宮本武蔵は1645年、『五輪書』を書き終えて没した。62歳だった。その4年前(1641年)、細川藩主、細川忠利の命により、初めて自ら編み出した兵法「二天一流」の心得や太刀筋(技法)、体のさばき方について、36か条の項目ごとにまとめたものが、『兵法三十五箇条』である。
(1)この道を二刀と名付ける事
この道を二刀と名付け、太刀を二つ持つ事情は左手にはさして意味はない。太刀を片手で持つことに慣れさせるためである。
片手で持つ事の利点は軍陣、馬上、川沿い、細道、石原、人込み、駆けたり走ったりするときにある。
左手に武器や道具を持ち、両手ではままならない時は片手で太刀を取るしかない。太刀を片手で取ることは最初は重く感じられるが、慣れれば思いのままになるものだ。
例えば弓を射ることに熟練していれば、その力は強く、馬に乗ることが出来ればその力も有る。
庶民の技としては水主(水手=船頭)は櫓、櫂を使わせればその力が有る。農民は鋤、鍬を使わせればその力は強い。
太刀も修練すればその力が出来てくるものである。ただ弱い強いというのは人によって違うものであり、各々自分に応じた太刀を持つべきだ。
(2)兵法の道を例える所の事
この道は、大分(集団で)の兵法から、身一つの兵法に至るまで、すべて同じである。
今書いている身一つでの兵法で例えるならば頭は大将、手足は臣下郎等、胴体は足軽であり、そのように思い国を治め身を修めようとするならば、大小にかかわらず兵法の道においては同じ事である。
兵法の目指す姿はすべてを整え、余る所も、不足するところもなく、強くも、弱くもなく、頭から足の裏まで、等しく意識をいきわたらせ、偏りのない様に仕上げることである。
(3)太刀の扱いの事
太刀の持ち方・扱い方は、大指(=親指)、人差し指を浮かし、たけたか(=丈高・長く高い)中指、薬指、小指を締めて持つ。
太刀にも、手にも「生きる」「死ぬ」と言う事がある。
太刀を構えるとき、受けるとき、留めるときなどに、切ろうとする意志がなく居付く手は、これを死んでいると言う。
「生きる」とはいつであろうと、太刀と手が出合いやすく、硬くならずに切りやすいように自然体である事を「生きている」手と言う。
手首が絡むことなく、肘が伸び過ぎず、屈み過ぎず、腕の上筋は弱く、下筋を強く持つことだ。十分に確認する事だ。
(4)身の構えの事
姿勢については、顔はうつむかず、あまりあお向けず、肩は張らず、歪めず(バランスを崩さず)、胸を突き出さずに腹を出し、腰を曲げず、ひざを固めず、体をまっすぐにして、はたばり(端張り・物の幅)を広く、自分自身を大きく見せることだ。
常にその姿勢をとることで、それが自然な姿勢となってくる。十分に普段からその姿勢をとることを心掛けるべきである。
(5)足の運び方の事
足の運び方はその時その時で歩幅の大小や、遅い速いはあるが、常に歩くようにするものだ。
足使いで避けるべきことは、飛び足(駆け足)、浮き足(不安定な足)、踏み据える足(過剰に踏ん張りすぎる足)、力が抜けた足、遅れたり先走った足である。これらは皆避けるべきだ。
足場がいかに不安定であろうとも問題にならぬようにしっかりと地面を踏まなくてはならない。
これより後に書き付けることからより一層念をいれて学ぶことだ。
(6)目の治め方の事
目の向け方(治め方)については昔はさまざまな言われ方をしてきたが(もしくは、昔は自分もいろいろな事を試してみたが)今思うところは、目の向け方はほぼ相手の顔に向ける、目の治めどころは普段よりも少し細めるようにして、うらやか(うららか)に見るものだ。
目玉は動かさず、敵がどれほど近くにいようとも、またどれほどの間があろうとも、遠くを見るような目をする。
そのような目で見れば敵の技は言うに及ばず、左右両脇までもが見渡せる。視野を広く持つ事で全体を見る事ができ、敵がどう動こうとも柔軟に反応する事が出来る。
物の見方を「観」「見」とするなら、「観」の目は強く、「見」の目は弱くするべきだ。
あるいは敵に分からせる目というものもある。
(「観」の目とは、焦点をある一カ所に固定しない、全体を見通す目のことである。
「見」の目とは、通常、現代人が行っている、視界の中のどこか対象物に焦点をあてる目のことである)
意志というものは目に生じるものであり、物に現れるものではない。それをよく知った上でよくよく修練するべきだ。
(7)間合いの事
間の取り方はいろいろな道(分野、他の武道や芸能)において様々だろうが、とりあえず今は兵法において語るもので、別の道についてはひとまず置いておく。どんな道であろうとその道に入れば、それぞれの分野に適した間を知る事になるだろう。
とりあえず太刀を人に当てられる間は、相手の太刀もまた自分に当たる間である。人を討とうとする時はそれを忘れてしまうものだ。
