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ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

内田本4冊

2004年12月18日 | 読書
 この一ヶ月ほどの間にウチダ先生の本を4冊読んだ。さすがにちょっと飽きてくる。「あ、またここにも同じことが書いてある」なんて思ってしまうのだ。

 『東京ファイティングキッズ』はその点、ウチダ先生だけでなく平川さんとの往復書簡だから異業種混交というか異種バトルというか、そういうおもしろさがあるかと思ったのだが、これまたどういうわけか二人の語彙や文体がそっくりなので新鮮味がないのだ。いや、おもしろくないのではなく、とてもおもしろく読み終えたし、考えさせられることやタメになる話も多かったのだけど、こうも同じ文体が続くとちょっと食傷気味になる。
 
 とはいえ、平川さんのアメリカ社会論は実に興味深かったし、『アメリカの反知性主義』という40年も前に書かれた本を引用紹介してある部分にいたく惹かれたので、次はこの本も読んでみようと思っている。最近、ちょっと続けてアメリカ政治思想関係の本を読んだ(または読む予定)があるので、ちょうどいい機会かも。アメリカのグローバリズムに毒されて日本もとんでもない社会になりつつあるという危惧がわたしには強いので、このへんでちゃんと勉強してみたい。

 ちなみにうちのつれあいが図書館で『人種差別の帝国』を借りてきて読んだのだが、「アメリカというのはひどい社会や」と憤っていた。中学1年の息子もこの本を貪り読んでいたから、きっとおもしろいんだろうな。

 『東京ファイティングキッズ』は時事問題によく言及してある本なので、ビビッドな感じがしてなかなかおもしろかった。

『街場の現代思想』は新刊書の分類では「人生訓」に入れられそうな本だ。(じっさいにはエッセイに分類されている)
 ウチダさんはけっこうオヤヂっぽい。口うるさくて説教臭い。でもそれがなんか当たってるからなかなかイヤと言えないところがある。でもわたしみたいな天邪鬼で人の言うことを素直に聞かないタイプの人間は逆らいたくなるのだ。本心では納得していても、簡単に「そうね」とは言いたくないのだ。

 でもまあ、この本もなんだかヘラヘラと笑いながらおもしろく読了してしまった。ピエール・ブルデューの唱えた「文化資本」概念の説明の部分は特におもしろくて笑ってしまった。若者よ、読め。



 んで、またまた続いて『死と身体』を読了。レヴィナス論であるところの『他者と死者』とかなりかぶる。両書に共通して書かれていたことのなかでも特に印象に残ったのは、「倫理とは何か」という部分と「他者とは死者のことである」、「埋葬することによって人間は人間になった」という部分。

 「どうして人を殺してはいけないのですか」と問うた中学生に誰一人まともに答えられないという問題について、内田さんはこういう。

 問いの立て方が間違っているのですが、それは、「自分はこのような問いかけを、いついかなる場合でも口にできるか?」という問いを自分に向けていないからです。
 その中学生が、ナイフを持った男に捕まったとします。そしてナイフを突きつけられて、今まさに喉をかき切られようとしているとき、ナイフを持った男が「どうして人を殺してはいけないのか?」とまわりの人に問いかけたとします。そのとき、喉元にナイフを当てられたこの中学生は、犯人といっしょになって、「どうして人を殺してはいけないのですか?」と唱和できるでしょうか?
 ………
 自分がある言明をするとき、その言明がなしうるのは、ごく特殊な条件のもとに限定されているのではないか、という自問をすること、それがわたしたちには必要です。p159-160

テロリストの根絶を呼号するアメリカ大統領はおそらくテロの犠牲になったアメリカ市民たちの痛みに深く共感しているのでしょうし、聖戦を指示する聖職者はアメリカの空襲の犠牲になった同胞の痛みに深く共感しているのでしょう。
 ………
 他人の身になってみるとか、想像力をめぐらせてみるといったことにしても、そのとき「その身」になってもらえる「他人」のカテゴリーに誰が含まれ、誰が含まれないのかについて問われないのであれば、倫理を基礎づけることはできません。
 ではもし、ありとあらゆる他者に共感でき、想像力を発揮できるひとがいたとしたら、そのひとは倫理的にふるまえると言えるでしょうか?
 おそらくそのひとは「殺される側の人」の「痛み」に共感すると同時に、「殺す側の人」をそのような極限的な立場にまで追いつめた「切ない事情」にも共感してしまうでしょう。世界中のすべての他者に共感してしまう人間がもしいたとすれば、おそらくその人はただ黙って立ち尽くし、すべての苦痛と悲惨にただ涙を流しつづけることしかできないでしょう。p161-162



 ハイデガーにせよレヴィナスにせよラカンにせよ、彼らは絶対的な他者として死者を措定するが、これは西洋的な死生観だと思う。仏教思想では、死者は他者ではないのではないか? よく知らないが。
 それに、死者は死体とは違うのだ。死体は物体だが、死者は人格をもっているのではなかろうか。ま、そんなことをつらつらと考えた。

 共感も共鳴も同情もできない絶対的な他者、それが死者。人間は死者の声すら聞くことができる。それが埋葬という行為だ。だから、人間は他者と共存できるのだ。汝の敵と共存できる。と、内田センセイはおっしゃる。死者の声を聞けるからこそ、死者の声を代弁してはならないとも。使者に代わって復讐を考えたりしてはならないのだ。なるほど。しかし道は遠い。

いずれにせよ内田さんは、「これはだめ、こういうのもだめ」とは言うけれど、「ではこうしよう」という政策的提言はしない。そこが歯がゆいし、不満なんだけど、でもきっと先生はそんなことには興味がないか、むしろそういう政策的なものに直結するようなことはあえていいたくないんだろう。というか、次元が違うんだろうな、言いたいことの。

