護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

土曜日  憂楽嘲(ごまめの翁)ブログの目次

2009年04月04日 15時44分10秒 | 朝日新聞切抜とテレビの切とりと庶民の疑問
09年4月4日  土曜日  憂楽嘲(ごまめの翁)ブログの目次

長い間、お休みを頂きました。
体調の優れないのもお休みを頂いた要因ですが、最大の理由は、4月8日が私の誕生日、それと同時に自動車免許の更新。自動車と大型二輪は65歳の時に動態視力が落ちたので廃車。しかし125CCの原付きにはあと三年は乗りたく、パソコンを長時間使っていると視力が落ちて免許更新は難しく、目を休め視力の回復の為お休みをいただいた次第です。
昨日、やっと更新完了。
お休みを頂きながら拙いブログを再会致しますので宜しくお願いいたします。

1・京都イラク訴訟(ここからお入り下さい)

2・京都イラク訴訟 2部(ここからお入り下さい)

3・テレビ紙芝居(めくり斬り) (ここからお入り下さい)


下のURLは私の所属している護憲+グループのブログで、それぞれ特徴のあるブログです。

老人党リアルグループ「護憲+」ブログ
http://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/
今日の喜怒哀楽
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今日のトピックス Blog
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イシャジャの呟き
http://pub.ne.jp/BEGOOJI/
探偵の法律チェック
http://wwwnetwalkers.blogspot.com/



京都イラク訴訟 2部

2009年04月04日 15時35分32秒 | 朝日新聞切抜とテレビの切とりと庶民の疑問
京都イラク訴訟 2部

京都イラク訴訟 報告書には多くの原告の方の陳述書が記載されているが、他の方の陳述書はブログに載せられないので私の陳述書を載せておく。

 私は戦後外地で両親を亡くした戦争孤児です。

 終戦当時,私は朝鮮の京城師範で勉学に勤しみ父母の元を離れていました。父は朝鮮商業銀行に在籍し、ソ連が朝鮮に侵入してくる直前に朝鮮と満州の国境の町、白頭山の裾野の恵山鎮から豆満江(とまんこう) 朝鮮半島の東北部、朝鮮と満州とロシアの国境の町、阿吾地に転勤となり着任して一週間もしないうちにロシアが参戦、まだ家財道具は到着していなく南はソ連兵に封鎖されて南下は出来ないために着の身着のままに満州に避難したようです。

 そこで、父母と一番下の妹は発疹チフスと餓死状態で死んでいます。
 残された小学校の6年生の弟と3年生の妹が、最後に息を引き取った母の遺言の、何としても内地に帰るようにと言われたのを守って、日本海側から渤海湾の葫蘆島(コロ島)まで1000キロ近くでしょうか二人で放浪しながら帰国しています。
 弟の話によると逃げる時にソ連の戦車にひき殺されそうになったと聞いております。弟の逃避の話は私は当事者でないので書くことはやめます。しかし、かなり壮絶なものだった様です。
 私は幸い京城にいた従兄弟と終戦の年の12月に日本に帰ってきており当時復員してきた兄とある商店に丁稚奉公をしていました。

 その当時,NHK放送の尋ね人で弟妹のことが分かり、兄が勤め先の商店の店主に許可をもらい仙台まで迎えにいきましたが当時の萬蒙開拓義勇軍の方で同じ引き揚げ船に乗っておられた方が余りにも不憫に思い、ご自分の故郷の東北地方まで連れて帰ってもらっています。
 着る物は全くなく栄養失調と疥癬でそれはひどいものでした。

 戦後、多くの満州孤児の方が日本に家族捜しに来られます。私はこの幼い二人がどうして日本に辿り着いたか全く見当がつきません。葫蘆島よりの最後の引き揚げ船に子供だけで乗っていたのは自分達だけだともいっていました。

 また当時の日本は混乱していましたからでしょうが、家族で引き上げた方々には、国家も何かの庇護がありました。弟は親がいないので家族でないと破断され、下船時の手当がもらえなかったと今でも言っています。そして弟妹は小学校も卒業はしておりません。

