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闇の世界史12 : 英国破壊計画の進行

2013-04-22 05:26:51 | 闇の世界史

闇の世界史―教科書が絶対に教えないより抜粋

分析を突き詰めると、戦争、革命に関わったどの国家も国民も、恒久的利益を得ていないことが明白となる。政治的、経済的、宗教的問題に関する限り、恒久的あるいは満足のいく解決が実現されたためしはない。

利益を得るのは、戦争、革命に資金を融資した金貸し業者とその友人、代理者といった小集団に限られている

英国の上位に就いたオランダ将軍は、英国大蔵省を説得して125万ポンドの金を、自らを英国に送り込んだユダヤ人商人から借金させた。歴史の教科書が伝えるところによれば、この話し合いは英国政府を代表するジョン・ハブロン興およびウィリアム・パタソン氏と、正体を秘密に保たれたままの金貸し業者のあいだで行われたとされている。

歴史文書の研究によって、秘密を保つために、貸付け条件についての交渉が教会内で行われたことは明らかである。キリストの時代、金貸し業者は神殿を利用した。ウィリアム公の時代、彼らは教会の神聖さを汚した。国際金貸し業者は自らが条件を設定できるなら、英国大蔵省に125万ポンドまで融通してもよいとした。この提案は承認された。以下に彼らが設定した条件の一部を記しておく。

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1 貸付けを行った人物群の名は伏せられること。そして彼らに英国銀行設立の特許状が与えられること。

2 英国銀行理事に金本位制を確立する法的権限が与えられること、それによってーー

3 金庫室に保管されている金1ポンド等価で10ポンド相当まで貸付け可能とすること。

4 国家負債の清算および国民からの直越税によって、元金と利息としてしかるべき金額の支払いの確保が認められること。

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こうして、国王オラニエ公ウィリアムは125万ポンドのために英国民を経済的隷属状態に陥らせ、ユダヤ人金貸し業者はその野望を果たした。国家通貨の発行、管理の権限を奪取したのである。この権限さえ手に入れてしまえば、彼らは誰が法をつくろうと一切関知しなかった。

金本位制が採用されたとはどういうことかーー簡単な取引を例にとって考えても容易に理解できる。英国銀行の理事は抵当物として保管されている金100ポンド等価で1000ポンド相当の貸付けを行うことができたということだ。利息はまるまる1000ポンドにかけられたから、利息5パーセントで年間50ポンドが取りたてられ、それによって最初の1年が終わった時点で、彼らは貸付けを保証するために貸し出した金額の50パーセントを回収していた。また、融資を望む相手が個人の場合、銀行家は不動産、株券、債権など、必要とされている貸付け等価以上の抵当物を求め、この個人が元金、利息を支払えなかった際には、抵当物受け戻し権喪失の手続きをとって貸付け等価の何倍もの資産を手に入れた。

国際銀行家には、英国に国家負債を完済させるつもりなど毛頭なかった。彼らは、関係国家すべてをどんどん借金状態に追い込むような国際状況を現出しようと計画していた。

英国に関するかぎり、国家負債は増加の一途をたどり、1694年から98年にかけての5年間で100万ポンドから1600万ポンドまで膨れあがった。すべては戦争のためだった。この時期の軍事指導者がジョン・チャーチル(1650-1722)だったことを思うと興味深い。その軍事的才能および英国への貢献から、彼には初代マールベラ公の肩書きが与えられた。

世界革命運動(WRM)の背後に潜む「秘密権力」は、糸を操ってスペイン王位継承戦争を引き起こした。1701年、マールバラ公はオランダ国軍の最高司令官に任じられた。唯一、『ユダヤ百科事典』(前出)だけが、「数々の功績ゆえにマールバラ公爵には年間少なくとも6000ポンドもの金がオランダに住むユダヤ人銀行家から与えられていた」という事実を記録している。

1698年から1815年のあいだに英国の国家負債が8億8500万ポンドにまで膨れあがった事情は、フランス革命に至る出来事によって説明される。1945年には英国の国家負債は225億3503万2372ポンドという天文学的数字となり、1945-46年のあいだの金融経費だけで4億4544万6241ポンドに及んだ。

「この異常なポンドにあくまで執着するのはユダヤ人支配下にある組織くらいのものだろう」ーーあるアイルランド人経済学者はそう言った。

参照

ボイン川の戦い(Battle of the Boyne)は1690年7月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いるアイルランド軍の間に行われた戦い。アイルランドのボイン川河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。

ウィリアム3世William III (of Orange), 1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、オランダ総督(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は妻。オランダ名ではウィレム3世Willem III van Oranje-Nassau)。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。

 

 



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