 その点、宮台真司は社会学者だけあって積極的に政治にコミットする。この二人、タッグマッチを組めばかなりいい仕事ができると思うんだけど。



 この本は、『他者と死者』を葉っぱ64さんと交換したのであった。もう既に次の予約が入っている。

 でまあ、4冊読んだ感想を言えば、『他者と死者』がいちばんよかった。やっぱりレヴィナスって偉大なんだ。

 同じことばっかり書いてあるとか飽きたとかいいながら、次またウチダ先生の本を読もうと思っている懲りないウチダファンであった。
 

<書誌情報>

街場の現代思想 / 内田樹著. -- NTT出版, 2004

東京ファイティングキッズ / 内田樹, 平川克美著. -- 柏書房, 2004

他者と死者 : ラカンによるレヴィナス / 内田樹著. -- 海鳥社, 2004

死と身体 : コミュニケーションの磁場 / 内田樹著. -- 医学書院, 2004(シリーズケアをひらく)

「都市主義」の限界

2004年12月16日 | 読書
「都市主義」とはすなわち「脳化社会」のことをいう。現代社会の二項対立は左右のそれではなく、保守革新のそれでもなく、要するに脳と身体の対立なんだそうな。
 
 全共闘運動も、左右の対立とか革命派と体制側の紛争ではなくて、都市と田舎の対立なんだそうだ。全共闘の学生たちは田舎。体制側は都市。で、田舎は身体で、都市は脳。

 とまあ、こういう話から始まって、都市は人間の脳が生み出したものだから、身体のもつ自然な力をそぐものであるというような話が続く。各種のメディアに書いたエッセイの集成なので、同じ事を何度も繰り返したりという部分もあって途中ちょっとだれてくるけれど、おもしろく読めた。

 本書は『バカの壁』よりかなりいい。この人はよくなんでも脳のせいにすると批判されるのだが(わたしもそう思っていた)、よくよく読めばちょっと違う。ただ、気になるのは都市対田舎、脳対身体という二元論をそんなに強調していいのかな、ということ。

 養老さんの魅力は極論を言うところにあるんだろうな。だからつい筆が滑って失言もふえる。内田樹さんがどの本だったかで、「養老先生は世間をなめている」と絶賛していた。そのなめ方がなかなかいい。老人になってしまってリタイアしたらもう怖いものなし、って感じ。

 タメになる部分は吸収し、話半分に聴いといたほうがよさそうなところはさっさと読み飛ばせば、養老さんの言っていることは森岡正博さんの「無痛文明論」に通底するものがかなりあって、興味深い。

 ところで、本書は図書館で借りて読んだのだが、現在は絶版で、増補版が『あなたの脳はクセがある』という文庫で出版されている(画像)。今日、ジュンク堂で文庫版を立ち読みしてきた。内容はほとんど同じ。最後に一編、書き下ろしのエッセイが追加されているぐらいか。


<文庫版の書誌情報>

あなたの脳にはクセがある : 「都市主義」の限界
  養老孟司著. -- 中央公論新社, 2004. -- (中公文庫)

タイトルにそそられたのはいいけれど

2004年12月10日 | 読書
 ノーベル賞受賞作なんだそうで、しかもこのタイトル。そそられてしまったわたしは単なる好色一代女か? ついうっかり読み始めたのはいいけれど、ドイツ語の駄洒落を日本語で読むという苦しさは想像を絶するものがある。単なる駄洒落だけじゃない、ほとんど全文が隠喩だけで構成されているという代物。これは難儀です。

 しかも、相当いやらしくスケベなのである。「あ、こういうセックスっていやだわぁ~」と引いてしまうような描写ばかりが続く。わたしには合わない、これ。とにかく苦痛でたまらないけど、最後がどうなるのか気になってしょうがないから、とうとう3日かかって読んでしまった。でも途中かなりすっ飛ばしたから、ほんとはちゃんと筋すら把握できていない恐れがある。

 作者はオーストリアで「赤いポルノ作家」と呼ばれているそうで、なにしろ延々と続く性描写には、資本家の強欲というものを肌で実感させるいやらしさがある。製紙工場の所長である中年の男は年がら年中いや、日がな一日中発情しているような絶倫男で、妻を相手にあの手この手で責めまくるのである。ところが夫に毎日無理強いされるセックスに嫌気がさしているはずの妻もまた、若い男とのセックスにのめりこんでいく。しかも彼らのセックスは尋常ではない。権力欲と己の欲望のままに相手に向かうその態度は、夫婦のセックスもしかり労働者の扱いもしかり。

 あー、もういいかげん、ねちねち延々だらだらずるずると続くセックス描写とその描写から天衣無縫に逸脱する言葉のジェットコースターにはすっかり酔ってしまった。これ以上酔うと二日酔いになりそう。

というわけで、なんとか読了したけど、ええええ?? そんな結末ってあり??
 

<書誌情報>

 したい気分
 E.イェリネク著 中込啓子,リタ・ブリール訳 鳥影社・ロゴス企画部 2004.2


サルトル研究は今でも続く

2004年11月14日 | 読書
 『サルトル(図解雑学シリーズ)』の著者永野潤氏の「サルトラ日記」がかなりおもしろいので、最近よく読んでいる(ちょっと前まで「HIMANIZM」というタイトルだったはずなのだが…)。特に「オンラインブックショップbaka1 売り上げランキング」は抱腹絶倒もので、わたしのお気に入りだ。 

 永野氏の『サルトル』の書評をbk1に投稿したのを機会に永野さんのBBSに書き込みして、同書に掲載されている写真を撮影された方ともお話した。ネット時代には著者と読者がダイレクトにつながるというおいしい思いをすることができるのだ。

 それにしてもサルトルの女たらしぶりには改めてあきれてしまった。ボーボワールとの自由結婚だって、要するにサルトルの浮気を合理化するものだという側面が強いみたい。わたしは好色な哲学者って好きなんだけど(笑)。


----------以下、bk1投稿書評------------

サルトル 図解雑学
永野 潤著 ナツメ社



 ポストモダン思想がもてはやされ、サルトル流の「主体」が解体されてしまった現在、サルトルの時代は終わったと言われて久しい。

 ところが、本書の著者永野潤氏はそうは思っていない。

【サルトルの思想が、重くまじめな「主体」の哲学である、というのは大きな誤解です。サルトルは、その思想の出発点から、「私」という殻に閉じこもる従来のまじめで重々しい哲学を批判し、「外に出よう」と訴えていました。……サルトルとサルトル以後の断絶はそんなに自明なことではないのです。】(はじめに)

