冬の気配が色濃く感じられるようになった、とある秋の日。
セシリアが学園を休んだ。
ここのところ寒暖の差が激しいので体調を崩したのではないかと心配したが、朝のホームルームで出欠を確認したときの千冬姉の話によれば、風邪をひいたりしたのではなく「家庭の事情」ということらしい。
それならひとまず安心だ、とそのときの俺は思っていた。高校生にもなって皆勤賞を狙おうなんてやつは滅多にいないだろうし、セシリアは優秀だから一日や二日学園を休んだところで大した問題はないだろう。
というわけで、俺は普段どおりに授業を受け、普段どおりに箒たちとISの訓練をして、普段どおりに寮の自室に戻ってきて、さあこれから夕食の時間までなにをしようか、などと考えていたのだけれど。
俺が机の上にカバンを放り投げたのと、携帯電話が鳴りはじめたのは、ほぼ同時だった。
「はいはい~っと」
着信音に返事するのは我ながらオッサンくさいと思いつつ、充電スタンドに置く前だった携帯を手に取る。
ディスプレイに表示されたのは、「セシリア・オルコット」の文字。
どうやら学園が終わったころを見計らって電話をかけてきたようだ。
通話ボタンを押し、
「おう、セシリ――」
「――織斑様! どうか、どうか、お嬢様をお救いくださいっ!」
「おわっ!?」
思わず携帯から耳を離す。鼓膜が破れるというほどではないが、気構えしていなければ驚くくらいの音量だったからだ。
改めて携帯の通話口に集中すると、向こう側からは激しい息づかいが聞こえてくる。かなりの剣幕でまくし立てたからか、乱れた呼吸を落ち着かせている気配が伝わってきた。
なんだなんだ? 一体どうしたっていうんだ?
「あ、あの……ひょっとしてチェルシーさんですか……?」
恐る恐る話しかける俺。
切羽詰まった声はセシリアのものではなかったし、セシリアのことを「お嬢様」と呼ぶ心当たりはひとりしかいない。
「……っ」息を呑んだ気配。「もっ、申しわけありません! 私としたことが取り乱してしまい、名乗りもせずに不躾なことを!」
「ああ、いえ、それは全然気にしないでください」
よかった。どうやら予想は当たっていたらしい。
「本当に申しわけありませんでした」
先ほどの剣幕はどこへやら。チェルシーさんは消沈し、放っておいたらこのまま何十分でも謝り続けそうな様子だ。俺にはメイドさんに平謝りさせて悦に入る嗜好はないので、そういうのはごめんこうむりたい。なにより、今は気になることがあった。
「――ところでチェルシーさん。セシリアになにかあったんですか?」
これまで何度か会ったチェルシーさんは、いつも落ち着いている大人の女性という印象だった。そのチェルシーさんがあれだけ慌てていたのだから、ただごとではないのは容易に想像できる。
しかし、だからといってこちらまで焦って問い詰めたりしてはならない。まずは落ち着いて話を聞かなければ、状況を把握することすらできないからだ。
チェルシーさんに落ち着いてもらうため、なにより逸る自分の気持ちを抑えるため、俺は敢えてゆっくりと、かみ砕くような口調で本題に切り込んだ。
「はい……実は……」
こちらの思惑を察してくれたのか、チェルシーさんは深呼吸してから説明しはじめる。
そしてチェルシーさんの口から俺が聞かされたのは、衝撃、と呼ぶほかない事実だった。
「はあ!? セシリアが結婚!?」
「はい……正確にはお見合いですが、そこに至る経緯を考えても、そのままご結婚なさるのは間違いないと思います……」
漫画的に表現したら、きっと俺の両目は飛び出していたに違いない。
同級生が結婚? ハハハ、なんの冗談だ。まだ高校生だぞ、俺たち。
「ま、またまた~、あれですよね? チェルシーさんお得意のイングリッシュ・ジョークとかそれ系の……」
「…………」
チェルシーさん、超無言。
俺、超気まずい。
マジかよ。マジなのかよ。
「な、なんかすみません……俺、信じられなくて……」
「いえ、こちらとしましても寝耳に水の話ですから無理もないと思います。出すぎた真似とは思ったのですが、この一大事にいてもたってもいられず、こうして織斑様にお電話させて頂きました」
「なるほど、そうだったんですか……わざわざ報告してもらってすみません。ありがとうございます」
律儀な人だな、チェルシーさんは。
しかし、セシリアが結婚か……。相手は一体誰なんだろうな……。
「……あの、織斑様」
「はい、なんですか?」
「……それだけですか?」
「え? なにがですか?」
「いえ、セシリアお嬢様がご結婚なさるかもしれないのですよ?」
「は、はあ……たしかに驚きましたね……」
「……ほ・ん・と・う・に、それだけですか?」
なんだろう。
この電話の向こうから感じる、鈴あたりがよく放つ殺気に似た空気は。
軽やかな声にドスが混ざりはじめているような気もすごくする。
「え、えっと……よくわからないんですけど、チェルシーさんなにか怒ってます?」
「可哀想なお嬢様……現時点では完全に脈なしですね……」
「え? チェルシーさん? なにか言いました?」
「いいえ、なにも」
なんだろう。
この「笑顔なんだけどめちゃくちゃ怖い」を体現したような口調は。
「――よろしいですか、織斑様」
「は、はい」
