「――学校に幽霊が出る、だあ?」
呆れの成分が色濃く含まれた口調でクラインが言った。
予想できた反応を目の当たりにし、無言で肩をすくめてみせる。
クラインは赤みがかった茶髪に派手なバンダナ、そのうえしょぼくれた無精髭という、いかにも軽薄そうな外見だが、これでいて俺なんかよりよっぽどリアリストなのだ。腐っても社会人の端くれ、ということなのだろう。
「おいキリトよ。おめえ今、失礼なこと考えなかったか」
そして、これでいて意外とカンが鋭い。
しかしながら、同性の友人に見透かされたことを言われるのは冗談抜きでキモイので無視しておく。ホモホモしいのはノーサンキューだ。
「幽霊……か」
カウンターを挟んで反対側にいたエギルがぽつりと呟く。他に客がいないこともあってか、エギルは俺たちにつきっきりになっていた。
俺たちにとってリアルのたまり場になって久しい《ダイシー・カフェ》には、俺こと桐ヶ谷和人と、クライン、エギルという男臭いメンバーが集結している。
「なんだなんだ、やけに深刻そうな口ぶりじゃねえか。夢見がちなキリトならともかく、まさかエギルまで幽霊話を真に受けたんじゃないだろうな?」
「おい、誰が夢見がちだ。さりげなく人をディスるな」
軽く肩を小突くと、クラインは「さっきの仕返しだっつーの」とにやけた顔で返してきた。そしてカウンターに乗ったグラスを傾け、中身のエールを喉に流し込みながら一言。
「VR技術の技術革新が起こってる時代に幽霊なんて非科学的なものが存在するとは思えねーけどな」
「……ま、たしかにそれは一理ある」
「だろ?」
「……だが」重々しい口調でエギルが合いの手を入れた。「だからこそ、と考えてるんじゃないのか、キリトは」
どうやらエギルは俺の言いたいことを察してくれたらしい。グラスを拭く手を止めて、理解の光を宿した眼差しをこちらに向けている。
「どういうことだよ?」
「技術が発達したからこそ、幽霊騒ぎが起こる……いや、起こすことも容易になったってことさ。今なら手のひらサイズのガジェットを使うだけで、驚くほど精巧なホログラフを見せることだってできるからな。だからまあ、人為的に幽霊を演出することのハードルはむしろ下がってる。だからもし本当に幽霊を見たやつがいたとしても、誰かが意図したことならあまり不思議じゃない」
ひと息。
「……問題なのはこの先なんだ」
俺の雰囲気が変わったことを感じ取った二人は、黙って話の続きを促している。
「学校を徘徊する幽霊は。〝未帰還者〟の亡霊じゃないかって噂されてる」
「っ!? おま……それって……!」
「…………」
驚きをあらわにするクラインと、俺が口にする台詞をある程度予測していたであろうエギルの反応は対照的だった。
しかし、その内心に抱く想いは、おそらく大きく異なるものではないはずだ。
なにせ俺が通う学校は、〝帰還者〟たちが集められた場所なのである。そんな場所で〝未帰還者〟絡みの噂が流れるなんていうのは、もはやそれ自体が悪夢のようなものだ。
曰く、志半ばで息絶えた魂がうろついているとか。
曰く、PKした相手に取り憑いて祟り殺そうとしているとか。
悪い冗談としか思えない噂が一人歩きすることで、学校を休む生徒も増え始めている。
「ふざけやがって……!」
「悪趣味、だな」
クラインとエギルが剣呑な雰囲気を放つ。
同じ〝未帰還者〟だった者として。
デスゲームを生き延びた者として。
一人のプログラマーの暴走による犠牲者たちを面白おかしく噂話の種にするなんていうのは、あまりにも悪趣味だと俺も思う。
ただ――
「……愉快犯の仕業かっていうと、そういうふうにも言い切れないんだよなァ」
俺が頭を悩ませている理由がこれだった。
悪意ある人間が、〝未帰還者〟の亡霊を騙って騒動を起こすというのであれば、話は簡単だ。特定の心ないやつが巻き起こす事件というのを、俺はリアルでもゲームでも嫌と言うほど目にしてきた。
が、同じ学舎に通うやつらの中に、そこまで腐った人間がいるとは考えたくないというのもまた本音。何故なら、やつらも俺たちと同じデスゲームを生き延びた仲間なのだから。
こんなもの単なる感傷と言われればそれまでだが、少なくとも学校の雰囲気を肌で感じる限り、悪ふざけをする〝犯人〟がいるようには思えない。そもそも、男も女も生徒たちはひとり残らず本気で亡霊の噂に脅えているように見える。
……ああ、いや。
ひとり残らずってのは嘘だな。
「それで?」
エギルが精悍な目つきで俺を見据えた。
「それで、って?」
「お前のことだ。俺らにわざわざ話したんだから、なにか考えてることがあるんだろう?」
「……なにか手伝いが必要なら遠慮なく言えよ。ただでさえお前は水くさいんだからよ」
「……ははっ」
まったく。
エギルといい、クラインといい、本当に頼りになるやつらすぎて困るぜ。
最初からそのつもりで話を持ちかけた俺が言うのもアレだが、ありがたく頼らせてもらうことにしよう。
「実は」俺は二人を順番に見渡してから少しばかりおどけた口調で言った。「……うちのお姫様の意向で、幽霊退治をすることになりそうなんだな、これが」
そう。
驚くべきことに、誰もが心ない噂に身震いしている中にあって、場合によってはトラウマすら刺激されかねない亡霊騒ぎをものともせず、憤然と立ち上がった騎士姫がいたのである。
俺はもちろんのこと、クラインとエギルもよく知る人物だ。
というかアスナだった。
はい、俺の彼女様です。
今回の事件が人為的なものにせよ、そうでないにせよ、心ない噂が広がっているのが我慢できないから、自分が収束させると意気込んでいた。
このへん、いかにも正義感があり、行動力も兼ね備えたアスナらしいと言えるのだが、自分から率先して危険に首を突っ込む勇ましさは、もうちょっと控え目でもいいんじゃなかろうか。
苦笑混じりに話はじめた俺を見て、クラインとエギルは妙に納得した表情を浮かべながら、互いに顔を見合わせて肩をすくめてみせるのだった。
<ユメジャナイセカイ>
「というわけで、夜の学校にやってきたわけだが」
「……いきなりなにを言ってるの、キリトくん」
「いや、俺なりの決意表明というか」
アスナが深刻そうにしているからリラックスさせるためにふざけてみた、なんてバラしてしまうわけにもいかず、ぽりぽりと頬を掻く。
そんな俺を見てなにを考えたのか、アスナは腰に手を当てて大袈裟にため息をついてみせた。
少しだけではあるが和らいだ表情を見て、俺も内心で胸を撫で下ろす。生真面目なのはアスナの美点だが、気負いすぎて良いことなんてひとつもないからな。
「もう、ホントにキリトくんはどんなときもキリトくんなんだから」
「……俺は褒められてるのか、それとも貶されてるのか、どっちなんだ?」
「ふふ。さて、どっちで――」
「――褒めてるのでも貶してるのでもなくただ単にノロケてるだけだと思う人ー」
「はい」「はい」
「賛成多数によりアスナ選手にはペナルティとしてイエローカード一枚目でーす」
「…………」
「…………」
思わずアスナと顔を見合わせてから、シンクロした動きでギギギ、と音がしそうなくらいぎこちなく後ろを振り返る。
するとそこには、揃ってジト目を向ける三人の女子たちの姿があった。
初めは俺とアスナだけで〝調査〟するつもりだったのだが、リズとシリカも「自分たちにとっても他人事ではない」と協力を申し出てくれたのである。
どうしてスグまでいるかというと、家を抜け出そうとしたところを見つかって無理矢理同行を認めさせられたという実に情けない理由による。
晩飯のときの俺のちょっとした態度の違いで目星をつけたらしいが……家族の慧眼恐るべし、といったところだ。
「ふふん。やっぱりついてきて正解だったみたいね。キリトと二人きりにしてたらどうなってたことやら」
「……ちょっと、リズ。言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」
「べぇーつぅーにぃー。あたしは誰かさんたちが二人だけの世界に入らないように釘を刺しただけですうー」
そのとき俺は、照明の落とされた学校の廊下に、まばゆい火花が散ったのを幻視する。
「リズさんって……その……すごいよね。あたしにはちょっと真似できないかも……」
「はい。自ら地雷原に飛び込んで、進んで致命傷を負おうとするなんて私にも無理です」
「……たまに思うけど、シリカちゃんってわりと毒舌家だよねー……」
スグとシリカの二人は言い争いを始めたアスナとリズを尻目に、早々と傍観モードに移行していた。
ちなみに俺たちは全員制服姿だったりする。夜間の学校への立ち入り許可をもらいに行ったときに出された条件のひとつが「制服を着用のこと」だったからだ。
今の時代、ほんの少しでもセキュリティに気を遣ってる場所に忍び込むのは至難の業だというのは言うまでもない。ましてやこんな曰く付きの教育施設に無許可で立ち入るなんてのはもってのほかである。
もし俺たちが軽い肝試し気分で、学校側に許可を取らずにここにいたら、数秒で警備員が飛んできてソッコで補導されることになるだろう。隠蔽系スキルを使えるゲームの中なら話はべつなのだが……リアルというのはかくも世知辛いものなのだ。
「……ちょっとお兄ちゃん。訳知り顔で他人事みたいにしてないで、アスナさんたちを止めてよ。あんなことになってるのはお兄ちゃんが原因なんだからね」
気づけば脇にスグがやってきて、ひそひそと耳打ちをしてきた。出がけにシャワーを浴びたせいか、石鹸の良い匂いが鼻先をくすぐった。
たしかにアスナとリズの口げんかは「ちょっと前からアバターの胸を三センチ盛ってるでしょ!」「ばばばばばか言わないでよあれが正式なサイズなのよ成長したのよ!」みたいなしょうもない領域に突入しはじめている。
思わずリズの胸のあたりに視線が動きそうになったが、肋骨にキツめの肘打ちをされて我に返った。
違うんだ妹よ……。べつにリズのサイズが気になったわけではなく、反射的に見比べそうになっただけなんだ……。だからそんな目で見ないでくれ……。
「……まあ、許可はもらってるから追い出されたりはしないだろうけどさ。こんな時間なんだから、あまりうるさくするなよ」
「うぬぬ」
「ぐぬぬ」
軽く諫めてはみたものの、二人は角を突き合わせてにらみ合ったままだ。
もっとも、本気で喧嘩しているわけではないので、なにも言わなくてもすぐに収まるのはわかっている。なんだかんだで仲の良い二人なので、あの程度は軽くじゃれあっているようなものなのだろう。たぶん。
「でも……暗くてちょっと怖いので、黙って静かにしているよりこっちのほうがいいかもしれないです」
「はは、そっか」
スグとは反対側に、シリカが身体を寄り添わせてくる。きっと周囲が暗くて不安なんだろう。
「キリトさんはいつも優しいですね」
「そんなことないよ」
シリカにきゅっと制服の肘のあたりを掴まれて、なんとなくスグの小さなころを思い出した。そういえば昔は、こんなふうに兄妹寄り添って歩いたことがあったかもしれない。
当のスグは「やっぱりシリカちゃんって抜け目ない……!」とか言っているが意味はよくわからなかった。
ふと奥に目を向けると、緑の誘導灯のみが照らすほの暗い夜の廊下が、どこまでも続く深い穴のように見える。
俺たちの足音も、アスナたちの姦しい声も、まとめて闇の中に飲み込まれていくような、そんな錯覚を覚えた。
*****
「……で、なにかアテはあるの? お兄ちゃん」
スグのやつは、普段よりいくらか神妙な声音で訊ねてくる。言外に「まさか本当に幽霊がいるわけないよね?」とでも言いたげな様子がある。基本的に勝ち気な妹なのだが、夜の校舎に充満する得も言われぬ不気味さに緊張しているのかもしれない。
ちなみに、いつの間にやら俺はシリカとスグに両脇から挟まれ、両腕をがっちりホールドされている。ついでに言わせてもらえば、先ほどから背中に二組の刺さるような視線を感じる――のだが、幽霊よりよっぽど恐ろしいから気のせいということにしておこう。同様の理由により、制服越しに伝わる感触と体温に関してもノーコメントということで。
「アテっていうか……まあ、そのへんは言い出しっぺに聞いたほうがいいと思うぞ」
言いながらおそるおそる後ろを振り返ると、リズと肩を並べて歩くアスナと目が合う。
睨みつけられているのだから、こっちが顔を向ければ目が合うのは道理というやつなのですよ。ハイ。
「実は具体的な噂の出所はわからないのよね」律儀なアスナはそのまま質問を受け取って答えてくれた。「最近になって、夜の校舎で恨めしそうなうめき声が聞こえるっていう話をあちこちで耳にするようになった、って感じかしら」
「その話ならあたしも知ってる。なんか講堂で楽しそうにはしゃぐ声が聞こえたって言われてたわ」
「私が聞いたのは、誰もいない食堂から物音が聞こえたっていう話ですね……」
バトンを引き継ぐように、アスナに続けてリズとシリカが自分の知っている情報を口にした。
「うわあ……」
スグは実に嫌そうな顔をして肩を落とす。
「いやー、なんていうか『ザ・学校の怪談!』って感じだよなー」
「たしかにねー。そのうちトイレの花子さんが出てきそうだわ」
意外にも俺の軽口に乗っかってきたのはリズだけだった。
いや、意外……でもないか。
「リズは幽霊とか信じてないのか?」
「まあね。今のこの時代に、そんな非科学的なものが存在するわけないでしょ」
「そういえば、クラインも同じようなこと言ってたな」
「えー……」
そこで何故イヤそうな顔をする。
クラインが泣くぞ。
「じゃあ、その……アスナさんは信じているんですか? 幽霊」
スグが躊躇いがちに問いかける。
「ん。そうね――」
アスナは即答せず、ふっと足下に視線を落とした。どうやら思索を巡らせているようだ。
この流れで〝幽霊退治〟の発案者であるアスナに「幽霊の存在を信じているか」と訊ねるのは、ようするに「この騒動はオカルト的な要素によって引き起こされていると思っているのか」という質問を投げかけたということである。
しばしの黙考の末、アスナは言葉を選びながら語り始める。
「幽霊自体は『いてもおかしくない』とは思ってるかな。存在しないことを証明できない以上、存在する可能性を否定はできないから」
「さすがKoBの元副団長様は玉虫色の返答がお上手ですな」
リズが茶化すと、アスナは小さく舌を出してあかんべーをした。
なんという可愛さ。これが俺の彼女です。
「それなら、アスナさんは……」
「でも」アスナはやや強めの語調でスグの言葉を打ち切る。「今回の件は間違いなく人為的なものだと思ってるわ。だからこそ、……〝未帰還者〟の亡霊が校舎内を彷徨っているなんていう心ない噂が流れているのが許せないの」
真剣味を帯びたアスナの両目が、薄暗闇の中で煌めく。内に秘めた激情が、瞳を通して炎のように揺らめいているのだ。
さすがに今度ばかりはリズも茶化すことはせず、静まり返った廊下にかすかに息を呑んだ音が聞こえた。ひょっとすると息を呑んだのはスグだったかもしれないし、シリカだったのかもしれない。
うむ。
可愛くて、凛々しくて、勇ましい。
皆さん、どうですか。
これが俺の彼女――
「……それで、ね。キリトくん?」
人知れず悦に入っていたら、突然こちらに水を向けられる。
「ん? どうした、アス……ナ……」
彼女の呼びかけに応えてやらねばなるまいと思った俺のことを、アスナはまっすぐに見つめていた。
これ以上ないというくらい素晴らしい笑顔で。
「あのさ、わたしずっと気になってたんだよね」
先ほどのピンと張り詰めた雰囲気とは真逆の穏やかな口ぶり。
しかし、そこに込められた圧力は先ほどの比ではないくらい凄まじいものだ。
「な……なにが気になってたんだ?」
まずい。
やめろ。
すぐに話を打ち切れ、と俺の本能が警鐘を鳴らしている。
にも関わらず、アスナが発するプレッシャーの激しさにより、俺は彼女の思い通りの受け答えをしてしまっていた。
アスナの尋常ではない雰囲気を感じ取ったのか、リズはいち早く俺たちから距離を取っている。両脇にいたはずのスグとシリカも同様で、すでに俺の両腕から柔らかな温もりは離れてしまった。
「キリトくん、今回の幽霊騒動の話に対しては、妙に反応が悪いっていうか、いつもと感じが違うよね。どうして?」
「ど、どうしてって言われても……べつにおかしなところなんてなかっただろ?」
「そうかな? 普段のキリトくんだったらこういう厄介事にはもっと積極的に関わろうとするんじゃないかな?」
「そんな、人をトラブルジャンキーみたいに……って、こら! リズたちも『わかるわかる』みたいに頷くなよ!?」
「だって……ねえ?」
「キリトさんはとても面倒見がいいですよね」
「物は言い様ってのも含めて、あたしもリズさんとシリカちゃんと同感」
くそう、女子はこれが怖いんだ。
敵味方に分かれていたかと思うと、一転して手を結んで襲いかかってくる。
孤立無援となった男=俺の行き着く先はすなわち――
「隠していることがあるなら、すぐに白状なさい」
「はい」
即降参。
日和見野郎と笑わば笑え。
恥ずかしくなんかないさ。二年に及ぶデスゲームを乗り越えた俺が得た教訓の一つは、「勝てない勝負は最初から挑まない」というものなのだから。
……本当に恥ずかしくなんてないんだからね!
「あたしが言うのもなんだけど、お兄ちゃん情けなさすぎ……」
「だからこそ、ちゃんとしてるときのギャップがいいっていう話もあるけど……」
「それフォローになってるようで微妙にフォローになってないですよね……」
もうやめて!
俺のヒットポイントはゼロよ!