 だから、まだまだサルトルから学ぶことはあるのだ。
 というわけで、サルトル入門書。これが実によくできていておもしろいから、ぐいぐい読んでしまう。
 
 見開き2頁で1項目。左が本文、右が漫画による図解頁。わかりやすい。サルトルの生い立ちに沿って彼の思想の変遷がコンパクトに語られる。初心者にはわかりやすく(といっても、それほど簡単なわけではない。やはりそれなりに難解な用語も出てくるのだが、それは右側の漫画が理解に役立つ)、サルトル経験者には格好のおさらい書となる。

 サルトルは生涯に亘って何度も自らの思想を否定し、新しい思想を紡いでいった哲学者だが、後知恵でいえば、いくつも誤りを犯している。決定的なのがソ連に対する評価だろう。
 例えば西永良成氏は、サルトルのことを「深く絶望しつつもあえて「希望を作り出さねばならない」と言い、かつての「思想の君主」の義務を律儀に果たそうとした——そして、そのような寛大さこそが否定しえぬサルトルの偉大さだった」(ミラン・クンデラ『無知』の訳者後書)と評価しつつも、サルトルは68年のプラハの春までソ連を擁護し続けたわけであり、そのことが「ソルジェニーツイン、あるいはクンデラなど東側の多くの人びとからは「自己欺瞞」、「責任の拒否」と感じられて当然だった」という。
 永野さんのこの本でも盟友メルロ・ポンティとの確執が取り上げられているが、『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』を読む限り、非はサルトルにあると私は思う。永野氏もさまざまな表現でサルトルの過ちについて語っている。

 サルトルの間違いがさんざん指摘されているにもかかわらず、なぜ今、サルトルなのだろう。サルトルからとりわけ学ぶべきことは、その知識人論にあると著者はいう。

【知識人は自分のうちに矛盾をはらんだ、孤独な存在だ…。…サルトルは「既存の知識人を擁護したのではなく、むしろそれを批判しようとした。彼は、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき私たちは誰であれ真の知識人になると言おうとしたのである。その意味でサルトルが提起した知識人の問題は現代の私たちと無関係な問題ではない。サルトルにならっていえば、それは「われわれの問題」なのである。】(242p)

 「「テロとの戦い」という名目で最も豊かな国が最も貧しい国を報復爆撃する」ような現在、「サルトルを乗り越えたと自称する人々は、タコツボ的「専門家」か「偽の知識人」以上の役割を果たしているだろうか?」と著者は問う。これこそが、サルトルを読むことの意義だと著者が強調したい点だろう。

 改めてサルトルの思想をたどっていくと、確かに現代思想といわれるものとの類似性を驚くほど感じてしまう。やはり忘れ去られていい哲学者とは思えない。ただし、階級論の単純な理解/適応はもはや通用しないだろうし、啓蒙主義的な知識人のありかたについても再考の余地はあると思う。サルトルをどのように咀嚼するのか、何を教訓として引き出すのか、何を学ぶべきなのか、本書を閉じたあとにこそ課題は待ち受けている。



「ソラリスの陽のもとで」の新訳が出た

2004年11月12日 | 読書
 これは旧訳よりかなりいい。実をいうと旧訳本の印象はあんまり残っていないのだが、前に読んだときよりもかなり感動しながら読んだ。訳がいいのだろうか? 旧訳はロシア語版からの翻訳で、新訳は原典ポーランド語版からの訳出だから、原典に近いのだろう。ロシア語版で削除されていた部分も復活してあるし。

この作品に関してはタルコフスキー監督「惑星ソラリス」→ソダーヴァーグ監督「ソラリス」→旧訳『ソラリスの陽のもとで』→新訳『ソラリス』という順に鑑賞したが、いずれも標準以上に素晴らしく、とりわけタルコフスキーの映画は震える思いで見た覚えがある。DVDも買ってしまったし。
新訳本を読んだのを機会に、買ったまま未見だったDVDをもう一度見たい。

繰り返しのきかない決定的な過ちに再び遭遇したときの人間心理と倫理はいかにあるのか? そして、愛はそもそも何に向かうものなのか? 幻影を愛することはできるのか? 無意識の奥底に仕舞っておきたいものと遭遇させられるとき、人はいかようにその試練に耐えるのか?

本書のテーマは実に興味深い。多用な解釈を生む心理劇であり、かつ「科学」への懐疑と畏敬を含む作品だ。

この作品は、映画版ほどにはそれぞれのテーマが深められていないのだ、実は。タルコフスキーの理解もソダーバーグの理解もクリアで、原作からそれぞれの解釈を抽出し、原作以上に感動的に呈示している。

本書は巻末の訳者解説も充実していて、ほんとにお奨めだ。
これによると、原作者レムは、映画化された二作品ともに不満だったらしい。
でもねえ、そんなのは読者の勝手でしょ、とわたしはいいたい。
タルコフスキーの解釈もソダーバーグの解釈も、どちらもいいじゃないの。
それに不満を表明するなんて、原作者の特権とは言い難いと思うのですが、いかがでしょーか。

 ※映画「惑星ソラリス」評と映画「ソラリス」評はシネマインデックスから探してお読みください。

<書誌情報>

ソラリス / スタニスワフ・レム著 沼野充義訳 国書刊行会 2004

怪漢金俊平の生き様そのもののような骨太な文体「血と骨」

2004年11月08日 | 読書
 よくぞこんなすさまじい男もいたもんだと驚いてしまう波乱万丈の物語だ。

 骨太い文体は主人公金俊平のイメージそのものだ。暴力と酷薄と吝嗇だけに生きた男の生涯を、作家梁石日は叙情を排した文体で石に文字を刻み付けるように描いていく。作家自身の父のことだからだろうか、感情描写を極端に排した、<出来事の積み重ね>のみによって彼は父の生涯を物語にした。
 淡々とした文体には技巧も美しさもないのだが、性交の場面だけがどういうわけか入念に書き込まれていて、しかもその表現がけっこう陳腐なので苦笑を禁じえない。

 このような書きかたは、主人公金俊平に読者の誰もが感情移入も同化もできず、ましてや共感や同情など抱くことができないように仕組まれている。

 なぜこのような凶暴な男が存在するのか、その理由は誰にもわからない。金俊平の胸の内はほとんど描かれない。彼は最期まで謎の人物なのだ。

 こういう人間を見ると、わたしなどは「なぜこのような常軌を逸した心理を持つ人間が育つのか」とすぐに「原因」を求めたくなるのだが、そのような「生育歴に原因を求める」などという分析を一切あざ笑うかのような化け物として超然と金俊平は屹立する。

