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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

フーコー入門書読み比べ(2)

2005年03月13日 | 読書
 わたしが読んでいるのはこの写真の新装版じゃなくて1987年に出版された初版のほうだ。ま、中身はおんなじなんだろうけど。

 これは入門書なんていう生易しいものではなく、読んだらよけいに訳が分からなくなるシロモノだ。フーコーの著作を読んでからでないとさっぱり理解できない。読んでいてもかなり難しい。
 フーコーが亡くなってからドゥルーズはフーコーへの賛辞を込めてこの本を書いた。

 まず第一章はほとんどすっ飛ばし。例の難解で知られる華麗なる修辞の『言葉と物』についての論など、いったい何を言っているのか、宇宙語みたい(涙)。ここを読みこなすにはソシュール言語学の知識がなければ無理だ(と思う、たぶん)。

 わからないと言いつつ、ちょっと引用してわかったつもりになろう。

 『言葉と物』においてフーコーは、問題なのは物でも言葉でもない、と説明している。また、対象も主体もやはり問題ではないのである。さらに、文も命題も、文法的、論理的、あるいは意味論的な分析も問題ではない。言表は、言葉と物との総合でなく、文や命題の組み合せでもなく、むしろ反対に、言表を暗黙のうちに前提とする文や命題に先行するものであり、言葉と対象を形成するものなのである。……『狂気の歴史』において彼はまだ、素朴な物の状態と命題との間の二元性におさまってしまうような狂気の「経験」にあまりにも依存しすぎた。『臨床医学の誕生』では、彼はまだ、対象的領野に対して、あまりにも固定的とみなされる主体の統一的な形態を前提とする「医学的視線」について語った。
 ……
 そして『考古学』の結論は、革命的な実践と一体であるべき、様々な生産の一般理論への呼びかけでなくて何だろうか。この理論において、行動する「言説」は、私の生と私の死に無関心な、ある「外」の要素において形成されるのだ。なぜなら言説的形成は真の実践であり、その言語は、普遍的なロゴスではなく、突然変異を推進し、またときにはそれを表現することもある致命的な言語なのだから。(p26)


 して、第2章「新しい地図作成者」。

 これはちょっとはおもしろかった。1975年の『監獄の誕生』においてフーコーは新しい権力論を生み出した。それまでのマルクス主義権力論が権力=国家権力=悪、という単純な図式しか描かなかったのに対して、フーコーは「権力は所有するものではなく、むしろ実践されるものであり、支配階級が獲得したり、保存したりする特権ではなく、その様々な戦略的位置の総体の効果なのだ」と看破した。このことをドゥルーズは

 この新しい機能主義、機能的分析は、決して、階級や闘争の存在を否定するものではなく、伝統的な歴史、あるいはマルクス主義的な歴史によってさえ私たちがなじみなっているのとは全く別の風景、別の人物、別の過程によって、階級や闘争の、別の光景を成立させるものである。 (p44)

 と評価する。「権力は等質性をもたず、様々な特異性によって、それが経由する特異点によって定義される」

 権力は本質をもたず、操作的なもの。属性ではなく関係なのだ。

 近代社会が規律社会であることを示したフーコーは、その規律が下部構造のみによって規定されるものではないと言っている。マルクス主義的な解釈によれば、上部構造は下部構造に規定されることになっているが、そのような下部構造一元回帰論では権力をとらえられない。

フーコーは、権力があらゆる領野の碁盤割りを実現する近代規律社会について説明するときに「ダイヤグラム」概念を持ち出す。そのモデルは「ペスト」である。いっぽう、古代王権社会のダイヤグラムはハンセン病がモデルだ。碁盤割りにするよりも追放することを目指す。

 ※メモ※
 ドゥルーズがフーコーから引き出したものは多面的で数多く、とても短くまとめられない。読み直してみるととてもおもしろい論考なので、これはまたいずれ再読しよう。
 ドゥルーズがフーコーを分析するときのキーワードは
 言表と可視性だ。この二つの概念はそれほど単純なものではない。どちらも相反するものであり、かつわたしたち人間は知を形成するときにこの二つに依存し、この二つを融合させる。簡単に言えばこの二つは「言語と非言語」なのだが、言語は言表に対して外部であり、光は可視性に対して外部である。 


<目次>

前書き

古文書(アルシーヴ)からダイアグラムへ
 新しい古文書学者(『知の考古学』)
 新しい地図作成者(『監獄の誕生』)

トポロジー、「別の仕方で考えること」
 地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの(知)
 戦略あるいは地層化されないもの、外の思考(権力)
 褶曲あるいは思考の内(主体化)

付記――人間の死と超人について

訳注
解説


<書誌情報>

フーコー / ジル・ドゥルーズ著 ; 宇野邦一訳 : 新装版.河出書房新社, 1999

フーコー入門書読み比べ(1)

2005年02月26日 | 読書
 『フーコー入門』は簡にして要を得た優れものの入門書だ。
 フーコーの伝記にはほとんど触れず、著作を刊行年順に追うクロニクル形式で、かつそれぞれの内容紹介や解釈もわかりやすい。
 フーコーの思想が変化していく様をよくつかんで描いてあると同時に、フーコーが生涯変わらず追い求めた「権力からの解放、自由」というテーマが浮き上がるようになっている。このひとの文章は読みやすいので、フーコーの著作と同時並行して読むと理解の助けとなる。

<書誌情報>

フーコー入門 / 中山元著. -- 筑摩書房, 1996. -- (ちくま新書 ; 071)



次に、最近出た本。こちらはフーコーの伝記から始まる。わたしは思想家の(だけじゃないけど)伝記には興味があるので、こちらの方が気に入っている。文体も「ですます」体で親しみやすい。

 第1章を読むと、フーコーの伝記を映画にしたらおもしろいんじゃないかと空想がかけめぐる。主演は誰かな、とか脚本はどうしよう、こういう科白とこういう場面を入れて……と勝手な想像がふくらんでいく。

哲学者の仕事というのは一人ではできないものだ。フーコーも多くの人に支持され刺激を受けて歴史に残るような研究ができたわけだ。フランス思想界は狭い世界で(フランスだけではないかも)、その中で反目したり協力したり、なかなかこの人脈が華麗で、興味をそそられる。

 サルトルとの反目と協力、デリダとの論争と協力、ドゥルーズとの共闘・友愛、アルチュセールの支持と友情、などなど彼らがいかに思想を互いに切磋し彫琢していったのか、その跡を見るのがおもしろい。もちろん本書は入門書なので、そういった知の系譜については必要最小限しか触れられていないのはちょっと残念。

