第五章 「スラップスティック 10/23」
清々しい朝の空気の中。
道行くお年寄りや、犬の散歩をする若夫婦を見ていると、心が洗われるような気がする。通り過ぎてきた公園では子供が走り回っていたし、川端の河川敷では体操している人たちもいた。
俺からすれば休日くらいゆっくり休んでいればいいのに、なんて思ったりもするが、バイタリティに溢れた人というのは意外と大勢いるらしい。もちろんそれが悪いとは言わないが、どちらかを選ばなければならないなら、俺は昼過ぎまで惰眠を貪る方を選びたかった。
それなのに、
「貴明っ、早くっ、間に合わないよっ!」
「タカくんっ、もう一息だよっ!」
何故か俺は、朝っぱらから通学路を全力疾走している。
せっかくの清々しい空気が台無しだった。
「べつっ、にっ、遅刻っするっ、わけじゃないんだっからっ、ちょっとっ、くらい遅れたってっ、いいだろっ」
息も絶え絶えに口を動かす。休日には遅刻の概念がないのだから、俺が言っているのは正論のはずだ。
「ステージを使える時間は限られてるんだからっ、わたしたちが遅れたら遅刻と変わらないでしょっ」
数メートル先を走るミルファは、軽やかに足を運びつつ、
「それにっ、友達との約束を守れないのはっ、ロクデナシだって長瀬のおじさんも言ってたよっ」
いいから走れ、という意味の言葉を返してきた。本当に融通が利かないというか生真面目な体育会系のノリというか、付き合わされるこっちは体育会系でもなんでもないのだから勘弁してもらいたい。
「タカくんっ、ごめんねっ、わたしのせいでっ」
隣を併走するこのみが、速度を維持しながら申し訳なさそうな顔をするという器用な技を披露してくれる。それが妙におかしくて、こみ上げてくる笑いを堪えていたら、ますます息苦しくなってきた。
限界が近い。酸欠で倒れるのを覚悟する。いくら涼しくなったと言っても、それで体力の総量が増えるわけではない。
「もう少しだよっ」
確かにこのペースなら、五分もしないうちに学園に辿り着く。ただし学園は坂の上にあるから、ゴールの前でスパートをかけようものなら、文字通りに心臓が破れてしまいかねない。
ふらふらと揺れる視界に、点滅する緑色の光が飛び込んでくる。
何かの幻なのかと、はっきりしない頭で考える。
「あ」
目の前のミルファが声を漏らして、
「信号」
立ち止まると同時に光は赤に変わった。
俺の足も止まる。勢いがついて止まれないかとも思ったが、まったくそんなことはなかった。燃料切れを起こした自動車のように、俺の身体はこれ以上動くことを拒絶している。膝に手をついて、肩で息をする。とりあえず助かったみたいだ。
「た、タカくん……だいじょうぶ? なんだか死にそうな顔してるけど……」
「いざとなったら、わたしが担いで行くからねっ」
返事をすることすらできない俺とは対照的に、二人は横断歩道の手前で足踏みをしている。一体どこからこんなエネルギーが沸いてくるのか、まったくもって不思議でならない。
「あ、でもミルファちゃん。ここまでくればもう平気じゃないかな」
ミルファが袖口に目をやった。落ち着いた色使いのシックな腕時計は、ミルファによく似合っている。体内時計があるとかで実際は腕時計なんて必要ないらしいのだが、カムフラージュのためのそれをミルファ自身は気に入っていると話していた。
「……うん。ちょっと危ないけど、ぎりぎり間に合いそう」
ミルファがそう言うと、このみはようやく足踏みを止め、
「ふあ~、まさか日曜日まで走ることになるとは思わなかったよ~」
それはこっちの台詞だ。
文化祭当日まで残すところ一週間となり、準備は佳境を迎えている。予定通りにこなせば問題ないはずのスケジュールは、俺たちを嘲笑うかのように遅れ始め、どこのクラスも休日出勤を余儀なくされているのだ。
「……このみは、……朝一番に行く必要ないんだから、……別に待ってなくてもよかったんじゃないのか……?」
俺とミルファがいつも通りの時間に出かけると聞き、「わたしも一緒に行く。絶対に起きるから」とこのみが懇願したのが昨日の話。それなのにと言うべきか、やはりと言うべきか、一週間に一度の朝寝坊が身体に染み付いた幼馴染は、見事に寝過ごしてくださったのである。
「え、えへ~」
「……笑ってごまかすな。ていうか、どうして一緒にくるのにあんなにこだわってたんだよ。一人で学校に行けないわけじゃないだろ」
ため息を吐き出す。少し休めたお陰で、息は整ってきた。
