一度でも贅沢を覚えてしまった身体を、再び厳しい環境に追い込むのは容易なことではない。
僕は常々そう思っている。
具体的には。
学校から帰ってこたつの中でぬくぬくしていたら母親に買い物を申しつけられ、妙にじゃんけんの強い妹が出した『ぱー』に『ぐー』で対抗した挙げ句、冷え冷えとした風の吹きすさぶ街にコート一枚を羽織って出かける羽目になるとか。
そんな感じで。
「うう……なんで僕がこんな目に……」
なんでもなにも、じゃんけんで負けたからなんだけど。
それにしたって、味噌と自分の子供を天秤にかけて味噌を取るなんて、人の親とは思えない所業だと思う。たしかに晩の食卓に味噌汁が並ばないのは嫌だけどさ……。
暖かい我が家を後にして早十数分。
ようやく商店街に辿り着いた僕は、そろそろ寒いと口にすることさえ億劫になってきていた。
というか、口を開いたら、そのぶんだけ体温が外に逃げていきそうな気すらする。
こたつの温もりを知る前には耐えられた冬の空気が、今はあまりにも冷たく、厳しい。
文明の利器に飼い慣らされた僕の身体は、著しく環境への適応力が低下しているのだ。
「……ん?」
ふと足を止める。
商店街の店先に、何やら人だかりができていた。
きらびやかなイルミネーションが施されているからか、真冬の空の下だというのに、その一角はまるで縁日のような賑わいを見せている。男女比は1:9で女子が多い。高々と掲げられた立て看板には「Happy Valentine」と書かれていた。
「…………」
バレンタインか……。
なんというか……こう……上手く言葉にできない焦燥感があるよな……。
最低限、去年と同じ数だけ貰えると仮定して美也と薫から一つずつ……。
ちなみにチロルチョコ一個だろうが、ポッキー一本だろうが、等しく「チョコ一つ」と数えるのは言うまでもない。そして、たとえ一ヶ月後に高利貸し顔負けの負債を支払うことになるとしても、バレンタインの成果がゼロになるよりはマシだというのも言うまでもない。
それにしても、女子の一団に混ざって、おそらく彼女と一緒にチョコを物色しているであろう男の姿は、本当に忌々しいな。……決して嫉妬ではないぞ!
そもそもプレゼントは何が貰えるか分からないからワクワクするのであって、渡す側と渡される側で事前に談合するなんてナンセンスだよ。……絶対に嫉妬ではないけど!
勝ちが決まっている勝負がつまらないのと同じで、貰えることがわかっているチョコレートなんて邪道中の邪道だ。……これが嫉妬なわけがないじゃないか!
「――先輩?」
「うわあっ!?」「きゃっ!?」
いきなり背中から声をかけられて、飛び上がってしまった。
僕が驚いた声で相手も驚いたのか、可愛い悲鳴も聞こえた。
慌てて振り向いた先には、見知った後輩の顔。
ダウンのコートを羽織った七咲が、年季の入ったエコバッグを片手に目を瞬かせていた。
チョコが贈られてくる前に
先にお見合いから抜け出したのは七咲だった。
「お、驚かさないでください、先輩」
「それはこっちの台詞だよ……」
「う……すみません。そんなに驚くとは思わなかったので」
自分の呼びかけが原因だと気づいたのか、七咲はちょこんと頭を下げる。
……よく考えると。
後輩の女の子に声をかけられて飛び上がったうえ、相手にそのことを謝らせるって、男としてかなり情けない気がする。
「い、いや、べつに構わないよ」というわけで強引に話題を変える。「それより七咲はどうしてこんなところに?」
「私は買い物です。夕食の」
まさか僕の気持ちが伝わったわけではないだろうが、七咲は空気を読んで話についてきてくれた。この切り替えの潔さは、さすが体育会系って感じだ。偏見かもしれないけど。
「そっか。実は僕も――」
「――先輩は、こんなところでも妄想していたみたいですね」
「えっ?」
「聞こえてましたよ。バレンタインがどうとか言ってましたよね」
!
しまった……ひょっとして声に出ていたのか……!
「い、いや、僕には何のことやら――」
「まあ、たしかにあんな光景を見たらあてられてしまうのもわかりますけど」
僕の言い訳を遮って、七咲は横目で「Happy Valentine」に群がる一団を見やる。言外に「言い繕おうとしても無駄ですよ」という意思が込められた見事なタイミングだった。これでは言い逃れできそうにない。
ど、どこから聞かれてたんだろう。
というか、僕はどれくらい声に出していたんだろう。
まさか七咲に訊ねるわけにはいかないし……参ったな。
「……ところで」しかし意外にも、七咲はまったくべつの話題を振ってきた。「先輩にはアテはあるんですか?」
「……あて?」
「もう、ちゃんと話についてきてください。アテっていうのは、あれです。その……先輩はバレンタインにチョコを貰えそうかどうかって聞いてるんです」
「ああ、そういう……って、ええっ!?」
「どうしてそんなに驚くんですか?」
「え……あ……どうしてだろう……」
とりあえず驚いてはみたものの、冷静に聞き返されると自分でもよくわからなかった。
「うーん、七咲がバレンタインの話をするのが意外だったから……かな?」
「……なるほど」
おや?
なんだか七咲の周囲の気温が心なし下がったような……。
「つまり先輩は、私にはバレンタインみたいな女の子らしいイベントが似合わないって言いたいんですね。ええ、そうですね。チョコをあげるといっても? 父と弟くらいですし? そんな私にいきなりバレンタインの話題を振られたら先輩も困っちゃいますよね」
「い、いや、七咲! ちょっと落ち着いて!」
「はい? 私のどこが落ち着いてないんです?」
全部だよ、とはもちろん言えなかった。
ダムが決壊したような勢いでありながら、いつもの調子で淡々とまくしたてる七咲の迫力を見て、なお突っ込もうなどという蛮勇を僕は持ち得ていない。
見れば七咲は、さらさらした黒髪のかかる頬をぷうっと膨らませ、上目遣いで僕を睨みつけている。
どうやら僕は地雷を踏んでしまったらしい。
おそらくバレンタインの話をするのが意外だった、という部分だ。そんな意図はなかったのだが、どうも七咲は「女の子らしいイベントが自分に似合わない」という意味で受け取ったらしい。
「あ、あのさ、七咲?」
「なんですか?」
マシンボイスのような硬い声音に怯みそうになるが、下腹に力を入れて立ち向かう。
「七咲は十分女の子っぽいと思うよ? 今だって、ほら、夕食の買い物にきてるわけだし、家の手伝いをするなんて、いかにもよくできた娘さんじゃないか!」
「……先輩は何をしに商店街にきたんですか?」
「え……? いや、僕は母親に頼まれて味噌を買いに……」
「それって先輩も夕食の買い物をしてるってことですよね。男の子なのに」
「う、うん」
「じゃあ、夕食の買い物をするのと女の子っぽいかどうかは関係ないってことですよね」
「うっ」
あっさり論破されてしまった!
困ったな……今の気分は、さしづめ証言台に立つ被告といったところだろうか。
腕利き女検事である七咲の前で僕は丸裸にされてしまうのか……。
女検事の七咲の前で丸裸……。
悪くないかも……。
「先輩。顔が変態になってます」
「ご、ごめん」
ジト目で射抜かれて我に返る。
ついついスーツ姿の七咲を妄想してぼーっとしてしまった。
クールな七咲には、ああいう格好が似合うよな。
「と、とにかくさ、僕はべつに七咲が女の子っぽくないって言いたかったわけじゃなくて、七咲みたいな大人びた子がああやってチョコを買おうとしている姿が、なかなか想像できないって思っただけで……」
「大人びてる……ですか。それって褒めてます?」
「も、もちろんだよ! 美也のやつにも少しは見習って欲しいくらいさ!」
「でも私、この前美也ちゃんたちと一緒に、あそこのお店に行きましたよ」
「え、ええっ!?」
まさか僕は再び論破されてしまうのか!?
「いちいち驚かないでください」七咲は怒っているというより、少し拗ねた表情でため息をこぼす。「そういうのが似合ってないのは自分でもわかってるんですから」
「……いや、なんだか話の本筋がよくわからなくなってきたけど、七咲は誤解してるよ。さっき驚いたのに他意はないというか……七咲だって、いきなり『バレンタインにチョコをあげる相手がいるのか』なんて聞かれたら驚くだろ?」
「――っ」七咲が軽く身をすくませ、視線を泳がせる。「た、たしかにそうですね……」
「それに……」力強く言い放った。「僕は七咲のことを女の子っぽくないなんて思ったことは一度もないぞ!」
そうだ!
これだけはしっかり言っておかないと!
「そもそも僕は七咲の――」
「せ、先輩! わ、わかりましたから、その、周りの人が見てます……!」
ハッとして周囲の様子を窺うと、たしかに僕たちは通行人の注目を集めていた。
買い物客のピークは過ぎていたが、そろそろ仕事帰りの会社員が増え始める時間帯だ。寄り道をしている同年代の学生も多いし、元々人通りが絶えない商店街なので、こんなふうに騒ぎ立てたら悪目立ちするのは当たり前だった。
これから熱弁をふるおうと振り上げていた拳をおろし、じろじろとこちらを眺めている人たちに「何も問題ありませんよ」と愛想笑いを振りまき、大袈裟に咳払いをして仕切り直す。
ふう……危ないところだった。
「七咲が止めてくれなかったら、僕は七咲の競泳水着姿と体操服姿とジャージ姿の素晴らしさを大声で叫ぶところだったよ……」
「本当に止めてよかったです」
心の底から安心しきった声で七咲が言う。一連の流れで毒気が抜けたのか、七咲の表情には柔らかさが戻っていた。それを見て、僕もひと安心。
「すみませんでした。なんだか変に突っかかってしまって」
「いや、僕のほうこそおかしなこと言っちゃって、ごめん」
お互いに顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出す。
ひとしきり笑うと、七咲はほっそりとした人差し指で目元をぬぐってから、
「それで結局、先輩はアテがあるんですか?」
「そ、そうだな……」
最初に話が戻ってしまった。
ついにと言うべきか、ようやくと言うべきか、どちらなのか僕にはわからないけど。
余計なことを考えると、また面倒なことになりそうなので、正直に答えるか……。隠すようなことでもないしな。
「去年は美也と薫がくれたから、たぶん……きっと……おそらく……今年も二つは貰えるんじゃないかなあ……」
というか、貰えるといいなあ……。
こんなことを考え始めたら、またさっきと同じやるせない気持ちがぶり返してしまった。
やっぱりバレンタインには独特の焦燥感がある。これは絶対、間違いない。
「……美也ちゃんはともかく、棚町先輩ですか」
気分の落ち込んだ僕を尻目に、七咲はなにやら腕組みをして考え込んでいた。肘の少し手前にエコバッグをぶら下げた格好が様になっている。前にかなり家事をこなしているという話を聞いたことがあるし、買い物なんて手慣れたものなのだろう。
「で、七咲はどうなんだ?」
「はい?」
とぼけた様子で首を傾げる七咲だったが、これだけは聞いておかねばなるまい。
「だ、だからさ、七咲はバレンタインどうするのかなって」
「どうするかっていいますと?」
「だ、だから、誰かに……」
「誰かに?」
「その……チョコを渡したり……とか」
「チョコを?」
「…………」
って。
さっき十分に笑っただろうに、七咲は僕から目を逸らして笑いを堪えていた。
よく考えれば、七咲がこんなに察しが悪いわけないじゃないか!
