ブログよりも遠い場所

サブカルとサッカーの話題っぽい

【ラノベ】とある飛空士への恋歌3

2010-01-19 | ライトノベル
とある飛空士への恋歌3 (ガガガ文庫) とある飛空士への恋歌3 (ガガガ文庫)
価格:¥ 660(税込)
発売日:2009-12-18

 読了。

 相変わらず、良いとこと悪いとこがクッキリ分かれた作品だなというのが率直な感想。
 ここだけの話、僕は『追憶』は面白かったけど『恋歌』はすげー微妙だと思ってて。一巻の最後で続きモノと知ったときには「うえー」となり、二巻のあまりの微妙さに投げ出しかけていたんですが、今回の三巻でようやくプラマイゼロあたりまで盛り返した印象。

 うん、やっぱこの作者さんは、空戦が持ち味なんだよな。
 ちなみに、ここで言う「空戦が持ち味」というのは、戦闘描写に長けているという意味ではなくて「戦闘におけるキャラクターの描写」がとても上手いという意味。
 全体を通して、戦闘シーンが引っかかりなくスムーズに流れていくのがすごくイイ。描写の取捨選択が巧み。そして何より、そうやって流れていく状況の中で、刻々と変化していくキャラクターの心情を描くのがすごくすごく上手い。
 また、途中でチート忍者(笑)の登場でやや興を削がれた感こそあったものの、戦況が多方面に渡って描かれる中、カルとアリーが窮地を切り抜けるシーンは見応えがありました。絶体絶命の場面で、『追憶』との繋がりを見せてくれるあたりも憎い演出。つうか、むしろ『恋歌』はコレをやりたいがための長い長い前振りだったんじゃなかろうかと思うくらい力が入っていましたね。

 と、そんなこんなで、空戦がはじまってからは面白かったんですけど。
 反面、日常描写が本っっっっっっっっっっっっっっっっ当に退屈で仕方がないのはどうにかして欲しい。もうさすがに耐えられない。
 アリーメンをはじめとするコメディはマジでお寒いだけだし、同級生たちとのやり取りも「ファンタジー世界に現代のメタなネタを絡める」という相変わらずのナンセンスぶりを発揮。こういう架空の世界をでっちあげている作品において、その世界の外から持ってきたネタでウケを取ろうとするのは本気で冷めるのでやめて頂きたいわー。よっぽど気に入ってるのか「街の入り口で街の名前だけを喋る」ってネタずーっと引っ張ってるけど、この世界ってRPGのゲームあるの? アレ、面白くないだけじゃなくて世界観ぶっ壊してるって、誰か周りの人間指摘したれよ。
 あと、上でもちょい書きましたが、チート忍者ネタはどう考えても蛇足だよなあ。まあ、あの展開だと地上戦で学生たちが虐殺される以外の選択肢がなかったので、チートキャラかご都合主義の展開が必要だったのは分かるんですけど、いきなりTYPE-MOONも真っ青みたいな殺陣をはじめたのには驚くより先に萎えたぜ。あのキャラが展開に必要不可欠だというなら、その展開を選んだこと自体が失敗だったと思います、ハイ。

 まとめると、三巻は前半と後半で百八十度面白さが変わりました。前半いらねぇ。
 ちゅうか、この作者さん、いつもそうですよね。中盤からクライマックスにかけての展開はものすごく盛り上がるのに、舞台説明とか、キャラクターの背景を語るとか、もしくはキャラクター同士になんてことないやり取りをさせるとかってのがめちゃくちゃ下手。
 作中の状況が緊迫しているわけで、さすがに四巻の最初で学園パートに戻ることはないと思いますけど、もしそうなったらまた萎えそうなので、できればこのままのテンションで突っ走って頂きたい所存。

 ……あー、でも、ペアを失ったキャラのうじうじパートとか絶対あるんだろうなあ。
 そんでレヴァームと協力しつつ、学生たちが平和を訴えたりするんだろうなあ。
 ハッピーエンドなのは間違いないでしょうし、ハッピーエンドは好きなので大歓迎ではあるんですが、あまりに安っぽい拍子抜けの展開にはなって欲しくないなと戦々恐々としつつ感想は以上。