 第2章ではとりわけ「パレーシア」(真理を率直に語ること)という概念が丁寧に解説されている。フーコーの最晩年の思考はこの「パレーシア」の分析にあてられていた。フーコーはエイズにかかって死ぬ直前まで大学で講義を続けていて、その講義録が出版されているのだけれど、この人は自分の既発表論文をまとめて本にするという形式をとらなかった珍しい学者だそうだ。生きている間に出した本はみな書き下ろし。すごいね、これ。その他はインタビュー集などを出しているけど、フーコー死後に講義録が出版されている。未完の本も印刷ゲラがあるという噂とか。

 さて、そのパレーシアを分析することにより、フーコーは西洋における主体の変遷を探求する。古代ギリシャにおける主体と、スコラ哲学全盛時代の主体、そしてキリスト教支配下の主体とがいかに異なるかを、「真理を語ること」の方向性の違いで説明する。このあたりの解説はたいへん丁寧でわかりやすい。

 ソクラテスの時代には、自己にとって大切なことは真実を語ること、それも権力者や大衆の堕落や不道徳を厳しく指摘することであった。要するにひたすら他人を批判するのね。ふーん。でもそれは命がけの正義だったのだ。だからソクラテスは人々に嫌われて殺されてしまう。

 2世紀ごろのストア派の倫理の基本的原則は自己の意志に依存しているものだけが善と悪にかかわり、それ以外のものは善悪無記であることをくりかえし記憶し、それを点検することにある。自己への主権を確立するために不断の訓練を繰り返す。そのために「散歩」する! 哲学者って散歩する人だったのね(・o・)
 禁欲するのも鍛錬するのも、理想的な自己に近づき主体が自己を享受できるようにするためだったのだ。

 それに対し、キリスト教の伝統のもとでは自己は否定的にとらえられる。キリスト教では権力者に対して自己の真実を告解することによって、権力に服従する主体を作り上げることが正しいありかたとされる。弟子は師匠に自分の罪を告白し、自己を放棄して服従するのだ。それが徳が高いということ。こういうのは修道院で厳しく躾けられた。どんなに理不尽な命令でも師匠の命には疑問を差し挟まずに服従する。それが「あんたはエライ!」と褒め称えられる行為。(やだねぇー)


 この本はお薦めだ。ほんと、初めて読むにはぴったり。

第一章 ミシェル・フーコーの生涯
1 懊悩する青年 一九二六~六〇
2 『狂気の歴史』『言葉と物』の反響 一九六一~七〇
3 闘う知識人の旗手として 一九七〇~八四

第二章 ミシェル・フーコーの思想 狂気・真理・権力・主体
1 狂気――理性の他者
2 真理――その条件と系譜
3 権力――生の権力
4 主体――その桎梏

第三章 ミシェル・フーコーの著作
1 著書
2 講義録
3 インタビュー、評論など
ミシェル・フーコー略年譜
あとがき


<書誌情報>

はじめて読むフーコー / 中山元著. -- 洋泉社, 2004. -- (新書y ; 104)



『感じない男 』

2005年02月19日 | 読書
 大学教師がこういう赤裸々告白本を書いた勇気に拍手すべきなのか、奇を衒ったトンデモ本と酷評すべきなのか。もちろんわたしは前者の側なのだが、毀誉褒貶が激しくわかれそうな、あるいはまたまったく無視される可能性も高い本だ。

 男のセクシャリティを一人称で語りその問題点をえぐるという試みは、自己を深く洞察するその刃がそのまま読者にも鋭く突きつけられることを意味する。「私はこうだ。あなたはどうなんだ?」という問いかけにたじろぐ読者も多いのではないか。著者の真面目な問いに真摯に対峙しようとすればするほど読者もまた痛みを感じてしまう。

 ロリコンや制服フェチなどの現代の病理を分析し、性犯罪を抑止しようという森岡さんの試みは、「なぜ私は」少女に欲情し制服を偏愛するのかを自問自答することから始まる。そして、自分自身についてのケーススタディを一般化できないと断りつつ、かなりの割合でロリコン男に共通の心理が働いているのではないかと帰納する。

なぜ学校の制服に欲情するのか、なぜスチュワーデスやOLの制服ではないのか、と森岡さんは推理と分析を進める。そして、ロリコンや制服フェチの病巣がどこにあるのかを探っていく過程はスリリングでぐっと読ませるものがある。

 本書の大部分を貫く「不感症男」としての自己否定感・悲壮感は、わたしの同情をそそってしまう。読んでいるうちにどんどん森岡さんがかわいそうになってくるのだ。森岡さんは自分自身を対象に分析を進めるため、読者は男一般への同情や驚異よりむしろ、森岡正博その人への興味や同情を強くしてしまう。

 著者によれば、若い頃の性的劣等感や不快感が「自分のからだを愛せない男」をつくってしまい、その気持ちは「感じる女」への嫌悪感にまで結びついてしまうという。森岡さんが大学に入って最初に受けた性的アプローチはゲイの男性からだった。以降、しばしばゲイの男性から「狙われる存在」である自分に恐怖と嫌悪を感じ、自己改造を試みる。狙われる男から狙う男へ。マッチョな男への変身。こうしてできた「感じない男」。これがいま、レイプや少女買春などさまざまな歪みを社会の中にもたらしているという。

 「感じない男」とは、「男の不感症」や「自己否定」を自分の中に隠し持っておりながら、そのこからできるだけ目をそらそうとし、あたかもそんなものは存在しないかのようにふるまっている男のこと(p158)

 不感症とはつまり、「小便のような射精とそのあとの空虚な感じ」(p161)に陥る感覚のことだ。射精のあと、セックスの昂奮もあっという間に冷めて空しい気持ちに陥ってしまうこと。女性に比べてほとんどなんの快感も性交からは得ていない。排泄と同じくらいの気持ちよさしかない、という。

 こういう本を読むとついつい世のすべての男性に訊いてみたくなる、「あなたは不感症ですか」と。自分を等閑視しない著者の態度がそうさせるのだろう、やはり男の読者は自分に引きつけて読むようだ。たとえば曽根朗さんも本書を読みながらご自分の性体験を振り返ってしまったという。

 惜しむらくはこの本にユーモアが欠けていることだ。読みやすくて軽い本であるにもかかわらず、内容は決して軽くももちろん明るくもない。自身のセクシャリティを笑い飛ばせる余裕が森岡さんにあれば、と思う。もう不感症であることを悩まない、そんなことを気にしないというところまでやっとたどり着いたという著者にそこまで求めるのは酷なのだろうが、もし森岡さんが不感症を笑えるようになったら、わたしも遠くから密かに一緒に笑ってあげたい。そんな気持ちにさせる読後感のある本だ。

 夫にも一読を薦めたところ、「よくこんな本を書いたなあ」と感心していたが、ときどき「あはは」と声を出して笑うので、不審に思った。わたしはこんなに著者が悩みながら書いた本を読んで笑う人がいるなんて不思議だったのだが、夫は冷めた目で見ているから笑えるみたい。