「わ、わかってるのにはぐらかしてるだろ!?」
「いいえ、わかりません」
明らかに僕をからかっているくせに、まったく悪びれず、とても楽しげに七咲は笑う。
「お、おい、七咲……」
食い下がろうとすると、七咲は空いたほうの手を差し出し、
「先輩の想像どおり、私はバレンタインとは縁遠い人生を送ってきましたからね」
ちょこんと突き出した人差し指で、僕の唇のあたりを押さえて、
「でも知ってました?」
「な、なにを?」
私ってあまのじゃくなところもあるんですよ、と。
その日一番の笑顔で言われてしまい、僕は何も言い返せなかった。
……という話を、帰ってからこたつで丸くなっていた美也に話したら「砂を吐くどころかチョコレートでも吐きそう」などと、似つかわしくない凝った言い回しで撃退されてしまったというのが事の顛末。
「みゃーは思うんだけど、人間ってさ、一度でも贅沢を覚えちゃうと、それが忘れられなくなっちゃうからダメだよね。にぃにも気をつけてよね」
妙なところで、兄妹だなあ、なんて実感したりもして。
おしまい
最近うちの妹の様子がおかしい、と思う。
僕は決して自分が人情の機微に敏感なほうだとは思っていないが、さすがに十年以上も一緒に暮らしている妹の様子が変われば気づくことができる、と思う。
そして妹が、いわゆる〝お年頃〟と呼ばれる年齢だというのも理解しているし、妹は妹であるからには女であり、僕もまた兄であるからには男なのであって、血の繋がった家族といえども、性差というものが埋めがたい距離を生むものことも理解している、と思う。
しかし――
「お」
「あ」
寝苦しかった夜が明け、熱気のこもった自室を出たところで、ちょうど妹と鉢合わせた。
お互い休みの日はもう少し睡眠時間が長めなのだが、これだけ暑いとおちおち寝てもいられない。今年の夏は暑すぎる。特に夏休みに入ってからは、毎日どこかで「記録的な猛暑」という単語を目にしている気がする。
「おはよう、美也」
「……おはよ」
「いやー、今日も暑いな。ホントはもっと寝ていたかったのに目が覚めちゃったよ」
「……あたし、顔洗ってくるから」
「えっ、……あ」
僕としてはごくごく普通に、一般的な朝の挨拶をしたつもりなのだが、妹の反応は季節にそぐわない冷え切ったものだった。
妹はつれないそぶりで、怒っているのとも少し違う、どちらかというと困っているような表情を浮かべて、そそくさと僕の横をすり抜けていってしまう。
――とまあ、こんな感じで。
どうも最近うちの妹の――美也の様子がおかしいような気がするのである。
ていうか、明らかにおかしい。
ていうか、ぶっちゃけ僕、避けられてる?
……避けられてる……よなあ。
こんなふうに避けられている理由はさっぱりわからないが、避けられはじめた時期はハッキリしていて、夏休みがはじまった前後、つまり一週間ほど前から今みたいな状態が続いている。
正直、元々僕たちがそれほど仲の良い兄妹だとは思っていないし、夏休みといってもずっと家にいるわけではないので、一日中顔を付き合わせていなければならないということもないのだが、身内に避けられているという事実は地味に堪えるのだ。
連日の猛暑と受験勉強のストレス。
そして思わぬ形で降りかかってきた身内の問題によって、僕の疲労はピークに達しつつあった。
うちの妹のばあい
「ははぁ、朝から冴えない顔してると思ったら、なるほどねえ」
「ふぅん……最近美也ちゃんの様子がおかしい……ねぇ」
そういうわけで、今日も今日とて夏期講習のために登校した僕は、気の置けない友人たちに相談を持ちかけた。
普段であれば僕のほうから美也の話を振ったりはしないのだが、どうやら自分で思っている以上に精神が参っているらしい。
「ああ。ホントに困ったもんだよ。今の話を聞いて、ふたりはどう思う?」
前の席に陣取った梅原は椅子の背中越しに何ともいえない微妙な表情を浮かべ、
「シスコンだな」
ずうずうしくも僕の机に腰かけた薫は呆れきった目つきで、
「シスコンね」
実に見事なハーモニーだった。
「いや、だからそういうことを聞いてるんじゃなくて僕が聞きたいのは……って、僕のどこがシスコンなんだよ!?」
「全て」「全部」
またしてもハモるふたりの声。
中学のころから付き合いのある悪友たちではあるが、こんなに息の合った梅原と薫を見たのは初めてだ。まったく……何なんだ一体……。
「うちは男兄弟だから実際のところはわからんけどよ。普通は異性の兄弟って、これくらいの歳になったらロクに喋らないことも珍しくないって言うぜ?」
「あたしも一人っ子だから偉そうなことは言えないけどね。恵子なんかの話を聞く限りじゃ、アンタんとこは仲が良いほうだと思うわよ」
「そ、そうなのか……?」
双方向から思わぬ指摘を受け、開襟シャツの襟元に、じわりと汗が浮かぶ。
兄妹仲に関して、うちみたいな関係が普通だと思っていたのは僕の勘違いで、実際にはもっとシビアな関係なのが当たり前らしい。
「ま、そう考えれば大将のところはこれまでが変わってたってことだ。今の状態にもそのうち慣れるだろうし、そんなに気にしなくてもいいんじゃないか?」
「う、うーん……」
慣れるかどうかという話をするなら、そりゃあ時間が経てば慣れるものなのかもしれないけど……。
それにしたって美也の変化は唐突すぎたような気がする。一晩寝て、起きて、家族に対する心情が劇的に変化するなんてことあり得るのだろうか。
「あ!」薫の叫びに思考を突き破られる。
「ど、どうしたんだよ、いきなり」
「あたし、わかっちゃったかも」
「おぉ、さすがは棚町先生」
「あのさあ」薫は晴れがましい笑顔で梅原の茶化しを軽くスルーする。「美也ちゃんってば、ひょっとして誰か好きな人ができたんじゃない?」
間。
沈黙という名の一瞬の空白が、教室の喧噪を通り抜けてゆき、
「ああ……」
「そういう……」
僕と梅原は思わず顔を見合わせ、深く頷き合ってしまった。
「なーによ、その反応」
憮然とした様子で不満げに目を細める薫だったが、正直、眉唾もいいところだ。
「女ってホントそういう話好きだな」
梅原がため息混じりに漏らした感想は、ほとんど僕の気持ちを代弁していた。特に薫は色恋沙汰に目がないからなあ。
「いい? 女の子が急に変わったら、その原因の七割は恋愛絡みだと考えて間違いないの。断言してもいいわよ」
「余計にうさんくさくなった気が……」
そもそも七割じゃ中途半端すぎて、断言する意味がないじゃないか。それに、まだまだ子供っぽい美也と『恋愛』という単語が、僕の中ではどうしても結びつかなかった。
「はい、細かいこと気にしない! どうなのよ純一。そのへん何かないの?」
「何かってなんだよ」
「だから、美也ちゃんに好きな男ができた兆候っていうか、そういうのがないかって聞いてるの」
「そ、そんなこと言われても……」
「何でもいいのよ。アンタが変わったって感じた前と後で、美也ちゃんに何か変化はなかった?」
新しい玩具を買ってもらった子供のように目を輝かせながら、薫が机の上からぐいっと身を乗り出してくる。こうしてくっついてくるのは珍しいことではないが、勢いがついていたので少し驚いた。
この食いつきっぷりを見るに、薫もかなり受験勉強でストレスが溜まっているみたいだ。
「まあ、ちょっとした変化に気づけるくらいなら、橘だってわざわざ相談を持ちかけたりしないだろ」
「そ、そうだよ」梅原の出してくれた助け船にこれ幸いと乗り込んだ。「逆に聞きたいんだけど、仮に、その、美也に好きなやつができてたとして、どういうところに変化が現れるっていうんだ?」
「そうねえ……」
苦し紛れに聞き返すと、薫は思いのほか真面目な表情を浮かべ、姿勢を正してから腕組みをした。普段が普段なのであまりそういう感じはしないが、薫は薫なりに真剣に考えてくれているようだ。
「ベタなところだと、前より身だしなみに気を遣うようになった、とかね。例えば香水を変えたりとか」
「香水か……それはないな。あいつはそういうの使ってないはずだよ。持ってすらいないと思う」
「お化粧をはじめたりとかは?」
「たぶんそれもない」
改めて考えると、美也はシャンプーすら僕たち家族と同じものを使っているくらいだし、たまに寝癖がそのままになっているし、お世辞にも身だしなみに気を遣っているとは言えないだろう。
「……そういえば、薫は最近香水を変えたのか?」
「へ? あたし香水はつけてないけど」
「そ、そうなのか?」
さっき身体を寄せられたとき、妙にいい匂いがしたから、てっきり香水をつけてるのかと思ったんだけど……。
「制汗スプレーなら使ってるけどね」
「ああ……なるほど……前と薫の匂いが変わった気がしたのはそのせいか……」