急に声に芯が通ったので、自然と居住まいを正す格好になる。相手が見ているわけでもないのに、無意識のうちにそうしてしまうプレッシャーを感じたのだ。
「私がお電話いたしましたのは、織斑様にお嬢様を救って頂きたいからです」
「救う……ですか?」
そういえば、最初に電話に出たときもそんなことを言っていた気がする。
「ここだけの話ではありますが、お嬢様は意に沿わぬご結婚をされることになります」
「え――」一瞬で頭が冷えた。「――それは、どういうことですか?」
「もう随分と長いこと、お嬢様はおひとりで当家を支えておられます。これまではご自身の才覚と、たゆまぬ努力によって滞りなく職務に励んでおられましたが、それもいつか限界を迎えます。そのためお嬢様は、有力な家との繋がりを強めるために、自らの身を捧げようとしているのです。本日、お嬢様が学園を休んだのはご存じですね?」
「……ええ」
「学園には家庭の事情とお話ししておりましたが、実はお見合いの段取りを進めるためだったのです。オルコット家を維持し、大きくするためには、もはやこれしかないと……」
そこでチェルシーさんは堪えきれなくなったのか、声を詰まらせる。
「……お嬢様おひとりであれば、すべてを捨て、ひとりの女として生きることは容易いでしょう。お嬢様はISの代表候補生も務められる才能の持ち主でいらっしゃいます。ですがお嬢様はオルコット家に仕える者……私たちのために……犠牲になるおつもりで……」
「わかりました」
それ以上言わせるのが忍びなくて、俺はチェルシーさんの言葉を奪う。
「織斑様……」
すでに心は決まっていた。自分でも驚く。ほんの少し前まで他人事のように聞いていた話だったのに、「意に沿わない」あたりでスイッチみたいなものが入ってしまった。
自分になにができるかわからないし、正直あまりに前時代的すぎてついていけない部分もある。しかし、セシリアが全幅の信頼を置くチェルシーさんが、こうも必死になっているのだから、俺も真剣に受け止めるべきだとも思う。
「セシリアは大切なクラスメイトで、友達ですから。チェルシーさんがセシリアのためだと言うなら、どんなことにも協力しますよ」
「ありがとうございます! 織斑様、本当にありがとうございます!」
感極まったのか、チェルシーさんの台詞には湿っぽいものが混ざっていたが、ここは気づかないふりをするのが紳士ってやつだろう。べつに英国紳士を気取るわけではないが、どんなことにも対応できる心構えをするための景気づけみたいなものだ。
「それで、まず俺はなにをすればいいんですか?」
「私が織斑様にやって頂きたいこと、それは――」
妙にもったいつけたような間を置いて、チェルシーさんは高々と宣言する。
「――お嬢様の恋人としてお見合いに乗り込んでぶち壊しちゃってください♪」
「はい! ……………………………………………………はい?」
「それでは織斑様、少々お待ちくださいませ。私、間もなくそちらに到着いたしますので」
「はい?」
「お時間が押しておりますので最初からテンション高めでお願いいたします。では後ほど」
「はい?」
電話が切れた。
ワケがわからなかった。
とりあえず理解が追いついたのは、今日という一日はまだまだ終わりそうにないってことだけである。
これが本当の秋の夜長だな。……なんつって。
<オルコットさんの家庭の事情>
「ご無沙汰しております、織斑様」
電話から十分も経たないうちにノックの音がして、まさかと思ったらドアの向こうにはすでにチェルシーさんが立っていた。
「お久しぶりです。……本当に早かったですね」
間もなくここにやってくるというのは、冗談か俺の聞き違いだと思ったんだが、そのどちらでもなかったようだ。
「はい、学園の傍から通話しておりましたので」
「てっきりイギリスから電話をかけているんだと思ってましたよ」
セシリアが長期休暇のとき地元で忙しくしているというのは、前に聞いたことがある。今回の件も実家絡みということで、場合によっては色々と支度が必要になると思っていた。それだけに、いささか拍子抜けの感は否めない。
挨拶もそこそこに、俺はチェルシーさんを部屋の中に招き入れて椅子を勧める。
「ありがとうございます」
チェルシーさんは俺が対面の椅子に座ったのを確認してから、丁寧にお辞儀をし、淀みのない仕草で椅子に腰掛けた。ヘッドドレスまで装着したメイド服の女性がいると、なんだか部屋のグレードが上がったような気がするのだから不思議なものだ。
こちらと向き合ったチェルシーさんの表情は穏やかだったが、どこか陰りが差しているようにも見える。
「お嬢様とのお見合いは先方が非常に乗り気で、あちらが日本まで出向いてくださることになっておりました。私も付き添いのため、昨日から日本に滞在しております」
「そうだったんですか」
「ちなみにお見合いは、駅前のホテルにあるレストランで、今夜これから行われることになっています」
「本当に急なんですね」怖じ気づいたわけではないが、正直この急展開には驚きを隠せない。
「はい。私としましては、もうしばらく織斑様とお話したいのですけれど、事態は一刻を争いますので本題に入らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「わかりました。もしだったら、お茶でも淹れようと思ったんですけど」
