。
 しかし、処罰こそしなかったものの、怒りを解いたわけではなかった。本音ではことごとく処刑したかったらしいが、それをしては、父の代から対立してきた今川義元に対抗できなくなるからだった。義元は、わずか22歳にして信長の父・信秀を破り、短期間で東海地方に勢力を拡大した、若き天才武将だった。
 この謀反未遂事件の、肉親にまで殺されそうになったという体験が、人を決して信用しない信長の人格を決定づけたといっても、過言ではなかろう。

 その上、今川家に奪い取られ、14歳になっていた人質の家康が、義元の命令で挙兵し、織田の出城を次々と落としていた。当時は、元服して松平元信を名乗っていた。信長の弟分として徹底的に鍛えられただけあって、経験不足を感じさせない、老獪な指揮を見せた。そのために当の信長が苦しめられたのは、戦国の世の皮肉だった。

 信長は、義元との決戦の時が迫っているのを敏感に感じ、着々と準備していた。謀反の不安材料である弟の信行を斬り、また京に上がって、将軍義輝から正式に尾張守の肩書を授けられた。
 このとき信長は、5~6人の鉄砲で武装した刺客に命を狙われたが、抜刀すらせずに、ただの一喝で退散させたという。その帰りには、堺に寄って鉄砲を揃えている。


 そしていよいよ、義元自らが、25000~45000の大軍を率いて、尾張に乗り込んできた。先頭に立ってきたのは、17歳の松平元康、つまり家康だった。元康はこの歳ですでに、今川勢でも随一の武将として、その名を轟かせていた。元康は、たちまち丸根城と鷲津城を落とし、信長のいる清洲城に迫る。

 織田の勢力は、せいぜい2000~4000。信長は、家臣に一言も相談せず、自ら2000~3000の決死隊を率い、城を出て攻める決断を下す。信長は、援軍が当てにできない限り籠城すべきではない、という戦の鉄則を知っていた。

 その時、信長の元に、義元の本隊が桶狭間で休息しているという情報が入る。桶狭間は、信長が少年時代から駆け回ってきたホームグラウンドだった。他の隊に遭遇して兵力を消耗することなく、義元本隊に直接突入できるルートも熟知していた。
 その上、突然の集中豪雨により、気付かれることなく義元本隊に接近することができた。一説には、この豪雨すら、空模様から予測していたといわれている。

 信長は自ら先頭に立ち、義元軍を確認すると、すぐさま総攻撃に出た。突然現われた信長軍に、勝ち戦に酔っていた義元軍は混乱した。当初は、謀反が起きたと思ったという。この時、義元軍の陣形は縦に長く延び、義元本隊はわずか5000に過ぎず、全体から孤立していた。
 その上、農民を駆り出した義元軍と違い、信長は足軽にも訓練を積ませていた。信長軍の足軽たちは、通常の2倍近く長い槍を持たされていたので、恐れることなく敵に立ち向かうことができた。これはもちろん、竹槍合戦の教訓を活かしたものである。これらの要素は、1000~2000の戦力差を逆転させるには十分だった。
 義元はこの時、300騎の旗本に護衛されていたが、次々と討ち取られて、たちまち50騎ほどに減る。守りは手薄となり、義元もあえなく討ち取られた。

 こうして、今川義元は41歳にして散り、長く続いた抗争に終止符が打たれた。一方の信長は、この決戦の前後に、満26歳の誕生日を向かえたとされる。ここ東海の地でも、鮮烈な世代交代が成されたのだった。


 そしてまた、義元の死は、元康が自由を手に入れることを意味していた。信長は、天才少年武将に成長した元康を何としても味方にしようと、さっそく和睦の手紙を送っている。あるいは、自分と同様、肉親に見捨てられた生い立ちを持つ元康だけは、信用できたのかも知れない。
 ラブコールを受けた元康も、今川家に見切りをつけ、信長と和解する。時に、信長26歳、元康18歳。こうして、青年武将同士の最強タッグが結成され、天下は統一に向けて大きく動き出した。

 信長は、続いて美濃に侵攻する。斎藤龍興とのにらみ合い、小競り合いが続いた。一方、元康は三河で起こった一向一揆の対応に追われた。
 当時、一向宗(浄土真宗)は全国各地で武装蜂起し、特に加賀は領主が自殺に追い込まれて、1世紀近く一向宗の統治下に置かれた。今日の姿からは想像もつかないが、浄土真宗は、日本の武装カルトの元祖だった。今日のイスラム過激派を想像すると、理解しやすい。一部の信徒が過激化するのは、仏教もイスラム教も変わらない。


 信長は、30歳のころまでに、尾張を完全に統一した。また、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて、美濃の土豪に寝返り工作を試みている。藤吉郎は足軽の出身で、歳もまだ28歳と若かったものの、信長が最も頼りにする家臣だった。家臣の年齢や家柄を問わず、実力者を重んじるのも、信長の強さの秘密だった。
 藤吉郎が目をつけたのは、美濃の水利に精通した川並衆だった。藤吉郎が彼らを味方につけたことで突破口が開かれ、美濃は、信長の軍門に下る。さらに、信長は規制緩和の先駆的業績である「楽市令」を下す。これによって、誰もが自由に商売することができるようになった上、免税の特権も与えられたので、岐阜の街は大いに栄えた。
 楽市令の狙いは、ひとつには、自分が斎藤氏よりいい主君であることを、岐阜の民に印象付けることにあったと思われる。足下である尾張の内乱に散々手こずった経験が、ここで生きた。


 この時点ですでに、信長の勢力は天下一で、このまま行けば天下統一も時間の問題だった。将軍の足利義輝が暗殺され、弟の義昭が信長に助けを求めるが、信長は難無く京まで進撃し、義昭を将軍の座につけている。

 京での信長の評判は、思いのほか良好だった。軍の規律を強化し、狼籍は一切厳禁、違反者は即刻死罪としたからだった。「現地住民を敵にしない」ことは、源義経も最も気を使った点だった。卓越した武将には、やはり共通点がある。信長は、さらに各国の関所を撤廃し、自由な往来を可能にした。

 信長は京に入ると、すぐさま堺に色気を見せた。当時、堺はその経済力によって自治を勝ち取っていたが、信長に完全包囲されて降伏、その軍門に下った。こうして信長は、堺の経済力のみならず、鉄砲を製造する技術までも独占したのだった。さらに信長は、交通の要所である大津や草津をも手中にする。

 当初は、素直に信長に感謝していた義昭も、自分以上の権勢を振るう信長を、快く思わなくなっていた。さらに、自分の許可なしに命令を下すなという信長の申し入れで、義昭の信長不信は決定的になる。義昭は、全国の大名に信長追討の手紙を送る。


 最初に動いたのは、朝倉義景と、信長を裏切った浅井長政だった。信長は、家康との連合軍で2人を破る。次に立ち塞がったのは、一向宗だった。これも、大苦戦の末どうにか退ける。しかし、次に現われた武田信玄の前に、信長は生涯初の大敗を喫する。

 このまま戦い続ければ、信長も危うかったかも知れない。だが、過酷な戦場を駆け続けるには、信玄は、もう疲れすぎていた。陣中で突然の病に倒れ、52歳で世を去った。後ろ楯を失った義昭は降伏し、室町幕府は滅びたのだった。ちなみに、謙信の命を奪ったのも、病だった。

 武田を継いだ勝頼は、残念ながら、父程の天才ではなかった。かつて無敵を誇った騎馬軍団を受け継いだが、それを新たに発展させることができず、織田・徳川連合軍の鉄砲の前に散った。
 ちなみにこのとき連合軍は、家康の発案で、足軽のみならず武士までも歩兵とし、鉄砲隊を先頭に置いた編成を組んでいる。これまでの、武士の面子を重んじる戦場では、考えられないことだった。


 信長自身もまた、永遠に不滅では有り得なかった。家康の助けを借りて、どうにか武田には借りを返したものの、後に毛利水軍にも敗れ、本願寺も攻め切れずに、和議に持ち込んだ。その晩年には、かつての勢いは影を潜めている。

 さらに、若いころには謀反をことごとく察知し、先手を打った信長だったが、本能寺の変では、なぜか完全に虚を突かれ、あっけなく世を去った。いかにも信長らしい、そして信長らしくない最期だった。
 享年は、奇しくも謙信と同じ48歳。当時としては高齢のその年齢が、信長の判断力を、わずかに衰えさせていたのだろうか。少なくとも、信長の武将としての実力のピークは、30歳代前半までであろう。

 しかし、天下統一のグランドデザインは、信長によってすでに完成されていた。その仕上げは、信長が右腕と頼んだ秀吉が実現。しかし、秀吉もまた晩年には朝鮮侵略に失敗し、その上、後継者にも恵まれなかった。その没後、天下を奪ったのは、やはり信長の弟分だった家康だった。
 家康が幸運だったのは、19歳で徳川を継いだ孫の家光という後継者に恵まれ、フレッシュな発想で、幕藩体制を固められたことだった。家光は、参勤交代や鎖国といった、日本史上初の画期的な制度を導入し、幕藩体制を不動のものとした。以後は、徳川の長い天下が続く。

 天下の大事業は、一代では完成しない。常に新陳代謝してこそ、健康体が維持できるように、若き後継者を得られた集団だけが、最後に勝利を手にすることができる。戦国絵巻は、我々にそのことを語りかける。



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日本史2 源平編

2005-02-25 01:29:15 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
肖像 わずか1年余で平氏を滅ぼした若き天才武将・源義経



