goo blog サービス終了のお知らせ 

ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

フーコー入門書読み比べ(3)

2005年06月12日 | 読書
本書は「入門書」というようなヤワなものではないのだが、いちおう、フーコー入門書の一つに挙げておく。間違ってもこの本からまず読み始めようなどと思わないように。フーコーの本を何冊か読んだ後に手にとってくださりませ。

 本書は、1991年に東大で開かれた国際シンポジウムの記録だ。といっても、講演録ではなく、あらかじめ用意されていた原稿をもとに事後、手を入れて編まれたものなので、講演録というよりは「論文集」だ。

 このシンポジウムは英語とフランス語だけで行われたという。すごいね、日本でそんなシンポジウムをやっていったい何人集まるのか? 何人が理解したんだろう、しかもこんな難解な内容なのに。シロートは門前払いという感じのするシンポジウムだねぇ。

 というわけで、日本人の報告も全部フランス語でやっているもんだから、蓮実重彦の論文は原文がフランス語で、他の人が日本語訳しているのだ。読みにくさにおいては人後に落ちない蓮実の文章も日本語訳で読むと読みやすくなる。いいね、これ。蓮実先生、全部フランス語で書いたら?
 
 で、これは論文集なので、興味のあるところだけをつまみ食いしようと思って読み始めたのだが、どれもこれもおもしろいもんだから、半分以上読んでしまった。どころか、二、三回読み直したものもある。

 内容をいちいち紹介していると長くなるので目次を挙げておく。気になった部分だけメモまたは引用しているのでご参考までに。


◆言説の軌跡 渡辺 守章著

 日本においてフーコーはどのように読まれてきたか、フーコーの著作がどのように年を追って翻訳されてきたか、フーコー受容のクロニクル。

 フランスの「フーコー・センター」がミシェル・フーコーの全著作およびその関連書を集めているのだが、世界中で発行されたフーコーの著作の最大の出版国が日本だそうな。すごい。考えれば、もったいない話だ。日本語で出された著作は日本人しか読まない。60億人のうち、読めるのは1億2千万人だけなんて。
 で、名著の誉れ高い『言葉と物』は日本語で読むのはきわめて困難な書物だそうで、フランス語で読まないとわからないんだって。やっぱり!


◆日本の思想風土とM・フーコー 中村 雄二郎著

 フーコーの関心は時期を追って三つにわけられる。「知」→「権力」→「道徳」。あるいはそれを「真理」→「政治」→「倫理」と言い換えてもいい。

 フーコーがその生涯を通じてなによりもこだわり続けてきたのは、〈理性〉とくに〈近代理性〉の問題であった。ただし、その理性批判を彼は、カントや、『弁証法的理性批判』を書いたサルトルとはまったく違ったやり方で行った。フーコーは、理性には非理性あるいはlきょうきを対置することで、理性をその根底の言語あるいは言説(ディスクール)から問いなおし、理性の名による秩序づけや分割の持つ欺瞞性を明らかにしたのであった。(p34)

 彼は、言述の生産を統御し、選択し、組織化し、配分する手続きを問題にし、それを次の三つの〈排除〉から成るものとしている。
 まず第一に、もっとも身近な排除の原理は〈禁止〉であり、今日それがはっきりあらわれているのはセックスと政治についての言説である。次に、第二の排除の原理としては、〈分割〉、つまり正常人と狂人との分割がある。しかし、それら以上に重要な排除の原理は、第三の、〈真実と虚偽との対立〉によるものである。ここに問題になる真実と虚偽との対立というのは、歴史的に構成されたものであり、人間の文化に根深い〈真理への意志〉にもとづいている。これは、明らかに歴史的相対性を持った〈真なる言述〉を生み出すものであり、真理や真実の名による絶対化という欺瞞性を持ちながらも、なかなかそういうものとして見ぬかれにくい。(p38)


 日本の思想風土は、真や善よりも〈美〉が優越する。「美的なものはつまりは感覚的なものであり、感情的なものであるから、美的態度が優先し美意識が判断基準となっている精神風土では、……<中略>……人間は自己と自然とを区別したかたちで明確に自己認識することができな」い。「〈感情的自然主義〉のつよい日本の思想風土において、社会規範の現実かされた形態である〈制度〉を通しての自己認識、つまり自己自身の客体化を通しての自己認識が乏しいということである」。



◆フーコーと日本 柄谷 行人著

フーコーは日本についてほとんど何も書いていない。それは、フーコーにとって表象としての「日本」は好ましいものではなかったからだ。
 フーコーにとって好ましいのは「アメリカ」だった。もちろん、表象としてのアメリカである。実際にフーコーがアメリカに住んだら失望したに違いない。フーコーがアメリカを好んだ理由の一つは「同性愛」が許容されているからだ。
 
 もちろん、これは同性愛だけの問題ではない。フーコーは、実際に生の形態を変える可能性があるということに「自由」を見いだしたのである。彼は「自由」を形而上学的に捉えることを拒否した。「自由」は、現実を無化する内面性でもなければ、あらゆる抑圧からの解放でもない。その意味で、フーコーは「世俗的」であり、また「政治的」であった。(p47)

 フーコーが破ろうとしてきたのは、一言でいえば、中心としての権力という概念である。それは現実に存在することがありえないのに、つねにそれがあるかのように表象されている。この観念は、中心的な権力を奪取することに帰結し、事実集権的な権力を作り出す。さらに、権力が中心にあるという考えでは、現に局所的に生じている矛盾に対する闘争をそれ自体認めないで、中心的なものに従属させることになる。実際には、矛盾はいつも局所的な「出来事」なのだ。全体を透過しているような中心的権力はない。どんな全体主義国家でさえもそうだ。それは、たんに、不意打ちのように起こってくる局所的な諸矛盾や破綻に、何らかの統一的な「意図」を想定してそれを排除することになるだけである。(p50)


 フーコーは、こうした装置(知=権力)以外のところに、自己あるいは自由を見ようとしたのだということができる。
 観点を変えていえば、フーコーの指摘は、自由主義と民主主義の問題につながっている。たとえば、「表現の自由」は、しばしば誤解されているのだが、発言する自由よりも、沈黙する自由にかかわっている。民主主義は、カール・シュミットがいったように、成員の同質性を前提とするものであり、異質な者を排除する。全体主義は民主主義と対立するものではない。……牧人型権力においては、すべての者が告白=評現せねばならず、そのことによって自由な主体となる。その意味で、基本的に、民主主義は、牧人型権力に由来する。しかるに、自由主義は、いわば、告白しない自由、救済を拒む自由にかかわっている。それはけっしてキリスト教からは来ない。(p52)

 柄谷はいう。「権力は下から来る」
 われわれが警戒すべきなのは、支配し抑圧するよりも、個々人をめざす救済する権力、あるいは、それを求める「奴隷」の思想である、と。

 日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。

 ………

 日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。しかし、そのことに批判的にこだわることは、逆にそれに閉じこめられることに帰結する。フーコーは「日本」を愛さなかった。そして、私がフーコーに共感するのは、具体的に「生」の形態を変える「自由」を楽天(ゲイ)的に求めようとしたことにおいてである。
(p56)

 ※本書のなかで、柄谷の論文がもっともおもしろく興味深かった。


◆事物の秩序について ヒューバート・L・ドレイファス著 大河内 昌訳


◆純粋と危険 ポール・ラビノウ著 大西 洋一訳


◆フーコー、ハイデガー、そして《古代》 バルバラ・カッサン著 本間 邦雄訳


◆歴史性の理論の「前史」 石田 英敬著


◆絶対的不毛を生きること 丹生谷 貴志著


◆フーコーとラカンにおける主体の概念 スラヴォイ・ジジェク著 浜名 恵美訳

 ジジェクは何を言っているのかさっぱりわからない。前半はブレヒトの教育劇「イエスマン」と「処置」をとりあげてラカン的解釈を披瀝するのだが、そこからフーコーのラカン批判へとつながる部分がよくわからない。
 ラカン、フーコー、カント、とつながるジジェクの論が、再読しないと理解不能。

