大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

フランス革命1 神童ヴォルフガング編

2005-02-28 16:25:42 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
肖像 若き日のゲーテ


 本編に登場する若き天才……ヨハン・ヴォルフガング ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

 1999年で、ゲーテの生誕から250周年を迎えた。2世紀半もの年月が流れたわけである。しかし今なお、ゲーテの残した数々の作品は、私たちの人生に大きな示唆を与えてくれる。真の文学は、決して時と共に色あせることはない。むしろ、ますますその輝きを増していく。
 古典文学には、「読みにくい」「つまらない」というイメージが強い。確かに、そういう作品があることは事実。海外の作品など、翻訳者によっては、とても読めるものではないこともある。しかし、それだけのことで、全ての古典を「一読の価値なし」と決めつけるのは早すぎるだろう。古典を読んでいないことは、恥にこそなれ、決して自慢にはならない。
 海外のエリートは、ビジネスマンや政治家、あるいは科学者でも、文学や美術、音楽を論ずるという。だが日本では、せっかくの名作も、教科書で画一的な読み方を押しつけられてしまう為に、本当の素晴らしさが分からない。これは本当に惜しいことだ。だが、そんな中でさえ、ゲーテは、比較的広く親しまれている作家だろう。

 ヨハン・ヴォルフガングは、封建時代に終焉が忍び寄りつつある18世紀の半ば、ドイツの上流階級の家庭に生を受けた。彼がフォン・ゲーテを名乗るようになったのは、後のことである。
 父親は、帝室顧問官の肩書きを持つ法学士だが、定職には就いていなかった。母親エリーザベトは、フランクフルト市長の娘だった。ヨハンには5人の兄弟がいたが、4人は幼くして世を去り、成人まで生きた妹コルネーリアも精神を病んでいた。
 彼自身も病弱だった。産まれたときは死産かと思われたが、祖母の手当で奇跡的に息を吹き返した。だがその後も大病が絶えず、天然痘に丹毒、腎臓疾患で生死の境をさまよったが、その都度、母親の不眠不休の看護で命を拾っている。
 両親の熱心な祈りも虚しく、次々と世を去っていく兄弟たち。自身もまた、いつこの世を去るか分からない。そんな環境で育ったヨハン少年は、幼いころから神の恩寵に疑問を持っていた。真実は、教会の外にあるのではないかと。それが、のちに60年も書き続けた『ファウスト』執筆の原動力となる。
 偉大な人物は、決して宗教を盲信しない。だが、決して信仰の放棄に留まることなく、新たな価値を求めて誠実な探究を続けるものだ。ゲーテは幼いころから、建設的な批判精神を備えていた。

 当時は、まだ教育制度が十分に整備されていなかったので、ヨハンは父親から教育された。その内容は、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、フランス語、英語、イタリア語などの語学のほか、歴史、地理、宗教、自然科学、数学、音楽、舞踏、剣術、乗馬など、多岐に渡った。
 英才教育の甲斐あって、ヨハンは幼いころから才能を開花させていた。わずか6歳でシナリオを書き始め、8歳にして大人の鑑賞に耐えうる水準に達しているし、10歳になるかならぬかで、7か国語を駆使して物語を創作した。
 コックスの研究によると、少年時代のゲーテの知能指数は、推定185から200以上に達し、古今東西のあらゆる分野の天才を凌いでいる。まさに、神童だった。だが、不思議と、数学や哲学には終生興味を示さなかった。
 このような子どもだから当然、子どもたちの中では、浮いた存在だった。学校ではいじめられることもあったという。あまりにひどい場合は、反撃して逆にいじめっ子をやっつけるときもあった。
 また父親は、ヨハンに依頼した仕事の督促をやらせていた。この機会に、彼はあらゆる職人の工房に足を踏み入れ、その仕事ぶりや生活ぶりを目の当たりにする。父親から与えられたこの仕事を通じて、ヨハンは社会を学び、また、庶民こそが社会を支えていることを知る。机上の学習だけでは十分ではない。この仕事は、ゲーテの人格の土台を築いてくれた。
 ゲーテは後に、
「何でもいいから、まず一芸に秀でることが必要」
 こう考えるようになったが、これには、この時期に出会った職人たちの影響が大きいと考えられる。
 ゲーテはあらゆる事業の中でも、教育を最も重視していた。自らイェーナ大学に図書館や研究室を設立し、人材の確保にも尽力している。事実、彼は教育者としての名声も高かった。
「私は、民衆とその教育のために、生涯を捧げてきた」
 自分自身でも、そう述べている。
 小説の中でも、理想の教育環境として「教育州」という学園都市を登場させている。ここは都市そのものが広大なキャンバスで、共同生活を送りながら、個性に合わせた職業教育が施される。
 近年では、学校教育の限界と地域の教育力の見直しがようやく叫ばれ始めているが、ゲーテはこの当時から、学校と実社会の垣根を取り払う必要を悟っていた。社会は、学習のための場でなければならない。生涯学習の時代を迎えて、ゲーテの教育観には、再び脚光が当てられつつある。
 また、彼の生誕から13年後、やはり、歴史を代表する神童ウォルフガングが、ヨーロッパに出現する。史上最高の天才、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの登場だった。