 なぜ梁石日は俊平の内面を描かなかったのだろう。なぜ彼をこのように粗暴なだけの男に描ききったのだろう。もちろん最後は孤老の憐れさを誘うのだが、作家は最後まで俊平に同情を寄せない。同情の気持ちをもてないのだ。
 しかし、この小説を最後まで読んだ読者は、金俊平の憐れな老醜に、自業自得という思いと同時に憐憫の情も抱いてしまうだろう。それは、最後まで誰にも心を開くことのなかった男の孤独があまりにも濁った光を放つからだ。

 家が貧しかったからとか被差別体験が金俊平をこのような怪物にしたなどという<解釈>の余地を許さないような、言語を絶する男の生涯にしばし呆然とするような小説だ。この怪物がけなげに寝たきりの愛人の世話をする場面だけが意外な心温まるエピソードとして挿入されているにもかかわらず、やはりその場面も淡々と描かれている。怪物の怪物たるゆえんか、このような場面ですら金俊平の毒は中和されたりしない。

 ところで、解放前の在阪朝鮮人の運動について描かれた場面は、わたし自身がかつて論文を書くために調べた事実が次々に頭に浮かび、懐かしさを覚えた。このあたりの描写は平板でおもしろみに欠ける。やはり直接作家が体験した戦後の朝鮮人長屋の描写ほどには生き生きとした魅力がない。

 映画「血と骨」のレビューはピピのシネマな日々をどうぞ。

「朝鮮半島をどう見るか」

2004年11月05日 | 読書
 なんで今までこういう本がなかったのだろう。
 目から鱗が落ちるとはこのことだ。本書の問題意識は極めて明確、明快、そして鮮やか。<朝鮮半島についての先入観を一切捨ててみたら、どう見えるだろう>。テーマはこれだけ。

 どうして日本人は、朝鮮半島について語るときに、ほかの国のように「普通」に語ることができないのだろうか。スリランカやモロッコの歴史を学ぶのと同じような態度でなぜ朝鮮半島のことを考えられないのか? と、著者は問う。
 本書は、朝鮮半島に興味をもった学生相手に語るという文体で一つずつ順に著者の「講義」が開陳されていく。

 いま、巷間、朝鮮半島に関する肯定・否定両方のステレオ・タイプ言説がまかり通っている。それらは思い込みによって導かれた論であり、不毛な論争が展開にされているにすぎないということを、著者は具体的な数字を挙げて論証する。

 まずは、朝鮮半島の大きさ、人口から。朝鮮半島は小さいのか? 地理的にも、経済的にも韓国と北朝鮮はほんとうに小さな国か? GDPは、軍事費は? そして、朝鮮半島は小国だから植民地にされたという思い込みも本当だろうか? それを明らかにするために、著者は植民地時代の人口統計を引用する。

 日本と朝鮮半島は運命共同体か。グローバル時代になぜ朝鮮半島が運命共同体といえるのか。単に地理的に近いという以外に韓国や北朝鮮が日本と特別な関係を結ぶという意味は本当にあるのか? 朝鮮半島についてだけ、なぜ特別視するのか?

「サッカーの試合を観に行ったはずなのに日韓友好についてしか語らない人や、自分の最愛の人を語るときに「私の妻は朝鮮人だ」としか表現できない人は、どこか不自然だ。それは、彼らがサッカーの試合そのものや愛するその人を見ていないからだ。彼らが見ている尾は、試合や最愛の人の背後にイメージされている朝鮮半島、しかもステレオタイプと化した朝鮮半島の姿だ」55p

 このように、著者は繰り返し「ステレオ・タイプ」や「思い込み」を批判し、具体的に反論していくのだ。

 たとえば、朝鮮人は強い民族意識を持っていると思われているが、それは本当だろうか。
 歴史的に見て、激しい民族闘争が行われてきたのだろうか? それについても、植民地下で起こった反帝闘争を他の植民地での闘争と犠牲者の数を比較して述べていく。朝鮮での反日運動は、一時的に激しくなっても、すぐに消滅してしまうというのが著者の結論だ。それについては、血なまぐさい弾圧だけが闘争敗北の理由とは思えないという。彼らは、強い民族意識を持っていても、しょせんは大国にかなわないという諦めをもってしまうのだ。「朝鮮半島の人々の中には、民族意識と「小国」意識が同居している」(99p)

 植民地支配についての賛否両論の評価についてはどうだろう。確かに日本の植民地下において経済発展したけど、政治的権力がなく外国人に支配されているという状況が果たしてよいことだろうか。自分が当時の朝鮮半島に暮らしていたらどう感じるかを考えてみることだ。それが判断の基準になるはず、と著者はいう。
そして、植民地支配が終わって半世紀がすぎてもいまだに朝鮮半島との関係がこじれているのは、「和解の儀式」ができなかったことに原因がある。朝鮮は自力で解放されなかったし、日本は朝鮮人に負けたとは思っていない。そこに不幸なボタンの掛け違いがあるという。

【私たちは、「過去」にかかわる問題がなんらかの方法により解決可能だと安易に考えるのではなく、「過去」にまつわる議論とともに生きなければならないという「現実」を覚悟する必要がある】(146p)

最後に、北朝鮮についての考察が述べられる。飢餓が国を崩壊させるか? それはありえないというのが著者の結論だ。人はお腹が空きすぎたら、首都へ出かけてデモするよりも食糧を求めて亡命するほうを選ぶ。飢餓によって政治体制が崩壊するなどというのは誤りだというのが著者の見方だ。そして、最近の「北朝鮮が目指しているのは体制の保障を得ることであり、経済援助は二の次だ」から、北朝鮮がこわいのはアメリカによって体制を潰されることである。ただし、今後、北朝鮮の体制が崩壊するのかどうか、なんてわからない。わからないことの理由は情報が少ないから。少ない情報で安易に結論を出すな、と。
 なるほど、専門家でもやっぱり判らないことは判らないのだ。