 ま、要するにラカンとフーコーの主体の概念はそれほど違っていないと言いたいらしいのだが。わたしってやっぱりアホ(汗)

◆「無の眼差しと光輝く身体 小林 康夫著

◆フーコー ジュディット・ルヴェル著 根本 美作子訳


◆バタイユとフーコーにおける限界の観念についてのノート ブリュノ・カルサンティ著 酒井 健訳

 これはなかなかおもしろかった。来るべきバタイユ月間に再読の予定。


◆言葉とイマージュ ダニエル・ドゥフェール著 中野 知律訳

 これもおもしろかった。『言葉と物』を題材に語られているのだが、こういうのを読むとますます『言葉と物』を読みたくなる。

 ドゥフェールはここでバタイユに言及する。バタイユの『マネ論』をとりあげ、一見フーコーがバタイユに同意しているようにみえて、実はかなり異なっている、という結論に導く。
 バタイユは芸術の至高性、画家の絶対性を表明していたのに対して、フーコーは画家の「不在」を見た。

 描いているのは誰なのか? 絵画である。まさしく、マネの友人マラルメも、語っているのは誰か? という問いに、答えていたではないか――それは言葉である、と。(p232)


◆「啓蒙とはなにか」 クリストファー・ノリス著 荒木 正純訳 田尻 芳樹訳

 カントとフーコー。
 フーコーは紆余曲折を経て、カント的世界へと近い付いたのだろうか? フーコーはポストモダン的発想には反対していた。かつては彼も与していたかもしれない、その「イデオロギーの終焉」を嬉々として受容する態度とは一線を画した。

 これも再読のこと。


◆フーコーの政治学 ジェームズ・ミラー著 柴田 元幸訳


◆フーコーを超えて・フーコーのスタイル ハンス・ウルリッヒ・グムブレヒト著 大橋 洋一訳


◆古典主義時代のエピステーメーと『ポール=ロワヤル論理学』の記号論
塩川 徹也著

◆その先のヘーゲル 高田 康成著


◆「考古学」と「根源的歴史学」 ジョゼフ・フュルンケース著 酒井 健訳


◆フーコーと十九世紀 蓮実 重彦著 根本 美作子訳

 フーコーは「近代」という語を使うとき、大いにためらったことが読み取れる、というのが蓮実の読解だ。「古典主義」という言葉がいとも簡単に使われているのに対して、「近代」という言葉は自己規制的に使用されている。「近代」という言葉は、暫定的な形か否定的な形でしか使用されていないのだ。

 多くの「近代」の理論家には、彼らの思考の内部における無知の核を意識するだけの理解力が欠けている。この無知こそ彼らの知にとって不可欠な条件であったはずにもかかわらず。……「近代」という歴史的概念を無分別に使うことは、思考の存在自体をそのイマージュとすり替え、「近代化」された理性主義の形でその形而上学を永続させる危険を孕んでいるであろう。(p362-363)

 フーコーにとって、「ポスト・モダン」という問題は存在しない。「近代」の問題でさえ、すたれた、時代錯誤的な記号として否定されているのである。フーコー的考古学においては、現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の徴候もないのである。「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、それらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。(p364) 
 


<書誌情報>

 ミシェル・フーコーの世紀 / 蓮実重彦, 渡辺守章編. -- 筑摩書房, 1993

Posted by pipihime at 20:07 │Comments(5) │TrackBack(0)

宣伝、写真、広告「戦争のグラフィズム」

2005年06月09日 | 読書
 『FRONT』というのは、戦時中に陸軍参謀本部が対外国宣伝用に作った写真誌だ。その写真雑誌の企画編集を受け持ったのが、「東方社」という会社。本書は、その東方社の若手社員だった著者の回顧録である。

東方社は元映画俳優の岡田桑三が理事長となって1941年に作られた会社なのだが、どういうわけか社員の中には逮捕歴もあるような左翼人士がごろごろしていた。時代の先端を行くシャープなデザインの写真誌を作れるようなノウハウの持ち主は結局のところ左翼だった、ということだろうか。軍にとっては左翼だろうがなんだろうが、技術があればそれでよかったのだろうか。特に対ソ宣伝戦ということになると、共産党シンパのようなソ連びいき・ソ連通の力が必要だったのか。プロパガンダということに関しては確かに左翼は秀でていたのかもしれない。

 特高が目を付けていたという東方社だが、軍参謀の直轄会社ということで、うかつには手が出せなかったらしい。敗戦があと3週間遅れていれば東方社に特攻の捜査が入ったという噂もあったという。

 満鉄調査部といい、この東方社といい、元左翼(隠れ左翼)が国策のために軍直属の仕事を請け負って、優れた業績を残している。この構造をどう見るべきなのだろう。共産主義者たちは「転向」したのだろうか、彼らの内面はいかばかりであったか。

 本書を読んでもそのへんはまったくわからない。ただ、著者は最後にこのように書いている。

 右傾化する戦前の社会の中で、進歩的で新しい思想や技術の導入に積極的に取り組んでいた、決して戦争肯定者などでなかった人たちが、以上で過酷極まりない戦時状況に巻きこまれて、国家宣伝という、むなしくはかないものに取り組まざるをえなかった悲劇が、この東方社――『FRONT』の歴史であった。(p308)

 わたしは「戦時中の左翼の国策協力と転向」に興味があるので、そういう点にそそられながら本書をよんだが、デザインや広告に興味のある人が読んだらまた別の見方ができるだろう。ふんだんに図版が掲載されており、当時の印刷技術や写真修整技術も細かく書いてあって、おもしろい。
 わたしが興味をもった「戦時中の左翼の国策協力と転向」という部分については本書は詳しく分析していない。歴史の研究書ではなく回想録だから、しょうがないか。


 ところで、この本の表紙になっている若い水兵さん、きりりとした表情が印象的だが、この人がどこでどうしているのかわからないらしい。本書の末尾に平凡社から「本人か知り合いは名乗り出て」との呼びかけがある。


<書誌情報>

 戦争のグラフィズム : 『FRONT』を創った人々
  多川精一著. 平凡社, 2000.(平凡社ライブラリー)


バタイユまでの遠い道のり

2005年05月28日 | 読書
ソネアキラさんが学生時代に書いたバタイユ論を掲載された。1,2と掲載されているが、これで終わりかな??

第1回

第2回

 二十歳過ぎの若者が書いたとは思えない力作であると同時に、若さが感じられる微笑ましい文体でもある。これはいいわぁ。わたしの学生時代の文章なんてぜぇ~ったいに人前に出せないもんね。ソネさんのは今読んでもじゅうぶん読み応えがある。

 今年2月に宣言した一人読書会だけれど、大幅に予定がずれこんで、フーコー月間をようやく今月中に終える予定である。ほんとならもうバタイユに突入しているはずなんだけど、次はアガンベンが待っているのだ。

 ソネアキラさんに励まされて、アガンベンの次にバタイユを読もうと思っている。ただ、バタイユはまったくの初体験なので、手強そうだ。ソネさんのバタイユ論はそのとっかかりに大変役に立つ(お世辞じゃなくて)。

 ここで、バタイユにまつわるちょっといい話を。

 サルトル研究者猿虎こと永野潤さんを経由して、バタイユ研究者和田康さんからご著書『歴史と瞬間 : ジョルジュ・バタイユにおける時間思想の研究』を贈っていただいたのだ。和田さんのご本にとりかかるにはまだまだたくさんの入門書を読まなくてはならないみたい。

 一度もお会いしたこともネット上でもお話したことのない和田さんのご厚意に感謝すると同時に、仲介して下さった猿虎さんにも深い感謝の念を抱いている。思えば、猿虎さんとだってネットで知り合っただけで、お会いしたことはないのだ。ネットは人と人を繋ぐものだなあと思う、ほんとにありがたい。

 お二人に、改めて感謝の意を表します。ありがとうございました。

処方箋は「祝祭」か

2005年05月25日 | 読書
 これ、育児書かというとそうではない。もちろん、内田先生が育児書なんて書くわけないわなと思っているから、別に育児書でなくても全然かまわないのだけど、でもいちおう子育て中の、それも中学2年ぐらいの難しい子どもを持つ親たちへお説教たれようっていう本なんだから、そういうつもりで読み始めた。

