二尊院総門の続きです。門脇の立札によれば、慶長十九年(1614)に伏見城の薬医門を角倉了以が貰い受けて寄進移築したものとなっていますが、別の資料では慶長十八年(1613)の事となっています。
つまりは一年の差がありますが、当時の状況を考え合わせると、おそらく慶長十八年は貰い受けた年、慶長十九年のほうは現地に移築した年ではないかと推測されます。
建物は、いまは京都市指定有形文化財に指定されていますが、伏見城の門だったのであれば歴史的にも重要な建物ですから、国重要文化財になっていてもおかしくない、と思います。そのことはU氏も指摘していましたが、同時に「豊臣期の豪華な門に比べりゃ、こっちは地味で質素だからな、国重要文化財まではいかないかもしれんな」と話していました。
確かに上図の妻飾(つまかざり)の懸魚(げぎょ)以外には全く装飾意匠が見当たりません。棟を支える両側の蟇股(かえるまた)も大きな一枚板であるのみでした。
脇の潜戸(くぐりと)も御覧のように実用本位の造りで、飾りの類は一切みられません。部材も細くて、戦国期の門のような防御性の高い太い木が使われていませんでした。そういう点にも、江戸幕府開創期の平和な気分が伺えます。
天井は御覧の通り、屋根裏まで見えました。屋根の垂木も間隔を開けた疎垂木(まばらだるき)のタイプです。
とにかく質素ですが、必要最低限の構造、堅牢さは備えています。実用本位の門としてはこの程度が普通だったのかもしれませんが、同時に、この程度の構えであれば、城郭以外の寺院や屋敷などの門としても通用したのだろうな、と思います。
門の左の柱には「九頭龍辨財天」の札が掛けられていました。本堂の隣に弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂があるので、そこへの参詣客も多かった歴史が示されています。
U氏が「そういやあ、弁財天っての、京都には結構多いよな」と私を振り返って言いました。確かに京都では色んな寺に弁財天が祀られていて、観光名所になっている所も少なくありません。
思いつくだけでも、近くの天龍寺の慈済院の水摺福寿大弁財天、それから六波羅蜜寺の福寿弁財天、戒光寺の融通弁財天、伏見長建寺の八臂弁財天、本圀寺の九頭龍銭洗弁財天、出町妙音堂の青龍妙音弁財天などが挙げられます。
とりあえず、二尊院総門の見学を終えました。本物の徳川期再建伏見城の城門の遺構ということで、充分に見応えはありました。
この門は、近くでみるよりも、このように少し離れて見るほうが良い感じです。地味で質素とは言え、当時の城郭内の一級格の門でしたから、外観が重厚で力強く感じられるのも当然です。
近くの上図の中国料理レストランの前でU氏が「おい、もう14時前になるぞ、夕食はまたどこかで食うとして、ちょっとここで軽くラーメンでも食べようか」と言いました。朝からずっと歩き回って見学してまわってばかりでしたから、私も異存はありませんでした。
それで、上図のハーフサイズのラーメンをいただきました。ラーメンというより薄味の中華ソバという味わいでした。
その後、もと来た道を引き返して嵐電で大宮まで行き、市バスで四条河原町へ移動して改めて夕食を共にし、祇園四条のU氏の宿の前にて解散しました。
握手の際に、「ではまた明日。明日の一ヶ所がいちばん重要だからな、楽しみだな」と笑っていたU氏でした。 (続く)