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日本史3 戦国編

2005-02-25 14:33:32 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
写真 天才少年武将・松平元康像(後の徳川家康)



 本編に登場する若き革命児……今川義元 武田晴信 長尾景虎 織田信長 松平元康 木下藤吉郎 徳川家光


 若き義経が武士の時代を開いてから、数世紀の時が流れた。時の政権である室町幕府は、諸大名を抑える力を失い、時代は再び、青年の覇気を求めていた。

 ここ甲斐の国でも、世代交代の波が起こっていた。暴君として民から恐れられていた武田信虎を、実子の晴信が追放、20歳の若さで武田を継いだのだった。彼こそ、後の武田信玄である。
 信玄は、すぐさま北信濃攻略に乗り出した。翌年には諏訪頼重を攻め滅ぼし、伊那を平定。若き天才武将として、天下にその名を轟かせた。

 世代交代の波は、戦国の世に広がっていった。信玄に呼応するように、越後でも、1人の青年、いや少年が、歴史の表舞台に登場する。信玄の9つ年下で、わずか13歳の長尾景虎が、兄の守護代・晴景の追討に立ち上がった。この景虎こそ、後の上杉謙信だった。晴景は、景虎少年を抑えきれず、中越を譲り渡す。

 時代の波は、名古屋の地にも押し寄せていた。謙信の登場から4年後、やはり13歳の少年が、初陣の日を迎えていた。この眼光鋭い少年こそ、日本史を震撼させる戦国の魔王・織田信長その人だった。
 昨年元服し、名古屋城主になったばかりの信長は、今川義元の城のひとつを落とすため、2000騎を率いて三河に出陣、大浜一帯に火を放った。家臣は名古屋城に引き返すよう勧めるが、信長少年は、今川勢がすでに待ち伏せていると読み、頑として退却せず、敵地の丘の上に陣を敷いた。
 はたして、その日の夜中。信長の読み通り、待ち伏せしていた今川勢は、織田勢が眠っていると思い込んで、攻めてきた。もちろん、これは信長の計算通り。たちまち今川勢は、夜討ちに備えていた織田勢の前に、返り討ちにされた。13歳の信長は、初陣にして天才的な指揮を執り、見事な勝利を飾ったのだった。

 この時点で、信玄26歳、謙信17歳、信長13歳。戦国武将を代表するこの3人は、いずれも天文年間の1540年代に、相次いで歴史に登場している。実際、天文年間、特に1540年代が、戦国武将のひとつの新旧交代のポイントになっている。
 後の明治維新もそうだが、激動の時代には、若き天才たちが大挙して登場するものなのかも知れない。


 ちなみにこの年は、信長と竹千代(後の徳川家康)が初めて出会った年でもある。竹千代は、信長より8つと半年年下で、まだ4歳だった。人質として織田家に預けられ、いつ殺されてもおかしくない立場だったのだが、信長は、実の親にさえ見捨てられた竹千代を哀れに思ったのか、弟のように面倒を見た。

 初陣の大勝利から数年の間、信長は竹千代を引き連れて、心身の鍛練に熱中した。乗馬に水泳、弓、鉄砲、鷹狩りにものめり込んだ。また、小姓を2手に分けて竹槍合戦の指揮を執り、短い槍が不利であることに気付いて、三間半の長槍に改めている。
 しかし、その一方で、行儀の悪さは目に余るものがあった。いつも服の袖を外し、腰から火打ち袋をぶら下げて、歩きながら餅などをかじっていた。うつけ者と陰口を叩かれていたのは有名。

 この時期、家康がいつも信長に付き従っていた事実は、特筆に値する。行動を共にする中で、少年時代の家康は、信長から多くを吸収したに違いない。戦国武将にとって、これほど贅沢な環境はなかろう。信長は、知らず知らずのうちに、後に天下を取る男を、マンツーマンで教育していたのだった。


 その同じ年、一足早く青年大名として多忙な日々を送っていた信玄は、領国の家臣たちを統制するための分国法『甲州法度之次第』を制定している。また、堤防を築いて甲府盆地の治水を図るなど、父と違って、民には善政を敷いたといえる。信玄の強さの秘密は、ひとつには、民衆の支持が高かった所に求められるだろう。

 『武田節』には、

 人は石垣 人は城

 の一節があるが、人を大切にすることこそ、武田の強さの要だった。

 しかし翌年、上田原の戦いに敗れると、信濃の豪族は、一斉に信玄打倒に立ち上がる。豪族の中心となっていたのは、小笠原氏と村上氏だった。

 一方、隣の越後では、18歳になった謙信が正式に家督を譲られ、越後を統一している。

 信長が家督を継いだのも、17歳の若さだった。信長は、さっそく翌年までに500丁もの鉄砲を揃えている。

 信玄は粘り強い采配を見せ、束になってくる信濃の豪続たちを返り討ちにし、12年がかりで、ついに北信濃を平定する。小笠原・村上の両氏は、隣の越後に逃れた。
 謙信にとっても、これ以上信玄が勢力を伸ばすのは、望ましくない。こうして、両雄は、川中島で足掛け10年にも及ぶ、運命の対決の幕を切って落とした。時に、信玄32歳、謙信23歳だった。