「べ、べつにたいした理由はないよ? ホントだよ? いつもみたいにタカくんたちと一緒に行きたかっただけだよ」
こんな風に必死で弁解するときは、何か隠し事をしていると見て間違いない。
「貴明は少し運動不足なんじゃない? 遅刻しそうになるのはいけないけど、もう少し身体を動かした方がいいよ」
焦るこのみを見かねたのか、ミルファが助け舟を出した。まあ、このみを追求する気もなかったので、適当に頷いておく。
「そういえば、このみたちは文化祭で何をやるの?」
「ひゃわわ!?」
ミルファが続けて訊ねると、このみは突然悲鳴をあげた。
「ど、どうしたの?」
「え、えと、うん、まあ、そんなに変わったことはしない、よね?」
「わたしが聞いてるんだけど」
「そ、そうだよね。な、なんといいますか、その、」
おかしい。あまりにも挙動不審すぎる。このみは、あちこちに視線を泳がしたかと思うと、
「……………………………………しき」
ぼそっと何事かを口にする。声が小さすぎて聞こえなかった。
「なに?」
ミルファが聞き返す。
このみは、しばらくもじもじとしていたが、
「……おばけやしき、であります……」
それだけ言うと、しゅんと肩を落とした。
――なるほど。
怖いものが苦手なこのみにとって、クラスの出し物がお化け屋敷というのは、笑えないジョークみたいなものだろう。幽霊だって明るいうちは出てこない、なんて慰めは、まったく用をなさないに決まっている。おそらく、僅かな間だけでも一人きりになるのが不安だったのだ。
ミルファを見ると、同情的な視線でこのみを眺めていた。怪奇現象が苦手な者同士、感じるところがあるのだろうか。
「……そろそろ、行こうか」
いつの間にか、信号は青に変わっていた。
横断歩道を渡りながら、ミルファが俺の左隣に肩を並べる。反対側にはこのみがいて、自然に三人が横並びの格好になった。そういえば、この顔ぶれで登校するのは初めてかもしれない。
今日に限っては雄二も先に行っただろうし、タマ姉は三年生なので文化祭は自由参加。つまりクラス単位での参加はしないため、わざわざ休日に登校したりはしないはずだ。勝負することになった手前、珊瑚ちゃんたちと一緒にいるのも不自然だから、今週いっぱいはこの面子で行動することが増えるだろう。
――というか、二人ともくっつきすぎ。
お化け屋敷の話題のせいなのか、ミルファもこのみも肩を密着させてくる。両側から挟まれて動きにくいというか、こんなところを知り合いに見られたら困るというか。
そんなことを考えていたら、一台の自転車が前触れもなく目の前で止まった。
「――両手に花で登校とは、大層なご身分じゃない」
見覚えのあるマウンテンバイクにまたがった背中が、不敵な笑い声をあげている。短めに切り揃えられた髪は外に跳ねていて、声の主の強気な性格を現していた。
「ふっふっふ、ここで会ったが百年目。色ボケのアンタに引導を……って、ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!」
「た、タカくん、あの人知り合いじゃないの?」
「いや、知らない人」
構っていられないので無視することにした。
「こらぁ! こうのたかあき! 無視するなっ!」
「貴明の名前呼んでるよ?」
「制服同じだし、校内で見かけたことがあるんだと思うよ。うん、時間もないし放っておこう。……それより、もうちょっと離れてくれないかな?」
坂を上り始めたら、さすがに他の学生の視線が痛い。しぶしぶといった感じで距離を取る二人の様子に、とりあえず胸を撫で下ろす。本当に疲れる朝だ。
「ま、待ってよ! 話は聞いてるんだからね! 文化祭での勝負、あたしも混ざってあげるわ!」
めげずに話を続ける十波。俺は肩をすくめつつ、
「勝負に混ざるってさ……、十波のクラスは何やるんだよ」
「え、あ、あたし? あたしのクラスは、……街の郷土史の展示……だけど」
どうやら、こいつのクラスは外れを引いたらしい。文化祭本来の趣旨にのっとりすぎた企画。当日は閑散として誰一人として寄り付かない悲劇の出し物だ。
「……そっか。お前も大変だな。がんばれよ」
俺が十波に同情的な視線を向けてやると、
「………………………………………………………………………………………こっ」
喉の奥から搾り出すような声がして、
「これで勝ったと思うなよ~~~~~!!」
涙声で叫んだ十波は、マウンテンバイクを立ちこぎしながら、あっという間に坂の上に消えていった。結局、あいつは何がしたかったんだろう。