 歌は世につれ、世は歌につれ。この諺が真実であるならば、やはり、モーツァルトの出現は、新たな時代の幕開けの象徴だったのだろうか? 
 ヨハネス・クリストムス・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ヨハンに遅れること7年、オーストリアのザルツブルグに生を受けた。奇しくも、ミドルネームはヨハンと同じだった。
 アマデウスの父親ヨハン(これも偶然)は、宮廷のバイオリニストだった。ヨハンには7人の子どもが生まれたけれども、5人が早世し、残ったのは2人だけだった。こんなところも、ゲーテ一家と似通っている。残ったうち1人は娘ナンネル、もう1人が、弟のアマデウスだった。
 生まれたときから音楽に囲まれて育ったアマデウスの才能は、幼いころから際立っていた。わずか3歳のとき、聴いたばかりのメヌエットを、すぐさまクラビア(ピアノに似た楽器)で完全にひきこなしている。
 父親のヨハンは、アマデウスの才能に驚き、愛情を込めて、この息子に音楽を教えた。アマデウスはメヌエットなら30分、長い曲でも1時間で、完全に覚えることができたという。彼自身、どんな遊びよりも、音楽を好んだ。

 アマデウスはわずか5歳にして、メヌエットやコンチェルトを作曲。さらに、トリオの最も困難な第2バイオリンを少しも間違わずにひきこなし、8分の1の音階の差を聴き分けた。
 ヨハンは、アマデウスが6歳になるとすぐ、一家でミュンヘンやウィーンへの演奏旅行に旅立った。アマデウスと姉ナンネルは、たちまち、神童姉弟としてヨーロッパ中にその名を知られることになる。
 アマデウスは、その場で作曲して演奏することさえできた。それどころか、指1本でも、あるいはキーを布で覆っても、全く普段と変わらずにクラビアをひきこなした。
 しかし、もともと体の弱い彼は、毎晩遅くまでの演奏会で体調を崩し、倒れてしまう。そこで、一家は一度ザルツブルグに戻り、翌年再び演奏旅行に出る。この旅は実に3年半に及び、ヨーロッパをくまなく廻ることになる。それはまた、アマデウスに各地の音楽に触れる機会を与えることになった。
 この時期に、アマデウスは連日の演奏会の合間をぬって、ピアノソナタを10曲も作曲。そのうち4曲の楽譜が、パリで発売されている。わずか7歳での作曲家デビューだった。
 ドイツでは、7つ年上のヨハン・ヴォルフガングとも出会っている。ゲーテは、自分同様神童のモーツァルトを愛し、モーツァルトもまた、ゲーテの詩を作曲している。ふたりのヴォルフガングは、天才同士、深く共鳴し合っていた。
 また、アマデウスはやはりドイツで聴いたシンフォニーに感激し、自分でも作曲し始めた。彼は7歳から9歳にかけて、4曲ものシンフォニーを作曲している。
 しかし、ハードスケジュールの疲れからか、アマデウスは再び病に倒れる。ゲーテもそうだったが、神童には病弱な傾向が強い。生死の境を彷徨ったが、どうにか一命を取り留め、演奏旅行を再開し、ザルツブルグに帰国した。アマデウスは、10歳になっていた。
 その後も、彼の演奏旅行は続いた。13歳のときに、アマデウスは憧れの地だったイタリアを訪れる。当時の音楽の中心地は、イタリアだった。彼はここでも、たちまち神童として一大旋風を巻き起こす。
 ローマのシスティーネ礼拝堂では、『ミゼレーレ』という曲が演奏されていたが、この曲は、楽譜の持ち出しを禁止されていた。そこで、アマデウスは礼拝堂へこの曲を聴きにいき、たった1度聴いただけで全てを覚え、演奏会で歌ってみせたという。

 ある日、彼の元に、オペラの作曲依頼が舞い込んできた。以前からオペラに興味を持っていたアマデウスは、これを喜んで引き受け、『ミトリダーテ』を作曲。その他にも、賛美歌を始め、様々な名曲を次々と作曲している。もはや、ヨーロッパ中を見渡しても、わずか13歳のアマデウスの右に出る音楽家は、見つからなかった。
 時のローマ教皇は、『黄金拍車の騎士』という位を、この少年音楽家に授け、十字勲章を贈った。ボローニャの市議会でも、満場一致で、彼を「アカデミック・フィルハーモニー」協会員に推薦した。
 この協会は、当代1流の音楽家たちによって構成されていて、ここに入会することは、音楽家にとって最高の名誉だった。アマデウスは、入会試験として、4部合唱の作曲という課題を出された。1流の音楽家でも3時間はかかるこの課題を、この少年は30分足らずで完成させ、難無く合格した。
 また、その年の暮れには、いよいよオペラ『ミトリダーテ』が初演された。結果は大好評で、その後、24回も繰り返し上演されている。モーツァルトは14歳にして、名実共に、音楽界の頂点を極めていたのだった。
 16歳のときにザルツブルグに戻ったが、それまでに、シンフォニーを5曲も作曲していた。ザルツブルグでは、大司教の宮廷の楽長に命じられ、音楽教師や作曲に勤しんだ。
 イタリアでの修業を経て、アマデウスの才能には、一段と磨きがかかっていた。19歳のころまでに、『シンフォニー第5』『ピアノ協奏曲』『ファゴット協奏曲』『ピアノソナタ第5』などを作曲している。神童には、年齢と共に才能が失われる場合も多いが、彼の場合は、成人しても全く衰えを見せなかった。




 彼に遅れること、10余年。もう1人の神童ヴォルフガングが、その存在を公に知らしめる。いよいよ、文壇にゲーテが登場したのだった。




続きを読む


最初から読む






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヴァンダレイ・シウバの身体意識 | トップ | フランス革命2 疾風怒濤編 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

若さが歴史を動かした(ノンフィクション)」カテゴリの最新記事