とあるマンションの一室に、三人の少女の姿があった。
一人目は、青い髪に茶色の瞳を持つ少女。鼻歌を歌いながら、キッチンで洗い物をしている。
二人目は、金髪の三つ編みを垂らし翡翠色の目をした少女。リビングに敷かれたカーペットの上に正座をして、丁寧な手つきで洗濯物をたたんでいる。
そして、三人目はシャギーの入った赤毛の少女。リビングの中央で膝を抱えて座る彼女は、家事をする二人をぼんやりと眺めている。瑠璃色の瞳は焦点が合っていないのか、ともすればうつろな目つきにも見えた。
それぞれが個性的な外見の少女たちだったが、三人には共通していることが二つある。
特徴的な服装と、耳についた飾りだ。
服は前面にエプロンを備え付けた形になっているミニスカートのワンピース。
耳についているのはメイドロボが着用を義務づけられているセンサーだった。
そう、彼女たちはhmx-17の型番を持つ来栖川製のメイドロボたちであり、青い髪の子はイルファ、金髪の子はシルファ、赤毛の子はミルファと呼ばれている。
「……ねえ」
ぽつり、とミルファが呟く。
イルファの鼻歌が止み、洗濯物をたたむシルファの手が止まった。
「どうしました? ミルファちゃん」
イルファがエプロンで手を拭きながらリビングに歩いてくる。僅かな足音すら立てず、淑女の振る舞いで腰を下ろす仕草が様になっている。イルファは優秀なメイドロボなのだ。
「お姉ちゃん、何か悩みでもあるの? ちょっと元気ないよ」
シルファが気遣わしげに、ちょこんと首を傾げた。少し頼りなさそうな表情は、優しさの表れでもある。彼女は相手を思いやることのできる、心根の穏やかなメイドロボだ。
「……うん」
ミルファは小さく頷き、顔を膝にうずめた。
半分だけ覗く表情は、硬く、険しいものだ。
イルファとシルファは、居住まいを正す。何か深刻な悩みがあるのだろうと直感し、できることならミルファの力になりたいと思っていた。同じ型番を持つということは、人間ならば姉妹であるのに等しい。姉妹――ひいては家族を心配するのは当然のことである、とイルファたちは考えている。
「あのね」
ミルファは、二人の気持ちを知ってか知らずか、ゆっくりと顔をあげ、
「――貴明って、ホントにおっぱい好きなのかな?」
彼女なりに考え抜いた深刻な悩みを口にした。
「…………」
「…………」
イルファとシルファは無言で顔を見合わせて、同時にがくりと肩を落とす。
何を言い出すのかと思えばそんなことか、と言わんばかりの脱力っぷりだ。
「なっ、なによ、二人とも。あたしは真剣に悩んでるんだから」
ミルファが憮然として言うが、
「洗い物が残ってるので、済ませてきます」
「姉さんは気にならないの!?」
「興味ありません」
イルファはため息と共に立ち上がり、さっさとキッチンに向かおうとする。
「それじゃあシルファは!? 気になるよね!?」
「え、わ、わたし? わたしは……、うーん、どっちかっていうと気にならないかな……?」
それはすごく控え目な返答だったが、控え目なシルファが言った場合、まったく気にならないという返事に他ならない。
ミルファはイルファの足にしがみついて、
「だって変だよ! 珊瑚様は貴明がおっぱい好きだって言ってたのに、全然そんなことなさそうなんだもん!」
「どうしてそんな風に思うんですか」
「だって、だって、貴明が勉強してるときとか、頭の上にこうやって乗せたりしてるのに、何も反応しないんだもん!」
両手で胸を寄せるミルファを脇で見ていたシルファの口元が引きつる。いつの間にそんなことをしてたんだろうと思うと同時に、そのときの貴明がとんでもなく不憫に思えた。
「なんで貴明って、いきなりがばっと鷲掴みにしたり、押し倒してきたりしないんだろ……」
そんなことをしたら単なる危ないやつというか、犯罪者というか、たぶん補導される。
「お、お姉ちゃん、あんまり無茶なこと言ったらダメだよ」