 本編に登場する若き革命児……源頼朝 木曾義仲 源義経 佐藤兄弟

 聖徳太子が日本の礎を築いてから500余年の年月が流れ、日本の歴史は、新たな転機を迎えようとしていた。
 それまで日本を支配してきた貴族の体制が衰え、代わって、武士の台頭が著しかった。平氏と源氏が2大勢力として対立し、情勢は混沌として予断を許さない。今再び、日本を築き直すために、乱世を駆ける若者が必要とされていた。
 源氏の御曹司である源義経は、そんな時代に生を受けた。幼名は、牛若丸。牛若がわずか1歳のとき、父・義朝は平時の乱に敗れ、殺された。母の常盤に連れられて、平清盛の元に自首し、命だけは助けられたが、母の元から離され、平氏の監視の元に、鞍馬山に預けられる。7歳のときだった。
 このとき、牛若は、自分が源氏の御曹司であることを知らなかったという。それがいつ真相を知り、源氏の再興を誓ったのかは、定かではない。
 一説には、武芸を教わった山伏から真相を聞かされたと伝えられる。この山伏の素性は明らかではないが、源氏に所縁のある人間であったことは、間違いないだろう。
 牛若は、この山伏の手引きで、強力(荷担ぎ)に変装し、監視の目を盗んで、鞍馬山を脱け出したという。15歳のときだった。

 京を離れた牛若が向かったのは、みちのく平泉だった。当時、みちのくでは、奥州藤原氏が巨大な勢力を誇り、さすがの平氏も力が及ばなかった。奥州藤原氏も、源氏が将来、力を持った場合に備えて、「源氏の御曹司をかくまった」という借りを作っておきたかった。
 牛若は、平泉の地で武芸に励み、来たるべき時に備えた。当時の戦は、一騎討ちが作法だったので、大将に武芸のたしなみは必須だった。
 それから1年後、牛若は、密かに京に向かっている。京では平氏が幅をきかせ、かむろという赤い服を着た少年たちに、平氏の悪口を言った者を取り締まらせていた。公家でさえ、平氏のやることに口出しできなかった。
 ところが、平氏の侍たちでもかなわない、怪力の僧兵がいた。この僧兵の名は、武蔵坊弁慶。夜ごとに京の街に出没し、通りかかる侍を襲っては、刀を奪うという。
 牛若は、清水観音の境内(五条大橋というのは伝説)で単身弁慶に挑み、軽業で翻弄して、降参させたという。当時の僧侶は、寺院の防衛を名目に、武芸に励んでいた。特に、興福寺や延暦寺の武力は、平氏さえ恐れさせていた。その中でも、随一のつわものだったという弁慶が、16歳の牛若丸に負けたとはにわかに信じがたいが、ともかく、弁慶は相手が源氏の御曹司と知ると、その場で家臣となった。
 こうして、生涯の側近を得た牛若は、平泉に戻って元服し、源九郎義経を名乗った。

 その後も、平氏はますます力をつけ、ついに清盛は、実の孫を天皇に即位させる(安徳天皇)。武士として初めて皇族となり、独裁的な権力を振るう清盛は、反発を招き、あちこちで、打倒平氏の旗が掲げられることになる。義経の兄である33歳の頼朝も、立ち上がった若武者の1人だった。
 21歳になっていた義経は、兄の挙兵を知るや、参戦を決意。奥州一の武将として名高い、佐藤継信・忠信兄弟を従え、頼朝軍に合流する。このとき、継信は22歳、忠信は18歳という若さだったが、「この2人がいなければ、平氏は討てなかった」といわれるほどの働きをすることになる。
 義経、継信、忠信。平氏追討は、実質的に、この3人の若武者によって成し遂げられることになるのだった。
 しかし、鎌倉の開発が優先されたこともあって、頼朝は当初、義経を出陣させようとしなかった。それどころか、鶴岡八幡宮の上棟式で、頼朝は、義経に大工に贈る馬を引かせている。
 馬を引くのは、臣従の意を示す行為で、本来、武将のすることではない。しかし頼朝は、実の弟だろうと、他の家来と区別しないことを示したかったと見える。
 いかに腕が立っても、チャンスが与えられなければ、実力をアピールすることはできない。いたずらに、月日だけが流れていった。
 義経が鎌倉でくすぶっている間、もう1人の若武者が、時代を大きく動かしていた。同族の木曾義仲だった。

 義仲は、信州木曾谷で育てられた。26歳にして平氏を討つべく挙兵し、翌年には、北陸道を制圧する。若き武将はますます勢いを増し、倶利伽羅峠の戦いでは、牛の角に松明を結びつけて突進させるという奇抜な作戦で、平氏の大軍を打ち破った。
 義仲は、比叡山の僧兵も味方につけ、ついに、絶大な権力を誇った平氏を、京から追い落とすことに成功した。このとき、義仲はまだ29歳。誰もが願いながらできなかったことを、20歳代の若き天才武将が成し遂げたのだった。平氏の都落ちにより、歴史の歯車は大きく回転し始める。
 しかし、京に入った義仲は、打ち続く戦と飢饉で荒れ果てた都の様子に、唖然とする。もともと義仲は、京に入りさえすれば、家来に恩賞を取らせ、兵糧を補給できると考えていただけに、これは全くの計算外だった。
 しかも、法皇は続けて、義仲に、「西国に逃げた平氏に追い討ちをかけ、安徳天皇と三種の神器を取り戻すよう」命ずる。義仲は渋々これに応じるが、命懸けで戦いながら、恩賞どころか兵糧さえ満足に補給されなかった家来たちの志気が上がるはずもなく、逆に、返り討ちにあってしまう。
 ますます苦境に陥り、その日の食事にも事欠く義仲軍の末端では、京で庶民の財産や食料を略奪する者まで出始めた。もはや、義仲の力では、そのような家来たちを抑えることができなくなっていた。朝廷では、義仲への不満が高まり、義仲は孤立してしまった。
 頼朝の元に、法皇から義仲追討が命じられたのは、そんなときだった。まず、義仲を利用して平氏を追い落とし、その後は源氏同士で争わせようというシナリオが、法皇の狙い通りに進んだと見える。

 頼朝は奥州藤原氏を警戒していて、自身が鎌倉を空けるのは、避けたかった。そこでとうとう、義経に義仲追討の司令が下る。源氏同士で争うことは本意ではないが、こうなったら、源氏の汚名を濯ぐためにも、義仲を討たねばならない。こうして、待ちに待った初陣が決まった。時に、義経25歳、継信26歳、忠信22歳だった。
 しかし、百戦錬磨の義仲に対して、義経には、実戦の経験が1度もない。義経の苦戦は、十分に予想された。が、蓋を開ければ、結果は義経の圧勝だった。その陰には、奥州1の武将として名高い佐藤兄弟の働きがあったことは、言うまでもない。こうして、義仲は京に入ってから、わずか半年で戦死する。まだ30歳だった。
 義仲は、世間で言われているほど、ひどい武将ではない。それどころか、あれほどの強権を誇った平氏を怒濤の進撃で破り、都落ちさせた実績は、特筆に値する。が、都に入ればなんとかなるという読みの甘さが、命取りになった。
 ともあれ、義仲はわずか5年ほどの間に己の天命を全うし、平氏打倒のバトンを義経に託して、歴史の舞台から去っていった。

 義仲に代わって京に入った義経の評判は、すこぶる良かった。義仲の二の徹を踏まぬよう、十分に食料を持参し、兵士たちの略奪を禁じたからだった。法皇も、義経を重用した。だがそこには、いずれ頼朝が朝廷に口出ししてきたとき、義経を朝廷につけて源氏同士で争わせ、自滅させようという、したたかな計算が隠されていた。
 頼朝は続けて、義経に、一ノ谷(神戸)に陣を張る平氏の追討を命じる。こうして、平泉で6年、鎌倉で4年、足掛け10年間、待ちに待った打倒平氏を、ついに実現できるときがやってきた!
 義仲戦の疲れを癒す間もなく京を出た義経軍は、まず、丹波で夜営している平氏軍に夜討ちをかけて蹴散らした。その翌日、義経は、一ノ谷を背後から急襲する作戦を立てる。
 一ノ谷は、前後を断崖と海に挟まれた、天然の要塞。義経は、この断崖を駆け降りて、平氏を攻めようというのだった。さっそく、地元の猟師である鷲尾三郎に鎧を取らせ、鹿の通る獣道を案内させる。
 一度決断するや、義経の行動は稲妻のように早かった。翌朝、まだ暗いうちから、義経はわずか70騎を率い、一ノ谷を見下ろす鵯越に向かった。その、あまりの嶮しさに尻ごむ兵士たちを差し置き、義経は、自ら先頭に立って、絶壁を駆け下った。
 その姿を見た兵士たちは奮い立ち、義経に続く。驚いたのは平氏軍だった。全く予想していなかった早朝からの奇襲に、槍をとる暇もなく、多くの武将を討ち取られ、海に敗走するしかなかった。
 一ノ谷の合戦では、少数精鋭主義、家柄にこだわらない現地住民の活用、率先垂範、しきたりにとらわれない奇襲攻撃、短期決戦など、義経本来の戦い方が、遺憾なく発揮されている。
 特に、夜討ち朝駆けや背後からの急襲などは、当時の武士の感覚からは、卑怯この上ないやり方になろうが、もともと大軍を擁していない義経にとって、最低限の犠牲で最大限の効果を挙げるには、これしかなかった。
 日本で、このような奇襲が一般的な戦法として認められるのは、戦国時代からである。義経は、300年も時代を先取っていた。斬新な発想と、思い切った決断が、義経の最大の武器だった。