【SS】神の居ぬ間の祭り唄・第五章

2010-01-19 | インポート

第五章 「スラップスティック 10/23」


 清々しい朝の空気の中。
 道行くお年寄りや、犬の散歩をする若夫婦を見ていると、心が洗われるような気がする。通り過ぎてきた公園では子供が走り回っていたし、川端の河川敷では体操している人たちもいた。
 俺からすれば休日くらいゆっくり休んでいればいいのに、なんて思ったりもするが、バイタリティに溢れた人というのは意外と大勢いるらしい。もちろんそれが悪いとは言わないが、どちらかを選ばなければならないなら、俺は昼過ぎまで惰眠を貪る方を選びたかった。
 それなのに、
「貴明っ、早くっ、間に合わないよっ!」
「タカくんっ、もう一息だよっ!」
 何故か俺は、朝っぱらから通学路を全力疾走している。
 せっかくの清々しい空気が台無しだった。
「べつっ、にっ、遅刻っするっ、わけじゃないんだっからっ、ちょっとっ、くらい遅れたってっ、いいだろっ」
 息も絶え絶えに口を動かす。休日には遅刻の概念がないのだから、俺が言っているのは正論のはずだ。
「ステージを使える時間は限られてるんだからっ、わたしたちが遅れたら遅刻と変わらないでしょっ」
 数メートル先を走るミルファは、軽やかに足を運びつつ、
「それにっ、友達との約束を守れないのはっ、ロクデナシだって長瀬のおじさんも言ってたよっ」
 いいから走れ、という意味の言葉を返してきた。本当に融通が利かないというか生真面目な体育会系のノリというか、付き合わされるこっちは体育会系でもなんでもないのだから勘弁してもらいたい。
「タカくんっ、ごめんねっ、わたしのせいでっ」
 隣を併走するこのみが、速度を維持しながら申し訳なさそうな顔をするという器用な技を披露してくれる。それが妙におかしくて、こみ上げてくる笑いを堪えていたら、ますます息苦しくなってきた。
 限界が近い。酸欠で倒れるのを覚悟する。いくら涼しくなったと言っても、それで体力の総量が増えるわけではない。
「もう少しだよっ」
 確かにこのペースなら、五分もしないうちに学園に辿り着く。ただし学園は坂の上にあるから、ゴールの前でスパートをかけようものなら、文字通りに心臓が破れてしまいかねない。
 ふらふらと揺れる視界に、点滅する緑色の光が飛び込んでくる。
 何かの幻なのかと、はっきりしない頭で考える。
「あ」
 目の前のミルファが声を漏らして、
「信号」
 立ち止まると同時に光は赤に変わった。
 俺の足も止まる。勢いがついて止まれないかとも思ったが、まったくそんなことはなかった。燃料切れを起こした自動車のように、俺の身体はこれ以上動くことを拒絶している。膝に手をついて、肩で息をする。とりあえず助かったみたいだ。
「た、タカくん……だいじょうぶ? なんだか死にそうな顔してるけど……」
「いざとなったら、わたしが担いで行くからねっ」
 返事をすることすらできない俺とは対照的に、二人は横断歩道の手前で足踏みをしている。一体どこからこんなエネルギーが沸いてくるのか、まったくもって不思議でならない。
「あ、でもミルファちゃん。ここまでくればもう平気じゃないかな」
 ミルファが袖口に目をやった。落ち着いた色使いのシックな腕時計は、ミルファによく似合っている。体内時計があるとかで実際は腕時計なんて必要ないらしいのだが、カムフラージュのためのそれをミルファ自身は気に入っていると話していた。
「……うん。ちょっと危ないけど、ぎりぎり間に合いそう」
 ミルファがそう言うと、このみはようやく足踏みを止め、
「ふあ~、まさか日曜日まで走ることになるとは思わなかったよ~」
 それはこっちの台詞だ。
 文化祭当日まで残すところ一週間となり、準備は佳境を迎えている。予定通りにこなせば問題ないはずのスケジュールは、俺たちを嘲笑うかのように遅れ始め、どこのクラスも休日出勤を余儀なくされているのだ。
「……このみは、……朝一番に行く必要ないんだから、……別に待ってなくてもよかったんじゃないのか……?」
 俺とミルファがいつも通りの時間に出かけると聞き、「わたしも一緒に行く。絶対に起きるから」とこのみが懇願したのが昨日の話。それなのにと言うべきか、やはりと言うべきか、一週間に一度の朝寝坊が身体に染み付いた幼馴染は、見事に寝過ごしてくださったのである。
「え、えへ~」
「……笑ってごまかすな。ていうか、どうして一緒にくるのにあんなにこだわってたんだよ。一人で学校に行けないわけじゃないだろ」
 ため息を吐き出す。少し休めたお陰で、息は整ってきた。