 いずれにしても、この分野の分析はいま始まったばかり、という気がする。森岡さんの分析が正しいのかどうかは専門家がこれから批評してくれるだろうが、これを読む素人の女性であるわたしは、「不感症男」がかわいそうだと思う反面、そんなことで女を憎むなよ、とも思うし、もっといえば、「女だって不感症なんだよ、ほんとは」と教えてあげたい。
 感じてるフリをしている女性はいくらでもいるだろうし、感じないでおこうと思えばいくらでも感じないでセックスするのは可能だし。そんなものは自己暗示なんだと思うけど……


 それにしてもセックス。たかがセックス。もっと軽く考えられないのかなあ、すごく不思議だ。この本の内容はいま読書中のフーコー『性の歴史』第1巻をどうしても想起させる。性にまつわる言説は権力の本質に関係する。だからこそ、たかがセックスなのに、されどセックスなのだ。

 引き続き考えてみたい。

10年後の原爆漫画

2005年02月15日 | 読書
 たいへん短い漫画で、30分もかからずに全部読めるからぜひいろんな人に読んでもらいたい。

 戦争の実相が輻輳的であるのと同じように、被爆体験も被爆者の数だけある。そして、原爆の悲劇は一瞬で終わるのではない。
 「夕凪の街」は、被爆後10年も経ってからおとずれる後遺症の悲劇を描く。画調はやさしく細かい。レトロな雰囲気のする暖かい筆遣いだ。そして、淡々と静かに、一人の若い女性の死を描く。

 生き残った者の傷。生きていることの罪悪感。これは戦火を生き延びた人々を長らく苦しめたトラウマだ。そのトラウマを日々背負いながら、それでもやっぱり生き延びたことを喜び、そして未来へ繋ごうとしていた乙女は、貧しくても懸命に生きていた。いや、貧しいからこそ懸命に生きていた。

 その「生」を無残に引きちぎる原爆後遺症。ほのかな恋も、母へのいたわりも、亡くした家族への思いも、すべてを連れ去る「死」は彼女を迎えにやってくる。

 戦火を何一つ知らないわたしは、わたしたちは、この作品を読んで静かに涙を流す。号泣ではなく、ぽろりと一粒だけ。
 涙は一粒だけ。
 
 原爆を落とした人たちは、10年経って一人の女をまた殺したことを喜んでいるだろうか。これがトルーマン大統領の言葉どおり、神の使命に叶うことだったのだろうか。

 淡々と静かに語られた原爆のその後の物語だ。物語はこうして語り継がれる。いつまで語り継がねばならないのだろう?

映画「アトミック・カフェ」もぜひ合わせてご覧ください。
「アトミック・カフェ」評はここhttp://www.eonet.ne.jp/~ginyu/050210.htm

<書誌情報>

夕凪の街 桜の国 / こうの史代著 双葉社 2004

保苅さんの本、三度

2005年02月13日 | 読書
同じ本について3度も書くのは初めて。
よっぽどこの本は衝撃が強かったのだろう。

中国経済論専攻のkaikaji(梶谷懐)さんのブログを読んでかなりいいヒントを与えて頂いた。

じつは梶谷さんのbk1書評はよく読んでいたのだが、厳しい評が多くて、「研究者はこんなふうに厳しく読むんだなあ」と常々感じていた。わたしは自分自身が無知なのでたいていどんな本を読んでも「いいことが書いてある」と思ってしまうのだけど、この厳しさはどこに由来するのだろうとふと考えた。

それと同時に、保苅さんのこの本がどんなに欠点をいくつももっていようが素晴らしいものであることは否定できないと思うので、わたしは絶賛するのだが、それに対して梶谷さんの次の言葉にはっとした。

<<この本についてはネット上でもすでにいくつか書評が発表されているけど、そのほとんどが、絶賛というより個人的な思い入れを過剰なほど前面に出した書き方になっているのが印象的だ。その気持ちは確かにわからないではない。ただ、僕が思うのはそうやってこの本が一種の神格化の対象となってしまうことは多分この本の著者が一番望んでいないだろう、ということだ。

人が「歴史と記憶」の問題について好んで語ろうとするのは決まって戦争や「国民の歴史」が絡んでくる時であり、それがいつもこの問題に政治的な色合いを与えてしまう。しかし、そういった政治的な思惑を一旦離れた「実在」というものに関する純粋に哲学的な探求として、例えば「経験」に対して真摯なラディカルなオーラル・ヒストリアンと科学的「実在」に対して真摯な科学哲学者との間に対話は可能なのではないか、そこに何か大きな可能性が見出せるのではないか>>


そして、これはわたしが梶谷さんのブログのコメントにも書いたことだが、本書についての不満点や限界点は以下のようなところにあると感じる。
それはすなわち、「歴史の普遍性」「実証主義」などといった言葉について保苅氏が定義を曖昧にしたまま使用したことだ。ほかにもいくつも、歴史哲学上の論争に上がりそうな形而上学の用語はいくつも登場するし、そのいちいちについて保苅さんは用語解釈を避けて使用している。たぶん、そういった「哲学的論争」に保苅さんは首を突っ込むつもりがなかったのだろう。ただ、その定義が曖昧なままであるため、誤解を生む場面や、読者が首をひねるような文脈もまた否定できない。

ホカリは形而上学的空論をきらってフィールドに出た歴史家だったのだ。彼のもやもやと形をもたない思想もまた星雲の志がよく現れたものだ。若くして亡くなったことをこれほど惜しまれる人も少ないのではなかろうか。梶谷さんのブログへこのようなコメントが寄せられていた。

<<彼は「背中が痛いんだ」「精密検査の結果待ちで・・」と病状を訴えつつ、女性のキャリーバッグを持ってあげるような、このギョウカイには珍しい(・・失敬・・)紳士でした。明るくユーモアのセンスがあり、ハンサムで優しく、フェミニストだったから、老若問わず女性に大人気でした。シンポでの発表は素人が聞いても面白く、分かりやすい表現で難しいことを話す天才でした。>>(by ナンシー北京さん)


惜しい人を亡くしたという言葉を一万回保苅さんに捧げたい。合掌。

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』についてのkaikajiさんのコメントはこちら
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050202
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/comment?date=20050208#c


メモ:『歴史的理性の批判のために』

2005年02月06日 | 読書
 この本は電車の中で立ち読むするような類のものではなかったと反省。じっさい、内容も難しいのだが、文体も読みにくくて、上村氏が翻訳しておられるガヤトリ・スピヴァクほどではないにしても、かなり読み進めるのが辛かった。それに序章と第1章はおもしろかったけどだんだんだれてきて、途中はとっても退屈。 目は字面を追っているけれど頭は遙か1万光年の彼方。