 しかし、このあまりにも見事な勝利が、かえって頼朝に警戒心を抱かせることになった。頼朝は、今回の功績に対して、3人の源氏を国司に推薦したが、その中に、義経は含まれていなかった。
 事態は、法皇の狙い通りに展開していった。法皇は、さらに頼朝と義経の関係を悪化させようと企て、義経に検非違使尉(警察の長官)の位を授ける。案の定、頼朝は自分に許可なく官位を得た義経に激怒し、次の平氏追討から、義経を外してしまった。
 さらに、その年の10月、義経が昇殿を許されたことで、頼朝は再び激怒。もはや、義経は、このまま干され続けるかに見えた。
 だが、もともと平氏のホームグラウンドである瀬戸内海では、義経を欠いた源氏は、なかなか攻めることができなかった。関東の山野を駆け巡ってきた源氏は、騎馬戦は得意でも、海戦は未経験。一方、平氏は、代々海運を生業として発展してきたくらいで、海戦は十八番中の十八番。ましてや、奥深い瀬戸内海では補給路も分断され、逃亡する兵士も出る始末。頼朝も、ここに至っては、戦の天才・義経を用いるしかなかった。




 こうして翌年、義経はやっと参戦を認められる。しかし、頼朝が送ってきた戦奉行(司令官)の梶原景時は、あくまで、平氏の水軍と正面から激突するつもりだった。
 それは、確かに武士らしい戦い方かもしれないが、多くの犠牲を出すことは、目に見えている。それに、鎌倉の武将たちは、海戦が陸とは全く勝手が違うことを、理解していなかった。このままでは、ほとんど勝ち目はない。
 一方、京にとどまって戦況をつぶさに分析し続けていた義経は、平氏の、海戦での強さを知り抜いていた。そこで、相手の土俵である海ではなく、陸での戦いに持ち込むことを考えた。
 平氏は、四国の屋島に陣を構えている。そこで義経は、わずかな兵を率いて、嵐の吹きすさぶ深夜の瀬戸内海を渡り、密かに四国に上陸。背後から屋島を急襲する。
 平氏もまさか、嵐の海を渡ってくるとは予想外で、一時は海に逃げ出すが、義経が小勢と見るや、引き返して反撃に移る。この戦で、惜しくも、片腕と頼る佐藤継信が討たれる。まだ27歳だった。
 義経は、継信の供養をした僧に、名馬・大夫黒を取らせたという。家臣を大切にする義経の姿は、兵士たちを奮い立たせた。
 京でもそうだったが、義経は、人心を得るのが極めて上手かった。アレキサンダー大王のように、敵地の民衆をも味方につける、不思議な魅力があった。それも、私欲がなく、高潔な義経の人格によるものだろう。
 ここ四国でも、義経は、現地の河野水軍や熊野水軍を味方につけ、もともと兵力で圧倒的に勝っていたはずの平氏軍を追いやってしまった。嵐が収まって、景時率いる本隊が駆けつけたときには、すでに戦は終わっていた。

 こうして水軍を得た源氏軍は、いよいよ、壇之浦で最後の合戦に臨む。前回遅れを取った景時は、先陣を希望するが、義経はここでも、先陣をかって出て譲らない。もともと反りの合わなかった2人だが、ここに来て、対立は決定的になった。
 総大将自らが、最も危険な先頭に立つのは、常識として考えられないことだが、それが義経のやり方だった。義経の兵は、「戦わされている」という感覚ではなく、「義経と共に戦っている」という感覚を持つことができた。だからこそ、兵士たちの志気が高まり、数に勝る相手を撃退することができたのだろう。
 これも、アレキサンダー大王と同様である。天才には、やはり多くの共通点がある。
 義経が初めての海戦で用いたのは、まず、船の漕ぎ手を狙い討つという戦法だった。当時、武士同士は戦っても、漕ぎ手はお互い攻めないのが、合戦の作法だった。
 しかし、直接攻撃はしなくても、漕ぎ手も戦闘に積極的に加担しているのは、間違いない。義経は、この大切な決戦を確実に勝利に導くために、この戦法を選んだのだった。
 予想もしていなかった義経の奇抜な作戦に、平氏の旗色はどんどん悪くなっていく。その上、阿波水軍が平氏から源氏へ寝返ったことで、平氏の敗北は決定的なものになる。阿波水軍から平氏軍の機密が源氏に伝えられ、小さな兵舟に隠れていた平氏の武将たちは、次々に討ち取られていく。
 この時、平教経に一騎討ちを挑まれた義経が、舟から舟へと飛び移って翻弄したエピソードは有名。鎧兜に身を固め、不安定な舟の上でそれほどの身軽さを見せるとは、よほど強い足腰を持っていたらしい。教経はとても追いつけず、観念して海に沈んだ。
 こうして、平氏は壇之浦で滅亡する。義経が平氏追討に立ってから、わずか1年余の電撃決着だった。まだ26歳の若武者だった義経だが、もはや、義経以上の戦上手は、天下に見当たらなかった。

 しかし、獅子を滅ぼすのは、常に内側からの裏切りである。戦奉行の景時は、手柄を立てられなかった腹いせからか、頼朝に対して、「義経が、手柄を自分1人で立てたかのように吹聴している」との手紙を送る。
 もともと、あまりにも人気があり、戦に強過ぎる義経を脅威と見ていた頼朝は、平氏の滅亡を機に、義経を潰す決断をする。
 武士たちには義経に従うことを禁じ、さらに「兄弟の縁を切る」と義経に告げる。義経は、話し合いを求めて鎌倉に向かうが、頼朝は鎌倉入りを許さない。それどころか、義経の所領を取り上げる。さらに、京に戻った義経の屋敷に、頼朝の刺客が乱入するという事件まで起こった。
 最大の功労者である義経に対して、あまりにもむご過ぎる裏切り。ここに至っては、義経も、鎌倉を敵に回す覚悟を固めざるを得なかった。しかし、鎌倉を攻めるには、あまりにも兵力がない。義経は、わずかな側近と共に、西国へ逃れた。朝廷までも、鎌倉を恐れて、最大の恩人である義経を見捨てた。
 厳しい追手の目を逃れて、2年。山伏に化けた義経は、ようやく平泉の地に辿り着く。奥州の武士を率いて、鎌倉を討つ心積もりだった。しかし、奥州藤原氏も、結局は鎌倉からの圧力に屈し、義経を攻める。
 もはや、この世のどこにも、義経の味方はいなかった。観念した義経は自決。享年、わずか30歳だった。

 頼朝が、大軍を率いて奥州藤原氏を滅ぼしたのは、義経の死から、わずか5カ月後のことだった。歴史に「もし」は無いというけれども、仮に、奥州藤原氏が、戦の天才・義経を大将に立てて鎌倉と戦っていたなら、日本の歴史は、全く違う展開を見せていたかも知れない。小説の題材としては、興味深いテーマであろう。
 後世の人々は、この不遇な若者が平泉で命を絶ったという悲惨な結末に、納得できなかった。そして、義経は平泉を脱け出し、日本など比べものにならない広大なユーラシア大陸に渡り、ジンギスカンと名乗って、アジアを駆け巡ったという伝説が生まれた。
 一方、頼朝は、挙兵からわずか10年ほどで実質的に天下を平定し、史上初の幕府を開いた。以後は、数世紀に渡って武家政権が続くことになる。なお、一度は逆賊として義経を追った頼朝だが、後に悔い改めて永福寺を建て、義経を供養している。
 没後900年を経た今もなお、義経は日本史上最大のヒーローとして、最も愛されている人物である。それは、彼の悲劇の生涯が、若者の純粋さと無限の可能性、そして、それを利用して生き残る狡猾な権力者という、いまだに変わらない社会の構図を象徴しているからなのかも知れない。




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日本史1 建国編

2005-02-24 13:42:16 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
 本編に登場する若き革命児……厩戸皇子 中大兄皇子 中臣鎌足

 日本の国の骨組みを整えた人物といえば、第1に名前が出るのは聖徳太子だろう。その肖像画が長い間紙幣にも用いられ、まさに、日本国のシンボルともいうべき、歴史的人物である。だが、10歳代から摂政として日本を担う重責にあったこと、日本の独立を達成したことなどは、あまり知られていない。

 太子の生前の名は、厩戸皇子または富聡耳皇子などといった。キリストと同様に馬小屋で生まれたとか、1度に10人の話を聞き分けることができたとかいわれるが、これは後世の伝説であろう。しかし、信心深くて賢い子供であったことは、間違いないらしい。
 皇子の人生で最初の転機は、父・用明天皇の死によって訪れる。当時の政治は長老主義に立っていて、天皇の位は、皇族の中の年配者が継ぐのが一般的だった。たとえ天皇の長男でも、若いうちは、容易にその位を継ぐことができなかった。ある意味で、今日以上に保守的だった。
 また、継承した時点ですでに年配だから、任期も短く、後継者争いが耐えなかった。このときも、皇族と親類関係にある蘇我氏と、強大な軍事力を持つ物部氏が対立し、それぞれが、別の天皇候補を立てることになった。そこで、両者は軍事的に激突することになる。皇子も、蘇我氏の軍に加わって、初陣を飾った。13歳のときであった。
 しかしさすがに、代々天皇の護衛を務めてきた物部氏は手強く、苦戦する。そのとき、太子は仏経の守護神である四天王の像を刻み、勝利の暁には、仏経を保護することを誓ったと伝えられる。その甲斐あってか、蘇我氏は、ついに物部氏を滅ぼすことに成功した。
 しかし、多感な思春期に戦場の悲惨さを目の当たりにした皇子は、さらに仏経に魅かれ、和を重んじることに心を砕くようになる。

