神社の世紀

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(12)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(1/2) 愛知県豊橋市の車神社】

2010年11月01日 00時00分29秒 | 伊勢津彦

 伊勢と磯部の関係について、話を続けておく。

 奈良盆地を中心とした北緯34度32分上に、古代人による日輪祭祀の遺跡が並んでいるという説があり、ここからこの東西線が太陽の道と呼ばれていることはわりと知られているとおもう。

 淡路国津名郡の式内社、伊勢久留麻(いせくるま)神社もこの太陽の道上にあり、社名についた「伊勢」が太陽の祭祀を連想させる。鎮座地ふきんには「引野(ひきの)」という地名もあり、太陽の滞空時間を延ばす祭祀が行われた場、「日招ぎ野」の転訛ではないかともいわれる。

 
兵庫県淡路市の伊勢久留麻神社


三重県鈴鹿市白子町の久留真神社

 ただし、社伝によると伊勢久留麻神社は、三重県鈴鹿市白子にある伊勢国奄芸郡の式内社、久留真(くるま)神社を勧請したもので、社名の「伊勢」も伊勢の元社から勧請されたことを示すものである。となると、伊勢の久留真神社も太陽の道上になければならないとおもうのだが、残念ながら当社は北緯34度49分上に位置しており、太陽の道から17分も北にずれている。


 閑話休題。

 太陽の道のことはともかく、伊勢湾の西岸に鎮座する久留真神社の信仰が、淡路にまで運ばれたことの背後には、古代海人たちの活動があったとおもわれる。だが、その海人とはどういう人々であったか。

 久留真神社から伊勢湾と三河湾をはさんで対岸に当たる、愛知県豊橋市植田町に車神社という神社が鎮座している。   

車神社

 車神社は、愛知県豊橋市豊橋市植田町字八尻36-2に鎮座。旧村社。
 主祭神の武甕槌命のほか、宇迦御魂命、罔象女命、大雀命、玉柱屋姫命、伊佐波止美命を配祀する。配祀神は明治初年に合祀された稲荷神社等のものだろう。
 特殊神事として「オシイバチ」がある。宮座の膳部による年占行事の一種らしい。



 祭神は武甕槌命で、『愛知縣神社名鑑』によれば「神亀二年(715)の創建で社記によれば満潮の夕方に尊い人(正仁明神)がうつぽ船に乗ってこの地に上陸し、西南方三町のところに暫く留まれた。今この所を御休処また皇子ケ原という。後ち貴い人の霊を祀って車大明神と名付けた。車を埋めた処を車塚という。<後略>(p653)」とある。

 「車を埋めた処を車塚という。」というのが取って付けたようだが、これはほんらい、「貴人が乗っていた車を埋めた場所を車塚といい、のち、その車塚に貴人を祀るようになったので車大明神と名付けた。」というような文脈で社伝の中に収まっていたのではないか。当社の社殿は現在、前方後円墳の墳丘上に載っているが、あるいはこの古墳が車塚と呼ばれていたのかもしれない。 

 
車神社の社殿 


社殿は前方後円墳の後円部に載っている。


 とはいえ、仮にそうだとしても、この伝承は風変わりな社名を説明するための附会だろう。当社のある植田町のすぐ西にある大崎は、かつて桑名に御座船を出し、伊勢への参宮人を乗せる船の港もあった。また植田町しゅうへんにある柱、高師、野依にはそれぞれ、『神鳳鈔』(14世紀後半に成立したとされる伊勢神宮の神領目録)に載っている御厨ミクリヤがあった。つまり、当社の鎮座地ふきんは古来、伊勢とのつながりが極めてつよいのである。そしてこうしたことから、現在は忘却されているが、車神社はもともと、鈴鹿市の久留真神社がこの地に勧請されたものと考える。

 当神社の社殿が前方後円墳上に載っていることはすでに記した。この古墳は車神社古墳と呼ばれ、6世紀前半~半ばにかけて築造されたものである。
 古墳があるのは梅田川左岸にある台地の縁で、河口部に近い。こうした立地は、この古墳の被葬者がたんに梅田川河口部を勢力圏とした地域支配者というだけではなく、ふきんの舟運をも統括していたことを感じさす。その場合、その舟運は三河湾と伊勢湾を介し、伊勢との連絡もあったろう。そして、その担い手は海人たちで、彼らの中に磯部がいたのではないか。

 

 
車神社古墳の後円部(西から)


前方部から後円部に向かって撮影 

 車神社古墳は前方部を北に向けた全長36mほどの前方後円墳で、本格的な調査はまだ行われていないが、内部主体は横穴式石室とみられる。明治時代に社殿を造営した際は、鉄刀、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、須恵器等のほか、装飾馬具の鈴杏葉が3点、採集された。こうした遺物などから築造年代は6世紀前半~6世紀半ば頃と考えられている


 当社の鎮座する植田町からは梅田川をはさんですぐ北の牟呂、駒形、大山、草間あたりにかつて磯部村という村があった。磯部村は明治十一年に牟呂村と草間村が合併して成立したものだが、『磯部村誌』をみると、この村は往古、磯部村と称していたが文武天皇の頃に牟呂村と改称したとあるため、古くからこの辺りに「磯部」という地名があったのは間違いないようだ。これは古代のこの地域で、磯部たちが活動していたことを示すものだろう。
 なお、現在、この地名は車神社から梅田川を隔ててちょうど反対側の、「磯部下地町」に遺称されている。