「まあ。それはむしろ私の仕事ですわ」
本心からの台詞だったにも関わらず、軽口だと思われたのか、チェルシーさんはパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
やはりこの人はすごく綺麗だ。身に纏っている雰囲気が華やかなのに控え目で、こういうのが大人の余裕というやつなんだろうか。俺たちと何歳も違わないはずなんだけどなあ。
「まずはこちらに着替えて頂けますか?」
そう言うと、チェルシーさんは傍らに抱えていた銀色のケースを自分と俺の間に置いた。
ケース自体には、なんら変わったところは見当たらない。実はさっきから気になっていた一品で、女の細腕では辛そうな大きさなのにチェルシーさんが軽々と運んでいるものだから、代わりに持つと言い出しそびれてしまったのだ。
慣れた手つきでケースを開け、チェルシーさんが中から取りだしたのは、
「スーツ、ですか」
「はい、スーツです」
「白いですね」
「はい、白いです」
英語の教科書を直訳したようなトークになってしまった。
チェルシーさんが俺に着替えを要求したのは、白のスーツ。色は普段着ているIS学園の制服と変わらないのに、スーツというだけでちょっと印象が変わるのはなぜだろう。言葉を選ばずに言うとそのスジっぽい。果たして俺に着こなせるんだろうか。
とはいえ、セシリアの置かれた状況を考えたら、あれこれ不満を漏らしている時間はない。
「ええと、これを着ればいいんですね?」
「ええ。よろしければお手伝いいたしましょうか」
「ああ、いや、だいじょうぶです」
「そうですか……」
いや、どうしてそんな残念そうなんですか。
「じゃあ少し失礼して、洗面所で着てきますんで」
幸か不幸か、最初に受けた雑誌の取材以来、写真撮影されることが増えたので、この手の服を着るのもだいぶ慣れてしまった。まあ、何事もやってみて損になる経験はないと思うし、これはきっと幸いなことに違いない。
そんなわけで、スーツを受け取って洗面所に引っ込み、手早く着替えてみたのだが、
「……似合わねー……」
白一色というのは逆に派手になってしまうようで、撮影のときとは比べものにならないくらい「衣装に着られている」感が凄まじい。うーむ、まさかこんな形で、自分がまだまだガキんちょだと思い知らされることになるとは。もっとも、成長したからといってこんな服が似合うようになったらそれはそれで嫌なんだが。
一緒に渡されたシャツが濃紺だったのが唯一の救いだな。これが例えばギラギラの赤だったりしたら、完全に勘違いした若頭とかそういう風情である。
しかしまあ、いつまでもグダグダしているわけにもいかないので、覚悟を決めて洗面所から出る。チェルシーさんに笑われたりしたらショックだなあ……俺。
「あの……すみません、お待たせしました」
「いかがでしたでしょうか? サイズはぴったりのはずなのですけ……ど……」
あー、やっぱり。チェルシーさんも反応に困ってるよ。
スーツ姿の俺を見てチェルシーさんは何度か目を瞬かせ、もう一度頭の先からつま先までをまじまじと見つめ、
「いやあ、せっかく用意してもらったのに申しわけ、」
「――とてもよくお似合いです!」
「ええっ!?」
「雑誌などで織斑様のお写真を拝見したときから、これは似合うと思っていましたけど、実際に着て頂くと素晴らしいの一言です!」
雑誌のグラビア、チェルシーさんも見てくれてたのか……知ってる人に見られていると思うと少し照れくさいな……じゃなくて。
「それマジで言ってます?」
「マジです」
力強く頷いたチェルシーさんの瞳は、怪しい光を携えて爛々と光っている。
たしかに嘘はついていないようだが、ぶっちゃけ少しだけ怖い。
「で、でもほら、なんか無理してる感ありません? 自分だとあんまりしっくりこないっていうか」
「ああ、なるほど」わかってくれたのか、と思ったのも束の間。「――そこが母性本能をくすぐるポイントなのですね」
「なんですかそのポイント!?」
「それは男性の方にはやや伝わり辛いと思われます」
ずっるー。こんなふうに言われたら、男の俺には反論のしようがない。
「これで衣装は問題ありませんので、次は詳細な打ち合わせに移りましょう」
「は、はあ……」
完全にペースを握られっぱなしである。
このへんの隙のなさも、年上ゆえということなんだろうか。
いや、年齢とか関係なく、チェルシーさんには勝てる気がまったくしないけど。
案外、セシリアもチェルシーさんに対してはこういう感じで、いつも敵わないと思わされているのかもしれない。うん、実にありそうだ。
「お見合いの場には私がお連れいたします」
「はい。よろしくお願いします」
「その後タイミングを見計らい私が合図いたしますので、そうしたら織斑様はお嬢様のテーブルに駆けつけて力強くこうおっしゃってください」
チェルシーさんは、そこでひと呼吸を置いて、
「『セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています』と」
空気が凍りついた。
正確には俺の思考が停止した。
いやいやいや、それはさすがにおかしいだろう。
……おかしいよな?
