神社の世紀

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三重県伊賀市 山神遺跡の磐座

2010年07月24日 01時02分04秒 | 磐座紀行

 上野市教育委員会が発行している『三重県上野市遺跡地図』に、伊賀市鍛治屋にある山神遺跡(遺跡番号244)という遺跡が載っている(ちなみに、上野市は現在、合併により伊賀市となっている。)。「遺跡の概況」のところには、「巨石の山の神の前面から皿形土器、土師器皿片(p 98)」とあり、巨石の山の神というのは磐座で、出土した皿形土器等は祭祀遺物であったことを思わせる(手びねした素焼きの皿形土器は、祭祀遺物として標準的なもの)。遺跡の時代区分は古墳時代なのでなかなか古い遺跡らしい、── 興味深い。ということで、伊賀地方を旅した機会にこの巨石を訪れることにした。じつは訪れたいと思った理由はそれだけではないのだが、そのことについては後述する。

 山神遺跡があるのは『上野市遺跡地図』で見ると、伊賀市古山界外の集落の東側にある小山である(ことになっている)。現地に到着した私は、西側からこの山に入って探索を開始した。


『上野市遺跡地図』に表示された山神遺跡(遺跡番号244)。
伊賀市古山界外の集落の東にある小山にマーキングされている。
これはこれで、いかにも古い祭祀遺跡がありそうな場所なのだが…。

 

 最初は目当ての巨石はすぐに見つかるものと思っていた。遺跡地図にマーキングされたエリアはさほど広くないからである。ところが小一時間ほど探したがそれらしいものは見あたらない。ここは民家の裏山なのであまりウロチョロしていると不審者だと思われかねない。そこで山を下りて下の民家にいたおじいさんに、この辺に巨石の山の神が祀られている場所がないか尋ねてみた。すると「ああ、それはねぇ ── 、」という感じで、ただちにその近くまで案内していただけたのである。ところが連れて行ってもらったその場所というのが、遺跡地図にマーキングされていたそれとだいぶ違うのである。東に約300mはずれているのだ。

 最初は半信半疑だったので、今まで探索していた山の中にも巨石の山の神がないか念のために尋ねたが、「そういうものは無い。」という返事だった。自分の家の裏山の話なのだから、あれば知らないはずもない。だいたい、後で気付いたのだが、『上野市遺跡地図』の一覧表にある山神遺跡の住所は「大字鍛冶屋字猪ノ坂」となっているのに、地図にマークされたエリアは大字の「古山界外」地内で、鍛冶屋から外れているのである。どうやら遺跡地図はマーキングを間違えているようだ。これはちょっとマズいのではないか。


 それはともかく、そのおじいさんに案内してもらった場所にも巨石らしきものはなかった。そこは丘陵のはずれに当たる荒れ放題のヒノキ林で、急傾斜な上、竹がそこら中に倒れていて歩くだけでも苦労した。結局、30分もしないでそこの探索は断念したのだが、2月だというのに汗だくになった(おじいさんの名誉のために言っておくと、おじいさんは目的地が見え始めたところで、指さして場所を教えてから家に戻られたのである。一緒に近くまで付いてきてくれたら自分でも場所が違っていることに気付いただろう。)。それから途方に暮れて地図を見ているうちに、さらに200mほど北にある丘の存在が気になりだし、行ってみるとやっと探していたものと思われる巨石の磐座に出会えた。

 そこは青蓮寺用水のファームポンドの東側で、標高223.9mの三角点がある所である(下のマピオン参照)。

   Mapion

 磐座は岩群によって成り立っており、中心的な存在である北側の巨岩と、それをとりまく支群により構成され、いわゆる磐境を形成している。前者はタテヨコ2.5m程度あって規模が最大であるとともに、地面から屹立していて非常に顕著である。岩群の中で唯一、注連縄がされ、北側には簡単な拝所も設けてある。中心的な存在なのだろう


山神遺跡の磐座。南側から見た全景。


同じく東側から見た全景


最も規模の大きな巨岩。南側から。


巨石です。


北側には簡単な拝所もある。


拝所のアップ。ローソク立てがあるのが変わっている。

 

 岩群は花崗岩のようだったが、ここにたどりつくまでの間、ふきんでは同じような岩はおろか、岩というものじたい全く見かけなかった。人為的に搬入されたものらしい。ちなみに例の巨岩は今も言ったとおり地面から屹立しているが、裏側(南のほうが正面だと思うのでその裏側)にまわると基部に別の岩をかませて地面から起こしてある。明らさまに人為的だ。  

 


基部に別の岩をかませて地面から起こしてある。


明らさまに人為的

 

 遺跡地図でみると、500mほど離れた場所に古墳後期の小円墳群があるらしいので、いちおう破壊された古墳の石室である可能性も疑ってみたが(封土を失って露出した古墳の石室が、磐座として信仰されるケースがある。)、現状ではどうみてもそのような形態をとどめておらず、石室だとしたらよほど徹底して壊さないとこうはならないだろう。やはり古代人による巨石信仰の遺跡なのではないか。だいたい、もしも古墳の石室だったら遺跡地図を作製したプロの調査員が気付くだろう。

