アキレスと亀、あるいはゼノンのパラドクスと呼ばれるこの哲学上の難問が学生時代の数学のテストに出たことがあって(このテストではアキレスと亀ではなく「飛んでいる矢は止まっている」という命題だった)、わたしは答えられなかったのに延々と長文で答を書いた覚えがある。今から考えたら、よくぞ何もわからないのにやたら長々と書くことができたものだとわれながら感心/寒心する。何を書いたか忘れたけれど、無から有を生むことあるいは舌先三寸の口からでまかせは昔から得意だったようで。この映画では冒頭にこのパラドクスがアニメで説明される。俊足アキレスは亀に永遠に追いつけないのだというゼノンの言葉が観客に投げつけられるのだ。この永劫の苦悩をわたしたちはどう解くのか、終わりのない挑戦を続ける芸術家の性(さが)はどのように昇華するのか……
この映画は、創作者北野武の諦観と矜持と韜晦と開き直りの自伝的作品。映画の中ではやたら大勢の人が死ぬが、その死すら北野は笑い飛ばす。所詮人の命はこのように軽くばかばかしいものだといわんばかり。ご本人も昔交通事故で死にかけたし、彼独特の死の哲学があるのだろう。
主人公は倉持真知寿(くらもち・まちす)という売れない画家。10歳ぐらいの少年時代、青年時代、中年時代の3部仕立てでそれぞれ違う役者が演じる。少年時代がえらく時代がかっているものだから昭和戦前期かと勘違いしたくらい、ここに描かれている時代はレトロの香りぷんぷん。大金持ちのお坊ちゃま倉持真知寿は絵がうまいと誉めそやされて周りから特別視され、絵を描くこと以外には何も考えない子どもへと純粋培養されている。しかし父親の会社が倒産し(このあたりの描写も世界大恐慌かとわたしは勘違いした)、真知寿は叔父に引き取られ不遇な少年時代を送ることになる。
青年になった真知寿は相変わらず絵ばかり描いているが、いっこうに芽が出る気配がない。画廊へ持っていってもけんもほろろの扱いを受け、しかし「ちゃんと勉強しないとだめだ」といわれると働きながら美術学校へ通うようになる。真知寿は絵を描く以外のことには一向に興味を示さないが、不思議なことにそんな彼に惹かれる女性もいて、ちゃんと結婚してしまうから世の中捨てたもんではありません。素直な真知寿が画廊の辛らつな批判やアドバイスを真剣に受け入れて次々と努力を重ねるところは最後には感動してしまう。これほど学び向上することに熱心で素直なら普通はもっと才能が開花しそうなものだがそうならないところが真知寿の悲しさ。
中年になって娘が大きくなってもやっぱり絵は売れない。そして真知寿の絵はどんどん狂気じみてくる。彼は西洋絵画史を完璧にトレースしたような絵を次々と生み出す。ちょっとした美術好きなら、彼が模倣している画家が誰なのかすぐわかる。これまた噴飯ものであり、このあたりの北野武のお笑いのセンスには悲哀さえ漂う可笑しさ。誰が見てもすぐに分かる模倣作品ばかりをアートする真知寿の素直さについてくる妻・幸子もかなり狂っている。二人のアートはどんどん度を越し始め、とうとう命がけで作品を生み出すところまで自分を追い詰めていく真知寿だった……
青年時代を演じた柳憂怜が老けすぎていてちっとも青年に見えないところが苦しかったし、真知寿を演じた3人の役者がまったく似ていないというのも作品の完成度を下げる一因だ。しかし、北野はそんなことに頓着していない。主人公が涙ぐましい努力も水泡に帰するという艱難辛苦を経験しつつ、その困難を北野監督はシニカルに哂う。まさに芸術家の自嘲だ。
正気のまま段々おかしくなっていく真知寿の売れない人生になぜかわたしはのめりこむように惹かれた。主人公は決して笑わず、それどころかほとんど台詞もなく、だた黙々と絵を描いているだけなのに、ペーソス溢れるブラックな笑いに北野監督が持つダブルスタンダードな人生観がにじみ出ているようで、そこに弾かれていく。真知寿は売れないからといって荒れたりすさんだり暴力を振るったりしない。ひたすら努力を重ねていくのである。その姿は崇高ですらある。しかも家族が自分の犠牲になることすらいとわない。いったいこの売れない画家はどうなることやらと思っていたら、最後はほろりと泣かされた。宣伝惹句には夫婦愛が謳われていたが、狂気をも共有しようという妻の懐の深さは古典的な浪花節。能無しの夫に献身する妻なんていう、いまどき流行らない自己犠牲物語は、女性から見たら腹立たしいことこの上ない。とうとう献身妻も切れてしまう日が来るのだ。あったりまえよね。
映画の中に登場する多くの絵をいったい誰が描いたのだろうと思っていたのだが、クレジットを見てびっくり。すべて北野武の作品なのだ。なかなかの才能である(笑)。
北野武の、「これからもわがままを通すぞ」宣言みたいな映画でした。しかし、こういう究極の自己中はどこか憎めないから困ってしまう。