ここまで、著者は様々な統計を駆使して「韓国人は」とか「日本人は」などというものの言い方をしてきたのだが、最後に、「どこにもいない「平均的で典型的な韓国人や朝鮮人」など探すな。一人ひとりの現実を受け止め、多様な現実をそのまま受け止めること」が大切だと述べている。わたしがもっとも共感したのはこの部分だった。

 本書は、朝鮮半島に反ついて考える格好の入門書・啓蒙書だ。ただ、これを読んだからといってそれほど革命的に見方や考え方が変わるわけではないというところが残された問題だろう。なるほど、数字を挙げて具体的に論証された部分についての偏見や謬論については正せるかもしれない。しかし、数字や事実で揺らがない人々の感情や意識、主義主張というものもまた確かに存在する。

「「交流による解決」という魔術を信じて半ば人任せにして放置すること」(146p)は、決して日本と朝鮮半島の人々にとってよいことではない。本書はあくまで入門書なので、「残された問題」についてはまた別のところで考察していく必要があるだろう。


(以上を1600字に以内に短くしてbk1に書評投稿)


笑いながら読了。

2004年11月02日 | 読書
 10月31日のブログにも書いたけど、笑いながら読み進めて最後まで笑っていた、大ケッサクな社会学講座だった。こんなおもしろい統計漫談も類書がないのでは。

とにかくおもしろすぎるわ。

毎回、講義の最後にまとめがあるのだが、これがまたケッサク!
「夏季限定首都機能移転論」のまとめには、

「相田みつをに癒されている間にも、地球環境や社会情勢は悪化しています」
「社会学者と心理学者が組めば、世界征服も夢ではありません」

などと書かれている。

全編これブラックユーモアに充ち満ちて、しかもそれらがきちんと統計に基づいた科学的な卓見なのである(ほんまか)。

間違いなくおもしろい。絶対お奨め。今年のベスト3に入れてしまおう。

素敵な論文「時への捧げもの」

2004年10月31日 | 読書
「めぐりあう時間たち」については前にも少し書いたけれど、今般、雑誌『Becoming』14号に掲載された西山けい子さんの論文を読んで、映画の感動が甦ってきた。

 映画に登場する3人の女性たちに共通するモチーフは、ヴァージニア・ウルフのいう「存在の瞬間」を生きるとことだという。

 <<ウルフは、…… 日常には「存在の瞬間(moments of being)」と「非存在の瞬間(moments of non-being)」があるとしている。強い感動を受けたとき、あるいは強烈な恐怖を感じたとき、自分という意識が失われ、自分が一個の感覚の受容器になってしまうことがある。それがウルフのいう存在の瞬間である。存在の瞬間が意識される日は彼女にとっては「よい日」であるが、たいていははるかに多くの非存在の瞬間が真綿のように存在の瞬間をくるんでいる>>

 西山さんは、この「存在の瞬間」を感じながら生きる女たち(男も)と、「非存在」の時間を生きる者達との相容れなさをキーワードにこの物語を読み解く。

 ウルフの「存在の瞬間」という体験は、彼女の哲学を生み出す。それは、「日常のありふれたものが突然別の様相をもって立ち現れ、世界が刷新される経験、作田啓一のいうところの<溶解体験>」だという。

 さらに西山さんは作田啓一を引用しつつラカンとレヴィナスをつないで、「他者」へと言及していく。ラカンとレビナスと「他者」、とくれば内田樹さんの最新刊『死者と他者』ではないか。これも早く読まなくては。


 西山論文は映画及び小説「めぐりあう時間たち」の魅力を存分に引き出してくれた。
 ただ一つ疑問が残ったのは、「表層の自己」と「深層の自己(ほんとうの自分)」という分裂だ。平凡で幸福そうな主婦ローラが表層の自己と深層の自己に引き裂かれて死を願うという解釈はありきたりで、もう少し違うところから解釈してほしかった。あるいは、そのありきたりさを、映画『めぐりあう時間たち』はあそこまで素晴らしく描いた、という意味でも傑作なのだろう。

 ますます『ダロウェイ夫人』を再読したくなった(今度は丹治訳で)。また、未読の『めぐりあう時間たち』も読みたいし、映画ももう一度見たい。

映画の感想は「シネマ日記」に書きました。urlはここ↓
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/040119.htm

笑いながら読書中

2004年10月30日 | 読書
 今、二冊の本を同時に読んでいて、どちらもおもしろ可笑しいもんだから、ゲラゲラ笑ったりクスクスにやりと笑って楽しんでいる。

 一冊は文庫本。『文章教室』という名の小説だ。これは葉っぱ64さんお奨めの小説で、興味をそそられて読み始めたところ、やはり可笑しい。初出は1983~4年、雑誌『海燕』。

 今、各種新人賞への応募作は「男はリストラ、女は不倫の話ばかり書いてくる」と、某文芸誌に書いてあったが、この小説の時代から既にそうだったのだ。主人公の40代前半の女性は文章教室に通い始めて、自分の体験をもとに不倫小説を書くのである。

 この小説じたいがメタ小説になっていて、いろんな本からの引用に彩られている。また、ベタな表現はすべて主人公の書いた下手な小説というか手記というか日記からの引用ということになっていて、なかなか憎い作りだ。

 読了したらまたコメントを追記する予定。

<書誌情報>

文章教室 (河出文庫) / 金井美恵子著 河出書房新社 1999年


 そしてもう一冊が、今売れに売れているらしい、『反社会学講座』。図書館で借りたのだが、わたしの前にも後ろにも予約者がいっぱい。6月23日に初版1刷が出て、8月30日に4刷だ。まだまだ増刷しているんじゃないかなぁ。

 これは文体がユーモラスで辛口でとても面白い。トンデモ本の一種かと思えば、意外ときちんと統計などの資料に当たっているので、真面目本なんだろう。でも、社会学者は統計を自分の好きなように恣意的に作りかえたり我田引水の引用をすると批判しながら、本人もやっているところがまた可笑しい。

