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『加納久宜公の墓』への献花式について(ご紹介)

『加納久宜公の墓』への献花式について(ご紹介)

 2月26日は加納久宜公の命日です。

私たちは、毎年この時期に城山公園の町指定史跡『加納久宜公の墓』への献花を始めました。

今年も別紙のように開催いたします。

一人でも多くの皆様方にご参列いただきたくご紹介申し上げます。

よろしくお願い申し上げます。


<最後の一宮藩主として>

加納久宜公は、今から150年前の慶応2年(1866年)に養子となり、

18歳で一宮藩藩主となりました。折しも幕末期でしたが、実兄(立花恭種)とも連携し、領民を混乱に巻き込ませることなく乗り切らせました。

なお、維新の後は東京で学生生活を始めます。

 

<激動の明治期に多方面で活躍しました>

 国が大きく生まれ変わる明治時代の全体を通して、様々な方面で積極的に活躍しています。

教育(学習院、日本体育大学、等)、産業振興(農業、協同組合、馬匹改良、等)、地方自治(鹿児島県知事:教育・勧業)、国会(貴族院議員)、社会福祉(赤十字)等々です。今、その足跡に注目が集まり始めています。どういう思いがそうさせたのかを感じ取りたいと思います。

<一宮町長として>

「加納さん」は一宮のことも忘れていませんでした。

明治の終わりには住まいを一宮に移し、地域の活性化の取り組みを始めます。耕地整理のほか、婦人会、青年会の発足などもその例です。明治42年(1909年)には当時の町長に対して、「町の総合計画を定め計画的に町政をすすめよう(町是を定め置くべきの議)」という具体的な提案もしています。

そういうこともあり、町民有志の度重なる要望を受け入れ、今から100年前の明治45年(1912年)に町長に就任しました。そして、人生の集大成として教育や産業振興など地方改良の理念の実現に情熱を傾けました。

振武館前に移設されてある『紀徳碑』は、存命中の大正7年(1918年)に建てられたものです。

この碑文(後藤新平撰)からも、全国的に注目されていたことがわかります。

 

<命日を前にした墓参について>

加納久宜公の墓は東京の谷中霊園にありますが、町を見下ろす城山にも分骨され安置されました。

慕った町民が、後々まで忘れることなく大切にすると約束したものです。

 

皆々様とともに、加納久宜公の命日を前に花を手向け、手を合わせて、「加納さん」について思いを巡らせたいと思います。

ご賛同いただければ幸いです。

平成26年1月
加納久宜公研究会

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