大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

靖国神社の正体

2013-12-28 20:38:28 | 教義学

12月26日、安倍総理が突如、靖国に参拝し

国内外から大ブーイングを浴びています

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しかし、一部には

賛成の意見もあるようです



安倍総理が

そこまで参拝にこだわる靖国神社とは

いったいどんな宗教団体なのでしょうか?



調べてみると、驚愕の事実が次々と判明しました!! (゜〇゜;)





1.靖国神社は、神社のフリをした新興宗教



靖国神社は、明治政府によって創設されたもので

一般の神社のような、古い歴史はありません



教義の根幹は

「皇国(明治政府)のために死ねば神になれる」

という思想ですが

これも、伝統的な神道には存在しないものです

江戸時代より前には、明治政府がまだ無いのだから、当たり前です(笑)



つまり、靖国神社とは

「神社のフリをした新興宗教」であり

八百万の神を祭る

伝統的な神道とは、何の関係も無いのです




戦後、靖国は神社本庁には所属せず、一介の宗教法人のままです

もともと全く違う宗教なので、当然でしょう



さらに強調すべきは

靖国の教義が、国家神道の中核となり

日本が戦争・亡国に導かれていった史実です

オウムなど比較にならないほどの被害をもたらした

史上最悪の「破壊的カルト」なのです|||(|||゜Д゜|||)|||



なお、戦死軍人だけを合祀してきた靖国が

「平時に囚人等として死んだだけ」のA級戦犯14人を合祀したのは

つい最近、1978年のことです

それ以来、天皇は靖国参拝をボイコットしています



つまり、靖国のA級戦犯崇拝は

幸福の科学やオウム真理教などと同様

たかだか30年ほどの軽薄な歴史しか持っていないのです

安倍ちゃんは、それをまともに信じてしまっているわけです(笑)





2.国立の正式な戦没者追悼施設はちゃんとある



よく、靖国に洗脳された信者の口からは

「靖国はアメリカのアーリントン墓地と同じ。どこの国でも、元首・首相が戦没者の慰霊をするのは当然」

などといった声(洗脳ロジック)が聞かれますが

国立・無宗教の戦没者追悼施設であるアーリントンと

「新興宗教のひとつ」に過ぎない靖国では

まるで格が違います

そもそもアーリントンでは、戦没者を神として崇拝したりしません



日本で、アーリントンに相当する正式な国立追悼施設は

千鳥ケ淵戦没者墓苑と考えるのが適当でしょう

靖国と違って、ちゃんと遺骨も埋葬されています

http://www.boen.or.jp/

慰霊行事には皇族・首相もたびたび出席しますが

当然、外国から抗議を受けることなどありません





世界で顰蹙をかっているのは、戦犯を祭っている靖国だけです

日本政府と無関係の、一新興宗教の暴走が

国益を大きく損ねているのです



靖国信者の中には

千鳥ケ淵戦没者墓苑の存在すら知らない

イタい人たちも、けっこう多いですね





3.靖国神社は天皇を辱めている



昭和天皇ヒロヒトは、いわゆる人間宣言をしたので

彼を祭神とする宗教施設は、この世にありません



その、「人間ヒロヒトの部下に過ぎない」戦犯たちを

なぜか神サマにしてしまった、珍妙奇天烈な教団が

靖国神社なのです(大爆笑)

。。。常人には冗談にしか思えませんが

彼らは大真面目に信じています



実際、安倍総理が

武蔵野陵(ヒロヒトの墓地)に

墓参しているという話は聞きませんよね?

彼ら靖国信者にとっての神サマは

あくまでA級戦犯であり

天皇「ごとき」、どうでもいいからです

戦前なら、不敬罪ですね┐('~`;)┌



多少なりとも天皇を敬愛する気持ちがあれば

ヒロヒトの人間宣言に配慮し

その部下を神として祭ることは控えるはずですが

靖国には、そのような遠慮は一切見られません

天皇の顔を土足で踏みにじるがごとき、傍若無人な振る舞いです



「天皇より、オレたちのほうが上」

それが、靖国神社のホンネなのです( ̄Д ̄;)



まあ、信教は自由なので

彼らに天皇を崇拝する義務はありませんが

一般人はもとより

皇室を敬愛する、保守層の心情からも

遠くかけ離れた思想であることは間違いないでしょう





安倍総理のやっていることは

「ドイツの首相が、ヒトラーの墓に献花する」にも等しく

歴史感覚・国際感覚のカケラもありません

このままでは、世界から孤立する一方です



A級戦犯たちは、総理の祖父である岸信介と

共に戦争完遂を目指した、かつての同志です

(岸は、東条英機内閣の閣僚だった)

英霊の中でも、総理にとっては特に縁深い存在であるため

格別にシンクロが深まってしまったのでしょう



つまり、今の総理は、俗な言い方をすれば

「A級戦犯の霊に憑依された」

ような状態なのです((;゜Д゜))



事ここに至っては

国民が力を合わせて

安倍総理を辞任に追い込むべきでしょう

カルト信者をリーダーにしたままでは

国益へのマイナスが大きすぎます





戦没者に対する、自然な哀悼の念を

いつのまにか、A級戦犯への崇拝にすり替えてしまう。。。

靖国の洗脳テクニックは、巧妙を極めます

今の日本で最も成功している新興カルト教団でしょう



「●●神社」「○○寺」を名乗っている新興宗教は

ほかにもたくさんあります

多くの日本人は、それだけで

怪しい教団ではないと錯覚してしまうものなのです

シンプルですが、効果絶大な洗脳法です



また、宗教を「スピリチュアル」と言い換えるだけでも

たいていの日本人は、警戒心が低下してしまいます

多くのカルト教祖は、宗教の看板を掲げず

「占い師」「霊能者」の肩書きで活動しています

これは立派な催眠の手法なのです



ちょっと、キーワードの選び方を変えるだけで

脳は簡単に騙されてしまいます



逆にいうと、ほとんどの靖国信者たちは

靖国神社の名前が「宗教法人靖国会本部」だったら

たぶん参拝しないでしょう(爆)



靖国を賛美する安倍総理やネトウヨたちは

オウム信者たちと同様

頭の弱い「カルト信者」です

あなたは絶対にだまされないで下さい!!