「見ちゃダメだからね」
坂を見上げる俺の両目は、ミルファにしっかりと塞がれていた。
*****
「はい、ご苦労様です。このへんで一旦休憩にしましょう」
草壁さんがぽんぽんと手を叩くと、教室の中の空気が一気に緩んだ。
もはやお馴染みとなった即興の舞台で、俺を始めとする役者組は一様に気の抜けた表情を見せる。午前中にステージを使った練習をこなし、午後からは教室に戻って練習していたせいで、誰の顔にも色濃い疲労が浮かんでいた。小道具や大道具の係になっている生徒たちも、別室で作業を続けているはずだ。
タイムリミットまで一週間。スパートをかける時期としては申し分ない。
こんなことを言うと怒られそうだが、クラスが一丸となって学校行事に真剣に打ち込んでいるのが少し意外に思える。これまでは、「とりあえず参加しているだけ」というクラスメイトも多かったし、正直なところ俺もそちら寄りだったのは否定できない。
だが、今回は違った。やる気があるというか、文化祭を成功させようとする意欲に溢れている。手間のかかる演劇をやるからという単純な理由だけではなく、皆で頑張ろう、楽しもうという雰囲気が自然とできあがっていた。こういうのは冷めた目で見ると楽しめないかもしれないが、一度仲間に加わってしまえば妙な一体感や高揚感を感じられて心地よい。
「貴明さん、ちょっとよろしいですか?」
監督がお呼びだ。手招きする草壁さんに歩み寄る。
「やっぱり少し台詞が小さいかもしれません。午前中も言いましたけど……」
「気をつけてはみたんだけど、まだダメだったかな」
「はい」
やたらと滑舌のいい雄二やミルファに比べると、俺の声は小さくて聞こえ辛いらしい。ステージで練習したときに体育館の奥まで声が届いていないと指摘され、本番で観客がいるときは更に声量が必要になるとも言われた。
「私もあまり偉そうなことは言えませんけど。私たちは素人の集団ですし、演技で魅せるというよりも、分かりやすくハキハキと声を出した方がいいかもしれません」
「……うん、分かった」
確かに同じ大根役者なら、元気がないよりもあった方がいいに決まっている。十日やそこらで満足のいく演技ができるようになるわけがないんだから、ハッキリと聞き取りやすく台詞を喋ることに専念してみよう。
「よろしくお願いします。……あと、キスシーンの件で、ひとつ」
ああ。
せっかく練習に打ち込むことで忘れようとしていたのに。
「練習は、しなくても結構ですよね?」
「練習までするのは勘弁してください」
俺にできる抵抗は、せめてそのときを先延ばしにすることくらいだ。
「あ、そういえば私、ミルファさんには了承を頂いたんですけど、肝心な貴明さんの了承を頂いてませんでした」
草壁さんは、白々しくもそんなことを言って、愛らしい仕草で首を傾げる。いつもなら赤面してしまうような場面だが、きっと俺の顔は青くなっている。
「では、ラストシーンでキスをして頂く、っていうことで、よろしいですか?」
ミルファに了承を取り付けた時点で拒否権なんてなかっただろうに、こうして訊ねてくるのは本当に意地が悪い。
「……するフリじゃダメかな?」
「それですと、広告に偽りありになってしまいますので」
「――――はあ。どうしてこんなことに……」
「運命、でしょうか」
頬を染めて、うっとりと虚空を見つめる草壁さん。どうして草壁さんが照れているのかサッパリだったが、彼女の言う運命というのは策謀を張り巡らせることも含むのだろうか。
「とりあえず、私の方からはこんなところです。本番のキスシーン、楽しみにしてますね」
そう言い残して、草壁さんは雄二のいる一団に向かっていく。次はあっちで演技指導をするのか。監督も大変だ。
水でも飲んでこようかと軽く伸びをしたところで、背中に視線を感じる。振り返ると、そこにはミルファが立っていて、何とも言えない表情でこちらの様子を窺っていた。
――あれは話を聞いてたな。
目をそらすでもなく、じっと見つめるでもなく、ミルファはちらちらと居心地悪そうな視線を送ってくる。キスシーンを演じることが決まってから、その話題は極力避けていたが、ふとしたきっかけで意識してしまうと、ミルファはあんな風に挙動不審になるのだ。もっとも俺だけが平静でいられる道理はないので、周りからは同じように見えるのかもしれない。
教室にミルファがいる。
始めはかすかに違和感のあった光景も、今ではすっかり馴染んでいる。
逆にいないことに違和感を覚えてしまいそうで、少しだけ不安になる。