「……考えてみるとおかしいよね。姉さんとシルファだけじゃなくて、珊瑚様も瑠璃様もおっぱい小さいし……」
シルファの言葉を無視して、またしても考え込むミルファだったが、声に出した台詞がまずかった。
イルファの頬が、ぴくりと動く。
ちょっとだけ、かちんときたのである。
「珊瑚様が嘘つくはずないから……、ひょっとして小さいおっぱいに囲まれてるうちに貴明の好みが変わっちゃったのかな……」
小さい小さい言うな、とイルファは思った。確かにこの三人の中で、ミルファは一番バストのサイズが大きい。開発部の人間に、わざわざ大きくしてくれと頼み込んだのだから大きくて当然だった。
イルファは、それが後発者の利益だというのは理解していたが、なんというかメイドロボ云々以前に、女性としてのアイデンティティーが揺るがされたような気分になった。
こういうときのイルファは恐ろしい。
「……ミルファちゃん? 貴明さんの好みを確かめたいんですよね?」
「う、うん。そうだけど、どうすればいいのか分からなくて……」
その内容はともかく、本気で悩んでいるミルファには、イルファの瞳の奥に怪しい光が宿っているのに気付かない。
「それなら、いい方法があります」
「ホント!?」
勢いよく立ち上がったミルファに優しげな視線を送りながら、イルファは穏やかな表情で頷き、
「ちょうどバレンタインも近いですし、珊瑚様たちにも協力して頂きましょう」
がっしりと手を握り合った二人を眺めるシルファだけが、不幸な未来が確定した貴明に祈りを捧げていた。
Trouble Chocolate
「……なんだか、久しぶりだな」
しんとした室内で一人呟く。
一人。
自分の家で、一人。
両親が海外に行ってしまっているのだから、それは当たり前のことなのに、俺にとっては当たり前ではなかった。珊瑚ちゃんたちと出会ってからというもの、毎日が賑やかすぎるくらいに賑やかで、息をつく暇がない。
休日には決めごとのように姫百合家にお邪魔する。平日はイルファさんかミルファがうちにやってくる。シルファや瑠璃ちゃん、珊瑚ちゃんがくることもあって、一人になる時間の方が少ないくらいだった。
それが、今日は一人。
珊瑚ちゃんたちは用事があるとかで、学校を休んでいた。帰りにマンションに寄ってみたら留守だったので、どうやら今日は会えずじまいになりそうだ。
まあ、たまにはこういうのも悪くはない。いくら珊瑚ちゃんたちが大切な存在であっても、一人になる時間は必要不可欠なものだと思う。寂しいのは否定しないが、出会ってからの半年間、四六時中共に過ごせば気疲れするときだってある。
ただ、
「……よりによって今日ってのもなあ」
少し複雑な気分だった。
今日の日付は二月十四日。
つまり、全世界的にバレンタインデーだったりする。
ソファに放り投げたカバンの中には、三つの包みが入っていた。このみとタマ姉と、あとは春夏さんに貰ったチョコレートの包みだ。
去年までは二つだったので、今年はタマ姉の分が一つ増えた。
ありがたい。
ありがたいが、少しだけ物足りない。さもしい考えだと分かっていても、やっぱり珊瑚ちゃんたちからもチョコを貰えたらよかったのになあ欲しかったなあ、とか思ってしまう。人の欲望は止まるところを知らない、なんて言葉が思い浮かんで苦笑した。
がらんとした家は肌寒い。
せめて部屋を暖かくしようと、ファンヒーターのスイッチに手を伸ばし、
「お」
電源を入れたと同時に、呼び鈴のチャイムが鳴った。
「……タイミングぴったり、っと」
知れず独り言が口をつくのに虚しさを覚えながら玄関に向かう。
「どちらさまですか――」
サンダルを履いてドアノブを回す。
ゆっくりとドアが開き、
「あ、あの、こんばんは」
そこに立っていたのは、金髪の三つ編みが可愛らしい女の子。
シルファだった。
▽▽▽▽▽
河野家から十メートルほど離れた場所に、キャンピングカーが止まっている。