 中学生ぐらいにも十分楽しめる本なので、次は息子に読ませる予定。これも読み終わったらコメントを追加する。

<書誌情報>

反社会学講座 / パオロ・マッツァリーノ著 イースト・プレス 2004年


「マルクスと息子たち 」

2004年10月30日 | 読書
 あれ、デリダにしてはえらく読みやすいじゃないの。なんておもしろいんだ! 訳がいいのかな? と思いながら読み始めたのはいいけれど、果てしなく続く前書きのような文章の連続に嫌気がさし、「いったいいつになったら本論に入るんや?!」とぼやき始めたころ、いつの間にか本論になっているのだ。

 あ、やっぱりデリダは偉いなぁと思っているうちに、「あれ? そんな結論? へ? 結論はどこ? デリダ先生ともあろうお方が、もっとすごーいことを書いてないの?」で終わるのである。

 というわけで、よかったのか悪かったのはよくわからない本なのだ。

 華麗な技巧を凝らした修辞の果てに得られた結論が、「今日では階級を同定するのはほとんど不可能だし、そんな漠たるものに自己を同化できるような人はいない」とか「革命のための組織は必要だが、それは国家・党といった従来の組織形態を目指さない」とかいった、誰でも思いつくようなことだとしたら、この偉大な哲学者の本を読む値打ちはどこにあるのか?

 そもそも、本書は『マルクスの亡霊』に対する批判への応答なのだ。『マルクスの亡霊』を読まずに本書を読むのはいかにも苦痛であり隔靴掻痒の感は否めない。
 『マルクスの亡霊』の日本語訳を待ってから本書を読むべきであった。

 しかし、ここで打ち捨ててはいけない。捨てる神あれば拾う神あり。

 巻末訳者解説、これが簡にして要をえた内容となっており、たいへんわかりやすく、お奨め。
 ただ、最後までわかりにくくて宿題として残ったのは、以下の点。これからもう少し勉強してみよう。

*憑在論と存在論 憑在論は存在論に先行する(訳者解説 200p)

 まあしかし、哲学・思想というのは実践して初めて意味をもつと思うので、これらの思考のあざなえる縄をどのように生き方に反映させていくのか、こそが大事だと思う。


◆今後の必読文献

『マルクスの亡霊』(未刊)
『革命的な、あまりに革命的な』絓秀実著 作品社 2003年
『デリダ』高橋哲哉著 講談社(現代思想の冒険者たちSelect)
「政治と友愛と」デリダへのインタビュー 『批評空間』第Ⅱ期第9,10号 1996年
『友愛のポリティックス』デリダ著 みすず書房 2003年
 

『赤毛のアン』のテーマは「結婚」である

2004年10月28日 | 読書
 初めて『赤毛のアン』を読んだのはたぶん、小学3年生ぐらいだったと思う。やせっぽちでそばかすだらけのみっともないアンがわたしの自画像と重なった。そばかすこそなかったし髪も赤毛じゃなかったけど、子どもの頃のわたしは痩せて険しい表情をし、かわいげもなく、アンと同じように癇癪持ちで気が強くお転婆で、クラスで一番勉強ができて、空想癖があっておしゃべり好きだった。

 少女時代のわたしはアンのおしゃべりに夢中になり、アヴォンリーの美しい風景にうっとりし、やさしいマシュー小父さんの無口で内気な様子にハラハラし、とにかくアンの世界に魅了されてしまった。だから、アン・シリーズは全作読んでいる。

 というように、日本には異様にアン・ファンが多いのだそうだ。著者によればその理由は、

『赤毛のアン』の中に、日本にはない光景、日本的ではない植物、日本にはない家屋や家具、日本では貴重な食べ物を含め、日本にはない「風景」が描かれていたからである。(p262)


 そして、夢見る少女たちは戦後の日本社会で、アンに惹かれ、アンに自己を同一化した。


アンの「孤独」は、戦後日本のすべての努力家の少女の「孤独」の表象である。どれほど成績が優秀でも、日本人女性を「学校」が数字で評価してくれるのと同じほど公正に評価してくれる「社会」(=会社)はいまだ存在しなかった。(p270)



 本書は、『赤毛のアン』の作者モンゴメリの評伝であり、モンゴメリに仮託して戦後日本の女性心理の一端を追ったものだ。アンの物語は、日本社会に「あるべき女性の姿」を植えつけるのに成功したという。

「自立」を目指しながら、最終的には「ロマンチック」な愛情によって、主人公はけっして集団から転落することがないという結末ゆえに、『赤毛のアン』は、読者にとってはきわめて「安心」で、社会にとってはきわめて「安全」な読み物であった。戦後日本は「疑似近代社会」を作るために『赤毛のアン』から、大きな恩恵を受けている。(273p)


 著者は結婚について善悪の判断を書いていないが、明らかに「結婚」に対してマイナスの価値しか与えていない。だから、赤毛のアンのテーマが「結婚」だと著者が言うとき、それは赤毛のアンがしょせんはつまらない保守的な家庭物語に過ぎないと酷評しているわけだ。


「学校」という「場所」によって自分の存在を確認し、「クラスで一番」でいることを誇らしく思う学力優秀な女性を迎え入れる社会的「場所」は、日本にはまだ用意されていなかったからといって、勝ち気で勤勉な少女が、勉学上の努力を放棄することは望ましいことではない。「学校」で一番の少女が、結婚までは「自立」を目指して努力し、そのあとに「自発的」に結婚制度の中に入るという意味において、つまりは最終的には保守的な人生に回帰するなら、それまでは最も活発で、努力しさえすれば夢が叶うと信じ込ませる「読み物」を普及されることほど、室の高い家内労働力を作る有効な手段はない。(p273)


 そして、そのような生き方しかできなかった作者モンゴメリ自身の思考を大胆に切り開いていく。
 モンゴメリは保守的な性差別者だった、人種差別者だった、国家主義者だった、情念がほとばしる恋愛感情に左右されることなく打算で結婚相手を選んだ云々。と、モンゴメリがミソクソにけなされると、アン・ファンはいい気持ちがしないだろう。

 極めつけはこれだ。

『赤毛のアン』の熱烈な読者は、心の底では夫よりも実は「結婚」の方を愛しているのである。(p274)


