この一ヶ月ほどの間にウチダ先生の本を4冊読んだ。さすがにちょっと飽きてくる。「あ、またここにも同じことが書いてある」なんて思ってしまうのだ。
『東京ファイティングキッズ』はその点、ウチダ先生だけでなく平川さんとの往復書簡だから異業種混交というか異種バトルというか、そういうおもしろさがあるかと思ったのだが、これまたどういうわけか二人の語彙や文体がそっくりなので新鮮味がないのだ。いや、おもしろくないのではなく、とてもおもしろく読み終えたし、考えさせられることやタメになる話も多かったのだけど、こうも同じ文体が続くとちょっと食傷気味になる。
とはいえ、平川さんのアメリカ社会論は実に興味深かったし、『アメリカの反知性主義』という40年も前に書かれた本を引用紹介してある部分にいたく惹かれたので、次はこの本も読んでみようと思っている。最近、ちょっと続けてアメリカ政治思想関係の本を読んだ(または読む予定)があるので、ちょうどいい機会かも。アメリカのグローバリズムに毒されて日本もとんでもない社会になりつつあるという危惧がわたしには強いので、このへんでちゃんと勉強してみたい。
ちなみにうちのつれあいが図書館で『人種差別の帝国』を借りてきて読んだのだが、「アメリカというのはひどい社会や」と憤っていた。中学1年の息子もこの本を貪り読んでいたから、きっとおもしろいんだろうな。
『東京ファイティングキッズ』は時事問題によく言及してある本なので、ビビッドな感じがしてなかなかおもしろかった。
『街場の現代思想』は新刊書の分類では「人生訓」に入れられそうな本だ。(じっさいにはエッセイに分類されている)
ウチダさんはけっこうオヤヂっぽい。口うるさくて説教臭い。でもそれがなんか当たってるからなかなかイヤと言えないところがある。でもわたしみたいな天邪鬼で人の言うことを素直に聞かないタイプの人間は逆らいたくなるのだ。本心では納得していても、簡単に「そうね」とは言いたくないのだ。
でもまあ、この本もなんだかヘラヘラと笑いながらおもしろく読了してしまった。ピエール・ブルデューの唱えた「文化資本」概念の説明の部分は特におもしろくて笑ってしまった。若者よ、読め。
んで、またまた続いて『死と身体』を読了。レヴィナス論であるところの『他者と死者』とかなりかぶる。両書に共通して書かれていたことのなかでも特に印象に残ったのは、「倫理とは何か」という部分と「他者とは死者のことである」、「埋葬することによって人間は人間になった」という部分。
「どうして人を殺してはいけないのですか」と問うた中学生に誰一人まともに答えられないという問題について、内田さんはこういう。
問いの立て方が間違っているのですが、それは、「自分はこのような問いかけを、いついかなる場合でも口にできるか?」という問いを自分に向けていないからです。
その中学生が、ナイフを持った男に捕まったとします。そしてナイフを突きつけられて、今まさに喉をかき切られようとしているとき、ナイフを持った男が「どうして人を殺してはいけないのか?」とまわりの人に問いかけたとします。そのとき、喉元にナイフを当てられたこの中学生は、犯人といっしょになって、「どうして人を殺してはいけないのですか?」と唱和できるでしょうか?
………
自分がある言明をするとき、その言明がなしうるのは、ごく特殊な条件のもとに限定されているのではないか、という自問をすること、それがわたしたちには必要です。p159-160
テロリストの根絶を呼号するアメリカ大統領はおそらくテロの犠牲になったアメリカ市民たちの痛みに深く共感しているのでしょうし、聖戦を指示する聖職者はアメリカの空襲の犠牲になった同胞の痛みに深く共感しているのでしょう。
………
他人の身になってみるとか、想像力をめぐらせてみるといったことにしても、そのとき「その身」になってもらえる「他人」のカテゴリーに誰が含まれ、誰が含まれないのかについて問われないのであれば、倫理を基礎づけることはできません。
ではもし、ありとあらゆる他者に共感でき、想像力を発揮できるひとがいたとしたら、そのひとは倫理的にふるまえると言えるでしょうか?