それを分かった上でよくよく工夫をしなければならない。
(8)心持の事
心の持ち様はめらず(めげず、気持ちをくじけさせずに)、駆らず(焦らず)、たくまず(企まず)、おそれず、「直」に(身構えたりせず)心を広く持ちしなさい。
「意」のこころは軽く、「心」のこころは重く、こころを水のように(乱れなく揺らぎのない水のようにして)、その時々で敵と相対いしたり、何か突発的で予想外な出来事があったときであろうと対応していきなさい。
水(こころ)にはへきたん(増減=変化)があり、一滴の水の時(気が沈んでいたり心が狭かったり、不安定な時)もあれば滄海の時(海のように心広く穏やかで冷静で寛容な時)もある。
そういった自分の精神状態を常に把握して、その時々の対応の仕方をよく工夫しなさい。
(9) 兵法における上・中・下の位を知る事
兵法には身構えがある。太刀(剣術)にもいろいろな構えがあり、強く見えたり、速く見える戦い方があるがそれは位で言うならば下段である事を知らなければならない。
また、兵法にはこまやかで、小手先の技を見せ、テンポよく、派手なようで優れて見えるものがあるが、これは中段である。
上段の位に位置付けられる兵法とは強くもなく、弱くもなく、いかつくもなく、速くも、優れたようでもない。
動きが見苦しくなく、「大」にして「直」、「静」に見える兵法こそ上段と言える。
今の自分がどうであるのかよく吟味すべきだ。
(10)糸とかねという事
平常時であろうと、敵と対したときも、剣を交えたときも、糸(直線も曲線も描けるもの)とかね(矩=矩尺、直角に曲がった金属製のものさし・常に直線であり曲がらないもの)をこころの中に持つべきだ。
相手の心に糸をつけてみれば(相手の心と相手の五体を糸でつなぎ、その糸を見れば)、その糸の突っ張り方が強いところ弱いところ、糸がまっすぐなところ歪んでいるところ、糸が張っているところたるんだところがある。
それを自分の心の中の矩尺をまっすぐにしてその糸に当ててみれば相手の心が分かる。
その矩尺を以ってすれば、円い物も角張ったものも、長いものも短いものも、歪んでいるものもまっすぐなものも知れる。
その糸と矩尺が自分にとってどういうものか、つまり相手を分析する方法を自分で探し相手の長所、短所の見抜き方をよく工夫しなさい。
(11)太刀の道の事
太刀の道(太刀を振る際の道筋、ゴルフで言えばスイングプレーン)をよく知らなければ、太刀を思いのままに振る事はできない。
そのうえ強く振る事もできない。太刀のむね(刀背・みね)、ひら(平・刀の側面)を知らず、相手を切る事はできない。
太刀を小刀(脇差・太刀よりも軽いもの)のようにに使い、ましてやそくいべら(続飯箆=続飯「飯粒を練って作る糊」を作るときに使うヘラ)のように扱うのでは敵に対する心持ちにはなれない。
常に太刀の道を心得て太刀の重さによって太刀を「静」とし、敵に良く当たる様に鍛錬すべきである。
(12)打つと当たるという事
「打つ」と「当たる」という事について。どんな太刀を使おうとも、「打とう」とするところをしっかりと定め、ためし物等を切るように思い切り振れ。
「当たる」とは確かな打ち所が定まっていなくても何とはなしに当たってしまう事だ。
「当たる」というものにも、強く当たる場合がある。
しかしそれは「打つ」とは違う。太刀が敵の体に当たっても、敵の太刀に当たっても、当たりを外したとしても、気にすることはない。
思い通りに打とうとして打てず、ただ当たってしまうのは(8)「心持の事」のような心の状態になっておらず気が乱れているからだ。
その点を良く工夫しなさい。
(13)3つの先という事
兵法には3つの「先(せん)」(機先をを制すること、先手を取ること)がある。
1つ目は、自分が先に相手に打ちかかるときの「先」。2つ目は、敵が先に打ちかかるときの「先」。3つ目は、自分も敵も同時に打ちかかるときの「先」である。
自分が先に打ちかかるときの「先」では、体は太刀ととともに打ちかかるが、足と心は残して、ゆるむことなく、緊張しすぎることなく、敵の心を動かす。
敵が先に打ちかかるときの「先」では、自分の体に心をのこして、敵との間合いのちょうどいいとき、心をはなして、敵の動きにしたがって、そのまま先手を取るべきである。
自分も敵も同時に打ちかかるときの「先」では、わが身を強くして、太刀でも体でも足でも心でも、先手を取るべきである。
兵法においては、先手を取ることほど大事なことはない。
(14)渡を越すと云事
敵も自分も互いに太刀が当たるほどの間合いで、自分の太刀を打ちかけて渡(と)を越す(難所を越える、重大な局面に立ち向かう)と思う場合には、体も足も一緒に敵の体に密着すべきである。