 蘇我氏の実力者・馬子は、崇峻天皇を擁立する。しかし、天皇は馬子の影響力を嫌い、隙を見て排除しようと企てる。それをいち早く察した馬子は、逆に天皇を暗殺してしまった。
 その後、馬子は、想像を絶する革新人事を断行する。大陸でも例の無い女帝・推古天皇を擁立し、さらにまだ19歳の厩戸皇子を皇太子に立て、摂政として天皇職の代理に当たらせることを決める。こうして太子は、事実上の皇位後継者として、叔母である天皇の代理人を務めることになった。
 翌年、20歳になった太子は、『三宝興隆の詔』を出す。三宝とは「仏」「法」「僧」のことであり、この3つを尊ぶことを政治の根本方針として、天下に示した。
 当時、仏経はまだ、海外から伝わってきたばかりの新興宗教として偏見を持たれ、日本古来の自然崇拝と、思想的な衝突をしばしば起こしていた。しかし、蘇我氏が仏経伝来以来保護の立場を取ってきたこともあり、ようやくここで、仏経が日本に定着する。
 太子は、翌年には高句麗から渡ってきた僧侶・慧慈から、直々に経典を学んでいる。慧慈はその後も、太子の信仰上の師として尽力する。
 太子は、蘇我氏を排除しようとは考えなかったらしい。第一、そんなことを考えたら、すぐさま消されてしまう。しかし、天皇が政治のイニシアチブを取り戻すことは、必要だと考えていた。
 そこで太子が考えたのは、斑鳩に宮殿を建てることだった。ここに宮殿があれば、蘇我氏の勢力の強い地域を避けて、首都・飛鳥に大陸の最先端技術を伝えることが可能になる。この案は、太子が27歳のときに実現される。

 一方で、太子は大陸の行政を研究し、行政改革の案も温めていた。その第1弾が、29歳のときに定めた『冠位十二階』の制度だった。
 それまで、朝廷での役職は家柄で決まっており、本人の能力などは評価されなかったが、太子はこれを抜本的に変える。役人の位を12段階に分け、能力のある者はどんどん昇進させるというもので、今日の実力主義の考え方を先取っている。
 現代でさえ、公務員の能力主義については賛否が分かれ、導入が困難だというのに、実は、30歳足らずの若者が、1500年も前に実現していたのだった。
 しかし、ただ制度を変えるだけでは、改革は成功しないと、太子は考えた。制度は所詮、道具であり、制度を使うのは、人間自身に他ならない。実力主義の導入は、確かに行政の効率を上げるだろうが、競争意識が過熱するあまり、役人同士でいがみ合い、足を引っ張り合う恐れもある。
 そこで、5カ月後には、役人の心構えを説いた『憲法十七条』を発表する。これは、天皇と仏法僧を尊び、私心を捨てて全体の利益と理解を重んじることを定めたもので、『冠位十二階』と並び、太子の最も重要な功績として知られる。その影響力は計り知れない。和の重視、天皇中心の国づくり、仏経の尊重など、『憲法十七条』は、そのまま今日まで受け継がれる日本人の道徳の骨格となっている。


聖徳太子に学ぶ十七条五憲法
宮東 斎臣
文一総合出版

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 これら歴史的な改革を実現した翌年、太子は斑鳩宮に移り住む。そこから18キロ離れた飛鳥まで、毎日従者と2人で馬に乗り、何時間もかけて通ったという。これには、蘇我氏の影響力を遠ざけるという狙いもあったのだろうが、それだけではない。
 太子は、通勤を利用して庶民の暮らしの現場を直に見学し、庶民に密着した政策を、常に考えていた。太子にとって、政治とは庶民への奉仕だった。そのためには、都に籠もっていては分からないこともあると、太子は気付いていた。
 太子は、為政者が仏経の信仰を重んじることが大切だという思いを、ますます強めていた。例えば、一向一揆などわずかな例外を除けば、歴史的にも、仏経のために戦争が起こされたことはほとんどない。キリスト教やイスラム教が、しばしば布教の手段として戦争をも辞さなかったのとは対照的に、仏経は殺生を最大の罪とし、対話による布教を重んじている。インドのアソカ大王などは、仏経に帰依するや一切の戦争を放棄し、平和外交による繁栄を築いている。
 そこで、太子は32歳のとき、推古天皇以下、全ての皇族と従者に「勝鬘経」「法華経」を講義している。特に法華経は、一切衆生(全ての人及び生きもの)に仏性があると説き、今日に至るまで、日本人に最も親しまれている経典のひとつ。
 日本では何度か宗教改革の波が起こっているが、その中で法華経は常に見直され、日本人の信仰の核となり続けてきた。平安時代に最澄が開いた天台宗は、法華経を拠所としているし、鎌倉新仏経では、日蓮が法華経の題目を本尊としている。近代の新宗教においても、霊友会や創価学会、立正佼成会など代表的な教団が、法華経を教義の柱としている。
 このように、時代を超えて見直され続ける経典は、他に例を見ない。その法華経に、日本史上初めて注目し、普及に努めたのが、聖徳太子だった。あるいは、太子は1000年2000年先までも見越して、この経典講義を決意したのかも知れない。

 一方で、現実の政治改革も、さらに進めていた。33歳になった太子は、大陸の文化をさらに導入する必要があると考え、小野妹子を隋に送り込む。妹子は、2年後に隋の使者を連れて帰国し、隋と日本の国交が、正式に開かれた。
 ここで重要なのは、太子が超大国・隋と対等な関係を結ぼうと計画し、成功させた点にある。これは、日本が国際的に独立国として認知されたことを意味している。
 それ以前も、邪馬台国が魏に使節を送り、日本の統治を認められたことはあった。しかし、あくまで日本は属国扱いであり、対等の関係ではなかった。それも、国力の差を考えれば無理のないところだったが、太子の時代には、ある情勢の変化があった。
 当時、隋は中国を統一したものの、勇敢な民族に支えられた朝鮮半島の高句麗だけは、どうしても攻め落とすことができなかった。その高句麗と日本が結ぶことだけは、隋としては、絶対に避けたいところだった。太子は、この国際情勢を熟知した上で、絶妙なタイミングで隋に対等な国交を要求し、これを呑ませたのだった。
 そしてこれ以来、日本は今日に至るまで、(近代に一時関係が悪化したことはあったものの)東の超大国・中国と対等な関係を結び続け、独立を保ち続けてきた。聖徳太子こそ、日本の国父なのだ。



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 38歳になった太子は、ある日、天皇のお供として薬猟(薬草摘み)に出かける。その帰り道、水不足に悩む農民の姿を見かける。太子はすぐさま用水池の建設を指示し、さらに、他にも水不足で悩む村がないか調査させ、大和地方の各地に用水池を造らせたという。太子は、庶民が困っているのを一刻も放っておかなかった。
 また、斑鳩宮のすぐ近くにある竜田山で行き倒れになった旅人を見つけ、憐れんで詠んだという歌が、万葉集に残されている。

 家にあらば
 妹が手まかむ草枕
 旅に臥せる
 この旅人あはれ
(家にいたなら妻の手を枕にしていただろうに、旅に倒れたこの人の哀れなことよ)

 という歌で、太子の人柄をよく物語っている。
 それからしばらくして、太子は突然摂政を引退し、周囲を驚かせる。政治家としては、これからという年齢である。
 しかし、太子は、内政でも外交でも、日本という国の基盤は固めたという気持ちだった。実際、長老政治の時代だったにも関わらず、若き太子がやり遂げた数々の歴史的功績を否定することは、誰にもできないだろう。
 30歳代も半ばを過ぎ、人生の転機にさしかかっていることを感じた太子は、後事を次の世代に託し、自身は仏経の普及に専念する決意だった。

 その後は、経典の解説書や歴史書の編纂に取り組み、50歳で病のために世を去った。その辞世の言葉は「世間虚仮唯仏是真(この世の全ては虚しく、仏のみが真実)」だったという。


聖徳太子事典

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 仏経を象徴する植物として、蓮華が最もよく用いられる。
 蓮華は、泥の上に美しい花を咲かせるが、全て枯れる運命にある。まさに虚しい。だが、泥の下に隠された根は、絶え間なく新たな花を咲かせ続けていく。
 目に見えないところにこそ、宇宙・生命の実体がある。古代の賢者たちは、その実体を仏と呼び、蓮華になぞらえた。これは、近年の心理学や宇宙論の考え方とも、一致している。
 太子の没後も、しばらく蘇我氏の支配が続いた。馬子が没し、蝦夷の代になると、蘇我氏の専横はいっそう激しくなり、太子の死からおよそ20年後、蘇我氏は、太子の一族をも滅ぼしてしまう。どんな美しい蓮華の花も、いつかは散る運命にある。
 しかし、絶大な権力を握った蘇我氏も、太子の残した「天皇を中心とした国づくり」という理想まで、滅ぼすことはできなかった。蓮華は人知れず、次の開花の準備を整える。そしてついに、太子の理想を受け、2人の若者が立ち上がった。
 2人の名は、中大兄皇子と中臣鎌足。まだ皇子は19歳、鎌足は30歳に過ぎなかった。しかし、2人は絶大な力を誇っていた蘇我氏を滅ぼすことに成功し、聖徳太子の念願だった、天皇中心の国づくりに取りかかる。新たな歴史を拓いたのは、やはり若者たちだった。



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一年で最高の日

2005-02-24 00:07:23 | 本田一希詩集 宇宙(そら)のかけら
美しい花束に包まれたこの日が
優しい光の中で
いつまでも 枯れないように...
永遠の貴女を願って...
Happy Birthday to you


2002.9.4 From Hitoki


※バースデイカードなどにお使い下さい




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ヒョードルvsミルコは、立ち技決戦になるか?