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか、チェルシーさん」
「はい? どうかいたしましたか?」
「たぶん俺の聞き間違いだと思うんですけど」渇いた喉を湿らすために唾を飲み込む。「それだと俺、セシリアに愛の告白しちゃってませんか?」
「しちゃってますね」
ですよねー。
しかもお見合いの真っ最中に、である。いつの時代のドラマだよ、と思わず突っ込みたくなるのは俺だけではあるまい。
「えーとですね、さすがにそれは……」
「織斑様、私は最初に申し上げたはずです。お嬢様の恋人としてお見合いに乗り込んでぶち壊しちゃってください、と」
「……あ」
ハッとする。
そうだ。一番最初の電話のとき、たしかにチェルシーさんがそんなふうに言っていた記憶がある。
しかも俺、勢いに任せてすごくいい返事をした気がする。
間違いなく、した。
つまり――
「……拒否権はないってことですよね」
「いえ、決してそのようなことはありません。私としてはお見合いを台無しにするため、もっとも効果的な手段を選択したつもりですが、織斑様の意思に反してまで実行しようとは思っておりません。もし織斑様がどうしても、絶対に、例え方便であってもセシリアお嬢様に愛の告白をしたくない、お嬢様のことなんて友人とすら思っていないとおっしゃるのであれば、泣く泣く断念する所存です」
胸のあたりをザクザク刺されている心持ちなのは、おそらく俺の良心が痛めつけられているからに違いない。
いくら俺でも、チェルシーさんが敢えてそういう言い方をしているのはわかる。が、それはきっとチェルシーさんがそれだけ必死だという証明で、それだけセシリアのことを思いやっているということでもあるから、責めようとは思わない。
正直な話、嘘をついて誰かを騙すのは気持ちのいいことではない。しかし、俺の良心と友人の危機を天秤にかけたら、どちらに傾くかなんてのは火を見るよりも明らかだ。
チェルシーさんは真剣な目つきで俺を見つめている。俺のほうがかなり背が高いので、こちらから見下ろすような格好になっているのに、怯んだ様子などはまったく見受けられない。
そんなチェルシーさんの気丈な姿を見て、俺の心は固まった。
「わかりました。やります」
自らの決意を示す意味も込め、ひと息で答える。
すると、チェルシーさんは控え目に咲く花のような笑顔を浮かべ、
「ありがとうございます。そう言ってくださると信じていました」
それから急に笑みを深くして、
「では予行練習をいたしましょう。はい、どうぞ、織斑様」
「れ、練習なんて必要ないですよ」
「いいえ、織斑様。皆、初めはそう言うのです。運動会しかり、卒業式しかり、練習など必要ないと。ですが、もしもぶっつけ本番で失敗してしまったら、一生忘れ得ない思い出が失敗した口惜しさで塗りつぶされることになるでしょう。そうならないために、予行練習は欠かすことができないのです」
一気にまくしたてられると、なんだかそんな気分になってくる。
言われてみれば、一度言うのも二度言うのも変わりないし、だったら練習しておいたほうがいいかもしれない。肝心なところで台詞を噛んだりしたら目も当てられないしな。
「さあ、織斑様。『俺は織斑一夏と申します。俺はセシリアを愛しています』と、できるだけ力強くどうぞ」
「わ、わかりました」
俺はもう一度、喉を湿らすために唾を飲み込んだ。
口に出す前に、頭の中でシミュレートしてみる。
セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています。
セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています。
セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています。
よし。
いける。
迫力のある大きな声を出すコツは、腹に力を入れることだ。
丹田に意識を集中し、大きく息を吸い込み、溜め込んだ力を一気に放出する!
「一夏、よかったら私と夕食に」「ねえ一夏、一緒に晩ごはん食べに」
「――セシリアとお付き合いしている織斑一夏です! 俺はセシリアを愛しています!」
室内に俺の声が鳴り響く。
さすがに嘘の告白とはいえ、顔が熱くなっているのがわかった。
そして、俺が台詞を口にするのとほぼ同時に、部屋のドアが開いたのもわかった。
言ってやった、と仄かな達成感に浸る暇もなく。
俺の両目は、ドアを開け放ったまま放心するふたりの幼なじみの姿を捉えていた。
*****
「やっぱりこうなるのかよ!」
箒と鈴の繰り出した初撃を奇跡的にかわした俺は、チェルシーさんを両手で抱えて部屋から廊下に飛び出した。どちらか片方にドアを塞がれていたらそこで詰んでいたので、運がよかったといえばその通りかもしれない。
「待たんか! 一夏! そこに直れ!」
「待ちなさいよ! 一夏! どういうことか説明しなさいよね!」
背後から憤怒にまみれた声が追いかけてくる。
二人とも周囲に被害が出ないよう、ISを腕だけ部分展開していた。さすがにここでロングレンジの武器を使ったりはしないだろうし、そういう意味でも首の皮一枚繋がった状況と言えよう。……捕まったらおしまいなのは変わりないけどな!
「大変なことになってしまいましたね」
などと言いつつ、腕の中ではチェルシーさんが平然とした様子で微笑を携えていた。
言うまでもないことだが、俺も箒たちと同じように白式を部分展開している。チェルシーさんの名誉のために断っておくと、べつに体重が重いのではない。ぶっちゃけ、どんなに軽くても大人を一人抱えて走るなんて芸当は、よっぽど体格差がないと映画やドラマでもなければ不可能である。
「織斑様にお姫様だっこされてしまいました……これはあとでセシリアに自慢できそうです」
「舌噛むといけないのでしゃべらないでくださいね!」
余裕ありすぎだこの人!
こっちは色んな意味で余裕がないってのに!