「な!?」薫の顔が真っ赤になる。「ま、前っていつの話よ! ていうかアンタ、そんなにしょっちゅうあたしの匂い嗅いでるわけ!?」
「ひ、人聞きの悪いこと言うなよ! おまえが傍にくると、その気がなくても嗅いじゃうんだよ!」
「~~~~っ」
僕の言葉をどう受け止めたのか、顔を赤くしたままの薫は、口元をわななかせながらサマーセーターの襟口をつまみあげ、自分の鼻先を近づけた。
その仕草を見た僕は思わず、そう、思わず、反射的に言ってしまう。
「し、心配はいらないぞ。そ、その……いい匂いしかしなかったから……」
「――ばっ」続く台詞は聞く前からわかりきっていた。「ばっかじゃないの!!」
机から飛び降りた薫が電光石火の動きで得意の蹴りを放つ。標的になったのは――言うまでもなく、僕。
「痛――――――――――――――ッ!!」
「……いやあ、俺、大将のそういうところマジで尊敬するわ」
脇腹を押さえて悶える僕に向かって、梅原は酷く冷静に言い放った。
窓の外では、うるさいくらいにセミたちが大合唱していた。
*
「うう……まだヒリヒリするよ……」
片手で腰をさすりながら廊下を歩く今の僕は、かなりお年寄りライクに見えるはずだ。夏休みで校内の人気が少ないのは幸いだった。こんなところを大勢に見られるのは実にみっともない。
「さっさと帰って昼ご飯を食べよう……」
ため息。
わびしさを誤魔化すために独りごちたら余計にわびしくなった。これも全部、梅原が用事があるとか言って先に帰ってしまったせいだ。
ちなみに薫は朝のやり取りをずっと引きずっていたようで、授業が終わるや否や目も合わせずに教室を出て行ってしまった。
まあ、気分屋のあいつに付き合わされるのは慣れっこだし、明日になればケロッとしているに違いない。まったく、美也といい薫といい、気まぐれで困ったもんだよ。
「何に困っているんですか、先輩」
「……あれ? 七咲?」
「こんにちは」
階段のところで、ちょうど上の階から降りてきた七咲と鉢合わせた。
「ぼ、僕、声に出してた?」
「ええ。不審者丸出しでしたよ」
七咲の表情は普段と変わらぬ涼しげなものだったが、笑いを堪えているのか声に楽しげな色が混ざっている。
「と、ところで、七咲はこんなところで何をしてたんだ?」
下手に言い繕おうとすると墓穴を掘りそうだったので、僕は話題の転換を試みた。
「私は部活です。もう練習は終わったんですけど、帰る前に教室に寄って辞書を取ってきたんですよ」
思ったとおり、七咲は空気を読んで僕の意図するところに付き合ってくれた。本当に七咲はよく出来た後輩だなあ……。
「……せ、先輩」見ると七咲はほんのりと頬を赤らめていた。「その、褒めてもらえるのは嬉しいですけど、面と向かって言われると少し恥ずかしいです」
「ええっ!? ひょっとして今のも声に出てた!?」
「はい……」
今度はこっちの顔が赤くなってしまう。
うーん……考えていることが知らないうちに口から漏れてるなんて、どうやら自分で思っている以上に僕は参っているらしい。
「受験勉強でお疲れですか?」
夏服姿で肩にスポーツバックをかけた七咲が、リズミカルに階段を駆け降り、僕の横に並ぶ。あまりにも気遣わしげな様子でこちらを見上げてくるので、心配いらないという意思表示を込めて、僕は止まっていた足を動かしはじめた。
「いや、まあそれもあるんだけどね。ちょっと今は別の問題で」
「さっき言ってた困ったことですか?」
「うん。実は――」
というわけで、僕は事の経緯を七咲に聞いてもらうことにした。
七咲は美也と同級生だし、考え方も大人びているから、梅原や薫より相談相手にふさわしいかもしれない。後輩に頼りきりの先輩というのも情けないけど、そんなのは今さらだし、背に腹は代えられないという言葉もあるからな。うん。
「に、匂い……ですか」
しかし僕の話を聞いた七咲は、ちょっと引いていた。
「いやいやいや! そこは本題と関係ないんだから軽く流してよ!」
「ですけど、話を聞く限りでは、先輩の変態っぷりしか伝わってきません」
「ぐっ」
「というか先輩。気づかないうちに美也ちゃんに何か変態行為をしてしまって、それで避けられているという可能性はないんですか?」
「ないよ! あるわけないだろ!?」
「……まあ、私もさすがにそれはないと思いますけど」
なんだか「さすがにそれはない」という言い回し自体が、七咲の僕に対する評価を表しているようで微妙な気分だった。
「それはともかく」七咲は仕切り直すように咳払いをする。「少なくとも私は、美也ちゃんに好きな人ができたとか、付き合っている人がいるとかいう話は聞いたことありませんね。この前、一緒に出かけたときもそういう素振りはありませんでしたし」
本当はこんなこと言っていいのかわかりませんけど、とつけ足した七咲の顔には微苦笑が浮かんでいた。
無理もないか。七咲にしてみれば、友達の情報をその兄貴にリークしているわけだしな……。
でも、七咲の口から美也に浮いた話がないと聞いて、ほんの少しだけ安心した自分がいるのも確かだった。そんなことあるわけがないと思っていても、薫の話を真に受けていた部分があったのかもしれない。
「その……なんだか告げ口みたいなことさせちゃってごめんな」
歩きながら頭を下げると、七咲は少し水気の残る髪をふるふると揺らし、
「いえ。私も本当に言ったらいけないことは自分で判断できると思ってますから」
カ、カッコイイ……。
「七咲って男らしいよな……」
「はい!?」
「七咲が男で僕が女だったら、それこそ恋に落ちていたかもしれないよ……」
「……それって性別を逆にしないといけないんですか?」
「え? どういうこと?」
「……なんでもないです」
「な、七咲? ちょっと待ってよ」
いきなり早足になった七咲に、慌てて追いすがる。どうしてか七咲が急にそっけなくなったというか、不機嫌になったような気がする。
「あ、あの……七咲?」
「なんですか」
うわ。めっちゃ冷たい声。理由はわからないが、七咲は怒っているようだ。
こ、これは場の空気を和ませないと!
「匂いといえば七咲は塩素の匂いが」ものすごい目つきで睨まれる。「――じゃなくて、え、えっと、七咲は美也がどうして機嫌が悪いままなんだと思う?」
さすがに今度の話題転換は無理矢理すぎただろうか。セミの声が混ざった雑音ばかりが僕たちのいる空間を通りすぎていく。
冷や汗が首筋を伝うのを感じながら、返答を待つ。沈黙が重い。数秒が数十分のようにも感じる。
やがて七咲は、ふっと目元を緩めると、
「そうですね。鈍感なお兄さんに原因があることだけは間違いないと思いますよ」
スゴ味のある笑顔で、そう言い放ったのだった。
*
道路の端に逃げ水が見えていた。
今日は本当に暑い。通い慣れた通学路を歩いただけなのに、ものすごい疲労感が襲いかかってくる。ようやく家に辿り着くころには、ワイシャツが汗でびしょびしょになっていた。
「……ん? 美也は出かけてるのか……」
玄関のドアを開けようとしたが、鍵がかかっている。つまり家には誰もいないのだろう。
鍵を開けて家の中に入ると、燦々と降り注ぐ陽光から逃げられたというだけで体感気温が五度くらい下がった気がした。
靴を脱ぎ、自室に向かう。階段を上りながら考えるのは、今日一日の――美也のことだ。
学校からの道すがら、梅原たちのアドバイスを頭の中でまとめていたのだが、
一.うちの兄妹仲は例外的に良い
二.美也は好きな人ができた可能性がある
三.おそらく僕に原因がある
この三つから推測される答えとは、すなわち――美也は実の兄である僕に禁断の恋をしてしまった!! ということになる――
「――わけがないよなあ」
我ながら間抜けなことを考えているなあと思う。マサやケンじゃあるまいし、二次元と三次元を混同してはいけない。僕たちはふたりきりの兄妹で、大切な家族には違いないけど、それ以上でもそれ以下でもない。それは美也にとっても同じだろう。
自室に戻ってきた僕は、机の上にカバンを放り投げるとワイシャツを脱ぎ捨て、制服のズボンをハンガーにかけた。こうして着替えると、心も身体も解放されて軽くなったような気がする。
締め切っていた窓を開けると、室内の熱気が僅かに薄まった。
……よし。
あまりごちゃごちゃ考えていてもしょうがない。こうなったら、一度ちゃんと美也と話をしてみよう!
残念ながら回答には至らなかったが、そういう結論に至っただけで、皆に相談した甲斐はあったと思う。こういうのは結局のところ、本人に正面からぶつかることでしか解決しない問題なのだ。
ちょうどそのとき、玄関のドアが開く音がした。
「……あれ。お兄ちゃん帰ってるんだ。ただいまー」
どうやら美也が帰ってきたらしい。
善は急げだ。早速、最近様子がおかしかったことを美也に話してみよう! 僕はやるぞ!