おそらくそのひとは「殺される側の人」の「痛み」に共感すると同時に、「殺す側の人」をそのような極限的な立場にまで追いつめた「切ない事情」にも共感してしまうでしょう。世界中のすべての他者に共感してしまう人間がもしいたとすれば、おそらくその人はただ黙って立ち尽くし、すべての苦痛と悲惨にただ涙を流しつづけることしかできないでしょう。p161-162
ハイデガーにせよレヴィナスにせよラカンにせよ、彼らは絶対的な他者として死者を措定するが、これは西洋的な死生観だと思う。仏教思想では、死者は他者ではないのではないか? よく知らないが。
それに、死者は死体とは違うのだ。死体は物体だが、死者は人格をもっているのではなかろうか。ま、そんなことをつらつらと考えた。
共感も共鳴も同情もできない絶対的な他者、それが死者。人間は死者の声すら聞くことができる。それが埋葬という行為だ。だから、人間は他者と共存できるのだ。汝の敵と共存できる。と、内田センセイはおっしゃる。死者の声を聞けるからこそ、死者の声を代弁してはならないとも。使者に代わって復讐を考えたりしてはならないのだ。なるほど。しかし道は遠い。
いずれにせよ内田さんは、「これはだめ、こういうのもだめ」とは言うけれど、「ではこうしよう」という政策的提言はしない。そこが歯がゆいし、不満なんだけど、でもきっと先生はそんなことには興味がないか、むしろそういう政策的なものに直結するようなことはあえていいたくないんだろう。というか、次元が違うんだろうな、言いたいことの。
その点、宮台真司は社会学者だけあって積極的に政治にコミットする。この二人、タッグマッチを組めばかなりいい仕事ができると思うんだけど。
この本は、『他者と死者』を葉っぱ64さんと交換したのであった。もう既に次の予約が入っている。
でまあ、4冊読んだ感想を言えば、『他者と死者』がいちばんよかった。やっぱりレヴィナスって偉大なんだ。
同じことばっかり書いてあるとか飽きたとかいいながら、次またウチダ先生の本を読もうと思っている懲りないウチダファンであった。
<書誌情報>
街場の現代思想 / 内田樹著. -- NTT出版, 2004
東京ファイティングキッズ / 内田樹, 平川克美著. -- 柏書房, 2004
他者と死者 : ラカンによるレヴィナス / 内田樹著. -- 海鳥社, 2004
死と身体 : コミュニケーションの磁場 / 内田樹著. -- 医学書院, 2004(シリーズケアをひらく)
『東京ファイティングキッズ』はその点、ウチダ先生だけでなく平川さんとの往復書簡だから異業種混交というか異種バトルというか、そういうおもしろさがあるかと思ったのだが、これまたどういうわけか二人の語彙や文体がそっくりなので新鮮味がないのだ。いや、おもしろくないのではなく、とてもおもしろく読み終えたし、考えさせられることやタメになる話も多かったのだけど、こうも同じ文体が続くとちょっと食傷気味になる。
とはいえ、平川さんのアメリカ社会論は実に興味深かったし、『アメリカの反知性主義』という40年も前に書かれた本を引用紹介してある部分にいたく惹かれたので、次はこの本も読んでみようと思っている。最近、ちょっと続けてアメリカ政治思想関係の本を読んだ(または読む予定)があるので、ちょうどいい機会かも。アメリカのグローバリズムに毒されて日本もとんでもない社会になりつつあるという危惧がわたしには強いので、このへんでちゃんと勉強してみたい。
ちなみにうちのつれあいが図書館で『人種差別の帝国』を借りてきて読んだのだが、「アメリカというのはひどい社会や」と憤っていた。中学1年の息子もこの本を貪り読んでいたから、きっとおもしろいんだろうな。
『東京ファイティングキッズ』は時事問題によく言及してある本なので、ビビッドな感じがしてなかなかおもしろかった。
『街場の現代思想』は新刊書の分類では「人生訓」に入れられそうな本だ。(じっさいにはエッセイに分類されている)
ウチダさんはけっこうオヤヂっぽい。口うるさくて説教臭い。でもそれがなんか当たってるからなかなかイヤと言えないところがある。でもわたしみたいな天邪鬼で人の言うことを素直に聞かないタイプの人間は逆らいたくなるのだ。本心では納得していても、簡単に「そうね」とは言いたくないのだ。
でもまあ、この本もなんだかヘラヘラと笑いながらおもしろく読了してしまった。ピエール・ブルデューの唱えた「文化資本」概念の説明の部分は特におもしろくて笑ってしまった。若者よ、読め。
んで、またまた続いて『死と身体』を読了。レヴィナス論であるところの『他者と死者』とかなりかぶる。両書に共通して書かれていたことのなかでも特に印象に残ったのは、「倫理とは何か」という部分と「他者とは死者のことである」、「埋葬することによって人間は人間になった」という部分。
「どうして人を殺してはいけないのですか」と問うた中学生に誰一人まともに答えられないという問題について、内田さんはこういう。
問いの立て方が間違っているのですが、それは、「自分はこのような問いかけを、いついかなる場合でも口にできるか?」という問いを自分に向けていないからです。
その中学生が、ナイフを持った男に捕まったとします。そしてナイフを突きつけられて、今まさに喉をかき切られようとしているとき、ナイフを持った男が「どうして人を殺してはいけないのか?」とまわりの人に問いかけたとします。そのとき、喉元にナイフを当てられたこの中学生は、犯人といっしょになって、「どうして人を殺してはいけないのですか?」と唱和できるでしょうか?