正直な話、こんな体勢でいると邪念を振り払うので精一杯だ。チェルシーさんは香水とは違うなにかいい香りがして、白式を出さずに生身で抱きかかえていたら更に大変なことになっていた可能性がある。
「とりあえず、ちょうどいいのでこのまま学園の外に出てしまいましょう」
「は、はい」
「表に車が用意してありますので、駐車場までよろしくお願いいたします」
駐車場か。果たして辿り着く前に二人を振り切れるだろうか。
しかしまあ、どちらにせよアテもなく逃げ続けるのはきつすぎるので、指針ができたのはありがたい。
夕食時ということで、あまり人気のない廊下を走る、走る。どこぞの高級ホテルみたいな作りの建物だと常々感じていたが、このときばかりは広々とした廊下でよかったと心の底から思う。
とはいえ、完全に生徒がいないわけではないので、当然俺たちの姿は何人かの女子に目撃されることになった。
「お、織斑くん!? なにしてるの!?」「きゃー! 織斑くんが白いタキシードを着てメイドさんをお姫様だっこしてる!」「やだ……似合いすぎ……かっこいい……」「なになに!? なにかの撮影!? カメラどこ!?」「あのメイドさんが五反田くんだったら完璧なのに!」
……一人だけよくわからないことを口走っている女子がいたが、深く考えると怖いので突っ込まないでおこう。
「話には聞いておりましたが、織斑様はとても人気があるのですねえ」
「そんなことないと思いますけど!」珍獣扱いされている、というなら同意だが。
「いえいえ、そんなことありますとも。少なくとも篠ノ之様と凰様はそのようにお思いのようですし」
「え……?」
背筋に寒いものを感じ、後ろに意識を集中すると、
「一夏……! ちょっと似合う衣装を着込んでいるからといって、でれでれと鼻の下を伸ばしおって……ただで済むと思うな!」
「ふ、ふ……お姫様だっこ……お姫様だっこ……あたしだってしてもらいたいのに……!」
迫りくる殺意の圧力が膨れあがったのを感じた。
さすがになにを言っているのか聞き取れるほど余裕はないが、あいつらはいわれのないことで俺を非難しようとしているに違いない。さすがに半年以上同じ時間を過ごせば(鈴は二組だが)それくらいはわかる。
客観的に分析すると、さっきまでは「捕まる=正座」だったのが、「捕まる=死」にランクアップした感じ。……あれ? 俺、やばくね?
このままではまずい、ということで、無意識のうちに足に力がこもった。白式のサポートを受けているおかげで、チェルシーさんを抱えているハンデはほぼないと考えられる。つまり素の走力が明暗をわけることになり、いくら運動神経がいいといっても男の俺が箒と鈴に走り負けることはない。
なので、このままいけば、振り切れないにせよ、追いつかれることはないと思っていたのだが。
「げっ!」
「おっ、織斑く~ん! 止まりなさ~い!」
角を曲がった先、廊下の端に、両手を大きく広げて通せんぼをした山田先生が立っていた。
「ろ、廊下は走っちゃいけません! あとISの無断使用も禁止されてるんですからね~!」
力が抜けるような声で注意され、思わず速度を緩めそうになるが、
「いけません、織斑様。追いつかれてしまいます」
チェルシーさんに指摘されるまでもなく、箒と鈴が迫っているのは気づいている。
「この不埒者め!」「覚悟しなさいよね!」
「くっ……!」
前門の虎、後門の狼。
箒と鈴は言うに及ばず、山田先生も元とはいえ代表候補生の強者だ。普段はおっとりしているが、ここ一番の動きで先手を取れると思えない。なにより力尽くで振りきるような手荒な真似をしたら大問題になってしまう。
「ちくしょう……ほんの少しでも隙があれば!」
毒づいてみても状況は変わらない。好転するどころか、刻一刻とゲームオーバーへと近づいていく。
眼鏡の奥の瞳に涙を浮かべている山田先生のところに到達したら、俺は足を止めて降参するしかない。
「隙、ですか」俺の腕の中でチェルシーさんがなにやら考え込む素振りを見せる。「隙を作れば状況を打開することができるのでしょうか?」
「え? ええ、まあ、たぶんなんとかなると思います」
ようするに正面からぶつかるのがNGなわけで、例えばなにかに気を取られた山田先生の脇をノータッチですり抜けられるのであれば、まったく問題はないのだ。それができそうにないから困っているというか詰みなんだけどな。
「でしたら、私が隙を作りましょう」
「マ、マジですか?」
「マジです。ただしおそらく織斑様にも少なからず衝撃が加わりますので、なにが起こっても決して気を緩めず走ってください」
「わ、わかりました」
なにをするつもりなのかわからないので恐ろしくはあるが、他にいい方法が思いつきそうにないので、他に返事のしようがなかった。
そうこうしている間にも山田先生との距離はみるみるうちに縮まっていく。結構な勢いで走っているのに、避けようという素振りさえ見せないのは、さすが元代表候補生といったところか。涙目だけど。
「とっ、止まってくださ~い!」
廊下の端まで、あと十数歩。
速度を落とすことを考えると、このへんがデッドラインだ。
「チェ、チェルシーさん!」
「はい。お任せを」
あくまでも平静を保ったまま、チェルシーさんは小さく頷き、
それまで胸の前で重ねていた両手を俺の背中にするりと回し、
ぐっと身体を起こして、それまで以上に上体を密着させると、
「ふふっ」
年上らしからぬ、いたずらを思いついたような可愛らしい笑みを浮かべながら、