 でも、やっぱり。すぐに育児書であることを忘れてしまった。だっておもしろいんだもーん。内田さんのファンとしては、先生の書くものしゃべるものがおもしろいっていうのは当たり前なので、今回はこの本のおもしろくないところを書いてみよう。

 内田先生は言う。

 教育の問題点は一種の「ループ」をなしており、脅威氏が専一的に悪いとか、教育行政が諸悪の根源であるとか、すべては母親の過保護のせいであるとかいう単純な説明で片がつくはずのものではない。むしろ教育システムや家族システムが自明の前提として採用している「子ども」概念そのものの改鋳という仕事こそが喫緊の思想的課題ではないのか。私と名越先生はその点ではほとんど同意見であったと思う。
 
 なるほど、この点には賛成だ。

 この本は、精神科医名越康文さんとの対談だ。名越さんは大阪でクリニックを開いていて、そこには思春期の子どもをもつ親たちがたくさん相談にやってくる。名越さんは、病気は子どものほうじゃなくて親だ、と言う。

 「勝ち組」「負け組」と世間では言うが、内田さんにいわせればそれは「利口組」と「バカ組」の差なんだって。で、この差が絶望的に開いていっているとうのが今の日本社会。内田さんがいうところの(モトネタはピエール・ブリュデューだと思うけど)文化資本の差なんですね。

 内田さんが「知性は情緒の豊かさ」だといい、その豊かさがないので知性が感じられないのがオバサンだと名越さんが返す。オバサン(オバタリアンっていうようなニュアンス)は、前思春期のままで精神発達が止まった人種らしい。

 というようにずっと延々、今の困った親と子の状況についてお二人はしゃべり続けるんだけど、どうにも何かひっかかる。つまり、しゃべっている二人の先生たちは自分たちがその困った親(大人)とは別人種だと思っているんじゃないかと。いや確かにそうなんですけどね。それはそうなんだけど、なんだか「選ばれた知的世界の利口組二人がバカ組の問題点について嘆いている」という高所からの物言いが気になる。
 
 確かに書いてあることはいちいちもっともで、わたしは「うん、そうそう」とか思ってしまうんだけど(こういうとき、自分が「バカ組」だとは思っていない)、でも「なんだかなー、うーん」と不安が心の通奏低音として響いているとき、わたしは自分が「バカ組」じゃないかと思っている。

 で、この本は『先生はえらい』と同じく、コミュニケーション論でもある。コミュニケーションとアイデティティ論。これはある種、言い古された論なのでそれほど新鮮味はないのだが、それでもやっぱり納得してしまう。ありもしない「自分探し」なんてするなといわれれば、そうだよね、と首肯しているわたくし。

 なんだかんだとお二人がいろんな教育の問題点についてしゃべってきて、いよいよ最後に処方箋らしいものを出そうという段になると、「これはもう祝祭しかない」という結論に落ち着く。

 で、この「祝祭が大事だ」という結論部分、まっすぐに論が進むかと思えばやはり対談だけあって話があちこちする。またそれがおもしろい。内田さんは、「クリスマス・キャロル」と「忠臣蔵」の話題を持ち出してきて、日米文化比較論をぶつ。
 アメリカ人は必ず一年に一回、ディケンズの「クリスマス・キャロル」みたいな映画を作るという。大金持ちの社長がある朝目覚めたら突然別人になっていて、「ここはどこ、オレは誰?」状態。大金持ちだったはずなのにふつうのサラリーマンになっちゃってて、最初のうちはなじめないけどそのうちだんだんこれもいいかなと思うようになる。で、また突然もとの世界に戻ってくるんだけど、今までとは違う価値観で生きようとする。というお話。これがアメリカ人は大好きで、きっとアメリカ文化の琴線に触れるんだろうというのが内田さんの分析だ。

「時間に限界があると知ったときに人間は善人になる」

 おお、これって映画「天使のくれた時間」(ピピの映画評はここ)そのものやんか。あの映画はよかったわぁ。
 

 さて、「個の身体性を共同体の中に拡大していくには、儀礼か祝祭のようなものが必要」という意味のことを内田さんは言ってる。例として挙げられるのが「よさこい」だったり岸和田のだんじり祭だったり。

 要するに今の閉塞状況を突破する処方箋がここにあるんじゃないかと。
 
 ふーん。なるほど。「祝祭」がはやってる。やっぱりこれからは「祝祭」なのか? しかし「祝祭の非日常性」という考えにわたしは抵抗がある。うまくいえないけど。ま、とりあえず「祝祭」の捉えかたについては保留。


 仕事や家庭のルーティンに耐えられるよう訓練(しつけ)しなきゃだめだと内田さんは言うんだけど、それに対して名越さんは少しニュアンスの違うことをいう。ルーティンに耐えられる人と、そうでなくボロボロになる人がいて、同じように「耐えろ」とは言えないと。うん、これは名越さんの意見に賛成。

 このあたりの議論は猿虎さんがこのところしきりに批判している『希望格差社会』につながっていくけど、長くなるのでいったんここで終わり。

 あれ? 結局この本のどこがおもしろくなかったんだろう??(笑)


<書誌情報>

14歳の子を持つ親たちへ / 内田樹, 名越康文著. 新潮社, 2005.(新潮新書)

モザイクの総会と橋本治の本2冊

2005年05月23日 | 読書
 昨日はモザイク(地域の国際交流をすすめる南河内の市民の会)の総会があった。総会のあとは、在日外国人を自宅に招いてホームステイしてもらった人たちの経験交流会。おいしいシフォンケーキに生クリームを添えて紅茶といただきながら(おお、なんとイングリッシュなティータイム!)茶話会のように話がはずんだ。

 お話を聞かせてもらって、日本人男性と結婚して日本にやってきた外国人妻の孤独と子育ての困難さについて改めて知った。近所で言葉が通じないしんどさに加えて、子どもが大きくなってくると、こんどは母子がコミュニケーションをとれなくなる。思春期の子どもを抱えている母親は、子どもの日本語の訴えが理解できない。学校からの連絡プリントも満足に読めない。

 日本語を勉強するしかないだろうってわたしは思うんだけど、日本語をボランティアで教えてくれる教室まで行く「足」がなかったりするそうだ。

 厳しい状況にある人々のなかで、特に中国人や韓国人の経験が印象に残った。中国では、「家に遊びにいらっしゃい」と言われたら、それは社交辞令ではなく本当の招待だから、みんな何の事前連絡もなしに他人の家に遊びに行く。ところが日本では、うっかり「招待」を真に受けて訪問したりしたら、玄関先であしらわれてしまって、家の中に入れてくれない。
 「玄関先では1時間も話するのに、家の中に入れてくれないんですよ」とあきれる女性もいた。

 日本は敷居が高いらしい。なるほどなあ。うちだって来客があるというと大騒ぎして家中の大掃除を始めるのは常だから、やっぱり客を家に入れるというのは「非常事態」なんだろうな。

 そういった日本の習慣がアジアの人々に不評だ。こういう「文化的な齟齬・摩擦」というものはなかなかなくならない。外国から来た人を疎外するのではなく地域の住民として受け入れつつも、やはり彼らにも日本の風習に慣れてもらわねばどうしようもない、と思う。「歩み寄り」という美しくも困難なことが実際自分の身に降りかかったときできるのだろうか、と思うとたじろいでしまう。

 うちの近所の団地にS国人女性が住んでいるらしい。まだ二十代で、子どもも小さいらしいが、誰ともしゃべる相手がおらず、バスにも電車にも乗ったことがなく、夫以外の人との交流がないという。孤独な女性が気の毒だからなんとかしてあげたいとわたしも思うけど、さて何語でしゃべるんだろう? 正直言って、もし仲良くなってうちの家にいりびたられたら困るし。とか思ってしまうわたしって自分勝手な人間なんだろうか。でもなんとかしてあげたいという気持ちは強いから、ちょっと考えてみよう。


