ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「希望格差社会」再読のために『危険社会』を読む

2005年10月08日 | 読書
 9月7日のブログに書いた本書へのわたしのコメントは誤読ではないかというご指摘メールがあったので、再度、最終章だけ読み直してみた。

 この本は読んでいる途中でなんだか暗い気持ちになりとっても嫌な感じがして――そう、この感じは『負け犬の遠吠え』の読書中の感覚に近い――途中で多少飛ばし読みをしたために、最終章の処方箋の部分を<心を込めて>読んでいなかったようだ。

 で、「誤読」とまではおっしゃっていないが、ちょっと違うんじゃないかというメールをくださった原田達さん(HPは「研究室№203」)からのコメントを転記する。

>  かれの『家族というリスク』(勁草書房)には
>
> 「これからは、それぞれの子どもが、自分で具体的目標を設定し、それを
> 努力で実現するという生き方が、自己肯定感や希望を生みだすでしょう。
> その具体的目標はみんなが同じでなくてもいいのです。ボランティア活動
> でも、体験活動でも、子どもが望めば勉強でもかまいません。その子ど
> も子どもの個性と能力に合わせた目標設定ができるよう、親が適切な援
> 助と指導を与えること与えることがますます重要になっています」(p231)
>
> とありますから。そして、このような多元的で自由な意志の重視とそれへ
> の社会的援助という発想もまたベックの影響があると思います。
>
>  かれは、明確な処方箋を提示しませんが、これは社会学者としては
> 「正統な」スタンスだと思います。「意図と結果のパラドクス」が身にしみて
> いる社会学者は、社会政策論のような発想をなかなかしません(できま
> せん)。だから、かれは、これらの本の中で、事実や傾向を「価値判断」
> に囚われることなく叙述・分析しています。
>  こういうスタンスは、しばしば誤解されます。現状を「肯定」しているとい
> う風に。でも、かれはそうじゃないはずです。

 
 なるほど、『家族というリスク』は未読だが、ここに引用されている部分は確かに魅力的だ。
 
  さて、『希望格差社会』の結論部は概要以下のように書かれている。

 従来の公共政策(社会政策)は、大きな政府が金を集め再分配して福祉政策として生活保護や失業保険などのセーフティネットを構築して最低限の生活保障を行ってきた。この政策が不要になったわけではないが、リスク化や二極化によってやる気を失った人に希望をもたせることはできない。現在生じている問題は、経済的生活の問題以上に、心理的なものである。ではどうすればいいのか。リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的政策によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となる。


 山田さんは「二極化は避けられない現状」と認識しているようだ。それを前提に処方箋を書こうとしている。わたしはそこに納得できないものを感じている。夢もチボーもないやんか、と思うのだ。わたしのような夢想家はしょせんは政治家にも経済学者にも社会政策立案者にもなれないのだろう。宮台氏に観念サヨクと嘲笑されるだけなんだろうな。でも夢とか希望がないのは嫌だ。(←単なるわがままか?(^_^;))

 で、本文の最後に「逆年金制度」の導入を提唱されているのは、ユニークだと思った。老人に年金があるように、若者にも年金を、というわけ。自活できるようになるまで金を貸して、あとで返済させる制度だそうな。奨学金みたいなもんかな?

 山田さんが理論的に多くを負っているベックの『危険社会』に遡って読んでみることにした。ベックの本は「近代化」について述べたものだ。内容詳細とコメントは読了後に別エントリーで。

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