 アン・ファンには痛いところをつかれる分析。少なくともわたしにとってはそうだ。痛くも痒くもない人も多いかもしれないが、どっちにしてもアン・ファンには憎まれそうな本を書いたものだ、小倉さん。
 ただ、痛いのは痛いが、ある意味ではすっきりした。なぜ子どもの頃に夢中になって読んだアンの物語を二十歳過ぎたら見向きもしなくなったのか、なぜアンの物語が続編を重ねるたびにつまらなくなったのか、その理由がはっきりしたから。

 それにしてもこの人の文章はなぜこうも読みにくいのだろう。読点の位置が不適切なのだ。岩波の編集者も書き直させればいいのに。
 
<書誌情報>

「赤毛のアン」の秘密  小倉千加子著 岩波書店 2004年


『調べる、伝える、魅せる! 』

2004年10月27日 | 読書
調べる、伝える、魅せる! 中公新書ラクレ
新世代ルポルタージュ指南
武田 徹著 : 中央公論新社

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 本書は、複数の大学でメディア・リテラシー教育に取り組む著者の実践を踏まえて、主にマスコミ業界を目指す学生など若者向けに書かれたルポルタージュ指南書だ。大学でのメディア教育への怒りを契機として書かれたというだけあって、大学教育の現状への痛烈な批判が痛快であり、全編通して筆者のユーモアのセンスが窺える、大変おもしろい読み物ともなっている。

 第1講から4講は技の章(調査篇)。
 よく書けることの条件は、よく調べること。よく調べるにはどうするのか。まず書籍、次にインターネットを使うというのが最も賢明なやり方だという。この部分、とりわけ昨今の出版事情や図書館情報、図書検索の方法などは知っていることばかりなので(わたしは図書館司書)、「なんだかつまらないなぁ」と読み飛ばしていたのだが、ネット情報の真贋の見分け方についての項、著者がパロディ・サイトに騙された例が書いてある40頁あたりから俄然おもしろくなった。

 インターネット情報に騙されないためにはどうしたらいいか、また、自分のHPを検索エンジンに拾ってもらって上位に表示させるにはどうするのか、といったWeb使用上の注意や指摘がかなり役に立つのだ。ルポを書くときに必須の取材についても、取材対象者とどのようにアポを取るのかチャート図つきで解説してあり、たいそう親切だ。

 第5講以降の「術」の章(執筆篇)になるといよいよおもしろさに拍車がかかる。さまざまな文章読本からエッセンスを取り出して著者が比較解説をつけ、さらに独自の文章論を展開している。例としてあげてある文章の一つ一つがおもしろ可笑しく興味深く、武田さんの解説も軽妙洒脱で、貪るように読んでしまった。
 このあたりは、ふだんわたし自身がものを書くときに意識的無意識的に気をつけていることとかなり重なる部分があり(気をつけていても駄文を書いてしまうのが悲しい)、読みやすい文章とはどういうものか、名文とはどういうものをいうのか、文章の目的によってどのように文体を変えるべきか、といったくだりでは手短かで的を射た著者の指導ぶりに感服した。

 ここで特に印象に残ったことは二つ。難解な文章を書くことで知られる蓮實重彦はなぜあのように読みにくい文章を書くのか。この問いに対する山形浩生の答を引用しつつ、わざとわかりにくく書くことでしか伝わらないこともあると筆者は言う。「わかりやすさが文章表現における唯一の正義ではない」

 そしてもう一つは、文章を書く上でもっとも大切な、「書き出し」について述べた部分。これも豊富な事例に興味をそそられる。序論なしでいきなり本論が始まる本の書き出しの例として毛沢東の『実践論』を挙げて感想を書いている下記のくだりでは、声を出して笑ってしまった。

「潔いまでの単刀直入だが、筆者などは経済開放政策が浸透する前の中国民航のステュワーデスが、なんの愛想もなく客に菓子類を投げて寄越していたのを思い出してしまう」

 そして最後の「芸」の章(映像篇)では、かなり教えられることが多かった。オウム信者を追ったドキュメント「A」「A2」で知られる森達也監督の「1999年のよだかの星」を題材にした授業での学生たちの反応を描いて、著者はこのように結論づける。

「ドキュメンタリーとはただ映像を撮影することではなく、カメラを挟んで人間と人間が関係を築いてゆく作業にほからならない」(191頁)

 さらに、文字に比べて映像は「真実」を映していると錯覚されがちだが、「真実」などいかようにも作られるという警告を発することも忘れない。

 本書は、単なる「調べ物と書き物」の指南書ではなく、マスコミに流れる情報の真偽を見抜き、情報を通じて社会に接する際の忘れてはならない態度について考えさせる示唆に富んだ良書だ。


最近読んだ2冊の短評

2004年10月21日 | 読書
ニート / 玄田有史著・曲沼美恵著 幻冬舎 2004年



 ニートとは、NEET(Not in Education,Employment,or Training)のこと。無業でかつ学校にも職業訓練にも就いていない者のことだ。
 その数、推定40万人。今後大きな社会問題になることは間違いなく(今や既に社会問題かも)、まずはニート問題への入門書としては嚆矢となる書だろう。ただし、突っ込みが浅く分析も浅いし、その上「フリーターなんて問題じゃない、問題はニートだ」とか言い出すので問題ありだ。
 インタビュー取材を通じた実態描写についてはなかなか引き込まれるものがあった。それに、「見せかけだけのタイプ別の類型化や安易な原因の追求は、気をつけないと、個々の違いを無視する危険性すらある」という正論を書いていたことは共感できる。

 本書の分析が浅く、処方箋もあまり説得力がないのも仕方がない。ニート研究はその緒についたばかりなのだ。しかし、こういうものが研究対象になってしまうとは、いったいどういう社会になってしまったのだろう。働かなくても暮らしていける結構な世の中だと思うべきかもしれない。だがなぁ

  マルクスによれば人間の本質は労働だという。ではニートは人間ではないのか? ニート問題は現代社会と人間を考える本質的なものを含むと思うので、より深い洞察を今後期待したい。



いつか王子駅で / 堀江敏幸著 新潮社 2001年

 これはいい! 芥川賞を獲った「熊の敷石」よりさらにずっといい。冒頭の一文(ほとんど1ページ分ある)で早くも痺れてしまった。あとはずぅ~っと痺れっぱなし。この文体、堪りません。