 こういうときに、「他者の他者性」というものについて考えてしまう。日本人どうしだって気の合う合わないはあるのだ。困っている外国人だから、という理由だけでその人と仲良くなれるかどうか、助けてあげられるかどうかはわからない。こういうボランティア活動では、個人と組織とのかかわりが難しい。私生活まる丸抱えになるようなボランティアは続かないのだ。



 ということろで、「他者」といえば、最近読んだ橋本治の本を思い出す。橋本治の本は二冊しか読んだことがないのでこれで結論づけるのは間違っているかもしれないが、この人の文体はわたしには合わない。ねちねちクネクネともったいまわった言い方で、しかもまどろっこしい。わかりやすいのはいいのだが、何度も同じことを言われるとしまいにイライラしてくる。

 特にそう思ったのは『上司は思いつきでものを言う』のほうだ。上司は思いつきでものを言うって? そんなもん、別に上司でなくても人は誰でも思いつきでものをいうもんよ。え? それはわたしだけかしら(汗)。

この本は、「部下の建設的な提言は必ず上司の思いつきを招きよせる」とか「現場と出会えなければ会社は必ず枯れる」とか、けっこういいことが書いてあって、それなりにおもしろい。



 でもわたしの好みにマッチするのは『人はなぜ「美しい」がわかるのか』のほうだ。

 ゴキブリはゴキブリの都合で合理的にできていて、その姿は機能的に美しい。なんていう指摘にははっとさせられた。確かに。でもあれを美しいとはどうしても思えないけど、「他者」ってそういうことだよね。他者は他者の都合で生きているし、他者には他者のものさしがある。この本で、そう教えられた。

 本書は、枕草子と徒然草との比較論があって、これがかなりおもしろかった。枕草子って、今で言えば酒井順子ふうかな? で、徒然草のことを橋本治はつまらない、と一刀両断する。清少納言が「時代の中に生きた美の冒険者」なのに対して、吉田兼好が「時代の中に生きなかった美の傍観者」だったのがその理由だという。


<書誌情報>

人はなぜ「美しい」がわかるのか / 橋本治著. 筑摩書房, 2002(ちくま新書)


上司は思いつきでものを言う / 橋本治著. 集英社, 2004(集英社新書)


Posted by pipihime at 21:48 │Comments(12) │TrackBack(0)


メモ:『性の歴史』第3巻「自己への配慮」

2005年05月22日 | 読書
 フーコーの『性の歴史』は1巻だけがおもしろくて、あとの2冊はトリビアルな知識ばかり増えるような話が延々と続く退屈なものだ。こういうのに耐えて何かをつかむというのは実に忍耐のいる作業だ。

 だらだらと続くかのような古典の分析を通じて、いつのまにかフーコーのいわんとした精髄に近づくわけだが、その「ダラダラ」につきあい切れない読者も多いんじゃなかろうか。

 フーコーは2巻・3巻を通じてギリシャ・ローマ時代の同性愛(若者愛)について詳細に分析を試みる。同性愛が否定されていなかったギリシャ時代、若者は大人の男から求愛される美しい存在だった。だが、若者は男の愛を受け入れる受動的存在でありながら、その「受け身」において抑制の効いた自己(主体)を確立することを求められた。また、求める側の大人の男も、若者に対する愛を精神的なものにとどめることによる拷問のような自己抑制を耐えぬくことが偉大な人格を形成すると賞揚されたのだ。

 なんだか妙な道徳観のような気がする。そんなに自己抑制がエライのか?

 ま、それはさておき、第2巻で書かれていた若者愛について、以下の部分が興味をそそる。
 

 男が女を求めるのは動物の雄が雌を求めるのと同じことであり、それは高貴な人間らしい振る舞いではない。むしろ、男が若く美しく才能ある若者に惹かれることこそ、人間にしか見られない愛の形だ。これこそがまさに人間らしい高貴な愛だ。という、考え方をプロトゲネスとペイシアスは力説する。

 [女性との交渉という]行為へわれわれを駆りたてる欲求と衝動は、激しく制御のきかないものにつねになろうとしていて、そうなると、それらは欲望に変わってしまう。このように人は、女性が構成しているあの自然な客体のほうへ、二つの仕方で駆りたてられる。すなわち欲求によって、つまり、世代の存続を分別のある目標として定め、快楽を手段として用いる自然の動きによって。そして欲望によって、つまり、「快楽と喜びを目的として」定める、激しい、内的規則を欠いた動きによって。このどちらもが真の姿における<愛>ではありえないのが、人々には明らかに納得される。前者(欲求)は自然本性的であって、すべての動物に共通するからであり、後者(欲望)は思慮分別の限度を越えて、心を肉体の悦楽に結びつけるからである。(p261)

 真の愛は若者愛しかない。

 不当な快楽はこの愛[若者愛]には無いからであり、この愛は美徳と不可分な情愛を必然的に含むからである。(p262)


 以下は、プルタルコス(1世紀、ローマ帝政下のギリシャ哲学者)の主張と、それに対するフーコーの論評。読みやすいように、原本にない改行を加えた。

 夫婦であることは、共同生活をいとなむあいだの生活の共有を意味する。そのことは(夫婦)相互の思いやりを促す。そのことは完全な共同体を、しかもことなる(ふたつの)肉体における魂の統一を、つまり夫婦は「もはやふたりでありたくない、もはやふたりだとは考えない」ほど強い統一を想定する。最後にそこのことは、他のあらゆる交渉関係をあきらめさせる相互的な節制を要求するのである。

<エロス>の理論から夫婦生活の実践への転換が最も興味ぶかいのは、この最後の論点においてである。事実その転換は、結婚の高い価値にかんして、ストア派の人々に見出しうる観念ときわめて異なる観念を示唆するからである。プルタルコスは実際、「外部から」生じ、方への服従でしかなく、恥と恐れによって押しつけられる節制に、<エロス>の効果たる節制を対置する。夫と妻を互いに相手にたいして燃えあがらせる時の<エロス>こそが実際、「自己統御と慎み深さと忠実さ」をもたらし、夫婦の愛し合う魂のなかに<エロス>が「羞恥心、静けさ、穏やかさ」を持ち込み、その魂に「控え目な態度」を与えて、魂を「唯一の存在に注目」させる。

 その点に、男同士の会いにおける<エロス>の諸性格を再び見出すのは容易である、つまり、愛する者の魂における徳と節度の作用素であるその<エロス>、ソクラテスのような最も完璧な人々の場合、その人が愛する相手の面前でその人を黙らせ、その人の欲望を統御させていたあの慎み深さの根源であるその<エロス>の諸性格を。

 同じ性に属する愛する者のいだく友情に長らくずっとふり当てられてきた種々の特徴を、プルタルコスは夫婦の二元性へ転換するのである。 (p266-267)


 <エロス>なき<アフロディテ>(愛欲の営み)は、金で買える一時の快楽だとプルタルコスは言う。

 プルタルコスは、若者愛が夫婦愛のように、魂と魂の絆が肉体の快楽と結びつく<エロス>と<アフロディテ>の調和ある合成となるのを何が妨げているのか、を規定しようと努める。それはやさしさと好意の欠如だ。

 女性への愛は、やさしさと好意に基づき、快楽が友情と結びつき、完璧なものとなるという。ところが、若者愛はこのようなやさしや好意に基づかない。プルタルコスは、性行為が夫婦の絆に活力を与える情愛関係全体の出発点と位置づける。

 なるほどねぇ、今でもセックスレス夫婦が社会問題視されていて、セックスは夫婦のコミュニケーションにとって必要なものだとかよく言われるが、そういった論理展開はローマ時代からあったわけね。

 そして、プラトン的なエロス論とプルタルコスのエロス論はかなり異なる。ギリシャ文明のエロス論から変化しているのだ。プルタルコスは愛の「二重の能動性」を重視する。つまり、お互いに求め求められなければならないってこと。夫婦は互いを求め、互いを愛する。愛されるよりも愛することのほうが大きな幸福だ、というテーゼ。
 その点、若者愛というのは一方的に若者が年上の男に愛されるわけだから、こういうのはほんとの愛じゃないとして排斥される。

 ふーん。愛って、奪い合うことなのね。ちゃうか(笑)。プルタルコス流にいえば、「愛って与え合うことなのね」になるのかな。

 なんだか説教臭いエロス論だな。


 さて、少々はしょって結論部分へと急ごう。

 のちのキリスト教的性道徳、つまり一夫一婦制の遵守、処女性の重視、同性愛の禁止、の萌芽がすでに紀元1,2世紀に既に現れているのだろうか? それまでのギリシャ哲学の伝統を打ち破ったのだろうか? 性に関する厳格さはローマ帝政期の哲学の中で確立されたのか?

