ふるやの森

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【投稿記事】五次元の至福と注意点 (和尚ラジニーシ)

2012-04-11 12:47:07 | アセンション

こんにちは。ハイアーセルフ33です。<私たちは神 (至高の実在) ですね!> (^_^)v

和尚の書籍から、五次元で体験する至福のことと、そこでの注意点が述べられていました。お知らせしたく思います。お役に立てば幸いです。

◎奇跡の探究2 ~七身体の秘密~ P182~195 (市民出版社)より(和尚)

睡眠状態は、スピリチュアル体より低い次元に固有の特性だ。人間は第五身体へ入るまで夢遊病者なのだ。そして、第五身体の特徴は「目覚め」だ。そのため第四身体ができあがった者は、ブッダ、目覚めたる者と呼ばれる。もうそのような人は眠っていない。

ブッダとは、ゴータマ・シッダルタの名前ではなく、彼の第五の次元への到達にちなんでつけられた呼び名だ。ゴータマ・ザ・ブッダとは、目覚めたる者ゴータマ、という意味だ。彼はゴータマとも呼ばれ続けたが、それは眠っていた時の名前だったので、次第に使われなくなり、「ブッダ」だけが残った。

この違いは、第五身体へ到着したことから生まれる。そこへ入っていないうちは、何をするにしてもすべて無意識の行為なので、信頼できない。「一生涯、妻との愛を大切に育んでいきます」と誓いを立てた男が、次の瞬間にその妻を締め殺すことも充分考えられる。

おしどりの契りも長くは続かない。このような哀れな男に罪はない。眠っている時の約束など、何になるというのだろう。夢のなかで「生涯、君と一緒だ」と約束したところで、そんな約束に何の意味があろう。朝になれば、夢にすぎなかったと忘れてしまう。

眠っている者は信頼に値しない。この世は完全に眠っている人々の世界だ。それゆえ、あんなに多くの混乱が、衝突が、争いが、混沌が生じているのだ。すべては眠っている人たちが作り出している。もうひとつ、眠っている人間と目覚めた人間との間には、忘れてはならない重要な相違点がある。

眠っている人は、自分が誰なのか知らない。そこで絶えず、自分はこれだあれだと見せかけようとあがいている。生涯そういう努力をし続ける。幾度も手を変え品を変え、自己を確立しようとする。政界の階段を駆け上がり、「私はこれこれこういう者だ」と表明する場合もあれば、家を建て自分の富を誇示したり、山を踏破して自分の力を誇示する場合もある。

あらゆる手を尽くして自分を認めさようとする。けれども、こういったものはすべて、本人も知らず知らずのうちにだが、自分で自分の正体を見つけ出そうという努力にはかならない。自分が誰なのか知らないのだ。

第四の次元を通過するまで、その答えは見つからない。第五身体がスピリチュアル体と名づけられているのも、その時「私とは誰か?」という問いの答えが手に入るからだ。

この次元になると、もう二度と「私」とは言わなくなる。自己顕示欲はただちに消える。そのような人に「あなたは、これこれの人間だ」言っても、笑われるだけだろう。もう、自分から何かをひけらかすようなことはしなくなる。なぜなら、もう自分がわかっているからだ。もう自己主張など必要はない。自分の正体はもう、現前たる事実だ。

個人的な葛藤や問題は、第五の次元で終止符を打つ。だが、この次元にも、この次元特有の障害がある。あなたは自分自身を知るに至った。だが、その「自己知」というものがあまりに至福に満ち、充実しているため、そこで旅を終わりにしようとしてしまう。

今まではみな、痛みや苦しみが障害となった。だがこれからは、至福が障害となる。第五の次元は喜びに満ちているため、そこに別れを告げ、先に進もうという気持ちにならなくなるのだ。

だからこの次元へ入った者は、至福へ執着しないよう、充分気をつけなくてはならない。至福が前途をふさいでしまわないように。ここでは、喜びがこの上ないものとなり、まばゆいばかりの光彩を放っている。しかも、たとえようのないほどの深みがある。

己知を得ると、その人の内側には途方もない変容が起こる。だが、それがすべてではない。なおも、さらなる行程が残されている。

事実、悲嘆や苦悩は、喜びほど私たちの道を阻(はば)まない。至福は大きな障害となる。世間の群衆や混乱から抜け出すのも非常に難しいが、寺院の甘美なヴィーナの調べから遠のくのは千倍もむずかしい。だから多くの瞑想者は、アートマ・ギャン――自己知で立ち止まり、ブラフマ・ギャン、つまりブラフマン――宇宙の真理への体験へと進むことがない