 一方、信長に課せられた仕事は、まず国内を固めることだった。新君主となった信長の人気は最悪で、教育係だった平手政秀が、責任をとって切腹したほどだった。信長を葬り、弟の信行を跡継ぎにしようという動きが、陰で活発になっていた。実の母親までが、この謀略に加担していた。
 抜け目のない信長は、忍びを使って情報を集め、このような動きを掴んでいた。20歳のときと22歳のとき、2度に渡る謀反を防げたのも、前もって家来の本音を知っていたからだろう。信長はこのとき、謀反を企てた多くの家臣を許している。
 しかし、処罰こそしなかったものの、怒りを解いたわけではなかった。本音ではことごとく処刑したかったらしいが、それをしては、父の代から対立してきた今川義元に対抗できなくなるからだった。義元は、わずか22歳にして信長の父・信秀を破り、短期間で東海地方に勢力を拡大した、若き天才武将だった。
 この謀反未遂事件の、肉親にまで殺されそうになったという体験が、人を決して信用しない信長の人格を決定づけたといっても、過言ではなかろう。

 その上、今川家に奪い取られ、14歳になっていた人質の家康が、義元の命令で挙兵し、織田の出城を次々と落としていた。当時は、元服して松平元信を名乗っていた。信長の弟分として徹底的に鍛えられただけあって、経験不足を感じさせない、老獪な指揮を見せた。そのために当の信長が苦しめられたのは、戦国の世の皮肉だった。

 信長は、義元との決戦の時が迫っているのを敏感に感じ、着々と準備していた。謀反の不安材料である弟の信行を斬り、また京に上がって、将軍義輝から正式に尾張守の肩書を授けられた。
 このとき信長は、5~6人の鉄砲で武装した刺客に命を狙われたが、抜刀すらせずに、ただの一喝で退散させたという。その帰りには、堺に寄って鉄砲を揃えている。


 そしていよいよ、義元自らが、25000~45000の大軍を率いて、尾張に乗り込んできた。先頭に立ってきたのは、17歳の松平元康、つまり家康だった。元康はこの歳ですでに、今川勢でも随一の武将として、その名を轟かせていた。元康は、たちまち丸根城と鷲津城を落とし、信長のいる清洲城に迫る。

 織田の勢力は、せいぜい2000~4000。信長は、家臣に一言も相談せず、自ら2000~3000の決死隊を率い、城を出て攻める決断を下す。信長は、援軍が当てにできない限り籠城すべきではない、という戦の鉄則を知っていた。

 その時、信長の元に、義元の本隊が桶狭間で休息しているという情報が入る。桶狭間は、信長が少年時代から駆け回ってきたホームグラウンドだった。他の隊に遭遇して兵力を消耗することなく、義元本隊に直接突入できるルートも熟知していた。
 その上、突然の集中豪雨により、気付かれることなく義元本隊に接近することができた。一説には、この豪雨すら、空模様から予測していたといわれている。

 信長は自ら先頭に立ち、義元軍を確認すると、すぐさま総攻撃に出た。突然現われた信長軍に、勝ち戦に酔っていた義元軍は混乱した。当初は、謀反が起きたと思ったという。この時、義元軍の陣形は縦に長く延び、義元本隊はわずか5000に過ぎず、全体から孤立していた。
 その上、農民を駆り出した義元軍と違い、信長は足軽にも訓練を積ませていた。信長軍の足軽たちは、通常の2倍近く長い槍を持たされていたので、恐れることなく敵に立ち向かうことができた。これはもちろん、竹槍合戦の教訓を活かしたものである。これらの要素は、1000~2000の戦力差を逆転させるには十分だった。
 義元はこの時、300騎の旗本に護衛されていたが、次々と討ち取られて、たちまち50騎ほどに減る。守りは手薄となり、義元もあえなく討ち取られた。

 こうして、今川義元は41歳にして散り、長く続いた抗争に終止符が打たれた。一方の信長は、この決戦の前後に、満26歳の誕生日を向かえたとされる。ここ東海の地でも、鮮烈な世代交代が成されたのだった。


 そしてまた、義元の死は、元康が自由を手に入れることを意味していた。信長は、天才少年武将に成長した元康を何としても味方にしようと、さっそく和睦の手紙を送っている。あるいは、自分と同様、肉親に見捨てられた生い立ちを持つ元康だけは、信用できたのかも知れない。
 ラブコールを受けた元康も、今川家に見切りをつけ、信長と和解する。時に、信長26歳、元康18歳。こうして、青年武将同士の最強タッグが結成され、天下は統一に向けて大きく動き出した。

 信長は、続いて美濃に侵攻する。斎藤龍興とのにらみ合い、小競り合いが続いた。一方、元康は三河で起こった一向一揆の対応に追われた。
 当時、一向宗(浄土真宗)は全国各地で武装蜂起し、特に加賀は領主が自殺に追い込まれて、1世紀近く一向宗の統治下に置かれた。今日の姿からは想像もつかないが、浄土真宗は、日本の武装カルトの元祖だった。今日のイスラム過激派を想像すると、理解しやすい。一部の信徒が過激化するのは、仏教もイスラム教も変わらない。