2005-02-22 22:04:22 | 武学
今夜のPRIDEは、ストライカーたちが強みを見せてくれました。


まず、シュートボクセの新鋭マウリシオ・ショーグンが、ミルコのハイキックを完封した策士・金原を、若さで一蹴。まさか、あの金原が、あれだけ一方的にやられるとは! 
特に、顔面ストンピングの正確さは、脅威です。とはいえ、選手の安全を考えたときに、これをルールで規制することも検討する必要はあります。事故が起こってからでは、遅いのです。
ショーグンは、もうミドル級トップの一角に食い込んでいると考えて良さそうです。

また、桜庭が田村に挑戦表明したのも、ビッグハプニングでした。確かに、お互いにとって、お互いが1番輝けるマッチメイクが、このカードではないでしょうか。

そしてなにより、ボブチャンチンのミドル級転向が大成功したことも、触れなくてはならないでしょう。
体重を90キロ強まで絞ったことにより、以前にはなかったスピードとコンビネーションを手に入れました。今年のグランプリ本命の1人でしょう。
ミドル級王者シウバは、本格的なストライカーに対するもろさを、昨年の大晦日に見せてしまいました。実のところ、シウバは、決してストライカーとしての完成度が高いわけではありません。当たればききますが、決してキレのあるパンチの持ち主ではない。
しかし、今の進化型ボブチャンチンは、本来の打撃力に加えて、K-1に通用するくらいの技術を持っています。つまり、打倒シウバの最有力候補といえるタイプなのです。このカードは、なんとしても今年中に観たいところです。

ハリトーノフも、久々の参戦で、あのタフで我慢強いチェ・ムベを、嫌倒れさせました。今年中に、ミルコかヒョードルと対戦してもらいたいところです。

そして、コールマンのタックルを完封したミルコ! 切ると言うより、正面から押し返していました。化けモンです。切り札の左ハイ「クロコップ・ブレード」を抜くまでもなく、完勝です。

試合後のマイクにおいて、コールマンは、
「ミルコは、今までやった中で最強の相手。まもなくチャンピオンになるだろう」
そう語りました。これは、もの凄い重みのある発言なのです。

と、いうのは、コールマンは、ノゲイラともヒョードルとも対戦しているわけです。その上で、「ミルコが1番強い」と断言しているわけですから、極めて信憑性の高い実力査定だと考えられます。

ヒョードルは、決して負けない手堅い戦い方をします。ノゲイラとの決戦でも、決して寝技に付き合わず、ポイント差での判定勝ちに全力を注ぎました。
これは正解でした。立とうが寝ようが、ノゲイラに1本勝ちできる人間なんて地上に存在しませんから、ノゲイラに勝つには、どうしたってそれしか選択肢がないのです。

ミルコとやるとすれば、ヒョードルはテイクダウンしたいわけです。セーム・シュルトとやったときは、これで完封しています。しかし、ミルコのガードの固さといったら、ノゲイラの1本勝ちが「奇跡」に思えるくらいの鉄壁ガードなわけです。

もし、ミルコが今日のコンディションでヒョードルとやったら、ヒョードルはテイクダウンをとれないでしょう。純粋な打撃対決では、どうしたってミルコに分があります。
唯一、ヒョードルが勝機を見いだせるとしたら、フックしかありません。でも、そんなことはミルコも十分承知しています。立ち技の引き出しの多さにおいて、ミルコは圧倒的な優位にあります。

皇帝は、政権発足以来、最大の危機に直面しているのかもしれません。 
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ライブドア株は小学生でも買えるよ

2005-02-21 00:46:57 | 堀江貴文関連・ライブドア事件は国策捜査
※明確な証拠を示さずに、「堀江の発言は信用できない。出資者を騙している。ライブドア株を買うと確実に損する」などと吹聴することは、刑法で禁じられた名誉毀損及び株価操作に抵触する恐れがあります。コメンテイターの皆さんはお気をつけ下さい。
そうしたコメントを放置しておくと、当ブログまでライブドアより訴えられる可能性があるため、コメントを削除することがあります。



ここのところ、ライブドアはフジサンケイの件ばかりで騒がれています。それも無理のないことですが、忘れてはいけないのは、これはあくまで、ホリエモンの壮大な構想の一部だということです。彼が考えているのは、フジサンケイグループの支配などといった、ミクロの野望ではありません。

では、ホリエモンの最終的な狙いとは、いったい何なのでしょうか? この若さで一生遊んで暮らせる富を築いた男が、なぜ、あえて、これほどのリスクを背負おうとするのでしょうか?

この謎を解くカギは、「ライブドア株」にあります。



ホリエモンは、株式会社の目的とは、

「株主を儲けさせること」

だと断言しています。いかにもリアルな実業家的な言葉ですが、その影で、彼が何をしているのかを知る必要があります。

ライブドア株は、株式分割を繰り返しているので、常に1株が数百円に保たれています。しかも、通常は100株から1000株、つまり数10万円を一口とする株の世界において、ライブドア株は、1株からの売買が可能です。要するに、

「小学生でも買える」

金額なのです。

なぜ、ホリエモンは、そこまで敷居を低くしているのでしょうか?

答えは、明らかです。

まとまったお金を投資に回せない若い世代でも、ライブドアの株主になれるようにするためです。

彼は、株主を儲けさせることが、自分の仕事だと信じている。つまり、ホリエモンは、

「若者を儲けさせる」

ために、これほどのリスクを侵しているのです。

ホリエモンは、

「若い世代が消費力を持てば、経済は活性化する」

そう主張しています。なぜ、若者を儲けさせようとするのか? それは、

「日本再生のため」

なんです。ひとつの企業体を支配するとか、そんな小さなスケールで動いている人じゃないんです。

あなたは、一生遊んで暮らせる資産を持っていながら、あえて大借金を背負い、日本中からバッシングされ、次の世代のために、日本の未来のために、尽くそうと思いますか? 僕は、いやです。でも彼は、それをやっている。

本人には、それほどの自覚はないかもしれません。ロケット飛ばすための資金を集めるためにやっているとしか、思っていないかもしれない。

ただ、彼の言動をトータルで判断した場合、やはり、単なる拝金主義者でないことは明らかです。

露骨に、古い秩序をブチ壊すため、あえて険しい道を選んでいます。リアル猪木です。

偉人です。マハトマです。

これだけの人間力の持ち主は、日本史上でも希でしょう。織田信長や坂本龍馬に匹敵します。間違いなく、歴史を代表する1人です。

僕らは、歴史をリアルタイムで目撃しているのです。


ホリエモンは、「40歳で引退する」と宣言しています。その場合、ライブドアを引き継ぐことになるのは、20代、下手をすると10代の若者だと思います。「お金は若者が動かすべき」というのがホリエモンのポリシーですから、これは間違いないでしょう。


僕は、ライブドア株を買います。

仮にも、彼の登場を誰よりも早い時期に断言した物書きの端くれとして、その責任があります。

たとえ、ライブドアが倒産してもいい。堀江貴文と共に、日本のため、次の世代のために闘いたいのです。

彼と、同じ時代に生まれてこられたことを、心から幸せに思います。



ホリエモンエピソードゼロ「拝金主義者」の逆襲~起業前夜~僕がまだ青かった頃の話

堀江貴文氏(ホリエモン)講演会『逮捕前夜』


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判決前夜 ‐堀江貴文の日本バージョンアップ論
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僕が伝えたかったこと
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「僕は死なない」
堀江 貴文
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ライブドアショック・謎と陰謀―元国税調査官が暴く国策捜査の内幕
大村 大次郎
あっぷる出版社

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検証「国策逮捕」 経済検察はなぜ、いかに堀江・村上を葬ったのか
東京新聞特別取材班
光文社

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米国児童レイプ罪について

2005-02-18 14:19:17 | こんなに違う! 世界の恋愛ルール
アメリカで、児童レイプで有罪判決を受けた女性が、出所後にかつての被害者と結婚したとして、話題になっています。

この女性は学校教諭で、当時30代。

被害者とされる男性は、当時12歳の教え子でした。

もちろん、女性が男性をレイプするのは、生理的にほとんど不可能なことです。

しかし、アメリカの多くの州では、未成年との性行為は、双方合意の上であっても、レイプとして罰せられます。日本にも同様の法律はありますが、対象年齢は、ずっと低いです。


両者は、当時から恋愛関係にありました。女性には夫と子どもがいましたから、正確には不倫関係ですが。

女性は、夫と別れ、被害者とは相思相愛であることを主張していました。被害者の母親さえ、法廷で彼女を弁護しているのです。

こうした状況からすれば、彼女を罪に問う理由は、最初からどこにも存在しなかったように思われます。

夫がありながら、とか、未成年をたぶらかした、とか、イチャモンはいろいろつけられます。

しかし、ここで争われているのは、

「成人には未成年と恋愛する権利があるのか」
「未成年には成人と恋愛する権利があるのか」

という問題なわけです。今どき、恋愛とHを切り離して考えるのはナンセンスですから。

そして、有罪判決が下ったということは、少なくとも建前上、


「未成年は恋愛するな」
「成人は未成年を恋愛対象にしてはならない」

という思想を、自由と個人主義の国アメリカが、内外に示したということなのです。

僕のいた高校でも、男性教諭と女子生徒が付き合っているというケースはありましたが、それを咎めるような空気は、少なくとも生徒の中には、ありませんでした。ロリコンだろうとファザコンだろうと、そんなことは個人のストライクゾーンの問題であって、周りに迷惑をかけない限り、どうこう言うのは失礼でしょう。

