護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

06年12月12日土曜日 残留孤児 国に賠償命令

2006年12月02日 13時42分09秒 | 朝日新聞切抜とテレビの切とりと庶民の疑問
 06年12月12日土曜日・

 今日は新聞からの感想を書くことにする。
          
 残留孤児 国に賠償命令。神戸地裁の判決には拍手喝采する。判決の中を朝日新聞の記事を引用すると
 【さらに、北朝鮮による拉致被害者に対する自立支援策と比較。「拉致被害者が永住帰国後、5年を限度として生活保護より高水準の給付金や、きめ細やかな就労支援を受けているのに、残留孤児への支援策は生活保護の受給を永住帰国後1年をめどとするなど極めて貧弱だ」と述べ、国の政策の誤りを指摘した。】
に有ったように此の事はいつも感じていた。
 国家は、拉致家族の場合は、国家の不備で拉致されたという負い目がある。しかし、残留孤児の場合は戦前の政府が引き起こした戦争の犠牲者だからと、とおりいっぺんの援助しかない。

 以前、戦時中を語るで弟妹のことを書いたが、小学6年生と3年生、親が死んでしまい残留孤児の仲間に入っていて当たり前なのだが、本人たちの努力と幸運で帰国できている。
 しかし、上陸した時には、子供だけだといって家族単位の義援金はなく、東北地方から開拓義勇軍に行っておられた萱場さんという青年が見るに見兼ねて故郷につれて帰って頂いている。

 だから弟は、残留孤児の待遇と拉致家族の待遇の違いに対しものすごく腹を立てている。政治関係のことは褒めたことがない弟は地裁の判決をみて、当たり前の判決なのに遅すぎると冷ややかな感じだ。

 タウンミーティングは民社党調査を詳しくやっていたので後日映像で紹介する。

 道路財源一本化。法人税下げ。外資50%超要因へ。どれも自民党の政治的思惑が表に出て不愉快きわまりない。お金持ちを減税して、生活保護の一部を削り、ほとぼりが冷めたら消費税の増税。私は執念深いのでこの行為は死ぬまで忘れないが、困ったことに日本人は、のど元過ぎればすぐ忘れるから困った民族だ。

続・戦時体験者の証言

2006年12月02日 08時18分08秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

続・戦時体験者の証言
 序文
 このような書き込みをご覧になる方は少数だと思う。これに反論される方は大勢居られるだろう。しかし見たものは見たものだから、体験記として書くことにした。。

 私は人に聞いたり本で見たことの論議は、中に幾つかのクッションがあるので、それが真実かどうか私には判らないから、何事も実体験以外は参考資料の一つです。

 また、これから書くことを皆さんがご覧になっても、文書の一つに過ぎませんから、私と同じ感情や感覚には伝わらないと思います。それが現実ではないでしょうか。

序文として、人身売買のことに触れておきます。物心が付いた頃から何となく人身売買があるというのは教えられなくても判っていました。それは、悪いことをした時に、母親に「○○は、ごまめ家の子供じゃない、人買いに売ってしまう」と泣きながら叱られたことが有り、子供心に、自分は母にとても悪いことをしたのだな、と思いました。何で叱られたのか思い出せませんが、今の時代に、母親が子供にこの様な叱り方をしたら問題になるかも判りませんね。

 当時、貧困な家庭の子供では、小学校を卒業すると年季奉公に行く友もいました。それは当たり前だったことで、昔は現在のように経済的に恵まれていませんでしたから、貧困な家庭では何の抵抗も無く取り入れられていたのだと思います。

 以前、知人と電話で人身売買のことを話した時「ごまめさん。江戸時代から人身売買でなく、あの当時の遊女は年季奉公ですよ」と言われるのを聞いて、昔、元山(北朝鮮・うぉんさん)で年季を開けて帰って来た娘さんがいたのを思い出し、この事を調べてみて、女衒【ぜげん】という言葉を思い出しました。よく考えてみますと時代劇には良く出てくる言葉だった。

以下のアドレスは人身売買の参考資料です。
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/jinshin.html
内容の一部を抜粋します。

〔〔日本の人身売買〕日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形で人身売買が行われてきた。古代の奴隷については、『魏志(ギシ)』倭人伝(ワジンデン)の「生口(セイコウ)」や『古事記』『日本書紀』の「奴(ヌ)」の記述によって知ることができる。大化改新の律令(リツリヨウ)文書に、(ヌヒ)の制度に関する規定があり、当時稲千束で奴隷を売買した記録が残っている。このは、荘園(シヨウエン)時代には農奴に転化した。戦乱、飢饉(キキン)、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす人さらいや人買が横行した。また、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質を奴隷化することも生じた。江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

【遊郭・遊×廓】
遊女屋の多く集まっている一定の区域。くるわ。遊里
人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。

 最後に年季奉公に付いて一言。私は、歯科技工士で、戦後間もなくは国家試験制度も無く、歯科技工士も殆ど居ない時代でしたから、歯科医院に教えを乞いにまいりますと、月謝はいらないが、年季奉公迄つとめろといわれ五年間は盆と正月のお小遣いだけで、年季明けは十三年後でした。

現在の若者はこの現実をどうとられるのか。ひょっとしたら私が年季奉公の最後の人間かもわからない。とに角、戦後六十年の社会の変わり方は大きすぎるということです。

 以下、次回から本文に入ります。