☆大至急、記事の拡散をお願いします

 


 

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日本語訳コーラン 全文

2013-11-19 15:11:26 | 教義学





★日本語訳コーラン 全文 お気に入りにどうぞ★






21世紀は、人口増加率からして、イスラムの時代になるのではないかと言われています。

彼らの根本経典となるのが、名前だけは有名なコーラン(クルアーン)です。

予備知識として、ぜひ一読しておきたいところです。

 

 




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明治神宮や靖国神社は新興宗教だった

2013-04-25 02:03:09 | 教義学

明治神宮は

例年、日本一の初詣客を集める神社として知られています

あなたも、参拝したことがあるかもしれません



。。。しかし、この明治神宮が

伝統ある神社ではなく

20世紀に入ってから創作された

「新興宗教」であることは

あまり知られていません(゜o゜;;)



明治神宮は、明治天皇とその妻・昭憲皇太后を崇拝の対象として

大正時代に、政府によって設立されました

戦後、政教分離が決定されたので

現在の立場は、新興宗教団体のひとつに過ぎません



終戦直後、昭和天皇が「人間宣言」をしたにもかかわらず

その祖父母を、いまだに神として崇拝しているのだから

日本人というのは、ヘンな民族です(苦笑)



靖国神社も、同じような立場にあります

創設は明治2年と、明治神宮よりはやや早いものの

新興宗教であることに変わりありません

伝統的な神道に

「国のために戦って死ねば神になれる」

などという思想は、ありません

靖国が創作した、オリジナルの教義です



八百万の神を崇める、伝統的な神道から見たら

靖国は、全く別の宗教です

宗教法人としても、神社本庁とは無関係です

つまり、明治生まれの新興宗教団体が

勝手に「神社」を名乗っているだけの状況です(笑)



何より、明治も靖国も

戦前の国家神道の中枢を担い

日本を戦争・亡国に導いた

「破壊的カルト」であったことを、忘れてはいけません

靖国には現在も、A級戦犯14名が

(戦没者でないにもかかわらず、なぜか特別に)

神として祀られています



先日、安倍総理が靖国に供物を奉納し

韓国が抗議として外相の訪日を取りやめましたが

これは当たり前です

総理のやっていることは

「ドイツの首相が、ヒトラーの墓に献花する」にも等しいからです( ̄Д ̄;)

歴史感覚・国際感覚のカケラもありません



戦没者を慰霊したいだけなら

個人で黙祷を捧げれば十分です

あるいは、国立・超宗派の千鳥ケ淵戦没者墓苑もあります

わざわざ、東条英機を神として崇める「カルト教団・靖国教」に

こだわる必要はないはずです



つまり、安倍総理は

「(昭和天皇はただの人間だったが)部下の東条英機は神である」

本気でそう信じているのです((@Д@*))

。。。まさに、カルト信者そのものです



一国の総理が

カルト宗教に洗脳されている。。。

韓国や中国の危機感も

あながち的外れとは言えません

(なお、今の天皇陛下は一度も靖国に参拝していません)



お役所が創作した新興宗教でしかない明治や靖国を

1000年以上の伝統を持つ

伊勢神宮や諏訪大社などと、同格に扱うことはできません

それは、7世紀から伝わるチベット仏教と

オウム真理教を、同列に論じるようなものです



。。。今回のメルマガを読んで

「明治や靖国をオウムといっしょにするな!ヽ(`Д´)ノ」

そう反論したくなった方もいるはずです

それがつまり

「新興宗教に洗脳される」

という体験なのです



「●●神社」「○○寺」を名乗っている新興宗教は

ほかにもたくさんあります

多くの日本人は、それだけで

怪しい教団ではないと錯覚してしまうものなのです

シンプルですが、効果絶大な洗脳法です



逆に、「××教」「△△会」は無条件で怪しまれます(苦笑)

明治神宮の名前が「宗教法人明治教・総本部」だったら

たぶん、あなたも参拝しないと思います



。。。脳ってバカでしょ?





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般若心経 現代語訳

2010-09-25 00:01:00 | 教義学
 求道者(ぐどうしゃ)にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、存在するも のには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
 シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がない ことを離れて物質的現象であるのではない。
 (このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体が ないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象(ひょうしょう)も、意志も 知識も、すべて実体がないのでる。
 シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減 ることも、増すこともない。
 それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、 表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、 かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域 から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
 (さとりもなければ)迷いもなく(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の知恵の完成に安じて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、知恵の完成に安じて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。
 それゆえに人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮(しず)めるものであり、偽りがないから真実であると。
その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。
 往(ゆ)ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。
ここに、知恵の完成の心を終わる。




現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
玄侑 宗久
筑摩書房

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臨終に立ち会いました

2008-02-20 16:34:56 | 教義学
先日、同居していた寝たきりの祖母の臨終に立ち会いました。

人の死に立ち会ったのは、これが初めてです。



今思うと、直前から兆候が見られました。


・いつもと違う言動

最後のデイサービスから帰宅した後、父に「もう学校はいかないよ」と言っていたそうです。
ボケ気味だったので、聞き流しましたが、本人はお迎えに気付いていたようです。


・大量に便が出る

死期が迫ると、筋肉が緩むため、体内の汚物が全て排泄されるようです。


・口での呼吸

口を開けて「はー、はー」と呼吸するようになります。基本的には、この時点で危篤です。


・絶食

一切の飲み食いを受け付けなくなります。薬を溶いて飲ませても全て戻してしまいました。


・血圧の低下

医師に来てもらいましたが、点滴を打とうとしても血管が取れません。どうも、医師はこの時点で助からないことを分かっていたようで、入院しろとはいいませんでした。


・暑がる

2月だというのに、布団をかけると暑がってはがしてしまいます。体温は一時上昇しました(数日前にインフルエンザの予防接種を受けていた)が、まもなく平熱に戻りました。それでも暑がっていました。これは全ての危篤状態に見られるわけではないようです。


・錯乱

もともと認知症が進んでいましたが、危篤に陥ると、もうまともなコミュニケーションは取れない状態でした。「絵がかかっていた」などとも口走っていました。


・痛みを訴える

寝たきりになってから、ずっとお尻などが痛いと訴えていましたが(床ずれはありませんでした)最後の晩には体中が痛いと一睡もせずに騒いでいました。神経が過敏になるのかもしれません。


・急に呼吸が止まる

一晩祖母についていた僕は、仮眠のために自室に戻っていましたが、呼び出されてあわてて祖母の部屋に行くと、すでに呼吸が停止していました。徐々に弱まるのではなく、最後まで声は大きいままでした。
このとき、たまたま家族全員、看護婦、介護福祉士がそろっていました。倒れてからお世話になってきた人がみんなそろうまで、気力で頑張っていたようです。



