源ザの独り言日記

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酷暑の中の業者来宅、秋田・山形両県大雨被害、パリ五輪・ミス続きの開会式、五輪史上で初めて男女同数が実現

2024-07-27 20:40:07 | Weblog
朝のストレッチ以外の日中は殺人的酷暑で動きが取れない。午前中、息子宅にババの朝獲りのキューリ、プチトマト、ミヨウガ、アオジソなどを自転車で届け途中で徒歩に切り替え「まなびいプラザ」に出かけた。昼食後の14時、、予約された不動産業者2人が猛烈な蒸し暑さの中挨拶と打ち合わせに来宅したので1時間弱対応した。玄関で扇風機で客人をもてなしたがさっぱり効果が無いほどの容器だった。帰り義は裏のロッカ−扉のレール離脱回復をお願いしたが難しそうで諦めた。
送り出してかき氷を少し作り体を冷やして、休息したら夕食時間の18時となってしまい「図書館」に予定を諦めた。夜のストレッチは隅田川花火大会の音と雷鳴とイナズマのなか、周辺をウォークしていたら雨粒が落ちてきて退散。今夜も熱帯夜かとうんざりしている。東京電力パワーグリットによると、27日午後6時24分現在、埼玉県内の約4万3000軒で停電が発生している。特に多いのは、上尾市の約2万5000軒▽桶川市の約9000軒▽さいたま市北区約3200軒という。また、気象庁によると、埼玉県熊谷市では27日午後6時10分までの1時間の降水量が18.5㍉と、やや強い雨が降っている。当地区では雨粒が落ちる程度で助かった。 
(秋田、山形両県大雨被害)
秋田、山形両県で降り続いた雨は一時小康状態となったが、27日午後から再び強まり、両県などは引き続き厳重な警戒を呼びかけている。水が引いた地域に足を運ぶと、大量の泥が道路を覆い、住民は蒸し暑さに耐えながら、家財などの片付けに追われていた。秋田県内では県南部の由利本荘市周辺だけでなく、北秋田市や上小阿仁(かみこあに)村といった山間地の住宅でも大きな被害を受けた。北秋田市の秋田内陸縦貫鉄道の拠点駅・阿仁合駅の近くを流れる阿仁川も大きく増水し、27日も幅数百メートルに及ぶ茶色い濁流が流れていた。同市阿仁水無の集落の一角では、2棟の家屋の床下が大きく崩れ落ち、コンクリートの破片が下に散乱していた。この地域にあるトンネル付近でも土砂崩れが起きており、雨によって地盤が緩み、傾斜も多く周囲の土砂が一気に崩れ落ちたとみられる。ここから北西に約10キロ離れた上小阿仁村の五反沢地区でも、五反沢川の堤防が決壊し、田んぼ一帯に泥水が広がっていた。住民によると、この地域ではおととし、去年と連続して増水し、護岸の工事があったという。一帯には流木が散乱し、農道が通れなくなっていた。上小阿仁村東部の仏社地区でも仏社川が増水。小さな橋が流されて落下し、近くの電柱やガードレールも傾いていた。村を南北に流れる小阿仁川の支流にあたる複数の川の流域で同時に大きな被害をもたらした形だ。村の防災担当者は取材に、村内では5集落で断水が続いているとし「ここ2日は給水車で住民の水不足に対応している。村の主要道路の被害状況は把握できたが、奥の林道などの情報はまだ分かっていない状態」と説明した。

<パリ五輪・ミス続きの開会式>
26日に夏季五輪で史上初めて競技場外で行われたパリ五輪開会式は、ハプニングも相次いだ。セーヌ川の水上パレードで韓国選手団が登場した際には、北朝鮮の正式国名である「朝鮮民主主義人民共和国」と英語とフランス語でアナウンス。国際オリンピック委員会(IOC)はX(旧ツイzツター)の韓国語アカウントで「深くおわびする」と謝罪した。韓国選手団の後に北朝鮮選手団が登場した場面では、国名は正しくアナウンスされた。韓国の文化体育観光省は「遺憾の意」を表明し、IOCのトーマス・バュハ会長との面会も要求した。トロカデロ広場で行われた式典では、五輪旗が上下逆さに掲げられるミスも。旗は本来、五つの輪のうち青、黒、赤の3色の輪が上になるが、下になった状態で掲揚された。
<五輪史上で初めて男女同数が実現>
五輪史上初めて出場枠の男女同数が実現した大会として「パリ」は刻まれる。女性に五輪への門戸が開かれたのもパリ。1900年の第2回大会でだった。参加者は22人で全体の2,2%。テニスとゴルフに女子種目が認められてのことだったが、アルリートとしての扱いではなかったという。近代五輪の創始者、クーベルタンの出身地でもあるパリだが、クーベルタン自身は、女性の五輪参加に消極的だったという。対照的だったのが柔道の創始者でアジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となった嘉納治五郎で、女性のスポーツ参加に理解が深かった。嘉納は1893年には早くも女子の門下生を受け入れたとされ、後には「体力的に優れた男性による力技の柔道よりも、体力のない女性の柔軟さのなかにこそ真の柔道が受け継がれる」と語ったほどだ。五輪での女性参加は1924年のパリ大会で、ようやく4.4%に。続く28年アムステルダム大会で初めて女子の陸上種目が採用され、人見絹枝が800mで銀メダルを獲得し、日本女性初のメダリストに輝く。その後、84年ロサンゼルス大会でマラソン、92年バスセロナ大会では柔道女子、2004年アテネ大会でレウsリングでも女子種目が加わり、12年ロンドン大会でブクシングでも採用されて全競技に男女が参加するようになった。今大会で出場枠の男女比率がようやく50%となるが、課題は残る。いまだに女性がスポーツに取り組むこともままならない国は少なくない。3度目のパリ大会は新たな出発点となれるか-。