ミルファは、いつまでもここにいられるわけではない。試験運用の期間が終われば学園を去っていく。別に会えなくなるわけではないし、俺にとっては以前の生活に戻るだけで、また毎日をミルファと共に過ごしていくのだろうと思う。
だが、ミルファにとってはどうなのだろう。
ミルファは割り切れているのだろうか。
楽しい祭りはいつまでも続かない。いつか必ず終わるときがくる。そんな風に納得することができるのだろうか。
文化祭という「お祭り」の終わりが、試験運用の終わりと重なっているのは、何とも皮肉な話だった。
「みんな練習お疲れさまぁ~、差し入れを持ってきましたよぉ~」
教室のドアが開き、小牧さんを先頭に数人の女子生徒が入ってくる。それぞれの手にピクニックに持っていくようなバスケットを持ち、中には紙コップとポットを持っている子もいた。
「お、なんだこれ。美味そうだな」
誰よりも早く、雄二がバスケットの一つに手を伸ばす。バスケットを覆っていた布が取り払われると、教室の中にふわっと甘い香りが広がった。クッキングペーパーの上に、焼き色鮮やかなスコーンが乗せられている。
「料理部の人に頼んで調理室を使わせてもらったの。たくさんあるから遠慮なく食べてくださいね」
どうやら手の空いている女子が手製のお菓子を振る舞ってくれることになったらしい。見れば小道具や大道具の連中も教室に戻ってきていて、スコーンの匂いに鼻をひくつかせている。集まったクラスメイトたちの中心で、小牧さんは「疲れたときには甘いものが一番だから」と、まるでそれが世界の理であるかのように断言していた。その得意げな顔が一瞬のうちに絶望に彩られるなんて、誰に予想できただろう。
「草壁さんがおすそ分けしてくれた美味しい紅茶もありますから、一緒に味わってくだ……ああ、待って! ちょっと待ってぇ! 順番に配るから、一斉に手を伸ばさないでぇ! ううう、あああ……」
凄い。凄まじい。
我先にと争う様子は、落ちた飴玉に群がる蟻を見ているようだった。ヒトの三大欲求に対する執着とは、ここまで恐ろしいものだったのか。やがて戦利品を手にした餓鬼たちが退いていくも、中心にいた小牧さんの状況は推して知るべしである。
「……うぅ……ひどいぃ……」
もちろんぼろぼろになったりはしていないが、揉みくちゃにされた精神的ダメージでぐったりしていた。
「小牧さん、大丈夫?」
「あんまり……、河野くんも見てないで助けてよぉ……」
そんなこと言われても、俺には死地に赴く決意も根性もありはしない。
「……ふう。でもまだ残ってますね。河野くんとミルファさんもどうですか?」
それは小牧さんにしてみれば自然なことだったのだと思う。
皆からほんの少し離れた位置で、俺とミルファだけが事の推移を眺めていた。だから差し入れを奪いそびれた俺たちに、残ったバスケットの中身を差し出したのは本当に当たり前のことでしかない。だが、
「――――あ」
ミルファは吐息を漏らし、一歩だけ後ずさった。小牧さんに比べると不自然すぎる動作だった。
「ご、ごめん。ちょっとわたし、外の空気に当たってくるね」
苦しげな笑みを見せ、それだけ言い残すと、ミルファは逃げるように教室を後にする。脇を通り過ぎるとき、ミルファは俯いていた。それは泣きたいのを必死で堪えているように見えた。
「……あの、河野くん」
小牧さんの顔には、申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「あ、う、うん。その、あれはまあ、なんていうか、別に機嫌が悪いとかそういうんじゃないんだ」
内心で唇を噛み締めた。俺は情けないことに、ミルファの変調の理由を言い繕うことすらできない。不器用な自分が恨めしい。こんな風に動揺していたら、小牧さんだって他のクラスメイトたちだっておかしいと思うに決まっている。俺がもっとスマートな対応ができれば、もっともっとしっかりしていれば、
――ミルファにあんな顔をさせたりしないのに。
しかし、小牧さんは優しげに目を細めて、
「えと、はい。これ、二人分ありますから、ミルファさんとゆっくりしてきてください。たぶん、もうちょっと休憩は続くと思いますので」
小牧さんが視線を送った先では、草壁さんが親指と人差し指をくっつけて丸印を作っている。俺はバスケットとポットを受け取り、
「ありがと、ちょっと行ってくる」
それだけ言って、ミルファを追った。
ミルファのことだけ考えていようと思った。