 前文が長くなりましたが、私が軍事行動に反対するのは、国家が如何に大義名分があっても人が人を殺すことがいかに罪悪か、当時は教育でお国のために戦死するのは名誉なことだと教えられ、それが当たり前だと思っていました。しかし戦後、落ち着いて当時を思い浮かべると、友が父親の戦死の訃報泣くのを堪えている多くの友の顔を思い浮かべると、戦争は人類最大の罪悪だと感じるようになりました。

 私事です。兄が甲種予科連に入隊する兄を駅に見送りにいきました。その時、始発駅の恵山鎮の駅から蒸気機関車の煙の見えなくなるまで母は末妹を背負ったまま手を振って立っていました。10分ほどして、こちらに振り返っていた母の瞳には涙が溢れそうになっていました。
 国のために息子を差し出したと自分では納得していたのでしょう。でも後日、台所の片隅で声を殺して泣いている姿を知っている私は、日本いや世界中の母親に此の様な悲しみを与えるような戦争は世界中のどこの国家もしてはいけない、さしてはいけないと思う今日この頃です。

 イラクでも机上の人は安全と言うでしょう。日本人は直接イラク人に被害を与えていませんが、自衛隊は文字を見ても自衛する団体です。今は何も有りませんが、もし何かがあれば悲しむのは家族です、それは前の大戦で嫌というほど経験していると思います。

 私たち戦時を経験しているものは、憲法で武器を持たない軍隊を持たないと誓ったと思います。
 イラクに丸腰で医療や復興に行くならば許せますが、小火器とはいえ武器を携帯しています。その行為が胸の何処かに引っかかってしかたがありません。
 世界の指導者たち、戦争で一番被害を被るのは、名もない普通の善良な庶民なのです。


京都イラク訴訟

2009年04月04日 15時25分25秒 | 朝日新聞切抜とテレビの切とりと庶民の疑問
09年4月4日 土曜日  京都イラク訴訟

昨日、やめて!イラク派兵・京都訴訟団事務局から分厚い冊子が届いた。
          
          

思えば、05年3月4日に京都訴訟団結成の会合がハートピア京都で有ると新聞の片隅で読み原告団に加わわり、08年2月18日の大阪高裁の判決から2月25日の訴訟集結決定。5月23日の京都訴訟報告集会まで、あしかけ4年に渡る裁判、長いようだがアットいう間に終わった感じがする。

今も、北朝鮮のいう衛星ロケット発射で、北朝鮮がテポドン二号を打ち上げたとテレビが一斉に報道した。しかし日本のご探知による誤報だと5分以上も経って訂正の発表があった。これでは実践には役立たない。

兵器の開発競争。北朝鮮を見ていると、昔の日本の軍部を思い出す。己の力を知らない指導者たち。

戦後、日本は絶対に軍備は持たないと決めたはずなのに何故軍隊を持ったのだろう。軍隊や軍事基地があるから北朝鮮が日本を敵対視する口実を作ってしまった。

テポドン発射の誤報、もし其の誤報により軍隊が動きだし戦争まで発展すると言うことは、過去にも似たようなことがあったと思う。
軍隊がある。それは戦争が絶対なくならないということを物語っていることだ。

私はイラク訴訟の原告団に加わって、より戦争に反対する気持ちが大きくなった。

今回の北朝鮮のロケット発射基地は私が小学校3・4年時代にいた所だ。
          
テレビのテロップでは
          
日本に落下したらどうするか。日本の人工衛星は幸い、発射方向に陸地はない。北はどこに向けても何処かの国があるという条件。
ロケットの弾頭の形状はミサイルでなく人工衛星の形状だとアメリカ当局も認識している。だからアメリカ当局は冷静なのだ。
それに引替え日本の対処は仰々しい。北朝鮮の戦略にのってしまったのか。
穿った見方をすると、政府はこれを利用して軍備増強のネタにする。それにメディアが乗っかっている。私は其れの方が心配だ。

余談ばかりになりましたが、イラク活動日誌
          
          
          


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