この至福に注意しなさい。ここで、努力を至福の中で水の泡にしてしまってはならない。人々は至福に引きずり込まれ、溺れ、どっぷりとつかりきってしまう。至福の中に浸ってはならない。これもまた体験なのだと理解しておくことだ。

幸福はひとつの体験であり、惨めさもひとつの体験だったように、至福もまた、ひとつの体験だ。その外側に立って観照者でありなさい。そこに体験があるかぎり障害がある。究極の目的には至らない。

最終的な段階では、あらゆる体験もおしまいとなる。喜びや悲しみがなくなっていったように、至福もまた終わりとなる。しかし私たちの言語は、この地点を越えられない。

このため神は、サット・チット・アーナンダ――真実、意識、至福と表現されてきた。これは究極の自己を表現した形ではないが、これが言葉で表現し得る限界だ。

至福とは、人間が有する究極の表現だ。実のところ言葉では、第五の次元を越えられない。しかし第五の次元について、「そこには至福がある。そこには完全なる目覚め、自己の認知がある」と言うことはできる。これが言葉で表現し得る精一杯だ。

だから、第五の次元に立ち止まってしまった人々には、いかなる神秘も存在しない。彼らの話は実に科学的に聞こえる。というのも、神秘の領域は、この次元を越えたところにあるからだ。第五の次元までは、物事は非常に明白だ。私は確信しているが、遅かれ早かれ科学は、第五身体にまで至っている宗教を取り込むだろう。なぜなら、科学はアートマンまで到達する可能性があるからだ。

探求者がこの道を歩み始める時、その探求はほとんど至福のためであり、真実のためではない。苦悩や不安に打ちひしがれ、人は至福の探求へと旅立つ。至福を探求する者は、必ず第五の次元で立ち止まる。私が、「至福でなく真実を探し求めなさい」とあなた方に言わねばならない理由はそこにある。そうすれば、そこに長く留まることはないだろう。

そうなると疑問が生じてくる。「アナンダ(至福)に包まれている。これはこれで、この上なくいいものだ。私は自分自身を知っている。これもまた申し分ない。だが、そこには葉や花しかない。根はどこにあるのだろう?私は自分自身を知っているし、至福にも満ちている――それはそれでいい。

が、私はどこから芽生えたのだろう?私の根はどこにあるのだろうか?私はどこから来たのか?この実在の深みはどこにあるのか?私という波は、どの大海から生まれたのだろう?」

探求が「真実」へと向かえば、第五身体の先へと進んで行ける。だからまさに最初から、探求は至福ではなく、「真実」に向かわねばならない。さもなければその旅は、第五の次元まではたやすくとも、そこで立ち止まるだろう。探求が真実へのものならば、立ち止まることはない。

第五の次元での最大の障害は、比類なき喜びの体験だ。それは私たちが苦痛、苦悩、憂い、そして緊張でしかない世界からやって来るため、より一層のものとなる。この至福の寺院にたどり着くと、歓喜と共に踊り、至福の中に溺れ、消え去りたいという抵抗しがたい欲求が生まれる。

だが消え去るべき場所はここではない。そういう場所へは至るだろう、そしてそこに着けば、あなたが自分を失う必要はない。あなたはただ、かき消される。「自分を失う」ことと、「かき消される」ことは雲泥の差だ。言い方を変えれば、どうあがこうとも、自分を守れない地点へと到達する。

あなたは自分が「消え去っていく」のを見つめているだけだ。救出する術もない。それでも、ここ第五身体においても、自分を失うことは可能だ。ここではまだ、奮闘や努力が作用している――第五の次元でのエゴは、基本的に死ぬにも関わらず、「私は在る」という感覚が依然として存続している。だから、エゴと「私は在る」という感覚の違いを理解する必要が生じてくる。
 
エゴ、すなわち「私」という感覚は死ぬ。しかし、「在る」という感覚は死んでいない。「私は在る」には、ふたつのことが含まれている。「私」はエゴであり、「在る」はアスミータ――実存の感覚だ。だから第五の次元で「私」は死ぬが、実存つまり「在る」は残り、「私は在る」という感覚が残る。