*****
「最初から違和感はあったんだけど、確信に変わったのはクラインの名前を聞いたからよ」
というのはアスナの言である。
俺がクラインとエギルに会いに行ったタイミング的に、幽霊騒動の相談をしたのは確実なのに、そのときの話を自分たちに一切しなかったことで察したとか。
鋭すぎるだろ。
そして女性陣によって精神的になぶられた俺は、ジャケットのポケットから携帯端末を取り出したのだった。
「……ユイー、パパだよー。可哀想なパパを慰めておくれー」
しおらしく画面に呼びかけてみるが、精神を病んでしまったわけではなく、この携帯端末を通じて自宅のメインPCにアクセスをしているのだ。
『……パパ? なんだか随分と憔悴しているみたいですけどだいじょうぶですか?』
端末のスピーカーからユイの声が聞こえてくる。まあ、小型も小型だから、あまり音質はよくないんだが。
「ユイちゃんなの?」
『あ、ママもいるんですね。こんばんは』
「あ、はい、こんばんは」
意表を突かれたアスナが、戸惑いながらも挨拶を返す。
なにはともあれまず挨拶、というできた娘ぶりに驚いたわけではなく、単純にユイがいることが不思議なだけだろう。
「これ、マイクで声は届いてるけど、カメラを使わないとユイにはこっちが見えないんだよ。だからまあ、音声チャットみたいな感じだと思ってくれ」
俺の周りに輪になっている皆に、携帯端末を掲げてみせる。これだけ薄暗いとカメラの感度も期待できないので、ユイに視覚を与えようと思ったらべつの方法をとらなければならない。
ま、今は必要ないので、その話は置いておこう。
「……なるほど。そういうことだったのね」
どうして俺が携帯端末を持ち出してユイを呼び出したのか。
リズたちには見当も付かないようだったが、アスナは理解したらしい。
「ど、どういうことですか?」
うろたえるシリカにアスナはお姉さん然とした笑みを向けて答えた。
「結論から言うと、幽霊騒ぎはキリトくんの仕業だったっていうこと」
よね? と念を押すように、アスナがこちらにジト目を向ける。
完全に降参モードに入った俺は、携帯端末を持ったまま両手を上にあげた。
俺が今、この学校で専攻しているのはメカトロニクス・コースという分野だ。
ざっくり説明すると、ハードウェアとソフトウェアの両面からVR技術を掘り下げていく学問なのだが、その中で特に力を入れて開発しているのが《視聴覚双方向通信プローブ》システムというもので――ぶっちゃけユイが仮想世界と同様に現実世界を認識するための仕組みである。
正直なところ実用化にはほど遠く、主にコスト面で実現が厳しいシステムではあるが、開発段階でユイと話をしているときにぽつりともらしたことがあった。
「わたしたちの学校が見てみたい……か」
『はい……パパとママの話を聞いているとすごく楽しそうだったので気になってしまって……』
そう。
俺が「こっちの世界が認識できるようになったら最初にどこに行ってみたいか」と訊ねたらユイは言ったのである。「パパたちの学校を見てみたいです」と。
「それでまあ、ちょっとフライングっていうか、開発機材のある部屋だったら見せられるかもしれないと思って少し試してみたんだよ」
実際にはなかなか上手くいかず、何故か校内のスピーカーにユイの声が乗ってしまったりして、それがあたかも〝幽霊〟のように聞こえてしまったりもしたらしい、というのが事の顛末だったというわけだ。
当然ながら、アスナは俺の研究テーマを知っているわけで、すぐにピンときたのはそれが理由のはずだ。
『ごめんなさい……私が無理を言ったせいで皆さんに……パパとママにも迷惑をかけてしまいました……』
ユイのしょげかえった声がスピーカーから響く。もしもこれを夜中の校舎で聞いたやつがいたら、それこそ未練を残した怨霊のうめき声と勘違いするに違いない。
「ユイちゃんが謝る必要ないよ」
「あたしもそう思う」
我が妹とリズが、重苦しくなった空気を吹き飛ばすように威勢よく言った。放っておいたらそのままスクラムを組みそうな団結力を感じる。
「今回の件は、原因がどうこうっていうより、完全にお兄ちゃんの判断ミスだよね」
「ユイちゃんのために実験してたのと、事の詳細をあたしたちにナイショにしてたのは関係ないよね」
まったくもってそのとおりすぎる。
ぐうの音も出ないとは、まさにこのこと。
常日頃から娘に甘々なアスナは言うまでもなく、控え目に糾弾の視線を送ってくるシリカも、口には出していないが二人と同意見なのだろう。
「いや、俺が全面的に悪かった。ユイも嫌な思いさせちゃってごめんな」
『パパ……! そんなことないです!』
うう、こんな状況でも俺を庇ってくれるなんて、ユイは俺にはできすぎた娘だ。絶対に嫁になんてやるもんか。
「というか、キリトくんはどうしてわたしたちに内緒にしていたの?」
袖口に顔を埋め、健気な娘に感動する父親の小芝居をする俺を無視して、アスナがついに核心を突いた。
……まあ、なあ。
この流れでそれを話さないわけには、いかないよな。
少しばかり小っ恥ずかしい思いをすることになるが、仕方がない。ここまで騒ぎを大きくするつもりはなかったとはいえ、アスナたちを巻き込んでしまったのは事実なのだし、きちんと説明するのが誠意のある対応というものだ。
「……なんかさ、こういうのって、めちゃくちゃ〝学校〟っぽいじゃん」
「こういうの?」
「夜中の他の誰もいない校舎に、友達と一緒に立ち入る、とか。ちょっと漫画みたいでワクワクしないか?」
幼いころに夢見たような血湧き肉躍る冒険は、ゲームの中で体験できるようになった。というか、体験している。現在進行形で。
だからこそ、などと言うつもりはない。
ないのだが。
つまるところ、もっと日常的な――こういう、いかにも学校に通っている学生的なイベントというやつが恋しくなってしまったのだ。俺は。
今でこそ彼女がいて、娘がいて、信頼できる友達まで沢山できた桐ヶ谷和人は、少し前まで半ば引き籠もりのネットゲーマーだったのである。
そういうわけで、こうやって思わぬ形で転がり込んできた好機に、少しばかりイタズラ心がくすぐられてしまった――というのも、まあ、言い訳にすぎないんだが。
ぶっちゃけ、暗闇を怖がるスグやシリカの反応を楽しんでしまったというのも事実だしな。悪趣味というなら、これほど悪趣味なこともないだろう。
「だからまあ……ヘンなことに付き合わせてゴメン!」
皆に対して、勢いよく頭を下げる。
「……で、キリトくんは夜の校舎探検を堪能できたわけ?」
「おう! バッチリだぜ!」
頭を下げたまま、降ってきた声に応えると、間を置かずにため息まで降ってきた。
「はあ……ホントにしょうがない人なんだから」
そんな心から楽しそうに返事をされたらこれ以上怒れない、とアスナは小さく呟いた。
「怖がる妹を見て楽しむヘンタイー」
「ヘンタイー」
「女の子に囲まれてでれでれするスケコマシー」
「スケコマシー」
「ふふっ、男の人がいくつになっても子供っぽいっていう実例を見た気がします」
ねちねちと俺を責め立てるスグとリズに比べて、シリカの台詞はなんだか少し怖かった。
「ま、反省してるなら、できるだけ早くシステムを実用化まで持っていってよね。わたしもユイちゃんに色々と見てもらいたいものがあるんだから」
「もちろん。全力を尽くすさ」
『ママ……パパ……ありがとうございますっ』
――と、まあ、事の次第はそんな感じで。
後日、お詫びのしるしとして、アスナたち全員にデザート食べ放題を奢るハメになったところまで説明を終えた俺に、クラインは見事に言い放ったのだ。
「りあじゅう、ばくはつしろ」
おしまい
冬の気配が色濃く感じられるようになった、とある秋の日。
セシリアが学園を休んだ。
ここのところ寒暖の差が激しいので体調を崩したのではないかと心配したが、朝のホームルームで出欠を確認したときの千冬姉の話によれば、風邪をひいたりしたのではなく「家庭の事情」ということらしい。
それならひとまず安心だ、とそのときの俺は思っていた。高校生にもなって皆勤賞を狙おうなんてやつは滅多にいないだろうし、セシリアは優秀だから一日や二日学園を休んだところで大した問題はないだろう。
というわけで、俺は普段どおりに授業を受け、普段どおりに箒たちとISの訓練をして、普段どおりに寮の自室に戻ってきて、さあこれから夕食の時間までなにをしようか、などと考えていたのだけれど。
俺が机の上にカバンを放り投げたのと、携帯電話が鳴りはじめたのは、ほぼ同時だった。
「はいはい~っと」
着信音に返事するのは我ながらオッサンくさいと思いつつ、充電スタンドに置く前だった携帯を手に取る。
ディスプレイに表示されたのは、「セシリア・オルコット」の文字。
どうやら学園が終わったころを見計らって電話をかけてきたようだ。
通話ボタンを押し、
「おう、セシリ――」
「――織斑様! どうか、どうか、お嬢様をお救いくださいっ!」
「おわっ!?」
思わず携帯から耳を離す。鼓膜が破れるというほどではないが、気構えしていなければ驚くくらいの音量だったからだ。
改めて携帯の通話口に集中すると、向こう側からは激しい息づかいが聞こえてくる。かなりの剣幕でまくし立てたからか、乱れた呼吸を落ち着かせている気配が伝わってきた。
なんだなんだ? 一体どうしたっていうんだ?
「あ、あの……ひょっとしてチェルシーさんですか……?」
恐る恐る話しかける俺。
切羽詰まった声はセシリアのものではなかったし、セシリアのことを「お嬢様」と呼ぶ心当たりはひとりしかいない。
「……っ」息を呑んだ気配。「もっ、申しわけありません! 私としたことが取り乱してしまい、名乗りもせずに不躾なことを!」
「ああ、いえ、それは全然気にしないでください」
よかった。どうやら予想は当たっていたらしい。
「本当に申しわけありませんでした」
先ほどの剣幕はどこへやら。チェルシーさんは消沈し、放っておいたらこのまま何十分でも謝り続けそうな様子だ。俺にはメイドさんに平謝りさせて悦に入る嗜好はないので、そういうのはごめんこうむりたい。なにより、今は気になることがあった。
「――ところでチェルシーさん。セシリアになにかあったんですか?」
これまで何度か会ったチェルシーさんは、いつも落ち着いている大人の女性という印象だった。そのチェルシーさんがあれだけ慌てていたのだから、ただごとではないのは容易に想像できる。
しかし、だからといってこちらまで焦って問い詰めたりしてはならない。まずは落ち着いて話を聞かなければ、状況を把握することすらできないからだ。
チェルシーさんに落ち着いてもらうため、なにより逸る自分の気持ちを抑えるため、俺は敢えてゆっくりと、かみ砕くような口調で本題に切り込んだ。
「はい……実は……」
こちらの思惑を察してくれたのか、チェルシーさんは深呼吸してから説明しはじめる。
そしてチェルシーさんの口から俺が聞かされたのは、衝撃、と呼ぶほかない事実だった。
「はあ!? セシリアが結婚!?」
「はい……正確にはお見合いですが、そこに至る経緯を考えても、そのままご結婚なさるのは間違いないと思います……」
漫画的に表現したら、きっと俺の両目は飛び出していたに違いない。
同級生が結婚? ハハハ、なんの冗談だ。まだ高校生だぞ、俺たち。
「ま、またまた~、あれですよね? チェルシーさんお得意のイングリッシュ・ジョークとかそれ系の……」
「…………」
チェルシーさん、超無言。
俺、超気まずい。
マジかよ。マジなのかよ。
「な、なんかすみません……俺、信じられなくて……」
「いえ、こちらとしましても寝耳に水の話ですから無理もないと思います。出すぎた真似とは思ったのですが、この一大事にいてもたってもいられず、こうして織斑様にお電話させて頂きました」
「なるほど、そうだったんですか……わざわざ報告してもらってすみません。ありがとうございます」
律儀な人だな、チェルシーさんは。
しかし、セシリアが結婚か……。相手は一体誰なんだろうな……。
「……あの、織斑様」
「はい、なんですか?」
「……それだけですか?」
「え? なにがですか?」
「いえ、セシリアお嬢様がご結婚なさるかもしれないのですよ?」
「は、はあ……たしかに驚きましたね……」
「……ほ・ん・と・う・に、それだけですか?」
なんだろう。
この電話の向こうから感じる、鈴あたりがよく放つ殺気に似た空気は。
軽やかな声にドスが混ざりはじめているような気もすごくする。
「え、えっと……よくわからないんですけど、チェルシーさんなにか怒ってます?」
「可哀想なお嬢様……現時点では完全に脈なしですね……」
「え? チェルシーさん? なにか言いました?」
「いいえ、なにも」
なんだろう。
この「笑顔なんだけどめちゃくちゃ怖い」を体現したような口調は。
「――よろしいですか、織斑様」
「は、はい」
急に声に芯が通ったので、自然と居住まいを正す格好になる。相手が見ているわけでもないのに、無意識のうちにそうしてしまうプレッシャーを感じたのだ。
「私がお電話いたしましたのは、織斑様にお嬢様を救って頂きたいからです」
「救う……ですか?」
そういえば、最初に電話に出たときもそんなことを言っていた気がする。
「ここだけの話ではありますが、お嬢様は意に沿わぬご結婚をされることになります」
「え――」一瞬で頭が冷えた。「――それは、どういうことですか?」
「もう随分と長いこと、お嬢様はおひとりで当家を支えておられます。これまではご自身の才覚と、たゆまぬ努力によって滞りなく職務に励んでおられましたが、それもいつか限界を迎えます。そのためお嬢様は、有力な家との繋がりを強めるために、自らの身を捧げようとしているのです。本日、お嬢様が学園を休んだのはご存じですね?」
「……ええ」
「学園には家庭の事情とお話ししておりましたが、実はお見合いの段取りを進めるためだったのです。オルコット家を維持し、大きくするためには、もはやこれしかないと……」
そこでチェルシーさんは堪えきれなくなったのか、声を詰まらせる。
「……お嬢様おひとりであれば、すべてを捨て、ひとりの女として生きることは容易いでしょう。お嬢様はISの代表候補生も務められる才能の持ち主でいらっしゃいます。ですがお嬢様はオルコット家に仕える者……私たちのために……犠牲になるおつもりで……」
「わかりました」
それ以上言わせるのが忍びなくて、俺はチェルシーさんの言葉を奪う。
「織斑様……」
すでに心は決まっていた。自分でも驚く。ほんの少し前まで他人事のように聞いていた話だったのに、「意に沿わない」あたりでスイッチみたいなものが入ってしまった。
自分になにができるかわからないし、正直あまりに前時代的すぎてついていけない部分もある。しかし、セシリアが全幅の信頼を置くチェルシーさんが、こうも必死になっているのだから、俺も真剣に受け止めるべきだとも思う。
「セシリアは大切なクラスメイトで、友達ですから。チェルシーさんがセシリアのためだと言うなら、どんなことにも協力しますよ」
「ありがとうございます! 織斑様、本当にありがとうございます!」
感極まったのか、チェルシーさんの台詞には湿っぽいものが混ざっていたが、ここは気づかないふりをするのが紳士ってやつだろう。べつに英国紳士を気取るわけではないが、どんなことにも対応できる心構えをするための景気づけみたいなものだ。
「それで、まず俺はなにをすればいいんですか?」
「私が織斑様にやって頂きたいこと、それは――」
妙にもったいつけたような間を置いて、チェルシーさんは高々と宣言する。
「――お嬢様の恋人としてお見合いに乗り込んでぶち壊しちゃってください♪」
「はい! ……………………………………………………はい?」
「それでは織斑様、少々お待ちくださいませ。私、間もなくそちらに到着いたしますので」
「はい?」
「お時間が押しておりますので最初からテンション高めでお願いいたします。では後ほど」
「はい?」
電話が切れた。
ワケがわからなかった。
とりあえず理解が追いついたのは、今日という一日はまだまだ終わりそうにないってことだけである。
これが本当の秋の夜長だな。……なんつって。
<オルコットさんの家庭の事情>
「ご無沙汰しております、織斑様」
電話から十分も経たないうちにノックの音がして、まさかと思ったらドアの向こうにはすでにチェルシーさんが立っていた。
「お久しぶりです。……本当に早かったですね」
間もなくここにやってくるというのは、冗談か俺の聞き違いだと思ったんだが、そのどちらでもなかったようだ。
「はい、学園の傍から通話しておりましたので」
「てっきりイギリスから電話をかけているんだと思ってましたよ」
セシリアが長期休暇のとき地元で忙しくしているというのは、前に聞いたことがある。今回の件も実家絡みということで、場合によっては色々と支度が必要になると思っていた。それだけに、いささか拍子抜けの感は否めない。
挨拶もそこそこに、俺はチェルシーさんを部屋の中に招き入れて椅子を勧める。
「ありがとうございます」
チェルシーさんは俺が対面の椅子に座ったのを確認してから、丁寧にお辞儀をし、淀みのない仕草で椅子に腰掛けた。ヘッドドレスまで装着したメイド服の女性がいると、なんだか部屋のグレードが上がったような気がするのだから不思議なものだ。
こちらと向き合ったチェルシーさんの表情は穏やかだったが、どこか陰りが差しているようにも見える。
「お嬢様とのお見合いは先方が非常に乗り気で、あちらが日本まで出向いてくださることになっておりました。私も付き添いのため、昨日から日本に滞在しております」
「そうだったんですか」
「ちなみにお見合いは、駅前のホテルにあるレストランで、今夜これから行われることになっています」
「本当に急なんですね」怖じ気づいたわけではないが、正直この急展開には驚きを隠せない。
「はい。私としましては、もうしばらく織斑様とお話したいのですけれど、事態は一刻を争いますので本題に入らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「わかりました。もしだったら、お茶でも淹れようと思ったんですけど」
「まあ。それはむしろ私の仕事ですわ」
本心からの台詞だったにも関わらず、軽口だと思われたのか、チェルシーさんはパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
やはりこの人はすごく綺麗だ。身に纏っている雰囲気が華やかなのに控え目で、こういうのが大人の余裕というやつなんだろうか。俺たちと何歳も違わないはずなんだけどなあ。
「まずはこちらに着替えて頂けますか?」
そう言うと、チェルシーさんは傍らに抱えていた銀色のケースを自分と俺の間に置いた。
ケース自体には、なんら変わったところは見当たらない。実はさっきから気になっていた一品で、女の細腕では辛そうな大きさなのにチェルシーさんが軽々と運んでいるものだから、代わりに持つと言い出しそびれてしまったのだ。
慣れた手つきでケースを開け、チェルシーさんが中から取りだしたのは、
「スーツ、ですか」
「はい、スーツです」
「白いですね」
「はい、白いです」
英語の教科書を直訳したようなトークになってしまった。
チェルシーさんが俺に着替えを要求したのは、白のスーツ。色は普段着ているIS学園の制服と変わらないのに、スーツというだけでちょっと印象が変わるのはなぜだろう。言葉を選ばずに言うとそのスジっぽい。果たして俺に着こなせるんだろうか。
とはいえ、セシリアの置かれた状況を考えたら、あれこれ不満を漏らしている時間はない。
「ええと、これを着ればいいんですね?」
「ええ。よろしければお手伝いいたしましょうか」
「ああ、いや、だいじょうぶです」
「そうですか……」
いや、どうしてそんな残念そうなんですか。
「じゃあ少し失礼して、洗面所で着てきますんで」
幸か不幸か、最初に受けた雑誌の取材以来、写真撮影されることが増えたので、この手の服を着るのもだいぶ慣れてしまった。まあ、何事もやってみて損になる経験はないと思うし、これはきっと幸いなことに違いない。
そんなわけで、スーツを受け取って洗面所に引っ込み、手早く着替えてみたのだが、
「……似合わねー……」
白一色というのは逆に派手になってしまうようで、撮影のときとは比べものにならないくらい「衣装に着られている」感が凄まじい。うーむ、まさかこんな形で、自分がまだまだガキんちょだと思い知らされることになるとは。もっとも、成長したからといってこんな服が似合うようになったらそれはそれで嫌なんだが。
一緒に渡されたシャツが濃紺だったのが唯一の救いだな。これが例えばギラギラの赤だったりしたら、完全に勘違いした若頭とかそういう風情である。
しかしまあ、いつまでもグダグダしているわけにもいかないので、覚悟を決めて洗面所から出る。チェルシーさんに笑われたりしたらショックだなあ……俺。
「あの……すみません、お待たせしました」
「いかがでしたでしょうか? サイズはぴったりのはずなのですけ……ど……」
あー、やっぱり。チェルシーさんも反応に困ってるよ。
スーツ姿の俺を見てチェルシーさんは何度か目を瞬かせ、もう一度頭の先からつま先までをまじまじと見つめ、
「いやあ、せっかく用意してもらったのに申しわけ、」
「――とてもよくお似合いです!」
「ええっ!?」
「雑誌などで織斑様のお写真を拝見したときから、これは似合うと思っていましたけど、実際に着て頂くと素晴らしいの一言です!」
雑誌のグラビア、チェルシーさんも見てくれてたのか……知ってる人に見られていると思うと少し照れくさいな……じゃなくて。
「それマジで言ってます?」
「マジです」
力強く頷いたチェルシーさんの瞳は、怪しい光を携えて爛々と光っている。
たしかに嘘はついていないようだが、ぶっちゃけ少しだけ怖い。
「で、でもほら、なんか無理してる感ありません? 自分だとあんまりしっくりこないっていうか」
「ああ、なるほど」わかってくれたのか、と思ったのも束の間。「――そこが母性本能をくすぐるポイントなのですね」
「なんですかそのポイント!?」
「それは男性の方にはやや伝わり辛いと思われます」
ずっるー。こんなふうに言われたら、男の俺には反論のしようがない。
「これで衣装は問題ありませんので、次は詳細な打ち合わせに移りましょう」
「は、はあ……」
完全にペースを握られっぱなしである。
このへんの隙のなさも、年上ゆえということなんだろうか。
いや、年齢とか関係なく、チェルシーさんには勝てる気がまったくしないけど。
案外、セシリアもチェルシーさんに対してはこういう感じで、いつも敵わないと思わされているのかもしれない。うん、実にありそうだ。
「お見合いの場には私がお連れいたします」
「はい。よろしくお願いします」
「その後タイミングを見計らい私が合図いたしますので、そうしたら織斑様はお嬢様のテーブルに駆けつけて力強くこうおっしゃってください」
チェルシーさんは、そこでひと呼吸を置いて、
「『セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています』と」
空気が凍りついた。
正確には俺の思考が停止した。
いやいやいや、それはさすがにおかしいだろう。
……おかしいよな?
