無法松の一生(度胸千両入り) 村田英雄
YouTubeから借用
小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松














無法松と呼ばれる人力俥夫の松五郎は意気と侠気のある男だった。
松五郎は堀に落ちてけがをした少年・敏雄を助ける。
敏雄の父親は陸軍大尉の吉岡小太郎であり、
松五郎は吉岡家に出入りするようになるが、
吉岡大尉は雨天の演習で風邪を引き急死した。
夫人のよし子は、敏雄が気の弱いことを心配して松五郎を頼りにする。
松五郎は夫人と敏雄に献身的に尽くしていった。
古き良き純愛物語。
小倉祇園太鼓の日、松五郎は、山車に乗って撥を取り太鼓を打つ。
流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、
町中にその音が響いた。
それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、
夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、
「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去った。
その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死んだ。
彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、
吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあった。
古き良き純愛物語。

さすが往年の二枚目、ばんつま。
右の女性は園井恵子(綺麗!)、残念ながら広島原爆にて没。

やってきた夏祭り。
祇園太鼓を松五郎が披露するクライマックス。
阪東妻三郎が演じた名シーン・・・・、
思わず涙腺がゆるんでしまう。
祝砲のごとき祇園太鼓の轟音が、
小倉の町を浄めるように鳴りわたってゆく。
・・・・上記の解説、納得納得


















この唄、知ってはいたがカラオケの
レパートリーではなかった。
難しい唄できちんと歌えたうえで少し崩すのでなくては
しかししかし、ふつふつと唄いたくなった。
声が太く、結構難しいので二音くらい下げて
練習すべし。
ホロ酔い加減で歌うのに情感も大いにあり!!
酒もひときわ旨くなるに違いなし
そして、何故か小倉へ。
駅では小倉祇園太鼓像がお出迎えです。

400年の歴史がある小倉八坂神社の祇園祭の太鼓を叩いている銅像です。

認識不足、認識遥か遠くなりでした。
小倉は城下町、立派な天守閣ありきです。

小倉細川藩初代城主は 細川忠興(1563~1645)
夫人は細川ガラシャ
関ヶ原の合戦後に小倉に入国し、唐造りと呼ばれる全国唯一の城を築城。
能や茶道にも精通した文化人で、『利休七哲』の一人。

この天守閣は「唐造りの天守」と呼ばれ、
四階と五階の間に屋根のひさしがなく
五階が四階よりも大きくなっているのが特徴的です。
また、城の石垣は切り石を使わない野面積みで、
素朴ながらも豪快な風情にあふれています。
石垣は当時のまま、城は昭和34年に再建され、です。


久しぶりの旅歩き、95才も仲間なので
のんびりスケジュール
上まで昇る力はなし、城を眺めホッ。

「北九州市立小倉城庭園」は、
小笠原氏の別邸であった下屋敷(御遊所)跡を復元した
大名の庭園、典型的な江戸時代の武家の書院、茶室等です。
小倉城を築いた細川氏の後を継ぎ234年に渡り城主を務めた小笠原家は、
徳川幕府の有力な大名で、同時に全国の小笠原一族の総領家でもあり
「小笠原流礼法」の宗家として知られる旗本の小笠原家もその一族です。


1) 人口. 北九州市の人口は 96 万 1,286 人、そのうち小倉北区の人口は 18 万 1,878 人
タクシーの運転手さん(粋な渋めの女性)によれば、物価は安く結構なこと、
しかし隣市の博多に圧倒され、人口は減少へとのこと。
編集者の好みとしては博多より小倉。
10時過ぎに東京をでて新幹線(のぞみ)にて午後3時頃に小倉着。
小倉城界隈を散策して夕食

一日目はビジネスホテルにて一泊。
良き城下町には風情のある飲み屋があるはず。
明日は別府へ。