………
自分がある言明をするとき、その言明がなしうるのは、ごく特殊な条件のもとに限定されているのではないか、という自問をすること、それがわたしたちには必要です。p159-160
テロリストの根絶を呼号するアメリカ大統領はおそらくテロの犠牲になったアメリカ市民たちの痛みに深く共感しているのでしょうし、聖戦を指示する聖職者はアメリカの空襲の犠牲になった同胞の痛みに深く共感しているのでしょう。
………
他人の身になってみるとか、想像力をめぐらせてみるといったことにしても、そのとき「その身」になってもらえる「他人」のカテゴリーに誰が含まれ、誰が含まれないのかについて問われないのであれば、倫理を基礎づけることはできません。
ではもし、ありとあらゆる他者に共感でき、想像力を発揮できるひとがいたとしたら、そのひとは倫理的にふるまえると言えるでしょうか?
おそらくそのひとは「殺される側の人」の「痛み」に共感すると同時に、「殺す側の人」をそのような極限的な立場にまで追いつめた「切ない事情」にも共感してしまうでしょう。世界中のすべての他者に共感してしまう人間がもしいたとすれば、おそらくその人はただ黙って立ち尽くし、すべての苦痛と悲惨にただ涙を流しつづけることしかできないでしょう。p161-162
ハイデガーにせよレヴィナスにせよラカンにせよ、彼らは絶対的な他者として死者を措定するが、これは西洋的な死生観だと思う。仏教思想では、死者は他者ではないのではないか? よく知らないが。
それに、死者は死体とは違うのだ。死体は物体だが、死者は人格をもっているのではなかろうか。ま、そんなことをつらつらと考えた。
共感も共鳴も同情もできない絶対的な他者、それが死者。人間は死者の声すら聞くことができる。それが埋葬という行為だ。だから、人間は他者と共存できるのだ。汝の敵と共存できる。と、内田センセイはおっしゃる。死者の声を聞けるからこそ、死者の声を代弁してはならないとも。使者に代わって復讐を考えたりしてはならないのだ。なるほど。しかし道は遠い。
いずれにせよ内田さんは、「これはだめ、こういうのもだめ」とは言うけれど、「ではこうしよう」という政策的提言はしない。そこが歯がゆいし、不満なんだけど、でもきっと先生はそんなことには興味がないか、むしろそういう政策的なものに直結するようなことはあえていいたくないんだろう。というか、次元が違うんだろうな、言いたいことの。
その点、宮台真司は社会学者だけあって積極的に政治にコミットする。この二人、タッグマッチを組めばかなりいい仕事ができると思うんだけど。
この本は、『他者と死者』を葉っぱ64さんと交換したのであった。もう既に次の予約が入っている。
でまあ、4冊読んだ感想を言えば、『他者と死者』がいちばんよかった。やっぱりレヴィナスって偉大なんだ。
同じことばっかり書いてあるとか飽きたとかいいながら、次またウチダ先生の本を読もうと思っている懲りないウチダファンであった。
<書誌情報>
街場の現代思想 / 内田樹著. -- NTT出版, 2004
東京ファイティングキッズ / 内田樹, 平川克美著. -- 柏書房, 2004
他者と死者 : ラカンによるレヴィナス / 内田樹著. -- 海鳥社, 2004
死と身体 : コミュニケーションの磁場 / 内田樹著. -- 医学書院, 2004(シリーズケアをひらく)