家族の崩壊と再生を描く映画は多い。黒沢清までとうとうそんな映画を作るようになったのか、とちょっとした驚きだった。黒沢清なんだから、普通の映画ではあるまい。確かに、ちょっと普通とは違う。通常のリアリティとは別のところでリアルなものを狙っている、というのはわかる。しかし、どうせならもっと日常から飛び出たすごさを見せてくれればよかったのに、中途半端に日常と非日常の間をさまようような作品を作ったものだから、消化不良で欲求不満に陥る。
この作品に登場する家族は、働き盛りの父と専業主婦の母、大学生の長男と小学6年生の次男という、ありふれた一家。いちおう一戸建てに住んではいるが、その家は小さく、線路沿いの窮屈な敷地に建つ。どうみても慎ましくも無理して建てた一戸建てという雰囲気が漂ってくる。そんな一家にある日、嵐のような出来事が次々と襲いかかる。父はリストラされて失業。しかし、そのことを家族に告げることができずに出勤するふりをして毎日ハローワークに通う。母はそんな夫のことを知ってか知らずか、閉塞した日常生活に嫌気がさしている様子だが、さりとて彼女にはどこにもここより他の行き場はないのだ。大学生の長男は夜中のバイトに精を出す毎日だが、ある日突然アメリカの軍隊に入ると言い出す。次男は近所のピアノ教室から流れてくる音楽を耳に留め、ピアノを習いたくてたまらず、とうとう親に内緒で給食費を月謝につぎ込む。
といった、波乱含みの佐々木さん一家。映画の調子はあくまでシリアスにリアルに。しかし、どこか破調のユーモアが漂う。そのユーモアがいい。ところが、役所広司扮する泥棒が現れたところからほとんど荒唐無稽な話へとなだれ込み始める。そもそも長男がアメリカの軍隊に入るだのイラクへ派遣されるだという設定もかなり驚きだが、まあ許すとして、しかし、そんなところでいきなり強盗っていうのはないだろう~? しかも強盗と一緒に逃避行ってか? なんでそんなところで離婚話が。なんでそこで交通事故が。なんでそこで警察だの留置場だのが…などなど、たった一つとっても普通の家庭にはそうそう起こりそうもない(しかし、一つ一つは別に珍しくもない)事件が一晩のうちに起きる。
家族を再生させるという物語のためにはそこまで非日常的な事件をいくつも重ねる必要があったのだろうか? そんな極端な設定がなければ家族はやり直せないのか? いっそ、筒井康隆ふうの荒唐無稽な話を雪だるま式に転がしていくようなホームドラマだったら納得できたのに、中途半端にリアルなものを狙っているから、<一夜の嵐>に唖然としてしまう。
とはいえ、実はラスト間近のクライマックスシーンでは思わず知らず涙が出てしまった。人はそれぞれの欲望に正直に生き、それぞれの身の丈にあった生活を慎ましく生きていれば、きっと何かいいことがある。それにしてもピアノの天才児などというのはそうそう存在しないものだから、これはやっぱり夢物語。この映画でいちばんリアリティがあったのは夕餉だ。ごく普通の家庭料理が並ぶ夕食は実に美味しそうで、家族が食べる料理がきちんと作られている場面を見るとほっとする。家族が一つの食卓を囲んで食べる場面は家族再生のもっとも象徴的な場面である。
それにしても、もはや父の権威など地に落ちた今、父はその権威の座から降りて正直に一人の家族として懸命に生きる姿を家族にさらすほうが幸せなのだ、とこの映画は語っている。今、家族を再生させるものは父の権威ではなかろう。さりとて、家族原理を何に求めるのか、その答えは判然としない。この映画はそれをただひとつ、「一家で囲む夕食」という単純な結論へと導いた。さて、この結論をこのまま素直に受け止めるべきか、それとも黒沢清一流のアイロニーと受けとめるべきか…。
この映画の中ではいくつかの権威が失墜し、造反が行われる。それは教師の権威であったり父親の権威であったり上司の権威であったり。そういった諸々の権威の失墜の後に音楽の才能という、本人の努力に関係のない(こともないけど)生まれながらの能力が一家に新しい幸せをもたらすというのはいかがなものか。せっかく失墜させた権威なのだから、これからは権威に頼らず皆で心を合わせてささやかな努力をすべきではなかろうか。権威の次は天才。夢があっていいと言うべきか、そのようなほとんどの人々にとって可能性のないものにすがることは新たな悲喜劇を生む素であると見るべきか…。ま、わたしも思わず感動してしまったから黒沢監督の術中に嵌ったと告白すべきか(^_^;)。
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トウキョウソナタ
日本/オランダ/香港、2008年、上映時間 119分
監督: 黒沢清、プロデューサー: 木藤幸江、ヴァウター・バレンドレクト、エグゼクティブプロデューサー: 小谷靖、マイケル・J・ワーナー 、脚本: マックス・マニックス、黒沢清、田中幸子、音楽: 橋本和昌