祖母の臨終は、必ずしも穏やかなものではありませんでした。
90過ぎまで元気だったのですが、急に倒れて集中治療室に担ぎ込まれ、退院したものの一気に認知症が進み、寝返りも自力で打てない状態でした。
本来なら、ここまで衰弱する前に逝けるように、人の体はできているのでしょう。

急に逝っては迷惑だからと、家族が覚悟を固めるまで、頑張ってくれたのかもしれません。
回復の見込みがないまま、医学の力で生かされ続けるのは、本人にとっては苦痛だったのかもしれません。
真相は、永遠に分かりませんが・・・

今回の体験で始めて、自分自身の臨終について、リアルに考えました。

僕も、最後のときには、ありのままの姿を親しい人に看取ってもらいたいと思います。



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口語訳聖書(新約と旧約)全文

2007-10-09 22:06:18 | 教義学


世界人口の半分以上は、キリスト教徒かイスラム教徒だとされています。

しかし、この二大宗教の共通聖典が「聖書(旧約)」であることは、意外に知られていません。

聖書を知らないことは、世界を知らないことに等しいのです。



口語訳聖書(新約と旧約)全文 お気に入りにどうぞ






誰も教えてくれない聖書の読み方
ケン スミス
晶文社

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聖書という本は、読む人の勝手な解釈で語られすぎてはいないだろうか。都合の悪いところは後代の創作や脚色にされるし、都合のいいところは妙な強調のされ方をする。でも聖書を、いろんな脚色を抜きにして、そこに書かれているとおりに読むとどうなる?ちゃんと読めば、たとえば旧約聖書は一貫性のない神さまがひたすら残虐行為を実践しているのばかりが目につく本だったりするし、新約聖書はイエスという畸人を主人公にした荒唐無稽な物語だったりすることがわかるだろう。本書は、そんなふうに、聖書を最初から最後までまっとうに読んでみようというガイドブックだ。そしてまた、基礎教養として聖書を読み直すための副読本でもある。


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顕正会最大の急所 日蓮は天皇を折伏していない

2005-07-30 01:19:12 | 教義学
神奈川県警は28日、20歳の大学生を横浜市内の民家に監禁して入信を迫ったとして、宗教法人顕正会の会員2名を監禁容疑で逮捕、組織的犯行の疑いもあると見て、顕正会横浜会館を家宅捜索しました。

普通なら、こんな小さな団体の事件を取り上げはしません(宗教部門の課税法人所得は、創価学会・伊勢神宮に続いて顕正会がナンバー3とされていますから、財力では決して小さな団体ではありませんが)が、「ある事情」から取り上げてみたいと思います。



顕正会は、日蓮正宗の一派を自認(正宗は破門を主張)している宗教団体です。
日本国民全員を入信させ、天皇の勅撰と国会の議決を以て、国立戒壇を建立することを目標としています。
要するに、田中智学が唱えた日蓮主義のリバイバルのようなものです。
公称会員数は100万人を超えていますが、実質活動家は1割以下といわれています。

この事件以前にも、平成10年1月にはやはり横浜市で、顕正会員4人が、会社員男性に対して入会を強要し、拉致・監禁・暴行の容疑で逮捕されています。
この男性は、顔面などに全治一ヶ月の重傷を負っています。

顕正会員による同様の事件は、全国で多発しています。少なくとも、これまでに全国で50件以上の被害届が寄せられているとされています。

特に、未成年への勧誘に力を入れているため、全国各地の教育委員会が警戒に当たっています。



実は、僕の知人も何人か、顕正会に勧誘されています。
そこで、僕も顕正会について調べてみたのですが、いくつか腑に落ちない点がありました。



まず第一に、浅井昭衛会長の予言が、片っ端から外れていること。

もともと浅井会長は、

「広宣流布(顕正会を国教化すること)できなければ、ソ連が日本に攻めてくる」

そう主張して、勧誘をあおっていたのですが、ご存じの通り、ソ連はなくなってしまいました。

すると、北朝鮮が攻めてくることになり、今は中国だそうです。


平成10年の小田原大地震を予言して、見事に外れたことは、有名な話です。


それでも懲りずに、「国民が1人残らず日蓮に帰依しなければ日本は滅びる」そう主張し続けています。



もうひとつの疑問は、日蓮正宗の一派を自称していながら、会員が根本教典に当たる『御書(日蓮書簡全集)』を持っておらず、読んだこともない点です。

顕正会で『御書』について自由に解釈・講義できるのは、浅井会長だけです。
会員が知っている『御書』とは、浅井会長が選んだ切り文の部分だけなのです。

これは、キリスト教団体が信徒に『新約聖書』を読ませず、教祖だけが聖書を解説するようなものです。それはすでにキリスト教ではありません。
あるいは、共産党が党員に『共産党宣言』を学ばせていないようなものです。それはすでに共産党とはいえません。

日蓮を宗祖と仰ぐ団体が、教学の基本であるはずの日蓮の遺文を、会員に学ばせていない。
これでは、マインド・コントロールの意図があると解釈されても、おかしくありません。

『御書』を単なる参考文献に位置づけ、会長の著書を事実上の根本経典とする。
つまり、顕正会は教義上は「浅井宗」として位置づけられる宗教団体だと考えられます。

。。。それならそれで、何も日蓮正宗の名を語る必要はないと思うのですが。
堂々と浅井宗を名乗ればいいのです。



ともあれ、僕の知人で顕正会にハマる人は、1人もいませんでした。

。。。ところが、話はそれで終わらず、僕自身が勧誘されるハメになったのです!