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか、チェルシーさん」
「はい? どうかいたしましたか?」
「たぶん俺の聞き間違いだと思うんですけど」渇いた喉を湿らすために唾を飲み込む。「それだと俺、セシリアに愛の告白しちゃってませんか?」
「しちゃってますね」
ですよねー。
しかもお見合いの真っ最中に、である。いつの時代のドラマだよ、と思わず突っ込みたくなるのは俺だけではあるまい。
「えーとですね、さすがにそれは……」
「織斑様、私は最初に申し上げたはずです。お嬢様の恋人としてお見合いに乗り込んでぶち壊しちゃってください、と」
「……あ」
ハッとする。
そうだ。一番最初の電話のとき、たしかにチェルシーさんがそんなふうに言っていた記憶がある。
しかも俺、勢いに任せてすごくいい返事をした気がする。
間違いなく、した。
つまり――
「……拒否権はないってことですよね」
「いえ、決してそのようなことはありません。私としてはお見合いを台無しにするため、もっとも効果的な手段を選択したつもりですが、織斑様の意思に反してまで実行しようとは思っておりません。もし織斑様がどうしても、絶対に、例え方便であってもセシリアお嬢様に愛の告白をしたくない、お嬢様のことなんて友人とすら思っていないとおっしゃるのであれば、泣く泣く断念する所存です」
胸のあたりをザクザク刺されている心持ちなのは、おそらく俺の良心が痛めつけられているからに違いない。
いくら俺でも、チェルシーさんが敢えてそういう言い方をしているのはわかる。が、それはきっとチェルシーさんがそれだけ必死だという証明で、それだけセシリアのことを思いやっているということでもあるから、責めようとは思わない。
正直な話、嘘をついて誰かを騙すのは気持ちのいいことではない。しかし、俺の良心と友人の危機を天秤にかけたら、どちらに傾くかなんてのは火を見るよりも明らかだ。
チェルシーさんは真剣な目つきで俺を見つめている。俺のほうがかなり背が高いので、こちらから見下ろすような格好になっているのに、怯んだ様子などはまったく見受けられない。
そんなチェルシーさんの気丈な姿を見て、俺の心は固まった。
「わかりました。やります」
自らの決意を示す意味も込め、ひと息で答える。
すると、チェルシーさんは控え目に咲く花のような笑顔を浮かべ、
「ありがとうございます。そう言ってくださると信じていました」
それから急に笑みを深くして、
「では予行練習をいたしましょう。はい、どうぞ、織斑様」
「れ、練習なんて必要ないですよ」
「いいえ、織斑様。皆、初めはそう言うのです。運動会しかり、卒業式しかり、練習など必要ないと。ですが、もしもぶっつけ本番で失敗してしまったら、一生忘れ得ない思い出が失敗した口惜しさで塗りつぶされることになるでしょう。そうならないために、予行練習は欠かすことができないのです」
一気にまくしたてられると、なんだかそんな気分になってくる。
言われてみれば、一度言うのも二度言うのも変わりないし、だったら練習しておいたほうがいいかもしれない。肝心なところで台詞を噛んだりしたら目も当てられないしな。
「さあ、織斑様。『俺は織斑一夏と申します。俺はセシリアを愛しています』と、できるだけ力強くどうぞ」
「わ、わかりました」
俺はもう一度、喉を湿らすために唾を飲み込んだ。
口に出す前に、頭の中でシミュレートしてみる。
セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています。
セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています。
セシリアとお付き合いしている織斑一夏です。俺はセシリアを愛しています。
よし。
いける。
迫力のある大きな声を出すコツは、腹に力を入れることだ。
丹田に意識を集中し、大きく息を吸い込み、溜め込んだ力を一気に放出する!
「一夏、よかったら私と夕食に」「ねえ一夏、一緒に晩ごはん食べに」
「――セシリアとお付き合いしている織斑一夏です! 俺はセシリアを愛しています!」
室内に俺の声が鳴り響く。
さすがに嘘の告白とはいえ、顔が熱くなっているのがわかった。
そして、俺が台詞を口にするのとほぼ同時に、部屋のドアが開いたのもわかった。
言ってやった、と仄かな達成感に浸る暇もなく。
俺の両目は、ドアを開け放ったまま放心するふたりの幼なじみの姿を捉えていた。
*****
「やっぱりこうなるのかよ!」
箒と鈴の繰り出した初撃を奇跡的にかわした俺は、チェルシーさんを両手で抱えて部屋から廊下に飛び出した。どちらか片方にドアを塞がれていたらそこで詰んでいたので、運がよかったといえばその通りかもしれない。
「待たんか! 一夏! そこに直れ!」
「待ちなさいよ! 一夏! どういうことか説明しなさいよね!」
背後から憤怒にまみれた声が追いかけてくる。
二人とも周囲に被害が出ないよう、ISを腕だけ部分展開していた。さすがにここでロングレンジの武器を使ったりはしないだろうし、そういう意味でも首の皮一枚繋がった状況と言えよう。……捕まったらおしまいなのは変わりないけどな!
「大変なことになってしまいましたね」
などと言いつつ、腕の中ではチェルシーさんが平然とした様子で微笑を携えていた。
言うまでもないことだが、俺も箒たちと同じように白式を部分展開している。チェルシーさんの名誉のために断っておくと、べつに体重が重いのではない。ぶっちゃけ、どんなに軽くても大人を一人抱えて走るなんて芸当は、よっぽど体格差がないと映画やドラマでもなければ不可能である。
「織斑様にお姫様だっこされてしまいました……これはあとでセシリアに自慢できそうです」
「舌噛むといけないのでしゃべらないでくださいね!」
余裕ありすぎだこの人!
こっちは色んな意味で余裕がないってのに!
正直な話、こんな体勢でいると邪念を振り払うので精一杯だ。チェルシーさんは香水とは違うなにかいい香りがして、白式を出さずに生身で抱きかかえていたら更に大変なことになっていた可能性がある。
「とりあえず、ちょうどいいのでこのまま学園の外に出てしまいましょう」
「は、はい」
「表に車が用意してありますので、駐車場までよろしくお願いいたします」
駐車場か。果たして辿り着く前に二人を振り切れるだろうか。
しかしまあ、どちらにせよアテもなく逃げ続けるのはきつすぎるので、指針ができたのはありがたい。
夕食時ということで、あまり人気のない廊下を走る、走る。どこぞの高級ホテルみたいな作りの建物だと常々感じていたが、このときばかりは広々とした廊下でよかったと心の底から思う。
とはいえ、完全に生徒がいないわけではないので、当然俺たちの姿は何人かの女子に目撃されることになった。
「お、織斑くん!? なにしてるの!?」「きゃー! 織斑くんが白いタキシードを着てメイドさんをお姫様だっこしてる!」「やだ……似合いすぎ……かっこいい……」「なになに!? なにかの撮影!? カメラどこ!?」「あのメイドさんが五反田くんだったら完璧なのに!」
……一人だけよくわからないことを口走っている女子がいたが、深く考えると怖いので突っ込まないでおこう。
「話には聞いておりましたが、織斑様はとても人気があるのですねえ」
「そんなことないと思いますけど!」珍獣扱いされている、というなら同意だが。
「いえいえ、そんなことありますとも。少なくとも篠ノ之様と凰様はそのようにお思いのようですし」
「え……?」
背筋に寒いものを感じ、後ろに意識を集中すると、
「一夏……! ちょっと似合う衣装を着込んでいるからといって、でれでれと鼻の下を伸ばしおって……ただで済むと思うな!」
「ふ、ふ……お姫様だっこ……お姫様だっこ……あたしだってしてもらいたいのに……!」
迫りくる殺意の圧力が膨れあがったのを感じた。
さすがになにを言っているのか聞き取れるほど余裕はないが、あいつらはいわれのないことで俺を非難しようとしているに違いない。さすがに半年以上同じ時間を過ごせば(鈴は二組だが)それくらいはわかる。
客観的に分析すると、さっきまでは「捕まる=正座」だったのが、「捕まる=死」にランクアップした感じ。……あれ? 俺、やばくね?
このままではまずい、ということで、無意識のうちに足に力がこもった。白式のサポートを受けているおかげで、チェルシーさんを抱えているハンデはほぼないと考えられる。つまり素の走力が明暗をわけることになり、いくら運動神経がいいといっても男の俺が箒と鈴に走り負けることはない。
なので、このままいけば、振り切れないにせよ、追いつかれることはないと思っていたのだが。
「げっ!」
「おっ、織斑く~ん! 止まりなさ~い!」
角を曲がった先、廊下の端に、両手を大きく広げて通せんぼをした山田先生が立っていた。
「ろ、廊下は走っちゃいけません! あとISの無断使用も禁止されてるんですからね~!」
力が抜けるような声で注意され、思わず速度を緩めそうになるが、
「いけません、織斑様。追いつかれてしまいます」
チェルシーさんに指摘されるまでもなく、箒と鈴が迫っているのは気づいている。
「この不埒者め!」「覚悟しなさいよね!」
「くっ……!」
前門の虎、後門の狼。
箒と鈴は言うに及ばず、山田先生も元とはいえ代表候補生の強者だ。普段はおっとりしているが、ここ一番の動きで先手を取れると思えない。なにより力尽くで振りきるような手荒な真似をしたら大問題になってしまう。
「ちくしょう……ほんの少しでも隙があれば!」
毒づいてみても状況は変わらない。好転するどころか、刻一刻とゲームオーバーへと近づいていく。
眼鏡の奥の瞳に涙を浮かべている山田先生のところに到達したら、俺は足を止めて降参するしかない。
「隙、ですか」俺の腕の中でチェルシーさんがなにやら考え込む素振りを見せる。「隙を作れば状況を打開することができるのでしょうか?」
「え? ええ、まあ、たぶんなんとかなると思います」
ようするに正面からぶつかるのがNGなわけで、例えばなにかに気を取られた山田先生の脇をノータッチですり抜けられるのであれば、まったく問題はないのだ。それができそうにないから困っているというか詰みなんだけどな。
「でしたら、私が隙を作りましょう」
「マ、マジですか?」
「マジです。ただしおそらく織斑様にも少なからず衝撃が加わりますので、なにが起こっても決して気を緩めず走ってください」
「わ、わかりました」
なにをするつもりなのかわからないので恐ろしくはあるが、他にいい方法が思いつきそうにないので、他に返事のしようがなかった。
そうこうしている間にも山田先生との距離はみるみるうちに縮まっていく。結構な勢いで走っているのに、避けようという素振りさえ見せないのは、さすが元代表候補生といったところか。涙目だけど。
「とっ、止まってくださ~い!」
廊下の端まで、あと十数歩。
速度を落とすことを考えると、このへんがデッドラインだ。
「チェ、チェルシーさん!」
「はい。お任せを」
あくまでも平静を保ったまま、チェルシーさんは小さく頷き、
それまで胸の前で重ねていた両手を俺の背中にするりと回し、
ぐっと身体を起こして、それまで以上に上体を密着させると、
「ふふっ」
年上らしからぬ、いたずらを思いついたような可愛らしい笑みを浮かべながら、
「――失礼しちゃいますね♪」
俺のほっぺたに唇を近づけた。
というか、くっつけた。
それは、いわゆる、キスというやつだった。
「……………………………………………………………………えええええええーっ!?」
いくつかの悲鳴が重なった。
山田先生は一瞬だけ固まったあと、「とんでもないものを見てしまった」という表情で顔を真っ赤にしてその場にへたりこむ。後ろから追いかけてくる足跡も消えたようだが、箒と鈴のリアクションを確かめようという気は起きない。
なにしろ俺もテンパっているので。
許されるなら俺も同じようにへたりこみたかったので。
しかしここで俺まで動揺してしまったら元の木阿弥。せっかくチェルシーさんが作ってくれた隙が完全に無駄になってしまう。目的を忘れてはならない。織斑一夏はセシリアのもとへ向かわなければならない。
だから俺は先刻の「なにが起こっても気を緩めず走ってください」というチェルシーさんの言葉に従い、瀕死になった心を身体と切り離してひたすらに足を動かし続ける。駐車場を目指して走り続ける。
「うまくいきましたね」
「で、ですね」
「篠ノ之様と凰様も振りきれたみたいですし、これなら妨害にあわずにすみそうです」
「で、ですね」
「セシリアお嬢様の料理ってとんでもない味ですよね」
「で、ですね」
「やっぱり織斑様もそう思われますよね」
「……はい!?」自動的な存在になっていたせいで誘導尋問引っかかってしまう俺。「い、いやまあ、あれはあれで個性的な味だと……」
慌てて言い繕おうとして、ふと気づく。
チェルシーさんは口元に手を当てて笑いを堪えていた。
どうやら俺はからかわれたらしい。色々な意味で。
「先ほどはいきなり失礼いたしました」
「あ、ああ……いえ……」
かすかに顔が熱くなるのを感じたが、ここまであっけらかんとされてしまうとなにか言い返す気も湧いてこない。緊張と動揺でガチガチになっていたのが嘘のように肩の力が抜けた。
……まあ、海外では頬にキスをするのは挨拶なんていうのも聞くし、俺が考えているほど大袈裟なことではないんだろう。たぶん。
「……参りました」そんな言葉が自然と口をつく。
「どうしました? お嬢様の料理のお話ですか?」おそらくすべてわかったうえでチェルシーさんはわざととぼけてみせる。「あれは一度、織斑様のほうから指摘して頂ければ、すぐにでも改善できると思うのですけど」
「それは……はい……ちょっと難しいですね……」
「織斑様はお優しいですね」
「いやもうホント、そんなことないですんで……」
まずいな。
俺は本格的に、この人に太刀打ちできそうにない。
「わー、織斑くんがすごいことしてる」「だれだれ? あのメイドさん誰!?」「なんだか愛の逃避行って感じー、憧れちゃうー」「織斑くんってやっぱり白が似合うよね!」「王子様みたいだなあ」「一夏くんは思ったとおり攻めも受けもいけちゃうタイプね」
それから駐車場に辿り着くまでの間にも何人かの生徒とすれ違ったが、誰がなにを言っているのかいちいち気にしている余裕はなかった。なぜか一人だけ通常と異なる価値観の持ち主が含まれていたのはスルー。断じてスルー。
箒たちが追いかけてこないなら、あんなふうに抱きかかえたままでいる必要はなかったと気づいたのは、チェルシーさんが運転する車に乗り込んでからだった。
*****
セシリアのお見合いが行われることになっているホテルには五分ほどで到着した。
駐車場に車を止めてから、チェルシーさんに伴われて正面ゲートに向かう。すでにあたりはすっかり暗くなっていたが、街灯のおかげで昼と見まがう明るさだ。人の行き来が途切れる気配もない。
近づいていくにつれ、IS学園と同じく近代化ここに極まれりといったスケール感のある外観に圧倒される。中まで入ったことこそないが、生活圏内にあるので外から見たことは何度もあった。
しかし、こうして直下から見上げると、また違った趣を感じる。漫然と眺めるのと目的があって中に入ろうとしているのでは、自分の心構えがまったく違うからだろう。
「緊張なさっていますか?」
「いえ、だいじょうぶです」
気遣ってくれるチェルシーさんに目線を向け、頷く。
べつに強がっているわけではない。学校の試験や部活の試合と同じだ。いざ始まってしまえば、あとは勝手に事態のほうが終わりまで進んでしまう。だったら緊張しても仕方がないし、学園で話を聞いたときに腹は決まっている。
そのへんはしっかりチェルシーさんには伝わったようで、俺と目を合わせたあとで力強く頷き返してくれた。
「お嬢様のこと、よろしくお願いいたします」
「はい」
箒たちとの追いかけっこで乱れた服装は、車の中でしっかりと整えてある。あとは打ち合わせどおり、お見合いの席に駆けつけ、セシリアへの嘘の告白をするだけだ。
そのあとどうすればいいかチェルシーさんに訊ねたら、「初めに強く告白して、あとは流れでお願いします」とどこかで聞いたような文言で返されたが、……まあ、そのへんはなんとかなるということなので信じるしかない。
よし、行くか。
意を決し、一面ガラス張りの正面ゲートへと歩みを進めようと一歩を踏み出し、
甲高い音を立て、俺のつま先あたりのコンクリートが数センチ抉れた。
「――おわっ!?」
ワンテンポ遅れて後ろに飛び退る俺。
実際にはまったく意味のない行為なのだが、反射的に身体が動いてしまう。
な、なんだ一体!?
まさか銃かなにかで狙われたのか!?
「どうやら間に合ったようだな」そんな疑問には、背後からの聞き慣れた声がすぐに答えてくれた。「ふ……危ないところだったな、一夏」
「ラウラ!」速攻でフリーズから復帰した俺はドヤ顔で姿を現したクラスメイトに駆け寄る。
「なに、礼には及ばん。嫁の危機を救うのは当然の、」
「危ないのはお前だーっ!」
猛烈にツッコむ。俺だからこれだけで済んだが、千冬姉だったらゲンコツを振り下ろしている場面だ。
「……む?」ラウラは眼帯に覆われていないほうの目を意外そうに細める。「一夏、お前はなにを言っているのだ?」
「なにを言ってるのだもお前だーっ!」
日本の生活にもだいぶ慣れてきたと思っていたのに、いきなり突拍子もないことをしてくれるなコイツは!
「あのなあ」俺はラウラが手に持った小銃を指さす。「前にも言ったかもしれんが、そういうのは外で使っちゃダメ、絶対」
「緊急事態だったのでやむをえず使っただけだ。責められるいわれはない」
「ほーう」
埒が明かなそうなので、手早く伝家の宝刀を繰り出す俺。
「なら千冬姉に報告してもいいんだな?」まあ俺が言うまでもなくお見通しだと思うが。
「な、なんだと?」
ラウラはわかりやすく狼狽する。
「やましいことがないなら、千冬姉に同じ説明をすればいいだけだろ」
「ま、待ってくれ。そもそもこれは実弾ではないぞ?」
「質じゃなくて威力の問題だ。どうすんだよ、地面にちょっと穴あいちゃってるし」
「もちろんあとで直すつもりだ。マナーを考えれば当然のことだろう」
「どうしてその配慮をべつの形で表現できないんだ……」
深呼吸代わりに、ひとつため息。
思わぬ妨害にあってしまったが、こんなことで気勢を削がれるわけにはいかない。
「悪いけど今は構っていられないんだよ。話ならあとで聞くから、ちょっと待っててくれ」
踵を返し、再び正面ゲートへ向かおうとすると、
「却下だ。私の目的はお前をこの先へ行かせないことだからな」
ラウラは素早く俺の前に回り込み、腕を組んで仁王立ちした。
今気づいたが、ラウラは制服姿のままだ。こんな場所で、いわくありげな白いタキシード男と、有名なIS学園の生徒が対峙していれば、いやがうえにも人目を引いてしまうだろう。
これ以上、ここで騒ぎを起こすのはまずい。ISを部分展開するような離れ業はもちろん使えないし、ラウラが立ちふさがっている以上、振りきってホテルの中に入るのは難しい。
俺ははやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……どうして俺を行かせたくないんだ? 今回ばかりは冗談抜きで邪魔して欲しくないんだが」
言外に「大人しくどいてくれ」という意味を込める。
が、ラウラの返答は意外なものだった。
「理由は、そこの女に聞くがいい」
「そこの女……って」
ラウラの視線を追って肩越しに振り返ると、そこには先ほどまでと同じようにチェルシーさんが佇んでいた。
思わず目を細める。街灯の明かりの関係か、逆光のようになってしまっていて、表情が見えない。けど、なんとなく微笑を浮かべているのではないかと思う。先ほどまでと同じように穏やかで静かな微笑を。
「……チェルシーさんのことを言ってるのか? ラウラ、お前は一体なにを――」
「――セシリアのお見合いは、チェルシーさんのブラフだったってことさ。一夏」
チェルシーさんの更に背後。集まりつつあるギャラリーをかきわけるようにこちらに向かって歩いてくるシルエットは、ラウラと同じくIS学園の制服を着ていた。
「シャル……?」
「ですよね。チェルシーさん」
シャルは俺の呼びかけには答えず、悠然と佇むチェルシーさんに語りかける。
俺とシャルの視線に挟まれながらもチェルシーさんは微動だにせず、一言も発しようとしない。
セシリアのお見合いがブラフ?