「美也!」僕は部屋を飛び出して階段を駆け降りる。「美也! これから僕と話をしよう!」
息せき切って玄関までやってくると、そこには美也が立っていて、
「お……お兄ちゃん……」
その隣には、まったく予期していなかったもうひとつの人影が立っていて、
「……はぅ。せ、先輩……」
そしてふたりには、ふたつの共通点があった。
ひとつ。ふたりとも涼しそうな白いワンピースを着ている。
ひとつ。ふたりとも顔を赤らめて気まずそうに僕のことを見つめている。
いや……違うな。美也ではないほう――中多さんは気まずげにチラチラと視線を漂わせていたが、美也はそうじゃない。見つめているのではなく――睨んでいるのだ。
「もーっ!! 信じらんない!!」美也の感情が爆発した。「うちの中だから我慢してたけど紗江ちゃんの前にまでそんなかっこで出てくるなんて何考えてるの!! 馬鹿にぃに!!」
「え……ええっ?」
一瞬何を言われたのかわからず、改めて自分の格好とやらを見直してみる。学校から帰ってきて、ワイシャツとズボンを脱いで、部屋着に着替えて……。
ああ、そうだ。ここのところ、あまりにも暑いから家の中では服を着るのが億劫になって、部屋着=下着になっていたんだ。
つまり今の僕の格好というのは、Tシャツにパンツ一丁という、オヤジスタイルなのだった。
「じ、じゃあ、ひょっとしてここのところ僕を避けてたのって……」
「いくら夏休みだからって、にぃにはだらしなさすぎ! 今からお父さんみたいなことしてたら、将来は大変なことになっちゃうんだからね!」
「な、なんだよ……そういうことだったのか……はは……」
あれこれ考えて悩んでいたのが馬鹿みたいだ。確かに美也は〝お年頃〟ではあったが、それと同時に美也はどこまでいっても美也でしかないのだ。
「す、すみません……私……のぼせちゃって……もう……」
「うわっ、な、中多さん!」
ふらふらとその場にへたり込みそうになった中多さんを、慌てて支える。
「あーっ! そんなかっこで紗江ちゃんに何しようとしてるの! にぃにのスケベ!」
「ス、スケベだって!? 倒れそうになったのを支えたんだよ! お前も見てただろ!」
「ほんとにぃ~?」
「ホントも何も……」
ないだろう、と言おうとしたのだが、僕は気づいてしまった。そう。中多さんを支える両手のひらから伝わる柔らかさと体温に……!
ワンピースの生地の手触りと、火照った中多さんの肌の暖かさが、何ともいえない絶妙のハーモニーを奏でている……。
ああ……なんだかずっと触っていたいような……そんな気がするな……。
「にぃに!」
「いたたたた! 痛い! こら美也! つねるな!」
「だって目がエロエロなんだもん!」美也は僕の頬をつねる指先に力を入れる。「馬鹿にぃに! スケベにぃに! もう知らない!」
後日談というか、今回のオチ。
僕があとで中多さんに平謝りしたのは言うまでもない。見苦しいものを見せてしまって本当に申し訳なかった。
もっとも、どうしても見たくないのであれば目を閉じていればよかったわけで、そうしなかったあたり中多さんも〝お年頃〟ということなのかもしれない。
美也はといえば、今後は家の中でだらしない格好をしないよう約束し、どうにか機嫌をなおしてもらった。夏期限定のフルーツパフェを奢ることになったのは結構な痛手だったが、ごちゃごちゃ悩むのに比べれば安く済んだと考えることにしよう。
ちなみに、僕がだらしない格好をしているのが嫌だと言った美也ではあったが――
「あー、すずしー。やっぱりお風呂あがりに食べるアイスは最高だねー」
当の本人は風呂上がりに、クーラーの効いた居間のソファに寝そべって、バスタオル一枚でアイスをかっ食らっているのだから勝手なものである。
「風邪ひくなよ」
「んー、わかったー。あ、にぃにもアイス食べる? 一口あげよっか?」
そう言って笑顔でソーダ味の棒アイスを差し出してくる美也を見て、僕は思う。
うちの妹は、可愛いのか可愛くないのか本当によくわからない、と。
おしまい
「今日はふたりにお話があります」
畏まった口調で、美也が言った。
こう言っちゃなんだが、真面目くさった喋り方が全然似合っていない。まるで幼稚園児(は言いすぎか)がままごとで母親の真似をしているみたいに聞こえる。
「……先輩、なにかしたんですか?」
「……七咲こそ、なにかしたの?」
それに対して、僕と七咲は、ひそひそと言葉を交わした。ふたりで肩を寄せ合って正座しているので、小さな声でも十分にやり取り可能なのだ。
……ようするに美也の言う〝ふたり〟というのは、他でもない僕と七咲のことである。
冬休みの課題をするため、七咲がうちにやってきたのが数十分前の話。
最初に七咲の苦手な数学から取りかかることにして、テーブルを挟んで問題集に向き合っていたら、突然美也のやつが僕の部屋に乱入してきた。
それから美也は、あれよあれよという間にテーブルを部屋の隅に寄せると、僕と七咲を目の前に正座させ――今の状況に至ったというわけだ。
「僕はなにもしてないよ」
「私だってなにもしてません」
「こら~っ! 私語はやめんか~っ!」
仁王立ちした美也が怒鳴る。
今度は体育教師でもイメージしたのだろうか。タイトスカートだから下着が見えたりはしないけど、こんなふうに大股を開くのはさすがに少しはしたない。
どうしたものかと思って横を見ると、七咲は微笑を浮かべて、かすかに頷いてみせる。ここ数ヶ月で身につけたアイコンタクトスキルによれば、「まずは美也ちゃんの言うことを聴いてみましょう」ということらしい。
僕は七咲に頷き返してから、美也を見上げて訊ねる。
「で、話ってなんだよ」
すると美也は、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに満足げな表情を浮かべてから、僕に向けて人差し指を突きつけたかと思うと、
「にぃには逢ちゃんに甘やかされすぎ!」
人差し指を横にスライドさせて、
「逢ちゃんは、にぃにを甘やかしすぎ!」
ひと息で言い放ち、縄張り争いをする猫みたいな目つきで、僕たちを睨んだのだった。
アマサキ~七咲逢は本質的に男に甘い~
「……僕が甘やかされすぎ?」
「……私が甘やかしすぎ?」
思わず七咲と顔を見合わせてしまう。
美也のやつ、突然なにを言い出すんだ。
「にぃに、さっき出かけてたでしょ」
「う、うん」
七咲がやってくる前に、お菓子や飲み物を買っておこうと思い、コンビニに行ってきたのだ。
「それがどうかしたのか?」
「帰ってきたとき、靴をどうしたか覚えてる?」
「靴……?」
靴って、外出するときに履く靴のことだよな。それを帰ってきたときどうしたかって、そんなの決まってるじゃないか。
「そりゃあ玄関で脱いできたけど……」
「ブブー!」美也が両手で大きなバッテンを作った。「にぃには脱いだんじゃなくて脱ぎ散らかしてたの!」
「そ、そうだっけ?」
「そうなの!」
正直よく覚えてない。というか、美也がなにを言いたいのかよくわからない。僕が靴を脱ぎ散らかしたとして、こんなに怒るようなことだとは思えないんだけど。
「ああ……なるほど」
ワケもわからず首を捻っていたら、横から七咲の呟きが聞こえた。そちらに視線を向けると、僕と目が合った七咲は、少し困った表情を浮かべる。
「私がお邪魔するとき、自分の靴を揃えるついでに先輩の靴も揃えてきたんです。美也ちゃんはそのことを言ってるんじゃないですか?」
「えっ、そうだったのか」
「そう! そうだよ! 逢ちゃんはお客さんなのに、にぃにが脱ぎ散らかした靴を揃えてくれてたんだよ!」
たしかにそれはちょっと……情けないな。
お客さんがどうこう以前に、先輩としてみっともないところを見せてしまった気がする。いや、みっともないところを見せるのは今さらという感じだし、先輩の威厳なんてとうの昔に消え果てているけど、あまりだらしなくして七咲に愛想を尽かされても困る。
「ごめん、七咲。そんなことまでしてもらっちゃって」
「いえ、気にしないでください。ホントについでですから。……あ、でも、靴はちゃんと揃えないと、お行儀悪いですよ?」
「そうだよな。次からは気をつけるよ」
「ふふ。そうしてください」
七咲が微笑む。
以前はクールな印象が強かった七咲だけど、いつのころからか、笑うときに柔らかい表情を見せてくれるようになった。
いいよな……七咲の笑顔って……。
見てると安心するっていうか……。
うん……僕は本当に幸せものだ……。
「――って、こら~っ! なに『めでたしめでたし』みたいにまとめてるの! みゃーの話はまだ終わってな~いっ!」
……しまった。
完全に美也の存在を忘れてた。
「……でも、よく考えたら、おまえも靴を脱いだら脱ぎっぱなしにしてないか? ていうかたまに洋服も……」
「もっ、もうその話はしてないの!」
あ、ごまかした。
美也は顔を真っ赤にしながら、
「みゃーが言ってるのは今みたいなやりとりの話! にぃにがダメダメなのに、逢ちゃんはいっつもすぐ許しちゃうでしょ!」
「う……」
それを言われるとけっこう痛い。
実際のところ、美也の指摘はかなり的を射ている。頻繁ではないにせよ、こういうことはたまにあって、その度に僕は七咲にフォローしてもらっているのだ。
そこまで考えて、ようやく美也の言わんとしていることがわかった。
つまり美也は、常にフォローする側の七咲は「甘やかしすぎ」で、常にフォローされる側の僕は「甘やかされすぎ」だと言っているのだろう。
……おや?
否定できる要素がないじゃないか!
意識してなかったけど、僕はかなり七咲に甘やかされているぞ!
う~ん、七咲に甘やかされるというフレーズはすごく魅力的だけど、溺れてしまうと取り返しがつかないことになりそうだ。
少し溺れてみたい気もするけど……そういうのは僕にはまだ早いよな……。
今のうちに気づけてよかった。
……まだ大丈夫だよな、うん。
「……先輩。また変態的なことを考えてる顔してますよ」
「そっ、そんなことないよ。ていうか変態的な顔ってなんだよ」
七咲がジト目を向けるので、思わず身を縮こまらせてしまった。やっぱり普段の表情はキリッとしていて、年下なのに妙な威圧感があるよな……。
「……まったくもう、先輩は……美也ちゃん、ちょっといい?」
こちらを向いていた七咲が、いきなり美也に呼びかけた。
「ほえ?」
美也が戸惑った声をあげる。どうして自分が話しかけられたのか見当がつかないという顔。もちろん僕にだって見当がつかない。
「な、なに?」
「私があまり勉強できないのは知ってるよね?」
「う、うん。……まあ、みゃーも大して変わらないけど」
「今日は私、先輩に冬休みの課題を見てもらうためにお邪魔したんだけど、それは知ってた?」
「……え、そうなの?」
美也は僕に目で訊ねる。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「き、聞いてないよ! 遊びにきたんじゃなかったの!?」
「うん。先輩って数学が得意だから、たまに教えてもらってるの。美也ちゃんも教えてもらったことあるんじゃない?」
「う、うん……そういえば受験のとき教えてもらったかも……」
……そんなこともあったなあ。
妹が同じ高校に通うのはちょっと複雑だったけど、中学も同じだったし、なにより美也が合格するために本気で頑張ってたから協力したんだっけ。
「それに今日は勉強だけど、先輩には他にも色々お世話になってるの。だから私たちは一方的に甘えたり甘えられたりっていう関係じゃないと思う」
「な、七咲……」
ぼ、僕はそんなふうに思われてたのか。
ちょっと感動してしまった。
「で、でも逢ちゃんさ、余分にお弁当作ったりするの大変じゃないの?」
「毎日ってわけじゃないし。それに先輩がすごく美味しそうに食べてくれるから、大変どころかむしろ嬉しいかな」
「じ、じゃあ、寝癖直すのは?」
「ぶっ!」
見られてたのか!?