渡を越せば、あれこれ心配することはなくなる。
このことは、後先の書付を読んで、よく考えるべきことである。
(15)太刀に替わる身の事
太刀を打ち出すときは、体は同時に動かすものではない。
敵を打とうとするときは、体は後からついてくるものである。
太刀と体と心を一緒に打ち出すことはない。なかにある心、なかにある体。
このことはよくよく考えるべきである。
(16)2つ足という事
2つ足とは、太刀を1つ打つうちに、足は2つ運ぶということである。
太刀に乗り、はずし、継ぐも引くも、足は2つ運ぶということである。
太刀を1つ打つのに、足を1つずつ運んでいては、体の動きが止まってしまい、自由がきかなくなる。
2つ足を運ぶということは、常に歩くような足の使い方をすることである。
このことはよくよく工夫すべきである。
(17)剣を踏むという事
敵の太刀の先を足で踏みつけるという心である。
敵の打ちかかる太刀のいきつく先を、我が左の足で踏みつける心である。
踏みつけるとき、太刀でも、体でも、心でも、先に仕掛ければ、どのようにも勝つことができる。
この心がなければ、ばたばたとして、うまくいかない。
足はゆったりとしていることもある。
剣を踏むことは何度もあることではない。
このことはよくよく工夫すべきである。
(18)陰を押えるという事
敵の身の内(目に見えない部分や動き=陰)を見れば、心の余っているところ(強く備えが十分なところ)と、心の不足しているところ(弱く備えが不十分なところ)があることが分かる。
心の余ったところに注意して、心の不足しているところが反映されている部分を攻めれば、敵は体勢やタイミングをはずしてしまい、用意に勝つことができる。
けれども、わが心を残し、攻める部分を十分に見極めることが肝心である。このことはよくよく工夫すべきである。
(19)影を動かすという事
影とは太陽の影のこと、目に見える動きのことである。
敵が太刀を後ろにしたりして(太刀を見えないようにして)体を前にだして構えるときは、心は見えない敵の太刀をおさえ、体は自然体にして、敵の動きの兆しがあるところを、我が太刀で打てば、必ず敵の体が動き出すものである。
敵が動き出せば、勝つことは簡単なことである。
以前はそうはしなかった。今は、こだわってしまう心を嫌い、敵の動きの兆しをみて打つ。
よくよく工夫してみることである。
(20)弦をはずすという事
弦とは弓の弦、つるのことである。
弦をはずすということは、敵も我も互いに強く引っ張り合っているときの対処法である。
体でも、太刀でも、足でも、心でも、この強く引っ張り合っている関係を、はやくはずすことである。
敵にとっては想定外の動きになるので、うまくはずすことができる。
工夫すべきことである。
(21)小櫛のおしへの事
小櫛の心とは、つながっている、くっつきあっている状態を解放するということである。
我が心に櫛をもって、敵とつながっている、くっつきあっている状態を、その状態に応じ解く心である。
敵とつながっている、くっつきあっている状態と、互いに引っ張りあっている状態は、一見しては似ている状態ではあるが、それは違う。
引っ張り合うのは強い心であり、つながっている、くっつきあっているのは弱い心である。
よくよく考えるべきである。
(22)拍子の間を知るという事
拍子の間を知るということは、敵によっては速い動きもあり、遅い動きもあり、敵の動きにしたがう拍子のことである。
心の遅い敵に対しては、我が身を動かさず、太刀の動きの兆しを知らせず、速く敵に当てる。
これが一拍子である。
敵の気の動きの速いときは、我が身と心をまず打ち、敵の動いた後を太刀で打つことである。
これが二の越ということである。
また、無念無想ということは、体は打つようにして心と体は残して、敵の気の間を動きの兆しを見せずに強く打つことである。
また、遅れ拍子ということは、敵が太刀で払い、受けようとするとき、動きを遅くして、拍子をずらす心で、敵の動きの間を打つことである。
よくよく工夫すべきことである。
(23)枕の押さえという事
枕の押さえということは、敵が太刀を打ち出そうとする兆しを受けて、敵の打とうとする「う」の字の頭を押さえるということである。
押さえ方は心でも体でも太刀でも押さえるということである。
敵の動きの兆しを知れば、敵を打つにも、敵に入るにも、敵の攻撃をはずすにも、先に打ちかかるにもよいことである。
枕を押さえるといいうことは、これらいずれの場合でも大事なことである。
よくよく鍛錬すべきことである。
(24)景気を知るという事
景気(気の状況)を知ることが大切である。
その場の景気や敵の景気が浮ついたものか沈潜したものか、浅いものか深いものか、強いものか弱いものかをよく見知るべきである。
