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風船爆弾(5) 東京大空襲で終焉に

太平洋戦争末期の「ふ」号作戦(風船爆弾)の放球基地は,
茨城県大津(18台),千葉県一宮(12台),
福島県勿来(なこそ)(12台)にあり、

昭和19年11月から20年3月までの間に、
15,000~16,000個を発射する計画だったようです。

実際は
昭和20年2月艦載機来襲,B29による京浜地区空爆、
3月10日の東京大空襲等で工場は被災し、
一宮は基地として機能しなくなり、
勿来とともに大津に合流して残りの風船爆弾を放球して終わった。
(「ふるさと今昔」)

発射されたのは、9,300発だったようです。

予想していたのより、かなり多い数です。


また、その効果については、
一宮では、
「カナダの山奥で、原因不明の山火事があった程度」
と言い伝えられています。

しかし、アメリカ本土を直接攻撃した風船爆弾は、
想像していた以上に多く、
アメリカ軍に精神的な脅威を与えていた
という指摘があります。

風船爆弾の到達と影響を徹底的に秘密にしていたことから
も伺えます。

特に、最後の手段として、
関東軍防疫給水部本部(731部隊)が開発していた
生物兵器を搭載されることに、恐怖を感じていたのではないかと
想像してます。
そうであれば、風船爆弾を製造する地域を
一気に焼き尽くそうとしたとしても、つじつまがあうと
考えてしまいます。

大本営命令(1944=昭和19年)
気球連隊は米国本土に対し、気球をもってする攻撃を開始すべし。実施期間は11月初頭より明春3月頃までと予定するも、状況により之が終了期間を更に延長することあり。攻撃開始は概ね11月1日とす。但し11月以前に於ても気象観測の目的を以て試射を実施することを得。試射に当りては実弾を装着することを得。

 投下物料は爆弾及び焼夷弾とし、その概数次の如し。

15瓩(トン)爆弾=約7500個、5瓩焼夷弾=約30000個、12瓩焼夷弾=約7500個

 放球数は約15000個とし、月別放球標準概ね左の如し。

11月 約500個とし、5日頃までの気球数を努めて大ならしむ。
12月 約3500個、
 1月 約4500個、
 2月 約4500個、
 3月 約2000個

放球数は更に約1000個増加することあり。

放球実施に当りては、気象判断を適正ならしめ以て帝國領土並びに「ソ領」への落下を防止すると共に、米穀本土到着率を大ならしむるに努む。



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