いつだ!?
どこで見られた!?
「にぃにってば、あんなにだらしないんだよ? それでもいいの? 怒らないの?」
「キチンとしすぎてるより、私にはそれくらいがちょうどいいよ。それに頭の後ろは鏡じゃ見えないからしょうがないんじゃない?」
「そ、それじゃあ、それじゃあ……」
涼しい顔で反論されて、美也はあわあわと視線を泳がせている。
というか、こいつは七咲に僕をどうして欲しいんだ? 叱ってもらいたいのか?
「み、美也、そんなに必死になって僕のダメなところを探さなくても……」
「にぃには黙ってて! ……うぅ~、じゃあじゃあ!」
美也はこれが切り札だ、とばかりに、大きく振りかぶった腕を勢いよく振り下ろし、
「――逢ちゃんは、にぃにがお宝本マニアでも平気なの!?」
やけっぱちになって、とんでもないことを口走った。
「………………はい?」
それまでは余裕すら感じさせた七咲の口元が、ピシッと音を立てて引きつる。
あ。
まずい。
これは……まずいぞ……。
「……美也ちゃん、それってどういうことなのか詳しく聞かせてくれる?」
「『ローアングル探偵団リバース』っていうのが、最近のにぃにのお気に入りなんだよ!」
「最近? ……先輩ってまだそういうの持ってるの?」
「うん。昨夜も見てたよ」
「どっ、どうしてそれを!」
「……先輩?」
ハッ!
しまった!
「私、〝そういうの〟はなるべく控えて欲しいって、言、い、ま、し、た、よ、ね?」
「ち、違うんだ! 七咲、僕の話を聞いてくれ!」
「はい。聞きましょう」
うっ……そんなふうに返されるとすごく言い訳しにくい……。七咲……笑顔なのになんて迫力なんだろう……。
「た、たしかに僕は『ローアングル探偵団リバース』を読んでいたけど、べつにいやらしい気持ちだったわけじゃないんだ。おもてなし……そう! 七咲をおもてなしするための準備をし」
「バカなこと言わないでください」
とりつく島もなかった。
いや、僕もまさか言い逃れできるとは思ってなかったけどさ……。
「はあ……」七咲がため息をつく。「一応聞きますけど、先輩はその本を読んで、どんなおもてなしをしてくれるつもりだったんです?」
「それはその……ローアングルから七咲の引き締まった体つきを褒める……とか?」
……うん? 自分で言っておいてなんだけど、これって意外とイケるのでは?
「なに『これは意外とイケる』みたいな顔してるんですか。全然イケてません。ていうか発想が変態すぎます。先輩は相変わらず変態ですね」
もはやお約束になりつつある台詞。
僕は自分のことを変態ではないと思っているけど、これだけ変態呼ばわりされるとさすがに自信が揺らいでくるな……。
「先輩はおかしなことを言ってる自覚がないんですか?」
「い、いや、そんなことないよ」
「ちゃんと反省してます?」
「し、してます……」
美也にお説教されてたはずが、いつの間にか七咲にまで責められるなんて……。
「それにしても……『ローアングル探偵団リバース』でしたっけ?」
うう……自分で読む分にはどうってことないのに、人にタイトルを読み上げられるとかなり恥ずかしいぞ……。
「私と初めて会ったときといい、先輩はよっぽどローアングルが好きなんですね」
「べ、べつにそういうわけじゃ……」
いや、実はかなり好きだけど。
「え? 会ったときってなになに?」
「!」
なんてことだ!
美也が僕と七咲の馴れ初めに興味を示している!
ここで、黒い猫を追いかけていたら覗きと間違えられた――なんて知られたら、兄としての面目丸つぶれだ!
改めて今の状況を省みると、正座している僕は美也をローアングルから見上げているわけで、これこそまさにローアングルにはじまりローアングルで終わる物語じゃないか。
皮肉な話だよな……。
年の瀬も押し迫ったころに、こんな落とし穴が待ち受けているなんて思わなかったよ……。
「ねえねえ~、逢ちゃん教えてよ~」
美也は興味津々といった面持ちで、しゃがみこんで七咲の膝を揺すっている。
針のむしろに座らされている心持ちで縮こまっていると、クールな目つきでこちらを見つめていた七咲が、ふっと表情を緩め、
「内緒」
そう言って、いたずらっぽく微笑んだまま人差し指を唇に当てた仕草は、大人びているようにも、幼いようにも見えた。
「ええ~っ、そんなぁ~」
「そのうち、機会があったら教えてあげる」
「ずるいよぉ~、みゃーにも教えてよぉ~」
「それより美也ちゃん。ずっと正座してたら足がしびれちゃうから、そろそろ崩してもいい?」
「あっ、うん。……ねえねえ、どうしても内緒なの?」
すごいな七咲……ごくごく自然に話をべつの方向に持っていったぞ……。
見れば七咲は、美也の相手をしながらも僕から視線を動かしてはおらず、その顔には「バラしたりしないから安心してください」と書かれていた。
結局僕は、またしても七咲にフォローしてもらったというわけだ。
しかし……。我が妹ながら、美也は乗せられやすすぎじゃないだろうか。
七咲にすがりついて、〝内緒の話〟を聞き出そうとしている美也を眺めながら、そんなことを考える僕だった。
後日談というか、今回のオチ。
これはまったくの偶然なのだけど、僕は美也が七咲を「甘い」と評したことで、とあるエピソードを思い出した。
かつて梅原と図書館で理想の異性のタイプについて話していたときのことだ。たまたまそこに居合わせた七咲に、「先輩の理想はどういうタイプですか」と聞かれたのである。
美也の騒動がひと段落して、さて課題を再開しますかというところで、僕はこのことを七咲に訊ねてみた。
「なあ、七咲」
「なんですか、先輩」
「前に、図書館で僕の理想のタイプについて聞いてきたことがあっただろ? 梅原も一緒にいたんだけど、覚えてないか?」
七咲は、僕の質問に数秒だけ考える仕草を見せて、
「……なんとなくですけど、覚えてます」
「そっか」
「それがどうしたんですか?」
「いや、ほら、あのとき七咲は、『自分は相手を束縛するタイプじゃないから、先輩の好みと合いますね』って言ってたじゃないか」
「言ってませんね」
即答だった。
「えっ、言ってただろ?」
「言ってません」
あれ?
おかしいな。
「それはたぶん先輩の記憶違いじゃないですか? ――ここだけの話ですけど」
七咲は眉を寄せる僕に向かって、平然とした、毅然とした、そんな声で、
「私、けっこう嫉妬深いんです。だからどちらかといえば、束縛するタイプだと思いますよ。……覚えておいてくださいね、先輩」
一点の曇りもない笑顔で、そんなふうに宣言したのだった。
おしまい
「にぃに! 早く早く!」
先をゆく美也が振り返り、白い息を吐き出しながら僕を呼ぶ。コートに手袋、おまけにマフラーを巻いた完全装備というのもあるんだろうけど、僕の妹は寒さなんてものともせず、薄暗闇の中を元気に駆け回っていた。
まだ五時台だというのに、あたりはすっかり暗くなり、アスファルトに街灯の明かりが落ちている。日が落ちてからの寒さは日中より更に厳しい。
ああ……寒いなあ……。
縮こまっている僕を見て、美也と同じだけ着込んでいるとわかる人がどれだけいるだろう。きっと僕と美也には、寒さへの耐性にものすごい差があるのだ。
はあ……どうしてこんな中途半端な時間に出かけなきゃならないんだよ……。
こういう日は、学校から帰ったらずっとこたつに潜っているのが何よりも幸せだっていうのに……。
「も~、にぃにはのんびりしすぎ!」
「そんなに慌てなくても、銭湯は閉まらないだろ」
「こういうのは気持ちの問題なの! せっかくおっきなお風呂に入れるのに嬉しくないの?」
嬉しいかどうかと聞かれれば、答えは限りなくノーに近かった。
滅多にこないという意味で新鮮味はあるかもしれないが、年の瀬も押し迫ったこの時期に風呂釜が壊れるなんて、運が悪いとしか言いようがない。少なくとも、銭湯まで歩く手間を考えれば、嬉しいはずがないのである。
「明日には直るんだし、一日くらい我慢できないのか?」
「みゃーは毎日入りたいの!」
――と、そういうわけで。
僕と美也は、夕食前のこの時間に、銭湯に向かっているのだった。
「おっきなお風呂なんて修学旅行以来だからすっごく楽しみ~」
美也は僕の横に並び、待ちきれないというようにスキップしている。
たかが銭湯に行くだけでこんなにはしゃぐなんて、やっぱりまだまだ子供だよな。
……ま、たまにはこういうのもいいか。
本当に滅多にないことだし、妹を喜ばせるのも兄の務めだ。
「あっ、ちゃんとのれんが出てるよ! よかったね、にぃに」
そうこうしている間に、僕たちは目的地に到着した。
「じゃあ、お金は僕が二人分払っておくから」
「うん。帰りはみゃーのこと待っててね」
「わかってるよ」
「にしし、女湯覗いちゃダメだよ、にぃに」
「そんなことするわけないだろ」
たわいのない会話をしながら、引き戸の取っ手に手をかけようとしたら、横から伸びてきた手袋と触れそうになる。
僕は咄嗟に手を引っ込め、反射的に頭を下げた。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ――って、橘君?」
「えっ?」
名前を呼ばれて顔を上げると、そこには見知った顔があった。
「つっ、塚原先輩?」
「あ~っ、逢ちゃん!」
「美也ちゃん……と先輩も?」
僕と美也がそうであるように、制服姿の塚原先輩とコートを着た七咲が、前後に連なる格好で銭湯に入ろうとしていたのだ。
「すごい偶然だね」
思いも寄らない遭遇に立ち尽くしてしまった僕とは対照的に、塚原先輩は普段と同じ落ち着いた声で言った。
「橘君たちも入りにきたんだよね?」
「はっ、はい。塚原先輩もですか?」
「うん。私たちは部活の帰り。今日は寒いから、ちょっと暖まっていこうかって話になってね」
塚原先輩はそう言って、口元に手の甲を当てて微笑んだ。
「そうなの? 逢ちゃん」
「うん」
「やった~! 逢ちゃんと一緒にお風呂だ!」
「そ、そんなに喜ばなくても……」
「ふふ、よかったじゃない、七咲」
手を取り合って(というか、美也が一方的に七咲の手を取って)飛び跳ねる下級生二人を、塚原先輩は優しげなまなざしで眺めている。
七咲は迷惑――というわけではなそうだが、どう反応すべきか決めかねているような顔をしていた。
そして僕はといえば。
とあるひとつの事実に気づき、愕然としていた。
そう。
たしか、銭湯の男湯と女湯は、壁の下が繋がっていて同じお湯を使っていたはず。
その女湯に塚原先輩と七咲が入るということは――
こ、これは、とんでもないことになってしまったぞ!