 しかしそれでも最後まで読み通した。上村さんは新しい歴史哲学「ヘテロロジーの歴史」を打ち立てようとしておられるらしいが、その実態が最後まで明らかにされないままだったので、うやむやにされてしまったような不満感が残る。ヘテロロジーとはこの場合、ミクロな歴史とマクロな歴史の融合というぐらいの意味のようだ。その哲学を上村氏は三木清やスピヴァクを導き手として構築しようとしている。だが、上村哲学のオリジナリティはどこにあるのだろうか? それが見つけられなかったことが最大の不満か。


 以下、特に序章と第一章について詳しくまとめてみる。


序章 経験の敗北

 取り上げられているのは市村弘正の『敗北の二十世紀』。わたしが全然知らない思想家だが、その市村の文体には「不思議な息づかい」があるという。市村は詩人の吉増剛造について同書の中で言及している。その様子を上村忠男は「世界の応答に耳を澄ましつつ、応答する世界の声を形象性あざやかな言葉に分節化していく詩人・吉増剛造と、その詩人の息づかいに合わせて呼吸する思想史家・市村弘正のしなやかな文体の呼吸法」だと絶賛する。

 さらに一人、導きの人はヴァルター・ベンヤミン。

 ここで上村が言いたいことは、「経験の敗北」であり、「敗北の経験」ではない。ベンヤミンにしろアドルノにしろ、戦火を生き延びた帰還兵の記憶のトラウマについて語るとき、それは「敗戦の記憶」ではなく、記憶そのものが経験されえないということである。

 市村の『敗北の二十世紀』は、「「物語」の不可欠と不可能とを顕わにした時代としての二〇世紀という規定」をしているらしい。

 物語能力をこえて忘却へいざなうほどの破壊と消滅の生起。理解力をこなごなに砕く表象不能な出来事の出現。砕かれた記憶の土台の縁に、かろうじて記憶の切片が貼りついているような事態。そのような物語不能な状態に耐えぬくためにこそ必要不可欠な「廃墟」からの物語。--ブレのほどは明らかであろう。市村が「経験の貧困化」に代えて「経験の消滅」というとき、そこでは疑いもなく、アーレントが『全体主義の起源』のなかで巧みにも「忘却の穴」と形容したナチス・ドイツの絶滅収容所のことが思い浮かべられているのである。(p22)

 上村は市村弘正の『敗北の二十世紀』を絶賛し、さらには『この時代の縁(へり)で』を高く評価する。ということなので、要は市村のこの二冊を読めばいいようである。

 『この時代の縁で』は市村と吉増剛造との対談であり、映画「ショアー」が取り上げられている。「ショアー」は長い長いドキュメンタリーなのでわたしは恐れをなして未見である。だが、このアウシュヴィッツを生き残った人々の証言映画である「ショアー」、いつかは見なければ、と思う。

 ショアーを監督したランズマンはサルトルの秘書を経験した人物で、「ショアー」の証言者たちにも「生きられたことがら」(サルトル『家の馬鹿息子』)そのものをふたたび演じてみせることを要求している。


 「ショアー」をめぐる市村・吉増対談を長々と引用したあとで、上村は次のようにまとめに入る。

「経験」こそは古来<歴史=物語>の糧であると見なされてきたのではなかったか。ところが、その「経験」の蓄積のうえに物語を紡ぐことのできた時代は、すでに遠い。いまではもう、物語は「廃墟」からの物語としてしか可能ではない。(p34)

 <記憶>と一体化したかたで<歴史>が存在していた時代は、やがて過去のものとなる。近代国民国家の形成期には、人びとの生活からはすでに記憶の環境が奪われつつあり、これにともなって<歴史>もまた<記憶>との一体性を喪失していく。そして、そこでは「記憶の環境(milieux de memorie)」に代わって「記憶の場所(lieux de memorie)」が登場することとなる。記念碑や文書資料館、等々である。かつて<記憶>は<歴史>にとっての典拠であった。その典拠であった<記憶>を、いまや<歴史>は大賞と化す。そして、人びとの日常生活のなかに根づいている集合的記憶のかずかうを蒐集して回り、それらをキケロ的=ルネサンス的人文主義の伝統のなかで開発され錬成されてきた記憶術にならうかのようにして、さまざまな形態の<場所>に貼り付けることによって保存し、もってナショナル・アイデンティティ形成のための手立てとなそうとするのである。(p36ー37)

 映画「ショアー」は、「記憶の場所」からではなく、「記憶の非場所」からの歴史の問い掛けという試みをなしている。
 

第1章 アウシュヴィッツと証言の危機

 取り上げられているのは
 アンナ・ハーレントの『全体主義の起源』『イェルサレムのアイヒマン』
 
 そして、それらおよび映画「ショアー」を論じた高橋哲哉の「記憶されえぬもの 語りえぬもの」(『岩波講座現代思想』第九巻)

 『声の回帰 : 映画『ショアー』と「証言」の時代』ショシャナ・フェルマン著 ; 上野成利, 崎山政毅, 細見和之訳.太田出版, 1995(批評空間叢書)


 「ショアー」のランズマン監督はユダヤ系であり、彼がなそうとしたホロコーストの証言・記憶の共有化が、イスラエルの特権化へと横滑りする危険性をもっていることに注意すべき。

 プリモ・レーヴィの証言が孕むアポリアについては、アガンベンが『アウシュヴィッツの残りもの』で考察している。(「レーヴィのパラドクス」→アガンベンを読むこと)。

 上村忠男は高橋哲哉を評価しつつも、高橋がフェルマンを誤読していると批判している。これに対して高橋哲哉が『証言のポリティクス』の中で反論しているらしい(猿虎(永野潤)さんのブログ参照)。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050206#p1 続きを読む


小川洋子の2作

2005年02月01日 | 読書
「とみきち読書日記」のとみきちさんが的確に指摘するように、この小説は「日常からかけ離れ、時がとまった、死と隣り合わせの世界。大事件は起こらず、声高に主張する人もおらず、しんとした、生と死のみに支配される現実」を描く。

 タイトルが『ブラフマンの埋葬』なのだから、ブラフマンは死ぬのだ。予定された死を待つブラフマンという小動物がこの作品のいっぽうの主人公といえる。

 この小説ほど、「書かないことによって伝える技」に長けた作品も少ないだろう。そもそもブラフマンってなんなのか、主人公「僕」は誰なのか、何歳なのか、なぜ<創作者の家>という別荘の管理人をしているのか、まったく何の説明もない。いや、説明はある。ブラフマンは森から迷い出た小動物であること、茶色い毛と長いしっぽをもつこと、チョコレート色の大きな目をしていること等々。けれど、最後までブラフマンについて作家は名指しを避ける。これが何者なのか、作家は描かない。だが、このブラフマンが主人公「僕」にとってかけがえのないパートナーであることは痛いほど伝わってくる。