「べ、べつにたいした理由はないよ? ホントだよ? いつもみたいにタカくんたちと一緒に行きたかっただけだよ」
 こんな風に必死で弁解するときは、何か隠し事をしていると見て間違いない。
「貴明は少し運動不足なんじゃない? 遅刻しそうになるのはいけないけど、もう少し身体を動かした方がいいよ」
 焦るこのみを見かねたのか、ミルファが助け舟を出した。まあ、このみを追求する気もなかったので、適当に頷いておく。
「そういえば、このみたちは文化祭で何をやるの?」
「ひゃわわ!?」
 ミルファが続けて訊ねると、このみは突然悲鳴をあげた。
「ど、どうしたの?」
「え、えと、うん、まあ、そんなに変わったことはしない、よね?」
「わたしが聞いてるんだけど」
「そ、そうだよね。な、なんといいますか、その、」
 おかしい。あまりにも挙動不審すぎる。このみは、あちこちに視線を泳がしたかと思うと、
「……………………………………しき」
 ぼそっと何事かを口にする。声が小さすぎて聞こえなかった。
「なに?」
 ミルファが聞き返す。
 このみは、しばらくもじもじとしていたが、
「……おばけやしき、であります……」
 それだけ言うと、しゅんと肩を落とした。
 ――なるほど。
 怖いものが苦手なこのみにとって、クラスの出し物がお化け屋敷というのは、笑えないジョークみたいなものだろう。幽霊だって明るいうちは出てこない、なんて慰めは、まったく用をなさないに決まっている。おそらく、僅かな間だけでも一人きりになるのが不安だったのだ。
 ミルファを見ると、同情的な視線でこのみを眺めていた。怪奇現象が苦手な者同士、感じるところがあるのだろうか。
「……そろそろ、行こうか」
 いつの間にか、信号は青に変わっていた。
 横断歩道を渡りながら、ミルファが俺の左隣に肩を並べる。反対側にはこのみがいて、自然に三人が横並びの格好になった。そういえば、この顔ぶれで登校するのは初めてかもしれない。
 今日に限っては雄二も先に行っただろうし、タマ姉は三年生なので文化祭は自由参加。つまりクラス単位での参加はしないため、わざわざ休日に登校したりはしないはずだ。勝負することになった手前、珊瑚ちゃんたちと一緒にいるのも不自然だから、今週いっぱいはこの面子で行動することが増えるだろう。
 ――というか、二人ともくっつきすぎ。
 お化け屋敷の話題のせいなのか、ミルファもこのみも肩を密着させてくる。両側から挟まれて動きにくいというか、こんなところを知り合いに見られたら困るというか。
 そんなことを考えていたら、一台の自転車が前触れもなく目の前で止まった。
「――両手に花で登校とは、大層なご身分じゃない」
 見覚えのあるマウンテンバイクにまたがった背中が、不敵な笑い声をあげている。短めに切り揃えられた髪は外に跳ねていて、声の主の強気な性格を現していた。
「ふっふっふ、ここで会ったが百年目。色ボケのアンタに引導を……って、ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!」
「た、タカくん、あの人知り合いじゃないの?」
「いや、知らない人」
 構っていられないので無視することにした。
「こらぁ! こうのたかあき! 無視するなっ!」
「貴明の名前呼んでるよ?」
「制服同じだし、校内で見かけたことがあるんだと思うよ。うん、時間もないし放っておこう。……それより、もうちょっと離れてくれないかな?」
 坂を上り始めたら、さすがに他の学生の視線が痛い。しぶしぶといった感じで距離を取る二人の様子に、とりあえず胸を撫で下ろす。本当に疲れる朝だ。
「ま、待ってよ! 話は聞いてるんだからね! 文化祭での勝負、あたしも混ざってあげるわ!」
 めげずに話を続ける十波。俺は肩をすくめつつ、
「勝負に混ざるってさ……、十波のクラスは何やるんだよ」
「え、あ、あたし? あたしのクラスは、……街の郷土史の展示……だけど」
 どうやら、こいつのクラスは外れを引いたらしい。文化祭本来の趣旨にのっとりすぎた企画。当日は閑散として誰一人として寄り付かない悲劇の出し物だ。
「……そっか。お前も大変だな。がんばれよ」
 俺が十波に同情的な視線を向けてやると、
「………………………………………………………………………………………こっ」
 喉の奥から搾り出すような声がして、
「これで勝ったと思うなよ~~~~~!!」
 涙声で叫んだ十波は、マウンテンバイクを立ちこぎしながら、あっという間に坂の上に消えていった。結局、あいつは何がしたかったんだろう。
「見ちゃダメだからね」
 坂を見上げる俺の両目は、ミルファにしっかりと塞がれていた。