チェルシーさんの?
どういうことだ?
「つまりこういうことだ」沈黙が支配する場で最初に動いたのはラウラだった。「現在セシリアはこのホテルの最上階にあるレストランで会食会を開いている。自国の有力者が来日するのに合わせた催しらしい。やつが昨日学園を欠席したのは、その準備のためでもある」
「……その会食会が見合いも兼ねてるってことじゃないのか?」
「その可能性は限りなく低いと思うよ。なにせセシリアが一緒に夕食を食べている相手は」
シャルは一旦そこで言葉を切り、
「――女性の方みたいだからね」
衝撃の事実を口にした。
同性で付き合う人もいるっていうけど、ぼ、僕はやっぱり異性とのほうがいいな、とつけ加えていたのは聞かなかったフリをしておこう。うん。
「更に言えば、セシリアの会食相手はイギリスでマスメディアの元締めみたいな真似をしているそうだ。もしも一夏がそんな格好でテーブルに押しかけ告白などしようものなら、明日には英国民すべてがその事実を知ることになっただろうな」
淡々と事実だけを述べるラウラ。
まああれだ、そういう格好もなかなか似合うではないか、とかつけ加えていたのも聞かなかったフリをしておこう。うん。
「……色々と聞きたいことはあるんだが」
俺はシャルのほうに顔を向ける。ラウラに聞くと返答が戻ってくるまでのプロセスが増えそうなのでショートカットショートカット。
「とりあえずお前ら、どうしてセシリアの事情を知ってる?」
「……え……」
シャルは「そんなこと聞かれると思わなかった」みたいな顔をして固まった。目が泳ぎまくっている。
救いを求めるようにふらふらと彷徨わせた視線が、俺の背中側にいるラウラを捉えた。
「そ、その……僕はラウラから聞いて……」
「ほーう」背後を振り返るとラウラは露骨に目を逸らした。「ラウラさんよ、シャルロットさんはこう言ってるが、どういうことなのか教えてくれよ」
ラウラは眼帯をしていないほうの瞳で、上目遣いにこちらの様子を窺いながら、
「…………めの……うきを……」
「聞こえないからもっとハッキリ」
「……嫁の動向を探るために、盗聴器を仕掛けていた……」
「はい、ラウラさんはイエローカード二枚で退場です。千冬姉に報告しておくからな」
「ま、待て一夏! 後生だ! 教官には黙っておいてくれ!」
「断じてノウ」
ここは甘い顔をしてはいけない場面だ。というか一発レッドでもおかしくない所業である。
まあ、やっぱり千冬姉のことだから、お見通しだとは思うけどな。
「――さて」
ようやく本題に入れる。もうこれ以上の脱線はごめんだ。
俺はチェルシーさんのほうに向き直り、彼女を視界に捉え直した。
「チェルシーさん……どういうことですか?」
チェルシーさんは無言。
ぶっちゃけ展開が急すぎてついていけない。
チェルシーさんから電話がかかってきてからずっとそうだ。
あまりにも目まぐるしく状況が変化するので、現状把握だけで精一杯である。
ラウラとシャルの言葉をどこまで信じていいのか、チェルシーさんとどちらを信じればいいのか判断できない。そもそも、どの真実が一番よいものなのかと断言することすらできないと思う。
だから俺は、チェルシーさんがなにも反論してくれないなら、申しわけないが仲間の言い分を信じさせてもらうと決めた。
チェルシーさんの返事を待つ。ラウラもシャルも俺と同じ心持ちなのか、ただただチェルシーさんのことを見つめていた。
じわじわとギャラリーが増えつつある。
こうして立ち尽くしているのも限界か、と思いはじめたころ、
「織斑様、本日はお騒がせいたしました」
チェルシーさんは、音もなく一歩だけ俺のほうに足を進めると、
「すべて私の独断で行ったことです」
メイドの教本に載っていそうな見事な所作でお辞儀をして、
「――申しわけありませんでした」
謝罪という形で、決定的な一言を口にしたのだった。
こうして。
意外な形で、俺の長い長い放課後は終わりを告げたのである。
*****
「それがどうしてこんなことになるんだ?」
夕食後。
代表候補生たちは、俺の部屋に勢揃いしていた。
「で、ですから、わたくしなりに一夏さんにご迷惑をかけたお詫びをしているのですわ! 使用人の不始末は主の不始末ですからっ!」
「いや、それはわかるんだが」
というか、実害はなかったに等しいので、そこまで気にしなくてもいいのに、というのが正直なところだ。
あのあと、一連の騒動の話を聞いたセシリアは俺に平謝りをしてから、なにかしら償いをさせてくれと言ってきた。固辞しようとしたのに結局押し切られ、こんなことになっているわけなのだが――
「なぜにメイド?」
セシリアは頭のてっぺんから足の先まで、完全無欠のメイドさんになりきっていた。
よっぽど恥ずかしいのか、俺の前に現れてからずっと顔を真っ赤にしている。
「わっ、わたくしは貴族ですので……使用人の格好をしていることが最大の罰になるといいますか……」
「そんなこと言ってさ、一夏のメイドがやりたいだけでしょ?」やさぐれた口ぶりで鈴。
「なっ、なにをおっしゃいますかっ! わたくしだって本当はしたくありませんけど、チェルシーが一夏さんにご迷惑をおかけしたからこそこうしてっ!」
「む……一夏。お前さっきからガン見しすぎじゃないか?」言いがかりをつける箒。
「なに? お前は私の嫁なのだから、浮気は許さんぞ」それを真に受けるラウラ。
「ガン見してないし浮気もしてない。っていうか浮気は前提条件を満たしてない」
なんだか俺は一日中誰かにツッコミを入れてる気がする。
「でもさセシリア、嫌だったら着替えてもいいんだぜ? さっきから言ってるけど、チェルシーさんの件はべつに気にしてないし」
「い、いえ、わたくしも、その、本心から嫌と言うわけでは……」
「そうなのか? まあ、俺は似合ってると思うけどな」
「っ!? ほっ、本当ですの!?」
「ああ。セシリアは髪の毛にボリュームがあって綺麗だから、こういうふわふわした服がよく似合うよな。使用人の服っていっても、日本じゃドレスみたいなもんだし」
「き、着てみてよかったですわ……っ!」
スカートをふりふりと揺らしながら、セシリアがくねくねと身悶えしている。チェルシーさんが俺を騙したと聞いたときは顔面蒼白になっていたが、ようやく頬に赤みが差してきたように見えた。
そんな俺たちから少しだけ離れた場所で、
「……どっちに転んでも主の得になるように立ち回るなんて、ホントにチェルシーさんはメイドの鑑だなあ……」
ただひとり得心がいったと頷くシャルの姿が、やけに印象に残った秋の一日だった。
おしまい
八月某日。
IS学園の学生寮の室内で、黒猫の着ぐるみパジャマを着込んだラウラが頭を抱えていた。
この場合、頭を抱えているというのはもちろん比喩であり、実際にはカーペットの床にあぐらをかき、腕組みをして、眼前に置かれた〝とあるもの〟を睨みつけていた。
〝とあるもの〟とは、下着だ。
より正確に言うと、男性もののボクサーブリーフというやつである。黒地に薄くチェック柄が刻まれている、さほど珍しくもないシンプルなデザインの一品だった。
ここIS学園には基本的に女性しかいないので、この下着の持ち主も自然と特定される。
早い話、ラウラが睨みつけているボクサーブリーフは、IS学園唯一の男子生徒である織斑一夏の所有物だった。
客観的に見て、着ぐるみ姿の女子が、他に誰もいない室内で男子のパンツを凝視している図というのは、かなりおかしい。異常と言っても過言ではない。
が、それはラウラ自身も十分に理解しているのか、
「……どうして」
唸るような呟きが、ラウラの口からこぼれる。
「……どうして、私はこんなことをしてしまったのだ……」
それはもはや懺悔だった。
後悔に彩られたラウラの言葉は、誰に受け止められることもなく、室内の静寂に吸い込まれていく。
同室のシャルロットの姿はない。彼女もラウラと同じく帰省していないので、おそらく所用で少し出かけている、といったところだろう。
いつ出かけたのかは、わからない。
そして、いつ帰ってくるのかもわからない。
「くっ……もしこんなものをシャルロットに見られたら、私はもうここにいられなくなるかもしれないというのにっ……!」
忌々しげに吐き捨てながら、ラウラは強く唇を噛み締めた。
「クラリッサ……私は……私はどうすればいい……?」
弱気の虫が顔を出し、ラウラは思わず手元の携帯電話を強く握りしめる。短縮のボタンひとつで信頼する「戦友」に繋がるそれに、知らず頼ってしまいそうになる。
しかし、とラウラは首を横に振った。
ただでさえクラリッサにはいらぬ世話をかけているのだ。頼りきりになるわけにはいかない。
ゆっくりと息を吸って、吐く。
それを何度か繰り返すと、徐々に頭の中がクリアになっていくのを感じる。
「落ち着け。これしきのアクシデントは想定内だろう、ラウラ・ボーデヴィッヒ」ラウラは自らに言い聞かせるように口を動かす。「そうだ。私は誇り高き軍人だ! そして、女だ! 軍人として、女としての矜持にかけて、私はこのミッションを遂行してみせる!」
ひとりきりの室内に、凜とした声が響く。
その声音から、先ほどまでの悲壮さは微塵も感じられない。
「私を見守っていてくれ、クラリッサ!」
完全に気持ちを切り替えたラウラは、直面した問題――一夏のパンツをどうするかということ――について正面から向き合う決意を固めたのだった。
<黒ウサギと男性下着をめぐる冒険>
とは言ったものの。
そもそも、こうしてラウラが頭を悩ませているのは、遡ること一時間ほど前、当のクラリッサと行った通話が原因である。
定時報告という名目の「今日は一夏とどうした」とか「これから一夏を嫁にするためにはどうする」とかいった話が一段落したとき、クラリッサが不意にこう切り出したのだ。
『ときに隊長は、〝おまじない〟というものをご存じですか?』
「む。なんだそれは」
『いわゆる呪術というものです。神秘的な力を持つものに祈りを捧げることで、その力を借りて特定の願いを叶えようとする行為を総称し、〝おまじない〟と呼ぶのです』
「ほう。つまり占いのようなものか」
ラウラの脳裏に、教室の姦しいやり取りが浮かぶ。クラスの女子たちが、布仏本音あたりの机を囲んで占い雑誌を肴にするのは、一学期中によく見かけた光景だった。
『方向性は似ていますね。ですが、あくまでも結果のみを導き出す占いに比べ、〝おまじない〟はむしろ自らの力で望む結果をたぐり寄せるものです。――どちらが隊長に向いているかは、私が言うまでもないでしょう』
クラリッサは挑発的な響きを隠そうともしていない。言外に「やれるものならやってみろ」という意図と、「隊長ならばやれるはず」という信頼が強く感じられる。
幾多の困難を共に乗り越えた仲間だからこそ、ラウラはクラリッサの言わんとするところをこれ以上ないくらい正確に捉えることができた。
「ふっ……面白い」クラリッサの信頼にラウラは不適な笑みで応える。「我が親愛なる副官、クラリッサよ!」
『はっ!』
「私にその〝おまじない〟の詳細を教えてくれ。私は……私は、どのような困難であろうと必ずやり遂げてみせる!」
『はい、そうおっしゃられると思っていました。それでこそ私の――いえ、我々『黒ウサギ隊』の隊長です!』
結果。
現在、ラウラの目の前には、一夏のボクサーブリーフが鎮座している。
理由は実にシンプルで、『気になる異性の持ち物を常に身につけていることで想いが伝わるという有名な〝おまじない〟があります』とクラリッサに教えてもらったからだ。
そんなアドバイスをよりどころに、ラウラは普段と同じように一夏の部屋に忍び込み、しかし普段と違い「一夏の所有物を持ち帰る」という行為には言い知れない罪悪感があり、どうしようどうしようとテンパっているうちに一夏が戻ってきた気配を感じ、咄嗟に近くにあったものを懐に突っ込んだら、それがたまたまボクサーブリーフだった。
そういった経緯を辿り、ラウラは一夏のパンツを持て余している。
ミッションを遂行するため――つまりクラリッサが言うところの〝おまじない〟を実行に移すためには、こうしてボクサーブリーフを睨みつけていても埒が明かない。何故ならば、〝おまじない〟は、思い人の持ち物を常に身につけていなければならないのだから。
「身につけるというと……や、やはり、本来の用途に従うべきだろうか……」
誰かに問いかけるというより、自らに言い聞かせるように口を動かし、ラウラはおずおずとボクサーブリーフに手を伸ばそうとする。
これが他の、例えば一夏の文房具などであれば、自分のペンケースに入れておけば済んだかもしれない。
が、ラウラが手に入れたのは文房具ではないのだ。パンツなのだ。
パンツ本来の用途とは、即ち穿くこと。
ようするにコレを自分が穿く、ということであり、それはなんだかいけないことのような気がすごくする。
「う、うう……」
あと数センチで指先がボクサーブリーフに触れる、といったところで、ラウラの手が止まった。ラウラは困り果てた顔で、うめき声をしぼり出す。部屋はちゃんと空調が効いているのに、頬がうっすらと紅潮している。
べつに男性ものの下着を穿くことを忌避しているわけではない。元来そういったことに無頓着なラウラは、納得に足る理由さえあれば、大抵のことはさらりと実行に移してしまえるはずだった。
しかし、
「い、一夏の下着を……私が穿く……?」
言葉にしてみると、より明確にイメージできてしまう。それはつまり、一夏のアレが触れていた部分に自分のあんなところが触れるということで、もはやコレは間接キスならぬ間接性行為と言っても過言ではない。もちろんボクサーブリーフは洗濯してあったが、この場合、洗濯済みかそうでないかというのは些細な問題に過ぎないのである。
なんだこの女ネンネぶりやがって前は素っ裸で一夏のベッドに潜り込んでたじゃねえか――などと言ってはいけない。
いっさい臆することなく全裸で関節技を極めるのがラウラ・ボーデヴィッヒであるならば、水着を披露するときにバスタオルおばけになってしまうのもまたラウラ・ボーデヴィッヒなのである。
ラウラは想像する。
他になにも身につけていない自分が、一夏のボクサーブリーフに片足ずつ通し、神妙な面持ちで穿いている姿を。
「……むっ、むむむ」
一般受けしないというか、一部マニアしか喜ばないというか、ぶっちゃけ普通は軽く「引く」図ではあるのだが、ラウラにとって重要なのは、あくまでも前述の理由で耐えられないほどの羞恥に襲われるということだった。
「無理だぁ―――――――――――っ!!」
ラウラは自分が時計の針になったかのように、頭頂部側のボクサーブリーフを支点にして、ぐるぐると、ごろごろと、円を描くように床を転げ回る。黒猫の着ぐるみがボクサーブリーフの周囲を転がるのは、どこか儀式めいた異様な光景だ。
やがて、ひとしきり転げ回ると、ラウラはぴたりと動きを止める。うつぶせで床に突っ伏し、五体投地の格好で打ちひしがれている様は、とても初対面で一夏を引っぱたいた少女と同一人物とは思えない。
「ダメだ……私には穿けそうにない……」
いや、そもそもこれは最初から詰んでいたのだろう、とラウラは思う。様々な不確定要素が絡んでいたとはいえ、よりによってボクサーブリーフを、下着を持ってきてしまったのは最悪と言えよう。
ため息。
ひとたび無理だと自覚してしまうと、これまでの焦りようが嘘みたいに冷静に考えられるようになってくる。
さすがに、パンツはない。
一夏のパンツを自分が穿くのも、持ち歩いたりするのもありえない。
いわゆる等価交換の法則的な意味で、行為が困難であればあるほど〝おまじない〟の効力が増すというのはいかにもありそうな話ではあるが、「恋愛成就のために相手のパンツを身につけています」と言ってしまうと急に眉唾に思えてくる。もしも相手に知られでもしたら、百年の恋でも冷めてしまいそうだ。
「……ミッションは失敗だな……」
五体投地から微動だにせず、ラウラは呟く。
こうなると、あとに残された問題はひとつだけだった。いかにして誰にもバレずに一夏の下着を元の場所に戻してくるか、ということである。
もっとも、これに関してはそれほど難しくはない。一夏の部屋に忍び込むのはお手のものだし、一夏は下着の数をこまめにチェックするほど神経質ではないだろう。気づかれずに元に戻すのは容易なはずだ。
しょうがない。
諦めよう。
あとでこっそり返しておくか。
のそのそとラウラが身を起こそうとした瞬間、
「ただいまー」
挨拶と同時に部屋のドアが開いた。
同室のシャルロットが帰ってきたと認識するよりも早く、ほとんど脊髄反射のような超反応で、ラウラは床に置いたボクサーブリーフを隠さねばと決断した。どこかに放り投げてしまうわけにもいかず、着ぐるみパジャマを着ているせいで懐にしまうこともできず、ラウラにできたのは猫耳のついたフードの下にボクサーブリーフを突っ込むことだけだった。
「………………おかえり、シャルロット」
「って、うわあ!? な、なにしてるの!?」
「なにもしていないが?」
「していないが? って、むしろどうしてそんなに自信たっぷりなのか不思議なんだけど……」
咄嗟の行動には無理が出る。ラウラは「ボクサーブリーフを隠すこと」を最優先した結果、不自然にブリッジした体勢でシャルロットを出迎えるハメになった。
表面上、平静を装ってはいるものの、内心ではかなり焦っている。それでもポーカーフェイスを貫き通せるのは、決して短くはない軍人生活のたまものだ。
「なに、少し体操をしていただけだ」
「へ、へぇ……」
無表情で答えるラウラの様子を見て、丈の長いワンピースを着たシャルロットは口元を引きつらせている。どう見ても納得はしてないようだが、あまり深く突っ込むのもどうかと考えているのだろう。
「そ、そうだ。ラウラ、喉かわいてない?よかったらアイスティーでも淹れようか?」
「うむ。ではお願いしよう」
やっぱり今日暑かったせいかなあ……というシャルロットの呟きは引っかからないでもなかったが、ラウラは素直に申し出を受けた。
例のあれこれをごまかすのに好都合だというのは言うまでもなく、部屋の中を転げ回ったせいで喉がかわいているというのも嘘ではないのだ。
シャルロットがキッチンのほうに移動したのを確認し、ラウラはようやくホッとひと息をつく。どうやらバレずに済んだらしい。
「それにしても」ちょうど気が緩んだタイミングで声をかけられ、ラウラはびくっと背筋を伸ばす。「ホントに日本の夏は暑いよね。ちょっとびっくりしちゃった」
どうやらシャルロットは、紅茶の用意をする傍ら、沈黙を嫌って話題を振っただけのようだ。
「……そうだな」
ラウラは胸を撫で下ろし、返事をした。
「気温が高いのも辛いんだけど、なによりも湿っぽくて息苦しいのが大変だよね」
あるいは先ほどから挙動不審なラウラを気遣っている、という側面もあるのかもしれない。本人が意識しているかどうか定かではないにせよ、こういう性格のシャルロットだからこそ、自分と同室でも大きな問題が起こらないのだということを、ラウラは自覚していた。
「たしかにな。ドイツの夏はとても過ごしやすかったぞ」
「フランスも同じだよ。ドイツよりは少し暑いかもしれないけど。……まあ、暑いのは我慢すればいいんだけどさ。汗をかいちゃうのは困るよね」
途中で微妙に声のトーンが変わり、ラウラはかすかに眉根を寄せる。シャルロットはまだキッチンにいるので、表情などをうかがい知ることはできない。
「汗が出るのは生理現象だから仕方がないだろう。水分補給さえ怠らなければ脱水症状や熱中症の危険はないと思うが」
「そ、そうじゃなくて……」
なんとなくバツの悪そうな雰囲気が伝わる口調で、シャルロットはおずおずと話を続ける。
「ほ、ほら……匂いとか……気になるじゃない? い、一夏に汗くさいとか思われたらイヤだし……」
「!」
ラウラは思わず自分の襟元や脇の下に鼻を寄せる。幸いなことに柔軟剤の匂いしかしなかった。
ここだけの話、洗濯などはすべてシャルロットがまとめてやってくれている。これまで洗い残しがあったりしたことは一度もなかった。
「僕も色々気をつけてはいるけど、自分の匂いは自分じゃわからないっていうし、日本の男の人は外国の女の人の匂いに敏感だっていう話も聞くし……」
「なにっ? そ、そうなのか?」
驚愕の事実だった。
次の機会にクラリッサに詳しく聞いておこう、とラウラは心に深く刻み込む。
「うん。だから僕たちもお互いに気をつけることにしようよ」
「どういうことだ?」
「自分の匂いはわからなくても、僕はラウラの、ラウラは僕の匂いには気づけるんじゃないかってこと」
もちろんお互いに指摘されるようなことがないようにするのが前提だけど、とシャルロットが早口で補足する。
「了解した」