この次元に立つと、瞑想者はこう宣言する。「永遠なる魂は存在している。だが、個々に違うものであり、各々が他の魂とは異なるものだ」。この次元で瞑想者は、永遠なる魂の存在を体験する。だが依然として「在る」という感覚、存在しているという感覚を持っているため、他者から分離していると感じる。もし真実の探求へと心が奪われていれば、至福という障害をも越えられる。絶え間なき至福には飽きがくる。一本調子のメロディーは退屈するものだ。

かつてバートランド・ラッセルが、冗談混じりに言っていた。「私は救いには魅かれない。そこには至福しかないそうだからね。至福だけでは、とても単調だろうね――至福に次ぐ至福、他には何もない。ちょっとした不幸の形跡すら――どんな憂いも緊張もないのなら――そんな至福に、いったいどれだけ耐えられるだろう?」

第五の次元の危険性は、至福の中にうずもれることだ。それを克服するのは困難を極める。時には何生もかかってしまう。最初の四つの段階を超えていくのは、さほど難しくはない。しかし第五の段階は非常に困難だ。至福に退屈し、自己にうんざりし、アートマンに飽き飽きするまで、何度も生まれ直さねばならないだろう。

第五身体までの探求は、苦痛、憎しみ、暴力、そして欲望を取り除くことにある 第五身体からあとは、「自己」を取り除くための探求だ。だからふたつの区分がある――まず「何か」からの自由、これがひとつ。これは第五の次元で達成される。次は「自己」からの自由だ。ここからは、まったく新しい世界が始まる。

第六身体はブラフマ・シャリール、すなわち宇宙(コズミック)体であり、第六のチャクラはアジナ・チャクラだ。ここにはどんな二元性もない。第五の次元では至福の体験が強烈になり、第六の次元では、存在や実存を体験する。アスミータ――「私は在る」――は、そこでやっと失われる。

その中の「私」(アイ)は第五の次元で失われ、「在る」(アム)は、第五の次元を超えるやいなや消え去る。「在るということ」(イズネス)が感じられる。タタータ、すなわち如性が感じられる。「私」や「在る」といった感覚はどこにもない。 残っているのはそのものだけだ。真実や実存、そして意識を認知する。しかしここでの意識は、「私」から自由だ。もはや「私」の意識ではない。ただ意識だけがあり――もはや「私の」存在ではなく、ただ存在だけがある。

ブラフマ・シャリール、すなわちコズミック体に到達すると、立ち止まってしまう瞑想者もいる。何しろ「私」が存在せず、ブラフマンだけがある時の、「アハム・ブラフマスミ」のうちの「私はブラフマンだ」という状態に達したのだから。さあ、さらに何を求めるというのか?・・・・・・

(第六の身体以降の話に興味がある方は、本書「奇跡の探究2~七身体の秘密~」をお読みください)


ハイアーセルフ33  (*^-^*)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hs33_001/arcv



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6 コメント

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意識の上昇 (flatheat)
2012-04-11 15:22:49
こんにちは。ご投稿ありがとうございます。

・・・・・
バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh、 和尚/オショウ;Osho)、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、神秘思想家。

ラジニーシは、古来から伝わる瞑想的な技法について紹介および解説するとともに、現代人に向けて新しい瞑想の技法を編み出し、西洋的なセラピーのテクニックも導入した。ラジニーシの周辺には、彼を慕う人たちのコミューン的な状況が生まれ、その状況のなかで、各種の瞑想的な技法、心身統合的セラピー、音楽をはじめとする多彩な芸術活動が営まれた。ラジニーシの講話の多様性を反映して、ラジニーシの周辺で起きた精神的な追求の背景も多様であり、東洋に伝わる古来の技法に基づくもの、禅、タオイズム、タントラ、スーフィーなどの流れをくむもの、西洋的なセラピーやヒーリングのアプローチに瞑想的な性格を加えたものなどが含まれる。
・・・・・
バグワン・シュリ・ラジニーシ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%B7

上の略歴を見ると、和尚ラジニーシはニューエイジ・ムーブメントの中に伝統的な宗教を統合して、意識の上昇を進めようとしたスピリチュアル・リーダーの一人であったと捉えられます。

彼が ここで述べている ”「自己」からの自由”とは、低次元の自己をハイアーセルフ(高次元の自己)に統合するプロセスのことを言おうとしているのでしょうか?
返信する
行ってから考える (おかんやかん)
2012-04-11 16:04:34
至福に浸るなって聴こえるけど・・・
5次元に行って至福を満喫してから次を考えることにするよ。
体験してもないのに、浸ってはならぬ!なんて先に言われてもね・・・そりゃ無理ってもんだ。
気持ちイイことなら、なおさらだよね。