「――失礼しちゃいますね♪」
俺のほっぺたに唇を近づけた。
というか、くっつけた。
それは、いわゆる、キスというやつだった。
「……………………………………………………………………えええええええーっ!?」
いくつかの悲鳴が重なった。
山田先生は一瞬だけ固まったあと、「とんでもないものを見てしまった」という表情で顔を真っ赤にしてその場にへたりこむ。後ろから追いかけてくる足跡も消えたようだが、箒と鈴のリアクションを確かめようという気は起きない。
なにしろ俺もテンパっているので。
許されるなら俺も同じようにへたりこみたかったので。
しかしここで俺まで動揺してしまったら元の木阿弥。せっかくチェルシーさんが作ってくれた隙が完全に無駄になってしまう。目的を忘れてはならない。織斑一夏はセシリアのもとへ向かわなければならない。
だから俺は先刻の「なにが起こっても気を緩めず走ってください」というチェルシーさんの言葉に従い、瀕死になった心を身体と切り離してひたすらに足を動かし続ける。駐車場を目指して走り続ける。
「うまくいきましたね」
「で、ですね」
「篠ノ之様と凰様も振りきれたみたいですし、これなら妨害にあわずにすみそうです」
「で、ですね」
「セシリアお嬢様の料理ってとんでもない味ですよね」
「で、ですね」
「やっぱり織斑様もそう思われますよね」
「……はい!?」自動的な存在になっていたせいで誘導尋問引っかかってしまう俺。「い、いやまあ、あれはあれで個性的な味だと……」
慌てて言い繕おうとして、ふと気づく。
チェルシーさんは口元に手を当てて笑いを堪えていた。
どうやら俺はからかわれたらしい。色々な意味で。
「先ほどはいきなり失礼いたしました」
「あ、ああ……いえ……」
かすかに顔が熱くなるのを感じたが、ここまであっけらかんとされてしまうとなにか言い返す気も湧いてこない。緊張と動揺でガチガチになっていたのが嘘のように肩の力が抜けた。
……まあ、海外では頬にキスをするのは挨拶なんていうのも聞くし、俺が考えているほど大袈裟なことではないんだろう。たぶん。
「……参りました」そんな言葉が自然と口をつく。
「どうしました? お嬢様の料理のお話ですか?」おそらくすべてわかったうえでチェルシーさんはわざととぼけてみせる。「あれは一度、織斑様のほうから指摘して頂ければ、すぐにでも改善できると思うのですけど」
「それは……はい……ちょっと難しいですね……」
「織斑様はお優しいですね」
「いやもうホント、そんなことないですんで……」
まずいな。
俺は本格的に、この人に太刀打ちできそうにない。
「わー、織斑くんがすごいことしてる」「だれだれ? あのメイドさん誰!?」「なんだか愛の逃避行って感じー、憧れちゃうー」「織斑くんってやっぱり白が似合うよね!」「王子様みたいだなあ」「一夏くんは思ったとおり攻めも受けもいけちゃうタイプね」
それから駐車場に辿り着くまでの間にも何人かの生徒とすれ違ったが、誰がなにを言っているのかいちいち気にしている余裕はなかった。なぜか一人だけ通常と異なる価値観の持ち主が含まれていたのはスルー。断じてスルー。
箒たちが追いかけてこないなら、あんなふうに抱きかかえたままでいる必要はなかったと気づいたのは、チェルシーさんが運転する車に乗り込んでからだった。
*****
セシリアのお見合いが行われることになっているホテルには五分ほどで到着した。
駐車場に車を止めてから、チェルシーさんに伴われて正面ゲートに向かう。すでにあたりはすっかり暗くなっていたが、街灯のおかげで昼と見まがう明るさだ。人の行き来が途切れる気配もない。
近づいていくにつれ、IS学園と同じく近代化ここに極まれりといったスケール感のある外観に圧倒される。中まで入ったことこそないが、生活圏内にあるので外から見たことは何度もあった。
しかし、こうして直下から見上げると、また違った趣を感じる。漫然と眺めるのと目的があって中に入ろうとしているのでは、自分の心構えがまったく違うからだろう。
「緊張なさっていますか?」
「いえ、だいじょうぶです」
気遣ってくれるチェルシーさんに目線を向け、頷く。
べつに強がっているわけではない。学校の試験や部活の試合と同じだ。いざ始まってしまえば、あとは勝手に事態のほうが終わりまで進んでしまう。だったら緊張しても仕方がないし、学園で話を聞いたときに腹は決まっている。
そのへんはしっかりチェルシーさんには伝わったようで、俺と目を合わせたあとで力強く頷き返してくれた。
「お嬢様のこと、よろしくお願いいたします」
「はい」
箒たちとの追いかけっこで乱れた服装は、車の中でしっかりと整えてある。あとは打ち合わせどおり、お見合いの席に駆けつけ、セシリアへの嘘の告白をするだけだ。
そのあとどうすればいいかチェルシーさんに訊ねたら、「初めに強く告白して、あとは流れでお願いします」とどこかで聞いたような文言で返されたが、……まあ、そのへんはなんとかなるということなので信じるしかない。
よし、行くか。
意を決し、一面ガラス張りの正面ゲートへと歩みを進めようと一歩を踏み出し、
甲高い音を立て、俺のつま先あたりのコンクリートが数センチ抉れた。
「――おわっ!?」
ワンテンポ遅れて後ろに飛び退る俺。
実際にはまったく意味のない行為なのだが、反射的に身体が動いてしまう。
な、なんだ一体!?
まさか銃かなにかで狙われたのか!?
