神社の世紀

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伊吹山の神は誰ですか(5)

2014年06月30日 21時19分08秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(4)」のつづき


現地の看板

 ところで、米原市が立てた看板には、白清水は「古くから、白清水または玉の井と呼ばれています。」とある。白清水が「玉の井」とも呼ばれていたというのは、おそらく『近江輿地志略』の記事に基づいて言っているのだろう。しかし、この有名な地誌が白清水のことを「玉井」という見出しで取り上げているのは確かだが、そこには「土俗専ら白清水といふ。」とあり、土地の人はもっぱら白清水と呼んでいたことが述べられている。 つまり、もともとそんな別名はなかったのだ


『近江輿地志略』の玉井の見出し
「野瀬野ケ原にあり。土俗専ら白清水といふ。然れども…」

 ではどうして『近江輿地志略』は白清水のことを「玉井」の見出しで記載したかというと、そこには「土地の人はもっぱら白清水と呼んでいるが、『類字名寄』には〝玉井〟とあり、これを裏書きする歌も多いので〝玉井〟の名を出す。」というようなことが書いてある。『類字名寄』は『大名寄』の異名もある『類字名所和歌集』のことだと思うので、白清水の別名が「玉井」であるというのはどうやら古歌による考証に基づいているらしい。ところが不思議なことに、白清水を詠んだ古歌などいくら捜しても見当たらないのである。近江で古歌に歌われた「玉井」といえば、『近江国注進風土記』にあげられた栗太郡の「玉井」ぐらいなので、おそらくそれとの混同らしい。 

 『近江国注進風土記』は、『山槐記』の元暦元年(1184)九月十五日条に所収されている文献で、近江国の国司が同国の名勝を朝廷に注進したものである。取り上げられている場所は、野洲郡の「三上山」、浅井郡の「朝日里」、甲賀郡の「蔵部山」などのように、古歌に歌われている場所が多い。栗太郡の「玉井」の場合も、天仁元年(1108)11月21日の鳥羽院大嘗会悠紀方和歌に「むすぶ手も涼しかりけり月かげに底さへ見ゆる玉の井の水」がある(江帥集)。 

 それはともかく白清水がある坂田郡は湖北地方で、玉井がある栗太郡は湖南地方である。普通では考えられないこんな混同が、どうして定評ある『近江輿地志略』でおきたのか?、── この疑いは一考の価値がある。 

 まず考えられるのは、次のようなことではないか。
 白清水には小栗判官照手姫のそれだけではなく、伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊が、その水によって正気にもどったという「居醒めの清水」伝説も伝えられていた(このことはすでに述べた。)。ところで『古事記』には、居醒めの清水がもともと「玉倉部の清水」と呼ばれていたが、ヤマトタケル尊がこの泉の水で正気にもどったため、「居醒めの清水」と呼ばれるようになったというようなことが書いてある。したがって、白清水が本当に「居醒めの清水」であったか、あるいはそうでなくてともそれに附会されたかした場合は、過去に「玉倉部の清水」と呼ばれた時期があったかもしれない。ここから、「玉」という語を介した連想により、玉井と白清水が混同された可能性が考えられよう。 

 しかしそれだけでは(もし今の憶測が当たっていたとしても)動機としてまだ弱い感じがする。
 そこで栗太郡の玉井にも、白清水のような「生命の水」の信仰があったのではないか、と考えてみた。もしそうだとすれば、玉井にも小栗判官照手姫と似たような再生譚が残っていておかしくないため、両者の混同が生じやすくなるからである。そこでこの泉にそのような「生命の水」の信仰の名残と見なせる伝承なり神社なりがないか検討してみる。 

 まず玉井のあった場所だが、角川のほうの地名辞書は不明としているものの、平凡社の『日本歴史地名大系』のほうは、草津市を流れる十禅寺川近くの小池のことと言われている、と述べている。 

 十禅寺川は立命館大学のびわこ・くさつキャンパスの裏にある牟礼山付近に発し、西流して草津市野路町などを流れながら矢橋で琵琶湖に注ぐ小河川である。その延長はせいぜい5~6km程度だが、やはり『日本歴史地名大系』によれば、「千載集」に載る源俊頼の「あすもこむ野ぢの玉川はぎこえて色なる浪に月やどりけり」をはじめ、平安時代以来、多くの歌に詠まれた「野路の玉川」は十禅寺川のことで、萩の名所として「萩の玉川」とも称されたという。その優美な風情から「日本六玉川」の一つに数えられたこともあったが、現在では流域に新幹線、JR東海道本線、名神高速、国道1号線のような幹線交通が集中し、往事の面影は完全に消え失せている。


東海道ふきんを流れる十禅寺川
かつて「日本六玉川」の一っに挙げられていた


「日本六玉川」の紹介がある看板

 さて、かつて十禅寺川と旧・東海道の交点ふきんには、この川の伏流水が湧き出してできた小池があり、『近江輿地志略』などではこの小池のことが「玉水」と呼ばれていた(現在でもふきんに「玉水」の字が残るという。)。この池は往還の名所として東海道を行く旅人たちによく知られていたものの、今では消滅したようだ。しかし、現地を訪れると箱庭のようなこの池が復元してある。


復元された「玉井」?
旧東海道と十禅寺川の交点近くにある
Mapion

 なお、そこで見かけた看板や角川のほうの地名辞書では、「野路の玉川」とは十禅寺川ではなくこの池のほうであるとしており、『日本歴史地名大系』の記述と異なっている。


現地の看板
「野路の玉川」はこの池のことであるとしている


現地の石標
古そうな石標にも「玉川」とあるが  …

 しかし、「玉川」と言うからには池ではなく川だろう。また今、言ったように享保八年(1723)の『近江輿地志略』ではこの池のことが「玉水」として紹介され、「玉川」にはなっていない。そこでここでは、『日本歴史地名大系』にしたがい「玉川」とは十禅寺川のことであるとして話を進める。

 そのいっぽう、さっき『日本歴史地名大系』で「玉井と言われている」として紹介した「十禅寺川近くの小池」というのはおそらくこの池を指していると思う。その場合、近世まで「玉水」と呼ばれていたことや、かつては景勝地として有名だったことなどを勘案し、この池を『近江国注進風土記』の言う栗太郡の「玉井」とする比定は穏当だとおもう。ということで今後はこの池を「玉井」として話をすすめる

 

伊吹山の神は誰ですか(6)」につづく

 

 

 



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