ミルファのことしか考えていなかった。
*****
ミルファは屋上にいた。
グラウンドから野球部の掛け声が聞こえてくる。休日であっても、彼らは白球を追い続ける。部活に打ち込む青春というのも、ありきたりだが悪くない。フェンス越しにそれを見つめるミルファの後姿が寂しそうに見えるのを除けば。
「ミルファ」
歩み寄る。返事こそなかったが、派手な音を立ててドアを開けたから、俺がきたことには気付いていたはずだ。それでも、ミルファは振り向かない。
「……ミルファ」
もう一度名前を呼んだ。
秋の風を受けて、ポニーテールがたなびいていた。
それが触れそうなくらいの距離に、俺は立っている。
「ごめんなさい」
消え入るような声だった。野球部員たちの掛け声よりも更に遠く。ミルファは目の前にいるのに、ずっと離れたところから聞こえてきたような気がした。
「……どうして謝るんだよ」
ミルファが謝らなければならないようなことはない。ないはずだ。
それなのに、
「ごめんね」
ミルファは俺に背中を向けたまま、謝罪の言葉を繰り返した。
それきり沈黙が降りてきた。
ミルファは何も言わない。
俺も何も言わない。
空は快晴。太陽が照っているのに、どうしてか肌寒さを感じる。練習のときの蒸し暑さが嘘のようだった。
不意にワイシャツが汗まみれだということに気付く。
なるほど。もう十月も三分の二を過ぎた。日に日に昼の長さは短くなり、どんどん冬が近づいている。汗の始末もしないで冷たくなり始めた風に身を晒せば、肌寒さを感じるのは当たり前の話だ。
少し強めの風が吹く。
身震いをする。
ポニーテールが揺れ、
「――わたし、ここにいてもいいのかな」
ミルファが、重々しく口を開いた。
「愛佳にお菓子を差し出されたとき、どきっとした。わたしは食べられないから、だから、お前は人間じゃなくてメイドロボなんだって言われたような気がしたの」
もちろん、小牧さんにそんなつもりはなかっただろう。純粋な親切心から、俺たちの分を取り分けてくれただけだ。そもそも、彼女はミルファがメイドロボだということを知らない。
「そんなのは、わたしの思い込みだって分かってる。……でも」
ミルファはそこで言葉を止め、ゆっくりと振り返った。
先ほどと同じ、泣きそうな顔をして、俺のことを見上げている。
「わたし、みんなに嘘ついてるから」
俺にはミルファを見つめ返すことしかできない。
「ホントはメイドロボなのに、人間のフリをして学校に潜り込んで。最初は貴明と一緒にいられるなら何でもよかった、けど」
悲痛な告白は続く。
「貴明と一緒にいられるのは嬉しい。みんなと仲良くなれたのも嬉しいよ。でも、みんなと仲良くなればなるほど、嘘をついてるのが心苦しくなってきて、わたし」
――もういい。
それ以上言わせたくなかった。
ミルファを抱きしめる。
思惑通り、言葉も止まった。
俺の腕の中でミルファは肩を震わせている。ミルファの身体は小さくて、頼りなくて、力を入れたら潰れてしまいそうだった。これならクマ吉だったときのボディの方が頑丈だったのではないかとすら思える。
だが、小さくて、頼りなくて、力を入れたら潰れてしまいそうなのが、
ここにいるミルファなのだ。
「……いてもいいに、決まってるだろ」
俺はいつだって肝心なことを見逃してしまう。ミルファと一緒の学園生活に浮かれていて、こんな悩みを抱えていることなんてまったく気付きもしなかった。
救いようのない馬鹿だ。
それでも、今は悔やむより先にやらなければならないことがある。馬鹿は馬鹿なりに最善を尽くさなければならない。
「俺はいて欲しいし、他のみんなだってそうだよ。友達ってのは一方通行じゃないんだ」
こんなのは気休めにしかならないことは分かっている。
「ミルファがみんなを大切に思ってるなら、きっとみんなだってミルファのことを大切に思ってるさ。だからいて欲しい。いてくれなきゃ困る。……な?」
分かっていても、俺にはこんなことしか言えなかった。
ミルファがもぞもぞと顔を動かしている。頷いているのだろうか。
――俺の気持ちは伝わっただろうか。
三度風が吹き、バスケットにかけられていた布が舞った。その下から仲睦まじく寄り添ったスコーンが姿を現す。
「……貴明が、二人分食べてね。晩ご飯、少なめにするから」
「腹ペコだからいつもと同じで大丈夫だよ」
ミルファが小さく笑いを漏らした。
俺も笑いを返して、空を見上げる。
晴れ渡った青空に、まだら模様の雲が広がり始めていた。
to be continued