 ちなみに、『和名抄』には渥美郡に「磯部郷」の名がみえており、現在の豊橋市伊古部町辺りとされるようだ。伊古部町は太平洋岸だが、植田町からは南に4㎞ほどの距離である。ここにも磯部たちがいたのだろう。

 こうしてみると伊勢から久留真神社の信仰をこの地域に持ち込んだのは、かの地から移住してきた磯部たちではなかったか。車神社古墳の被葬者も、彼らを統括していた磯部氏の者であった可能性がある。そしてこれを敷延すれば、伊勢から淡路に久留真神社の信仰を持ち込んだのも、磯部たちであったようにおもわれる。



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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (七美)
2013-05-21 00:19:08
こんばんは
車とは群馬の事ですね。車(群馬)の神社と
豊城入彦命(孫の御諸別王)の足跡と豊地名は
リンクしているように思えます。
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Unknown (kokoro)
2013-05-23 00:00:46
 七美さん、こんばんは。

>車とは群馬の事ですね。

 群馬?、軍馬のことでしょうか。
返信する
Unknown (七美)
2013-05-24 07:04:54
群馬にあります、車持神社(くるまもち)
車持氏は、豊城入彦命の後裔です。
群馬の地名も車(くるま~久留末郷)に由来してるという
説があります。

豊橋、豊川の地域の車神社。
豊と言いますと、外宮の豊受大神と度会氏(磯部氏)
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豊城入彦命 (kokoro)
2013-05-25 08:09:38
 七美さん、お早うございます。

>群馬の地名も車(くるま~久留末郷)に由来してるという
説があります。

 なるほど、車持氏を介すると群馬とつながるという訳ですね。

 ところで、東三河にはもう一社、車神社があって、このほうは新城市富岡に鎮座しています。訪れてみると裏山の山頂に奥宮があり、古くはこの山を神体として祀っていた形跡があります。豊橋の同名社や伊勢や淡路の式内「くるま」神社が鎮座しているのはいずれも海に近い場所であるのに対し、当社があるのは内陸部だという相違は看過できないですが、それにしても全国的にも珍しい名前の神社が東三河に偶然、2社あるとはおもえません。おそらく豊橋と新城の車神社間にはつながりがあったとおもいます。が、そのつながりが全く見えてこないのですよね。

 「くるま神社」が豊城入彦命つながりだとすると、その後裔氏族には止美連とか登美首というのもありますから、新城市の車神社の鎮座地の「富岡」の「とみ」は、これらの氏族なに由来していたかな、などと一瞬、妄想しました。(*^_^*)

 ちなみに三河国宝飯郡には『和名抄』に豊川郷が載っていますが、現在の豊川は古代には飽海川と呼ばれていましたし、豊橋も明治になってからの地名です。したがって東三河の豊地名はさほど古くありません。

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車について (柴田晴廣)
2014-06-02 12:10:40
kokoroさん

 車神社の「車」についてですが、芳賀信男著『東三河電氣事業沿革史』(豊橋市中央図書館に所蔵されています)3頁に「梅田川中流の高師村字車地内の農業用水車を買収し、明治27(1894)年に営業用の水力発電所としては全国で5番目になる梅田川發電所を完成させる」旨が記載されています。
 車神社は梅田川河口付近の左岸に位置しますが、この梅田川發電所があった高師村字車は、車神社から梅田川を一㌔ほど上流に遡った対岸辺り(現豊橋市立芦原小学校付近)と思われます。
 私は渥美出身とされる浅草溜の車善七が車を名乗っているのも車神社や車の字名が関係しているのではないかと考えています。
 一方の八名郡の車神社は大岡政談の大岡氏発祥地が近くにあります。
 車家と彈左衛門家の訴訟(町奉行は大岡)も東三河の車神社及び車の字名から考えるとまた違ったものが見えてきます。
 参考までに下記のようなものをまとめています。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage6.html
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Unknown (たぬき)
2017-04-21 07:32:13
クルマ。は、(美具)久留御魂大神/出雲大神荒魂の事かと拝察します。
一応?出雲の大国主命/大己貴命。
クラ、クル、クレ、クリ、クロ。これらは音韻変化/転嫁の範疇かと思います。
大国主命を大穴持命と表記がありますが、穴、、、坑道(鉱山)を沢山所有なさる神(王)の忌みかも?
同じく、古代の鉄に何らか関わる土地にこの名称があまた使われています。(伊勢久留麻神社の久留麻/来馬そこから見えている津名丘陵/伊勢の森の最高山は栗村山でその西麓には古代最大級の鉄器製造工房(コンビナート)遺跡が存在。
また、太陽の道で一躍賑やかに成った舟木の岩上神社の西直ぐにも舟木遺跡があり、同時期に南の鉄器製造遺跡と同規模の古代最大級の鉄器並びに様々な製品を供給していたことが判明しています。)

しかして仮託されている神霊は更に出雲神族らが深く信奉していた大元尊神の一柱ではないか?
これがヤマト朝廷に横領されて天照大神(荒魂)ほかに変神させられて、訳がわからなくされたのが現状か
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