そう考えると、日本よりアメリカの方が、前近代的な思想に固執している面があると、考えてもよさそうです。

そして、日本の法体系も、「宗主国」アメリカの影響を強く受けることになります。
僕らが、こうした問題について冷静に判断する場合には、国際的な背景をあらかじめ知っておくことも、大切になってくるのです。





美人にモテる方法(特典・処女の見分け方&オヤジが若いコにモテる方法)



チビデブ男子がカワイイ彼女を作るための方法
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営業と恋愛は同じもの

2005-02-18 01:52:21 | いろいろ
最近ハマっていることといったら、このブログ作成と、メルマガを読むことです。常時2ケタのメルマガを愛読してます。無料のばっかり。

メルマガのいいところは、いちいちアクセスしなくても、更新情報が届いてることですね。1度バックナンバーをチェックしてしまえば、あとはただ待っていればいいという手軽さ。
広告が多いのはウザイですが、中にはお役立ち情報が含まれていることもあります。

僕は、主にビジネスと心理系のメルマガをとっています。特に面白いのは、営業と恋愛系です。
営業と恋愛って、スキルとしてはほとんど同じものみたいですね。ほりえもんも、よく営業をナンパに例えますが、つまり、

「売れる営業マンで、モテない男はいない」

らしいです。僕は、どっちもダメですけど。

恋愛っていうのは、要するに自分の男ないし女を営業することですから、モテるためには、営業の研究を重ねることが大変プラスになるようです。もちろん、これは逆も真なりで、営業スキルを上げるためには、恋愛の研究がプラスになるそうです。つまり、両方の研究を重ねることで、相乗効果が生まれるのです。

不細工は、恋愛市場では人気がありません。ちょうど、魅力のない商品みたいなものです。
もちろん、品質の向上も大切なのですが、そこで終わってはいけないわけです。それだけでは、売れません。
営業しなければ。

営業すれば、たとえどんなヘタレな商品であろうと、売れる確率は上がります。僕の、独りよがりのブログであっても、こうしてネット上にアップすれば、けっこうな数の人が目を通してくれるわけです。

恋愛も同じで、どんなイケメンだろうと、毎日部屋に閉じこもってゲームばかりやっていたら、どうしたって出会いなんかありえないわけです。そういうもったいない奴は、けっこういます。
僕は、近頃これになってます。ただし、イケメンではないですけど(;_;)。

それだったら、たとえ自分から女の子に声をかけられなくても、ただブラブラするほうが、まだマシです。
出会う確率は、部屋にこもっているよりは高いからです。


能書きが長くなってしまいましたが、僕のお薦めメルマガをご紹介します。

今1番人気のメルマガは、『セクシー心理学』あたりですが、これなんか、人間関係全般に応用できる、素晴らしい内容です。

そして、僕個人としてのイチオシは、まだブレイク寸前ですが、『ブサヤリ』です。分かる人には、分かりますね?

なぜ、あまたのメルマガの中で、この2つを推すのか?

それは、



文章がメチャ巧い!!!


これに尽きます。

僕も一応、文章については、大手出版社の企画会議で「非のうちどころがない」といわせた男です。

そんな僕でも、「これは絶対真似できねェ!」というくらいの、ダントツブッチギリの巧さなのです。ああいうのを天才というのでしょう。文章とはいかに書くべきか、それを知る上で、これほどのお手本は、ありません。

もちろん、内容の方も、超ハイグレードです。

『ブサヤリ』から、ひとつだけ、ご紹介します。

「マメな男はモテる」

という定説があります。ただし、これは、第1印象で相手が好感を抱いてくれた場合に限った話です。
第1印象が悪い場合、マメに連絡を取ると、「しつこい人」というマイナスイメージが増大するだけで、全くの逆効果です。

この分析には、「モノスゴク」納得しました。
僕も、しつこいセールスの電話なんか、容赦なく着信拒否です。
しつこくされればされるほど、親密度が増すばかりか、不快感が拡大します。
誰でも同じです。
営業と恋愛は、同じものなんです。

もちろん、本物の方は、もっと巧い文章で表現しています。
恋愛はもちろん、営業に応用したい方にも、超オススメですよ!


ブサヤリはこちらから♪



おまけ 変人のメルマガ


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百年戦争編

2005-02-17 18:51:11 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
 本章に登場する若き革命児:エドワード3世 エドワード黒太子 賢明王シャルル5世 最愛王シャルル6世 ジャンヌ・ダルク 勝利王シャルル7世


 百年戦争は、フランス王シャルル4世に跡取りがいなかったことに端を発する。シャルル4世の没後、従兄弟であるフィリップ6世が王位を継いだが、それに対して、イギリス王エドワード3世が異議を唱えた。
 エドワード3世は、当時26歳。14歳で即位、わずか17歳で親政し、毛織物立国の基盤を築いた若き名君だった。
 実は、エドワードはシャルルの叔父にあたっていて、自分がフランス王を兼ねるのが当然だと主張する。もちろん、フィリップは反発し、若いエドワードをあなどって、イギリス領にちょっかいを出す。これにはエドワードも激怒し、とうとう、イギリス軍がフランスに上陸するという、最悪の事態に至った。
 パリに向かって進軍するイギリス軍に対し、フランス軍は騎兵を結集して、正面から応戦する構えだった。全身を鎧で固めて集団で突撃する騎兵は、実に過去4世紀に渡って、戦場の主力を成していた。
 この騎兵隊が1万2千に、歩兵も2万以上。さらに6千人の弩部隊に、ドイツの諸侯まで、フランスの支援に回っていた。フランス軍の兵力は、イギリス軍の2倍以上。
 加えて、フランス軍を率いるフィリップが53歳と、百戦錬磨の大ベテランだったのに対して、イギリス軍を率いるエドワードは、まだ35歳。経験の差は、歴然としていた。イギリスの勝ち目は、薄いかに思われた。
 イギリス軍は、クレイシーのなだらかな丘の上に陣取って、フランス軍を迎え撃つ作戦を用いた。このときイギリスが用いたのは、ウェールズの猟師が使っていた、長さ1メートル近くの長弓だった。これは射程が4百メートルというもので、2百メートル以内ならば、鎧をも貫通した。イギリスは、1万1千の、長弓と槍を持たせた、農民からなる歩兵隊を丘の上に並べた。
 対するフランス軍は、弩部隊を先頭に、丘を駆け登ってくる。弩は、当時最も威力のあった飛び道具で、あまりの殺傷力の高さに、法皇から使用禁止令が出されたほどだった。
 だが、この弩が射程距離に入る前に、丘の両サイドの長弓から放たれた長い矢が、フランス軍を射貫いていた。弩部隊はなんとか反撃を試みるが、構造の複雑な弩をつがえるには、長弓の6倍の時間を要した。結局、ほとんど反撃できずに壊滅。
 さらに悲惨なのは、騎兵だった。一方的に矢のシャワーを浴び、しかも随所に落とし穴や杭が仕掛けてあったので、バランスを崩して、大部分の騎兵が落馬。当時の騎兵は50キロもある鎧で身を固めていたので、倒れたが最後、自力で起き上がることもできない。地面でもがいているところを、槍部隊が近づいて、難無く串刺しにする。
 だが、愚かにも、フランス軍はその後も、日没まで無謀な突撃を16回も繰り返し、1日にして、大切な兵をほとんど全滅させてしまう。死者2万5千人以上、捕虜も無数。
 この悲惨な敗北の責任者であるフィリップは、身ひとつで逃亡した。愚かな指導者に率いられた集団が、いかに悲惨な末路を辿るかという、サンプルのような敗北であろう。
 一方、イギリス軍の死者は、わずかに50名程度だったという。しかも、ろくに訓練も施していない農民たちが、2倍以上もいる職業軍人たちを相手にした上で! イギリスにとってみれば、この上ない完全大勝利に終わった。
 限られた人材でも、リーダーの知恵と工夫次第で無限の力を発揮するという、サンプルのような勝利だった。その陰に、若きエドワード黒太子の尽力があったことは、よく知られている。

 黒太子はエドワード3世の息子で、当時まだ16歳。しかし、クレイシーの軍の一翼の指揮を執り、初陣ながら任務を完璧に全うした。黒太子の力を抜きにして、これほどの完勝は考えられなかった、というほどの名指揮だった。
 あるいは、騎士4世紀の不敗神話を終わらせた長弓作戦そのものが、黒太子の発案だったのかも知れない。彼の立場を考えた場合、少なくとも何らかの形で作戦に寄与したことは間違いなかろう。
 クレイシーで若き天才将軍として名を馳せた黒太子は、10年後のポワティエでの戦いでは、イギリス軍の総司令官として全軍の指揮を執る。一方、フランス軍を指揮したのは、フィリップの息子であるジャン王。
 ジャン王は、フランス騎兵隊を誇るあまり、クレイシーでの完敗の原因を農民の長弓のためだと認めず、愚かにも、父親同様、無謀な突撃を繰り返すばかりだった。黒太子は前回以上の指揮を見せ、ジャン王を捕虜にするほどの完勝を収める。北フランスは、あえなくイギリスに占領された。
 だが、黒太子は、敗敵ジャン王をあくまで一国の王として尊重し、臣従の礼をもって迎える。その謙虚な態度がますます黒太子の名声を高め、騎士の鑑として今日まで語り継がれている。
 しかし、その後は年をおうごとに、かつての名将軍ぶりに蔭りが見えてくる。特にリモージュでは、住民を無差別に虐殺し、その輝かしい経歴に汚点を刻むことになった。
 もはや黒太子は、騎士の鑑と讃えられた、かつての謙虚な若者ではなかった。やがて病が悪化し、王位を継ぐことなく、46歳にしてこの世を去ることになる。
 その後、19歳でフランスの摂政となった天才青年・賢明王シャルル5世は、30歳代までに北フランスの奪環に成功する。だが彼の死をきっかけに、またもやフランスは保守派とイギリス派に分裂した。
 息子であるシャルル6世が20歳で親政し、善政によってようやく混乱は収まったが、彼は後に発狂してしまう。チャンスと見たイギリスは、シャルル6世の息子・シャルル王太子の命を狙ってフランスに上陸、仏内イギリス派と結び、イギリス領を拡大していく。フランスは、滅亡の危機に見舞われていた。