一足早くハッピーニューイヤーと叫びたい気分だよ!
銭湯は入り口で男女に分かれますけどお湯は下で繋がっているんですよ
脱衣所で、僕はひとり、佇んでいた。
まだ服は脱いでいない。
正直、それどころではない。
この壁を隔てた向こう側に、あられもない姿の七咲と塚原先輩がいると思うと、なんだか無性にけしからん気持ちになってしまうからである。
落ち着け……橘純一……。
紳士たるもの常に冷静であれ、だ。
でも……。
銭湯にくるのはこれが初めてじゃないけど、同年代の女子と居合わせるのは初めてだから、やっぱりどうしても意識してしまう。
しかも……。
「他のお客さん、いないですね」
「まあ時間も時間だし、時期的なものもあるんじゃないかな」
「おお~、貸し切りだ~」
壁が!
薄い!
入ってきてすぐ、壁の向こうの会話がダダ漏れだということに気づいた。そしてあちらと同じく、こちらも僕の他に客がいないので、耳を澄ませば衣擦れの音まで聞こえてきそうな状態なのだ。
……さすがにそんなことはしないけど。
「逢ちゃんはよくくるの?」
「ううん、あんまり」
ただまあ、自然に聞こえてきてしまう会話はしょうがないよな。うん。しょうがない。
「今日は部活だったんだよね?」
「冬休みは毎日練習があるから」
「――と言っても、こんな時間まで居残り練習しているのは、七咲くらいのものだけどね」
「えっ、そうなんですか?」
「す、すみません。塚原先輩は受験が近いのに」
「ふふ、私は好きで付き合ってるんだから構わないよ。いい気分転換にもなるし」
「練習熱心なんだねえ。逢ちゃんはすごいな~」
まったくの同感だった。
七咲の引き締まった身体は、たゆまぬ努力の結果形作られているというわけだ。そうやってキチンと鍛えているからこそ、窮屈な競泳水着にも負けない張りを身につけて……本当にすごいな。
「それより、美也ちゃんはどうなの? その……先輩も一緒だったみたいだけど、銭湯にはよくくるの?」
「ぜ~んぜん。実はね、うちのお風呂が壊れちゃったんだ」
「へえ、それは災難だったね」
「そうでもないですよ。こうやって、おっきなお風呂に入れるのは嬉しいですし」
……わかっていたことではあるけど、美也は年長者に対してちゃんと敬語を使えるんだよなあ。
兄として、なんて大層なことを言うつもりはないにせよ、妹の礼儀がキチンとしているのはなんだか嬉しい。これは、いつまでも子供だなんていう認識は改めないといけないかもしれないな。
「なのに、お兄ちゃんは一日くらい入らなくてもいいだろ~って言うんですよ。もう信じらんない!」
「そうなんだ。やっぱり男の子は女の子と違うんだね」
「でも、うちの弟もそんな感じかも」
「だって逢ちゃんの弟ってまだ小学生でしょ? お兄ちゃんの場合は高校生なんだから、身だしなみはしっかりしてくれないと困るよ」
なっ!
み、美也のやつ、なにを言うつもりだ!?
「そう? 橘君はちゃんとしてると思うけどな。ねえ、七咲?」
「どうして私に聞くんですか。そういうのは毎日一緒にいる美也ちゃんのほうが詳しいと思いますけど」
「ホントに、にぃにはダメダメなの! みゃーが教えてあげないと、寝癖も直さないで学校に行っちゃうし!」
「ふふっ、じゃあ美也ちゃんも大変なんだね」
「はい! 大変なんです!」
うう……塚原先輩の声に笑いが混ざってるぞ……。
しかも話に熱が籠もってきたせいで、呼び方まで変わっちゃってるよ!
人前であの呼び方はよせって言ってるじゃないか!
はあ……せっかく少し見直しかけたところだったのに。やっぱり美也は、まだまだお子様だな。
「兄妹の仲がよくていいね。私は一人っ子だから羨ましいな」
「ええ~、意外~、絶対に弟さんか妹さんがいると思ってました」
まったくの同感だった。
って、さっきから僕、美也と同じ感想ばかり抱いてないか?
一緒に暮らしていると、思考回路が似てくるんだろうか。
「たしかに塚原先輩は、頼れるお姉さんって感じがしますよ」
「うんうん、するする」
「そんなことないでしょ。それよりほら、せっかく銭湯にきたんだし早く入ろうか」
そう言って塚原先輩は、二人の台詞を軽く受け流してしまった。
うーん……大人の対応だな……。
「お……? おお……? おおぉ~っ」
「ん? どうしたの?」
「よく見ると……塚原先輩って……すっごくスタイルいいんですね!」
よ、よく見るだって!?
美也は一体、塚原先輩のどこをよく見ているというんだ!?
「ふふ、私にお世辞を言っても、なにも出ないよ?」
「お世辞じゃないです! こう、バスタオルを押し上げて主張する、ふたつの見事な膨らみが……」
あ、あいつ、塚原先輩に、なにを言ってるんだ!
「あと、着やせするタイプに男の人はぐっとくるって……」
「美也ちゃん……先輩じゃあるまいし、そんなふうに解説しなくてもいいんじゃない?」
なっ、七咲……?
美也を止めてくれるのはありがたいけど、僕は七咲の中でどういうキャラになってるんだ……?
……ひょっとして、普段の僕ってあんな感じなのか?
う、嘘だよな……?
誰か嘘だと言ってくれ……。
「へえ、はるかからも聞いてたけど、橘君ってそういう子なんだ」
ああっ、塚原先輩が誤った認識を!
というか、森島先輩がなにを言ってたのかすごく気になる!
「はい、お兄ちゃんが特に好きなのはスタイルのいいお姉さんタイプなんですよ、にしし」
にししじゃないだろー!
ズレた受け答えをしながら、どんどん兄を追いつめていくとは、なんて妹だ。
なんか変な汗が出てきたぞ。
これは新手の拷問だろうか。
七咲たちと出くわしたときは、銭湯も悪くないと思いはじめてたけど、意識するとかしないとか考えてる場合じゃない。
脱衣所の時点でこの有り様じゃ、お風呂に入ったらどうなってしまうんだろう。このままでは、僕の沽券に関わる大問題になりかねないぞ。
かといって、向こうは女湯だ。乗り込んでいって、美也をとっちめるわけにもいかない。
くっ……僕はここで手をこまねいていることしかできないのか……。
「――ということは」いくばくかの思案が籠もった声で七咲が言った。「塚原先輩は先輩の好きなタイプってことですよね」
「心配しなくても、それはないんじゃないかな」
「し、心配なんてしてません」
「……まあでも、橘君が年上好きっていうのはなんとなくわかるわね。はるかと一緒にいるときの彼、目がキラキラしてる気がするし」
そ、そんなに露骨なのか、僕は。
塚原先輩からは、そう見えてるのか……。
心当たりがないわけではないのが、なんとも居心地が悪い。
うん……これからはできるだけ気をつけることにしよう……。
「…………」
「…………」
って、なんだ?