「いとかねという事」=(10)参照=は常々のことであるが、景気は即座のことである。
その時の景気をよく見知ることができれば、どんな場合でも敵に勝つことができる。
よくよく考えてみるべきことである。
(25)敵に成るという事
戦いの場では、敵の立場になって考えることも必要になる。
敵は一人で取りこもっているのか、大敵なのか、武芸の優れた者なのか。敵の心の中を思い取るべきである。
敵が心の中で迷っていることを知らなければ、弱い敵を強敵と思い込み、武芸に優れていない者を武芸に優れた者とみなしてしまう。
そうなると、敵に優位性はないにもかかわらず、敵に優位性を与えてしまう。
敵の立場になって判断すべきである。
(27)縁の当たりという事
「縁」とはきっかけのことである。
近い間合いで敵の太刀が打ちかかってくるときは、我が太刀で張ることも受けることも当たることもある。
受けることも張ることも当たることも、すべては敵を「打つ」きっかけをつかむための動作である。
乗ることもはずすことも継ぐことも、すべては敵を「打つ」ためえに行っている動作である。
わが身も心も太刀も、すべては敵を「打つ」ことに集中すべきである。
このことは、よくよく考えてみるべきである。
(28)しつかう(漆・膠)のつきという事
漆(うるし)や膠(にかわ)がものにくっつくように、敵の体に自分の体を密着させることが大事である。
足や腰、顔ままでも密着させなければいけない。
体が密着していないと、敵はさまざまな技を仕掛けることができる。
敵につく拍子(タイミング)は(23)「枕の押さえ」の対応と同じである。
敵の打とうとする「う」の字の頭を押さえる拍子である。
(29)しうこう(秋猴)の身という事
秋猴とは手の短い猿のことである。
敵と体を合わせる(ぶつかる)際は、左右の手はないと思って、敵の体につくべきである。
体ではなく手を出すことは間違いである。手を先に出せば、体は引いてしまうものである。
ただし、左の肩と「かいな」(腕のひじまでの部分)は役に立つ。
手先を使うべきではない。
敵につく拍子(タイミング)は前の項目と同じである。
(30)たけくらべ(丈比べ)という事
敵の体につくときは、敵と丈を比べるようにして、自分の体を伸ばして、敵の丈よりも自分の丈が高くなるようにすべきである。
敵につく拍子はやはり先の項目と同じである。
よく工夫すべきである。
(31)扉(とぼそ)のおしえという事
敵の体につくときは、自分の体の幅を広くまっすぐにして、敵の太刀も体も覆い隠すようにし、敵と自分の体に隙間ができないようにするべきである。
一方、身を縮める(小さくする)場合は、体を薄くまっすぐにして、敵の胸に、自分の肩を強く当てるべきである。
このことで敵を突き倒すことができる。
よくよく工夫すべきである。
(32)将卒のおしえという事
兵法の真理をわきまえていれば、敵を軍隊の一兵卒であるとみなし、自分はその軍隊の将軍であると考えることができる。
敵に少しも自由にさせず、敵に太刀を振らせることも、敵をすくませることも、すべては自分の命令によってそうさせているのである。
敵にあれこれ工夫する余裕を与えないようにすべきである。
このことは特に肝要である。
(33)うこうむかう(有構無構)という事
太刀を持って構えることについて。どんな構えでも、構えるという心があることによって、太刀も体も居付く(固まる)ことになる。
どんな状況であっても、太刀を持つ際は、構えるという心をなくすべきである。
太刀構えは敵の動きによって変化する。
上段には3つのバリエーションがある。中段、下段の構えも、左右の脇に構える場合もそうである。
構えは形としてはあるが、構えはないと考えるべきである。
このことはよくよく考えるべきである。
(34)いわを(岩尾)の身という事
岩尾の身というは、動くことなくして、つよく大なる心なり。
身におのずから万理を得て、つきせぬ処なれば、生有る者は、皆よくる心有る也。無心の草木迄も、根ざしがたし。
ふる雨、吹く風もおなじこころなれば、この身よくよく吟味あるべし。
(35)期をしる事
期をしるということは、早き期を知り、遅き期を知り、のがるる期を知り、のがれざる期を知る。
一流に直道という極意の太刀あり。
この事品々口伝なり。
(36)万理一空の事
万理一空の所、書きあらわしがたく候へば、自身工夫なさるべきものなり。
右三十五箇条は、兵法の見立て、心持に至るまで大概書記申候。
若端々申残す処も、皆前に似たる事どもなり。
又一流に一身仕候太刀筋のしなじな口伝等は、書付におよばず。
猶御不審の処は、口上にて申しあぐべき也。
寛永18年2月吉日 新免武蔵 玄 信