 英領に呑み込まれた地域にある、わずか50世帯前後の小さな村ドンレミにジャンヌ・ダルクが生まれたのは、そんな時期だった。ジャンヌは、父親が有力者であることを除けば、どこの村にもいる、ごく普通の娘だった。家が教会の隣にあったので、ジャンヌはよく教会に通い、信仰心に篤い少女に育っていった。
 またドンレミは、英領にあるのにもかかわらず、政治的にはシャルル王太子を支持していた。その中で育ったジャンヌも、次第に愛国心の強い少女となっていった。村にイギリス派は1人しかおらず、ジャンヌは、その村人を殺してやりたいと思うほど憎んでいたという。
 信仰心と愛国心は、ジャンヌの生涯を決定する重要なポイントとなる。

 13歳になったジャンヌは、隣村ヌフシャトーの若者から求婚される。それからまもなく、ジャンヌは、自宅の庭で聖者ミッシェルの声を聞く。その声は、ジャンヌに、フランスを救うように呼びかけたという。
 この聖者について、ジャンヌは後に「声は聞こえるが、姿は見えなかった」と語っている。統合失調症の症状のひとつに「自分の潜在意識の思考が、声として聞こえる」というものがあるが、ジャンヌは、そういう傾向を持っていたのかも知れない。
 声は、ジャンヌに対して

1.行いを正しくすること
2.神の望む間は処女を守ること
3.フランスに行くこと

 を命じた。特に2は結婚してはならないという意味で、怒ったフィアンセは、裁判に訴えて結婚を成立させようとする。だが声はジャンヌに対し
「裁判には必ず勝つ」
 と語ったという。事実、その通りになった。プロポーズを受け入れたわけではないというジャンヌの主張が通ったのだった。
 声は、その後も週に2~3度の割合で続き、内容も具体的になっていった。
 声は、ジャンヌに対して、まず王太子の守備隊長であるボードリクールの元へ向かうこと、軍の先頭に立つこと、さらに男装することを命じた。当時、女性の男装は、カソリックによって固く禁じられていた。
 ジャンヌは「農民の娘でしかない自分に、なんでそんな大それたことができましょうか」と、声の主に泣いて哀願したと伝えられる。確かに、農民の娘として生きてきたジャンヌが、軍の先頭に立ち、職業軍人たちと戦うなど、どう考えても、無謀な自殺行為でしかない。

 だが、そんなジャンヌに決断を促す出来事が起こった。ジャンヌが16歳のとき、英領の中で王太子への指示を貫くドンレミを潰そうと、イギリス派が攻めてきたのだった。
 村人はジャンヌの父に率いられ、ヌフシャトーに避難する。幸いにも犠牲者は出なかったが、1月後に戻った村は、無惨に破壊されていた。ジャンヌは、故郷の家族や人々を守るため、イギリスを打ち破る他に道はないと悟る。
 ジャンヌは、叔父を連れてボードリクールの城へ向かったが、案の定、相手にされない。しかし、聖者の声を聞く少女として有名になっていたジャンヌは、城の近所の大工の家に滞在することができた。その後は、毎日城に通って、執念でボードリクールとの面会を求め続けた。
 そんな日々が、1年近くも続いた。ジャンヌは街中の噂となり、魔女ではないかという者もいたが、一方で、ジャンヌと面会しないボードリクールを非難する声も高まっていた。
 そこでボードリクールは、司祭をジャンヌの元に向かわせる。魔女ならば、司祭を見て逃げ出すだろうという考えからだったが、当然、ジャンヌが司祭を恐れるはずもない。
 さらに、ジャンヌはそのとき、まだ誰も知らなかったはずの、王太子軍のルーブレイでの敗北をすでに知っていた。ジャンヌの能力は、確かに分裂症だけでは説明のつかない、不思議なところがあったらしい。
 ユングは、無意識には個人的なものと、集団や地域に共通する集合的なものがあるとした。ジャンヌはおそらく、この集合的な無意識を、他の人より敏感に感じ取る気質だったのではないだろうか。
 ボードリクールもジャンヌの不思議な力を認めざるを得ず、少女の執念に屈して、ようやく会見に応じる。ジャンヌは、ボードリクールから馬と6人の護衛を与えられ、王太子のいるシノンへ旅立った。彼女が男装するのは、ここから。17歳になっていた。

 シノンまでは5百キロの道程で、しかも敵陣の真っ只中を通らねばならなかったが、ジャンヌ一行は、なぜか無事シノンに到着した。城に入ったとき、大広間にはおよそ3百人の貴族や僧侶がいたが、ジャンヌは、ひと目で王太子を見分けて真っ直ぐに進み、王太子の耳元で、誰も知らないはずの王太子の秘密を囁いたと伝えられる。王太子はジャンヌを神の使いだと信じた。
 しかし、ジャンヌを魔女だと疑う者も多く、彼女は教会で尋問を受けることになる。そこで彼女は「自分に軍隊を与えれば、オルレアンで証拠を見せる」と述べた。
 オルレアンは、およそ半世紀に渡ってイギリスに負け続けたフランスにとって、もはや最後の砦。すでにイギリス軍に完全包囲されていたが、その守備は固く、イギリス軍の司令官も戦死。しかし、古来より籠城で勝機が開けた試しはない。7カ月もの持久戦で戦況は徐々に悪化し、陥落は時間の問題。
 ジャンヌは、ここに自分を参戦させれば勝ってみせるという。17歳の農民の娘が口にする言葉とは思えない。しかし、彼女が敬虔なカソリックであることは、誰にも否定できなかった。
 王太子は、ジャンヌに騎士の位、白銀の鎧、白馬、それに白旗を与え、数千の援軍と共に、オルレアンに向かわせた。陸路が絶たれていたので、城に入るには川を渡るしかなかったが、ジャンヌが到着した途端、不思議にも順風が吹き、イギリス軍に妨害されることもなく入城できたという。
 このとき、ジャンヌが身に付けていた鎧は、25キロもあった。鍛えぬいた大の男でなければ、普通とても着られるものではない。彼女が屈強な体力の持ち主であったことは、容易に想像できる。丸顔の美少女で、瞳も髪も濃い色合いだったという。

 ジャンヌは入城すると、まずイギリス軍に2度に渡って降伏勧告を送りつける。彼女の目的はフランスを守ることで、戦闘はできる限り避けたかった。もちろん、優勢にあるイギリス軍がこれを呑むはずもなく、オルレアン東のサンルー砦を狙って、攻撃を開始する。
 ジャンヌはすぐさま砦に駆けつけ、軍の先頭に立ち、高らかに旗を掲げた。うら若き少女の、命懸けの姿にフランス兵は奮い立ち、見事にイギリス軍を撃退。翌日、ジャンヌは最後の降伏勧告を送るが、やはりイギリス軍は応じない。その翌日、ジャンヌはオーギュスタン要塞を陥落させ、さらに、補給路を塞いでいるトゥーレル要塞に向かう。
 ジャンヌはここで、大砲を使って城壁に穴を開け、それから突撃するという方法を指示する。当時、フランス軍は騎士の誇りから、大砲をあまり使いたがらなかった。これはまさに素人ならではの自由な発想だった。
 ジャンヌはこの戦闘で胸に矢を受け、負傷している。彼女は、戦場では常に先頭に立ち、自分の旗を掲げていた。旗を見た敵がジャンヌ・ダルクの存在を知り、戦う前に逃げるチャンスを与えるための目印として、掲げていたのだという。
 だが、これは同時に、彼女が狙い撃ちの絶好の的となることを意味する。最も危険な位置で、ジャンヌは、負傷しながらも指揮を執り続けた。その姿を見て、兵士たちも、かつて無いほどに勇敢に戦った。
 はたして、ジャンヌの指示通り大砲を活用したフランス軍は、またもや勝利を収めた。軍事史上も、初めて攻城戦で大砲を有効に使用したのは、ジャンヌ・ダルクだとされている。この方法の発見により、騎兵の時代に続いて、城の時代もまた、終わりを告げることになる。
 ジャンヌは砦を落とした後、敵味方を問わず、戦死した者たちのために祈りを捧げた。彼女は、身を守るとき以外は、進んで敵を殺すことはなかった。そして、死んだ敵のために涙を流したという。
 たちまちのうちに戦況を逆転させたジャンヌに恐れを為したのか、最後に残った北を囲っていたイギリス軍も、砦に火を放って退却。
 こうして、7カ月に渡ったオルレアンでの攻防は、ジャンヌが指揮を執るようになってから、わずか4日で決着がついた。それも、指揮どころか槍も握ったことの無い、10歳代の少女の手で!もはや、ジャンヌが奇跡の聖女であることを疑う者は、誰もいなかった。