いきなり向こうの空気が重くなったような……。
「はぁ~……そうだよねぇ。にぃに……森島先輩にはデッレデレだし……」
「……森島先輩は綺麗だから、変態の先輩がより変態になるのはしかたがないと思うけど……」
「まあまあ。七咲は年下だけど、しっかりしてるから大丈夫。少なくとも、年齢の有利不利っていうのはないと思うよ」
「と、年下とか、有利とか、なんの話をしてるんですか」
「ん? 言ってもいいの?」
「つっ、塚原先輩! からかわないでください!」
おぉ、あの七咲が手玉に取られてる。
さすがは塚原先輩だ。たまに森島先輩をからかっていたりもするし、ああ見えて意外とお茶目なところがあるんだよな。
でも二人はなんの話をしてるんだろう。
抽象的すぎてピンとこないな……。
「う~……よ~し! 逢ちゃん! さっさとお風呂に入っちゃおう!」
「……うん、了解。お先に失礼しますね」
「ふふ、私もすぐに行くよ」
パタパタと軽い音が重なって、ガラガラと引き戸を開ける音がして、あちらの脱衣所は静かになる。
なんだか自分の呼吸の音まで気になってしまって、自然と息を潜めた。どこかに設置されたアナログ時計の針の音が、やけに鼓膜にこびりつく。
僕も早くお風呂に入ろうと思うのに、それこそ衣擦れの音があちらに届いてしまいそうで、身動きが取れない。
やがて、
「ふふふ……妹がいたらこんな感じなのかもね……」
それは聞こえるか聞こえないかという程度の小さな声だったけど、どこか嬉しそうで、少しだけ儚げな響きを伴っていたのが印象的だった。
後日談というか、今回のオチ。
男湯の中に入ってしまえば、さすがに女湯の声がダダ漏れということはなかった。
かすかにはしゃぐ声が聞こえた気がするが、あれはきっと美也と七咲(というか主に美也)に違いない。まさか塚原先輩が騒ぐとは思えないからな。
僕はといえば、思ったとおり男湯と女湯は下で繋がっていて、お湯を共有しているようだったけど、脱衣所のやり取りで毒気を抜かれていたおかげか、けしからん気持ちになったりはしなかった。
ただ、お風呂から上がって美也を待っているのは構わなかったのだが、合流したあとで、どうしてか美也と七咲、そして塚原先輩にまで瓶の牛乳を奢るハメになった。
まあ、三百円程度なら大した痛手ではないのだけど――
「こんな寒いのに、よく冷たいものを飲む気になるよなあ……」
数歩先をゆく美也と七咲の背中を眺めながら呟いた僕に、
「二人ともカルシウムをとりたかったんだよ、きっと」
隣を歩いていた塚原先輩は、そんなよくわからないことを言ってから、
「橘君、ごちそうさま」
目を糸みたいに細めて微笑み、牛乳瓶を掲げてみせたのだった。
おしまい
ここのところ寒い日が続いている。
十一月も終わろうという時期だし、これくらい寒いのが当たり前といえばその通り。
だけど、長らく漂っていた夏と秋の余韻のせいか、僕はスパッと気持ちを切り替えることができないでいた。
それでも、そんな僕の思いとは関係ないところで、季節は容赦なく移り変わっていく。
空には雲ひとつ見当たらず、角度を落とした太陽がさんさんと照りつけているというのに空気は冷たい。今はまだ吐く息が白くなるほどではないけど、この様子ではそれも時間の問題のように思える。
その証拠に、こうして屋上に出てきてみても、あたりに他の生徒の姿は見当たらなかった。
帰る前に、開かずの教室に置いてあるお宝本をチェックして、ついでに屋上に足を伸ばしてみたんだけど……。さすがにこの寒さの中、わざわざ屋上にやってくる物好きはいないよな。
グラウンドからは、運動部の生徒たちの声が聞こえてくる。寒空の下でも変わらぬ熱気は本当にすごいと思う。
って、待てよ。
部活……そうか、部活か。
今は放課後だから、当然、部活に入っている生徒たちは部活動をしている。ようするに、水泳部の七咲も部活をしているってことだ。
そうだな……。
なかなか切り替わらない気持ちをシフトさせるためにも、七咲のやる気を分けてもらうのもいいかもしれない。
よし! プールに行ってみるか!
寒さで身体が凍えそうなら――
せめて心を温めることにするぞ!
七咲・ラブリー・はるか~aiai&lovely~
というわけで、プールの傍までやってきたけど……。
よく考えてみると、水泳部でもないのにプールに入っていくのは難しいな……。かといってこそこそ見学していたら、覗きだと思われるかもしれないし……。
「……ううん?」
ていうか、よく考えなくても、こんなところに一人でいたら、覗きと間違えられても文句は言えないじゃないか。
なんてことだ。どうやら寒さで頭の働きが鈍っていたらしい。気づくのがもう少し遅れていたら、また七咲に変態呼ばわりされるところだったよ。
「ふう、危ないところだった」
「なにが危ないの?」
「!?」
突然背後から声をかけられて、僕は全身の筋がピンと伸びきったような状態になった。本当に驚いたとき、人は悲鳴をあげることすらできないらしい。十七年生きてきて初めて知った。
「ど、どうしたの、橘君? いきなり猫ちゃんみたいに身体をびくんとさせて」
「……も、森島……先輩……?」
油の切れたロボットみたいに、ぎこちなく振り返ると、そこには見知った女子の姿があった。
学校中の男子生徒の憧れ、森島はるか先輩、その人である。
「あっ、後ろから声なんてかけて、びっくりさせちゃったのかな? ごめんね」
森島先輩は、引きつった表情を浮かべているであろう僕を見て、申し訳なさそうに制服の黒いリボンの前で両手を合わせる。
「い、いえ……大丈夫です」
「ホントに?」
「はい」
たしかに、思わぬ人に、思わぬタイミングで声をかけられて驚いたけど、森島先輩の顔を見たことで、引きつっていた頬の筋肉が緩んできた気がする。我ながら現金だな。
「う~ん、私、犬や猫を驚かせて逃げられちゃうことが多いのよね~」
眉根を下げて森島先輩が言う。
その状況は、なんとなく想像できた。だけど動物に逃げられるのは、言葉の通り驚かせてしまうだけなのだろう。
森島先輩は、動物に嫌われるのではなく好かれるタイプだ。それは僕が身をもって示しているのだから間違いない。
……まったく、せっかく森島先輩が声をかけてくれたのに逃げ出すなんて、犬猫たちも勿体ないことをするもんだよ。
「それで、なにが危ないの?」
「えっ」
「橘君、言ってたでしょ? 危ないところだったーって」
「……あ」
ひょっとして、さっきの呟きを聞かれていたのか?
まずいな……まさか本当のことを言うわけにもいかないし……なんとかごまかさないと……。
そ、そうだ!
ちょうど動物の話題が出たことだし、それに乗っかることにしよう!
「じ、実はですね。さっきそこで猫を見かけたんですけど、木の上から落ちそうになってたんですよ」
「えっ、そうなの?」
「ええ」
「その猫ちゃんは大丈夫だったの?」
「はい。ちゃんと着地してました。だから危ないところだった……って言ったんですよ」
「そうだったんだ。なるほど~」
よし、森島先輩は信じてくれたみたいだ。
僕の口からデマカセにも関わらず、森島先輩は何度も頷いている。こういう無邪気なところも人気の理由なんだろうな。
「ね、橘君」
「なんですか?」
「その猫ちゃん、どんな猫ちゃんだった?」
「えっ」思わずまじまじと森島先輩の顔を見つめてしまう。まつげが長くてどきっとした。「ど、どんな猫と言いますと?」
「品種……はわからなくても、ホラ、色とか大きさとか。うちの学校の敷地って、けっこう猫ちゃんが大勢いるでしょ?」
「いる……んですか?」
「うん。私、たまにエサをあげたりしてるから、ひょっとしたら知ってる子かもしれないの」
怪我してたら大変だから確かめてあげなきゃ、と続けた森島先輩の声は真剣そのものだった。
……これは。
もしかして、とんでもなくまずい状況なのでは?
「ねね! 橘君、教えてくれないの?」
森島先輩が、ずいっと身を寄せてくる。
「え、ええと……」
「橘君?」
うわ。
シャンプーらしき香りが、鼻先をくすぐる。
近い。
森島先輩が。
僕に。
「んー? 聞こえてる?」
「は、はい……聞こえてます……」
辛うじて返事をしたものの、頭の中は真っ白だ。なにか冴えたごまかし方を考えなければならないのに、良いアイディアなんて浮かぶわけがない。
何よりも、こんな間近で森島先輩に見つめられて、嘘をつき通せる自信が僕にはまったくなかった。
ああ……やっぱりこれはプールを覗こうとしたのに加えて嘘までついた僕に、天罰が降ったということだろうか。でも森島先輩にお仕置きをされるなら、それも悪くないかもしれないな……。観念するか……。
「じ、実は……その――」
「――その猫って、あまり人に懐かなそうな黒猫じゃなかった?」
僕の言葉は、途中で凜とした声に遮られる。
「あれ、響ちゃん?」
プールの入り口の方に顔を向ける。
森島先輩の言葉どおり、声の主は塚原先輩だった。数十センチという距離にまで近づいていた森島先輩が、僕から数歩分の距離を取る。
助かったような……残念なような……。
少しだけ名残惜しいな……。
「どしたの? こんなところで」
「どうしたのでも、こんなところでもないわよ。はるかがなかなかこないから様子を見にきたの。また気まぐれですっぽかしたんじゃないかと思って」
「え~、なによそれ~。ここにくる途中で先生に捕まっちゃったんだからしょうがないでしょ。それに私、約束をすっぽかしたことなんてないもん。……うっかり忘れちゃうことはあるけど」
「世間ではそれをすっぽかすって言うのよ」
「もう……響ちゃんのいじわる」
森島先輩が頬を膨らませる。やっぱり塚原先輩のほうが一枚上手みたいだな。
それにしても、絶妙のタイミングで塚原先輩が現れてくれたおかげで、森島先輩の意識は完全にそちらに移ってくれたみたいだ。
ふう……助かった……。
まさに地獄に仏だったな……。
「ふふっ、橘君、こんにちは」
森島先輩とのやり取りを切り上げた塚原先輩がこちらを向く。
「こ、こんにちは」
塚原先輩も森島先輩に負けず劣らずの美人だけどタイプはまったく違う。こうして向き合うと圧倒されるというか、気圧されるというか、わけもなく緊張してしまうのだ。
しかし今日の塚原先輩は、いつもと少し雰囲気が異なっていた。物腰が柔らかいというか、物言いたげな視線をこちらに向けながら、笑い出したいのを堪えているようにも見える。
「ねえ、橘君」
「な、なんですか?」
塚原先輩は、ふっと表情を緩めると、僕の耳元に顔を寄せて、
「さっきからずっと、あそこで黒猫が見張ってるから、気をつけてね」
「――え?」
ちょいちょい、と塚原先輩が指で示した方向――プールの入り口を見やると、これまた見知った女子が建物から半身を覗かせながら、こちらの様子を窺っている。
「あ」
七咲だった。
少し離れているので、さすがに声は聞き取れないけど、七咲の口は僕と鏡合わせみたいに「あ」という形に開かれている。
七咲は、僕が見ているのに気づいたようで、露骨に「しまったな」という表情を浮かべてから、プールの中に戻るか表に出るか迷っているような仕草を見せ、やがて、
「ぷっ」
その様子を横目を眺めていた塚原先輩が吹き出したのを合図に、いかにも不機嫌そうな顔をして、こちらに近づいてきた。
「わお! 逢ちゃん!」
「こんにちは、森島先輩」
七咲は、全身から歓迎オーラを出す森島先輩に向き合い、微笑を浮かべながら会釈をする。
「や、やあ、七咲」
「…………………………こんにちは、先輩」
明らかに〝わざと〟としか思えない間があった。
しかも七咲はじとっとした目つきで、僕のことを見つめて――というより睨んでいる。森島先輩に対しての態度とは対照的だ。
「な、なに?」
「……なんでもないです」
こ、これは一体どういうことだ? まさか僕が水着姿を見にきたことを察知して腹を立てているんだろうか。
そんなバカな!