出演: 香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、井川遥、津田寛治、児嶋一哉、
役所広司
この作品に登場する家族は、働き盛りの父と専業主婦の母、大学生の長男と小学6年生の次男という、ありふれた一家。いちおう一戸建てに住んではいるが、その家は小さく、線路沿いの窮屈な敷地に建つ。どうみても慎ましくも無理して建てた一戸建てという雰囲気が漂ってくる。そんな一家にある日、嵐のような出来事が次々と襲いかかる。父はリストラされて失業。しかし、そのことを家族に告げることができずに出勤するふりをして毎日ハローワークに通う。母はそんな夫のことを知ってか知らずか、閉塞した日常生活に嫌気がさしている様子だが、さりとて彼女にはどこにもここより他の行き場はないのだ。大学生の長男は夜中のバイトに精を出す毎日だが、ある日突然アメリカの軍隊に入ると言い出す。次男は近所のピアノ教室から流れてくる音楽を耳に留め、ピアノを習いたくてたまらず、とうとう親に内緒で給食費を月謝につぎ込む。
といった、波乱含みの佐々木さん一家。映画の調子はあくまでシリアスにリアルに。しかし、どこか破調のユーモアが漂う。そのユーモアがいい。ところが、役所広司扮する泥棒が現れたところからほとんど荒唐無稽な話へとなだれ込み始める。そもそも長男がアメリカの軍隊に入るだのイラクへ派遣されるだという設定もかなり驚きだが、まあ許すとして、しかし、そんなところでいきなり強盗っていうのはないだろう~? しかも強盗と一緒に逃避行ってか? なんでそんなところで離婚話が。なんでそこで交通事故が。なんでそこで警察だの留置場だのが…などなど、たった一つとっても普通の家庭にはそうそう起こりそうもない(しかし、一つ一つは別に珍しくもない)事件が一晩のうちに起きる。
家族を再生させるという物語のためにはそこまで非日常的な事件をいくつも重ねる必要があったのだろうか? そんな極端な設定がなければ家族はやり直せないのか? いっそ、筒井康隆ふうの荒唐無稽な話を雪だるま式に転がしていくようなホームドラマだったら納得できたのに、中途半端にリアルなものを狙っているから、<一夜の嵐>に唖然としてしまう。
とはいえ、実はラスト間近のクライマックスシーンでは思わず知らず涙が出てしまった。人はそれぞれの欲望に正直に生き、それぞれの身の丈にあった生活を慎ましく生きていれば、きっと何かいいことがある。それにしてもピアノの天才児などというのはそうそう存在しないものだから、これはやっぱり夢物語。この映画でいちばんリアリティがあったのは夕餉だ。ごく普通の家庭料理が並ぶ夕食は実に美味しそうで、家族が食べる料理がきちんと作られている場面を見るとほっとする。家族が一つの食卓を囲んで食べる場面は家族再生のもっとも象徴的な場面である。
それにしても、もはや父の権威など地に落ちた今、父はその権威の座から降りて正直に一人の家族として懸命に生きる姿を家族にさらすほうが幸せなのだ、とこの映画は語っている。今、家族を再生させるものは父の権威ではなかろう。さりとて、家族原理を何に求めるのか、その答えは判然としない。この映画はそれをただひとつ、「一家で囲む夕食」という単純な結論へと導いた。さて、この結論をこのまま素直に受け止めるべきか、それとも黒沢清一流のアイロニーと受けとめるべきか…。
この映画の中ではいくつかの権威が失墜し、造反が行われる。それは教師の権威であったり父親の権威であったり上司の権威であったり。そういった諸々の権威の失墜の後に音楽の才能という、本人の努力に関係のない(こともないけど)生まれながらの能力が一家に新しい幸せをもたらすというのはいかがなものか。せっかく失墜させた権威なのだから、これからは権威に頼らず皆で心を合わせてささやかな努力をすべきではなかろうか。権威の次は天才。夢があっていいと言うべきか、そのようなほとんどの人々にとって可能性のないものにすがることは新たな悲喜劇を生む素であると見るべきか…。ま、わたしも思わず感動してしまったから黒沢監督の術中に嵌ったと告白すべきか(^_^;)。
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トウキョウソナタ
日本/オランダ/香港、2008年、上映時間 119分
監督: 黒沢清、プロデューサー: 木藤幸江、ヴァウター・バレンドレクト、エグゼクティブプロデューサー: 小谷靖、マイケル・J・ワーナー 、脚本: マックス・マニックス、黒沢清、田中幸子、音楽: 橋本和昌
出演: 香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、井川遥、津田寛治、児嶋一哉、
役所広司