 ジャンヌは矢傷を癒す間もなく、王太子をランスに向かわせる道を開くため、再び出陣する。
 フランス国王は、代々ランスで聖別を受けて載冠する慣わし。しかし、今フランス王を名乗っているイギリスのリチャードは、まだこの載冠式をしていない。シャルルが先に載冠式を挙げれば、シャルルこそ正式なフランス王だという大義名分が成立する。
 ジャンヌは、またもや奇跡を具現した。ジャルジョー、マン、パテーで、たて続けにイギリス軍の主力を撃破、大勝利を収める。戦いの中で、ジャンヌは大砲の着弾の位置を予知したと伝えられる。
 王太子は、ジャンヌの開いた道を通ってランスに到着し、大聖堂で載冠式を挙げ、26歳にして、正式に新フランス国王シャルル7世となった。ジャンヌがシャルルと始めて会ってから、わずか4カ月。10歳代の少女が、一国を滅亡の危機から救った。

 しかし、この載冠式をピークに、ジャンヌの不思議な力は衰えを見せ始める。
 もともと彼女の信念は、カソリックへの信仰心と、フランスへの愛国心が、ひとつに結びついたものだった。そのシンボルが、シャルルを聖別し、国王にするという目標だった。その目標を達成してしまった今、まだイギリス軍から領土を取り返すという仕事は残っていたものの、やはり、ジャンヌのモチベーションは下がっていたらしい。
 その上、ジャンヌのあまりの快進撃ぶりと人気、シャルルからの信頼は、以前からシャルルの側近たちの妬みをかっていた。彼らには、フランスのためを思うジャンヌの志など伝わらなかった。自分の保身しか目に入らなかった。真の敵は、常に内側から生じる。このような側近たちに言いくるめられ、新国王となったシャルルもまた、大恩人であるジャンヌを快く思わなくなっていった。
 ジャンルは、いよいよパリを攻める。ここでも彼女は先頭に立ち、脚に矢を受けるほどの勇敢な戦いぶりを見せるが、パリ奪換を目前にして、新国王から突如、攻撃中止の命令が下る。
 この退却の理由は不明。おそらくは、ジャンヌがこれ以上手柄を立てるのを快く思わない者の策謀だろう。フランスは、一人の少女に対するつまらない嫉妬のために、パリを取り戻すチャンスを失った。
 彼女は、全く過失が無いのにもかかわらず、敗軍の将として退却せざるを得なかった。さらに、今まで共に戦ってきた戦友たちも、ジャンヌから引き離された。彼女は、フランス軍の主力部隊から、事実上外された。

 翌年、18歳になったジャンヌは、わずかな兵と共にラニーやサンリスに出征、小競り合いを繰り返した。彼女が、
「あなたはもうすぐ捕虜になる」
 という声を聞いたのは、このときだった。これ以来、二度と声はジャンヌに語りかけなかった。
 それから1カ月後のコンピエーニュの戦いで、ジャンヌは声の予言通り、捕虜となった。彼女は、攻めるときは必ず先頭に立ったが、退却するときは、必ずしんがりを勤めた。そのため、ジャンヌが城に避難する前に跳ね橋が上げられてしまい、逃げ場を失って、捕えられたのだ。
 当時、捕虜は身代金と引き換えに買い戻す習慣があった。しかし、新国王は、ジャンヌの身代金を払おうとしなかった。
 ジャンヌがいなければ、彼はイギリス軍に捕えられ、処刑されていたかも知れない。命の恩人であるジャンヌを、新国王は見捨てた。おそらく、彼女が処刑されることも承知の上で。いかに側近に惑わされていたとはいえ、人間は、かくもおぞましく人を裏切れるものなのか! シャルルもまた、権力の魔性に敗れた一人だった。

 ジャンヌは、半年以上に渡って独房に監禁された後、19歳になってすぐ、異端の疑いという名目で裁判にかけられる。ただジャンヌを処刑しては、ジャンヌは英雄になってしまう。ジャンヌに魔女の汚名を着せて処刑することが、イギリスの狙いだった。
 イギリスは国家の威信を懸けて、この裁判に臨んだ。ジャンヌは拷問道具を突きつけられ、何か月も熾烈な取り調べを受けた。長い独房生活に、真冬の寒さもあいまって、健強そのものだったジャンヌも疲労し、病に侵される。
 しかしそれでもジャンヌは、聖者の声を聞いたという主張を曲げなかった。彼女の賢明な受け答えの前に、イギリス側の司教も、異端の証拠をでっち上げることができない。そこで司教は、ジャンヌに異端の汚名を着せて処刑するため、ある策略を練る。
 司教はジャンヌに、二度と聖者の声を聞いたと主張しないこと、男装しないことを誓わせ、それと引き換えに命を助け、独房から教会の牢に移すという条件を提示する。ジャンヌはこの条件をのみ、宣誓書に署名する。
 しかし、司教は提示した条件を守らず、それどころか毎晩のように独房に男たちを忍び込ませ、ジャンヌに乱暴を働こうとした。敬虔なカソリックであるジャンヌにとって、男に汚されるのは、死にも勝る屈辱だった。
 牢には、なぜか男の服が没収されることなく、そのまま置かれている。当時は、宣誓を破れば無条件に火あぶりにできた。司教は、ジャンヌの篤い信仰心を利用して、彼女に無理矢理異端の汚名を着せようとしたのだった。時として、聖職者こそ、最も信仰から程遠いところにいる。
 ジャンヌも、ここに至っては、司教の見え透いた狙いが分かっていたらしい。しかしあえて、男に汚されるよりは、火刑台に上がる道を選ぶ。あくる朝、彼女は男装に戻っていた。司教の狙い通りだった。
 それからわずか3日後、ジャンヌは、生きたまま火あぶりの刑に処された(通常は、処刑後に遺体を火あぶりする)。罪状は「男装した」ただそれだけだった。炎に包まれながらの、彼女の最期の言葉は、
「イエス様!」
 だったという。処刑に立ち会ったイギリス人の誰もが、彼女が魔女などではないことを確信し、敵である彼女のために涙を流したと伝えられる。

 こうして万事、イギリス側の計略が成功したかに見えたが、ジャンヌから英雄の称号を剥ぎ取ろうという目論見は、完全に裏目に出た。母国のために戦い続けた、いたいけな少女への、イギリスのあまりにも非道な仕打ちは、全フランスの怒りを爆発させた。
 新国王シャルル7世も、側近に惑わされ、取り返しのつかない過ちを犯したことを悟った。かつてジャンヌの敵だった、フランス国内のイギリス派でさえ、この不当かつ惨忍な処刑を許さなかった。ジャンヌの死が、彼らに政治的対立を忘れさせ、人としての怒りを蘇らせた。
 ジャンヌの処刑から、わずか5年後。分裂していたフランスは、32歳の若き国王、シャルル7世の元に一致団結。ジャンヌの遺志を継ぎ、国民が一丸となって、イギリスを本土から叩き出す。フランスは再び、誇りある独立と自治を取り戻した。シャルル7世が勝利王と呼ばれるのは、このゆえ。イギリスは、たった一人の少女を罠にかけて処刑したため、百年かけて手中に収めようとした大陸を失った。

 一人の若者が、命を懸けて闘ったとき、不可能は可能になる。ジャンヌは、死してなお、歴史を導き続けた。

 シャルル7世は、勅命によってジャンヌの復権裁判を開かせた。死者のための裁判が開かれることは前代未聞だったが、彼女を裏切り、見捨てた自責の念に苦しみ続けるシャルル7世は、新生フランスの威信を懸けて、この裁判に臨んだ。証人の誰もが、生前の彼女の信心深さを証言した。
 こうして、時のローマ教皇自ら、取り返しのつかない過ちを犯したことを認め、ジャンヌへの処刑判決を撤回、改めて無罪を宣言した。フランス国民の喜びは大変なもので、全土でジャンヌの名誉回復を祝う式典が開かれた。

 やがて、ジャンヌと同じ時代を生きた人々が世を去るに連れ、彼女も徐々に忘れられていった。そんなジャンヌを、歴史から発掘したのが、3百年以上後に現れた皇帝ナポレオンだった。ナポレオンが、ジャンヌを救国の英雄として讃えたことで、ジャンヌ・ダルクの名は、再びフランス全土に蘇った。
 さらに、彼女の裁判の記録が出版され、その生涯がフランス国内のみならず、世界中に知られることとなった。かつての敵だったイギリスの作家バーナード・ショーでさえ、『聖女ジョーン(ジャンヌ)』でこの悲劇の少女を讃え、両国の友好に大きく貢献した。
 ジャンヌ・ダルクを聖人に叙することは、フランス全国民の悲願となった。ローマは、ジャンヌの列聖を請願するフランスからの巡礼者であふれ、政府も全権大使を派遣するほどだった。ローマ教皇庁は、大規模な調査の末、1920年、ジャンヌを正式に聖人と認めた。かつて、彼女を異端として処刑の判決を下した教会が、5百年の時を経て、ジャンヌを聖人として最敬礼で遇した。

 日本の源義経とフランスのジャンヌ・ダルクは、時代も3百年ほど違うし、活躍した場所も、極東と西欧でかけ離れている。にもかかわらず、その生涯に、あまりにも共通項が多いことに驚かされる。
 若さ、電撃的な連勝、その後の急激な運の尽きと、恩人からの裏切り、そして炎に包まれた悲運な最期までも。ジャンヌは義経の生まれ変わりではないかと思われるほどだ。
 何より、奇跡や悲劇の一言で片付けられない、衝撃的な若き天才の生涯を、今なお忘れずに語り継いでいる点では、日本人もフランス人も変わらない。歴史も文化も宗教も異なる両国民だが、人間としての怒りや悲しみに、違いはないのだろう。


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