これはラウラにとっては是非もない申し出だった。IS学園にやってきてからというもの、日々自らの無頓着さ痛感しているのだ。クラリッサのアドバイスはもちろんのこと、こうしてシャルロットが世話を焼いてくれるのは非常に助かる。
「お待たせ」ふたり分のグラスをトレイに載せてシャルロットが戻ってきた。「ガムシロップがなかったからストレートだけどいいよね?」
「うむ。シャルロットの紅茶はなにも淹れなくても美味いからな」
「あはは……普通の水出しだけどね」
空調の効いた室内だというのに、氷の入ったグラスはすでに水滴が浮かんでいる。
シャルロットはトレイをテーブルに置くと、一緒に持ってきたハンカチで水滴を拭き取ってから、グラスをラウラに差し出した。カラン、という氷がグラスに当たる音が、なんともいえない清涼な空気を耳に届ける。
「はい、どうぞ」
控え目な笑顔。
そして細やかな気配り。
こういったシャルロットの立ち居振る舞いは、心から敬意に値すると改めてラウラは感じる。
「……ふむ」
「? どうかした?」
「シャルロットは良い嫁になるな」
「え、ええっ!? い、いきなりなにを――」
「もっとも、一夏ほどではないだろうが」
「……………………はあ。だよね。そうだよね。ラウラって思ったことをそのまま口に出すから、どう反応すればいいのか未だによくわからないよ……」
百面相の末に重々しいため息を吐き出したシャルロットを、ラウラは無表情ながら微笑ましく見つめていた。
グラスに口をつけ、アイスティーをひと口。
ほんのり渋みの効いた味もさることながら、冷たさと清涼さがかわいた喉に潤いを与えてくれる。実に美味い。
もうひと口、とラウラがアイスティーを口に含みかけたとき、
「そういえばさ、ラウラ」
「うん?」
「そのパジャマ、部屋にいるときはずっと着てるよね」
「んぐっ!?」
危ないところだった。ひと呼吸タイミングがズレていたら、アイスティーを水平噴射していた。
「ちょっ、だ、だいじょうぶ?」
慌ててハンカチを差し出すあたり、シャルロットは先ほどの意趣返しをしようと思ったわけではないようだ。
「お、驚かせちゃってごめん。気に入ってくれたみたいで嬉しいなって思っただけなんだよ?」
「あ、ああ……まあ、その……たしかにこれは気に入っている、ぞ?」
「そ、そっか、よかった。じゃあ、今度はべつの服も一緒に買いにいこっか」
「そ、そうだな……そのときはよろしく頼む……」
絶妙な間の悪さも手伝って、ふたりの間には気の乗らないお見合いのときのような居心地の悪い空気が横たわっている。
この雰囲気をどうにかしようと、ラウラは必死に思考を巡らせるが、これまでコミュニケーション能力を軽視していた自分にそんな都合のいいスキルが備わっているはずもなかった。
こうなってしまっては、もはやシャルロットに頼るしかない。やり取りがぎくしゃくしているのは向こうも感じているだろうし、忙しなく視線が泳いでいるのはラウラ同様、頭の中から場に適した言葉を探しているからに違いない。
ラウラは祈るような気持ちで――というほど深刻ではないにせよ、期待感の籠もった目でシャルロットの様子を窺っていた。
だから気づいた。
ふらふらとあちこちを行ったり来たりしていたシャルロットの視線が、不意に一点で停止した。眼帯に覆われていないほうの瞳で、その視線を辿っていくと、どこを見ているのか一発でわかった。
「あれ? ラウラ、フードのところ、なにかはみ出してるよ?」
あるいは。
シャルロットが部屋に戻ってきてすぐだったら、素早く、迅速に反応できたのかもしれない。
が、アイスティーと汗とパジャマの話題を経たラウラの集中力は、残念ながら少しずつ確実に目減りしていたのだ。
だから為す術がなかった。
まずい、と思った次の瞬間には、シャルロットの手によって、ラウラがフードに隠したボクサーブリーフが抜き取られていた。
唖然として口を開け放ったラウラと、笑みと戸惑いを半分ずつ混ぜた表情のシャルロットが、ちょうど正面から向き合う格好になる。
ふたりの間には、シャルロットの手にしっかりと握られた一夏のボクサーブリーフが、その存在を眩いほどに主張している。
「……え……なにこれ……?」
「え、あ、シャ、ちょ、ちがっ」
「……男性用の……下着……?」
「ち、ちち違うぞ! これは断じて一夏の下着などではない! 私は一夏の部屋から持ってきてなどいないぞ!」
語るに落ちるというやつだった。
「えっ、ラ、ラウラってば一夏の下着を持ってきちゃったの!?」
「~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」
終わった、とラウラは思う。
今このとき、自分の学園生活も、恋心も終わってしまったのだと思う。
これが見ず知らずの他人であれば、口封じなども考えたかもしれないが、さすがにシャルロットに対してそのようなことはできない。
そういえば、こういうときに日本では「真っ白に燃え尽きた」と言うらしいとクラリッサから聞いたことがある。
真っ白に燃え尽きた。
実に言い得ている。これほどまでに現在の自分の状態を的確に表した言葉は他にないだろう。
ラウラは今や死刑宣告を待つ囚人と変わらない心持ちでいた。
シャルロットの性格を考えれば、周囲に言いふらしたりはしないとは思うし、今後ラウラとの接し方を変えたりはしないとも思うのだ。
しかしそれとこれとは話が別である。
たとえシャルロットのほうが気にしなくとも、針のむしろに座らせられているような気分で日々を過ごさなければならないとしたら、辛い。
目を伏せたまま、ラウラは待つ。
果たしてシャルロットがどんなふうに自分のやったことを評するのか、無駄だとわかっていても頭の中でシミュレートしてしまう。
引き延ばされた時間は、一秒が一分のようにも感じられた。
「や……」
シャルロットの声。
ついにきた、とラウラは身をすくませる。
ところが、
「やっぱり、これ、被ってたの?」
続けてしぼり出されたのは、シミュレートを重ねたいかなる言葉とも異なるものだった。
思わず顔を上げると、いつの間にかシャルロットは一夏の下着を両手で抱え、ちょっと心配になるくらい目を血走らせていた。
ラウラは軽く引きつつも、先ほどの台詞を頭の中で反芻する。
やっぱり、
これ、
被ってたの?
シャルロットが口にしたのは、ラウラの理解の及ぶ範囲外の出来事だった。
というか、いくらラウラがフードの中に隠していたとはいえ、下着を頭に被るというのは並の発想ではない。
そのためラウラは、理解が追いつかないまま「やっぱり、これ、被ってたの、とはどういうことだ」と、そのまま聞き返すだけで精一杯だった。
するとシャルロットは、
「う、あ、か、被ってた、じゃなくて――」
平坦なラウラの質問をどう受け止めたのか、妙に焦った様子で、
「――か、嗅いでたの? って聞きたかったんだよね、僕は!」
見事なまでに、完膚無きまでに、更に深い墓穴を掘ったのである。
*****
その後。
ラウラはボクサーブリーフ持参で一夏のところに行き、正直に事情を説明した。
結論から言うと、一夏は「俺のものを勝手に持っていくのはやめてくれよ」と軽く注意しただけで、それ以上ラウラの行動を咎めようとはせず、拍子抜けするくらいあっさりと問題は解決した。
正直、もっと他になにか反応のしようがあるように思えなくもないが、IS学園にその名を轟かす唐変木であるところの一夏には〝おまじない〟がどういう意図を持つものなのか気にならなかったらしい。
そして、ラウラは現在、べつの問題に頭を悩ませている。
「言っておくけどね、僕は、本当に、匂いフェチとかじゃないんだよ?」
「う、うむ」
「ねえ、ラウラ、ちゃんと聞いてる? 僕のこと信じてくれるよね? 疑ってないよね?」
「何度も言っているだろう。疑ってなどいない。だから、その、いい加減解放してくれないか?」
「むー……」
シャッロットにジト目を向けられ、ラウラは少したじろぐ。
端から見れば、白猫が黒猫にじゃれついているような微笑ましい光景だったが、実際にじゃれつかれているほうとしてはたまったものではない。その内実が「性癖をつまびらかにされた白猫が必死で言い訳している」のであれば尚更だ。
「まあ、べつに悪いことをしているわけではないし、そんな気にすることもないと思うぞ」
「それって僕が匂いフェチっていう部分はまったく否定してない慰めだよね!?」
「そ、そうか?」
「疑ってないって言ったのに!」
「あれは疑いようもなくシャルロットが匂いフェチだという意味ではないのか?」
「もーっ! 違うってばーっ!」
シャルロットの心の叫びが虚しく響く。
哀れ、黒ウサギに翻弄された二匹の猫たちの一日は、賑やかに、姦しく暮れていくのだった。
おしまい
熱気のこもる体育館に、賑やかな声と、ボールが弾む音と、靴底のこすれる振動が絶え間なく響いている。
そして一枚の壁を隔てた外からは、今の季節にふさわしい、セミたちの大合唱が聞こえていた。
「一夏さん!」
鋭い声と共に放たれたバスケットボールが一直線に向かってくる。
「おう!」
「いかせんっ!」
ボールをキャッチすると同時、俺の目の前にはTシャツ短パン姿でポニーテールを揺らした箒が両手を挙げて立ちふさがった。女子にしては身長が高いこともあり、相対すると想像していたよりも威圧感がある。あるいは箒が剣道の達人というのも関係しているのかもしれない。
そんな箒に対し、俺はリズムよく右足を踏み出す――
「なっ!?」
――と見せかけて、身体を一回転。
ターンした勢いのまま、全身を左側にスライドさせ、フェイントに引っかかった箒を背中に置き去りにして、ドリブルを開始した。
「ひっ、卑怯だぞ! 正面からかかってこい!」
「悪いな! こっちもあまり余裕がないんでね!」
言いながらも、視線は前方を見据えている。
実際のところ、こんなふうに軽口を言い返すことすら許されるかどうか微妙なところだ。
最初はそこそこ余裕だと思ったのに、いつの間にか手加減なんてしたら俺のほうが足を引っ張りかねない状況になっているんだから侮れない。
やはり本気の勝負はいい。競い合うなら本気じゃなけりゃつまらない。
ISの模擬戦も悪くないが、自分の身体のみを使うスポーツとは少し違う。
それはISが『競技』であっても、一皮剥けば『兵器』に他ならないからだ。
だから例えば、この肌を刺すぴりぴりとした緊張感も、ISとスポーツでは質が異なる。
スポーツは、いい。
首筋を伝う汗も不快ではなく、むしろどこか心地いい。
剣道をやめて、こんな感覚からは久しく遠ざかっていたっていうのに。
まさか本気の勝負が、ましてや女子相手にできるなんて思いも寄らなかった。
……まったく、IS学園は最高だぜ!
<彼女【ヒロイン】たちの生存戦略 ~レディ・オン・ザ・フィールド~>
夏休みの初週。
帰省していない面子を集めて、なにかやらないかと提案したのは果たして誰だったか。
ええと、たしかのほほんさんあたりだっけ?
とにかく、せっかくの夏休みにダラダラしているのも勿体ないので、寮に残っていた生徒に片っ端から声をかけて、皆で一緒に遊ぼうということになったのだ。半分以上強制参加のような形で俺も引っ張り込まれてしまった。
そして始まったのが、コレ。
端的に言えば、五人ずつのチームに分かれたバスケの試合である。
カラオケでもボーリングでもなく、バスケ。まあ、ガチガチの整備科志望でもなければ運動が得意な学生が多いので、IS学園らしいといえばらしいのかもしれない。
白状してしまうと、カラオケやボーリングに行くのは(男が俺ひとりという意味で)ハードルが高いから遠慮したかったんだよな。一学期の間で随分慣れたとは思うのだが、それでも平気な顔で女子の集団に混ざるのは、まだまだ荷が勝ちすぎる。
だから、バスケだったら俺のほうで気を遣えば、それなりに良い勝負になるだろうし、それなりに楽しいんじゃないか、なんて思っていたんだが――
適当にチーム分けをして試合を始めてから数分で、俺の浅はかな思い込みは完膚無きまでに破壊されることになる。
「はーい、残念だけどここまでよ! 一夏!」
「ちっ……!」
ドリブルの進路をふさがれ足を止める。
軽快なフットワークで眼前に躍り出てきたのは鈴だ。
「ふっふーん、あたしは情けないファースト幼なじみみたいにはいかないわよ?」
箒と同じくTシャツに短パン姿の鈴は、口元から八重歯を覗かせ、勝ち誇った笑みを浮かべた。少し離れたところから「私は情けなくない!」という叫び声が聞こえてきたが、今は反応している暇がない。
こいつの運動神経のよさは中学時代から思い知らされていたが、ほんの一年で見違えるほど身体能力が上がっていた。というか、身体能力でいえば先ほど抜き去った箒も負けていないと思うのだが、鈴の場合は運動全般――つまりそこには球技も含まれる――がとてつもなく得意なのだ。
それこそ、男女の差なんてものは、最初から存在しないかのように。
「ほらほら、またスティールしちゃおっか?」
「お前な、一度や二度ボールを奪ったからって調子に乗るなよ!」
「お望みなら三度でも四度でも奪ってあげるけど?」
ちくしょう。
ぶっちゃけ、単純なパワーやスピードなら俺のほうが上なのだ。
が、鈴にはそれを補って余りあるすばしっこさ、瞬発力がある。
バスケに限らずあらゆる球技では、長い距離を走るスピードよりも、限られたごくごく短い距離で相手を振り切るスピードのほうが重視されることが珍しくない。そういう意味で、鈴の持つ能力は非常にバスケ向きと言えた。
「はっ!」
「っと!」
なんて考えている隙にも、鈴は俺がドリブルするボールをすくい上げようと腕を伸ばしてくる。危ねえ。一瞬でも反応が遅れていたら、三度目のボールロストを喰らってしまうところだった。
「やるじゃん!」
「そりゃどうも!」
とまあ、こんな感じで。
俺と同等以上に動けてしまう鈴の存在が、二つのチームの力を拮抗させ、実に良い勝負を繰り広げているのだった。
もちろん他のメンバーも、同年代の女子に比べたら段違いにキレがいい。この中にバスケ部の子がいなかったのが救いだったとすら思う。初めの余裕などあっという間に吹っ飛んで、今の俺は真剣そのものになっていた。
「そろそろ降参しちゃえば?」
「……は? なに言ってんだ?」
「だってこのまま続けても、一夏があたしに勝てる見込みは薄いじゃない」
「…………」
たしかに鈴の言うことには一利ある。
パワーとスピードがあるということは、反面、体力をそれだけ消費しやすいということでもあるのだ。本来であれば、それを考慮しても男の俺のほうが体力面で優位に立てそうだが、ことIS学園の生徒、しかも凰鈴音に限っては持久力でも大きな差があるとは思えない。
つーか、たぶん鈴のほうが体力あるよな。代表候補生になるために相当がんばってたみたいだし、剣道をやめてから走り込みをサボってた俺なんかとは比べようもないはずだ。それこそ性別の差なんてなんの役にも立ちゃしない。
「ん? 強がりも言えなくなっちゃった?」
ニヤニヤと挑発するように笑う鈴。いや、するような、じゃなくて実際に挑発している。
こいつはホント負けず嫌いで、勝負ごとにはワリと目がなくて――昔からそうだった。
……ま、だからこそこいつと一緒に遊ぶと面白いんだけどな!
マジでやらない勝負なんてなんの意味もねえ!
手加減しようとか思ってた数分前の俺をぶん殴ってやりてえ!
「鈴」
「なによ?」
「ひとついいことを教えてやる」俺はお返しとばかりに、鈴より更に挑発的な笑みを浮かべてやった。「バスケってのは一人でやるもんじゃないんだぜ――相川さん!」
「っ!?」
鈴が反応するが、遅い。
あくまでも俺が一対一で勝負してくると踏んでいたのだろう。
しかし本気の勝負ってのは一対一に限らない。
できることをすべて出し切ってこそ、本気の勝負というものだ。……決して負け惜しみじゃないぞ。
俺が選んだのは、ドリブルではなく、オーバーヘッドパス。ボールはジャンプした鈴の指先を越え、コートの左サイドを駆け上がっていた相川さんのもとへ。
「やっほー! 織斑くんが名前呼んでくれたー!」
謎のテンションでボールを受け取った相川さんは、ハンドボール部で鍛えた足さばきを駆使してドリブルする。バスケは体育の授業くらいでしかしていないはずだが、元々の運動神経がいいのか、球技繋がりで慣れているのか、相川さんのドリブルはフォームも綺麗でなかなかのスピードだ。
「くっ、これ以上はやらせん!」
そんな相川さんの前に、ヘルプで戻ってきた箒が横から身体を入れる。さすがと言うべきか、抑えるべきところを感じ取るのは、武道で培った本能というやつだろう。
とはいえ、俺も箒を見くびったりはしていない。相川さんを孤立させる気は最初からなかった。
「相川さん! リターン!」
「しまっ……!」
ボールさえ持っていなければ、鈴を振りきるのは不可能ではないのだ。
ちょうどサッカーのワンツーパスの要領で、俺は相川さんからパスを貰える位置に向かって全速力で駆け出している。
「織斑くん!」
「オッケー!」
「ちょっ、一夏ぁ! タイマンで勝負しないなんて卑怯よ!」
俺の幼なじみは二人とも似たようなことを言うなあ、と思いつつ、相川さんからボールを受けてゴールに向かう。
と、そのとき、軽快に相手ゴールに迫る俺の前に、銀色の影が立ちふさがった。
「そこまでだ」
「きたか、ラウラ!」
そう。
当然、相手のチームは箒と鈴だけではない。五対五で試合をしているので、二人をかわしたからといって悠々と得点を決めるのは不可能だ。
「嫁とはいえ、これは勝負だからな。全力でいかせてもらうぞ」
元軍人のラウラから放たれる威圧感は凄まじい。
そして、ぶかぶかのTシャツ(自前のTシャツを持っていないのでシャルのを借りてるらしい)を腕まくりしているラウラの格好は、どこぞの小……中学生にしか見えず、厳めしい表情とのギャップも凄まじい。
ちゃんと短パンは穿いているはずなのだが、パッと見そうとわからないのが際どい。普通のTシャツがロングTシャツの丈になっているせいで、ちょっと危うい見た目になっている。
なんてことを考えていたのがまずかった。
「おやおや~? おりむ~がラウっちを舐めまわすような目で見つめているよ~?」
空気を読まないご指摘は、のほほんさんのもの。
周囲からの視線の圧力が一気に増す。いくつか殺気が混ざっている気がする。
「ていうかのほほんさん! 見てないで試合に参加してよ!」
「いや~、私のポジションは隅っこガード、略してSGなので~」
なんだそれ。全世界のシューティングガードさんに謝れ。
前言撤回。
五対五じゃなくて、実質、五対四で試合をやってます。ハイ。
気を取り直してラウラに向き直ると、眼帯のついてないほうの瞳が上目遣いでこちらの様子を窺っている。頬が赤い。
「し、しょうがないやつだな、お前は……こんなときでも私に目を奪われるとは……」
「いや、俺はなにも……」
「が、我慢しろとは言わんが、時と場所は選ぶべきだろう。こんな衆人の目があるところでは私もさすがに照れるからな……」
完全に誤解していたが、誤解を解いている余裕はない。
状況を考えれば、ラウラの動きが止まったのはむしろ好都合と言えた。
「セ、セシリア! 頼む!」
「わかっていますわ!」
先ほどと同じくオーバーヘッドパスをゴール斜め四十五度に構えたセシリアに送る。
セシリアは危なげなくボールを受け取ると、
「ロングレンジはわたくしの独壇場でしてよ!」
言うほど距離があるわけではなかったが、普段の振る舞いを感じさせる優雅なフォームから放たれたジャンプシュートは、見事に相手ゴールのネットを揺らす。
思わずガッツポーズ。
お手本のようなパスワークからのシュートだった。即興チームではあるものの、数ヶ月同じ教室で過ごした時間は伊達ではない。特に俺とセシリアは、ISの訓練などで培ったチームワークが身についている。
……いや、チームワークというよりも、この場合は信頼関係といったほうがしっくりくるな。
最初に俺へとパスを送ったセシリアは、最終的に俺と相川さんがボールを運んでくると信じてゴール前にポジションを取っていたのだ。ともすれば無駄走りになりかねないので、味方を信じていなければできない動きなのである。
うん。信頼っていいな。
やっぱりチームスポーツは最高だ。
こんな気分は、日常生活じゃなかなか味わえるもんじゃない。
「ナイスセシリア!」万感の思いを込めてセシリアを称える俺。
「当然です! 一夏さんもナイスパスでしたわ!」セシリアは晴れがましい笑顔で俺に向かってグッと親指を立てる。「……それと先ほどラウラさんを見つめていた件については試合後にしっかりと問い詰めさせて頂きますわ!」
「ああ! ……あ? え? なんだって?」
なんだか今、信頼関係とか、そういうのとは真逆の言葉が聞こえた気がしたんだが。
問い詰める? 俺を? 何故?