仕事で付き合いがあるものの、たいして親しくもない女性から呼び出され、断りきれずにファミレスへいってみたら、やがて別の女性も現れました(2人以上で勧誘するのが、顕正会のセオリーだそうです)。
おそらく上級幹部なのでしょうが、自己紹介もしなければ注文もせずに一方的にしゃべり続け、「なんて常識のない人だろう」という印象を受けました。

仕事とは関係ない話のようなので、僕は30分くらいで席を立ちました。

「入信しないと罰が当たる」などと騒ぎ続けていましたが、「僕がこうして断って、あなたの言う罰が出るか試してみましょう」というと、絶句していました。
それからまもなくして、収入が倍くらいになりましたけど。

ちなみに、監禁とか、そこまでのことはありませんでした。



最後に、顕正会員の皆様に、『小蒙古御書』をお送りします。


 小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり。


これは、「蒙古が攻めてくるぞ」などと煽って折伏することを禁じる、日蓮直々の通達です。浅井会長のような人間が出てくることを、日蓮はちゃんと分かっていたわけです。

顕正会の「中国が攻めてくる」というやり方の折伏は、まさに破門に当たる行為です。

浅井会長は、『小蒙古御書』について、どのように講義されているのでしょうか。たぶん、永遠に取り上げることはないと思いますけど。

ともかく、御書を自分で読んだことのない人間に、日蓮の信徒を名乗る資格はないと思います。


また浅井会長は、田中智学と同じく、御書にある「国主」を天皇と解釈し、その折伏を教団の一大目標に掲げていますが、日蓮が天皇を折伏したかどうか、調べてみてはいかがでしょう。

日蓮が『立正安国論』を提出したのは、時の天皇ではなく、実質的な権力者である前執権・北条時頼に対してでした。

。。。これって、御書云々以前の、一般常識ですよね。


日蓮「立正安国論」全訳注 (講談社学術文庫 1880)
佐藤 弘夫
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顕正会、いや浅井宗の立場からすると、日蓮が天皇を折伏しなかったのは、怠慢ということになりますよね?
浅井会長が御本仏で、日蓮より格上ということになるのでしょうか?



顕正会員はなぜか「教学力がある」と評価されがちですが、僕の目から見ればあれほど無知な集団はいません。
彼らの教学は単に浅井会長の教えを暗記しただけに過ぎません。彼らは御書すら読んだことが無いのです。
それ以前に、基本的な歴史の知識さえあれば、御書そのものを一度も読んでいなくても、浅井会長にだまされることはないはずです。
一般教養のない人間がカルトにだまされるのです。





※本文のコピー・配布を許可します






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人はなぜ死にたくなるのか

2005-07-27 16:41:54 | 教義学
動物は、自殺しません。人間だけが自殺します。

肉体は、呆れるほどしぶとく、利己的なので、可能な限り生存しようとします。それが生命の本能なのです。

ところが、人間だけが、自ら死を望みます。

ですから、自殺願望の発生には、人間に特有の理由、それもよほどの理由があると考えるべきなのです。



もちろん、具体的な自殺の動機は、自殺者の数だけあります。

その上で、最も強力な自殺の動機として挙げられるもの。

それは、

「オマエなんか死ねばいいのに」

などといった「言葉」です。

この類のメッセージを、繰り返し聞かされ続けると、「どんなに意志の強い人間でも」死にたくなってきます。

それほど、言葉の暗示力は強力なのです。
使い方によっては、生存本能を破壊するほどに。

以前、このブログで取り上げた優子ちゃんも、自殺の直前には、家族やネット上でこの種の言葉を投げつけられ、相当なショックを受けていたようです。


僕は、こうした言葉を口にする癖のある人間は、厳罰に処すべきだと考えています。
言葉には、人1人を殺す力があるのです。





言葉に次いで、自殺願望をもたらす要因。

それは、「身近な人の自殺」です。

分かり易く言うと、

「自殺願望は感染する」

のです。


ユングが説いたように、人間の無意識は、環境のインプットに抗えません。

つまり、あなたの無意識は、自殺という行為を身近な例から「学習」してしまいます。

1人が自殺すれば、周囲の人々は、無意識のレベルで、人生に自殺という選択肢があることを学んでしまうのです。

その意味で、自殺を実行することは、言葉の悪用に次いで罪深いことでしょう。
どんなに莫大な借金を残すより、悪いことです。
人間、生きるか死ぬかの時は、借金なんて踏み倒してもいいんです。


こう書くと、

「自殺に追い込まれた人をバッシングしている」

そういうように言われそうですが、少なくとも、お手本にすべきでないことは確かです。

そして、やむなく命を絶たれた方も、二度と自分たちのような犠牲者が出ないことを願っていたと思います。

だからこそ、僕はあえて、「彼らをお手本にするな」そう訴えたいのです。

残された者が、この悲劇から何も学べなかったとしたら、それこそ、無駄な犠牲になってしまいます。



自殺とは、意志の強弱の問題ではないのです。

本能に従って、惰性で生き続けた方が、よほど楽です。むしろ、意志が弱かったら、死ねません。弱い人間では、自殺できません。

生存本能に逆らって、自らを死に至らしめるというのは、他殺よりはるかに強固な意志を必要とするでしょう。

強固な意志が、死というベクトルに向かってしまったときに、悲劇が起こるのです。




では、自殺願望に取り憑かれてしまったとき、人はどう対処すべきなんでしょうか?


手っ取り早いのは、

「生も死も否定する」

ことです。いわゆる虚無主義です。

自殺とは、

「生を否定し、死を肯定する」

という哲学の帰結ですから、生に絶望していても、死にはまだ何かを期待しているわけです。だから、死に向かうエネルギーが生じます。

でも、あの世がこの世よりマシなんて保証は、どこにもありません。たいして変わらないとすれば、わざわざ死ぬ意味はないのです。
そう考えてしまうと、死ぬ気力すらなくなります。

ちなみに、これはベストの考え方ではありません。

「生を肯定し、死を否定する」

のが正しいという風潮も強いですが、これも厳密には間違いです。人は必ず死ぬという現実から逃げています。

本当は、

「生を肯定し、死も肯定する」

でないと、おかしいのです。

この思想であれば、死はいくらでも先延ばしできますから、生を肯定しつつ、死を受け入れることができます。
わざわざ自殺しなくても、いつかは嫌でも死ねるのだから、焦る意味はありません。



かつて、あのアントニオ猪木が、借金苦で自殺を考えたことがあったそうです。

しかし、ただ死ぬのももったいないからと、太平洋を力尽きるまで泳ごうとか、ライオンと闘おうとか、いろいろ死に方を考えたといいます。

その結果、

「本気で死ぬ覚悟があれば、なんだってできるじゃないか」

そう気づいたそうです。


そうなんです。

「死ぬ気があれば何でもできる」

のです。

借金を踏み倒すくらい、何でもないはずです(ちなみに、猪木さんは全額返済しましたよ。生き延びたから、義理も果たせたのです)。

人間、一度くらいは死を覚悟しないと、生を完全燃焼することはできないのかもしれませんね。


「いつかは死にたい」という気持ちを持っていることは、不都合でも何でもありません。むしろ、人は必ず死ぬのだから、好都合です。死から永遠に逃げ回ることはできません。僕だって、1億年も生きたいとは思いません。