 そして、この小説には擬音語がいっさい登場しない。擬態語もたぶんないと思う。主人公の一人称小説であるにかかわらず、感情描写はいっさいない。悲しい寂しいつらい楽しい嬉しい、それらの言葉は慎重に避けられている。
 それでもなお、いやそれゆえにこそ読者は主人公の孤独も悲しみも恋心もすべてを知っている。ブラフマンが死んでも「僕」は泣かない。いや、泣いたかもしれないが、そのような描写はない。けれど、読者はブラフマンの死に感情移入して泣くだろう。

 これは見事な寓話だ。無駄な言葉が一語もない。そぎ落とされた小説空間。堪能した。
 唯一の欠点はラストだ。あっけなさ過ぎる。もっと読んでいたいという読者の欲望に火を付けたままこのような終わり方をするのはズルイ。


 小説が発表された順とは逆に、「ブラフマン」の次に「博士の愛した数式」を読んだ。数学に、いや、数字にこれほどの愛を語った作品がかつてあっただろうか? 素数を愛した数学教授が、どれほどの絶望的な孤独の中にあったか、その孤独を見守り続けた家政婦母子のやさしさと共に、奇矯な人であった変人博士のやさしさが思いっきり伝わる作品だ。

 60歳を過ぎた博士は数学の天才でありながら17年前の交通事故によって脳を損傷し、80分しか記憶が保たなくなってしまった。まるで映画「メメント」みたいな博士なんだけど、問題は「わたしの記憶は80分しか保てない」ということすら忘れてしまうということ。だから博士は体中にメモを貼り付けている。これって、「メメント」の主人公が体中に入れ墨をいれたのと同じね。
 「メメント」がサスペンスだったのに引き替え、こちらは、80分しかもたない記憶にたよって人は人と繋がれるのか、という大難問を扱ったヒューマン・ドラマだ。

 この小説にはいくつもの愛が描かれている。そして、描かれずにほのめかされた愛もある。やっぱり小川洋子という人はうまい。お奨めの逸品。しみじみします。


<書誌情報>

ブラフマンの埋葬 / 小川洋子著. -- 講談社, 2004

博士の愛した数式 / 小川洋子著. -- 新潮社, 2003

「歴史家は誰か?」と問う『ラディカル・オーラル・ヒストリー』 覚え書き

2005年01月30日 | 読書
わたしはたぶん小説だけではなく、学術書ですら、著者への感情移入なしに読むことができないのだろう。だから、東浩紀の『存在論的、郵便的』に強く惹かれ、またこの本も心震わせながら読んでしまう。この著者がもう亡くなっていること、彼が享年33歳で癌でなくなり、本書の出版を待たずに旅立ったことを予め知っていて読んだからこそ、未来へ向けて書かれたこの本にどれだけの想いを著者が込めたかと思うと、平静に読めない。

 だから、そんな気持ちで読んだ本を冷静に批評することも書評を書くこともできない。ましてや、その内容がわたしの根底を揺さぶるような大きな刺激に満ちているのだから、なおさらだ。

 この本に出会ったのは偶然だった。めったに読まないのだが、ふと東浩紀のブログを読んだときに、東の著書を英訳するプロジェクトがあることを知った。しかも、翻訳予定者の保苅実という若い研究者が病気のために翻訳を辞退するメールを送ってきたという事情も知った。さらに、その保苅という人物は死んでしまったこと、彼のお姉さんが亡き弟を追悼するためのメモリアルHPを作っていることも知った。
 
 http://www.hokariminoru.org/j/index-j.html

 ここには保苅実さんが闘病中に友人知人に送ったメールも記載されており、涙なしには読めない。そして、彼が最後にたった一冊残した著書がどんな本なのだろうかと興味をもった。bk1を検索すると、書評の鉄人メルさんが既に絶賛書評をつけていた。メルさん自身も学究の道を歩もうとする研究者の卵であり、おそらく大きな刺激を本書から受けたのだろう。ブログでも取り上げておられ、その興奮ぶりが手に取るように伝わってきた。

 ためしにと、近所の図書館にリクエストした本書、一章を読み終わる前に購入を決意し、今わたしの手元にある。

 そして、著者後書きを読み終わった瞬間に涙がこぼれた。さらに、友人の研究者による「もうひとつのあとがき」を読んでもう一度涙がこぼれた。さらに、保苅さんの師である清水透さん(慶應義塾大学教授、ラテンアメリカ社会史専攻)の解説を読んでまた泣けた。

 学術書を読んで泣くなんて、初めての体験だ。こんなに泣いてばかりでいいんだろうか。

 清水さんの亡くなった娘さんは保苅実さんと同い年だそうだ。保苅さんと出会う一年前に娘さんを癌で亡くしていた清水さんは、1996年に保苅さんから、ご自身の著書への感想文と保苅さんの論文の要約を書いた便りをもらった。それから二人の交流は続いていたという。

 清水さんは娘と弟子を癌で喪った。保苅さんがホスピスの床で遺した「清水透批判」を真摯にうけとめ、これから、保苅から課された課題に取り組むと述べている。 


『ねじまき鳥クロニクル』は本当に「究極の愚作」か?

2005年01月20日 | 読書
Posted by pipihime at 22:07 │Comments(2) │TrackBack(1)
2005年01月20日



 「ねじまき鳥」は長い小説だった。ある友人は、「いったいいつになったらおもしろくなるんやろうとずっと我慢して読んでたけど、とうとう我慢できずに途中で放り投げた」と言っていた。さもありなん。確かに、引っ張り引っ張りずぅ~っと読者を引っ張りつづけて、結局最後にオチをつけないのだから、これはまあ、詐欺といえば言える。

 編集者・書評者の故ヤスケンさんも『本など読むなバカになる』の中でそういう意味のことを書いている。だけどね、ヤスケンさんの酷評、あたっているところもずいぶんあるんだけど、わたしはちょっと違うなあと思っている。

 たとえば、物語の初めのほうで、主人公たちが夫婦喧嘩する場面。主人公「僕」は岡田亨という30歳の失業者。法律事務所の使い走りのような仕事をしていたが、つい最近辞めた。妻の久美子は雑誌の編集者。二人の間に子どもはいない。結婚して6年の彼らは、ささいなことで喧嘩をする。それはおかずの組み合わせが気に入らなかったという妻の不平が発端なのだ。あるいはまたトイレットペーパーの色や柄が気に入らないという。そんなささいな妻の好みを、6年も一緒に暮らした夫が知らないなんておかしい、とヤスケンは批判する。妻の生理周期は熟知しているのに、なんで料理の好みを知らないわけがあろうか、不自然だ、と。