 いや、違う。とフーコーは言う。プラトン、イソクラテス、アリストテレスはそれぞれ言い方は異なるけれど、夫婦の貞節を勧告していた。「また若者愛には人々は最高度の価値を付与できたが、しかし、その愛が人々の期待していた精神的価値を保ちうるために、その愛には、節制の実践がやはり求められていた」。(p310)

 とはいえやっぱり。とフーコーは続ける。えーい、なんじゃそら。結論をさっさとわかりやすく言うてんか! くねくねと逆接逆接で文章を繋ぐんじゃないよ! とフーコーに突っ込みをいれつつ、では結論を思いっきりピピ的にわかりやすくまとめてしまうと、要するに後の時代の厳格な性道徳の萌芽がこの時代に見られる、ってこと。同性愛(若者愛)は否定されていないけれど、最高の価値観は与えられていない。

 この『性の歴史』2巻と3巻でフーコーが分析しようとしたのは「自己抑制」の価値観だ。「訳者あとがき」からこの部分のまとめを抽出しよう。

 フーコーにとって《倫理》とは何であったろうか? 伝統的な道徳哲学や道徳社会学が、道徳規範(許容事項と禁止事項にかんする決まり)をもとにして、その遵守を義務論として展開し、道徳体系の歴史的変化を重視していたとすれば、フーコーの『性の歴史』の企図は、それとは対照的に、自己実践を中心とする「倫理的問題構成の歴史」を記述することであった。

 ギリシャ時代から帝政ローマ時代への性倫理の変容は次のようにまとめられる(訳者あとがきより)

 その変容の第一は、自己への関係の強化としての《自己の陶冶》、自己への配慮の増大である。愛欲の営みにおける自己の勝利から、個人の弱さの自覚への転移が起こる。

 第二は、《家庭管理》の側面よりも夫婦の関係そのものの重視であり、男性の自己統御における、妻との関係の強調。

 第三は、結婚生活外で性の快楽を楽しむ態度が戒められ、結婚状態と性的活動の合体が要請されるようになる。良き相互理解をめざす夫婦関係の新しい価値付与にともなって、帝政期には、若者愛の不毛性が論じられ、新しいエロス論が物語文学に登場する。純潔性という《生の様式》の力説。こうして、恋と純血と結婚の三つが一つの総体を形づくるにいたる。

 
 訳者田村俶氏は、フーコーの魅力を次のように述べている。

 80年代のフーコーの立場は、ドレファス及びラビノーとともに言うならば、人々の行動を宗教や法規範や科学や哲学的基礎づけなどによって正当化することに猛然と抵抗しつつ、想像力や明晰さやユーモアや実践的な知恵を前面に押し出す、生の新しい倫理形式の創造に存していたのである。フーコーに特有なこの反語こそは、私どもを励ます、きわめて刺戟的な逆転の思考の勧めではあるまいか。(p319)


<書誌情報>

自己への配慮 / ミシェル・フーコー [著] ; 田村俶訳. 新潮社, 1987 (性の歴史 ; 3)


Posted by pipihime at 22:13 │Comments(0) │TrackBack(0)

被差別者の開き直りの強さ、脆さ、危うさ、すごさ『べてるの家の「非」援助論』

2005年05月07日 | 読書
 「べてるの家」は、知的障害者や統合失調症などの精神病を抱える人々の「自助施設」だ。いわゆる「共同作業所」みたいなもんだけど、ちょっといやかなり違う。べてるの家は毎日毎日問題だらけ。救急車やパトカーが毎日のように走り回り、近所迷惑もはなはだしい。だが、そのビョーキの人々が見事に商売をやってのける、このすごさ。

 本書には、北海道稚内に近い日高という過疎の地に建つ「べてるの家」の人々が、昆布の袋詰め内職から始めて起業し、やがて年商1億を売り上げるまでになったその10年の日々が綴られている。

 amakoさんに「全部を読み通す本が一年に2冊しかないという上野千鶴子さんが、最後まで読み通した稀少な本がこれです。ものすごくおもしろいから」と薦められて読み始めた。ほんとにおもしろい。過疎の町の起業についても、企業経営についても、対人関係についても、効率と能率ということについてもたくさん考えさせられる。


 とにかくべてるの家の人々の開き直りがすごい。町民を招いて「差別偏見歓迎大集会! 糾弾しません」なんていう集会を開いてしまうし、毎年「妄想幻聴大会」を開いて大賞を決める、とか。「病気は売れる」と、いちばん妄想のひどい人間に講演と営業をさせてしまうとか。

 べてるの家の人たちは「社会復帰」なんて考えない。逆なのだ。自分たちが過疎の浦河町を復帰させてしまおうと考える。リハビリして病気を治そうなんて思わない。もちろん治ったほうがいいんだけど。「そのままでいいんだよ」と言ってもらえることで精神が安定し救われる患者がここには何人もいる。べてるの家と病院を行ったり来たりしながらここの人々は自分たちのやり方で生きていく。
 朝にならないと誰が出勤してくるかわからないといういいかげんさ。不祥事が起きて警察に「責任者、来てください」と呼び出されても誰が責任者かわからないから全員で警察に行ってしまうというおもしろさ。

 なんかいいよな~、べてるの家って。実際に住んでみたら困ることがいっぱいあるんだろうけど、そんな場所が羨ましくなる。


 ただし、「そのままのあなたでいい」という肯定論はすべての人に当てはまるわけではないだろう。べてるの家で心の病を癒す人にはそういう言葉が有効でも、すべての人間にそんなことを言って回った日には「あなたはそんなにひどい人だけど、そのままでいいよ」「あ、そう、今のままでなんの努力もせずにだらけていればいいんだ。わたしってほんとはもっと大きな人間なのよ」と自省を否定する言葉としてうまく利用されてしまうおそれがある。じっさい、「そのままのあなた」では困る人がいっぱいいるんだから!


 べてるの人々の妄想ぶりも自己中心的発想も心の弱さも、「ふつうの人々」のそれと違いはなくて、ただ規模が大きくなっただけなのだ。だから、この本を読む「健常者」も、べてるの家の人々のコミュニケーションの悩みや苦しみがすっと胸に落ちるだろう。

 べてるの家の成功の裏には、本書の大部分を書いた向谷地(むかいやち)生良さんというケースワーカーの力が随分大きかったんじゃないかな。個性豊かな(豊かすぎる!)人々に苦労しつつ、向谷地さん自身がコミュニケーションや仕事の悩みを抱えつつ、みながそれぞれの弱さを認め合ってやってきた。
 そしてなにより「狂者の文化」を肯定的にとらえる視線がいい。こういう流れは60年代の「青い芝の会」の頃からあったけれど、かなり論調が違う。なにより「糾弾しません」という集会がいい。べてるの家の人々は、「住民は偏見と先入観に凝り固まっている」と思うことじたいが「偏見と先入観」そのものだったことに気づいたという。

 今までだって問題だらけだったという「べてるの家」は、これからも問題だらけなんだろう。この先10年20年、どうなるんだろう。

<書誌情報>

 
 べてるの家の「非」援助論 : そのままでいいと思えるための25章
  浦河べてるの家著.- 医学書院, 2002. (シリーズケアをひらく)