*****

「はい、ご苦労様です。このへんで一旦休憩にしましょう」
 草壁さんがぽんぽんと手を叩くと、教室の中の空気が一気に緩んだ。
 もはやお馴染みとなった即興の舞台で、俺を始めとする役者組は一様に気の抜けた表情を見せる。午前中にステージを使った練習をこなし、午後からは教室に戻って練習していたせいで、誰の顔にも色濃い疲労が浮かんでいた。小道具や大道具の係になっている生徒たちも、別室で作業を続けているはずだ。
 タイムリミットまで一週間。スパートをかける時期としては申し分ない。
 こんなことを言うと怒られそうだが、クラスが一丸となって学校行事に真剣に打ち込んでいるのが少し意外に思える。これまでは、「とりあえず参加しているだけ」というクラスメイトも多かったし、正直なところ俺もそちら寄りだったのは否定できない。
 だが、今回は違った。やる気があるというか、文化祭を成功させようとする意欲に溢れている。手間のかかる演劇をやるからという単純な理由だけではなく、皆で頑張ろう、楽しもうという雰囲気が自然とできあがっていた。こういうのは冷めた目で見ると楽しめないかもしれないが、一度仲間に加わってしまえば妙な一体感や高揚感を感じられて心地よい。
「貴明さん、ちょっとよろしいですか?」
 監督がお呼びだ。手招きする草壁さんに歩み寄る。
「やっぱり少し台詞が小さいかもしれません。午前中も言いましたけど……」
「気をつけてはみたんだけど、まだダメだったかな」
「はい」
 やたらと滑舌のいい雄二やミルファに比べると、俺の声は小さくて聞こえ辛いらしい。ステージで練習したときに体育館の奥まで声が届いていないと指摘され、本番で観客がいるときは更に声量が必要になるとも言われた。
「私もあまり偉そうなことは言えませんけど。私たちは素人の集団ですし、演技で魅せるというよりも、分かりやすくハキハキと声を出した方がいいかもしれません」
「……うん、分かった」
 確かに同じ大根役者なら、元気がないよりもあった方がいいに決まっている。十日やそこらで満足のいく演技ができるようになるわけがないんだから、ハッキリと聞き取りやすく台詞を喋ることに専念してみよう。
「よろしくお願いします。……あと、キスシーンの件で、ひとつ」
 ああ。
 せっかく練習に打ち込むことで忘れようとしていたのに。
「練習は、しなくても結構ですよね?」
「練習までするのは勘弁してください」
 俺にできる抵抗は、せめてそのときを先延ばしにすることくらいだ。
「あ、そういえば私、ミルファさんには了承を頂いたんですけど、肝心な貴明さんの了承を頂いてませんでした」
 草壁さんは、白々しくもそんなことを言って、愛らしい仕草で首を傾げる。いつもなら赤面してしまうような場面だが、きっと俺の顔は青くなっている。
「では、ラストシーンでキスをして頂く、っていうことで、よろしいですか?」
 ミルファに了承を取り付けた時点で拒否権なんてなかっただろうに、こうして訊ねてくるのは本当に意地が悪い。
「……するフリじゃダメかな?」
「それですと、広告に偽りありになってしまいますので」
「――――はあ。どうしてこんなことに……」
「運命、でしょうか」
 頬を染めて、うっとりと虚空を見つめる草壁さん。どうして草壁さんが照れているのかサッパリだったが、彼女の言う運命というのは策謀を張り巡らせることも含むのだろうか。
「とりあえず、私の方からはこんなところです。本番のキスシーン、楽しみにしてますね」
 そう言い残して、草壁さんは雄二のいる一団に向かっていく。次はあっちで演技指導をするのか。監督も大変だ。
 水でも飲んでこようかと軽く伸びをしたところで、背中に視線を感じる。振り返ると、そこにはミルファが立っていて、何とも言えない表情でこちらの様子を窺っていた。
 ――あれは話を聞いてたな。
 目をそらすでもなく、じっと見つめるでもなく、ミルファはちらちらと居心地悪そうな視線を送ってくる。キスシーンを演じることが決まってから、その話題は極力避けていたが、ふとしたきっかけで意識してしまうと、ミルファはあんな風に挙動不審になるのだ。もっとも俺だけが平静でいられる道理はないので、周りからは同じように見えるのかもしれない。
 教室にミルファがいる。
 始めはかすかに違和感のあった光景も、今ではすっかり馴染んでいる。
 逆にいないことに違和感を覚えてしまいそうで、少しだけ不安になる。
 ミルファは、いつまでもここにいられるわけではない。試験運用の期間が終われば学園を去っていく。別に会えなくなるわけではないし、俺にとっては以前の生活に戻るだけで、また毎日をミルファと共に過ごしていくのだろうと思う。
 だが、ミルファにとってはどうなのだろう。
 ミルファは割り切れているのだろうか。
 楽しい祭りはいつまでも続かない。いつか必ず終わるときがくる。そんな風に納得することができるのだろうか。
 文化祭という「お祭り」の終わりが、試験運用の終わりと重なっているのは、何とも皮肉な話だった。
「みんな練習お疲れさまぁ~、差し入れを持ってきましたよぉ~」
 教室のドアが開き、小牧さんを先頭に数人の女子生徒が入ってくる。それぞれの手にピクニックに持っていくようなバスケットを持ち、中には紙コップとポットを持っている子もいた。
「お、なんだこれ。美味そうだな」
 誰よりも早く、雄二がバスケットの一つに手を伸ばす。バスケットを覆っていた布が取り払われると、教室の中にふわっと甘い香りが広がった。クッキングペーパーの上に、焼き色鮮やかなスコーンが乗せられている。
「料理部の人に頼んで調理室を使わせてもらったの。たくさんあるから遠慮なく食べてくださいね」
 どうやら手の空いている女子が手製のお菓子を振る舞ってくれることになったらしい。見れば小道具や大道具の連中も教室に戻ってきていて、スコーンの匂いに鼻をひくつかせている。集まったクラスメイトたちの中心で、小牧さんは「疲れたときには甘いものが一番だから」と、まるでそれが世界の理であるかのように断言していた。その得意げな顔が一瞬のうちに絶望に彩られるなんて、誰に予想できただろう。
「草壁さんがおすそ分けしてくれた美味しい紅茶もありますから、一緒に味わってくだ……ああ、待って! ちょっと待ってぇ! 順番に配るから、一斉に手を伸ばさないでぇ! ううう、あああ……」
 凄い。凄まじい。
 我先にと争う様子は、落ちた飴玉に群がる蟻を見ているようだった。ヒトの三大欲求に対する執着とは、ここまで恐ろしいものだったのか。やがて戦利品を手にした餓鬼たちが退いていくも、中心にいた小牧さんの状況は推して知るべしである。
「……うぅ……ひどいぃ……」
 もちろんぼろぼろになったりはしていないが、揉みくちゃにされた精神的ダメージでぐったりしていた。
「小牧さん、大丈夫?」
「あんまり……、河野くんも見てないで助けてよぉ……」
 そんなこと言われても、俺には死地に赴く決意も根性もありはしない。
「……ふう。でもまだ残ってますね。河野くんとミルファさんもどうですか?」
 それは小牧さんにしてみれば自然なことだったのだと思う。
 皆からほんの少し離れた位置で、俺とミルファだけが事の推移を眺めていた。だから差し入れを奪いそびれた俺たちに、残ったバスケットの中身を差し出したのは本当に当たり前のことでしかない。だが、
「――――あ」
 ミルファは吐息を漏らし、一歩だけ後ずさった。小牧さんに比べると不自然すぎる動作だった。
「ご、ごめん。ちょっとわたし、外の空気に当たってくるね」
 苦しげな笑みを見せ、それだけ言い残すと、ミルファは逃げるように教室を後にする。脇を通り過ぎるとき、ミルファは俯いていた。それは泣きたいのを必死で堪えているように見えた。
「……あの、河野くん」
 小牧さんの顔には、申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「あ、う、うん。その、あれはまあ、なんていうか、別に機嫌が悪いとかそういうんじゃないんだ」
 内心で唇を噛み締めた。俺は情けないことに、ミルファの変調の理由を言い繕うことすらできない。不器用な自分が恨めしい。こんな風に動揺していたら、小牧さんだって他のクラスメイトたちだっておかしいと思うに決まっている。俺がもっとスマートな対応ができれば、もっともっとしっかりしていれば、
 ――ミルファにあんな顔をさせたりしないのに。
 しかし、小牧さんは優しげに目を細めて、
「えと、はい。これ、二人分ありますから、ミルファさんとゆっくりしてきてください。たぶん、もうちょっと休憩は続くと思いますので」
 小牧さんが視線を送った先では、草壁さんが親指と人差し指をくっつけて丸印を作っている。俺はバスケットとポットを受け取り、
「ありがと、ちょっと行ってくる」
 それだけ言って、ミルファを追った。
 ミルファのことだけ考えていようと思った。
 ミルファのことしか考えていなかった。