キャンピングカーにはところ狭しと怪しげな機材が詰め込まれていて、その中にあるモニタを珊瑚と瑠璃、そしてイルファとミルファが肩を寄せ合いながら凝視していた。モニタの脇に備え付けられたスピーカーから音声が聞こえてくる。
『一人できたの?』
『は、はい。お母さんたちも、あとからくるって言ってました』
『用事はもう終わったんだ?』
『そ、そうです。たいした用事ではなかったので』
『そっか。どんな用事だったの?』
『え、それは……』
モニタに映る金髪の少女が、落ち着きなく視線を彷徨わせ始めた。
言うまでもなく、モニタには河野家の玄関の様子が映し出されている。珊瑚たちが学校を休んだのは、河野家に隠しカメラとマイクを仕込むためだったのだ。
「シルファちゃんに最初に行ってもらったのは失敗だったでしょうか?」
「しっちゃん素直やし、嘘つけんやろうな~」
「貴明、信じてるからね……!」
「……なんやねんこれ……」
イルファが冷静に分析し、珊瑚が応える。その後ろでは、ミルファがはらはらと映像を見つめ、瑠璃がげんなりとした表情を浮かべている。三者三様ならぬ四者四様の有様だった。
『ま、とにかく上がってよ』
『お、お邪魔します……』
貴明とシルファの姿が、玄関から消える。
「カメラを切り替えますね」
イルファが手元の機械を操作すると、モニタの映像が切り替わる。
次にモニタに映し出されたのは、河野家のリビングだった。
「貴明も災難やなあ……」
瑠璃の本心からの言葉に、耳を傾ける者はいない。
瑠璃以外の三人は、興味津々といった面持ちで、映像に釘付けになっている。
△△△△△
ソファを勧めたら断られ、じゃあせめて座布団をと思ったらそれも断られた。
シルファはテーブルの端で小さくなって、ちょこんと正座している。横顔に視線を感じるのは、こちらの様子を窺っているからだろう。理由は分からないが、今日のシルファはいつにも増して遠慮がちというか、妙に緊張しているように見える。
「えっと、シルファ?」
「は、はいっ!」
ぴしっと背筋を伸ばして返事をするシルファ。
やっぱりおかしい。
「なにかあったの?」
「なっ、ななななにもないです! 本当です!」
指摘にめちゃくちゃ動揺するあたり、何かあったのは間違いない。
思いのほか大きな声を出したことを気にしてか、シルファはますます小さく縮こまって黙り込んでしまった。沈黙が苦になるような間柄ではないとはいえ、なんとなくこういうのはよくないと思う。
意を決して立ち上がる。
テーブルの反対側に座っているシルファを驚かさないよう、怯えさせないようにゆっくりと歩み寄る。そして、
「――――あ」
上目遣いで俺を見つめていたシルファの口から吐息が漏れた。
俺の手が頭の上に乗せられたからだ。
「――貴明、様」
がちがちになっていたシルファの肩から力が抜け、表情も次第に和らいでくる。柔らかな金髪の感触がくすぐったくて、自然と俺の頬も緩んでいた。
「なにか困ったこと?」
「いっ、いいえっ、そうじゃないんです。……そうじゃなくて」
シルファは躊躇いがちに目を伏せたが、それも一瞬のこと。
「こっ、これ、わたしが作ったんです!」
そう言って勢いよく顔をあげると、エプロンのポケットから取り出した包みを両手で差し出した。
シルファの小さな手に乗った、小さな包み。
薄い黄色の包装紙で、綺麗にラッピングされている。
これは、もしかしなくても、
「……チョコ?」
「は、はい……」
シルファは控え目に頷き、
「受け取って頂けますか、貴明様」
見上げる顔を真っ赤に染めて、必死の形相を浮かべている。
チョコレートを渡すだけなのにやたらと切羽詰まっているのが気になったが、こんな顔を向けられたら小さな疑問は吹き飛んでしまう。シルファは何に対しても真面目に取り組むから、きっと一生懸命にチョコを作ってくれたのだと思う。
受け取るに決まっている。
嬉しいに決まっていた。