 このことを通して作者は、夫婦のディスコミュニケーションなり、冷え切った夫婦生活を暗示しているのでもない。(p19)

 そして、オカダ・トオルという主人公のことをヤスケンさんは

 「僕」のキャラクターとは世の中に五万といる三十代前後の一種のモラトリアム人間、何かクリエイティヴ(オエッ!)なことが出来るのではと錯覚してはいるが実は何もできず、しかもやりたいことなど皆無、むろん、いわゆる社畜にはなりたくなく、軽蔑すらしている、しかし、どこかに常に欲求不満と将来に対する漠然たる不安はあるといったウルトラ薄馬鹿人間の典型とも言える(p21-22)

 と、ボロクソである。

 確かにそうなのだ。オカダ・トオルはふわふわととらえどころがなく実在感がなく、生身で生きているという感じのしない人間だ。確かに魅力的な人物とも思えない。けれど、わたしはこの冒頭の部分が一番気に入ったのだ。この二人の「薄馬鹿人間」たちの夫婦喧嘩にこそリアリティがあると感じた。

 何十年一緒に暮らしたって、ほんとうのところ、妻や夫のことを理解しているといえるだろうか? むしろますます相手の事を真剣に斟酌しなくなるのではなかろうか。ささいなことで「あなたはわたしを見ていない」と夫をなじるクミコの気持ちがわたしにはよくわかる。

 だからこそ、冒頭に置かれたこのささいな夫婦喧嘩の意味は大きいと思う。ところが、問題はこの夫婦のディスコミュニケーションに分け入っていく内容が展開されると期待してもいっこうに話がそちらの方向に進まないことにあるのだ。

 なんだかよくわからない登場人物が大勢登場するのだけれど、誰も彼もいったい何のために登場してきたのかさっぱり理解不能だ。謎をたくさんちりばめていくけれど、結局のところ「彼女はいったいなんだったの?」と思うころにはもう彼らは退場している。

 ただし、ヤスケンさんの怒りもイライラも確かによくわかるけれど、本作がそれほど一顧だにする必要もないほどの愚作だとは思えない。というのも、「間宮中尉」のサイドストーリーがものすごくおもしろかったからなのだ。間宮中尉というのは、ノモンハン事件以来、ずっと中国東北部で戦争し続けた軍人なのだが、彼の数奇な運命がわたしを惹きつける。
 そして、「レーニンはマルクスの言ったことのなかで自分にわかるところだけを都合よく引用し、スターリンはさらにレーニンの言葉のなかから自分にわかるところだけを利用した」という意味のことが描かれているくだりにきて、「名言やんか」と思わず手を打ってしまった。

 『ねじまき鳥』は主人公達の現実生活よりも、間宮中尉の回想録のほうがおもしろいから、これだけを戦記ものとして村上春樹は書けばよかったのに。 



 して、ヤスケンさんのこの本は、前半が『ねじまき鳥クロニクル』をこき下ろす精読批判だが、後半は読書案内になっていて、これがまたけっこうおもしろくて役に立つ。その中で、「一作ごとに腕を上げる」と誉められているのが小川洋子だ。小川洋子については斎藤環も『文学の徴候』で誉めていたし、「とみきち読書日記」でも『ブラフマンの埋葬』が取り上げられているし、去年のベストに『博士の愛した数式』を挙げておられたので、わたしも次に読んでみようと図書館にリクエスト中である。
 ほかにも、読まず嫌いだった村上龍を読んでみようと思わせる絶賛ぶりなので、やっぱりヤスケンさんは本好きをそそるのがうまい。

 ヤスケンさんは本を見る目があると思うし、すぐれた書評家・編集者なんだと思う。でも、読者は、「愚作」と自分でも思うような小説に惹かれてしまうことだってあるんだということを忘れてはいけない。


<書誌情報>

 ねじまき鳥クロニクル / 村上春樹著 ; 第1部 : 泥棒かささぎ編 - 第3部 :
鳥刺し男編. -- 新潮社, 1997. -- (新潮文庫 ; む-5-11~む-5-13)

 本など読むな、バカになる / 安原顯著. -- 図書新聞, 1994
 

悲恋四谷怪談

2005年01月19日 | 読書
2005年01月19日
 短くブツブツと切った文体。連用形・接続詞止め。そして、まどろっこしく説明する部分があるかと思うと、肝心のところをぼやかして書かない、心憎いばかりの筆。

 愛し合いながらも傷つけ合うことしかできなかった、深い業に生き死んだ男と女の悲しい物語だ。

 四谷怪談をこんなふうにアレンジするなんて、新鮮な驚きに満ちた物語だった。岩は気の強い現代的な女性として描かれている。いや、現代でもなかなかこのように強い性格の賢い女は少ないだろう。気立ては荒々しいが自分の信念をしっかりもった女性として作者は岩を描いている。だが、自分の信念をしっかり持っているということは逆に言えば他者を受容しにくい性格でもあるわけで、岩は病気によって醜く崩れた自分の顔のことがあるため、夫となった伊右衛門にも素直になれないのだ。

 岩自身は決して自分の醜くなった顔を恥じてはいない。だが、自分と違って温厚でやさしく無口な夫に対して、うまく接することができないのだ。民谷家に婿養子にやってきたイエモンに、岩は心とはうらはらにきつい言葉ばかりを投げかけてしまう。

 新婚まもなく二人はイエモンの上司の奸計により別れさせられるのだが、二人は深く互いを愛していたのだ。これが実はちょっと不思議なんだけど、なぜイエモンは岩を愛しく思えるのだろう? 自分に妻らしいやさしい眼差しを向けたこともなさそうな岩をなぜイエモンは愛せたのだろう。

 なぜ二人がかくも深く愛し合えたのかは謎の部分があるのだが、それでも、どんなに相手を愛していても傷つけることしかできないその悲しさがこの切れ切れの文体から強く漂ってくるのだ。
 だから、最後の一行を読み終えた瞬間にいきなり涙があふれてきた。

 登場人物については初めから、岩=小雪、イエモン=唐沢寿明というキャラ設定で読んでいたので、そのイメージしか頭に浮かばなかった。原作のあとで映画を観たときも、もともとそういうイメージだったから違和感はまったくないのだが、敵役の上司伊藤喜兵衛だけがイメージ違ったなぁ。

 いずれにしても、この主要な3人のキャラクターは、「異様」と言っていいぐらい極端に立っている。だから、キャラクターの強い性格に引っ張られて、少々説得力のないストーリー運びでも強引に読まされてしまうのだ。徐々に壊れていく女(梅)のこころ、お岩の幻影、ストーリーは後になるほど怪談めいてくる。ゾクゾクしながら読んでいくと、最後に悲恋に涙する。

