わたしが読んでいるのはこの写真の新装版じゃなくて1987年に出版された初版のほうだ。ま、中身はおんなじなんだろうけど。
これは入門書なんていう生易しいものではなく、読んだらよけいに訳が分からなくなるシロモノだ。フーコーの著作を読んでからでないとさっぱり理解できない。読んでいてもかなり難しい。
フーコーが亡くなってからドゥルーズはフーコーへの賛辞を込めてこの本を書いた。
まず第一章はほとんどすっ飛ばし。例の難解で知られる華麗なる修辞の『言葉と物』についての論など、いったい何を言っているのか、宇宙語みたい(涙)。ここを読みこなすにはソシュール言語学の知識がなければ無理だ(と思う、たぶん)。
わからないと言いつつ、ちょっと引用してわかったつもりになろう。
『言葉と物』においてフーコーは、問題なのは物でも言葉でもない、と説明している。また、対象も主体もやはり問題ではないのである。さらに、文も命題も、文法的、論理的、あるいは意味論的な分析も問題ではない。言表は、言葉と物との総合でなく、文や命題の組み合せでもなく、むしろ反対に、言表を暗黙のうちに前提とする文や命題に先行するものであり、言葉と対象を形成するものなのである。……『狂気の歴史』において彼はまだ、素朴な物の状態と命題との間の二元性におさまってしまうような狂気の「経験」にあまりにも依存しすぎた。『臨床医学の誕生』では、彼はまだ、対象的領野に対して、あまりにも固定的とみなされる主体の統一的な形態を前提とする「医学的視線」について語った。
……
そして『考古学』の結論は、革命的な実践と一体であるべき、様々な生産の一般理論への呼びかけでなくて何だろうか。この理論において、行動する「言説」は、私の生と私の死に無関心な、ある「外」の要素において形成されるのだ。なぜなら言説的形成は真の実践であり、その言語は、普遍的なロゴスではなく、突然変異を推進し、またときにはそれを表現することもある致命的な言語なのだから。(p26)
して、第2章「新しい地図作成者」。
これはちょっとはおもしろかった。1975年の『監獄の誕生』においてフーコーは新しい権力論を生み出した。それまでのマルクス主義権力論が権力=国家権力=悪、という単純な図式しか描かなかったのに対して、フーコーは「権力は所有するものではなく、むしろ実践されるものであり、支配階級が獲得したり、保存したりする特権ではなく、その様々な戦略的位置の総体の効果なのだ」と看破した。このことをドゥルーズは
この新しい機能主義、機能的分析は、決して、階級や闘争の存在を否定するものではなく、伝統的な歴史、あるいはマルクス主義的な歴史によってさえ私たちがなじみなっているのとは全く別の風景、別の人物、別の過程によって、階級や闘争の、別の光景を成立させるものである。 (p44)
と評価する。「権力は等質性をもたず、様々な特異性によって、それが経由する特異点によって定義される」
権力は本質をもたず、操作的なもの。属性ではなく関係なのだ。
近代社会が規律社会であることを示したフーコーは、その規律が下部構造のみによって規定されるものではないと言っている。マルクス主義的な解釈によれば、上部構造は下部構造に規定されることになっているが、そのような下部構造一元回帰論では権力をとらえられない。
フーコーは、権力があらゆる領野の碁盤割りを実現する近代規律社会について説明するときに「ダイヤグラム」概念を持ち出す。そのモデルは「ペスト」である。いっぽう、古代王権社会のダイヤグラムはハンセン病がモデルだ。碁盤割りにするよりも追放することを目指す。
※メモ※
ドゥルーズがフーコーから引き出したものは多面的で数多く、とても短くまとめられない。読み直してみるととてもおもしろい論考なので、これはまたいずれ再読しよう。
ドゥルーズがフーコーを分析するときのキーワードは
言表と可視性だ。この二つの概念はそれほど単純なものではない。どちらも相反するものであり、かつわたしたち人間は知を形成するときにこの二つに依存し、この二つを融合させる。簡単に言えばこの二つは「言語と非言語」なのだが、言語は言表に対して外部であり、光は可視性に対して外部である。
<目次>
前書き
古文書(アルシーヴ)からダイアグラムへ
新しい古文書学者(『知の考古学』)
新しい地図作成者(『監獄の誕生』)
トポロジー、「別の仕方で考えること」
地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの(知)
戦略あるいは地層化されないもの、外の思考(権力)
褶曲あるいは思考の内(主体化)
付記――人間の死と超人について
訳注
解説
<書誌情報>