「ありがとう、シルファ」
がっつくのもみっともないので毅然と振る舞おうとしているのに、なかなか上手くいかない。にやけそうになるのを必死に堪えながら、カーペットに膝をついて目線を合わせた。
シルファが相手だと俺も焦ったりせずに済むし、このみと同じような感覚で接することができるので助かる。まあ、このみと比べればシルファの方がしっかりしているのは間違いないが、それとは別の意味で幼さを残しているというか、ひょっとして娘ができたらこんな感じなのかもしれない。
「あ、あの……」
「ん?」
なんてことを考えていたら、シルファは驚くべき行動に出た。
▽▽▽▽▽
『――あーん、してください』
モニタの中で、シルファが指先を貴明の口に向けている。
シルファの指先に、自作の丸いチョコレートが一粒つまみ上げられていた。
「――なっ、ちょ、ちょっと! なにしてるのよ!」
「騒がしいですよ」
凄まじい剣幕のミルファとは対照的に、イルファはしれっと言い放つ。
「貴明さんの好みを調べるために必要なことです。ミルファちゃんだって納得したじゃないですか」
果たして貴明は大きな胸が好きなのかどうか。
それを調べるため、イルファたち三人が個々に貴明にアプローチをかけるというのが、今日の目的だった。
「そ、それはそうだけど……、あー! 食べた! あーんして食べたー!」
「貴明、しっちゃんに甘いからな~、らぶらぶや~」
あたしだってやったことないのに、と憤慨するミルファの横で、珊瑚は春の太陽のような笑みを浮かべている。
「父性が先に立つと言いますか、シルファちゃんが相手だとなんだか逞しい感じですよね。あ、普段の貴明さんも、もちろん素敵ですけど」
「冷静に分析しないでよ! ……って、ああー! くっつきすぎ! べったりくっつきすぎだってば!」
ミルファの言葉を示すかのように、モニタの向こうではシルファがあぐらをかいた貴明の膝の上に乗っていて、
『おいしいですか? おと~さん』
『うん、おいしい』
「ねえ! どうして貴明はあんな当たり前みたいにべたべたしてるの!? ていうか、今、お父さんとか言わなかった!? なにそれ!」
「知りませんでした? 二人きりのときは貴明さんのことをお父さんって呼んでるんですよ」
どうして二人きりのときの話をイルファが知っているのかとか、そんなことはミルファにとってどうでもよかった。とにかく目の前で貴明がシルファとくっついているのが気に食わないのである。
「シルファちゃんって恥ずかしがり屋の反動なのか、一度タガが外れると本当にこれでもかっていうくらい貴明さんに甘えちゃうんですよね」
「そういうところは、間違いなくイルファの妹やな」
「そんなっ瑠璃様っ、誉めないでくださいっ」
「誉めとらんわっ!」
イルファと瑠璃の漫才を尻目に、ミルファがゆっくりと立ち上がる。ミルファの赤毛が揺らめく様子が、まるで炎を背負っているように見えるのは気のせいではない。
「……あたしも行く」
「ちょっと待ってください」
今すぐにでも河野家に駆け込もうとするミルファを、イルファが冷静に押し留めた。
「シルファちゃんの次は私ですよ?」
「そっ、そんなの知らないっ! 次はあたしが……」
「胸のサイズ順でいいって言ったのはミルファちゃんじゃないですか」
「う……」
胸のサイズ、のあたりを強調しつつ、イルファが言う。平然としてはいるが、先日のミルファの発言を相当根に持っているのだ。
「それに、こういう対決って一番最後が有利なんですよ。ですよね、珊瑚様?」
「漫画の料理対決やと、いっつも最後のが勝つなぁ」
「ほ、ホント?」
珊瑚の言葉だけでは信じ切れないのか、ミルファは半信半疑の視線を瑠璃に送る。
「……まあ、嘘は言うてへんかな」
絶対ではないけど、と心の中で付け加えた瑠璃の声は、もちろんミルファには届かない。
「……じゃあ、早く行ってきて。……貴明にヘンなことしないでよね」