「さあ! ディフェンス一本ですわよ!」
俺の問いは華麗にスルーされ、守備の時間が始まる。
その後。
試合は結局、俺たちのチームが結構な大差で負けた。
どうしてかそれまで以上に鬼気迫るプレイを見せた箒と鈴の幼なじみコンビを止めるのは不可能だった、と思う。
*****
「あー……参った」
体育館の外にある蛇口を捻り、頭から水をかぶってひと息。
入学当初はともかく、最近は運動不足ではないと自負していたのに、明日あたり軽い筋肉痛になりそうだ。スキーやスケートをやったときの感覚というか、普段は使ってない筋肉を使ったとき特有の気だるさが全身にまとわりついている。
この時間は日射しが厳しいので、できれば屋内にある水飲み場を使いたいのだが、そちらは女子に占拠されていた。と言ってもべつに追い出されたわけではなく、むしろ一緒に使おうと誘われたのを、俺のほうから固辞したんだが。
これだけ暑い中でバスケなんてやったら汗だくになるのは必然であり、多くの女子がTシャツに短パンという格好をしているのであり、ようするに――色々なものが透けるのも必然なのである。
ホント、試合中は全然気づかなかったから、さっきは焦ったぜ……。なるべく自然な様子を装って表に出てきたが、もしも箒や鈴、セシリアあたりに見咎められていたら、水分補給もままならずに干物にされていたかもしれない。
何人かは「俺が気づいたこと」に気づいていたようだが、それでも騒ぎ立てないでくれたのはありがたかった。
というか、気づいてるのに俺を引き留めるってどういうことなんだろうな――
「一夏、お疲れ様」
「おわっ!?」
髪の毛の先からしたたり落ちる水の雫を目で追っていたら、いきなり冷たいものが首筋に押しつけられた。慌てて振り向くと、そこには両手におしぼりと水筒を持ったシャルが立っている。
「驚かすなよ……」
「あはは、ごめんごめん」シャルは俺の抗議をやんわりと受け流し、冷えたおしぼりを差し出す。「これ、よかったら使って?」
「おう。サンキュな」
助かった。タオルを更衣室に置いてきてしまったので、どうしようかと思っていたところだったんだよな。これだけの熱気だから、すぐ乾くとは思うんだが、やっぱり拭いたほうがさっぱりするし。
「いやー、気持ちいいなあ」
ひんやりしたおしぼりを腕や首の脇に押し当てると、その箇所の熱が吸い取られているような気分になる。
そんな俺を妙に嬉しそうに眺めているシャルは、白いワンピースに身を包んでいた。バスケを始める前から同じ服を着ていたはずなのに、太陽の光に照らされた白いワンピースは、体育館の中で見るよりもずっと清涼な印象を受ける。
「飲み物も持ってきたけど、飲まない?」
言いながら、シャルは二リットルのペットボトルと同じくらいの大きさの水筒を掲げて見せた。
「もちろん。……と言いたいところだが、運動したときは――」
「――冷たい飲み物をガブ呑みすると身体によくないから、暖かい飲み物のほうがいい、でしょ? わかってるよ。ちゃんとぬるめのスポーツドリンクを持ってきたから」
「……前に言ったっけか」
「うん。一夏ってさ、見かけによらずそういうところも考えてるよね」
「……見かけによらずってのは余計だろ」
憮然と答える俺とは対照的に、シャルはにこにこと微笑みながら水筒のカップに中身を注いでいる。なんとなく、すべてを見透かされているようでバツが悪い。うーん、出来のいい姉に世話を焼かれるのって、こういう感じなのかも。
まあ、俺には出来のよさでいえば筋金入りの実の姉がいるんだけどさ。千冬姉とはタイプが違うというか、なんというか。
「はい、どうぞ」
「サンキュー」
とにかく、こんなことをごちゃごちゃ考えても仕方がない。
シャルからカップを受け取り、そのままスポーツドリンクを一気に飲み干す。
うまい。
自分で思っていたよりも身体は水分を欲していたらしく、常温のスポーツドリンクがじわじわと干からびた細胞に染み渡っていくようだ。
「おかわりいる?」
「おう」空になったカップを手渡し、ふと思う。「そういえば、シャルは試合に出てなかったよな? どこか具合でも悪かったのか?」
普段からよく一緒に行動するメンバーでいうと、俺とセシリアが同じチームで、相手には箒と鈴、そしてラウラがいたわけだが、シャルはどちらのチームにも入っていなかった。試合が始まってからしばらく姿が見えなかったのは、おしぼりやスポーツドリンクを用意していたのだろうか。
すると、シャルは少しだけ視線を彷徨わせてから、カップに二杯目のスポーツドリンクを注ぎ終わるのと同時に頷いた。
「う、うん。べつに具合は悪くないよ」
「じゃあバスケが苦手……ってわけでもなさそうだよなあ」
俺の言葉に、得意ではないけどね、と控え目に答えるシャル。
こんなふうに言ってるが、なんでもそつなくこなすシャルだけに、鈴のレベルとはいかないまでも、箒やセシリアとは互角以上に勝負できそうだ。
「ま、まあ、いいじゃない。ちょっと気が乗らなかっただけだよ」
「ふーん?」
シャルの性格を考えれば、気が乗らないなんて理由でこういうイベントに不参加ってのは考えにくい。そんなに大層な問題ではないかもしれないが、気にならないといったら嘘になる。
「そ、それよりさ、こんなの作ってみたんだけど……」
強引に話題を切り替えるためでもなかろうが、シャルはおずおずと背中側からなにかを取り出した。さっきは両手がおしぼりと水筒で塞がっていたので、おそらく地面に置いてあったのだろう。
「なんだそれ?」
俺は二杯目のスポーツドリンクを一気飲みしてから、シャルが取り出したものを眺める。
透明な容器……いわゆる『タッパ』というやつだというのはわかるのだが、中になにが入っているのかまではわからない。
俺が首を傾げていると、シャルはゆっくりとタッパの蓋を開けた。
途端、柑橘系の香りが、ふわっとあたりに広がる。
「――おおっ! ひょっとしてレモンのはちみつ漬けか!?」
急激にテンションが上がる俺。
まさかこんなところで、運動部御用達のソウルフードにお目にかかれるとは思わなかった。
「うん。こういうときには、これがお約束って聞いたから作ってみたんだ」
俺の反応を見たシャルは珍しく得意気な顔をして、タッパとはべつにプラスチック製のフォークを取り出す。……次々と出てくるけど、あんなに沢山どうやって持ってきたんだろう。深く考えたら負けだな。うん。
「でも懐かしいなこれ。昔さ、道場に通ってたとき、作ってもらったことがあるんだよ。うまかったなあ」
「道場?」
「話したことなかったか? 俺、子供のころ箒のうちがやってた剣道場に通ってたんだ」
「ほ、箒の? ……そ、そうなんだ……」
「? どうした、シャル?」
まるでパンパンだった風船がしぼむように、いきなりしゅんとしてしまったシャルの顔を覗き込もうとしたら、
「……な、なんでもない! それよりほら! せっかくだから食べてよ、一夏!」
「んむっ!?」
フォークに刺さったレモンを一切れ、口の中に無理矢理押し込まれる。普段はどちらかというと大人しいのに、いきなり突飛な行動に出るから侮れない。
つーか、すっぱ!
はちみつの甘さが一瞬で霧散してしまうほどの、鮮烈な果実の酸味。
思わず眉間にしわが寄る。
自然と口内に唾液が溢れる。
懐かしのレモンのはちみつ漬けは、記憶に残っていた以上にすっぱい。
すっぱいのだが、
「おお、うまいぞ! シャル!」
全身にまとわりついていた疲労が吹っ飛んだのではないかと錯覚するほどの刺激だった。
そうそう、これだこれ。改めて考えると、このすっぱさは子供にはキツイような気もするんだが、昔も皆で取り合いになったよなあ。
「そ、そう? 気に入ってもらえてよかった!」
シャルは安堵の表情に続けて笑みを浮かべ、「もっと食べる?」とフォークを手渡してくれた。
「しっかし至れり尽くせりでなんか悪いな」
「ううん、気にしないで。僕がやりたいからやってるだけだから」
晴れがましい顔を見るに、これは謙遜というより、本心からの言葉のようだ。
たしかにシャルの気持ちもわからないではない。俺も千冬姉の身の回りのことをするのは全然嫌ではないし、相手が喜んでくれるというのは、何事にも代え難いご褒美だったりするのである。
「こういうの初めてだったから、なんだか楽しかったしね」
「そっか。でもあれだ、シャルみたいなマネージャーがいたら、運動部で引っ張りだこだと思うぞ」
「も、もう。それは褒めすぎだよ……一夏……」
褒めすぎと言われても、こっちもお世辞のつもりはまったくない。
IS学園ではそうでもないかもしれないが、普通の共学の学校だったら恐ろしいことになりそうだ。マネージャーのために甲子園や国立や花園を目指すやつらが大量生産されてもおかしくない。
「こりゃなにかお礼をしないとな」
「い、いいってば……あ」
顔の前で手を振っていたシャルの動きが、ぴたりと止まる。
「お。なにか思いついたか? つっても大したことはできないけど」
「じ、じゃあ……その……レモンをひとつ、食べさせてもらっても……いいかな?」
「ん? そりゃ元々シャルが作ってくれたんだし構わないが……」
俺が食べているのを見ていたら自分でも食べたくなったんだろうか。
「よし」フォークを操って輪切りになったレモンをすくい上げる。「ほら、これでいいか?」
「う、うん……あーん……」
レモンを差し出すと、シャルはどうしてか緊張した面持ちで、ゆっくりとゆっくりと口を開ける。はちみつが垂れてしまわないよう、慎重にシャルの口元へとフォークを移動させていくと――
「いんたーせぷとっ!」
耳に届いた気の抜けるような台詞とは裏腹に、声の主が素早い動きで俺とシャルの間を横切っていった。
「のほほんさん!?」「ああっ!? 僕のレモンっ!」
俺とシャルの声が重なる。
あっという間の出来事だった。フォークの先には、なにもない。シャルに食べさせようとしていたレモンは、一迅の風みたいに俺たちの間を通り過ぎていったのほほんさんの口の中に吸い込まれてしまった。
「んー、このすっぱさがたまりませんな~」
レモンを咀嚼しながら、ご満悦といった様子ののほほんさん。
俺はそんなのほほんさんを呆然と眺めるしかなく、一方のシャルはしょんぼりと肩を落として涙目になっている。ていうか、のほほんさんすげー。バスケのときからああやって動いてくれればよかったのに。
「うぅ……」
トンビに油揚げをさらわれるならぬ、のほほんさんにレモンをさらわれたシャルは、恨みがましいうなり声をあげていたが――
そう。
これは悲劇の始まりにすぎなかったのだ。
「――随分と楽しそうだな」
季節にそぐわない冷え冷えとした声に振り返ると、そこではラウラが腕組みをして、俺のことを睨みつけていた。
そして、
ラウラの背後には、
箒、鈴、セシリアをはじめとする、一緒にバスケをやっていた女子たちが勢揃いしている。
「ひっ!」
喉からしぼり出したような悲鳴はシャルのものだ。
俺も悲鳴こそ上げていないが、内心では似たような感情を抱いている。
なんか、やばい。
皆さん、目つき、怖くないですか?
「……いちおう説明しておこう」誰もが言葉を発せず、セミの鳴き声だけがあたりを覆い尽くす中、ラウラは滔々と語り始める。「私はシャルロットが現れた時点で、お前たちに声をかけるつもりだった。しかし谷本癒子がこう主張して止めたのだ。『シャルロットがなにをするつもりなのか確かめよう』と」
思わずラウラの後ろに立っている谷本さんを見やると、バツが悪そうにさっと目をそらされる。ふたつのおさげが特徴的な谷本さんは、ぽりぽりと頬をかきながら「ちょっとこの機会にシャルロットのテクニックを参考にしたいと思って」とかなんとか呟いていた。テクニックってなんだ、テクニックって。
「この判断は結果的に大正解だったわけだ」ラウラの鋭い眼光が俺からスライドし、シャルに向けられる。「敢えてバスケットには参加せず、そのあとの世話役を狙うことで確固たるポジションを得るとはな。ふっ、相変わらずの見事な手並み。さすがと言わせてもらうぞ、シャルロット!」
「え、えっと、ラウラ? あの、それだとなんだか、僕が普段からあれこれと画策しているみたいに聞こえるんだけど……」
救いを求め、シャルがクラスメイトたちを見渡すが、結果はあまりにも無情。
彼女らは全員一致で大きく頷き、真夏の太陽のような笑顔で、
「ギルティ!!」
「ええ――っ!?」
シャルの抗議の悲鳴は華麗にスルーされ、「抜け駆けをしようとした子には罰を!」「罰ってどうする? 剥いちゃう?」「さすがにそれはどうかと思うから部屋のガサ入れで勘弁してあげましょう」「ならば私が部屋の鍵を開けよう」「ラウっち話がわかる~」「ちょ、酷いよラウラ! わあっ、やめて! 持ち上げないでー! 見えちゃうー!」などという嵐のようなやり取りを経て、ラウラを含む数人の女子の手により、シャルは夏祭りの御輿さながらに寮のほうへと運ばれていった。
すまん、シャル。
できれば助けてやりたいんだが……俺では無理だ。
合唱。
「……ふう」
一気に人気が去り、静寂が戻ってくるかと思われたが、人の都合なんておかまいなしにセミたちは声を張り上げ続けている。
「夏……だなあ」
とめどなく流れる額の汗をぬぐい、自らの腕をひさしにして空を見上げた。
手首に巻かれた白式越しに見る空は、いつもよりずっと青い気がした――
「――ねえ。なんか自分には関係ないみたいにキレイに話をまとめようとしてるけどさ。あたしたちが残ってるの、忘れてないわよね?」
「あら、鈴さん。いくら一夏さんが唐変木でも、ご自身の置かれた状況くらいは正確に把握してらっしゃるのではないかしら?」
はい。
現実逃避してました。
このままスルーすればやり過ごせるんじゃないかなと思ってました。
背後から聞こえてきた鈴とセシリアの会話が怖い。抑揚のない平坦な口調が、地獄の底から這い出そうとしている悪魔を思わせる。
ああ……シャル……思ったより早く、俺もそっちに行けそうだ……。
などとこの世の無常を嘆いていたら、救いの手は思わぬところから差しのべられた。
「……ま、まあ、ふたりが憤るのはわからないでもないが、一夏もシャルロットも悪気があったわけではなさそうだし、そこまで目くじらを立てることもないのではないか?」
「ほ、箒……」
IS学園で再会してから、顔を合わせば怒鳴られるか殴られるかといった関係だったファースト幼なじみが、俺を庇ってくれている。
素で感動してしまった。
な、泣いてないぞ! これは汗が目に入っただけだ!