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アキレスと亀
日本、2008年、上映時間 119分
監督・脚本: 北野武、プロデューサー: 森昌行ほか、音楽: 梶浦由記
出演: ビートたけし、樋口可南子、柳憂怜、麻生久美子、中尾彬、伊武雅刀、大杉漣、筒井真理子、吉岡澪皇、円城寺あや、徳永えり、大森南朋
この映画は、創作者北野武の諦観と矜持と韜晦と開き直りの自伝的作品。映画の中ではやたら大勢の人が死ぬが、その死すら北野は笑い飛ばす。所詮人の命はこのように軽くばかばかしいものだといわんばかり。ご本人も昔交通事故で死にかけたし、彼独特の死の哲学があるのだろう。
主人公は倉持真知寿(くらもち・まちす)という売れない画家。10歳ぐらいの少年時代、青年時代、中年時代の3部仕立てでそれぞれ違う役者が演じる。少年時代がえらく時代がかっているものだから昭和戦前期かと勘違いしたくらい、ここに描かれている時代はレトロの香りぷんぷん。大金持ちのお坊ちゃま倉持真知寿は絵がうまいと誉めそやされて周りから特別視され、絵を描くこと以外には何も考えない子どもへと純粋培養されている。しかし父親の会社が倒産し(このあたりの描写も世界大恐慌かとわたしは勘違いした)、真知寿は叔父に引き取られ不遇な少年時代を送ることになる。
青年になった真知寿は相変わらず絵ばかり描いているが、いっこうに芽が出る気配がない。画廊へ持っていってもけんもほろろの扱いを受け、しかし「ちゃんと勉強しないとだめだ」といわれると働きながら美術学校へ通うようになる。真知寿は絵を描く以外のことには一向に興味を示さないが、不思議なことにそんな彼に惹かれる女性もいて、ちゃんと結婚してしまうから世の中捨てたもんではありません。素直な真知寿が画廊の辛らつな批判やアドバイスを真剣に受け入れて次々と努力を重ねるところは最後には感動してしまう。これほど学び向上することに熱心で素直なら普通はもっと才能が開花しそうなものだがそうならないところが真知寿の悲しさ。
中年になって娘が大きくなってもやっぱり絵は売れない。そして真知寿の絵はどんどん狂気じみてくる。彼は西洋絵画史を完璧にトレースしたような絵を次々と生み出す。ちょっとした美術好きなら、彼が模倣している画家が誰なのかすぐわかる。これまた噴飯ものであり、このあたりの北野武のお笑いのセンスには悲哀さえ漂う可笑しさ。誰が見てもすぐに分かる模倣作品ばかりをアートする真知寿の素直さについてくる妻・幸子もかなり狂っている。二人のアートはどんどん度を越し始め、とうとう命がけで作品を生み出すところまで自分を追い詰めていく真知寿だった……
青年時代を演じた柳憂怜が老けすぎていてちっとも青年に見えないところが苦しかったし、真知寿を演じた3人の役者がまったく似ていないというのも作品の完成度を下げる一因だ。しかし、北野はそんなことに頓着していない。主人公が涙ぐましい努力も水泡に帰するという艱難辛苦を経験しつつ、その困難を北野監督はシニカルに哂う。まさに芸術家の自嘲だ。
正気のまま段々おかしくなっていく真知寿の売れない人生になぜかわたしはのめりこむように惹かれた。主人公は決して笑わず、それどころかほとんど台詞もなく、だた黙々と絵を描いているだけなのに、ペーソス溢れるブラックな笑いに北野監督が持つダブルスタンダードな人生観がにじみ出ているようで、そこに弾かれていく。真知寿は売れないからといって荒れたりすさんだり暴力を振るったりしない。ひたすら努力を重ねていくのである。その姿は崇高ですらある。しかも家族が自分の犠牲になることすらいとわない。いったいこの売れない画家はどうなることやらと思っていたら、最後はほろりと泣かされた。宣伝惹句には夫婦愛が謳われていたが、狂気をも共有しようという妻の懐の深さは古典的な浪花節。能無しの夫に献身する妻なんていう、いまどき流行らない自己犠牲物語は、女性から見たら腹立たしいことこの上ない。とうとう献身妻も切れてしまう日が来るのだ。あったりまえよね。
映画の中に登場する多くの絵をいったい誰が描いたのだろうと思っていたのだが、クレジットを見てびっくり。すべて北野武の作品なのだ。なかなかの才能である(笑)。
北野武の、「これからもわがままを通すぞ」宣言みたいな映画でした。しかし、こういう究極の自己中はどこか憎めないから困ってしまう。
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アキレスと亀
日本、2008年、上映時間 119分
監督・脚本: 北野武、プロデューサー: 森昌行ほか、音楽: 梶浦由記
出演: ビートたけし、樋口可南子、柳憂怜、麻生久美子、中尾彬、伊武雅刀、大杉漣、筒井真理子、吉岡澪皇、円城寺あや、徳永えり、大森南朋