そんなことができるとしたら、まるでエスパーじゃないか!
「ふふ……」塚原先輩は楽しげに笑みをこぼし、僕と七咲の顔を見比べる。「そんなに気になるなら、もっと早く出てくればよかったのに」
「つ、塚原先輩!」
もっと早く?
なんのことだ?
ワケもわからず首を捻っていると、七咲は珍しく慌てた様子で、
「わ、私はべつに先輩と森島先輩が楽しそうに話をしていたから出て行きにくいなんて思ってないですし、何を話していたのかなんて気になってないですから」
「えっ」「えっ」
僕は思わず森島先輩と顔を見合わせ、それから同時に七咲を見つめる。
「あっ、い、いえ……その……」
三人分の視線の圧力を受けることになった七咲は、酷く動揺しているようだ。その証拠に頬がほんのりと赤く染まっている。
「と、とにかく!」七咲は仕切り直しとばかりに咳払いをする。「いつまでもこんなところにいたら風邪ひいちゃいます! 早くプールに戻りましょう!」
「――っ!」
七咲の言葉を聞いた瞬間、全身に電流が走った。
なんてことだ……僕としたことが、こんな大切なことを見落としてたなんて……。
そう。
たしかに七咲の言ってることは正しい。
このままでは、僕と森島先輩はともかく、七咲と塚原先輩は風邪をひいてしまうに違いない。
その理由は、僕たちの格好にある。
僕と森島先輩は普通に制服を着ている。
一方、七咲と塚原先輩の二人は――
水着の上に、コートを羽織っただけの格好だったのだ!
そのうえ、七咲と塚原先輩は、少しでも寒さを和らげるためなのか、コートの前をしっかり閉じていた。
つまり、もしも二人が水泳部だということを知らない人間が見たら、コートの下には何も着ていないのかも……などというけしからん勘違いをしかねない格好なのである。僕でさえ、前もって知っていなかったら、きっと勘違いしていただろう。
……というか、これは本当にすごい格好だな……。厚手のコートの裾から、すらっとした綺麗な足が伸びて……。
あるいは水着姿よりも興奮するかもしれないぞ……。僕はとんでもない発見をしてしまったのかもしれない……。
「……先輩、どこ見てるんですか」
「!」
しまった!
ついついコートの裾から見える生足をじっくり見物してしまった!
咄嗟に顔を上げると、七咲はジト目、塚原先輩は苦笑いで、僕のことを見つめている。見物しているつもりが、どうやら見物されていたのは僕の方らしい。
「先輩はやっぱり変態ですね」
容赦ない七咲。
「そういうのはほどほどにね、橘君」
大人の余裕を見せる塚原先輩。
どちらにせよ、耳に痛い言葉なのは変わらなかった。うう……視線が痛いよ……。
「……むむむ~」
「どうしたの、はるか。難しい顔して」
ハッとして視線をスライドさせると、塚原先輩の言葉どおり、森島先輩が眉間にしわを寄せて、僕のことを睨んでいる。
ま、まずい……あの温厚な森島先輩がこんなに怒るなんて初めてだ。ど、どうしよう。
「……森島先輩も、先輩の変態っぷりに呆れてるんじゃないですか? さっさと謝った方がいいですよ」
そんなの言われるまでもない。
一秒でも早く謝ろうと思い、頭を下げようとしたそのとき、
「ちょっと、橘君!」
「は、はい!」
森島先輩の剣幕に押されて、僕は背筋をピンと伸ばす。すると森島先輩は、形の良い眉毛をつり上げながら、自らの制服のスカートの裾をつまみあげ、
……って、スカートの裾をつまみあげ!?
「い、言っておくけど、私だって中に水着を着てるんだからね!」
「なっ、」
絶句する水泳部の二人を尻目に、かすかに見える程度ではあったが、たしかに森島先輩は〝それ〟が確認できるように、スカートの中身を僕に示してみせた。
な、なんだこれは……。
僕は夢でも見ているのか……。
「き、聞いてるの? 橘君」
「は、はい……見えてます……」
もはや自分が何を言っているのかすらよくわからなかった。
「そ、そっか……見えてるんだ……それならよかった……」
そして森島先輩も自分が何を言っているのかわからないようだった。
「こら、はるか!」
一足先に我に返った塚原先輩が、森島先輩のスカートの裾を慌てて直す。
「な、なによ」
「それはこっちの台詞。……ごめん橘君。そういうわけだから、はるかは連れていくね」
条件反射のように頷く僕。何が「そういうわけ」なのかサッパリだけど、今は頷いておかないといけない気がする。
一瞬だけ森島先輩と目が合った。が、頬を真っ赤に染めた森島先輩はすぐに顔ごと目をそらしてしまう。
「またね」
別れの挨拶をしてくれたのは、少しだけ困ったような笑顔を浮かべた塚原先輩一人。
塚原先輩と、塚原先輩に手を引かれた森島先輩は、あっという間にプールの中に姿を消した。
呆然とその場に佇む、僕と、七咲を置き去りにして。
参ったな……。
これは少し……いや……かなり気まずいぞ……。
それにしても……。
森島先輩はどうしてあんなことをしたんだろう……。
いくら下に水着を着ているからって、あんなふうに自分でスカートを……。
……森島先輩の足、綺麗だったな……。
その綺麗な足の付け根まで見てしまったなんて……。
今日は……良い日だ……。
「……頬が緩んでますよ、先輩」
「えっ」
気づけば、正面に七咲が仁王立ちしていた。身長は僕より低いのに、なんだか妙な迫力がある。
「知りませんでした。先輩って、森島先輩と話すときには、あんな顔になるんですね」
「あ、あんな顔?」
「すっごくデレデレしてました。まるで溶けたアイスクリームみたい」
「うっ……」
以前、似たようなことを美也に言われた記憶が蘇る。無意識のうちに、僕はそんなにデレデレしてしまっているのか。森島先輩は綺麗だからなあ……。
「…………」
「な、七咲?」
七咲は、無言で近づいてきたかと思うと、
「い、一体なにを……うわっ!」
前触れもなく、両手で僕のほっぺたをつねりあげる。正面から背伸びをして、僕の両頬を力一杯引っ張っているのだ。
「いふぁい! いふぁいって! ひっふぁらないでっ!」
「引っ張ってるわけじゃありません! 緩んだところを引き締め直してるだけです!」
無茶苦茶だ!
しかしながら、七咲は手酷く痛めつけるつもりはなかったようで、すぐに両手を放してくれた。
とはいえ、表情が硬いままなのは変わらない。だけど怒っているというより、拗ねているような、そんな複雑な表情を浮かべている。
七咲は、小さなため息をついて一言。
「あんまりエッチな目で見ると、女子は敏感だからすぐ気づかれちゃいますよ。先輩だって嫌われたくはないはずです」
「そ、そうだよな……ごめん……」
本当に七咲の言うとおりだ。普通なら七咲だって怒るだけだろうに、こうして忠告してくれているんだから、真摯に受け止めないと。
「……まあ、私はそれくらいで嫌ったりはしませんけど」
「えっ、そうなのか?」
「か、勘違いしないでくださいね。私は先輩の変態に多少慣れているというだけです」
「そ、そうか……」
「だから、今後は他の女の人をエッチな目で見るのは禁止です」
「わかった。できるだけ気をつけるよ」
……ん? っていうか、この言い方だと七咲のことはそういう目で見ても構わないってことにならないか?
ま、まさかな……。でも、一応聞いてみようかな……。
「な、なあ、七咲。それって――」
「それじゃあ私は部活に戻ります」
「あ……」
七咲は、まるで何を聞こうとしたのかわかっているようなタイミングで、僕から距離を取った。
「寄り道しちゃダメですよ。あと、帰ったらちゃんと手洗いとうがいをしてくださいね。風邪が流行ってるみたいですから」
「う、うん……」
「先輩、さようなら」
「……うん。じゃあな、七咲」
颯爽と踵を返し、一度も振り返ることなく、七咲はプールに入っていった。
……なんだか。
七咲はずっと不機嫌そうだったけど、最後は笑顔を見れてよかったな。
水着コートという発見のおかげで、心の保養をするという目的も果たせたことだし……。
よし、それじゃあ寄り道せずに家に帰って、手洗いとうがいをすることにしようかな。
可愛い後輩の言うことだ。
できるだけ聞いておかなければ。
後日談というか、今回のオチ。
翌日、七咲の忠告のおかげかどうかはわからないけど、僕は風邪をひいたりすることもなく普通に登校した。
珍しく美也と家を出る時間が重なり、兄妹で肩を並べて歩いていると、これまた珍しいことに森島先輩と鉢合わせた。
森島先輩は少し慌てた様子で、僕と美也に朝の定型の挨拶をしてから「き、今日は下に水着は着てないからね」と言い残して先に行ってしまった。
その後、珍しいことは重なるもので、校門の傍でジョギングをしている七咲とも鉢合わせた。
七咲は普段と変わらないクールな表情で僕と美也に朝の定型の挨拶をしてから「先輩、私、今日は下、水着じゃないですから」と言い残して走っていってしまった。
「……ねえ、にぃに」
「……なんだよ」
「どうして森島先輩も、逢ちゃんも、にぃにに水着の話をしてたの?」
「……今、流行ってるんじゃないか?」
そう答えた僕に向けられる疑惑のまなざしが弱くなることは、もちろんなかったのである。
おしまい