 観てから読むか、読んでから観るか。やっぱり「観てから読む」が正解だと思う。いや、観なくてもいいかも。

  映画評はこちら

<書誌情報>
 
 嗤う伊右衛門 / 京極夏彦[著]. -- 角川書店, 2001. -- (角川文庫 ; 12215)

 

わたしの人生を変えたかも知れない一冊

2005年01月17日 | 読書
 この本に20年まえ出会っていたら。著者の保苅実さんがわたしの身近にいて交流できていたら。わたしはがんばって歴史研究を続けていたかも知れない。研究者になろうともう一度本気で考えたかもしれない。

 わたしがやりたかった歴史学がここにある。実証主義など年寄りがやればいい、若手はたったと先を行かせてほしい、などと堂々と言うなんて。

 図書館から借りて読み始めた本だが、第一章を震える想いで読み進め、1章を読み終えたときに「この本は買おう」と決意し、bk1に注文した。今日届いたので、明日からまた続きを読もう。読了したら久しぶりにbk1に投稿したい。


<書誌情報>

ラディカル・オーラル・ヒストリー : オーストラリア先住民アボリジニの歴
史実践
  保苅実著. -- 御茶の水書房, 2004

要注意:電車の中で読むと座席から落ちます

2005年01月15日 | 読書
 これはおもしろいわ! 大笑い。

 対談やってる二人とも多読家だし、よくそれだけいろいろ読んでるよなー、いくら仕事とはいえ、すごい! と感心してしまった。それに、古典だの名作だのといわれている作品にもたじろぐことなく「どこがいいのかわからん」とけなすことけなすこと。わたしなんて小心者だから、「世間の評判が高いのにどこがいいのか理解できないのはきっとわたしがバカだからだ」と思ってしまうのだが、この人たちはそんなこと思わない。

 確かに現在の目から見たら表現が古臭くておもしろくない小説っていっぱいあるけど、そこまでミソクソに言わなくてもええやんか、と思うような部分もけっこうある。たとえば、 尾崎紅葉の『金色夜叉』をコケにするくだりでは、

 「この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖って遣る覚悟だ」とまで口走る始末ですよ、たかが女にふられたくらいで。もう、一刻も早くカウンセリング受けたほうがいいよって、祈るような気持ちで読み進めましたね、わたしは(笑)。


 大笑いしたけど、こういう言い方っていいのかしらん。

 けなしてばかりではなく、さすがに目が利くようで、夏目漱石や芥川龍之介はべた誉めなのだ。内田百間(漢字出ません)も巧い巧いと誉められていた。川端康成の『雪国』はこき下ろされてたなぁ、単なるスケベ男の話だ、みたいに。

 ここで取り上げられて「名文だ」「いいよ、いいよ」と誉められている小説はどれもたいてい読みたくなるから、やっぱり本読み屋の図書紹介は上手いと思う。以前は毛嫌いしていた芥川も再読してみようかという気になったし。

 脚注が豊富についていて、これがまた面白いのだ。真面目な用語解説もあるけど、本文に対するツッコミがあったりして、また笑える。この註が本文並みかそれ以上に長いので、この本は読むのに時間がかかった。

で、この二人の書評にはなかなかな感心したのだが、特にこれはと思ったのは、『五体不満足』に対する評価だ。


 岡野:僕らは、乙武君個人を責めるつもりで喋ってる意図はまるでないということ。つまり、一つはこれはきちんと書物として出版された表現行為だから、書評を生業とするわれわれはこれまたきちんとこれを書物として批評しようとしているんだと。それから、乙武君自身が本の中で、心のバリアフリーを訴えているわけだから、受け手のわれわれも、他の本と同じ地平でフェアに論じようとしていると。逆に言うと、この本の不幸は実は、なんとなく誰もが気後れして正当な書評をされなかったことにあると思っているんだ。

 豊崎:だから怖れずにいうと、乙武君だって自分の障害に苦しみながら、周囲の無理解や差別と戦っている人たちと身近に接しなかったはずないと思うのに、その葛藤がまったく抜けて落ちてる、それがこの本の欠点。

 これはなかなか言えないことで、著者たちもかなり気を使ってこの部分を書いたことがわかる。ここだけ文体(というか喋り方)が違うのだもの。


 というわけで、本好きにはお奨めします。おもしろいよ~



<書誌情報>

 百年の誤読 / 岡野宏文, 豊崎由美著. -- ぴあ, 2004

精神科医の小説分析

2005年01月03日 | 読書
 映画だけじゃなくて、漫画だけじゃなくて、小説も精神分析の俎上に乗せてしまう多才な斎藤さん、本書で取り上げた作家は23名。その顔ぶれも多彩で、わたしなんか全然知らない作家が何人も登場する。『文學界』での連載をまとめたものだ。最後の一章は書き下ろし。

 で、この人の文体の特長なのか、文脈をどうたどればいいのか少々わかりにくいところがあって、だからわたしが読んでいない作品や知らない作家についての言及部分はいっそうわかりにくい分析になっている。引用文が少ないのがその一因だ。とりわけ前半がそうだ。後になるほど引用が増えてわかりやすくなっているから、きっと連載の途中で編集者か読者から指摘があったんだろう。

 というわけで、とりわけ最初の赤坂真理とか舞城王太郎とかの章はわかりにくい。それに比べ、読んでいておもしろいのは、わたしに馴染みのある作家の分析だ。
 その中でももっともおもしろかったのが島田雅彦と保坂和志の章だ。大江健三郎もおもしろかったけど、大江の『取り替え子』の分析は加藤典洋のほうが鋭かったね(『小説の未来』だったか、『テクストを遠く離れて』か、どっちかに掲載)。
 島田雅彦の「天皇萌え」なんていう言葉には驚いてしまった。そうか、やっぱり島田雅彦って天皇が好きなんだ。いや待てよ、そうかな。

 島田は単一主義を回避し続ける作家だそうだ。陣野俊史(誰?(^^;))が島田のことを「『左翼』に対して『サヨク』、『本物』にたいして『模造』…」を対置していると評するのに対して、斎藤環は

 たしかにこれは、島田にあっては顕著な特質だろう。しかし…[中略]…単一主義に対して、それをずらしたり複数化したりという戦略は、単一主義の強靱さを結果的に際だたせてしまう。デリダやドゥルーズの試みが、けっしてラカンの「否定神学」を衰弱させえなかったこと、時には「ラカン」を強化してしまったことを想起されたい。それは魂のヒステリー的な双生児なのだ。(p165)