「それでは珊瑚様、シルファちゃんに交代の時間だと伝えておいてください」
「了解や~」
「ちょっと姉さん! 返事は! 貴明にヘンなことしないって誓いなさい!」
「ヘンなことなんてしませんから安心してください」
ひらひらと手を振り、満面の笑みだけを残してキャンピングカーの外に出て行くイルファは、なんというかやる気満々だった。
△△△△△
膝の上に座っていたシルファが、ぴくりと身をすくませる。
「どうかした?」
「あっ、あの、おとうさ……じゃなくて、貴明様。わたし、用事を思い出したので少し出かけてきます」
「用事?」
「は、はい。入れ替わりで、イルファお姉ちゃんがきますから」
しどろもどろに言って立ち上がると、シルファは慌ただしくリビングを出て行った。突然の行動に見送ろうという考えすら追いつかない。廊下を駆ける音と、玄関のドアが閉まる音がして、それきり家の中はしんと静まり返る。
「なんだったんだ……?」
首を捻ってみても分かるはずがない。やけに慌てていたが、用事が済んだからうちにきたと言っていたような。
それに、どんな用事なのかはともかく、イルファさんが入れ替わりでやってくるというのが少しだけ気になる。
「――貴明さん」
「おわっ!?」
いきなり名前を呼ばれて、心臓が飛び出しそうになった。
音もなくリビングに現れたのは、まさにイルファさんその人で、
「すみません、驚かせてしまって」
「あ、いや、それはべつに構わないんだけど」
不意打ちだったのは間違いない。
気を抜いたところに声をかけられたせいで、腰が抜けるかと思った。
「あの、シルファは?」
「玄関ですれ違いましたよ」
なるほど。だから玄関のドアが閉まる音が一度しか聞こえなかったのか。
それにしたって、とたとたと廊下を歩いていたシルファとは対照的に、無音でここまでやってきたイルファさんは不可思議だ。ひょっとして最近のメイドロボは、忍びの極意とかも会得してたりするんだろうか。
「では、すぐに準備しますね」
「え……、準備って、なんの」
そそくさとキッチンに向かったイルファさんは、肩越しに振り返って、
「チョコレートの準備です。今日は二月十四日ですから」
当然そうであると言わんばかりの笑顔で、腕まくりをしてみせた。
▽▽▽▽▽
『チョコレートを渡す風習は、日本独自のものらしいですね』
『そうらしいね』
『もっとも、贈り物がチョコレート一色というのが珍しいだけで、バレンタインに何かを贈るという行為そのものは、世界中で行われているみたいですけど』
『へえ、それは知らなかったなあ』
河野家のリビングとキッチンの間で、ほのぼのとしたやり取りが行われている頃、キャンピングカーでシルファを出迎えたのは、腕組みをして仁王立ちしたミルファだった。
「……おかえり」
「た、ただいま……」
鬼の形相のミルファを見るまでもなく、シルファは自らの失態を理解していた。
イルファの計画により、貴明がチョコを受け取ったときの反応を調べるのが目的だったのに、頭を撫でてもらった瞬間にそれらすべてが頭から吹き飛んだ。家に隠しカメラとマイクが設置されていることも忘れ、貴明に甘えまくってしまった。
「しっちゃんおかえり~、ごくろうさま~」
ミルファの背後から声がする。失態に関して、珊瑚がまったく気にしていないのは幸いだったが、
「……ちょっと質問してもいい?」
「う、うん」
シルファの目の前にある赤い壁は、そうやすやすと越えられそうにない。
シルファは、貴明に撫でられると、いつも幸せな気分になる。とろけそうになるというか、気持ちがよくて夢見心地になってしまうのだ。珊瑚に誉められるのも嬉しいが、それに匹敵するくらい貴明に頭を撫でられるのが大好きなのである。それはもう、思い出したら自然と頬が緩むくらいに。
「……ねえ、シルファ。どうしてそんなにうっとりした顔してるの?」
「しっ、してないよ!? うっとりなんてしてないよ!」
