goo

『一宮町1968町勢要覧』09農業

『一宮町1968町勢要覧』09農業

09農業


農業は、この地域の基幹産業です。

特に、一宮町は
先進的な取り組みにより成果を挙げていたことがわかります。

ここにも、加納久宜元町長(帝国農会初代会長)の名があります。

温故知新
「理想の町」と称された
この地域の将来像を描くときに、大切な要素であると思います。
◎専兼別農家数および経営耕地面積別農家数

◎農 家 人 口

平成17年度の国勢調査(産業分類)では
農業は733人となっています。

専業農家の減少は、社会全体の傾向ですね。
それでも、農業がやりたくて転入する人もいます。

◎主な果樹の栽培状況 s42.2.1

現在は、マスクメロンも盛んです。

◎主を農作物の収穫.販売状況 s40.2.1


◎主を家畜飼育頭数の推移

昭和40年に家畜としての馬は0頭となりましたが、
昭和45年ごろに、
町の有志により、海岸に「一宮乗馬センター」が
設立されました。

大正の初期に加納久宜町長(当時)は、
一宮海岸に町営海水浴場を設置しました。
また、
明治39年(1906年)に安田伊左衛門などとともに
東京競馬会の発足に尽力しました。

一宮町に40年前から乗馬センターがあるのも
縁なのでしょう。

一宮には古くから採取経済に依存していた住民がいたことは貝塚などの遺跡からも推察されると共に、農耕生活による土地の開拓も比較的はやく行われたようです。

徳川末期の天保年間の一宮本郷村村鑑明細帳によると、稲・麦・粟・黍・
大豆・木綿・芋類の農産物がつくられていました。

徳川末期の加納藩の農政は、佐藤信渕が顧問格で指導にあたったためきわめて進歩的であったといわれています。

明治年間には、加納久宜子爵が農業に対する見識も深かったので、全国にさきがけて耕地整理を行ったり誘蛾灯を設置したり新品種の導入をしたり養鶏養豚品種改良にあたったので、早くから農業近代化の基盤がきずかれていました。


果樹(梨)は、明治26年に移入されたといわれ、酪農も明治29年に牧場を経営した人があり、養鶏も大正9年に専業として経営を初めている実績があります。

恵ぐまれた自然条件と進歩した栽培技術をいかして、ビニールハウスによる半促
成栽培(トマト・キュウリ)が普及し、栽培面鰍よ5万アールをこえています。


経営類型は、米+蔬菜の典型的を経営であるので、農業収入も多い状況です。



(↓よかったら関心のあるカテゴリをクリックしてください、「にほんブログ村」にリンクしています。)
にほんブログ村 
千葉情報  地域生活ブログ 
地方自治 政治・社会問題
地方・郷土史 偉人・歴史上の人物 史跡・神社仏閣 歴史 
手話・点字 障がい者福祉 社会福祉
教育 医療 環境
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『一宮町1968... 『一宮町1968... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。