*****

 ミルファは屋上にいた。
 グラウンドから野球部の掛け声が聞こえてくる。休日であっても、彼らは白球を追い続ける。部活に打ち込む青春というのも、ありきたりだが悪くない。フェンス越しにそれを見つめるミルファの後姿が寂しそうに見えるのを除けば。
「ミルファ」
 歩み寄る。返事こそなかったが、派手な音を立ててドアを開けたから、俺がきたことには気付いていたはずだ。それでも、ミルファは振り向かない。
「……ミルファ」
 もう一度名前を呼んだ。
 秋の風を受けて、ポニーテールがたなびいていた。
 それが触れそうなくらいの距離に、俺は立っている。
「ごめんなさい」
 消え入るような声だった。野球部員たちの掛け声よりも更に遠く。ミルファは目の前にいるのに、ずっと離れたところから聞こえてきたような気がした。
「……どうして謝るんだよ」
 ミルファが謝らなければならないようなことはない。ないはずだ。
 それなのに、
「ごめんね」
 ミルファは俺に背中を向けたまま、謝罪の言葉を繰り返した。
 それきり沈黙が降りてきた。
 ミルファは何も言わない。
 俺も何も言わない。
 空は快晴。太陽が照っているのに、どうしてか肌寒さを感じる。練習のときの蒸し暑さが嘘のようだった。
 不意にワイシャツが汗まみれだということに気付く。
 なるほど。もう十月も三分の二を過ぎた。日に日に昼の長さは短くなり、どんどん冬が近づいている。汗の始末もしないで冷たくなり始めた風に身を晒せば、肌寒さを感じるのは当たり前の話だ。
 少し強めの風が吹く。
 身震いをする。
 ポニーテールが揺れ、
「――わたし、ここにいてもいいのかな」
 ミルファが、重々しく口を開いた。
「愛佳にお菓子を差し出されたとき、どきっとした。わたしは食べられないから、だから、お前は人間じゃなくてメイドロボなんだって言われたような気がしたの」
 もちろん、小牧さんにそんなつもりはなかっただろう。純粋な親切心から、俺たちの分を取り分けてくれただけだ。そもそも、彼女はミルファがメイドロボだということを知らない。
「そんなのは、わたしの思い込みだって分かってる。……でも」
 ミルファはそこで言葉を止め、ゆっくりと振り返った。
 先ほどと同じ、泣きそうな顔をして、俺のことを見上げている。
「わたし、みんなに嘘ついてるから」
 俺にはミルファを見つめ返すことしかできない。
「ホントはメイドロボなのに、人間のフリをして学校に潜り込んで。最初は貴明と一緒にいられるなら何でもよかった、けど」
 悲痛な告白は続く。
「貴明と一緒にいられるのは嬉しい。みんなと仲良くなれたのも嬉しいよ。でも、みんなと仲良くなればなるほど、嘘をついてるのが心苦しくなってきて、わたし」
 ――もういい。
 それ以上言わせたくなかった。
 ミルファを抱きしめる。
 思惑通り、言葉も止まった。
 俺の腕の中でミルファは肩を震わせている。ミルファの身体は小さくて、頼りなくて、力を入れたら潰れてしまいそうだった。これならクマ吉だったときのボディの方が頑丈だったのではないかとすら思える。
 だが、小さくて、頼りなくて、力を入れたら潰れてしまいそうなのが、
 ここにいるミルファなのだ。
「……いてもいいに、決まってるだろ」
 俺はいつだって肝心なことを見逃してしまう。ミルファと一緒の学園生活に浮かれていて、こんな悩みを抱えていることなんてまったく気付きもしなかった。
 救いようのない馬鹿だ。
 それでも、今は悔やむより先にやらなければならないことがある。馬鹿は馬鹿なりに最善を尽くさなければならない。
「俺はいて欲しいし、他のみんなだってそうだよ。友達ってのは一方通行じゃないんだ」
 こんなのは気休めにしかならないことは分かっている。
「ミルファがみんなを大切に思ってるなら、きっとみんなだってミルファのことを大切に思ってるさ。だからいて欲しい。いてくれなきゃ困る。……な?」
 分かっていても、俺にはこんなことしか言えなかった。
 ミルファがもぞもぞと顔を動かしている。頷いているのだろうか。
 ――俺の気持ちは伝わっただろうか。
 三度風が吹き、バスケットにかけられていた布が舞った。その下から仲睦まじく寄り添ったスコーンが姿を現す。
「……貴明が、二人分食べてね。晩ご飯、少なめにするから」
「腹ペコだからいつもと同じで大丈夫だよ」
 ミルファが小さく笑いを漏らした。
 俺も笑いを返して、空を見上げる。
 晴れ渡った青空に、まだら模様の雲が広がり始めていた。