あたふたと首を横に振るシルファを、ミルファがジト目で見つめている。それは容疑者を見る刑事の目つきであり、気圧されたシルファは思わず顔を背けそうになる。
だが、シルファは顔を背けなかった。
正確には、その必要がなくなった。
スピーカーから貴明の声がしたのを合図に、ミルファが後ろを振り向いたのだ。
『――イ、イルファさん!? それってどういうこと!?』
『ええ。ですから、貴明さんに私の作ったチョコレートを受け取って頂きたいと』
『チョコはありがたく受け取るよ! でも……』
モニタの中で、貴明が尻もちをついて後ずさっていた。焦っているのは映像を見ても音声を聞いても明らかで、迫り来る驚異から逃れようと必死になっている。
貴明に迫る驚異とは、他でもないイルファだ。
イルファは片手にコーヒーカップを持っている。溶かしたチョコレートが入ったそれをゆらゆらと揺らし、逃げる貴明を徐々に部屋の隅へと追いつめている。
「なっ、何してるのよ、姉さん!」
「いっちゃんな、貴明にちゅ~するんやて」
「ちゅっ……!」
珊瑚の言葉に、ミルファは絶句した。
横では瑠璃が頭を抱え、後ろではシルファが驚きに目を瞬かせている。
『先ほども申し上げたように、私がお贈りするのは、口移しのチョコレートドリンクですから』
『口移しにする意味が分からないよ! 普通に飲ませてよ!』
『そういうわけには参りません』
つい、とイルファの視線が貴明から外れる。
楽しげなイルファの顔が、正面からモニタに映し出される。
完璧なカメラ目線だった。
「は、は、は……」
ミルファの肩がぷるぷると震え、
「謀ったわね! 姉さ――――――――――――――――――――――ん!!」
爆発した。
△△△△△
甘くて暖かいものが身体の中に流し込まれる。
一度身を委ねてしまえば、数秒前まで抵抗していたのが嘘のようだ。チョコレートとイルファさんの味が、脳みそまで溶かそうとしているかのような感覚。甘い甘い麻薬は、恐るべき早さで俺の心を浸食していく。
「――――――ふあっ」
熱い吐息で、イルファさんの唇が離れたのに気付いた。
イルファさんの左手は、俺の頭の後ろに回されている。
頭の芯が痺れていた。
なんだかぼうっとしていて、考えがまとまらない。
何を考えればいいのか分からない。
「……貴明さん」
おぼろげな意識の海に、イルファさんの声が染み入ってくる。
「おかわり、いかがですか?」
おかわり。
おかわり、と言ったのか。
それはつまり、あの甘くて美味しいものをもっとたくさん飲ませてくれるということなのか。
「……うん」
頷いた。
緩慢な動作で首を動かした俺を見て、イルファさんは穏やかな笑みを浮かべる。
小悪魔めいた顔から、目が離せない。
イルファさんは、先ほどと同じようにコーヒーカップを傾け、中身を口に含む。
「ん……」
艶めかしい唇が寄せられる。
イルファさんが目を閉じる。
「んっ」
唇を合わせた瞬間、
リビングのドアが開かれた。
廊下から現れたのは、赤い色だ。
燃えさかる炎の赤。
圧倒的な負のオーラを背負った赤。
「――貴明」
冷え切った声を聞き、宙を漂っていた意識が一気に引き戻される。
ごくり、と喉を鳴らして、口の中にあったチョコレートドリンクを飲み下す。
本物の悪魔が、そこにいた。
「ミ、ミ、ミミミミルファ……!?」
「そうです。貴明様の専属メイドのミルファですよ」
敬語出た。
過去の記憶と照合してみると、ミルファがこんな風に敬語を使うときは、100%の確率で怒っている。それはごめんなさいと謝って許してもらえるような怒りではなく、過ぎ去るまで堪え忍ぶしかない大自然の怒りに等しい。こうなってしまったら俺にできるのは、大人しくミルファの言うことを聞くくらいだ。
「なにをしてらっしゃいますか、貴明様は」
「あら、見れば分かるでしょう、ミルファちゃん」
しかし、神経を逆撫でする要因がここに一つ。