 ストーリーなんてありそうで、、ない。主人公である大学の非常勤講師はふらふらとあてどなく東京のあちこちを彷徨う。
いや、あてどはあるのだ。古本屋へ行ったり図書館へ行ったり、電車を見たり、競馬場へ行ったり。
そこに流れる時間や風景がたまらなく懐かしくまばゆいばかりに羨ましい。

王子駅あたりの風景なんてわたしにはまったく馴染みがない。
それでも、そこに漂う空気に感染してしまうのだ。
町工場の旋盤工はわたしは父だ。日がな一日、本を探してゆく姿は若かりし頃のわたしだ。さして成績の上がらぬ中学生の家庭教師をする姿もかつてのわたしだ。

主人公「ぼく」が触れ合う人々に温かく好意的な視線を注ぐその有様が、この小説に登場するすべての人物に精彩と魅力を与える。

この小説のように知的に自在に言葉を操る文章には、ただそこに文字が並べてあるだけで心惹かれるものなのだ。

それにしても、昇り龍の正吉さんはどこへ行ったんだろう。気になる、気になる。

「絶望 断念 福音 映画 」

2004年10月13日 | 読書
 若松孝二「ゆけゆけ二度目の処女」「現代性犯罪絶叫篇・理由なき暴行」によって自殺から救われたという繊細で偏執的宮台の面目躍如のラインナップ。巻末に映画タイトル索引がついているのもよい。


 宮台真司はわたしと同学年だから、世代的に共通する感覚や懐かしさを感じる文章を書く。だが一方、本書を読めば彼我の個性の違いを強烈に感じる。わたしは自分と「社会」との折り合いの悪さに宮台ほどは絶望していない。わたしは能天気に生きていて、いっぽう繊細な彼は豊かな感受性を日々刺激されながら社会との齟齬に耐えて生きているということだろう。そのことは、著者がより深い絶望を描く映画に惹かれることの原因となっている。

 本書は雑誌に掲載された映画評を集めたものであり、著者が繰り返し述べる<社会>と<世界>の違いを描くことが連載のテーマとなっている。著者は映画批評をしようとしたのではなく、映画を通じて現在社会を批評しようとしたのだという(宮台氏曰く「実存批評」)。

「<社会>とはコミュニケーション可能なものの全体、<世界>とはあらゆるものの全体だ。古い社会では<社会>と<世界>は重なり、あらゆるものがコミュニケーション可能だとされる。アニミズムやトーテミズムの原初的社会がそれに当たる。」(p354)

 そして現代では、社会と折り合いの悪い人間が増えていて、彼らは「世界の調べを聞くこと」によってかろうじて社会のもとにとどまれるのだという。だから、彼にとって優れた映画とは、「世界は確かにそうなっている」という感覚に満ち、深い絶望を刻印された人々が世界の調べに耳を傾けるようなもの、ということになる。そんな著者が傑作として評価するのが「ユリイカ」や「マブイの旅」、「チョコレート」「六月の蛇」「アカルイミライ」といった作品だ。
 どれもこれも一癖も二癖もある映画だが、いずれも社会からはみ出し、コミュニケーション不全に陥った者達の絶望と希望を描いている点では共通している。

また一方、宮台は「表現」(イデオロギー)よりも「表出」(情念)を評価する。
“「表出」cathexisは、表出主体の catharsis(感情浄化)を引き起こしたかどうかで、成功したかどうかが判断される。他方、「表現」は、受け手が存在して、受け手が理解したかどうか、理解によって動機づけられたかどうかで、成功したかどうかが判断される。(31p)”

 だから宮台は、「表現」としてはあまりにも稚拙であるにもかかわらず「表出」を描くことに成功した「クジラ島の少女」というニュージーランド映画を、「今日あり得ない神話的な構成に感動させられる」と絶賛する。 
 

 映画批評を超えて社会システム論や政治問題への数多くの言及が飛び交う本書はまた、宮台真司という個性が自己主張する。露悪的とまでいえる自己言及には腰の引ける読者もいそうだ。さらに、「この映画の解釈はそうではない」「逆だ」「間違っている」「正しい解釈は皆無だ」と他の映画評を悉く否定する独断的物言いも反発を買うかもしれない。映画を語りつつ社会を語り自己を語るいっぷう変わった映画批評には賛否両論が出そうだが、わたしは違和感を抱きつつも、結局最後は著者の個性に引き込まれていった。

 とりわけ、目から鱗が落ちる納得批評がいくつもあった点が魅力的だった。
 例えば、スティーブン・スピルバーグ監督「マイノリティ・リポート」はおもしろいSF娯楽作だったのだが、舞台が近未来にもかかわらず作品のテイストがどこか古臭さを感じさせるのだ。それに結論がいかにもスピルバーグ的な甘さと妥協に満ちているのが不満だった。だが、それが何に起因するのか、作品全体の骨格のどこが問題なのか、わたしには言語化できなかった。
 それを、宮台は「「未来社会のシステム>>主体」(システムが人間に優越する)の恐怖を描くと見えて、「主体>>システム」が不釣り合いに強調される。…「疎外論」時代の映画の意味論と、「物象化論」時代のそれとの違いに対する無知」だと一言で言い当てた。
 もう一つ、「マトリックス リローデッド」を使ってネオコンの解説をするあたりもなかなかわかりやすくてよい。この映画の解説じたいはわたしも感じていたことと同じ内容だったので特に教えられることはなかったが、同じことを言うにしても宮台の論は整理されていて、やはり読者を惹きつける。

 本書のタイトルが「絶望 断念 福音」という順に並んでいるのは、「より絶望し、断念することによってこそ福音がもたらされる」ということを意味する。そして、その絶望と福音を描く映画が本書に数多く紹介されている。
 宮台真司にせよ斎藤環にせよ、とどのつまりは映画にリアリティを求めているという点では一致しているし、リアリティのある映画こそが素晴らしいと評価する。それは「リアリズムに徹した本物らしい映画」という意味ではなく、どんなに荒唐無稽な物語でも、その中に「確かに世界はそうなっている」という感覚が満ちている、という意味だ。

 それはおそらく同時代のわたしたちの多くが映画に求めるものと一致するのではなかろうか。だから、今日もわたしは彼らが薦める映画をせっせとチェックするのに余念がない。


(これを1200字以内に短くしてbk1に投稿)