「どうやら間に合ったようだな」そんな疑問には、背後からの聞き慣れた声がすぐに答えてくれた。「ふ……危ないところだったな、一夏」
「ラウラ!」速攻でフリーズから復帰した俺はドヤ顔で姿を現したクラスメイトに駆け寄る。
「なに、礼には及ばん。嫁の危機を救うのは当然の、」
「危ないのはお前だーっ!」
猛烈にツッコむ。俺だからこれだけで済んだが、千冬姉だったらゲンコツを振り下ろしている場面だ。
「……む?」ラウラは眼帯に覆われていないほうの目を意外そうに細める。「一夏、お前はなにを言っているのだ?」
「なにを言ってるのだもお前だーっ!」
日本の生活にもだいぶ慣れてきたと思っていたのに、いきなり突拍子もないことをしてくれるなコイツは!
「あのなあ」俺はラウラが手に持った小銃を指さす。「前にも言ったかもしれんが、そういうのは外で使っちゃダメ、絶対」
「緊急事態だったのでやむをえず使っただけだ。責められるいわれはない」
「ほーう」
埒が明かなそうなので、手早く伝家の宝刀を繰り出す俺。
「なら千冬姉に報告してもいいんだな?」まあ俺が言うまでもなくお見通しだと思うが。
「な、なんだと?」
ラウラはわかりやすく狼狽する。
「やましいことがないなら、千冬姉に同じ説明をすればいいだけだろ」
「ま、待ってくれ。そもそもこれは実弾ではないぞ?」
「質じゃなくて威力の問題だ。どうすんだよ、地面にちょっと穴あいちゃってるし」
「もちろんあとで直すつもりだ。マナーを考えれば当然のことだろう」
「どうしてその配慮をべつの形で表現できないんだ……」
深呼吸代わりに、ひとつため息。
思わぬ妨害にあってしまったが、こんなことで気勢を削がれるわけにはいかない。
「悪いけど今は構っていられないんだよ。話ならあとで聞くから、ちょっと待っててくれ」
踵を返し、再び正面ゲートへ向かおうとすると、
「却下だ。私の目的はお前をこの先へ行かせないことだからな」
ラウラは素早く俺の前に回り込み、腕を組んで仁王立ちした。
今気づいたが、ラウラは制服姿のままだ。こんな場所で、いわくありげな白いタキシード男と、有名なIS学園の生徒が対峙していれば、いやがうえにも人目を引いてしまうだろう。
これ以上、ここで騒ぎを起こすのはまずい。ISを部分展開するような離れ業はもちろん使えないし、ラウラが立ちふさがっている以上、振りきってホテルの中に入るのは難しい。
俺ははやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……どうして俺を行かせたくないんだ? 今回ばかりは冗談抜きで邪魔して欲しくないんだが」
言外に「大人しくどいてくれ」という意味を込める。
が、ラウラの返答は意外なものだった。
「理由は、そこの女に聞くがいい」
「そこの女……って」
ラウラの視線を追って肩越しに振り返ると、そこには先ほどまでと同じようにチェルシーさんが佇んでいた。
思わず目を細める。街灯の明かりの関係か、逆光のようになってしまっていて、表情が見えない。けど、なんとなく微笑を浮かべているのではないかと思う。先ほどまでと同じように穏やかで静かな微笑を。
「……チェルシーさんのことを言ってるのか? ラウラ、お前は一体なにを――」
「――セシリアのお見合いは、チェルシーさんのブラフだったってことさ。一夏」
チェルシーさんの更に背後。集まりつつあるギャラリーをかきわけるようにこちらに向かって歩いてくるシルエットは、ラウラと同じくIS学園の制服を着ていた。
「シャル……?」
「ですよね。チェルシーさん」
シャルは俺の呼びかけには答えず、悠然と佇むチェルシーさんに語りかける。
俺とシャルの視線に挟まれながらもチェルシーさんは微動だにせず、一言も発しようとしない。
セシリアのお見合いがブラフ?
チェルシーさんの?
どういうことだ?