お願いだから黙っててくださいイルファさん。
「姉さん……!」
ミルファはイルファさんを睨みつけて、
「最初からこうするつもりだったわね……!」
よく分からないことを口にする。
だが、イルファさんにはきちんと意味が通じているのか、俺にしがみついたままため息を吐き出し、
「甘いです。チョコレートよりも甘々です。胸のサイズを上げてもらうより、他の性能を上げてもらった方がよかったんじゃありませんか?」
「――うるさいっ! この腹黒メイドロボッ!」
喧嘩をする姉妹メイドロボって世界でもここにしかいないんだろうなあ、なんてぼんやりと現実逃避をしていると、気勢を上げるミルファの後ろから珊瑚ちゃんたちがやってきた。
「貴明、愛されとるな~」
「そ、それどころじゃないって! 頼むから早く二人を止め、むぐっ」
止めるどころか、珊瑚ちゃんは笑顔のままダイブしてきて、俺の唇を塞いでしまう。
もちろん、自分の唇で。
「あー! 珊瑚様までー!」
「ん~、貴明チョコの味がする~」
ああ、ダメだ。もう何がなにやら分からない。
ミルファはますます眉をつり上げてるし、珊瑚ちゃんとイルファさんは俺にくっついてにこにこ笑ってるし、シルファは羨ましそうにこっちを見てるだけだし。
「る、瑠璃ちゃん! 助けて!」
こうなったら、頼れるのは瑠璃ちゃんしかいない。
根が生真面目な瑠璃ちゃんなら、この騒ぎをきっと、
「……骨なら拾ったるから、がんばり」
「そ、そんな……」
瑠璃ちゃんは「巻き込まれたらたまらん」みたいな顔をして、キッチンの方に姿を消した。イルファさんたち三姉妹が揃ってからというもの、抑え役に回っていた瑠璃ちゃんがいなくなったということは、もはや俺に打つ手はなくなったということであり、
「貴明~、ウチのチョコも口移しで食べさしたげるな~」
珊瑚ちゃんも、
「それでしたら、私も残りを貴明さんに……」
イルファさんも、
「わ、わたしのチョコも食べてもらえますか?」
そしてシルファまでもが、雪崩のように押し寄せてくる。
三人に揉みくちゃにされた視界の向こうでは、ミルファが肩を振るわせていて、噴火直前の火山を思わせた。
「……あたしも」
ミルファは押し殺した声で何やら呟いていたが、
「あたしも貴明に食べさせる!」
赤い髪の毛を振りかざしたかと思うと、おもむろに洋服を脱ぎ始めた。
「ミルファ!? おまえ、何してるんだよ!?」
ミルファは、イルファさんの手からチョコの入ったコーヒーカップを奪い取り、
「あたしは、おっぱいを器にして貴明に飲んでもらうもん! 人間だったら火傷しちゃうけど、あたしだったらこんなこともできるんだよ!」
二の腕で自分の胸を寄せて、上げて、そこにできた神秘の谷間にチョコレートを流し込む。
「や、やめろ、ミルファ! そんなはしたないことするな!」
「だって、お酒とかこうやって飲んだりするんでしょ! 雄二が言ってたもん!」
あのバカ、ミルファに何を教えてるんだ。
「そういえば、みっちゃんがチョコまみれになると、仮ボディのときと同じ色になるな~」
「ふふ、そうですね」
「ちょっと! ねえ! 珊瑚ちゃんもイルファさんも、上手いこと言って和んでないで止めてよ! うわ、ちょ、やめて! ミルファやめて!」
「貴明は、おっぱい好きだよね? あたしのチョコ、食べてくれるよね……?」
「あ――――」
終わった、と思った。
それチョコじゃない、と思った。
いや、思ったときには、すべての思考が一瞬でブラックアウトしていた。
俺は、情けなくも鼻血を吹き出して、そのまま気を失ったのである。
「お父さん! お父さん! しっかりして!」
「……チョコを食べ過ぎると、鼻血が出るそうですね」
遠のく意識の中で、イルファさんがそんな説明をしていた。
いや、これは絶対にチョコの食べ過ぎで出た鼻血じゃありませんから。
俺の魂の叫びは、もちろん誰に届くこともなく消えていくのだった。
END