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『一宮町1968町勢要覧』13社会教育

『一宮町1968町勢要覧』13教育文化(社会教育)

13社会教育


鳴山キャンプ場(旧県営キャンプ場)は、
アウトドアの施設が少なかった当時、
よく利用されました。

しかし、残念ながら4年前に閉鎖されました。
海水浴場を隣接していましたが、
無事故(死亡事故なし)のまま終われたのが
せめてもの慰めです。

公民館活動や自主活動も熱心に行われました。
その後定着した町民文化祭からも、
町民の文化活動に対する意欲が伝わります。

自分たちの文化活動を、
自分たちの手で作り上げるのだ、
というエネルギーが感じられます。

さらに若いエネルギーへと、
バトンタッチされて、
文化の火が受け継がれると
いいものだと思います。

(もちろん、スポーツ文化も含めてです。
スポーツ振興は学校の部活動から総合型地域スポーツクラブへ、
うまく移行していかなくてはならない時期(世紀)に
なったのではないかと、感じています。)

今年の総合文化祭は、
10月31日(土)11月1日(日)の2日間
GSSセンターで行われる予定です。

長生村はじめ、近隣では
新型インフルエンザの影響で
文化祭、運動会などを中止にしているケースもでています。

一宮では、
文化動向連絡協議会の相談が来週があるようです。


生活学級で学ぶ婦人たち


二上り甚句

以前は、盆踊りといえば玉前神社の境内で
「東浪見甚句」や「盆だおどり」、「白浜音頭」などが
中心だったと思います。

また、「マイム・マイム」「オクラホマミキサー」「ジェンカ」などの
フォークソングもやっていました。

1970年から、「二十一世紀音頭」というのもやっていました。

そのころ、国道にあった大きな赤い鳥居が撤去され
信号がついたと思います。

境内にあった鳥居は、
奥の階段の近くに移され、
新たに赤い鳥居が設置されました。

玉前神社の境内は、
昔はもっと広かったような感じがする。
という人が多いけれど、
子供のころより、体が大きくなっただけではないような
感じもします。

社会教育

一宮町の社会教育は、青少年教育の充実・成人教育の振興・社全体育の振興・文化の振興・文化財の保護などの施策をおしすすめて、町づくりと人間形成をめぎして活動しています。

青年団体は、市街地青年クラブ(会員45名)・青年クラブ(会員40名)・4Hクラブ(会員20名)の三団体があってそれぞれ独自の活動をしています。
また、子ども会は、子ども会育成協議合が中心となって12地区に結成されていて、リーダー講習会・ソフトボール大会・年忘れ子ども大会・春の子ども大会り、ハイキング・夏期キャンプをど多彩を行事がもたれているほか、町内の鳴山地区には専用キャンプ場があります。


成人教育では、家庭教育学級・生活学級・婦人学級・夫婦学級があって、それぞれ単位の小グループで学習活動をしています。
そのほか、婦人を対象とした料埋教室・主婦教室なども行われています。

また、社全体育の振興のための体育協会の体勢強化・文化振興の為の愛好者グループ(短歌・俳句・写真・生花)の育成・文化財の保護についても努力がはらわれています。


文化財・史蹟案内

一宮町は、古くから上総地方の中心として繁栄してきたので、文化財は豊富ですぐれたものが数多く残されています。そのうち、国指定重要文化財1件・県指定文化財4件が選ばれています。

〔梅樹双鳥鏡〕 = 国指定重要文化財


玉前神社の神鏡で、鎌倉時代の作品です。
文様は、草のおいしげる川辺から上半面に大きくのびた梅樹がみごとに向かれ、その間に2羽の鳥が遊ぶ図柄となっています。

〔上 総 神 楽〕 = 県指定無形文化財


上前神社に伝わる神楽で、現在は十六座が継承されています。
舞の形・相子・面などがよく保存されていることが特徴といえます。

1月13日(初祈祷)・4月13日(春祭)・9月13日(秋季大祭)に奉納されています。

〔軍荼利明王億〕 = 県指定有形文化財


軍荼利山東浪見寺の本尊で、藤原時代の作と推定されます。桧の一本造り、丈は約2メートルで、素朴を地方色の強い作品です。

〔軍荼利山植物群落地〕=県指定天然記念物


標高約40メートルの丘陵地で、軍荼利山の境内の一部にあたります。
永い間にわたって信仰的な制約によって保護されてきた原生林という形で残されてきたものといえます。
数本のシイの木(樹齢約五百年)の下に暖地性植物(南方系)が自生し、そのをかに北方系植物も数種類まじっているので、極相林群落地として植物分布のうえで貴重な意味をもっているものです。
主を植物は、ハイハマポッス・ミヤマタゴボウ・キジョラン・ササキカズラ・オオバチドメ・リンボク・ハナミョウガ・フウトウカズラ・ヤプニッケをどです。

〔二上り甚句〕= 県指定無形文化財


徳川中期に全盛であった地引網漁業につをがる生活の歌として生れたものと思われます。
歌もおどりも古い形を伝えているもので、東浪見甚句と呼ばれています。歌詞の一部を紹介しますと、

 くじら潮ふく 小波のあるに
  沖さ取りだす鳥毛あみ

 浜をよばらせ なやおりさせて
  上り下りの顔みたや

 小寄り大寄り ひぎまでまくる
  深くなったら帯をとく

このほか、同じグループで、「盆だ歌」「大漁木遣り」「みやぎく」などの古い民謡が正しい形で伝承されているので専門家の注目を浴びています。

〔台場と大砲〕= 史  蹟


一宮藩では海岸防備のため海岸台場に砲台を築いて、砲七門を備えていました。大砲は茂原市永瀬家と茂原市が所有する二門が残っています。
いずれも鋳物製の前装式の大砲です。
鋳造は天保15年8月で江戸品川砲台より約8年まえのものです。



鳥羽伏見の戦いに、若き藩主加納久宜は、
フランス式兵法を指導した手兵を引き連れて
海路、京へと向かった。

しかし、悪天候のためなどもあり、結果的に、
伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)のところに留め置きとなってしまった。

ここに、ひとつの因縁を感じる。

品川のお台場は、江川太郎左衛門(英龍)の進言により作られたとされているが、
それよりかなり前に、松平定信が海上防衛の研究をしたようだと聞きました。
(一宮町文化財講座「「外房から眺めた鎖国日本」今年10月3日)

現在残るも江戸品川砲台(お台場)は、
大棟梁平内大隈(ひらのうちおおすみ*)によって設計施工された。
平内家は、日光廟大猷院(にっこうびょうたいゆういん)を手がけたり、
最古の木割り書である「匠明」を残すなど、
和算、建築の大家である。

江川太郎左衛門が示した要塞の図は、
西洋の模倣にすぎなかった。
当時の技術者集団の技法で、
短期に(特別な訓練をせず)実際に施工ができるか、
そこまで考えられてはいなかった。

結局、大棟梁平内大隈は、当時の技術力だけで
わずか半年で完成させてしまったのである。


もしも、品川沖に要塞を作るとしたら
どうすればいいのだろうか。

以前から、考えていたのではないかと思う。

加納久徴、江川英龍、立花種恭、加納久宜、平内大隈
この人間関係は
どういうつながりであったのだろう。


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