皆様ごきげんよう。いいお日和ですね、黒猫でございます。
今日は相当久しぶりに本の感想を。
『ゲドを読む。』(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社ブエナビスタホームエンターテイメント)
わたしは日頃読む本の半数以上を図書館で借りていて、図書館の公式サイトの新刊案内を定期的にチェックしています。そこに表示される新刊で興味のあるものはリクエスト予約を入れて読むという寸法です。
上記の本は新刊リストにあったので、ゲド戦記信者のわたしは「お、あたらしい評論か」と思って軽い気持ちでリクエストしたのです。
で、手元に来たそれを読もうとめくってみたら、しょっぱなに「DVDの販促のために広告予算でつくったフリーペーパーです」と。
は?ジブリは今更どの面下げてゲドを語れるの?と素で思いましたが、よくよく読んでみたところ、出版されたのは文字通りジブリのゲド戦記映画DVD発売の直前だったようです。今更というわけでもないらしい。
どういう経緯かわかりませんが、それが何故か今になってわたしの通う図書館の新刊に入った、と。
調べてみましたがフリーペーパーという形態だったせいか販売はしていないようです。なので今回はリンクなし。すいません。
日経ビジネスBPで記事が読めますが、フリーペーパーという戦略についての記事なのと、2ページ目から有料になるのとでちょっと微妙。
内容はといいますと、結構いろんな人が寄稿していました。
冒頭の中沢新一さんの「ゲド戦記の愉しみ方」は大部分は興味深く読みましたが、最後の最後になって「映画版ゲド戦記はアジア的解釈のひとつのヴァリエーション」だと言っていて、個人的にはこの部分で萎えました。なんかすごいとってつけた感。
ゲド戦記シリーズの翻訳者である清水真砂子さんのインタビューも載っていて、これも面白かったですが、やはり最終的に映画のことを訊いていて、まあ映画DVDの販促本だというのだから仕方がないんですが、個人的にはなんちゅうこと訊いてんだという感じです。しかしそれに対する清水さんの答えは流石でした。「詩人に向かって歌うな、なんておこがましいことは言えないというのがわたしのスタンスです」(※本文より引用)と。感動を呼び覚まされたものを詩として表現するとき、詩人は全く形を変えて歌ってもいいわけですから、と仰っています。
うう、正論。そして大人。
しかしそんな風に納得できないのが原作信者というものですよ・・・。
別に好きなように形を変えて創作するのはいいと思います、二次なら。
でもそうじゃないでしょ?観客はまさかジブリがそこまで壮大な二次創作を堂々と作ろうなどと思って観ないでしょ?そういうことはコミケでやれ。
そして巻末の河合隼雄さんと宮崎吾朗監督の対談の中で吾朗監督が「最初は、狂った王様の親父に殺されそうな少年アレンが、母親に逃がされてということを考えたんですけど、鈴木敏夫プロデューサーから「それだと当たり前すぎる」と言われたんです」(※本文より引用)と言っているのを読んで完全に脱力しました。
原作いらねえだろ、大改変前提なら自分たちで一から好きなように作れよ。
オリジナルストーリーならどう展開してどうねじ曲がって意味不明で終わっても全く構いません。中途半端にゲド戦記の世界を使って歪めて破壊した意味がわからない。
ホントこの映画化で得した人いんの?
この本の中に中村うさぎさんも短い文章を寄稿しているんですが、映画を観る前だったらしく、観てしまった立場のわたしが読むともうなんか悲しい気持ちになります。こんなに期待されていたのにね。
さして厚くもない本ですが、読み終えたあとなんとも言えない疲れを感じる本でした。はあ。
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