 それにしても、労苦に見合う見事な磐座である。ふきんは地形も植生も凡庸なのだが、岩石の存在だけで神さびた気韻があたりにただよい出している。しかも周囲からは古墳時代の土師器片等が採集されているのだから考古学的な価値も高いはずだ。とてもただの山の神を祀ったものとは思えない。式内社クラスの古社にあってもおかしくないしろものだ、 ── ということで、私がこの遺跡を訪れようと考えた理由に戻る。

 山神遺跡の磐座から南に1kmほど離れた蔵縄手には田守神社という式内社があるのだが(伊賀国伊賀郡に登載の小社)、『三国地志』などによれば当社はもとから今の場所にあった訳ではなく、かつては鍛冶屋村にあったという。いっぽう、この磐座の住所はさっきも言ったが「鍛冶屋字猪ノ坂」である。とすると、おなじ鍛冶屋のエリア内にあるこの磐座はとうがい式内社のものではなかったか…


田守神社
現在の祭神は彦屋主田心命・別雷神・木花咲耶媛命。
が、もともとは雷神を祀る神社だったのだろう。

 

 ところが話はそんなに単純ではないのである。

 今も言ったとおり、かつての当社が鍛冶屋村にあったことは『三国地志』などに記事のあることだが、これについてはもっと正確に言う必要がある。すなわち、かつて「鍛冶屋村の吉田井上」に吉田神社という神社があり、その境内に「二宮雷大明神(以下、「雷神社」という。)」という神社が一緒に祀られていたのだが、『三国地志』が式内・田守神社としているのはこの神社なのである。

 山神遺跡の磐座の話からはやや外れるが、吉田神社と雷神社のその後の沿革についてもいちおう触れておく。
 社伝によれば、「鍛冶屋村の吉田井上」にあった吉田神社は長元年間(1028~1036)、何らかの理由により現在、田守神社がある蔵縄手の地に遷座してきた。この時、雷神社は吉田神社と一緒に移ってきたが、当初は合祀されてしまい、相殿神として吉田神社の社殿の中で祀られていた。ところがある時、村内に悪疫が流行したことがあり、雷神社を相殿神扱いしていることへの祟りとされ、これがきっかけとなってまた境内社として別の社殿をかまえるようになった。それが明治期の神社合祀令のとき、ふたたび吉田神社の社殿に戻され、さらに今度は主神に昇格して神社名も田守神社となったのが現在の田守神社なのである(つまり現在の田守神社の社殿は、雷神社に乗っ取られたかつての吉田神社のものなのだ。)。

 では、遷座前に吉田神社と雷神社(=式内・田守神社)が一緒に祀られていた「鍛冶屋村の吉田井上」とはどこだったのか。

 『上野市遺跡地図』に「雷神社跡」というのが載っており、住所は「鍛冶屋字奥吉田」となっている。おそらくこの場所が「鍛冶屋村の吉田井上」だろう(詳しい場所は下のマピオン参照。ちなみにそこは田守神社の裏手に当たり、現在は墓地として利用されているらしいので訪れるのは控えた。)。ちなみにさっきのおじいさんも、山神遺跡の磐座まで案内してくれる途中、「昔の田守神社はあの辺にあった。」と指さして教えてくれたことがあり、その場所はこの「雷神社跡」辺りだった。

   Mapion

 この場所は磐座のある場所から南に800mほど離れている。したがい、式内・田守神社が創始の頃からずっとこの雷神社跡で祀られていたとすれば、山神遺跡の磐座がこの式内社のものだとするのは難しい。しかし、式内社であるにもかかわらずかつての雷神社が吉田神社の境内社だったのは不自然であり、もともとは別の場所にあったのではないか、という疑いが残る。規模の立派さから言っても、山神遺跡の磐座は古代においてこの地域における信仰の一大中心だったろう。そして、かつて同じ大字内にあった式内社がこれと全く関係がなかったとは考えられない。

 雷神社跡は鍛冶屋の集落を見下ろすような場所にあり、鎮守の社として好立地である。いっぽう、山神遺跡の磐座がある場所は、大字鍛冶屋の北のはずれで集落から離れている。こうしたことから、山神遺跡の磐座を神体として祀っていた式内・田守神社(=雷神社)が、上代のいつの頃にか参拝に便利で立地に妙のある吉田神社のところへ遷されたのではないかと考える

  •  ちなみに、『三国地志』の筆者は『惣國風土記』にある記事と現地の伝承をもとに「東谷村の桜駒」という場所を雷神社の古跡として考証している(東谷は雷神社跡のすぐ南東にある集落)。私はこの考証を粗雑だと感じるが(だいたい、『惣國風土記』は偽書である。)、雷神社が吉田神社の境内社であったことに不自然さを感じなければ、『三国地志』の筆者もこうした考証は試みなかったに違いない。


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