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伏見城の面影2 天龍寺勅使門

2024年03月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺勅使門の続きです。上図は袖土塀との接続部にあたる部材ですが、土塀の棟面の保護板の役目を果たしていて、蟇股(かえるまた)の形に造られています。内側に彫り物が施されています。

 

 反対側の同じ部材にも彫り物が入っていますが、同じ表現意匠にはなっていませんので、おそらく左右のモチーフがワンセットで作られているものと思われます。

 

 袖土塀は、御覧のように瓦塀(かわらべい)の形式で造られています。これは練塀(ねりべい)の一種で、寺院の土塀の一形態として平安期から存在し、現存遺構は鎌倉末期頃からのものが多いです。京都では大徳寺や天龍寺や本隆寺、今宮神社など各地の寺社で色々な瓦塀が見られます。

 

 ですが、天龍寺勅使門の瓦塀のように南に張り出して屈曲する形式は、むしろ城郭のほうで幾つかの事例が見られます。よく似たケースがU氏の地元の水戸城の大手門の瓦塀で、しかも城郭の瓦塀としては国内最大級の規模を持つことが発掘調査によって確認されています。

 瓦塀は、京都では皇室と関係が深い院家か門跡、もしくは皇室勅願の寺院に見られますが、いずれも格式は三位以上であるようです。従って中納言以上か、三位相当に該当する身分でなければ設けることが出来ない格式の高い塀の形式であったのかもしれません。

 そのことを言うと、U氏は大きく頷いて、水戸藩主も歴代が中納言に叙せられてるからな、と言いました。だから水戸城に瓦塀があって当たり前だな、と満足げに言い、こちらの瓦塀を撮影していました。

 

 そうなると、この瓦塀が勅使門に付属して一体の建築となっている以上、これも創建時には中納言以上か、三位相当に該当する身分の人が関わる場所に建てられた門であった可能性が高くなります。

 この勅使門が現在地に移築されたのは寛永十八年(1641)のことですが、それ以前は慶長年間(1596~ 1615)に建てられた京都御所の明照院の門であり、それ以前は伏見城の門であったと伝わります。伏見城のあるじ豊臣秀吉は正一位の関白太政大臣でしたから、この格式の門を居城に設けることは普通に出来た筈です。

 なので、この門がもと伏見城の門であったとする伝承は無視出来ません。徳川期再建の伏見城の門であったとしても、そのあるじ徳川家康は従二位内大臣で、武家の論理に従えば、豊臣政権下では秀吉、秀長兄弟を除けばトップの官位にありましたから、この格式の門を居城に設けることは可能でした。

 つまり、この格式の門を伏見城に構えることが出来た身分の武家は、当時は豊臣秀吉と徳川家康の二人だけでした。だから問題は、伏見城の門であったのならば、それは豊臣期か徳川再建期かのどちらであるのか、ということに尽きると考えます。

 

 ただ、この門の表現意匠は桃山期の門にしてはおとなしめであるように思います。伏見城の門であったのならば、外側にあって目立つ門ではなく、内向きの通用門としての位置にあった可能性が考えられます。

 

 そして重要なのが、上図の南側の袖土塁接続部部材の彫り物が龍虎である点です。こちらは向かって左側の龍です。口を開いて阿吽のうちの阿形に作られています。

 

 そしてこちらが向かって右側の虎です。口を閉じて阿吽のうちの吽形に作られています。

 この龍虎の表現は、もともとは古代中国の「易経」にある「龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風生ず」「雲は竜に従い、風は虎に従う」に由来しており、武門の象徴とされて日本では室町時代以降に流行し、戦国武将たちが龍虎の屏風絵によって権勢を誇示するケースが一般的になっています。

 したがって、武門の象徴である龍虎が、阿吽の姿をとって門の両側に侍るという彫刻表現は、武家の門に相応しい意匠であることになります。寺院や皇室の門には有り得ないモチーフですから、この点でも伏見城の門であったとする伝承は真実味を帯びることになります。

 

 なので、U氏も私も、天龍寺勅使門がもとは伏見城の門であった可能性は高い、という見解では一致していました。

 

 ただ、U氏は豊臣期伏見城の門だろう、と言いました。私はそこまで踏み切れず、慶長年間に京都御所へ移築した点を考慮すると、同時期に破却が始まっていた徳川期再建伏見城の門である可能性を指摘するにとどめました。

 

 門の各所に見える見事な彫刻表現の基調は、桃山期のそれですが、それを担った作家たちは江戸初期まで活躍していましたから、同じようなものを江戸初期にも造る事は可能でした。

 

 なので、この門が桃山期なのか江戸初期なのかは、細部の彫刻表現からは識別出来ませんでした。

 

 なので、この門の扉が初めて開け放たれた際に吹き込んだ時代の風が、豊臣政権期のそれであったか、德川政権期のそれであったかは、銘文や古文献史料等の確証が出てこない限り、分からないままとなります。

 

 ただ、この門が最初は伏見城にあった可能性が限りなく高い、ということは言えます。今は、それだけで充分じゃないかな、とも思います。そのほうが、歴史のロマンをより感じられて楽しくなるからです。  (続く)

 


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