to be continued


【SS】神の居ぬ間の祭り唄・閑話

2010-01-19 | インポート

閑話 「女心洶洶」


 試験運用に割り当てられた日程の半分を消化した。
 楽しいときほど短く過ぎるという言葉はまったくその通りで、わたしの長いとは言い難い起動時間において、これほど充実した日々はなかったように思える。
 移動教室の度に慌しく学習道具をまとめたり。
 昼休みのパン売り場で争奪戦に参加したり。
 クラスメイトと協力して教室の掃除をしたり。
 どんな些細なことであっても、学園での出来事は目新しいものばかりだった。
 しかし、決して研究所や貴明の家で過ごす時間が退屈だというわけではない。それどころか、時折こんなに幸せでいいのかと思ってしまうくらい、わたしの日常は常に幸せと共にある。
 こうして毎日を暮らせることに、いくら感謝してもし足りない。
 それは、まごうことなきわたしの本心だった。
 それでも、
「ふむ、どの子もレベル高ぇじゃねえか。こりゃ当日が楽しみだ」
「……ねえ」
「まあ、珊瑚ちゃんたちがトップクラスってのは揺るがないな。イルファさんも動きが板についてるっつーか、貫禄を感じさせるのはさすがに本職ってとこか」
 時折、わたしは何をしているのだろう、と疑問に思ったりすることもある。
「ねえ、雄二」
「ん? どした?」
「わたしたち、こんなところで何をしてるの?」
 目を細めて雄二に訊ねたら、
「偵察」
 目をきらきらと輝かせた返事が返ってくる。
 こんなところというのは学校の屋上のことで、隣にいる雄二は地面に腹ばいになって双眼鏡を覗き込んでいた。双眼鏡の望遠レンズが向けられた先には、渡り廊下で結ばれた校舎があり、それぞれ鏡に映したような対称的な作りになっている。
 つまり、わたしたちは四つに分かれた校舎のうちの一つから、別の校舎の教室を見下ろしているのだ。
「なるほどな、制服はオーソドックスなメイドタイプか。一般ウケしやすいテーマを選びつつ、素材の味で勝負をかけるってのは潔い感じがするねえ」
 だが、これは偵察というよりも、
「……ただの覗きじゃない」
「なっ、これのどこが覗きだってんだよ!?」
 屋上から、双眼鏡を片手に、腹ばいで、一年生の教室を眺める、上級生。
 どこから見ても覗きにしか見えない。第三者が目撃したら、通報されても文句の言えないシチュエーションだった。
「つーか、俺がこんなことしてる大本の原因は、ミルファちゃんと貴明のヤツにあるんだぜ?」
「……う。た、確かにそうだけど、だからってどうしてわたしまで一緒に……」
 黙っているわけにもいかなかったので、文化祭で珊瑚たちと勝負することになった経緯は、雄二を始めとしたクラスの皆に話してある。女子は「ミルファちゃんの蜜月の日々を守るのよ!」と一致団結し、男子は「河野の野郎にこれ以上美味しい思いはさせねえ」と咆哮をあげていた。勝手な話だというのに嫌な顔一つしないで協力してくれるクラスメイトたちに感謝したい。
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず、ってな。ま、悪ノリだってのは否定しねえが、これは優季ちゃんの言う通り見にきておいて正解だったかもしれないぜ。ありゃあ思いのほか強敵だ」
 いつになく真剣な顔をした雄二が、双眼鏡から両目を外して舌打ちをする。
「……そうなの?」
「ああ。メイドマニアの俺様が言うんだから間違いねえ。あのクラスは間違いなく珠玉のメイド喫茶になるっ!」
 よく分からないが、きっとそうなのだろう。世の中には、まだまだわたしの知らないことが沢山あるようだ。というか、一人のメイドロボとして、目の前でメイドマニアを自称されるのは微妙な気分だった。
「とりあえず、ここで見た情報を持ち帰って対策を立てるか」
「それじゃあ戻る?」
 わたしが訊ねると、雄二は双眼鏡を弄びながら空を見上げる。その視線を追いかけると、秋晴れとは言い難い鉛色が広がっていた。風が湿っているのを感じる。もう少ししたら雨が降ってくるかもしれない。
「んー……まだ一番の目的を果たしてねえんだよなあ……」
「一番の目的?」
 雄二は咳払いを一つしてから、
「――男にはやらなければならないときがあるのさ。貴明も、そんな風に言ったりしてたことないか?」
「聞いたことないけど」
「……まあ、あいつはへたれだからな。とにかく、今がそのときなんだよ、うん」
 そう言って、再び双眼鏡を構える。
「女子高生の生着替え~っと」
 ――やっぱり覗きじゃないのよ。
「……サイテー」
 軽蔑の眼差しを向けても、雄二はそれに気付きもしない。珊瑚たちやそのクラスメイトのプライバシーのためにも、力ずくで連れて帰った方がよさそうだ。雄二の暴走阻止にあてがわれた、お目付け役としての務めを果たそう。
 多少手荒になるが仕方ない、と両腕に力を篭める。
 背後から雄二に近づく。
 制服の詰め襟に手を伸ばし、