 と言う。

 陣野の記述は、必ずしも正確ではない。島田は二項対立ではなく、第三項を持ち出して対立そのものを脱臼させようとするのだ。だから正確には、「左翼」対「右翼」の間に「サヨク」を、「本物」対「贋物」の間に「模造」を、「都市」対「田舎」の間に「郊外」を、そして「帝国」対「独立国」の間に「植民地」を挿入する、と言わなければならない。その身振りには、デリダが「サンポリック」対「イマジネール」の間に「エクリチュール」を持ち出し、「生」対「死」の間に「生き延びること」を持ち出し、「去勢」対「去勢否認」の間に「割礼」を持ち出す身振りを思い起こさせる。なるほど、彼らはまさに、隠喩的対立を換喩的に脱臼させる、という手法においては共通している。(p165-166)

 それにしても島田雅彦のことを「島田は細心の注意を払って下手な小説を書き続ける」と評価するとは(笑)。これを読んで島田は喜ぶのか怒るのか、どっちだろう。

 島田の天皇萌えは、天皇制の本質を考える大きなヒントになるという。

 天皇を支える磁場は、多重構造になっている。それは、必ずしも空虚な中心がひとつある、というものではない。単純な批判やフェク化の戦略がことごとく通用しないのは、批判やフェイクがすべて「君側の奸」として天皇をとりまく人や制度に吸収され、決して中心には及ばない仕組みになっているからだ。…[中略]…中心が空虚であるかどうかは知らない。ただはっきりしていることは、さまざまな「良きもの」を投影するうえでは、空虚なスクリーンほど都合がいい、ということだ。おそらく天皇は、構造的な欠如という機能は持たない。そこにあるのは「空虚なスクリーン」という虚構的イメージだけだ。(p169-170)

という論から始まって、島田の天皇萌えが皇太子への執着というかたちで現れるという分析へと繋がるのだ。
 おもしろかったわあ、これ。


 映画分析の時と同じに、やはり斎藤さんは「真実は一つしかない」と言い切るし、自分は正しい読みしかしていない、と断言する。すごい。多様な読みがあるなどというヤワなことを言わないのだ、この人は。なんかミヤダイにも似てるね。

 斎藤さんは自分と同年代の言論人に親しみを覚え、彼らの作品を評価するという。その斎藤さんが挙げた名前が、宮台真司、大澤真幸、大塚英志、いとうせいこう、宮崎哲弥だ。彼らの合い言葉は「絶望から出発しよう」なんだそうな。

 奇妙なことに、この世代には一つの分裂がある。それが「シニシズムとコミットメントとの分裂」だ。舞台裏を知り尽くしながら、それでも彼らは、いや私たちは、「世界」に関わろうとする。批評家でありながら活動家。(p161-162)

 なるほどね、わたしもこの世代なんだけど。そうなのかな? 自己分析は不可能です。

<書誌情報>

 文学の徴候 斎藤環著 文藝春秋 2004

今年のベスト本。109冊の中から

2004年12月31日 | 読書
 「今年の3冊」を選ぼう。2004年に刊行されたものの中からは以下の3冊。

 『ヒューマン・ステイン』 フィリップ・ロス著
 『戦争が遺したもの』 鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二著
 『他者と死者』 内田樹著

 今年の出版物ではないけれど、今年読んだものとしてベストなのは『民主と愛国』(小熊英二著)。

 それ以外のベストは、

 『テクストから遠く離れて』加藤典洋著、
 『日本文学盛衰史』高橋源一郎著
 『季節の記憶』保坂和志著
 『敗北を抱きしめて 増補版』ジョン・ダワー著
 『野川』古井由吉著
 『サイファ覚醒せよ!』宮台真司、速水由紀子著

 といったあたりか。

 『反社会学講座』も大いに笑わせてもらったので、よかった。


 もちろん、このほかにも心に残る本、感動させられた本、考えさせられた本、大笑いさせてもらった本が何冊もある。だいたいが、映画も本も好きで見ているんだから、点数がそんなに辛いはずがないのだ。
 
 番外だけど、楽しいエッセイを一つ紹介する。『森のうた 山本直純との芸大青春記』。これはamakoさんに借りた本。昔の学生のバンカラぶりも微笑ましく、岩城宏之の巧みな文章を堪能できる上質のエッセイだ。岩城宏之・山本直純という指揮者二人の東京芸大時代の思い出話をつづってあるのだが、芸大での授業風景や学生だけのオケを結成していくおもしろおかしい様子、山本直純のハチャメチャな脱線ぶりなど、なるほど芸術系の学生というのはこんなに個性豊かでおもしろいのか、と大笑いできる。これに比べて最近の若者の小さくまとまってしまうことといったら、情けない限りだ。
 というようなことを書くと「ピピも年寄りみたいなことを言う」と言われてしまいそうだね。



こういう物の言い方でいいのかなぁ

2004年12月22日 | 読書
 今日から休み。今年は休みが短いから悲しい。クリスマスツリーを片づけようと思ったけど、雨が降ったので中止。今日はせっせと年賀状を書いた。住所と宛名ぐらいは手書きしようとシコシコ書き始めたのはいいけれど、ふだん字を書かないもんだから、手がだるくってしょうがない。あー、疲れた。

 さて、今日は売れているらしい、この本『物は言いよう』について少し。

 マスコミをにぎわせる「問題発言」「差別発言」をズバズバと採点し、「フェミ・コード」によってすっぱすっぱと切っていく痛快な本。ということなんだけど、確かに文体は痛快でおもしろいからスラスラ読めても、その物の言い方にはあちこちで引っかかってしまう。

 右も左も関係なく、次々に「この発言はジェンダー・バイアスがかかっているからダメ」と切り捨てられていく。西村慎吾や石原慎太郎が批判されるのは当然としても、大江健三郎や「週刊金曜日」の論者まで俎上にのせられてしまうのだ。

 で、斎藤さんは「この言い方ってどうよ。」と批判し、どこが悪いのか懇切丁寧に教えてくれて、おまけにどう言い換えればいいのかまでご指導くださる。実に親切な実用書である。

 しかし、こうなると、フェミニズムもマニュアル本にされてしまって、本来の思想的な部分が換骨奪胎されつくしている感がある。こんなんでいいのかなあと思うのはわたしだけではあるまい。それに、なんでもかんでもフェミコードでほんとに切り分けていけるのか?

 ちょっと上野千鶴子・小倉千加子らの『男流文学論』を思い出してしまったわ。

 差別語を言い換えるという作業は、二つのことを結果する。一つは、差別の構造を温存したまま言葉だけを言い換える姑息な人間を増やすということ。もう一つは、けれどやっぱりそれを超えて人の意識を変えていくということ。

 西村慎吾みたいな人間は、言葉の言い換えかたを教えたぐらいでは本質は変わらないと思う。人は言葉によってものを考える。言葉が変われば考えも変わる。それは間違いなく、ある人々については有効だと思う。


<書誌情報>

 物は言いよう 斎藤美奈子著 平凡社 2004