なんて、人知れず感動に打ち震えていると、
「へー」「ほー」
鈴とセシリアは、まるであらかじめ打ち合わせをしていたかのように、二人揃ってジト目で箒を射抜いた。
「な、なんだ? なにか言いたいことでもあるのか」
「……いーえ、べーつに。そりゃあね、誰かさんは自分との思い出をしっかり覚えていてくれたことがわかったから? 溜飲も下がるってもんでしょうけど?」
「なっ、鈴!?」
「……ですわよね。箒さんはよろしいですわ。間接的とはいえ、シャルロットさんに一矢報いることもできたわけですし」
「せっ、セシリアまで、なにを……!」
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
三人がなんの話をしているのかわからないが、鈴とセシリアに責められて、箒がたじたじになっている。あまり目にしない光景だけに、俺が知らないうちに交友関係が深まっているんだなあ、なんて思ったりもするんだが。
「お、おい、一夏! 知らん顔してないで、お前も加勢してくれてもいいではないか!」
「幼なじみの差別は絶対反対よ!」
「こうなったら一夏さんにはわたくしと一緒にイギリスにきて頂くしかありませんわ!」
目の前で繰り広げられる、セミの大合唱にも負けない大騒ぎ。
矛先が変わったと思っていたのに、いつの間にか再び俺に矛が突きつけられている。しかも一本増えていた。
それにしても暑い。
きっと明日も暑いだろう。
夏休みに入っても、俺の周りの熱気は増してゆくばかりだ。
おしまい
「織斑くん、おはよ」
「おう、おはよう」
廊下ですれ違った茶色いショートヘアの女子生徒と挨拶を交わす。
気軽に挨拶を返しておいてなんだが、彼女はクラスメイトではないので、ぶっちゃけ名前も知らなかった。
それに引き替え〝唯一の男〟である俺のほうは、望むと望まざるとに関わらず顔と名前を知られていて、こうやって挨拶されることも珍しくはない。いちいち相手の名前を確認するのもおかしな話だし、今後なにか縁があれば、そのとき改めて自己紹介をすればいいかな、と考えるようにしている。
ま、これくらい割り切らないと、女子の中にひとりでいることなんてできないしな。
「あ、おりむー」
果たして次に顔を合わせたのは、よく見知った女子生徒だった。
「よっ」
「やほ~、さっきぶり~」
俺の中の癒し系ランキング上位に君臨し続ける、ザ・癒し系ことのほほんさんである。
のほほんさんは、制服の余った袖をぶんぶんと振り回しながら、身体によさそうなオーラを周囲にまき散らしていた。あの笑顔からは、きっとα波が出ている。
「今日はちょ~っと遅いんだねー」
「あー、たしかに」チラリと腕時計を見やると、間もなく予鈴が鳴る時刻。「思ったより時間かかったなあ」
「なにしてたの~? ひょっとしてデザートをお代わり~とか?」
「いやいや、俺が食器片付けたの、のほほんさんも見てたじゃん」
今朝は食堂でものほほんさんと一緒になったので、箒たち専用機持ちプラスのほほんさんという顔ぶれで朝食を食べたのである。
同じ寮で暮らし、同じ学校に通っているとはいえ、連チャンでエンカウントするのは珍しいから、今日を「のほほんデイ」に制定してもいいかもしれない。
「でもー、あれからやっぱりお腹が減ってー、とか?」
「さすがにそんなに燃費は悪くないって」
「えー、男の子なのに~?」
のほほんさんの中の織斑一夏像――というか、男性像はどうなってるんだろう。
知りたい気もするが、開けてはいけないバンドラの箱のような気がすごくする。
「……実は弁当を用意してたんだよ」
胸の奥から湧いてきた疑問を振り払うように口を動かし、俺はゆっくりと歩みを再開した。
「お弁当~?」のほほんさんは首を傾げながらも、俺の隣で歩調を合わせる。「おりむーってお料理できるの?」
「まあ、自慢できるほどじゃないけど、そこそこ」
実家にいたときは自分で家事をしていたし、千冬姉においしいものを食べてもらいたいのでそれなりに気合を入れて料理を作っていた。千冬姉がドイツに行ってからは、鈴のところで食べることが多くなったけど。
「へ~、すごいね~」
気の抜けるような口調で、お褒めにあずかってしまった。
ともすればバカにしているように聞こえなくもないのだが、まったくそんなふうに思えないのは人徳ってやつだろうか。これぞ癒し系。もし弾が同じ調子で「へ~、すごいね~」とか言ったらぶん殴りたくなるに違いない。
「中身はなになに~?」
「特に変わり種はないかな。いちおう定番どころは抑えたけど」
「定番?」
「えーと、ウインナーをタコの形にしたやつとか、アスパラをベーコンで巻いたやつとか?」
少し子供っぽいかなとも思ったが、今回は作った理由が理由だけに、やはりこのへんは外せない。
「エビフライは~?」
「あー、今回はパス。揚げ物は鳥の唐揚げだけ。のほほんさんちの弁当はエビフライが定番だったんだ?」
「ん~、そうだね~……タルタルソースでエビフライ食べたいね~」
「それって今食べたいものなんじゃ……」
「そうかも~」
ああ、癒される。
楽しい時間ほど早く過ぎるなんていうが、きっと癒しの時間も早く過ぎるのだろう。
その証拠に、のほほんさんと話していたらあっという間に教室に着いた。
「おっはよ~」
元気よく教室の中に飛び込んでいくのほほんさんを尻目に、他のクラスメイトたちと挨拶を交わしつつ自分の席へと向かう。
「おはよ、一夏」
「おう、シャル。今朝は挨拶するの二度目だな」
「あはは、気持ちのいい挨拶なら何度してもいいんじゃない?」
朝食時と変わらぬ清々しい笑顔でシャルが言う。
「一夏さん、少し遅かったですけど、なにかあったんですの?」
シャルの後ろから優雅な立ち姿で現れたのはセシリアだ。
「ちと弁当の用意をな」
「お弁当?」「お弁当ですか?」
「ああ――っと、おーい、ラウラ!」
シャルとセシリアは頭上に疑問符を浮かべていたが、説明するよりこっちのほうが早いだろう。俺はカバンから手早く黒と群青色の弁当の包みを取り出し、教室の後ろにあるラウラの席に近づいていく。
すると座ったままの体勢で腕組みをしていたラウラは、眼帯に覆われていない右目を眉とともにきゅっとつり上げ、硬い声を出した。
「予鈴まで五分を切っているぞ。行動は迅速に、が戦場の鉄則だ」
「いや、ここ戦場じゃないし……つか、今日は大目に見てくれよ。約束通り作ってきたんだからさ」
「む?」ラウラが訝しげに眉をひそめる。「約束? 作ってきた? なんの話だ」
「おいおい、自分で言い出しておいて忘れたのかよ? お前が『嫁とは亭主の弁当を作るものだと聞いた。だから作れ』って言ったんだろ?」
「なっ」
目の前にずいっと弁当の包みを差し出してやったら、ラウラは露骨に狼狽した。
こりゃ本気で忘れてたっぽいな。
ったく、せっかく作ってきたっていうのに。
「ま、まさか、本当に作ってくれたというのか?」
「そりゃそうだろ。すぐに籍を入れろとか、そういう無茶な頼みは聞けないけど、これくらいならどうってことないし」
「い、いや、だがな……」
「それにラウラ、これまで誰かに弁当作ってもらったことないって言ってただろ? だからこの機会に、俺が日本のお弁当ってやつを体験させてやろうと思ってさ」
「い、一夏……」
十数秒前までとは打って変わり、ラウラは微妙に潤んだ瞳でこちらを見上げている。
なんだ? そんなに食べたかったのか? 日本の弁当。
「とりあえず、コレ、受け取ってくれよな」俺はラウラの机に黒い包みを置いた。「ついでに千冬姉のも作ったから、今から渡してくる」
よく一人分作るのも二人分作るのもあまり変わらない、なんていうが、あれは嘘っぱちだと個人的に思う。前の日の残り物があるならともかく、寮だとそういうわけにもいかないので尚更だ。
ただまあ、二人分と三人分の場合はあまり差がないし、千冬姉もラウラもそれほど食べるわけではないので、ラウラと自分の分を作るついでに千冬姉の弁当も用意したのである。教室で渡すのも職員室まで押しかけるのも気が引けるので、朝のホームルームの前に廊下で待ち伏せて渡してしまおうというわけだ。
「じゃあ、今日の昼飯は一緒に食おうぜ」
「あ、ああ……わかった……」
なにやらぼーっとした様子のラウラを残し、俺は群青色の包みを手に教室を後にした。
と、廊下に出た途端、背後で喧噪が爆発する。
「ちょ、ちょっとラウラさん! これはどういうことですの!?」「ラウラ! 抜け駆けはずるいよ!」「織斑くんの手作り!? なにそのレアアイテム!」「私も欲しいー!」「むしろ織斑くんを食べてしまいたい!」「わたしは食べられたーいっ!」
……なにか寒気のする感じの騒ぎが聞こえてきた気がするが、気のせいだと思おう。
「一夏……事と次第によっては……許さん……!」
…………。
地の底で蠢く悪魔のような声が聞こえたのも、気のせいだよなあ?
<愛妻弁当症候群【シンドローム】 ~アウラ・オブ・ラウラ~>
というわけで、昼休み。
ラウラと一緒に弁当を広げるために、校舎の外で日当たりのいい場所でも探そうと思ったのだが、俺はなぜか食堂にいた。
「なんだ?」
「なんですの?」
「なぁに、一夏?」
……まあ、なぜかじゃなくて、理由は明らかなんだけどな。
ようするに、三人の勢いに負けて引っ張ってこられただけだ。
箒は不機嫌を隠そうともせずこっちを睨んでくるし、セシリアはふくれっ面だし、シャルは笑顔でプレッシャーをかけてくるし。こんな状態で三人に詰め寄られているのに、まさか「今日は弁当だからべつのところで食べるよ」とは言い出せず、こうしてのこのこと連れてこられたというわけだ。
果たして俺になにかできることはあっただろうか? いや、ない。
ただ、俺はともかくラウラも黙って連れてこられるがままだったのは、少し意外だった。
「やっぱりお昼ご飯は皆で食べるのがいいわよねー、み、ん、な、で!」
ちなみに、昼休みになって教室に駆け込んできた鈴も一緒にテーブルを囲んでいる。
こちら側には右からセシリア、俺、ラウラ。そして向かいには右から箒、シャル、鈴という順番だ。
「皆で食べるのがいいってのは同感だけどよ……」
IS学園は食堂施設が充実していることもあって、弁当持参の生徒は滅多にいない。いるとしても、おそらくべつの場所で食べているはずだ。少なくとも俺は、今まで食堂で弁当を広げているやつを見たことがない。
というか、食堂で弁当を食べるとヘンに視線を集めるのは、特にIS学園に限った話ではないのだろう。
現に、端っこのテーブルを選んだというのに、俺たちはかなり注目されていた。ただでさえ専用機持ちばかりが集まっているので、ある程度は仕方ないと思うが、入学当初のパンダ状態を思い出してしまう。
「悪いなラウラ。ホントは芝生の上とかで食べると最高なんだけど」
「あ、ああ、一向に構わん。……お、お前の作ってくれた弁当を食べられるというだけで私は十分すぎるくらい幸せ者だからな……」
「さーて! あたしはおいしいおいしいラーメン食ーべよっと!」「わー、僕のパスタもすごくおいしそうだよっ!」「わたくしのクラブハウスサンドもなかなかでしてよ!」「うむ! やはり焼き魚は日本人の心だなっ!」
……どうしてか急に自分の食べるものアピールを始めた面々のせいで、ラウラがなにを言ったのか聞き取れなかったんだが。
まあ、こうして見る限りではラウラも喜んでくれているようだし、昼飯がうまいのはいいことだよな、うん。
とりあえず、俺も自分用として作った紺色の包みを開く。
中から現れたのはオーソドックスな長方形の弁当箱。白一色で飾り気のない一品だが、中学のときに使っていた愛用の品である。
そして脇についているストッパーを外し、シリコンで縁取りされた蓋を開けたら、
「……うわあ」
正面に座っていたシャルが、しみじみとため息をもらした。
「な、なにかヘンか? 俺の弁当」
「ううんっ、そうじゃないよ! そうじゃなくて……すごくおいしそうだなあって」
シャルは眩しいものを見るように、瞳をキラキラと輝かせながら弁当箱を覗き込んでいる。
「たしかにコレは……」
「おいしそうですわね……」
「うむ……」
気づけば、鈴たちもまじまじと俺の弁当を見つめていた。
こんなふうに言われると背中のあたりがくすぐったくなるが、正直、褒められるのは悪い気がしない。
のほほんさんに話したタコウインナーとアスパラのベーコン巻きに加え、あとは卵焼きと唐揚げ、彩りにプチトマトとレタスを添え、その上にポテトサラダを乗せておかずは完成。ご飯は白米を俵型のおにぎりにして敷き詰めてある。
こんな感じの「織斑一夏が考えるオーソドックスなお弁当」は、どうやら見た目からかなりの好評を博したらしい。
「アンタさあ……料理できるのは知ってたけど、いつの間にこんなに上達したのよ」
「いや、そんなに変わってないと思うぞ」
「し、しかし……これでは私などよりずっと……」
呆れ混じりの鈴とは対照的に、箒は妙に深刻げに表情を曇らせていた。そんなふたりに挟まれる格好になったシャルは、困ったような笑みを浮かべている。
「ああ、そうだ」言おうと思って忘れていたことがあった。「ほら、前に箒が弁当を作ってきただろ? あのときに貰った唐揚げがうまかったからさあ。やっぱ弁当には唐揚げが外せないなと思って入れてきたんだぜ」
「な、なに? そうなのか?」
「あれって箒の母さんの味つけなんだよな。再現しようとしたんだけど上手くいかなかったから今度教えてくれよ。ほどよいピリ辛加減が絶妙だったし」
「あ、ああ、もちろんだとも!」箒は打って変わって晴れがましい顔つきになる。「うん、そうだな。唐揚げは日本人の心だからな」
どうやら箒的に、日本人の心は色々あるらしい。まあ、東京では世界中の料理が食べられるし、日本人は和風にアレンジするのも得意だから、間違ってはいないだろう。たぶん。
「ふん。どーせアンタのことだから、酢豚なんかもソツなく作っちゃうんでしょーね」
鈴は俺と箒を見比べて鼻を鳴らすと、面白くなさそうな顔でラーメンをすすりはじめる。
「俺、中華はあんまり作らないから、酢豚もそんな上手くいかないと思うぞ」
「は? なんでよ。ひょっとして中華を差別してんの?」
差別て。
いくらなんでも発想が飛躍しすぎだろ。
「中華料理は鈴のうちに行けばうまいのが食えたからなあ。……つーか酢豚はお前が食わせてくれるって言ったから、自分で作ろうと思わなかったんだが」
「んぐっ!?」
「り、鈴っ!? はい、水!」
麺を喉に詰まらせたらしい鈴に、隣のシャルが素早く水の入ったコップを渡す。
慌ててコップを受け取った鈴は一気に水を飲み干し、幸運にも口の中のものを吹き出す憂き目に遭うことはなかった。もしも公衆の面前で鼻からラーメンが出てしまうようなことがあれば、鈴はトラウマを抱えていたかもしれない。
鈴を窮地から救ったシャルの動き。
そう、あれこそがフランス代表候補生の誇る必殺技『ラピッド・スイッチ』だ。
なんつって。
「ごほっ! ごほっ! いぢがぁ……よぐも不意打ちしでぐれたわねぇ……またくだらないこと考えてるしぃ……」
シャルの機転で乙女の面目を保った鈴は、息も絶え絶えに俺を睨みつける。完全に涙目だ。
というか、思考を読むのはマジでやめて欲しい。
「一夏はけっこう頻繁に不意打ちしてくるよね……」
労るような手つきで鈴の背中をさすりながらシャルが呟くと、鈴だけではなく箒も一緒に「わかるわかる」と頷いていた。
なんだか腑に落ちないが、団結を見せる女子三人が相手では旗色が悪い。なにを言っても俺が悪いことにされそうだ。
戦略的撤退とばかりに横を視線を逃がすと、ラウラは未だに弁当の蓋を開けておらず、黒い包みを見つめたまま微動だにしていなかった。
「どうした、ラウラ。食べないのか?」
「い、いや……少々もったいなくてな……」
「なに言ってんだ。もったいないことなんてあるかよ。俺が作ったんだぞ?」
プロのシェフが作った、とかならわからないでもないけど。
いや、たとえそうだとしても俺は気にしないで食うけどさ。
「お、お前が作ったからこそ、もったいないのではないか」
「? よくわからんが、それはラウラのために作ったんだぜ。お前が食べてくれなきゃ意味がないだろ」
「わっ、私のため……」
こちらを見上げるラウラの頬が、うっすらと赤く染まっている。
「しょうがないな」ラウラが動こうとしないので、俺はテーブルの上に手を伸ばした。「俺が用意してやるよ」
ラウラに渡した黒い包みから、大理石みたいな模様のついた弁当箱を取り出す。俺の使っているものに比べるとかなり小さいが、その代わり二段になっているのだ。上におかず、下にご飯を入れる作りになっていて、当たり前だが中身は俺のと変わらない。
これは千冬姉に渡したものと同じ形の色違いで、元々スペアに買ったものだった。結局、中学を卒業するまで壊したりはしなかったので食器棚の奥で眠っていたのだが、この機会に引っ張り出してきた。
「ほれ、箸」
ゴムバンドで弁当箱に結わえておいたケースから箸を取り出してラウラに渡す。
「う、うむ」
ラウラはなにかを噛み締めるように頷いてから、両手で箸を受け取った。
……普段は強気なくせに、こんなふうにいきなり素直になるからなあ。
危なっかしいというか、シャルが世話を焼きたくなる気持ちがわかるというか、ついつい俺もあれこれと手と口を出したくなってしまう。
というわけで、いそいそとご飯とおかずの蓋を開けて並べてやると、ラウラは眼帯に覆われていないほうの赤い瞳を瞬かせた。
「おぉ……華やかだな」
「料理は最初に目で食べるってな。卵焼きと唐揚げは食ったことあるだろ?」
「うむ」
「じゃあこれはどうだ」
俺が弁当の中身を指さすと、ラウラは器用に箸を操って〝それ〟を自分の目の前まで持っていく。
「これは……ウインナーに切れ込みが入れてあるな」
「おう。日本の弁当の定番、タコさんウインナーだ」
なぜか得意気に語ってしまう俺。
ISの操縦などでは教えを請う側なので、たまに自分が教える側になると少しテンションが上昇する。
「ま、味は普通のウインナーなんだけどさ。切れ込みを入れてフライパンで焼くと、そこが広がってタコの足みたいになるんだよ」
「ほほう。タコさん……なるほど。タコさんか」
そう呟いて箸でつかんだウインナーを前後左右から眺めるラウラの仕草は、未知のものを観察する仔猫じみていた。前のほうから「ラウラ、可愛い……!」「くっ……たしかに……」「これは反則だわ……」とか聞こえてきたので、さりげなく俺も同意しておこう。
「あとはこれだ」
俺が次のおかずを指さすと、ラウラはそっとウインナーを弁当箱に戻し、今度は〝それ〟を目の前に持っていった。
「アスパラガスにベーコンが巻いてあるのか」
「そ、アスパラのベーコン巻。まんまだけど、瑞々しいアスパラにベーコンの塩気が合っててうまいぞ」
実際のところ、これが弁当の定番になっている理由はよくわからないのだが、一手間かけてある感じが子供心をくすぐるのかもしれない。普通のハンバーグより、動物の形をしてるほうが好まれる、みたいな?
「ほら、見てても腹は膨れないから食ってくれよ」
「そ、そうだな。では、いただこう」
ラウラはおそるおそるといった様子で、箸でつまみあげていたアスパラのベーコン巻を口に運んで咀嚼し、飲み込む。
「っ! これはおいしいな!」
「そりゃよかった」
興奮気味に話すラウラに対し、笑顔で応じた俺だったが、
「アンタ、スカしてるけど実はけっこう安心してるでしょ」
対面の鈴から鋭い突っ込みを受ける。
「……こういうときは、わかっててもスルーするのが思いやりじゃないか?」
「うっさい。これくらい言わせなさいよね。ていうかアンタこそ、ラウラの反対側に座ってるやつに思いやりを発揮しとけっての」
「ラウラの反対……?」上機嫌で弁当をパクつきはじめたラウラをチラ見してから、顔を反対側に向ける。「うお!?」
焦った。
心臓が止まるってのは言いすぎにしても、全身がビクッとしたのは間違いない。
「い、一夏さぁん」
高級そうな白いレースのハンカチを口に咥えながら、涙目のセシリアが俺に詰め寄ってきていたのだ。きりきりと音がしそうなくらい強く引っ張ってるもんだから、ハンカチが破れそうでひやひやする。
「ど、どうしたんだよ、セシリア」
「……ずるい」
「え?」
「ずるいですわ!」
セシリアは周囲の人目も気にせずに、勢いよく立ち上がる。思わず見上げる俺の視界に、ブロンドの輝きがふわりと舞った。
「い、一夏さんが手作りのお弁当を振る舞ったばかりか! それを手ずから用意して差し上げるなんて! それは、わたくしが一夏さんにして頂きたいことランキング上位に食い込んでますのよ!?」
「……えー?」としか言えない俺。
なにそのランキング。ランキングってことは他にも色々あったりするのか? どこ情報よ?
「というか一夏さん!」
「は、はい?」
あまりの剣幕に、つい敬語になってしまった。
「ひょっとして今の今まで、わたくしの存在を忘れていませんでしたか!? すぐ隣にわたくしがいるというのに、ラウラさんとあんなことやこんなことまでっ!」
「いや、静かだとは思ってたけど忘れるわけが……ってあんなことやこんなことって、おかしな言い方するなよ。ちょっと弁当を食べられるようにしただけだぜ?」
「それでも、わたくしにずっと背を向けたままなんてひどいですっ!」
な、なんだ?
俺、こんなにセシリアを怒らせるようなことしたか?