フーコー / ジル・ドゥルーズ著 ; 宇野邦一訳 : 新装版.河出書房新社, 1999
これは入門書なんていう生易しいものではなく、読んだらよけいに訳が分からなくなるシロモノだ。フーコーの著作を読んでからでないとさっぱり理解できない。読んでいてもかなり難しい。
フーコーが亡くなってからドゥルーズはフーコーへの賛辞を込めてこの本を書いた。
まず第一章はほとんどすっ飛ばし。例の難解で知られる華麗なる修辞の『言葉と物』についての論など、いったい何を言っているのか、宇宙語みたい(涙)。ここを読みこなすにはソシュール言語学の知識がなければ無理だ(と思う、たぶん)。
わからないと言いつつ、ちょっと引用してわかったつもりになろう。
『言葉と物』においてフーコーは、問題なのは物でも言葉でもない、と説明している。また、対象も主体もやはり問題ではないのである。さらに、文も命題も、文法的、論理的、あるいは意味論的な分析も問題ではない。言表は、言葉と物との総合でなく、文や命題の組み合せでもなく、むしろ反対に、言表を暗黙のうちに前提とする文や命題に先行するものであり、言葉と対象を形成するものなのである。……『狂気の歴史』において彼はまだ、素朴な物の状態と命題との間の二元性におさまってしまうような狂気の「経験」にあまりにも依存しすぎた。『臨床医学の誕生』では、彼はまだ、対象的領野に対して、あまりにも固定的とみなされる主体の統一的な形態を前提とする「医学的視線」について語った。
……
そして『考古学』の結論は、革命的な実践と一体であるべき、様々な生産の一般理論への呼びかけでなくて何だろうか。この理論において、行動する「言説」は、私の生と私の死に無関心な、ある「外」の要素において形成されるのだ。なぜなら言説的形成は真の実践であり、その言語は、普遍的なロゴスではなく、突然変異を推進し、またときにはそれを表現することもある致命的な言語なのだから。(p26)
して、第2章「新しい地図作成者」。
これはちょっとはおもしろかった。1975年の『監獄の誕生』においてフーコーは新しい権力論を生み出した。それまでのマルクス主義権力論が権力=国家権力=悪、という単純な図式しか描かなかったのに対して、フーコーは「権力は所有するものではなく、むしろ実践されるものであり、支配階級が獲得したり、保存したりする特権ではなく、その様々な戦略的位置の総体の効果なのだ」と看破した。このことをドゥルーズは
この新しい機能主義、機能的分析は、決して、階級や闘争の存在を否定するものではなく、伝統的な歴史、あるいはマルクス主義的な歴史によってさえ私たちがなじみなっているのとは全く別の風景、別の人物、別の過程によって、階級や闘争の、別の光景を成立させるものである。 (p44)
と評価する。「権力は等質性をもたず、様々な特異性によって、それが経由する特異点によって定義される」
権力は本質をもたず、操作的なもの。属性ではなく関係なのだ。
近代社会が規律社会であることを示したフーコーは、その規律が下部構造のみによって規定されるものではないと言っている。マルクス主義的な解釈によれば、上部構造は下部構造に規定されることになっているが、そのような下部構造一元回帰論では権力をとらえられない。
フーコーは、権力があらゆる領野の碁盤割りを実現する近代規律社会について説明するときに「ダイヤグラム」概念を持ち出す。そのモデルは「ペスト」である。いっぽう、古代王権社会のダイヤグラムはハンセン病がモデルだ。碁盤割りにするよりも追放することを目指す。
※メモ※
ドゥルーズがフーコーから引き出したものは多面的で数多く、とても短くまとめられない。読み直してみるととてもおもしろい論考なので、これはまたいずれ再読しよう。
ドゥルーズがフーコーを分析するときのキーワードは
言表と可視性だ。この二つの概念はそれほど単純なものではない。どちらも相反するものであり、かつわたしたち人間は知を形成するときにこの二つに依存し、この二つを融合させる。簡単に言えばこの二つは「言語と非言語」なのだが、言語は言表に対して外部であり、光は可視性に対して外部である。
<目次>
前書き
古文書(アルシーヴ)からダイアグラムへ
新しい古文書学者(『知の考古学』)
新しい地図作成者(『監獄の誕生』)
トポロジー、「別の仕方で考えること」
地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの(知)
戦略あるいは地層化されないもの、外の思考(権力)
褶曲あるいは思考の内(主体化)
付記――人間の死と超人について
訳注
解説
<書誌情報>
フーコー / ジル・ドゥルーズ著 ; 宇野邦一訳 : 新装版.河出書房新社, 1999