娘を抱える一人の父親として、 真正面から話をしたことがあります。
「人はどうやって我が子を虐待するようになっていくのか?」という事についてですね。
「自分は大丈夫!」、「そんなことは有り得ない!」、誰だってそう思う物です、得に若い時分には。
しかしそれは、理屈ではなくて現実そのものであり、親としてはけして有って欲しくない事。
故に、我が子にきちんと向き合って理解させておかねばならない。
やがては誰かを好きになり、未来の自分を思い描くようになるであろうが、”自分の思う様に行くことより、行かないのが普通”であり、
それは結婚して生活を始めると様々な障害として人生に立ちふさがる。
結婚は誰にでも出来る簡単な儀式でしかなく、それまでは互いを見つめていれば済む話。
しかし、家庭を持てば周りに対してきちんと顔を向けていかねばならないし、向けられる顔でなくてはならない。
やがて子を授かり、経済的にも精神的にも安定して生きていくためには、大なり小なり、多くの人達の助けが必要となる。
その時に、”これまで自分が何をしてきたか?”という事が、改めて問われる事となるわけだが、それは人によって相当に重い場合も有る。
始終メディアを賑わしている幼児虐待と、無念の死を迎える子供達。
そうした母親の生き様にはほぼ共通した点(父親が薬物中毒等の場合にはすでに論外)が見受けられる。
一つは世間知らず、 二つ目は社会を舐めきっている事、 三つ目は感情的で我慢や忍耐ができない(子供のままの人間性)、 以上、ヤンキー娘に多いことだ。
最後の四つめは、背景にその母親の”親の存在”が全く感じられないこと。
僕が娘と話をする際に、この全部について詳しく話した訳だが、その中でも特に重要なのが四つめの、自分の親の存在。
*これは子供を虐待から守ってくれる最後の砦とも言えるからだ。
子供を虐待するのは 特段精神的問題を抱えている娘ではなく、 ごく普通の人間であることが多い。
娘には一番身近で起こりやすい例をあげて話したのだが、まだ学生の我が娘がどこまで理解してくれたか?は、正直なところ僕には解らない。
一つ目から三つまでの要素は、たいてい付き合う相手の選び方とその後の行動を決め。
同時にその相手に対する親の考え(不快)が、親子間の摩擦を引き起こす。 親の気持ち等を考えて恋愛などしていないのが普通だからだ。
更に、そのあつれきを増長させる様な行動を極端に引き起こすことによって、超えることの出来ない大きな溝を造ってしまうことが多い。
*大人であればそれなりの経済力も、能力も有るし、納得させることも出来るであろうが、若い頃は常に自分が中心で、我が儘に対して
親は当然に追従してくるものとおもっている。
簡単に書くと、後先考えない恋愛ごっこの果てに、親の再三にわたる反対を押し切り結婚、もしくは同棲。
”愛があれば何とかなる”等と、たかを括っているのがこの段階。
親は呆れ、当然見切りつけての勘当状態になる訳で、これによって、大切な援助も意見も力添えも一切失う事になる。
*そうならなければ虐待という物はそう簡単に起きない。 その環境が発生しやすいか、可能が高いと見抜くほど強固に反対するのが親である。
勢いで始めたバラ色の生活はすぐに枯れ果て、お決まりの経済面での夫婦喧嘩が増え始めると、後はどれも似たような道をたどりながら離婚にいたる。
そしてシングルマザーとしての生活が始まるが、虐待そのものは互いの関係が上手く行かなくなった時点から発生していることが多い。
*上記の道を歩む切っ掛けになる年齢は、世間知らずの15歳から20歳くらいである。
奮起してシングルマザーとしての生活を開始しようにも、残念ながらその年齢ですでに子供がいて離婚した女性等、
「ハイそうですか!」と簡単に雇う仕場はまず無い。
使う方にしてみれば、職場の混乱をもたらす可能性が多分に有る人間性というものが、うんざりするほど見えてしまうからだ。
”そんな”人間を誰が雇うであろうか?
