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第16回加納久宜研究会(1)

今日、大きな話題になったのは、
「加納久宜の生涯」と
「加納公紀徳の碑」(上総一ノ宮郷土史研究会総会の資料をもとに)
でした。

「加納公紀徳の碑」は、遺徳を伝えようと、
大正7年に、旧町役場(観明寺四脚門の近く、現児童公園)に建立され、
その後、昭和63年に現在の位置(城山公園)に移設されました。

次のような意見が出されました。
(1)碑文について
・碑文は、郷土史研究家でもある長谷川氏によって読み下されている。
 さらに丁寧に読んで、具体的な内容についても知りたい。

(2)昭和63年の移設について
・移設をした経緯はどうだったのだろう。
(どのように話し合われ、この地を候補としたのか、など)

(3)劣化防止等について
・一級の史跡なので、屋根などを設けて、
風雨にさらされるのを防ぐ方法を考える必要があるのではないか。
・目立つように、周辺をさらに整備した方がよいのではないか。
(・他に良い場所はないだろうか。)

===
教育委員会の説明文
一宮町指定文化財(記念史跡)
加納公紀徳の碑一基  平成二年九月十一日指定

 篆額(てんがく)には加納公紀徳碑銘とあり、加納久宜(ひさよし)公の遺徳を後世に伝えようとしたものである。
 公は明治維新以来三十余年にわたり、地方行政や貴族院議員として国政に尽力し、鹿児島県知事をへて、晩年は、旧藩地一宮町のへ帰り、一宮町の地方行政の発展に寄与した。
 明治四十五年町長に就任し、駅下の耕地整理を始め、農政に力を注ぐ一方、観光開発をはかり、大正二年公設海水浴場を開設し、名士の別荘誘致をはかった。
 また、女子の婦徳涵養、情操の陶冶、教養の向上を考えて、私立一宮時学校の創設などその施政は各方面にわたり、町政に活力をもたらした。
 在職六年、大正六年に退任した、公の業績をたたえ後世に残そうと町民は相談し、旧一宮町役場に建立されたのは同七月三日で、生前建立としては珍しいものである。この建碑にかかわった貴族院議長公爵徳川家達(いえさと)は、徳川宗家の後継者であり、銘文の後藤新平は外務大臣、内務大臣、東京市長などもつとめたすぐれた政治家であり、書の野村素介は後の日本書道会の会長で、すべて当代一流の人物である。
 この碑は昭和六十三年十一月に現地(一宮三、四〇四)振武館入口に移された。

平成十一年一月 一宮町教育委員会



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