常寂光寺を辞して、もと来た道を「歌仙洞の碑」の辻まで戻り、北へ折れてこの日の最後の目的地へ向かいました。途中で右手に上図の嵯峨天皇皇女 有智子内親王陵墓が見えてきました。
U氏が「ちょっと見ていくか」と陵墓の前まで行って小さく一礼し、その東隣の落柿舎の門前まで行って道から中をのぞいていましたが、すぐに戻ってきました。寄らないのか、と尋ねたら「いや、落柿舎は前に行ってきたんだ、全然変わっていないね」と答えてきました。
それで戻って目的地への道を北進しました。右手には小倉山墓地と呼ばれる古い墓地がありますが、上図のように樹木と草藪に包まれていて見えませんでした。
その辺りには、かつて室町幕府管領の細川右京太夫持之が、永享元年(1429)に天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎えて創建した弘源寺があったといいますが、いまは移転して天龍寺境内地内に塔頭として存在しています。さきに訪れた常寂光寺の境内地も、もとは弘源寺の寺域に含まれていたらしく、広大な寺院であったことがうかがえます。
ほどなくして、最後の目的地である二尊院に着きました。U氏は夏にここに行ったそうで「どうする?中も見てゆくかね?」と訊いてきましたが、私が「この総門だけ見れれば充分」と答えたので、満足げに「だろうな、今日のテーマは伏見城からの移築建築の検証、だしな」と言いました。
その通り、今日のテーマは伏見城からの移築建築の検証、でしたので、二尊院においては上図の総門を見学すれば事足りました。
御覧のように、脇の立札には、「伏見桃山状 薬医門 1614年 角倉了以により移築」とあります。ここまで肯定的に書かれるのは、確たる証拠つまり古文献とかの移築記録などがあるからでしょうか。
この二尊院は嵯峨の豪商であった角倉家の菩提寺でもありますから、もしかすると角倉家の古文書類のほうに移築の記録が残されているのかもしれません。いずれにせよ、他ではこの種の建物の移築を伝承としてつたえている場合が殆どなので、こちらの肯定的な記述は印象的ですらあります。
つまり、この門は本物であって、もとは旧伏見城の薬医門であったわけです。問題は、この門が豊臣期の伏見城のそれなのか、徳川期再建の伏見城の建物か、という点に尽きますが、これについてもある程度の解答は既に得られているのだろうと推察します。
解答の鍵は、立札にある「1614」という年です。慶長十九年にあたります。当時の伏見城は徳川家が慶長二年(1602)に再建しており、一国一城令の主旨に則って元和五年(1619)に廃城が決定するまで二条城とともに京都の徳川家の拠点として機能していました。
ただ、城郭の整備とくに作事(さくじ・建物などの建設のこと)は、駿府城の改築が優先されたために慶長十一年(1606)頃には停止され、建物の一部は解体され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれたといいます。そして徳川家康が駿府城へ移った後、慶長十二年(1607)より松平定勝(徳川家康の異父弟)が城代となっています。
なので、二尊院に薬医門が移築された慶長十九年は、伏見城廃止の五年前にあたり、既に作事は慶長十一年(1606)頃に停止されています。建物の一部は解体され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれたといいますから、城郭としての実質的な役割は終わりに近づきつつあったということでしょう。
以上の経緯から考えて、徳川家康とも懇意にしていた角倉了以光好(すみのくらりょういみつよし)が門の建物を譲り受けたのは、おそらくは作事が停止された慶長十一年(1606)頃以降のタイミングと思われます。二尊院への寄進移築がその後になりますから、慶長十九年という年は時系列的にみても辻褄が合います。
したがって、この門は徳川期再建伏見城の薬医門であったもの、となります。移築に際しての改造の痕跡が見当たらないので、建物自体はそのままの構えで現在に至っているようです。
御覧の通り、立派に頑丈に造ってありますが、装飾が一切みられず、内向きの実用的な門であったことをうかがわせます。例えば大手門とか唐門というような、外に誇示する意図で豪華に飾る傾向がある門とは違う性格の門であった、と推測出来ます。
内向きの実用的な門であったことは、上図の門扉のしつらえを見れば分かります。釘隠しの金具も一般的な丸型と方形のみで、蝶番の金具にも彫り込み意匠は一切見られません。城内の通用門であったか、解体されて駿府城へ運ばれた屋敷に関連する門であった可能性が考えられます。
慶長十一年(1606)頃に伏見城の作事が停止されて後、建物の一部は解体されたといいますから、この門も含まれていた可能性があります。当時の寺院の門よりも立派で堅牢な一級の建物ですから、角倉了以が菩提寺の二尊院の玄関口に相応しいと考えて、徳川家より譲り受けたか、買い取ったのかもしれません。 (続く)