メモ:『性の歴史』第2巻 快楽の活用

2005年05月05日 | 読書
 フーコーは『性の歴史』2巻と3巻で古代ギリシア時代の性規範について詳述する。当時の哲学者・医学者の文献を渉猟することにより、何が問題とされ、何が規律違反とされ、何が指弾されるかを探り、そのことから「性を律する主体」がどのようにとらえられているかを分析している。

 第2巻で分析されるのは
     「アフロディジア」愛欲の営み
     「クレーシス」活用
     「エンクラテイア」克己

 快楽を持続されるためには「節制が必要」(ソクラテス)
 と同時に、「しかるべき時を選んで」が大切(プラトン)

 だから、若すぎたり年老いすぎたりして性交するのはよくないとか、季節もいつがいいとか、事細かく書いてある「養生訓」がいくつも存在する。

 というような話に始まって、養生訓だの家庭管理術だの恋愛術だの、当時の哲学者たちが訓戒を垂れた内容を事細かくフーコーは紹介・分析していく。

 手っ取り早く結論だけまとめよう。

 あまねく認められた実践(養生生活の実践、家庭管理の実践、若者にたいして行われる《求愛》の実践)の領域のなかで、しかもそれらの実践の入念な磨きあげを目差していたいくつかの省察をもとにして、ギリシャ人は道徳上の賭金としての性行動について問いかけたのであって、彼らはその性行動において必要だと思われた節度の形式を規定しようと努めた。
 
   ………
 [この三つの問題構成の]まわりにギリシャ人は生きる技法、ふるいまい方の技法、《快楽を活用する》技法を、気難しくて厳しい原則にしたがって展開したのである。

 後にキリスト教の時代がきて厳格な性規範が一般化したというのは間違いで、既に古代ギリシャ(紀元前4世紀)から厳しい規範が述べられていたのだとフーコーは言う。

 性の活動はそれ自体として危険で犠牲をともなくので、しかも生命にかかわる物質(精液)の喪失とつよく結びつくので、その活動は、必要なものでない限り、綿密な節約策によって制限されるべきだ、というものであった。同じくまた、夫婦の双方にたいして、「結婚以外の」あらゆる快楽を等しく絶つように求めていると思われる婚姻上の考証という範例も見出される。最後に、成人大性の、若者とのあらゆる肉体関係の断念という主題も見出されるのである。(p318)



 若者愛にかんするこの省察のなかにおいてこそ、プラトンのエロス論は、濃い、快楽の断念、真理への接近、という三者のあいだの複雑な関連の問題を提出したのである。

 ………

 自由な成人男性によって構成される最小部分の人口にとっては、性の一つの美学を、力(=権力)の作用として知覚される自由についての熟慮にとむ技法を磨きあげる方法なのであった。この性倫理は、部分的には今日のわれわれの性倫理の起源になっているのだが、なるほど不平等および高速にかんするきわめて過酷な体系(とくに女性や奴隷について)に立脚していた。しかしそれは(ギリシャの)思索のなかでは、自由な成人男性にとって、自分の自由の行使、自分の力(=権力)の諸形式、真理への自分の接近、これら三者の関連として問題構成が行なわれてきた。(p321-322)


 要するに、性規範を守ることによって人格を高め権力を得るのはあくまで男なのだ。ギリシャ時代のお説教って、フェミニストが読んだら悶絶しそうな「人生訓、養生訓」なんだな。で、フーコーによれば、ギリシャ時代には若者愛について厳しい倫理を求めていた当時の社会規範が、時代と共にその対象を変遷させる。後には女性にかんして。近代以降は子どもと身体へ。

 フーコーは最終章で「真の恋」という項目を挙げて、若者愛(同性愛)について述べる。なにが「真」なのかというと、恋に通暁するというのは、恋の客体になることではなく恋の主体になることである。恋愛術は求愛する者とされる者との格闘技だ。

 ソクラテスの教訓は、真の恋は肉体の接触を断たねばならない、というもの。厳しいねぇ~、ほんとの恋は相手に触れてはいけないのだそうだ。
 恋が向かうべき対象は若者の肉体ではなく魂だと、プラトン先生も言っている。

 さて第3巻冒頭は『夢占い』だ。長くなったので別エントリーに。

<書誌情報>

 快楽の活用 / ミシェル・フーコー [著] ; 田村俶訳
           新潮社, 1986(性の歴史; 2)


『死霊』を読む前に

2005年04月23日 | 読書
艱難辛苦を乗り越えて読了した『死霊』、こんなにいい解説書があるなら、こっちを先に読んでおくべきだった。鶴見俊輔は何度も埴谷雄高に言及していたというのに、まったく無関心というか無知というか、なんで今まで読まなかったのだろうと蒙昧を恥じる。

 わたしは『死霊』をヨーロッパの味わいのある小説だと思っていたのだが、鶴見に言わせると埴谷の作品は日本文学の伝統を引きつぐものであるという。このことを最初に看破したのは武田泰淳だそうだ。


 鶴見の『死霊』読解はわたしが気づきもしなかったこと、あるいは無知ゆえに見えなかったことを明るく照らし出してくれる。鶴見さんはほんとに優れた読者だ。まあ、しかし『死霊』を読む前に鶴見さんの読解を読んでしまうとそこから自由になれない嫌いもあるので、苦労しても自分の力で読むほうがいいだろうな。その上でつたない感想や的外れの批評を恥ずかしげもなく書いてbk1に投稿するなんていう恥をかいたほうがいいかもしれない。


 本書は鶴見俊輔が繰り返し埴谷雄高について述べた論考を年代を追って編んである。対談も挿入されていて、バラエティ豊かだ。内容的には重複もたびたび見受けられるが、それは必ずといっていいほど埴谷雄高の出自に関する部分を含む。

 埴谷といい鶴見といい、「もうろく」が共通のキーワードのようになっているじいさんたちが、とても好ましく思える。こういう耄碌ならなりたいものだ。耄碌して肩肘張らず、若い頃に言えなかったことも正直にしゃべってしまう。いいね。

 本書の魅力は埴谷雄高に源泉があるのか、それとも鶴見俊輔の魅力か。いっけんぜんぜん違う個性のように思えて、この二人はとてもいいコラボレーションを残してくれたものだと思う。一読者として感慨深い。


<書誌情報>

 埴谷雄高 / 鶴見俊輔著. -- 講談社, 2005

メモ:『性の歴史』第1巻「知への意志」

2005年04月17日 | 読書
 まずは簡単に書誌来歴を

 本書は『性の歴史』全5巻の第1巻として1976年11月にガリマール社から上梓された。フーコーのもくろみでは、『性の歴史』は全5巻となるはずであったが、途中で構想が変わり、じっさいには3巻までだけが刊行された。

 当初の予定では
 1巻 肉体と身体
 2巻 少年十字軍
 3巻 女と母とヒステリー患者
 4巻 倒錯者たち
 5巻 人口と種族

 ところがじっさいにはかなり変更されたかたちで全3巻が刊行された。第1巻は全体の序論ともいうべき位置づけだが、この「序論」がじつにおもしろい。第2巻は少々だるくて退屈だ。


 さて、フーコーは『知への意志』において、性(セクシャリティ)にまつわる言説の歴史をたどることにより、権力と抑圧の本質へ向かおうとする。

 性は語りを禁じられる。性は夫婦の寝室に閉じこめられる。慎ましく、語ることを禁じられる。……だが、誰によって? 権力が禁じる? どんな権力が?