人って欲深いからさ、言われなくても次の高みを目指すよにできてるんじゃないかな。
遅かれ早かれ・・・その人のペースでイイんじゃない。
返信する
ふるやさんへ (ハイアーセルフ33)
2012-04-11 21:20:23
ふるやさん、みなさん、こんにちは。

>彼が ここで述べている ”「自己」からの自由”とは、低次元の自己を
>ハイアーセルフ(高次元の自己)に統合するプロセスのことを言おう
>としているのでしょうか?

まず「自己」の理解を明確にしておきしょう。そうでないと「高次の自己」とか、「低次の自己」といっても意味がありませんから。

まず基本的に、すべての存在は、実在である「一なる至高の知性」の表現・展開であるということです。各個生命も同様です。Aさん、Bさん、Cさんといった個別の「自己」は、「一なる意識のあり方」です。「高次の自己」とか、「低次の自己」とか、「何次元の自己」といった言い方をしますが、実際は「自己」が数多く存在しているわけではなく、一なる意識の表現形式上の差異(多面的な表現)といったものが、あたかも数多くの自己があるかのように解釈されているだけです。このことはふるやさんも同意されると思います。

それと「自己」の理解のための、もうひとつのポイントは、「2013:人類が神を見る日」の半田広宣氏がチャネルしたと言われるオコツトという意識体によるこの原理、「意識の進化とは、自我の消失」ということです。

この意味は、個生命となった「一なる意識」が、自己と全体とを分離する低い振動数の「信念体系(自己イメージ含む)」および「自己表現」を消失していくプロセスであると解釈できます。つまり、今の自己とは別に「高い自己」がいて、現在の「より低い自己」がそれに合体する(統合される)ということではないということです。

和尚の「自己からの自由」もそのような意味で使われています。より全体との分離感をなくしていくということです。和尚は、「五次元の自己」のアイデンティティーを、「在る」という感覚から必然的に生じる「私は在る」だといっています。ここではまだ個別性を残しています。つまり分離感です。

これでは、「われすべてなり、宇宙なり」ではありません。そうなるのが第6次元の「私はブラフマンだ」です。全体との分離感は、ここではより消失しています。その説明は本文の最後の方の和尚のこの説明です。

●その中の「私」(アイ)は第五の次元で失われ、「在る」(アム)は、第五の次元を超えるやいなや消え去る。「在るということ」(イズネス)が感じられる。タタータ、すなわち如性が感じられる。「私」や「在る」といった感覚はどこにもない。残っているのはそのものだけだ。真実や実存、そして意識を認知する。しかしここでの意識は、「私」から自由だ。もはや「私」の意識ではない。ただ意識だけがあり――もはや「私の」存在ではなく、ただ存在だけがある。
********************

つまりオコツトのいう「意識の進化とは自我の消失」の「自我」の本質とは、自己が体験する「自己の分離感覚」のことだと考えられます。そしてそれが消失してゆくプロセスが、意識進化だということになります。

<私たちは神 (至高の実在) ですね!> (^_^)v
返信する
ハイアーセルフ33さま (Unknown)
2012-04-11 21:28:36
いつもありがとうございます。
とても参考になります。

至福の世界に飽き飽きしてこの世界にまた来ている人
至福の世界からより進化する計画ゆえにまた学びに来ている人・・いろいろでしょうが
結局愛を学びに来ているのでしょうか
一に向かって永遠の進化の途上にいると思えば
そして真理を知っていれば
お互いの魂を愛おしく思うはずなのに・・・
返信する
Unknownさんへ (ハイアーセルフ33)
2012-04-11 22:13:27
>いつもありがとうございます。とても参考になります。

お役に立てて幸いです。上記のコメントはわかりにくかったかな?もっと頭がすっきりしている明日の朝に投稿すれば、よかったかな・・・(笑)
返信する
おぼれたい~~ (砂流砂)
2012-04-12 17:29:25
5次元に到達するって、山奥の目指した温泉にやっと到着~~~って感じでしょうかね~~
どっぷり至福に浸かって飽きたらまた6へ向かいますw
まずは至福ってやつにとことんおぼれてみたい~~~
ふにゃふにゃになるまで~~~w
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