ただ、死ぬのを1番最後にすれば、一口でも多く美味しいものを食べられるから、お迎えが来るまで待った方が得だよ。それだけのことなんです。



花が咲こうと咲くまいと生きていることが花なんだ
アントニオ猪木
経済界

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人間だけが生命波をコントロールできる

2005-07-11 01:27:50 | 教義学
 先に、写真や位牌などを見ることが、その人の生命波にチャンネルを合わせることになると述べたが、もっと噛み砕いて表現するのなら、無生物にも生命波はある。例えば、この文章には、この文章を書いた時点での僕の生命波が出ている。

 「文は人なり」で、読むと安心する文章もあれば、嫌な気分になる文章もある。創ったものを通して、生命波(具体的には感情)は伝達するのだ。
 これは創作物に限らず、その人が縁したもの全てに出る。写真であれば、一番強く出るのは被写体だが、撮影者や写真の発明者、制作者や現像者の生命波まで、全て出る。

 本人の生命波が最も強いのは、おそらく「名前」だろう。写真などは撮影した瞬間の生命しか出ないが、名前となると、その人の命名された時からの全てがもれなく含まれている。肉体亡きあと、位牌や過去帳などに記された名前は、五感で感知できるもののうち、故人に最も縁深いものだろう。



 ただ、無生物は積極的に生命波を発信していくことができない。生者が積極的にそれを見るなり、触れるなりして、初めて生命波として感知される。

 それに、無生物が死の周波数を顕していることもあるので、注意が必要だ。典型的なケースが、オウムの崇拝していた発砲スチロールのシヴァ神である。
 シヴァ神はヒンドゥー教においては破壊神であり、仏経においては第六天の魔王に相当する。キリスト教ならばサタンということになろう。あれはまさに悪魔崇拝そのもので、シヴァ神の破壊的な周波に共鳴してしまったために、彼らは凶行に走った。

 基本的に、何となく気味が悪いとか、恐いといったものは、極力遠ざけることが望ましい。子どもは暗闇を恐がるが、やはり闇の発している周波数が死に向かっているからだろう。意外というかもっともというか、社や仏像などの周波数も死に向かっている。

 おそらく、不気味なものというのは、音波であれば不協和音のような、アンバランスな生命波を顕しているのだろう。こうしたものに触れる機会をゼロにはできないが、生に向かう波長に接する機会を増やすことで、その悪影響を減少することができる。環境には十分に気を配らなくてはいけない。

 何となく安心する、元気が出る、自信がつくといった環境を、積極的に創っていくことだ。例えば暗闇であっても、一緒に誰かがいるだけで恐怖感は減少する。マイナスの周波も、ちょっとしたことでいくらでも中和することができる。



 意識は生命波に対して能動的、無意識は受動的である。すなわち、能動的に祈ることができるのは、自我を持つ生命体だけである。

 植物は生命体なので、一応送られてくる生命波を受信できるが、能動的に送信することはできない。植物にテレパシー能力があることはよく知られているが、情報を受け取れても、送ることはできないのだ。
 受動的な生き方をしている人は、植物に転生することがあるかもしれない。

 高度な意識を持つ人間は、能動的な生命体の極致といってもいいだろう。自ら生命波を送ることはもちろん、死に向かう波長を中和することさえできる。

 人間だけが、生命波をコントロールできる。

 つまり、自分の運命をコントロールできる。人間だけに、そのチャンスが与えられている。

 縁あって人間に生まれたということは、教義学の立場からすると、限りなく尊いことなのである。



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禅は死の疑似体験

2005-07-11 01:10:35 | 教義学
 アウシュヴィッツに収容されていた体験を、精神科医として語ったことで知られるヴィクトール・フランクルは、極度の栄養不足と重労働の中で、

「誰かが自分を必要としている」

 そう信じている人間だけが生き残ったと証言している。
 彼自身、精神科医として収容所の実態を人類に語り残さねばならないという使命感を支えに、生きて開放の日を迎え、90年を超える長寿を全うしている。

 家畜同然に扱われる日々を、何のために生き延びるかを見いだせない者は、どんな懲罰にも反応せず、食事も取らず、自らの糞尿にまみれて餓死していったという。
 生命波が肉体を放棄したときには、生存に不可欠な食欲すら喪失されるのだ。

 今でも、死因不明でとりあえず心不全とされている死亡例は多い。心不全というのは、「心臓が止まった」ということなので、死亡原因の説明としては全く不十分である。健康上は死ぬ必然性が無くても、現に死ぬことはあるのだ。

 肉体的には、被収容者は一様に半死半生だった。徹底的な絶望は、恐怖や悲しみなどといった重要な感情さえ喪失させた。解離も普通に見られる現象だった。ほとんど惰性だけで心臓が動いているような状態である。だがそれだけに、健康な時に覆い隠されていた生命の周波数が、むき出しになるのだという。

 その周波数は人様々だった。前述のように自己放棄する者もいれば、わずかな食事を仲間に分け与える者もいた。
 フランクル自身は、妻を思い出すことにこの上無い幸福を感じていた(栄養失調で性欲はとうに失われている。収容所での同性愛は皆無だった)というし、自然や芸術の美しさに過敏になる者も多かった。

 死が消滅だと考えるユダヤ教徒や共産主義者の間でさえ、こうした現象が見られたのは、死後も生命波が残るというひとつの状況証拠だろう。


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ヴィクトール・E・フランクル
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 肉体を死に近い状態に置くという点で、アウシュヴィッツの特殊体験は、奇しくも禅と共通するところがある。

 禅門において、修業僧は粗食により慢性的な栄養失調状態に置かれる。これにより、心身の活動が低レベルとなり、性欲などの様々な煩悩が消失する。もちろん、煩悩を呼び覚ますような環境からは厳密に隔離される。
 ブドウ糖が不足するから、大脳が十分に働かず、思考レベルが低下する。禅は「不立文字」で、言葉は悟りの妨げになるとしている。禅問答では、徹底して合理的な思考が否定される。座禅中は無念無想で、思考を停止することが求められる。考え事はダメ。
 座禅中だけでなく、雑務の全てが様式に従って行なわれ、何も考えなくても生活できるように工夫されている。