現実は非常に残酷であり、それが理屈の通らない現実の中の現実でもある。
生活苦と、何ら助けを得られない空間に追い込まれ(基はといえば自分で造り出した)、余力を無くして自分だけを守ることで精一杯となった身には、
ただただ自分を頼ってくる我が子は重荷へ変化して、「いなくなれば良いのに!」という考えになってくる。
ましてやその子の顔は別れた相手の顔そのものなのだから・・・・
よく勘違いされている事だけれど、 こうした場合においての虐待は、母親が我が子を憎くてやっているのではなく、実際は自分のふがいなさに対し、
自分に対する制裁を加えたい深層心理が、代替え媒体として我が子へ向いている事が多い。
母親にとって我が子は 自分その物だからだ。
暴力は、マスコミによって体罰と混同されてしまったが全く異なるので注意。 子の間違いを正す為の適度な有形力の行使は体罰として正義であり、
子の躾を詠ってその実は自分自信を甘やかす(憂さ晴らし、ストレス発散、むしゃくしゃの放出等々)為の物は全て暴力である。
よく虐待(暴力)の連鎖などと言われるが、 幼少の頃より受けた暴力は当然に連鎖する、なぜなら虐待する親の暴力的人間性をそのまま引き継ぐからだ。
体罰に連鎖等というものは存在せず、 これは徳川家康の植木式教育法としても歴史に残っている。
子供を植木にたとえ、初めに二葉が発芽した時は、人と同じくよく世話をし、二、三年たって枝葉(知恵が付いてきたら)が多くなったら添え木(正しい愛情を注ぎ)をし、
まっすぐになるように結び(叱り)、悪い枝は切り取り(厳しくそして時として体罰)、年々そのように手入を怠らねば、成木(大人)になった時にまっすぐなよい木となる。
人も同じで四、五歳から添え木の人を付け、悪い枝が我儘(わがまま)に育たぬようにすれば、よい人となる」
家康の教育法=江戸時代の子育ての基本
子供の泣き叫ぶ姿を見て、それに自分の姿を重ねてる(自分を叱咤しているつもりになっている)わけだが、自分は肉体的痛みを伴わないが故、
一度それをやると快楽となり、何度でもやる。
自分で自分にしっかりと制裁を加えることが出来たと誤認するからだ。
*正しく叱られ、時として正しい体罰を受けて育った人間は、 何が暴力(誤り)であるか?ということをはっきり認識しているために、虐待などしない。
しかしながら、対象が我が子で有る事にある時点でハット気付き、その後にパニックを起こすことで異常な溺愛することも多い。
しかしながらこれも、突き詰めれば自分の為(自慰行為=甘やかし)でしかない。
自分で自分に罰を与え、その後に自分で自分を甘やかす事によって、何とか心のバランスを取ろうとするわけであるが、初めはつねる程度で、
やがて叩く 蹴る、殴る になり、棒で叩く、食事を与えない等々ドンドンとエスカレートする。
自分で止める事はもう出来はしないし、そもそもそれが出来る位なら、初めから自分の親と揉める様な事はしない。
相手を選ぶ目も有れば、常識も我慢も忍耐もあったはずだから。
若いという事は素晴らしいことだけど、若さはバカさそのものでもあって、 そうした不安定さを暖かく包んでバックアップしてくれるのが親という存在なのだが、
さんざん否定しておいて、あげくに勘当された親の元にどの面下げて帰ることができようか? また親も積み重ねられた確執で懲りている為に、
そう簡単に援助をさしのべてくれない。
メディアで取り上げられる虐待死亡事件に、虐待した親の、更にその親の姿が不気味なほど全く感じられないのはそのせいだ。
幼子はどんなに虐待を受けても、自分が悪いのだと必死で我慢する、死ぬまで。 そして親を攻撃する事は有り得ない。
親になると言う事は、 それに見合った最低の人間性を備えると言う事であり、とても難しいことであるが、そうした人間にまで成長出来るまで、
自分で自分を成長させていかねばならないわけだ。
ほめて育てたりなんぞされていたら、苦しさの中から自分の活路を見いだす力が著しく欠落した人間にしかならず、
その具体例を簡単にあげるなら、就職して一度上司に叱咤されただけで病む様な弱い人間となる。
子供の頃から正しく叱られ、 自分の感情と戦いながら活路を見いだす教育をされてきた子とでは、全く心の強靱さが違う。
やたらと増える離婚率、 幼児虐待 心を病む人間達 それが全て ほめて育てる教育がもたらした害悪だと何故社会問題にならないのか?
僕には理解できないことの一つである。
「ママと一緒に寝たい」最後の言葉
http://matome.naver.jp/odai/2137109565931259101
文月メイ「ママ」