 学校中のスピーカーが叫び声をあげた。

 びっくりした。軽く飛び上がってしまった。
 ぴんぽんぱんぽん、というお決まりの音。
 放送開始の合図。
 屋上で聞くそれは、校内で聞くよりも大音量で音が割れているため、合図というよりも騒音に近い。だが、油断している者を驚かせるという一点に限っては十分な効果を発揮したのか、わたしはもちろん、雄二も驚きのあまり双眼鏡を取り落としそうになっていた。
「な、なんだってんだ?」
 雄二の戸惑いの混ざった問いに答えるかのように、スピーカーがぶつりと無機質な音を吐き出す。続けて聞こえてきたのは、
『――二年の向坂雄二くんのお姉さん、向坂雄二くんのお姉さん。弟さんが屋上で犯罪行為に手を染めようとしています。至急現場に急行してください。繰り返します――』
 名前も知らない放送部員の抑揚のない声だった。
 ぽかんと口を開けて呆然としている雄二を尻目に、向かいの校舎に目を移す。先ほどまで雄二が見ていた教室の窓から、わたしの姉が手を振っていた。
 雄二の手から双眼鏡をひったくる。
 覗く。
 イルファ姉さんの口が、ゆっくりと意味を形作っていて、
 み。
 せ。
 て。
 あ。
 げ。
 ま。
 せ。
 ん。
 よ。
 ――我が姉ながら恐るべし。
「……なあ、ミルファちゃん」
「……なに?」
「……俺の辞世の句を聞いてくれないか?」
「……別に、構わないけど、」
 屋上に続く入り口を振り返って、
「もう、手遅れかも」
 そこから聞こえてくる抹殺者の足音は、想像を絶する速度で近づいてきていた。

