昨日は朝からからだがだるくて、午前中は読書タイムにしようと思ったのに、本を開いたままベッドで2時間爆睡。寝ながら読んでたのが悪かったのね、いけません、こういう行儀の悪いことをしては。
しかし、お昼ご飯を食べたあともやっぱり眠くてうつらうつら。やはり相当疲れているみたい。からだがだるくてしんどくて、脈拍は120/分も打っている。これはいつもの夏ばての徴候ではなかろうか?
で、ネットサーフィンしたりシネマ日記を更新したりしてちょっと頭を切り換えてからフィットネスクラブへ。昨日は簡単なストリートダンスをしたのだけれど、いかに簡単でもステップを間違えるのが中高年。情けなや。45分間ちょっとステップを踏んだだけで汗だくになってしまった。
マシントレーニングも少しだけ。
運動後しばらくして血圧を測ったら上が96、下が70ぐらいかな。運動後なのにこの低さでは、やはり夏は乗り切れないなぁ。血圧を下げる薬はあっても上げる薬はない。低血圧人間にとって夏はとってもつらい。
さて、前振りが長くなったけど、本日の御題は「フーコー月間のまとめ」。
最初の予定より4倍延びてずるずると続けてきたフーコー月間は、ここらでいったん打ち止めにしたい。『言葉と物』や、他にも読み残した文献は多いが、またの機会にゆるゆると読みたい。フーコーは逃げないし。
フーコー入門書としては本書がこれまでで一番おもしろかったのではなかろうか。フーコーの死から記述を始めている本書は、その死がエイズによるものであるという噂をめぐってまずは語り始める。
そして、フーコーの伝記と著作の紹介が年代順に並ぶ。伝記的事実と著作の内容解説がたいへんバランスよく配置され、そのときどきのフーコーの問題意識、彼への評価・批判、さらにフーコーのリアクション、といったものがたいへんわかりやすい。
本書の終章(第7章)で著者桜井哲夫さんは「ひとはなぜフーコーにひかれるのか」と問うている。常識を揺るがし、時代に否(ノン)と言った反逆児、ゲイであることの苦悩から出発する学問への姿勢に、人々が共感したからか。
その答を著者は自らの経験を語ることによって導く。フーコーのおかげで「自由」になれた、と。
フーコーは、確かに学問の世界で秀才であったろう。だが、彼の偉大さは、秀才であることをやめた点にある。秀才は、与えられた秩序のなかで模範解答を提示するにすぎない。フーコーが、既存秩序や常識からの逸脱に先立って得た直感は、彼の親友であるポール・ヴェーヌの言葉によれば、「希薄さ、空白の多さ」だった。(p292)
ヴェーヌのこの指摘は、フーコーの仕事の本質をついている。つまり、
フーコーは、歴史の恣意性を直感したことで、自由になったのである。どのような問題関心にも存在理由はある。まったく無意味な疑問というものは存在しない。どのような疑問からも出発しうる。子どもの素朴な疑問も、練達の歴史家の疑問も同じ価値を持つ。違いはない。あらゆるものを疑い、空白を見いだし、その空白をつなげることで、一つ一つの疑問の答えが浮かびあがってくるだろう」。(p293)
「外への思考」へと逃れ続けたフーコーは既存の秩序から自由でありえた。そして秩序のなかで不安を抱えながらいきる人々に鮮烈な印象とメッセージを与えたのだ。
フーコーはゲイであることの苦しみから学問を問うた。個人の苦しみと問い掛けが世界そのものへの問いに開かれている。なぜ自分が苦しまねばならないのか、を問い、フーコーの歴史への旅は始まった。
ただ、フーコーをあがめ奉るような風潮はもっともフーコー自身が嫌ったことだ。われわれは「フーコー主義」なるものを作ってはならない。
フーコーが提示したことは、自らの生き方、自らの人生行路を考え、突き詰めてゆくことが、世界を解釈する道筋へとつながるという確信なのである。どのような学問研究も、実は一人一人の内面の探求からこそ始まるものなのだ。(p298)
以上が、桜井さんの結論部分の要約。しかし、世界はほんとうに解釈されるのを待っているのだろうか?
いずれにせよ、フーコーは魅力的だ。わたしたちに「価値」や「倫理」が普遍ではありえないことを教えてくれた。「普遍」とは何かを疑うことを教えてくれた。そして、「権力」に苦しめられ息が詰まる思いに閉塞するわたしたちに「権力」のありかを教えてくれた。自分自身もが「権力」の一部であることに気づかされたのだ。
これからもまたフーコーをひもときたい。
<書誌情報>
フーコー : 知と権力 / 桜井哲夫著. -- 講談社, 2003. -- (現代思想の冒険者たちSelect)
しかし、お昼ご飯を食べたあともやっぱり眠くてうつらうつら。やはり相当疲れているみたい。からだがだるくてしんどくて、脈拍は120/分も打っている。これはいつもの夏ばての徴候ではなかろうか?