 五感からの刺激や思考が剥奪される点において、禅は死の擬似体験を目的に整備された修業法だと考えられる。そのためには健康上のリスクは避けられないし、周到な環境整備も必要になる。くれぐれも素人が真似をしないように。



 ドラッグも感覚を麻痺させ、同じような効果をもたらす。瞑想の初期段階においては、幻覚や幻聴を感じる。ドラッグが多くの宗教儀式で利用されているのも、偶然ではない。もちろん、真似をするのは極めて危険だ。



 また、アウシュヴィッツにおいて、極限での人間模様が千差万別だったように、禅の悟りやドラッグでのトリップも、一様ではないだろう。そこには文字通り、天国から地獄までの幅がある。



 経典には六道輪廻が説かれている。これは、修業の末に至った悟り、すなわち生命波の観測記録を六つに大別し、比喩として表現したものではないだろうか。

 もちろん、悟りの本質は生命波の感知であるから、具体的に地面を掘っても地獄は見つからないし、雲の上にも天界は見えない。死ねば肉体は無いから、肉体的な快楽も苦痛も感じないだろう。

 だが、例えば自殺者などの場合、死そのものの肉体的苦痛は一瞬だが、人生の総決算として自ら死を選ぶ挫折感や絶望感などは、残るのだろう。しかも、生前と違って酒やバクチなどでまぎらわすこともできない。これなどは地獄に分類できる。過剰な享楽を追い求める現代人の生命波は、まさに餓鬼、畜生の周波数なのかもしれない。



 世界のあらゆる宗教で、天国と地獄の存在が説かれている。それをそのまま鵜呑みにはにはできないが、全く根拠の無いものであれば、それほどまでに共通するはずがない。

 ただ、経典では天界の幸福ですら、永遠のものではないと説かれている。
 どんな天才アスリートも、いつかは引退の時を迎える。どんな絶世の美少女でも、いつかは必ず老いる。ドラッグの使用が禁断症状を招くように、快楽が大きいほど、それが失われたときの反動も大きい。

 勝者は、いつまでも勝者足りえず。必ず敗者になるときがくる。

 ただ、裏を返せば、敗者とていつまでも敗者ではない。

 輪廻であるから、一度は地獄に墜ちても、いつかは必ず天に昇るときがくる。何ひとつとして永久不滅のものはなく、万物はゆらぎ、流転する。これを悟るのを解脱という。



 しかし、六道輪廻からの解脱そのものは小さな悟りで、世界のあらゆる宗教が、利他的な生き方の重要性を説いている。隣死体験者の多くが、蘇生後に利他的な生き方を選んでいることはよく知られている。フランクルも、自分のためでなく、誰かのために生きようとした人間だけが生き残ったと述べている。

 経典では、天人の暮らす天界とは別に、仏菩薩の暮らす極楽浄土が説かれている。もちろんこれは比喩なのだろうが、自分の成功のみを求める人と、人々の幸福を求める人とでは、おのずから生命の周波数が異なってくるのだろう。


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転生のメカニズム

2005-07-11 00:54:38 | 教義学
 これだけ頻繁に生命が死滅し、また誕生することを考えると、転生現象があってもおかしくはないように思われる。
 今日のキリスト教では否定されているが、イエス自身は、いとこのヨハネを預言者エリヤの生まれ変わりだと信じていた。

 生命波仮説からすると、周波数が一致する肉体さえ出現すれば、生命は再びそこで顕在化することになる。それが何秒先か、何百億年先かは不明だが。
 音楽や数学などは、神童が出現しやすい分野として知られている。記憶は基本的に失われるのだろうか、こうした才能は死後もある程度残り、次の生にも受け継がれるのではないだろうか。

 ただ、自殺者の生命波などは「肉体を放棄したい」という周波数であるから、容易には新たな肉体を得られないと思われる。ようやく得られても、まだ使える肉体を粗末にするくらいだから、それなりの健康状態だろう。
 逆に、たとえ末期ガンであっても、最期の瞬間まで肉体を大切にした人は、比較的早期に、新しい健康な肉体を得るだろう。
 例えるなら、自殺者は運転意欲を失い、まだ乗れる車を放棄するドライバーのようなものである。そういうドライバーが、すぐに新しい車を買うとは考えにくい。
 逆に、運転が大好きなドライバーは、たとえ一台が廃車になってもすぐに別の車を買うだろう。
 肉体を得るのも、同じようなものだと考えられる。

 心理学者のユングは、臨終のさいに、
「準備は為された」
 そう言い残したという。これは、次に宿るべき肉体が出現する準備が整ったという意味ではないだろうか。
 ユングは死期の迫った人の夢を多く分析したが、復活のイメージが多く観察できたという。ひょっとしたら、生命波は消極的に次の肉体を待つのではなく、積極的に次の肉体の形成に関わっているのかもしれない。

 無論、また人間に生まれてくるとは限らない。動物のほうが適しているような、野蛮な生き方の人間は大勢いる。人間性に欠ける者が、また人間に生まれてくる必然性はない。もちろん、また地球に生まれる保証もない。
 あるいは、地球より知性もモラルもはるかに発達した星の住民に生まれる可能性もある。



 余談だが、もし地球に訪れるほど高度な技術を持つ生命体がいるとしたら、その文明は極めて平和的なものだと推測できる。
 それほど高度な文明なら、当然、原子力やもっと有効なエネルギーを実用化する技術を持っているだろう。それを戦争目的で利用するような文明なら、地球にたどり着く前に、自らの武力で崩壊してしまうだろうからだ。

 この地球の現代文明も、否応なしに科学技術が発達し、兵器の破壊力が増大していく以上、至急核兵器や戦争を放棄する必要がある。それができずに自滅してしまう文明は、宇宙に数え切れないほどあるだろう。



 進化についていえば、知的生命体が地球人類と同じく直立姿勢を取っている確率が極めて高いだろう。

 動物は文字通り動き回るために、基本的に肉体は柔構造である。その成長は基本的に重力と水平方向、すなわち前後に進む。それが最も効率よく成長できるからだ。ヒトのように、重力に真向から逆らって上に成長していく動物は、自然界では特異な存在だ。
 これは、ヒトが大脳を支えることを最優先に進化してきたからに他ならない。効率を犠牲にしてでも、ヒトは大脳を発達させる方向に進んできた。

 重力に引かれて多くの元素が集中している環境になければ、生命体は高度に進化できないだろう。たいていの生物は、惑星に集中していると予想できる。
 そうなれば、当然重力の影響を受けるから、大脳を発達させるには、必然的に直立姿勢に帰結するわけである。