 たとえば子どもには性がないものとされ、性を禁止され、注意深い沈黙が適用される。
 
 「これが抑圧というものの特性のはずであり、つまり抑圧を、単に刑罰の方が支えている禁止事項と区別するものなのだ。抑圧は、確かに消滅すべしという断罪として機能するが、しかし同時に沈黙の強要、存在しないことの確認、従って、そういうことすべてについては何も言うことはないし、何も見ることはなく、知るべきこともないということの証明でもある。このように、跛行的な論理をひきずって、我らのブルジョワ社会は進行しているはずなのだ」
 (p11)

 性は抑圧されているから、性について語ることは禁じられているから、それなれば性について語ればそれが革命的なことか? Non、とフーコーは言う。



 西洋科学文明は性愛の技術を持たない社会だ。そのかわりに性の科学を持つ唯一の文明。西洋文明では中世以来、「告白」が主要な儀式となって、性を<知である権力>へと結びつけた。「真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきた」(p76)


 西洋近代は「死の権力」から「生権力」へと向かった。「性」は「抑圧」と同義ではなく、性は言説化されるようになる。

 (この項、続く)
 

<目次>

第1章 我らヴィクトリア朝の人間

第2章 抑圧の仮説
  1 言説の煽動
  2 倒錯の確立

第3章 性の科学

第4章 性的欲望の装置
  1 目的
  2 方法
  3 領域
  4 時代区分

第5章 死に対する権利と生に対する権力

 訳者あとがき

ほんとに「読んではいけない」本か?

2005年04月08日 | 読書
 『週刊金曜日』誌上で井家上隆幸に「読んではいけない」と酷評された本だが、それほどひどいとは思えなかった。

 むしろ、今までよくわかっていなかったタリバンとアルカイダの違いや関係もよくわかって、わたしには大変よい本だった。
 そもそもなんでアルカイダがアフガニスタンにいるのかすらわかっていないというお粗末な状況認識だったわたしに、この本はそういう事情をよく知らせてくれるよい本だ。

 もちろん、アルカイダを率いるオサマ・ビンラディンのことは原理主義に凝り固まったテロリストという著者の基本認識があり、パレスチナでのイスラエルの蛮行について触れないという偏った立場だが、そのことじたいがそれほど非難されるべきことでもなかろう。パレスチナ問題についてはどちらかの立場に明確に立ちえない人々はいくらでもいるし、とりあえずそのことに蓋をしたとしても、しょうがいない。なにしろ著者はNHKの職員なんだし。

 バーミヤンの大仏という世界遺産の破壊は国際社会の無関心が一因だとちゃんと著者高木氏は述べている。「ビンラディンの策略とタリバンの無知」で国際社会の無関心を免罪などしていない。本書はそれほど単純な結論を導いてはいない。ここは評者井家上氏の誤読だ。

井家上氏の酷評よりも、太田昌国さんの書評のほうがはるかにわたしの読後感に近い。
太田さんの書評はこちら

 ところで、今日は昼休みに敢然として大川の桜並木を歩いた。いや、そんな蛮勇を奮ったわけじゃないけど、なにしろ花粉が怖いので…(^^ゞ ばっちりマスクをして汗ばむ陽気のもと、桜を眺めた。満開ぢゃぁ~。気持ちよかった。

 今夜は夜桜宴会のまたとないチャンスだ。大川沿いの桜の下はほとんど空き場所ばないぐらいに場所取り合戦が繰り広げられていた。昼間から場所取りのためにシートの上で寝転んでいるのは総務部宴会係長か、はたまた退職者嘱託組か。背広の上着を脱いで場所取りのための昼寝を決め込んでいるサラリーマンやら、するめとお茶で時間をつぶす初老のサラリーマン二人組とか、まあこんなところで番をさせられる人は閑職にいるには違いない。

 一面に場所取りブルーシートが引かれているど真ん中の一番いい場所を陣取って昼間から宴会やっているのは中年主婦グループ。いいねぇ、おばさんたちはのんびりできて。

 ケータイを持って出れば写真を撮れたのにおしいことをした。来週まだ桜が残っていれば、カメラを持ってもう一度花見をするとしよう。でも花粉は怖い。今日も職場に戻ってからが大変だった。マスクをはずして仕事を再開、15分ほど経つと、くしゃみ・鼻水・咳の連発。やむなくマスクをかけて仕事に就く。あー、やだやだ。しまいには頭も痛くなったし。ゆーうつ。

<書誌情報>

 大仏破壊 : バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか
   高木徹著. 文藝春秋, 2004


『現代思想のパフォーマンス 』

2005年03月26日 | 読書
 フーコーつながりで(いや、その前にアガンベンつながりで)結局もう一度現代思想をソシュールからおさらいしないと理解できないということに気づいて、こういう本を読んでみた。

 かなり前に内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』を笑いながら読んだけど、あれはあまりにも簡略すぎてお役立ちではないので、寝ながら~を再読するのはやめてこちらを読んだ。



 いやあ、やっぱり内田さんはおもしろいわ。この人、難しいことをよくこれだけ咀嚼して書けるものだ。

 取り上げられている思想はソシュール、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン、フーコー、サイード。その中で内田さんは映画「エイリアン」を使ってバルトを説明する。これ、確か『映画の構造分析』では「エイリアン」を使ってラカンを説明していたはずだけど。同じネタでいろいろ使えて二度三度四度五度とおいしい。同じ映画を使ってよくこれだけいろいろ書けるものだと感心してしまう。

 これを読んで息子が「エイリアン」のDVDをリクエストしていたことを思い出して、借りてきた。早速1と2をむさぼり見ていたけど、わたしは時間がなくて見られなかった。

 あ、映画の話はともかく、なんでフッサールとかの現象学系が抜けているんだろうとちと不満かな。でも、構造主義者に偏った解説のなかにサイードがはいっているというのは珍しいと思う。

 高校生や大学生向けにはぴったりです。とても読みやすくておもしろい。フーコーに関しては、これはこれでおもしろかったんだけど、今わたしが読んでいる『性の歴史』の読解の助けにはならなかったなー。惜しい。

<書誌情報>

 現代思想のパフォーマンス / 難波江和英, 内田樹著.
    光文社, 2004 (光文社新書)

『倒壊』

2005年03月21日 | 読書
 これは、6年前に著者が書いたルポ『倒壊』の続編である。『倒壊』を先に読んでいればたいへんつながりもよく、わかりやすい。

 『倒壊』では阪神淡路大震災で倒壊したマンションの立て替えやローンをめぐる問題が浮き彫りにされた。震災で家はなくなったのにローンだけが残った。新しく建て直すためには二重の負債を抱えることになる。そして、全半壊の分譲マンションを建て替えるときにも、経済弱者や老人世帯は建て替えに反対するが、多数決の論理によってマンションを追い出される事態に追い込まれる。



 本書よりも『倒壊』の方が生き生きとした具体例が多く挙げられているので、身につまされるだろう。著者が不足するデータを補うべく足を使って懸命に資料に当たった様子がよくわかり、戦後日本の持ち家政策の矛盾が一挙に表出した「震災による住宅喪失」に対して著者が並々ならない執念を燃やして被災者の立場に立とうとしたことが伝わってくるルポだ。

 ただ、統計の扱いの詰めの甘さが感じられるのが欠点で、そもそも統計が存在しないということも原因の一端とはいえ、推論の域を出ない部分が多いのが惜しまれる。また、震災で住宅を失ってローンだけが残った戸数を計算するような大事な部分はもう少し正確を期して記述してほしいところだ。
 その数字の算出はデータがないため、様々な統計調査を付き合わせて推計するしかない。そしてその結論の数字は、約15000世帯だ。だから、ローンが残って家がない人の数は15000人、と読む。だが、これは正しいのか? 15000は世帯数なのか戸数なのかローン負債者の数なのか。たとえば我が家は住宅ローンを夫婦二人がそれぞれ組んでいるから、戸数は1,債務者は2人である。本書でではこのあたりの詰めの甘さが惜しまれる。

 とはいえ、戦後日本の住宅政策が「長期安定雇用」という労働政策の上に成り立ち、家は修理するのではなくそっくり立て替えてしまうという使い捨て思想に基づいていることの問題点を鋭く指摘する良書だ。
 
 とりわけこれからマンションを買おうと思っている人にはこの2冊を必読書としてお勧めしたい。30年のローンを払い終わったら手元に残るはずの家が自分のものにならず、マンション建て替えのために老人世帯が追い出されるという悲劇。立て替えの費用負担を負いきれない経済的弱者世帯はけっきょくマンションを追い出されてしまい、しかも民間の賃貸住宅もなかなか入居することができず、そのままホームレスということもありうる。この心胆寒からしめる実態を知った上でマンション購入を検討されたい。

 今求められているのは、住宅政策の根本的見直しであり、日本の住宅思想の転換だろう。持ち家思想はほんとうに正しいのか? 正しいとしたら、どのような住宅が求められるのだろう? 非正規雇用者に冷たい住宅ローンの現状をどのように変えていくべきか?