で、ネットサーフィンしたりシネマ日記を更新したりしてちょっと頭を切り換えてからフィットネスクラブへ。昨日は簡単なストリートダンスをしたのだけれど、いかに簡単でもステップを間違えるのが中高年。情けなや。45分間ちょっとステップを踏んだだけで汗だくになってしまった。
マシントレーニングも少しだけ。
運動後しばらくして血圧を測ったら上が96、下が70ぐらいかな。運動後なのにこの低さでは、やはり夏は乗り切れないなぁ。血圧を下げる薬はあっても上げる薬はない。低血圧人間にとって夏はとってもつらい。
さて、前振りが長くなったけど、本日の御題は「フーコー月間のまとめ」。
最初の予定より4倍延びてずるずると続けてきたフーコー月間は、ここらでいったん打ち止めにしたい。『言葉と物』や、他にも読み残した文献は多いが、またの機会にゆるゆると読みたい。フーコーは逃げないし。
フーコー入門書としては本書がこれまでで一番おもしろかったのではなかろうか。フーコーの死から記述を始めている本書は、その死がエイズによるものであるという噂をめぐってまずは語り始める。
そして、フーコーの伝記と著作の紹介が年代順に並ぶ。伝記的事実と著作の内容解説がたいへんバランスよく配置され、そのときどきのフーコーの問題意識、彼への評価・批判、さらにフーコーのリアクション、といったものがたいへんわかりやすい。
本書の終章(第7章)で著者桜井哲夫さんは「ひとはなぜフーコーにひかれるのか」と問うている。常識を揺るがし、時代に否(ノン)と言った反逆児、ゲイであることの苦悩から出発する学問への姿勢に、人々が共感したからか。
その答を著者は自らの経験を語ることによって導く。フーコーのおかげで「自由」になれた、と。
フーコーは、確かに学問の世界で秀才であったろう。だが、彼の偉大さは、秀才であることをやめた点にある。秀才は、与えられた秩序のなかで模範解答を提示するにすぎない。フーコーが、既存秩序や常識からの逸脱に先立って得た直感は、彼の親友であるポール・ヴェーヌの言葉によれば、「希薄さ、空白の多さ」だった。(p292)
ヴェーヌのこの指摘は、フーコーの仕事の本質をついている。つまり、
フーコーは、歴史の恣意性を直感したことで、自由になったのである。どのような問題関心にも存在理由はある。まったく無意味な疑問というものは存在しない。どのような疑問からも出発しうる。子どもの素朴な疑問も、練達の歴史家の疑問も同じ価値を持つ。違いはない。あらゆるものを疑い、空白を見いだし、その空白をつなげることで、一つ一つの疑問の答えが浮かびあがってくるだろう」。(p293)
「外への思考」へと逃れ続けたフーコーは既存の秩序から自由でありえた。そして秩序のなかで不安を抱えながらいきる人々に鮮烈な印象とメッセージを与えたのだ。
フーコーはゲイであることの苦しみから学問を問うた。個人の苦しみと問い掛けが世界そのものへの問いに開かれている。なぜ自分が苦しまねばならないのか、を問い、フーコーの歴史への旅は始まった。
ただ、フーコーをあがめ奉るような風潮はもっともフーコー自身が嫌ったことだ。われわれは「フーコー主義」なるものを作ってはならない。
フーコーが提示したことは、自らの生き方、自らの人生行路を考え、突き詰めてゆくことが、世界を解釈する道筋へとつながるという確信なのである。どのような学問研究も、実は一人一人の内面の探求からこそ始まるものなのだ。(p298)
以上が、桜井さんの結論部分の要約。しかし、世界はほんとうに解釈されるのを待っているのだろうか?
いずれにせよ、フーコーは魅力的だ。わたしたちに「価値」や「倫理」が普遍ではありえないことを教えてくれた。「普遍」とは何かを疑うことを教えてくれた。そして、「権力」に苦しめられ息が詰まる思いに閉塞するわたしたちに「権力」のありかを教えてくれた。自分自身もが「権力」の一部であることに気づかされたのだ。
これからもまたフーコーをひもときたい。
<書誌情報>
フーコー : 知と権力 / 桜井哲夫著. -- 講談社, 2003. -- (現代思想の冒険者たちSelect)