*****

「というわけで、雄二さんの尊い犠牲により、相手方の手の内を探ることができました。せめて安らかに眠られるよう、私たちで星にお祈りをしましょう」
「こ、向坂くんは、まだ亡くなってないと思うんですけど」
 愛佳の呟きは無視され、教室内で黙祷が捧げられる。嫌われているわけではないのに、クラスの女子生徒たちの雄二に対する対応がそっけないのは、やはり普段の行いの結果なのだろうか。
「貴明がついてるから、だいじょうぶだよ」
 おろおろする愛佳の肩にそっと手を乗せる。
 雄二が環の手によって無惨な姿に変えられ、保健室に運び込まれたのが十数分前の話。放課後だからなのか保険医が席を外していたので、応急処置をして後の世話を貴明にお願いしてきた。
 わたしが戻ってきて間もなく、教室からは男子生徒が追い出され、女子生徒を残すのみになっている。それにはちゃんと理由があって、
「では、時間が押していますので、そろそろ始めましょう」
 優季が口を開くのに合わせて、教室中のカーテンが閉められる。蛍光灯が点いているから急に薄暗くなったりはしないものの、くっと室内が狭くなった気がした。
「じゃあメモっていくから、委員ちょはサイズ測って読み上げていってよ」
「分かりました」
 衣装係の女子生徒に促され、メジャーを持った愛佳が、わたしと向かい合わせになる。愛佳は、ぺこりとお辞儀をして、
「え、えと、ミルファさん、それでは僭越ながら失礼いたしまして……」
 どうしてか妙に畏まっていた。
「こ、こちらこそ、よろしくね」
 こんな調子だと、こちらまで緊張してくる。
 衣装合わせのついでに、わたしだけ身体測定のデータがないということで、急遽クラスメイトたちにサイズを測ってもらうことになったのだ。自分のデータは頭に入っているからそれを教えればいいだけなのに、できるだけ正確に測りたいとか何とか上手い具合に丸め込まれてしまった。
「あ、上着は脱いでもらって」
「えうっ!? ……あ、あの、そういうことみたいだから……」
 だからどうして赤くなるんだろう。
「ちょ、ちょっと待ってね」
 緊張のせいか、おぼつかない手つきで胸元のリボンをほどく。脇のチャックを下ろし、袖から両手を抜いた。ポニーテールが引っかからないように襟口から首をくぐらせて、
 ほう、とため息が漏れる。
 皆の視線が、わたしに集まっている。
「な」
 上着を握った手で、思わず胸元を隠した。
「いやー……、すごいすごいと思っていたけど、まさかここまでとは……」
「女として負けた気がするわ……」
「河野くんの周りって、スタイルいい子が集まってるわよね……」
 各々が勝手なことを呟きながら、感心したり落ち込んだりしている。こういう注目のされ方は少し困る。居辛さを感じるのは否定できないし、何よりじろじろと見られるのは恥ずかしい。
「り、立派だね……」
 もはや顔の赤味を隠そうともせず、愛佳がおずおずと両手を伸ばし、
「……あ」
 胸を覆ったわたしの腕に、触れるか触れないかというところで止まる。愛佳の瞳に困惑の色が混ざった。
 分かっている。いくらメジャーを持っていようと、わたしがこうしている限りサイズは測れないのだ。
 周りを見る。皆は自分の手のひらを目を覆って、首を横に振って、「見ていません」という主張を繰り返していた。
 全員揃って、指の隙間からこちらを見ていた。
「……あんまり見ないでね」
 無駄と知りつつもため息混じりにそう漏らし、
「だ、だいじょうぶっ、痛くしないからっ」
 この人は何をやろうとしているんだろう、と思いつつゆっくりと両手を上に挙げた。
 ――まったく。
 学校というのは本当におかしなところだと思う。ここが特別だという気もするが、賑やかで、華やかで、ひとときたりとも退屈することがない。授業には単に知識を蓄積する以上の意味があるし、部活に打ち込んでいる生徒たちは楽しそうに汗を流していた。文化祭の準備中だというのを差し引いても、この場所には十分すぎるほどの魅力が溢れている。
 ――でも。
 自覚する。今が楽しければ楽しいほど、胸に落ちる影は濃くなっていく。
 わたしは、メイドロボだ。見てくれは似ていても断じて人ではない。それを偽って、わたしはここにいる。偽っているからこそ、こうして皆と笑い合っていられる。
 皆を騙しているのだ。
 それは、苦しい。
 皆との距離が縮まれば縮まるほど、仲良くなればなるほど、その苦しみは増していく。川に土砂が積もるように流れは徐々に変質して、そのうち塞き止められてしまうかもしれない。
 だが、今月の終わりに文化祭が幕を下ろせば、わたしの試験運用は終わる。
 それで全部おしまい。
 自分が人だなんて偽る必要もなくなるし、こうして感じている苦しみも消えるのだろう。
 それでいい。
 いや、
 ――それでいいと思わなければならない。
「…………ミルファさん?」
 鼻と鼻がくっつきそうな距離に優季の顔があった。
「――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
 声にならない叫びが出た。
 一気に飛び退って、教室の壁に背中をつける。
「……そこまで驚かれると複雑な気分です。私ってそんなに怖い顔してますか?」
 ぱくぱくと口を動かしながら、首を横に振った。怖いと言えば怖いが、それは顔ではなく別の部分の話である。
「その調子だと、さっきの話はまったく聞いていませんでしたよね?」
 優季は、じと目でこちらを見つめている。
「ご、ごめん。ちょっとぼーっとしてたみたい」
 まるで白昼夢を見ていた気分だった。
 頭を振って、暗い思考を吹き飛ばそうと試みる。考えたって仕方のないことは考えない方がいい。それが前向きなわたしのやり方だったはずだ。
「それでは、もう一度お話しますね」
「うん」
 今度は聞き逃したりしないよう、しっかりと優季に向き合う。
「雄二さんのお話によれば、私たちと競うことになったクラスは、なかなかの強敵です。うちのクラスも実名での演劇というセールスポイントがあるとはいえ、それだけでは心もとないというのが正直なところ。……そこで、もう一つ見せ場を作ってしまおうと思います」
 優季はぴしっと人差し指を立て、
「演劇の脚本にキスシーンを入れても構いませんよね?」
「……………………………………………………………………………………はい?」
 よく、聞こえなかった。
「ミルファさんの許可が頂けましたら、劇の最後に貴明さんとのキスシーンを入れたいと思っているんですよ」
 わたしの聴覚が、優季の言葉を拒否していた。
 キスシーンというのは、つまり演劇の中でわたしと貴明がキスをするということで、舞台が体育館のステージということは観客も大勢いるのであって、ひょっとしたらビデオカメラを回してる人がいたりして、とにかく、とにかく、
「――ダッ、ダメッ!! そんな、みんなの前でなんて、絶対ダメ!!」
 言葉の意味を理解するのと同時に、断固拒否の意思表示をする。首が取れそうなくらい激しく横に振る。
 周りの皆は、「私たちの前じゃなければやるのかしら」「一緒に暮らしてるんだから当然よ」「いいなあ。あたしも恋人欲しいなあ」などと好き勝手に盛り上がっている。確かに二人きりならわたしだって――って、そんなことを考えてる場合じゃない。
「そ、そんな恥ずかしいこと、できるわけないでしょ!」
「ですけど、このままではおそらくうちのクラスは負けてしまいますよね。そうしますと、貴明さんは双子の姫百合さんと一緒に暮らすことになって、連日誘惑され続けた貴明さんは……ああっ、いきなりそんなことまでしちゃうんですかっ!?」
「ヘンな妄想するなっ!」
 両手を頬に当てて身悶えしていた優季は、ぴたりと動きを止めると、上目遣いでわたしを見つめ、
「どうします? 私はどちらでも構いませんけど」
 そんな風に、いたずらが楽しくて仕方がないといったような笑みで訊ねてくる。
「……ううう~」
 いくら唸ってみたところで、わたしに選択権はなかった。
 不承不承頷くと、何故か教室から拍手が巻き起こる。貴明の気持ちが分かったような気がする。これがいじめというやつに違いない。学校は怖いところだ。
 それでも、先ほどまで感じていた胸の影が、騒いでいるうちにすっかり消え去ったのは幸いだと思った。
「……そういえば、愛佳は?」
「委員ちょなら、ミルファちゃんのサイズ測ってから、『バストで負けてウエストで勝っちゃいました』って呟きながらずっと教室の隅でうずくまってるわよ」
 まぁあたしもそうなんだけどさっ、と笑い飛ばすと、彼女も駆け足で教室の隅の一団に加わった。目尻に涙が浮いていた。
 賑やかなクラスメイトたちを眺めながら、わたしはようやく上着を脱いだままだというのに気付く。知らぬ間に時間が経っていたのか、肌寒さを感じてもおかしくない気温になっていた。軽くしわを伸ばし、握り締めていた制服に袖を通す。身体だけではなく、胸の奥まで暖かくなった感じがしたのは気のせいだろうか。
 カーテンを開けると、ついに堪えきれなくなったのか、曇り空がパラパラと雫を落とし始めていた。
 カバンの中には、折りたたみ傘がある。
 ――保健室に寄って、貴明と一緒に帰ろう。
 こうして、今日も学園での一日は終わりを迎えた。


to be continued