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「生命波」仮説で臨死体験は説明できる

2005-07-11 00:43:22 | 教義学
 あの世や霊魂があるとしても、具体的な場所や形は特定できないと考えてはどうだろうか。
 電波の性質を考えると、理解しやすい。

 この世には、テレビやラジオ、ケータイ、自然界にあるものなど、様々な周波数の電波が飛び交っている。これらは不思議にも、重なり合いながらぶつからず、混ざることもない。そして、そのままでは見えず聞こえず、その存在すら気づかない。

 死後の生命は、こうした状態で幾億幾兆と重なり合いながら、潜在化していると仮定できる。

 電波の場合、それをキャッチする機械さえあれば、電波の届く限り、どこにでも顕在化し、見たり聞いたりできるようになる。そして、スイッチを切ったり機械が壊れたりすれば、電波は再び顕在化の場を失い、潜在化することになる。

 死とは、このような現象ではないだろうか。



 人類は、19世紀末まで電波の存在を知らなかった。それを思えば、生命波の存在を仮定しても、あながち非科学的とはいえまい。エジソンが晩年に霊波受信機の研究に着手したのも、このように十分な科学的考察に基づいた末だった。

 赤い光から赤だけ分離し、観測することはできない。だからといって、赤=光とはいえない。
 精神と肉体の関係も、このようなものだと仮定できる。物理的に観測できないからといって、存在しないと断定するのは間違いだ。現実に赤という色があるように、精神はあるではないか!

 赤そのものは、時空に関係なく成立している。何億年前だろうと、何億光年彼方だろうと、赤は同じ赤色だろう。宇宙にはこのように、「時空を超越して成立している領域」があり、ユングはこれを「元型」と呼んだ。
 生命波はこうした領域に属しているため、肉体と切り離して観測できないと仮定できる。


元型論
C.G. ユング
紀伊國屋書店

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 生命波の存在を仮定すれば、どうして霊を感じる人と感じない人がいるのか、また感じ方が千差万別なのか(憑衣、見える、聞こえる、寒気がする、肩が重い、など)をも説明できる。

 人の脳は、人の生命波を受信する器官として最適のものだろう。しかし、チャンネルを合わせなければ当然生命波は顕在化できないし、しょせんは別人の脳だから、再生できても映像だけとか、音声だけといった場合が大半だと思われる。それにしたって、臨終時の幻覚と同じく、受信者の主観によって具体的な表現は影響を受けるだろう。

 霊魂説では、特定の場所や形見の品、位牌などに霊魂が宿るとされているが、霊感の強い人にとっては、こうした情報を五感から入れることが、特定の生命波にチャンネルを合わせる作業に相当するのだろう。



 教祖の偶像を崇拝するのは多くの宗教に見られる儀式だが、これにより、教祖の生命波を受信しようとしているのだと考えられる。この仮説で、宗教儀式の説明もできるわけだ。



 また、この仮説では生者も生命波を持つことになるので、テレパシーや生き霊などの超常現象さえ説明できる。一卵性双生児などは、脳の機械的構造が極めて似通っているので、両者間のテレパシー現象も頻繁に確認されるはずだろう。



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人は死んだらどうなるか

2005-07-10 23:38:49 | 教義学
 現代は「快楽に奉仕する文明」だといわれている。これだけ環境保護が叫ばれていても、人々は大量消費のライフスタイルを改めようとしない。このままでは、破綻は時間の問題だろう。それというのも、「死ねば全てが終わる」という現代人の考え方に、ひとつの原因があるのではないだろうか。

 アンチエイジングは、いまや巨大産業に成長した。人々は、1日でも長く、若々しく生きることにとらわれ、老いや死をひたすら忌み嫌い、直視しようとはしない。

 しかし、人がいつか死ぬのは、これ以上ない確実な事実。確かに、健康なうちはそんなこと考える必要もないが、いつかは必ず、自らの死期に直面するときがくる。

 まして、死がより身近だった昔の人々にとって、人生でこれほど重大なテーマはなかっただろう。あらゆる宗教の目的は、死の恐怖を克服するためといっても言い過ぎではない。それは、神の実在よりもはるかに重要な課題である。



 死んだ後にどうなるかは、古来より様々な説が唱えられてきたが、主にこの4つに大別できる。


①消滅する

 すなわち、人間の精神は完全に肉体の産物であって、肉体が死ぬと同時に全て消滅するという説。現代人の多くは、この説を支持している。キリスト教やイスラム教もこの説だが、最後の審判で全ての人が(肉体ごと)蘇るとしている。


②霊魂が残る

 肉体と精神は別のものであり、肉体が滅びても精神は不滅だという説。最も古い説で、仏経やキリスト教では否定されている。霊魂はこの世にとどまると考えられたが、後にあの世にいったり、生まれ変わったりするなど、様々な説に発展した。


③あの世にいく

 天国や地獄など、全く別の世界にワープするという説。キリスト教やイスラム教では、一度死ねば永久にそこにとどまると考えているが、仏経では地獄にも刑期があるとしている。


④転生する

 ヒンドゥー教や仏経に顕著な説で、何度も生死を繰り返すという説。キリスト教やイスラム教では否定している。転生する場合、前世のカルマはそのまま残るとされる。また、人間に生まれ変わるとは限らない。



 実際には、この4つの説が複雑に絡み合って、様々な教義が成立している。どんな教義も、この4つの説から出ることはない。



 もちろん、死人に口無しであるから、どの説が正しいのか、厳密な立証はできない。しかし、ここで忘れがちなのは、



「人は死ぬとき、全身が一瞬でバチンと死ぬわけではない」



という点である。

 つまり、生と死の狭間が存在し、そこを通って、徐々に死へと移行していく。

 ここに、死後を解くヒントが隠されていると考えてはどうだろうか?