「つまりこういうことだ」沈黙が支配する場で最初に動いたのはラウラだった。「現在セシリアはこのホテルの最上階にあるレストランで会食会を開いている。自国の有力者が来日するのに合わせた催しらしい。やつが昨日学園を欠席したのは、その準備のためでもある」
「……その会食会が見合いも兼ねてるってことじゃないのか?」
「その可能性は限りなく低いと思うよ。なにせセシリアが一緒に夕食を食べている相手は」
シャルは一旦そこで言葉を切り、
「――女性の方みたいだからね」
衝撃の事実を口にした。
同性で付き合う人もいるっていうけど、ぼ、僕はやっぱり異性とのほうがいいな、とつけ加えていたのは聞かなかったフリをしておこう。うん。
「更に言えば、セシリアの会食相手はイギリスでマスメディアの元締めみたいな真似をしているそうだ。もしも一夏がそんな格好でテーブルに押しかけ告白などしようものなら、明日には英国民すべてがその事実を知ることになっただろうな」
淡々と事実だけを述べるラウラ。
まああれだ、そういう格好もなかなか似合うではないか、とかつけ加えていたのも聞かなかったフリをしておこう。うん。
「……色々と聞きたいことはあるんだが」
俺はシャルのほうに顔を向ける。ラウラに聞くと返答が戻ってくるまでのプロセスが増えそうなのでショートカットショートカット。
「とりあえずお前ら、どうしてセシリアの事情を知ってる?」
「……え……」
シャルは「そんなこと聞かれると思わなかった」みたいな顔をして固まった。目が泳ぎまくっている。
救いを求めるようにふらふらと彷徨わせた視線が、俺の背中側にいるラウラを捉えた。
「そ、その……僕はラウラから聞いて……」
「ほーう」背後を振り返るとラウラは露骨に目を逸らした。「ラウラさんよ、シャルロットさんはこう言ってるが、どういうことなのか教えてくれよ」
ラウラは眼帯をしていないほうの瞳で、上目遣いにこちらの様子を窺いながら、
「…………めの……うきを……」
「聞こえないからもっとハッキリ」
「……嫁の動向を探るために、盗聴器を仕掛けていた……」
「はい、ラウラさんはイエローカード二枚で退場です。千冬姉に報告しておくからな」
「ま、待て一夏! 後生だ! 教官には黙っておいてくれ!」
「断じてノウ」
ここは甘い顔をしてはいけない場面だ。というか一発レッドでもおかしくない所業である。
まあ、やっぱり千冬姉のことだから、お見通しだとは思うけどな。
「――さて」
ようやく本題に入れる。もうこれ以上の脱線はごめんだ。
俺はチェルシーさんのほうに向き直り、彼女を視界に捉え直した。
「チェルシーさん……どういうことですか?」
チェルシーさんは無言。
ぶっちゃけ展開が急すぎてついていけない。
チェルシーさんから電話がかかってきてからずっとそうだ。
あまりにも目まぐるしく状況が変化するので、現状把握だけで精一杯である。
ラウラとシャルの言葉をどこまで信じていいのか、チェルシーさんとどちらを信じればいいのか判断できない。そもそも、どの真実が一番よいものなのかと断言することすらできないと思う。
だから俺は、チェルシーさんがなにも反論してくれないなら、申しわけないが仲間の言い分を信じさせてもらうと決めた。
チェルシーさんの返事を待つ。ラウラもシャルも俺と同じ心持ちなのか、ただただチェルシーさんのことを見つめていた。
じわじわとギャラリーが増えつつある。
こうして立ち尽くしているのも限界か、と思いはじめたころ、
「織斑様、本日はお騒がせいたしました」
チェルシーさんは、音もなく一歩だけ俺のほうに足を進めると、
「すべて私の独断で行ったことです」
メイドの教本に載っていそうな見事な所作でお辞儀をして、
「――申しわけありませんでした」
謝罪という形で、決定的な一言を口にしたのだった。
こうして。
意外な形で、俺の長い長い放課後は終わりを告げたのである。
*****
「それがどうしてこんなことになるんだ?」
夕食後。
代表候補生たちは、俺の部屋に勢揃いしていた。
「で、ですから、わたくしなりに一夏さんにご迷惑をかけたお詫びをしているのですわ! 使用人の不始末は主の不始末ですからっ!」
「いや、それはわかるんだが」
というか、実害はなかったに等しいので、そこまで気にしなくてもいいのに、というのが正直なところだ。
あのあと、一連の騒動の話を聞いたセシリアは俺に平謝りをしてから、なにかしら償いをさせてくれと言ってきた。固辞しようとしたのに結局押し切られ、こんなことになっているわけなのだが――
「なぜにメイド?」
セシリアは頭のてっぺんから足の先まで、完全無欠のメイドさんになりきっていた。
よっぽど恥ずかしいのか、俺の前に現れてからずっと顔を真っ赤にしている。
「わっ、わたくしは貴族ですので……使用人の格好をしていることが最大の罰になるといいますか……」
「そんなこと言ってさ、一夏のメイドがやりたいだけでしょ?」やさぐれた口ぶりで鈴。
「なっ、なにをおっしゃいますかっ! わたくしだって本当はしたくありませんけど、チェルシーが一夏さんにご迷惑をおかけしたからこそこうしてっ!」
「む……一夏。お前さっきからガン見しすぎじゃないか?」言いがかりをつける箒。
「なに? お前は私の嫁なのだから、浮気は許さんぞ」それを真に受けるラウラ。
「ガン見してないし浮気もしてない。っていうか浮気は前提条件を満たしてない」
なんだか俺は一日中誰かにツッコミを入れてる気がする。
「でもさセシリア、嫌だったら着替えてもいいんだぜ? さっきから言ってるけど、チェルシーさんの件はべつに気にしてないし」
「い、いえ、わたくしも、その、本心から嫌と言うわけでは……」
「そうなのか? まあ、俺は似合ってると思うけどな」
「っ!? ほっ、本当ですの!?」
「ああ。セシリアは髪の毛にボリュームがあって綺麗だから、こういうふわふわした服がよく似合うよな。使用人の服っていっても、日本じゃドレスみたいなもんだし」
「き、着てみてよかったですわ……っ!」
スカートをふりふりと揺らしながら、セシリアがくねくねと身悶えしている。チェルシーさんが俺を騙したと聞いたときは顔面蒼白になっていたが、ようやく頬に赤みが差してきたように見えた。
そんな俺たちから少しだけ離れた場所で、
「……どっちに転んでも主の得になるように立ち回るなんて、ホントにチェルシーさんはメイドの鑑だなあ……」
ただひとり得心がいったと頷くシャルの姿が、やけに印象に残った秋の一日だった。
おしまい