 信長は、30歳のころまでに、尾張を完全に統一した。また、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて、美濃の土豪に寝返り工作を試みている。藤吉郎は足軽の出身で、歳もまだ28歳と若かったものの、信長が最も頼りにする家臣だった。家臣の年齢や家柄を問わず、実力者を重んじるのも、信長の強さの秘密だった。
 藤吉郎が目をつけたのは、美濃の水利に精通した川並衆だった。藤吉郎が彼らを味方につけたことで突破口が開かれ、美濃は、信長の軍門に下る。さらに、信長は規制緩和の先駆的業績である「楽市令」を下す。これによって、誰もが自由に商売することができるようになった上、免税の特権も与えられたので、岐阜の街は大いに栄えた。
 楽市令の狙いは、ひとつには、自分が斎藤氏よりいい主君であることを、岐阜の民に印象付けることにあったと思われる。足下である尾張の内乱に散々手こずった経験が、ここで生きた。


 この時点ですでに、信長の勢力は天下一で、このまま行けば天下統一も時間の問題だった。将軍の足利義輝が暗殺され、弟の義昭が信長に助けを求めるが、信長は難無く京まで進撃し、義昭を将軍の座につけている。

 京での信長の評判は、思いのほか良好だった。軍の規律を強化し、狼籍は一切厳禁、違反者は即刻死罪としたからだった。「現地住民を敵にしない」ことは、源義経も最も気を使った点だった。卓越した武将には、やはり共通点がある。信長は、さらに各国の関所を撤廃し、自由な往来を可能にした。

 信長は京に入ると、すぐさま堺に色気を見せた。当時、堺はその経済力によって自治を勝ち取っていたが、信長に完全包囲されて降伏、その軍門に下った。こうして信長は、堺の経済力のみならず、鉄砲を製造する技術までも独占したのだった。さらに信長は、交通の要所である大津や草津をも手中にする。

 当初は、素直に信長に感謝していた義昭も、自分以上の権勢を振るう信長を、快く思わなくなっていた。さらに、自分の許可なしに命令を下すなという信長の申し入れで、義昭の信長不信は決定的になる。義昭は、全国の大名に信長追討の手紙を送る。


 最初に動いたのは、朝倉義景と、信長を裏切った浅井長政だった。信長は、家康との連合軍で2人を破る。次に立ち塞がったのは、一向宗だった。これも、大苦戦の末どうにか退ける。しかし、次に現われた武田信玄の前に、信長は生涯初の大敗を喫する。

 このまま戦い続ければ、信長も危うかったかも知れない。だが、過酷な戦場を駆け続けるには、信玄は、もう疲れすぎていた。陣中で突然の病に倒れ、52歳で世を去った。後ろ楯を失った義昭は降伏し、室町幕府は滅びたのだった。ちなみに、謙信の命を奪ったのも、病だった。

 武田を継いだ勝頼は、残念ながら、父程の天才ではなかった。かつて無敵を誇った騎馬軍団を受け継いだが、それを新たに発展させることができず、織田・徳川連合軍の鉄砲の前に散った。
 ちなみにこのとき連合軍は、家康の発案で、足軽のみならず武士までも歩兵とし、鉄砲隊を先頭に置いた編成を組んでいる。これまでの、武士の面子を重んじる戦場では、考えられないことだった。


 信長自身もまた、永遠に不滅では有り得なかった。家康の助けを借りて、どうにか武田には借りを返したものの、後に毛利水軍にも敗れ、本願寺も攻め切れずに、和議に持ち込んだ。その晩年には、かつての勢いは影を潜めている。

 さらに、若いころには謀反をことごとく察知し、先手を打った信長だったが、本能寺の変では、なぜか完全に虚を突かれ、あっけなく世を去った。いかにも信長らしい、そして信長らしくない最期だった。
 享年は、奇しくも謙信と同じ48歳。当時としては高齢のその年齢が、信長の判断力を、わずかに衰えさせていたのだろうか。少なくとも、信長の武将としての実力のピークは、30歳代前半までであろう。

 しかし、天下統一のグランドデザインは、信長によってすでに完成されていた。その仕上げは、信長が右腕と頼んだ秀吉が実現。しかし、秀吉もまた晩年には朝鮮侵略に失敗し、その上、後継者にも恵まれなかった。その没後、天下を奪ったのは、やはり信長の弟分だった家康だった。
 家康が幸運だったのは、19歳で徳川を継いだ孫の家光という後継者に恵まれ、フレッシュな発想で、幕藩体制を固められたことだった。家光は、参勤交代や鎖国といった、日本史上初の画期的な制度を導入し、幕藩体制を不動のものとした。以後は、徳川の長い天下が続く。

 天下の大事業は、一代では完成しない。常に新陳代謝してこそ、健康体が維持できるように、若き後継者を得られた集団だけが、最後に勝利を手にすることができる。戦国絵巻は、我々にそのことを語りかける。



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