 『倒壊』には、日本的多数決風土ともいうべき実態が描かれていて興味深い。それは、マンションの建て替えに対する賛否の多数決をとるときに、賛成が8割、反対が2割だったケースの例だ。ここでは、もともと「どちらでもいい派」だったのに後に賛成派になった人が、著者の質問に答えてこう言っている。

「 八割の人が建て替えと言っているのだから、なんとかその方向へ進めなければという思いでやってきたんです。私たちのマンションには、補修と建て替えという二つの可能性があった。…[補修派と建て替え派が競争して]補修派は競争に負けたわけでしょ。負けたんやったら決議に従うのが、良識ある人のすることではないでしょうか。80%の人がこうしようと思ったことに対して、それが自分の思いとは違うからといって、訴訟を起こす人の気持ちなんか僕にはわからない。エゴに過ぎないと思います」

 この人の意見にこの国の「民主主義」の実態がよく現れている。負けた2割の人が住む家がなくなってもホームレスになるかもしれなくても、多数に従うのが「良識」だという「良心的な意見」。決して全壊したわけではないマンションなのに、経済的弱者への配慮は顧みられない。


 ことは住宅ローン一つの問題ではなく、わたしたちの生き方すべてに通じるような問題だと思う。わたしは「アメリカのようによその国に危害を加えて金持ちになるくらいなら、人と人が大切にしあう豊かな貧乏国、日本独自のオリジナル貧乏がいい」(文庫本『倒壊』のあとがきより大意抜粋)という島本さんの社会を見る視線にいつも共感する。

『住宅喪失』の発行と同じくして『倒壊』が文庫化されたので、ぜひ併せてご一読を。

<書誌情報>

 倒壊:大震災で住宅ローンはどうなったか
   島本慈子著 筑摩書房(ちくま文庫) 2005.1

 住宅喪失 島本慈子著 筑摩書房(ちくま新書) 2005.1

日本人が見たアメリカ政治と社会の本、2冊

2005年03月17日 | 読書
 この本はマイケル・ムーアの『アホでマヌケなアメリカ白人』にノリが似ている。ムーアの本よりずっと笑えるけど。

 アメリカ社会の下品さとか懐の深さとか、笑っているうちにいろいろと考えさせられた。ただまあ、文体もけっこう下品だったりするので、こんなんでええんかいとか思うけど、おもしろいからえっか。

 映画評論家だけあって、やはりハリウッドの裏事情などを書いてある部分がおもしろいのだ。映画ファンなら、そういうあたりにアンテナが反応するだろう。日本の芸能人は主義主張や政治思想・宗教をあまり明らかにしないが、ハリウッドのスターたちは積極的に政党のパーティに参加したり献金したりするのだ。誰が共和党支持者か、なんていうのがわかってけっこうおもしろい。

 まあ、社会分析の本というよりは、おもしろおかしく読みつつも、アメリカ社会への批判の目を養う、といったところか。でも『あの日から世界が変わった』のたけちよさんもそうだけど、アメリカが好きだから批判する。アメリカへの愛が感じられるのだ、やっぱりこの本も。

<書誌情報>


底抜け合衆国 : アメリカが最もバカだった4年間 / 町山智浩著 洋泉社, 2004




 次に、『現代アメリカ政治思想の大研究』。わたしが読んだのは1998年刊の新装版だが、現在では左の写真のような文庫になっている。もともとが1995年出版の本だから、もう10年経ってしまっているが、内容がそれほど古いとは思えないから、アメリカ政治の基本構造は変わってないのだろう。

 こちらの本は参考文献やニュースソースがいっさい明記されておらず、引用文献についてさえほとんど明らかにされていないという杜撰な本で、知識人論をはじめたいへん雑駁な論があちこちで展開されているので、どこまで信用していいのか怪しいのだが、そうはいえどもアメリカの政治思想について整理するには実にわかりやすくて役に立った。ニュースで名前を聞いたり読んだりするだけの人物たちの人脈や思想性がよくわかる。そのわかりやすさはチャート式の受験参考書を読んでいるようなかんじ。ま、内容もその程度のもんかな、と思う。

 しばしば著者の政治思想や信条を吐露する余計な部分が出すぎるのも難点だし、山本宣治と鈴木文治を同列に扱うなどかなり雑だし、ウォーラステインの世界システム論を「よくわからない」の一言で終わらせてほとんど説明しないとか、なんだか「あれれ?! をいをい!」という部分が多い。

 だが、二大政党といっても民主党も共和党もさして変わらないというわたしの印象を裏付ける論述や、いっぽうで同じ党内でもさまざまな主張が対立している様子や、党派入り乱れての論戦・離合集散があることなど、いろいろおもしろい記述もあった。

 総じて、アメリカ政治を見るときの参考にはなるけど信じ込まないほうがよさそうな本。でもそれなりにおもしろかったから、いちおうお奨めね。わたしは読みながら腹が立ってしょうがないところが何箇所もあったけど。

 では本書から少しおさらいを。現代アメリカの政治思想は大きくわけてリベラル派と保守派がいるのだが、さらにその中でいくつかに分かれている。
 保守派の中は5つにわかれていて、

1.保守本流
2.リバータリアン(徹底した個人主義)
3.ジョン・バーチ協会派(直情極右)
4.旧保守派
5.ハイエク主義者、レオ・シュトラウス派(「小さな政府」派)

 このうち、最近台頭してきているリバータリアンの思想というのが興味を惹いた。リバータリアンは徹底した個人主義を貫く保守思想で、その特長を20項目挙げてあるが、簡単にいえば、リバータリアンは国家を否定し一切の権力の介入をきらい、税金を払わないかわりに総て自助努力でしようという連中のことだ。外交的には、外国へでかけていって軍事力で他国を救う必要はない、アメリカ国内のことだけやっていればいいという「反戦派」。
 これは税金を払いたくない中小自営業者の思想なのだという。

<書誌情報>

現代アメリカ政治思想の大研究 : 「世界覇権国」を動かす政治家と知識人たち / 副島隆彦著 ; 新装版. -- 筑摩書房, 1998

再び『フーコー』より引用 「外」について

2005年03月15日 | 読書
ドゥルーズ『フーコー』の訳者解説より引用。


 抵抗とは「外」に直接触れることにほかならない、とドゥルーズはいう。権力の次元は、知の次元に対して外にあり、この外はダイグラム、戦略によって定義されるが、ドゥルーズは、この外のさらに外に純粋な力の関係を考えているように思われる。ダイアグラムはそこから抽出されてくるのである。この外はたえまない生成、たえまなく突然変異を準備する変化であるといわれる。思考はそれを把握することはできないが、そこにむかって思考することならできる。思考にとって、確かに形式化された知以外の何も存在しないかもしれないが、思考が存在し知が存在するのは、このような外が存在するからである。 

……(略)

 思考は、考えられないものを通過しながら、無形式の権力の次元へと流出していく。そして、このような思考が、「汚名(破廉恥)」と「主体化」を再発見するのである。

 ……(略)

 ドゥルーズは、知、権力という二つの還元不可能な次元に対して、第三の次元として、主体化を位置づけている。第三の次元とは、まさに<外>と呼ばれるべきではないのだろうか。けれども、私たちが外に触れて、外に開かれて生きることは多くの危険、修行をともなう。あるいはしたたかな知恵をともなう。もしかすると、アジア的知とはしばしばそのような修行として、空虚にたえる道として、外に対面する方法なのかもしれない。ヨーロッパは外を折り畳み、その襞を自己との関係として生きることによって外と体面する方法を発見した。ドゥルーズはこんなふうに、フーコーの思想の最後の問いとして「主体化」を位置づけるのである。

 

 なんとなく、フーコー→アガンベン→大澤真幸と繋がる線が見えてきませんか?