わらにもすがる思いでシャルに目で助けを求めてみるが、「これはしょうがないよ」とでも言いたげな表情で、申し訳なさそうに苦笑を送られた。どうやら今回はフォローしてくれるつもりはないらしい。
ちなみに箒と鈴は、目で「死ね」と言っていた。俺の幼なじみはふたりとも容赦なさすぎてたまに辛い。
食堂中から集まる視線の圧力がより一層増そうというとき、救いの手は意外なところからもたらされた。
「――そういえば、一夏は奥ゆかしく、おしとやかな女が好きだと言っていたな」
空気が凍る。
時間の針を止めたのは、誰あろう、俺の後ろで弁当を食べていたはずのラウラだった。
その瞬間、セシリアだけではなく、そして一緒にテーブルを囲む面々だけではなく、食堂にいる者すべてが動きを止めていた。
……さては聞き耳を立ててたな。
大勢の学生が集まった空間とは思えないほどシンと静まり返っている。
肩越しに背後をうかがってみると、ラウラは何食わぬ顔でプチトマトを口へと運んでいる最中だった。ドイツで千冬姉に師事していた影響なのか、ラウラは箸が扱える。使ったことのないシャルが苦労していたのとは対照的だ。
やがてラウラは、周囲の注目を一身に集めていることを知ってか知らずか、ゆっくりとプチトマトを咀嚼し、飲み込んで一言。
「日本では、ものの食べ方にその者の人間性が出る、ともいうらしいが。少なくとも、おしとやかな女は食卓で声を張り上げたりはしないものなのだろうな」
その言葉を受けて、セシリアは驚きで目を丸くすると、小さく咳払いをしてから音を立てずに椅子に腰を下ろした。
セシリアが座ったのを合図に、食堂の時間は氷が溶けるように動きはじめる。
しかし、雰囲気が先ほどとは一変していた。
ごくわずかな食器の音こそ聞こえてくるものの、誰一人として口を開こうとしない。まるで授業中に千冬姉が私語厳禁を言い渡したときのように、ぴりぴりと張り詰めた空気が場を覆っている。正直、怖いです、はい。
見れば、セシリアは粛々とクラブハウスサンドを上品に食べ進めていて、それはシャルや鈴も同様だった。
そんな中で唯一、箒だけが厳しい目つきで俺を睨みつけている。
その不機嫌そうな顔には「元はといえばお前がいけないのだ。ラウラには迂闊におかしなことを吹き込むな」と書いてあった。とはいえ、箒も騒ぎ立てたりはせず、そのまま料亭のCMに出られそうな所作で綺麗に魚の骨を取っているのはさすがといったところか。
「一夏」
「ん?」
「貸しひとつだぞ」
不敵な、と形容するには晴れがましすぎる表情を浮かべ、ラウラは俺だけに聞こえる声で囁く。
「……だが、今日は弁当を作ってきてくれたからな。嫁として当然のこととはいえ、これで貸し借りはなしということにしておこう」
雰囲気で声が弾んでいるのがわかった。
それほど付き合いが長いわけではないが、こんなに嬉しそうなラウラは珍しい。
ラウラに引きずられたのか、なんとなくこっちまで笑みがこぼれそうになる。うん、やっぱり作ってよかったな、弁当。
「光栄です、少佐殿」
小声で調子を合わせると、ラウラは満足そうに頷き、ポテトサラダを頬ばってますます喜びの色を濃くするのだった。
*****
「……し、死ぬかと思った」
放課後の自主訓練を終えたとき、俺は情けなくも半分、いや、三分の二くらい死にかけていた。
なんとか自力で歩けているが、足下がおぼつかない。そのままアリーナでぶっ倒れずにシャワーを浴び、着替えを済ませ、こうして自分の部屋に向かっているのが奇跡のようだ。
辛うじて怪我をしたりはしていないが、これは絶対に明日筋肉痛になる。間違いない。
「あはは、お疲れさま」と労いの言葉をかけてくれたのはシャル。
「…………」
「ど、どうしてそんな目で見るの?」
無言でジト目を送ると、シャルは口元を引きつらせた。
先ほどから慈愛に満ちた笑みを浮かべているが、騙されてはならない。なにせ、こちらにおわすシャルロットさんは、俺がこうなった一端を間違いなく担っているのだから。
「なあ、シャル」
「な、なに? 一夏」
「俺もさ……訓練とはいえ本気でやんなきゃ意味がないってのはわかるんだよ」
「う、うん」
「手抜きされるのも面白くないし、やるからには全力でやるってのは望むところだし」
「だ、だよね? うん、僕もそう思って――」
「だ、け、ど、な!」シャルの言葉を途中で遮って俺は叫んだ。「いくらなんでも四人がかりでかかってこられたらどうしようもないだろ! マトモな訓練になんねーよ! 専用機持ちと4vs1ってそれなんてイジメだよ!?」
先ほどまでアリーナで繰り広げられていたのは模擬戦ではない。
あれは公開処刑というのだ。
「『ブルー・ティアーズ』のビットをかわしても『甲龍』の龍砲。当たったらそこでジエンドなのに、かわしてもかわしても『紅椿』の攻撃が次から次へと襲いかかってくる。まるで悪夢をみてるみたいだったぜ……」
「み、皆、息が合ってきたよねー」
「一番いやらしかったのは、三人の攻撃の間を縫うようにアサルトライフルを撃ってきた誰かさんなんだけどな?」
「うっ……一夏のいじわる……」シャルはしゅんと肩を落とすと、捨てられた子犬のような顔でこちらを見上げる。「そんな言い方しなくたっていいじゃない……」
ん……? なんか俺、すごく悪いことしてる気がしてきたぞ?
軽くからかおうとしただけなのに、シャルは本気で落ち込んでるようだ。
「でも、たしかにやりすぎだったね……ごめんね、一夏」
「あ、いや、俺も言いすぎた。冗談だから、そんなに気にしないでくれよ」
「そ、そうなの……?」
「ああ。ほら、スポーツでもあるだろ? 試合が終わったあとでお互いに憎まれ口を叩き合ったりするやつ」
「うん?」
「つまり俺が言いたいのはああいうことで……気にするなってことだ」
「ほ、ホントに?」
「もちろん」
「よ、よかったあ。僕、一夏に嫌われちゃったかと思った」
心の底から安心した、という感じで、シャルは頬を緩める。
まったく。俺がシャルを嫌いになるなんてありえないのにな。
なんだかんだ言って、訓練の後にボコボコにされた俺を心配して更衣室まで迎えにきてくれたあたり、シャルは本当に優しいと思う。でも心根が素直なぶんだけ、人の言ったことを真に受けてしまうところもあるのだ。
これからは、からかうにしても、もう少し考えよう。反省。
「しっかし、今日に限ってどうしたんだ?」
仕切り直しの意味も込め、殊更に気楽な調子で、アリーナでは聞きそびれていた質問をぶつけてみる。
「いつもなら模擬戦だってサシでやるだろ?」
するとシャルは一瞬だけ言葉に詰まり、それから忙しなく視線を彷徨わせて、最終的にはなぜか拗ねた口調で呟いた。
「……一夏が唐変木だからだよ」
すまん。
まったくわからん。
「唐変木って俺が?」
「うん」
「……どこが?」
俺としては純粋に疑問に思っただけなのに、シャルは「本当にしょうがないなあ」みたいな顔でため息をもらした。
「とりあえず、そんなふうに聞き返しちゃうあたりがホントに唐変木だよね……」シャルは矢継ぎ早に続ける。「その様子じゃ、ラウラが一夏を助けに入らなかった理由も、そのあとの模擬戦でラウラが全勝した理由もわかってないんでしょ?」
「え? なにか理由があるのか? ラウラが強いってのは身に染みてわかってるけど」
あと、俺が一斉攻撃されるのを皆がスルーするってのは、ワリと日常的に行われているので理由もクソもないような気がするんだが。……自分で考えて悲しくなってきた。
「ラウラはね、僕たちに気を遣ってくれたんだよ」
「シャルたちに? それで俺を手助けしなかったっていうのか? いや、そこは俺に気を遣うべきだろ」
「もう、一夏ってば。あと、今日のラウラは特別強かったんだよ」
シャルは一旦そこで言葉を切る。
先を言おうかどうしようか迷っているような間を置いて、
「……だって、今日はラウラひとりだけエネルギーが違ったんだもん」
含みを持たせた口調で、そう言った。
エネルギー? ISのシールドエネルギーのことか?
「いちおう言っておくけど、シールドエネルギーのことじゃないからね」
「も、もちろんわかってたぜ」
先ほどの仕返しというわけではなかろうが、シャルにジト目を向けられた。
うーん、知らないうちに考えてることが口から漏れてるなんてことはないだろうな?
気をつけないと。
「と、とにかく、僕が言いたいのはね?」
「おう」
「よ、よかったら……ホントによかったら、でいいんだけどね? こ、今度は僕にもお弁当作って欲しいな……なんて……」
「弁当?」話が繋がっていない気はしたが、こうして頼まれるのはやぶさかではない。「なんだよ、シャルも日本の弁当を食べてみたかったのか?」
「そっ、そういうことは聞き返さないでよっ! は、恥ずかしいよ……」
いや、最後がごにょごにょと聞き取りにくかったから、確認しただけなんだが。
シャルはもじもじと手と内ももをすり合わせながら、上目遣いでこちらの様子をうかがっていた。期待の籠もった瑠璃色の瞳の中に星が飛んでいる。……ひょっとして返事を待ってるんだろうか?
「べつにいいぞ。それくらい」
「ほ、ホントっ!?」
凄まじい剣幕でシャルがずいっと身体を寄せてくる。
なんというか、もしも尻尾がついていたら、すごい勢いで振ってそうだ。飼い主に駆け寄ってきて、みぞおちにタックルする子犬のイメージが頭をちらつく。そういえばシャルって犬っぽいところあるよなあ。
「料理するのは好きだしな。あ、せっかくだからシャルの食べたいものがあったら希望を聞いとくぞ。なにがいい?」
「う、ううんっ、僕はなんでもいいから! 一夏の作ったものならなんでもっ!」
それならゲテモノ料理でも――なんてお約束を口にするのも憚られるくらい、シャルは嬉しそうにしている。気圧されてしまって「ああ」とか「うう」みたいな曖昧な受け答えしかできなかった。
「じゃあ楽しみにしてるからねっ! 一夏、ありがとっ!」
言うが早いか、シャルは満面の笑顔で大きく手を振りながら、自分の部屋に向かって走っていってしまった。
ありがとうはまだ早いだろ、とか。
廊下は走らないほうがいい、とか。
色々なことに突っ込む隙すらなかった。
というか、シャルの背中を見送って初めて気づいたのだが、どうやら俺は自室の前まで歩いてきていたらしい。
話しているうちは気が紛れていたが、やはり身体は相当疲れているようだ。もう一度気を引き締めないと、晩飯を食う前にベッドで意識を失ってしまうかもしれない。
ひとつ息をついてから、ゆっくりとドアを開けると、
「存分に青春を謳歌しているようだな、織斑」
部屋に一歩踏み入ろうとしたところで、不意に後ろから声をかけられる。
その聞き間違えるはずもない声の主は、意外といえば意外な人物だった。
「千冬姉」
「馬鹿者、織斑先生と呼べ――と言いたいところだが、まあいい。今は姉として弟に会いにきたからな。他の生徒の目がなければ、それほど気にすることもあるまい」
千冬姉は学園内では珍しく、子供のいたずらを発見した親のような顔をしていた。見咎めるというより、どこか微笑ましげな目つきで俺の様子をうかがっている。
これにはさすがの俺もピンときた。
「う……ひょっとしてシャルと話してるの見てたのか」
「見えたというのが正しいがな。デュノアにしては軽率だが、そういったことも含めて〝らしい〟のかもしれん。わかるか? 一夏」
「いや、全然……」
「だろうな」
笑いを堪えながらの台詞には、言外に「わかるはずがない」というニュアンスが込められていて、少しだけムッとする。
だが、そういうことも引っくるめて千冬姉はすべてお見通しのようだった。面白くなさそうな顔をしているであろう俺とは対照的に、実に楽しそうにしている。学園でこんな顔をする千冬姉を見るのは初めてかもしれない。
「ていうか、どうしたんだよ。寮で会いにくるなんて珍しい」
「ああ、これを返そうと思ってな」
そう言って千冬姉が差し出してきたのは、群青色の包み。
確かめるまでもなく、朝のホームルームが始まる前に俺が渡した弁当箱だった。
「あ、そっか。昼休みが終わったら貰いにいけばよかったな。わざわざありがとう、千冬姉」
「いいさ。弁当を作ってもらったうえに、そこまでしてもらったらかえって据わりが悪い。今日もうまかったぞ」
本当になんでもないことのように、千冬姉は弁当の感想をつけ加えてくれる。
それが逆に、俺の料理の腕というか、俺を信用してくれているように感じた。
受け取った弁当箱が軽かったのが、それを証明しているような気がするのは、自意識過剰というやつだろうか。
いや、この際、自意識過剰でもなんでもいい。
やばい。なんかめちゃくちゃ嬉しい。
「じゃあな。明日も遅刻はするなよ」
これで用事は済んだとばかりに、颯爽と踵を返し、千冬姉は廊下を歩いていく。
「ま、また近いうちに作るからさ! そしたらまた持っていくよ!」
「ああ、楽しみにしておく」
慌てて呼びかけた俺に、千冬姉は振り返ったりせず、軽く右手を挙げて答えた。
我が姉ながら、いちいちかっこよすぎるだろ。
女子にファンが多いのも頷けるぜ。マジで。
俺は千冬姉の背中が見えなくなってから、もう一度短く息をついて、開け放したままだったドアをくぐった。
今度こそ自室へと戻ってきた、と思ったのも束の間。
「おかえり」
制服姿のまま、腕組みをして仁王立ちをしているラウラに出迎えられた。
「色々と言いたいことはあるが、どうして俺の部屋にいる!?」
そういえばロックを解除した覚えがないのにドアが開いたな!
ラウラの侵入に対して脆すぎるだろこの部屋!
最新のセキュリティが取り入れられてるんじゃないのかよ!
言いたいことが沢山ありすぎて、どれひとつとして口に出すことができない俺の内心などお構いなしに、ラウラは平然と語りはじめる。
「弁当の礼をしようと思って待っていたのだ。日本ではロクに家庭を顧みない亭主のことを甲斐性なしというらしいからな。夫婦円満の秘訣は、亭主が嫁に歩み寄ることだとも聞いた」
ちくしょう。100%間違ってるわけじゃないのが逆に腹が立つ。
ラウラにおかしなことを吹き込んでるやつとは、そのうち納得いくまで語り明かす必要があるな。
「ところで一夏」
ラウラの声が、やけに硬い。
心なしか身に纏ったオーラもぴりぴりしているように感じる。いうなれば、のほほんさんの癒し系オーラとは対極にある軍人系オーラというか……早い話が明らかに怒っている。声が硬く感じるのは、無理矢理感情を抑えているからに違いない。
「お、おい、ラウラ――」
「――教官との会話は随分と楽しそうだったな」
「なっ」
……そうか。
ドアを開けたまま話したから、部屋の中にいたラウラには聞こえてたのか!
「鼻の下が伸びているぞ」
バカな! と思わず顔に手を当てる俺。
その行為そのものが致命的なミスだと気づいたときには、もはや手遅れだった。
「ふん。どうやら筋金入りの唐変木が自覚する程度には図星だったようだな」
「ら、ラウラ! 騙したのか!?」
「騙してなどいない。お前が教官の前に出てデレデレしていたのは本当のことだ」
「俺はデレデレなんてしてな、」
「気に食わん」
ラウラは聞く耳持たないという意思表示のためか、俺の反論を途中で切り捨てた。腕組みを解き、片手を腰に、そしてもう片方の手を前に突き出す。そして突き出したほうの手の人差し指を、まるでサーベルかなにかのように冷然と俺の鼻先に突きつけた。
「たしかに私は織斑教官を尊敬している。織斑教官は軍人としてだけではなく、人間として素晴らしい方だ。だがな」
ラウラの切れ長の目がすっと細められる。
そのとき背筋に寒気が走った。周囲の気温が下がったように錯覚する。
これが……殺気……ってやつなのか……?
こいつ……こんな雰囲気の中でなにを言うつもりなんだ……!
「いいか、よく聞け、一夏――」
俺は身じろぎすることすらできない。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのこと。
自分の唾を飲む音が、やけに耳の近くで聞こえた気がする。
永遠にも感じる、わずかな間を挟み、
瞬きをすることすら忘れた俺に向かって、
ラウラは毅然と宣言を発した。
「――お前は教官の弟である前に、私の嫁なのだぞ!」
……えっ?
今なんて?
「……すまん、ラウラ。もう一度言ってくれ。ちょっと理解が追いつかなかった」
「お前は教官の弟である前に私の嫁だ」
俺の要求に応じて、ラウラは律儀にも繰り返してくれた。
しかも、すっごいどや顔。
「いやいやいやいや、それだと普通に弟が先にくるだろ。血縁関係が優先されるだろ」
「な、なに? 違うぞ! 私の場合は違うのだ! 夫婦のほうが先なのだ!」
まさか言い返されるとは思っていなかったのか、ラウラは急に焦りはじめた。
ぶっちゃけ、これでは子供がしょうもないワガママを言ってるのとあまり変わらない。前にシャルも言ってたけど、ラウラって意外と子供っぽいところあるからなあ。
というか、「これが……殺気……!」とか考えてた俺が一番恥ずかしいわ。黒歴史だわ。
はあ。
なんだかどっと疲れた。
「聞いているのか、一夏!」
「おう。聞いてるぞー」
ラウラの脇をすりぬけ、とりあえず制服の上着だけ脱いでベッドの上に放り投げた。
これだけでだいぶ身体が軽くなった気がするのだから不思議である。
「いいか? いくら教官相手といえど、嫁が私以外の者に愛想よくするのはな……おい、こっちを向け!」
「それよりラウラ、喉かわかないか?」
湯沸かし器に近づきながらさりげなく聞いてみる。
「む? 少しかわいているが……今はそれよりもだな」
「じゃあお茶淹れるから飲んでけよ。緑茶でいいよな?」
茶葉を用意して、カップをふたりぶん並べる。
あとはなにかお茶請けがあるとベストなんだが。
「構わんが……って、私の話を聞けと言っているだろう!」
「だから聞いてるっての。お、そういや羊羹があったんだ」
前に茶道部で余ったものを、千冬姉が差し入れしてくれたのだ。
例によってIS学園仕様の高級品なので、余り物なんていうのが申し訳ないくらい味が濃厚でうまい。
「なに? 羊羹?」
「食うだろ? ラウラ好きだったよな、羊羹」
「う、うむ……たしかにそうだが……」
「疲れたときには甘い物がいいんだぜ。緑茶にも合うし」
「……そうか。ではいただこう」
「先に座っててくれよ。すぐに準備するから」
「うむ」
羊羹を皿に取り分けながら、俺は大人しく椅子に座ったラウラをチラ見する。
相手を強引に自分のペースに引き込むのが上手い反面、守備が疎かになりがちなのだ、ラウラ・ボーデヴィッヒというやつは。
だから先にこっちがペースを掴めば、主導権を握ることも難しくはない。
羊羹というリーサル・ウェポンも用意していたのが、俺にとってはこのうえない幸運だったと言えよう。
「……なんだ?」
ずっと俺の後ろ姿を追っていたらしいラウラは、目ざとく俺の視線に気づく。
「いや、べつに」
「そうか。ちなみに私はお茶はぬるめが好きだ」
「知ってるよ。猫舌だもんな」
「断じて猫舌ではない。ぬるめが好きなだけだ」
「へいへい」
とまあ、こんな感じで。
今日も今日とて騒がしかった一日は、ワリと穏やかに暮れていくのだった。
*****
「――以上が今回の報告だ。クラリッサ、なにか問題はあるか?」
『……隊長。僭越ですが、ひとつよろしいでしょうか?』
「言ってみろ」
『どうか! どうか! 隊長はこれからも今のままの隊長でいてください!』
「な、なんだと? 発言の主旨を明確にしろ」
『……失礼しました。つまり隊長は、かなり良い感じで一夏君と交流を深められているかと』
「そ、そうか……私は良い感じか……」
『しかし一夏君は家事も万能ですか。素晴らしいですね』
「ああ。そうだろうそうだろう」
『人生のパートナーとして最適であり、最良でしょう。私も羨ましいほどです』
「む……い、言っておくがな、クラリッサ。い、一夏はダメだぞ。いくらクラリッサといえども譲るわけにはいかん」
『…………』
「く、クラリッサ。どうした。通信が途切れたのか?」
『……いえ、少々鼻血が。失礼しました』
「大丈夫なのか?」
『はい、問題ありません。ご心配をおかけして申し訳ありません』
「いや、問題なければそれでいい。軍人たるもの、身体が資本だからな」
『そうですね。では隊長もお体にはお気をつけて』
「うむ、わかった。それではな」
『…………』
『……』
『よし! ミッション・愛妻弁当、コンプリート! これよりシュヴァルツェ・ハーゼは調理に移る! 隊長の食べた弁当を再現し、昼食にこれを食すのが我々の任務である! ……返事はどうした?』
――アイ、アイ、マム!
おしまい