 精神が宿るとされる脳でさえ、死が始まってから完了するまでには、タイムラグがある。また、脳死からの蘇生も希有ではない。狭間にあっては、振子が再び生に揺り戻る可能性が常に存在する。そのために、医師による死亡確認の後に蘇生する例が後を絶たない。

 やはり、隣死体験者の証言は、死後をある程度解明するものとして、それなりに重視すべきではなかろうか。


証言・臨死体験 (文春文庫)
立花 隆
文藝春秋

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 隣死体験に共通しているのは、「幻覚」と「解離」である。

 このうち、幻覚は個人差の他、宗教の違いなども大きい。インドでは、エンマ大王の前に引き立てられるという幻覚も報告されている。これは、③あの世説を裏づけるには不十分であろう。
 仮にあの世があるとしても、場所や形を特定する十分な証拠はない、と考えるほうが自然ではないだろうか。

 一方、自己が物質世界から離れるような感覚は、宗教や文化の相違に関係なく、普遍的に報告されている。
 具体的には、五感はもちろんのこと、記憶や思考力まで剥奪されるという。これは極めてショッキングな出来事のようで、まさに脱衣婆が亡者の衣服を残らず剥ぎ取る説話を想起させる。

 精神の中でも、肉体と特に密接に結びついた五感や高度な思考能力などが死と共に失われるのは、①消滅説を支持しない人も納得しやすいだろう。だが、ここで大事なのは、それでもなお自己の「核」が残る感覚を、多くの隣死体験者が証言していることだ。
 このようなケースでは、記憶回路がまだ働いていたのだろう。記憶回路が先に停止してしまったケースでは、何も思い出せないと思われる。酔っ払っただけで記憶を失うことがあるのだから、生死の狭間においては、何も覚えていないのがむしろ普通かもしれない。覚えているのは貴重なケースである。

 神秘主義思想では、精神はエーテル体とアストラル体から成り立っているとしている。経典にも、精神が如是性と如是体で成立していると説かれる。
 精神が重構造であることは今日の心理学でも常識で、表層が失われても、深層が残る可能性は十分に考えられる。
 しかし、これが②霊魂説のように、人魂や幽霊のように特定の形を持ち、特定の場所をフワフワ漂っているかというと、疑問が残る。自分の肉体を見下ろしていたという証言もあるが、感覚器がないのに外界の様子が分かるというのは不合理だ。これは幻覚に分類すべきだろう。



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宗教への関心が必要

2005-07-10 23:20:07 | 教義学
まず、ロンドン同時テロ犠牲者の皆様とご遺族に、改めて哀悼の意を表します。


このカテゴリーでは宗教やオカルト、成功哲学などに共通するメカニズムを取り上げていく予定です。
宗教には、宗派を問わず、全て共通項があるのです。
それらは科学的に立証されたものではありませんが、全ての宗教の考え方の土台となっている以上、仮説としては無視できないと考えています。
もし、これが仮に立証されれば、「全ての宗教は、インチキではなかった!」ということになります。

21世紀に、なぜ宗教なのか? 

それは、人間にとって、宗教は絶対必要なものだからです。

なぜなら、人間は、「自分がいずれ死ぬことを認識している、唯一の生命体」だからです。

遅かれ早かれ、人はいつか必ず死にます。即死しない限り、「ただ死を待つだけ」という心境のもとで、人生を終えることになります。

この根源不安に正面から向き合おうとしないところに、現代文明の巨大な欠点があるのです。



宗教そのものは必要です。しかし、信仰によって得られるものは宗派によって千差万別であり、中には明らかな邪教もあります。

オウムは、発泡スチロールのシヴァ神像を本尊としていました。シヴァ神はヒンドゥー教の破壊神であり、仏教でいえば第六天の魔王、キリスト教でいえばサタンに相当するシンボルです。

あれは、教義学の立場からすると、まさに悪魔崇拝そのものに他ならなかったのです。危険を伴う偶像崇拝においても、最悪のケースです。

日本神道でも、荒ぶる神の代表たるスサノオなどは、危険なシンボルだと思われます。

詳しくはいずれ説明したいと思いますが、シンボルはたとえ空想上のものであっても、人間の精神に多大な影響を及ぼします。

破壊神を日夜崇拝し続ければ、その集団が破壊行為に及ぶことは「必然」です。くどいようですが、シンボルにはそれだけの力があるのです。

もちろん、イメージそのものに物理的な破壊力はありません。しかし、心理の次元における影響力は絶大です。



少なくとも座学の分野では、日本でも有数の英才たちが、なぜ逮捕歴のあるような教祖に騙されてしまったのか? 

僕は、オウム事件とは、現代文明の、宗教への無知と無関心が招いた必然だと考えています。

ヒトラーは、魔術や占星術に多大な関心を示し、その秘技を駆使することで、一時的にせよ、国民をマインド・コントロールすることに成功しました。

宗教のメカニズムとその影響力を、一部の人間しか知らないことは、極めて危険なのです。

あなたが、どんな宗派を信仰しているのであれ、そのメカニズムを理解しておくことは、とても重要なことです。



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神社本庁が靖国問題に基本見解

2005-06-10 15:16:31 | 教義学
9日、神道政治連盟(全国8万社は、基本的に自民党を支持しています。やや偏った見方をするなら、お賽銭が特定政党の支援に使われているわけです)の会合において、神社本庁の矢田部正巳総長は、首相の靖国参拝を支持する見解を示しました。

また、A級戦犯の分祠については、本庁として、「神道の教義上不可能である」という基本見解を示しています。



靖国神社は、明治政府によって設立された国立の社でしたが、現在では通常の宗教法人であり、日本政府から独立した組織体です。その教義について、政府筋から指導される立場にはありません。この点は、神社本庁が宗教団体の正当な権利を主張したものとして評価できます。

しかし、宗教法人の代表が、政治的な会合の場において、政治家の参拝を促すような発言をすることには、注意が必要になると思われます。

もとより、神社本庁が自民党を支援することには、特に問題はありません。
よく、宗教団体の政治支援は政教一致だと批判されますが、
「宗教団体に加盟している国民にも、当然、参政権はある」
のです。仮に、靖国神社がカルトだとしても、その信者から参政権を取り上げることはできません。
政党支援の是非は、各法人の判断と、信者の良心の問題です。法が介入すべきではありません。



もともと、歴代総理の私的な参拝について、中国や韓国は黙認してきました。首相であれ、私人として信教の自由があるのは当然であり、どの神社に参拝しようと、批判できなかったからです。
批判が噴出したのは、中曽根総理の「公式参拝」からです。

つまり、問題は小泉純一郎という個人が靖国に参拝している事ではなく、「内閣総理大臣の参拝」なわけです。この点は、国内の他の宗教団体からも批判されています。

神社本庁とすれば、「私的な参拝を歓迎する」というような見解を示すのが、ベストではないでしょうか。

私的な参拝をも批判されるのであれば、それこそ内政干渉として反撃すべきでしょう。




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